[けぶる雨]of [金の砂銀の砂]

kingin1_title.jpg

けぶる雨

 さっきまで小春日和のように明るかった空が影を射し、そう時間もかからぬうちに、あたりは薄暗くなってきた。
 夕闇が迫っているせいもあるが、明らかに不穏な雲が増えている。
「まずいな。一雨来そうだ」
 走り出して間もなく、目の前の広大な空の一角が、鋭い光で引き裂かれた。やがてどろどろと太鼓のような音が響き始め、あっという間に大粒の雨がフロントグラスを濡らし始めた。
 幌を張っていないままのジープを運転していたロイも、助手席のカーターもずぶ濡れになった。
「下着の中までずぶ濡れだぞ!」
 カーターが怒鳴ると、
「どこかで雨宿りをしましょう」雨音と車の音に負けないほどの声で、ロイも返してきた。
 だが、このあたりにはたいしたドライブインもなく、あっても夏が終わったために閉鎖されていたりして閑散としている。
 車が路側帯に寄せられて止まった。
「どうするつもりだ?」
 運転席を下りて車の側面に移動していくロイに怒鳴る。
「幌を張ります!」
「今更、遅すぎだ。凍えてしまいそうだ!」
 顔を殴るほどの勢いの雨が、氷水のシャワーを浴びたかのように服の内部までじゅくじゅくにしている。
 すでに身体が震え始めている。
 まず身体を渇かすことが優先事項だ。どうせ濡れているのだ。もうしばらく行けば、どこかになにかあるはずだと、カーターは主張した。
 ロイも素直に運転席に戻って、またハンドルを握った。
 走っていく先に、ぼんやりと霞んだ看板が見えてきた。モーターインだ。
モーターインのホテルは、車ごと宿泊できる安宿だが、こういうときにはほんとうに便利なところだ。おおかたが二階建て程度の小振りな建物で、広くとった敷地の各部屋の前に車が止められる。だが、建物はホテルの運営がなされているのかどうか、改装中らしい佇まいだ。
「営業してないように見えます」
 だが、暗くなったせいか、いきなり煌々とした灯りが雨にけぶるように辺りを照らした。
「灯りが点いたぞ。少なくとも誰かいる。あそこへ入れ」
 カーターは顔を打ち付ける雨を手で拭いながら、ロイの耳元に怒鳴った。
 半分ほどもブルーのシートに覆われた建物の駐車場に、ロイは車を止めた。
「フロントのフロアでもいいから借りよう」
 先に下りてフロントに飛び込んで尋ねると、半分は改装済みの部屋があるにはあるが、そこはすでに埋まっていて、今日はシングルがひとつしかないという。
 ばりばりと腹に響くほどの雷が、どこかに落ちたらしい音をたてた。ガラスの壁面がびしびしと震えている。
「雨宿りだから、かまわないよ」
 カーターは硝子越しに外を眺めながら、のんびりしたフロント係の女性を促した。ロイが、雨に濡れながらも、車の座席を覆うようにビニールシートをかぶせているのが見えた。
 チェックインをし、前料金で支払ってからカーターは部屋の鍵を受け取って外へ出た。いったんフロントから出て外からしか入ることができないのだから仕方がない。
 冷たい雨に、身体はすっかり凍えていた。
 ロイが雨の滴をしたたらせながら軒先に入ってきた。
「早く部屋へ行こう!」
「あとで珈琲を取りに来たらいいわ。ポットに作っておいてあげる」
 さすがに同情を買ったのか、ドアを開けてフロントの中年の女性が声をかけてくれる。
「ありがとう!」
 また、ばりばりと空の裂ける音がした。

「ああ、とんだドライブになってしまったな」
 バスルームに飛び込んで、お湯の栓を捻り、湯気の中でカーターは衣類を脱ぎだした。
 ロイは上着を脱いでバスタオルを取ると、髪を拭って部屋へ戻った。
「ロイ。一緒に浴びた方がいい。お湯で温もらないと……」
「お先にどうぞ。今空調を入れたので、大丈夫ですから」
 人の前で裸体を晒したくないのかも、とふと思い、すでに裸になった手前私はシャワーのお湯を被った。
 手のひらが痛いほど白くなり、完全に凍えている。だったらロイはもっと寒かろうと湯をさらに熱くして、一気に温まろうとカーターは焦った。
 背中や太ももや、柔らかな腹部のあたりまで、そして敏感なあの部分まで鞭で裂かれた跡は、今もロイの身体を覆っているのだろうか? それが気になって一緒にお湯を浴びたくないのだろうか?
 見たんだ、だから気にするなといって引っ張り込んだ方がいいんじゃないかと思ったが、今更な気もした。
 シャボンを使うこともそこそこに、カーターは急いでバスタオルを掴んだ。
 ホテル備え付けのバスローブ姿で出て行くと、ロイは、濡れたシャツも脱いでバスタオルを肩からかけて窓の外を窺っていた。
 何度もくしゃみをしているので、カーターは慌ててロイを風呂へ押し込んだ。
「ゆっくり浴びてこい。ああ、ズボンをよこせ」
 強引に制服のズボンを脱がせ、奪い取るとカーターはあたりを見回した。
 部屋は狭めで、ベッドが一基しかなく、よく見るとかなり年期が入っている。ただ、すでに改装済みで外観よりは新しく、清潔感はあった。
 ソファは小さな二人がけのコンパクトなもので、くつろぐというにはほど遠かったが、とりあえずバスルームがついているし、少なくとも雨は避けられる。
 カーターの着てきた衣類が、壁にかけられていた。ロイの自分の制服の上着もすでにかけてあった。
 したたるほどに濡れていたそれを拭いたらしい、小さめのタオルもかけてあった。
 クローゼットからハンガーを出し、ロイのズボンをかけ、手早く形だけ洗って絞った下着も干した。下着だけはあとで乾燥機を借りにいけば、すぐに乾くだろう。
 車に積んでいたラップトップを入れたバッグを開き、精密な機械が濡れてないことを確かめる。外出先で文字打ちでもあるまいに、なんでこんなものを持ってきたのかと思う。
 部屋の室温を上げ、フロントに電話して持ってきてもらった珈琲を飲んでいると、ロイが同じようにバスローブをつけて出てきた。
 やっと人間らしい顔色に戻っている。
 カーターが干した下着をとって「乾燥機に入れてきます」と、出て行き、すぐに戻ってきた。
「珈琲、飲むか?」
 差し出したカップを受け取って、ロイはソファに座った。カーターがベッドに座っているせいで、自然そうなってしまう。
「やみそうにないな。このままここに泊まることになりそうだ」

「小やみになったら、帰れるでしょう。幌を出して張りますから……」
 ソファのすぐ後ろの窓のカーテンの隙間から、ロイが外を覗いて呟いた。
「面倒だろう? ワンタッチでボタンひとつで幌が張れるのか? ベンツみたいに」
「いえ、面倒ですが」ロイが笑った。「そもそも、幌を張ってたって雨は漏れてくるような車ですから」
「気が知れないな。君ならもっとスマートな車が似合いそうなのに」
「古き良きアメリカって感じが気に入っているので」
「車ってヤツはおおざっぱに人を判断するのにいいんだそうだ。普段きまじめな人間が、ばりばりのスポーツカーに乗っていたり、金持ちなのに、あちこち板金が必要そうなぼこぼこのやつに乗っていたり、超高級車を好んだり、綺麗な道しか走らないのにRVじゃなきゃってやつもいる」
「古ぼけたジープに乗っているのは、どんな人間なんです?」
「さあな、そこまで詳しいわけじゃないが。君が少なくとも見た目よりは野性的ってことかもしれん」
 野性的……ですか? とロイは大して感心してもいないように頷く。
「私が誘ったんだ。明日は休みだし、雷の時は出ない方がいい。こんな雨の中、今それをしなくてもかまわないだろう――あ、いや」
 カーターはちょっと慌てた。
「早く戻らないといけない理由があるんだな?」
 ロイは、くすくす笑い出した。
「……おかしいか?」
「おかしいです。気を使いすぎですよ、デイン」
「まあ、確かにな」
 静寂の中に、雨の音と時折激しい雷の音がこだまし、なんだか手持ち無沙汰で、カーターはテレビをつけ、ニュースのチャンネルを映し出した。
 短いトピックスの後に、天気予報が始まった。
「どうも、明日の昼頃までは降り続きそうだな」
 ロイが失礼します、と立ち上がり、バスルームのドアを開けた。電話がかかったらしく、ベッドのサイドテーブルに置いた携帯を掴んでいる。
 俺だ、と出たところをみると少なくとも准将ではないらしい。ドアが閉じられても、狭い部屋にはロイの声が漏れてくる。
「うん、そうなんだ。――いや、それはもう終わったんだが……」
 カーターは少しテレビのボリュームをあげた。
『ええ? 今夜戻れないの? せっかくの週末が台無しじゃないの。なんとかならないの?』とでもいわれているのじゃないだろうか、と勝手に想像して微笑む。かつてカーターもそうやってつきあっていた女性に責められたことがあったからで、まんま今の台詞をいわれた覚えがあるからだ。
 ロイは戻ってくると、なにか苦いものを食べたときのような顔をしていた。ほんのわずか唇がとんがってみえる。
 いつも仮面のように無表情なくせに、ロイにこんな顔をさせる相手を見てみたい。
 相当に責められたな、と僅かに同情してしまいたくなるような、情けない顔を見て、カーターは笑った。
「……やっぱり気を使うぞ」
 いいんです、とロイは微笑んだ。
 やはり痴話げんかだな、と察したが、口には出さず私はフロントに電話をかけ、なにか夕食になるものがないかどうかを確認した。

 ベッドに座ったカーターと、ソファのロイは、間に置いた小さなテーブルを挟んで珈琲を片手にため息をついた。
 テーブルの上の白い皿にはハニーディップや、チョコドーナツといった、かなり甘い「夕食」が乗っている。
 今夜このホテルで手に入る食べ物といえば、これだけだったのだ。
「ま、なにもないよりはましだ」
 そうですね、といいながらロイはドーナツを一個無理矢理珈琲で飲み下したとばかりに、一緒にフロント係に持ってきてもらったビールを飲んでいる。
「たくさんあるぞ。フロント係のおばさんが、気を利かせて六個も持ってきてくれたんだ」
「ランチが遅かったので……」
「嘘をつけ。ほんとは甘いものが苦手なんだろう?」
 このきちんとした男が、ほんとうはけっこう偏食なのを、カーターは知っている。
 人の目があると特に、文句をいわずに残さず食べるということも分かっている。ただ、好きなものであっても美味そうに食べていることはほとんどない――ように思える。
「おもしろいな、君は。ジャングルでサバイバル訓練をするときは、蛇でも蛙でも食べていたはずだ。それに比べたらドーナツなど、夢のようなご馳走じゃないか」
「確かにそうですね」と、ロイは逆らわない。
「もしかして――」カーターはいいよどんだ。
「なんです?」
「いや、なんでもない」
 ロイが冷たく光った目を向けた。
 その光に押されるように、カーターは息を飲み込んだ。
「その……“あれ以来”なんじゃないのか? そんなふうに小食になってしまったのは」
 カーターがロイと暮らしていたとき、ロイは極度に消耗してしまっていた。悪夢に悩まされ、悪意のある人間に攻撃され続け、食事をとっても吐いてしまって彼の身体は痩せ細ってしまっていた。食べる、という人間の基本的なことが億劫になっているのは、そのせいなのではないかとふと思ったのだ。
 ロイは指についた砂糖の粉をぺろっと舐め、そのまま親指の先っぽを唇に咥えた。微笑みを浮かべて、ロイは首を振った。
「そうか、ならいいんだ。君が食べないと、私の腹が減る気がするってだけだ」
 カーターは二個目のハニーディップを食べ終えた。彼にはそういったものの、さすがに三個目に手は出ない。
「デイン」
 ロイが顔を上げ、カーターの顔を正面から見つめた。どことなく、いつもよりも深い色を浮かべた瞳が濡れたように光っている。
 気付いてはいたが、ロイの瞳の色は時々に変化する。感情によって左右されるのかもしれない。濃いブルーに見えるときもあれば、限りなくグリーンのように思える時もある。今は少し潤んだような、青の色合いが濃い。
「いつか、きちんと話をして、あの頃のお礼をいうべきだとは思っていました」
 そんなのはいらないよ、とカーターは口ごもり、こんな話題を振ったことを少し後悔した。

「実は記憶があやふやなのは変わらないんです。いろいろ思い出してはいるんですが、どこまでが事実でどこまでが夢想なのか……はっきりしないんです」
「ドクには、今でも?」カウンセリングを受けているのか? という質問は察して、気の毒な男は頷いた。
「時々ですが。いろいろ、細かい話をお聞きして、記憶と照会してある程度は分かっています。ただもう、霧の中から捜し物をするような、そういうことがすっかり厭になってしまって……現実の生活にはなにも問題はない。だからもう気にする必要はないと、ドクもおっしゃっていますので」
 精神科のクリニックを開業したばかりの当時から関わった、二世ではない東洋人の医師の顔が浮かんだ。彼も、この特異な体験をした患者を大切に見守っているはずで、今では友人にまで格上げされているはずだ。その医師のもとに今でも通っているのなら、心配はないだろう。
 カーターは立ってロイのそばにしゃがみ込んだ。
 そっと肩を抱くようにして、そのまま隣に座り込む。
「もういい。悪かった。もう、この話はやめよう」
 ロイはカーターの回した腕をそのままに、俯き加減で口を開いた。
「……俺が幼いことばでしゃべって、あなたやジムや准将に……面倒をかけた。その記憶がとても温かだったのははっきりしています。いくつかの出来事は、たとえばあなたが歩けない俺を立ち上がらせるために、浜で厳しく接したことや、ジムがしてくれたことや……」
「もういいよ。分かってる」
 濡れたような瞳で、ロイは顔を上げた。
 正体は分からないが、なにかを逡巡しているように唇を開きかけ、思い切ることができないとばかりにまたそれを閉じた。
 この件に関して、本当はいろいろ聞きたいことがあるのかもしれないが、おそらくドクター以外に、ロイはこのことを聞いたりはしていないのだろう。たぶんジムにさえ。
「君は、なぜ私を自宅に招いてくれたんだ? もしかして、その過去のことで引け目でも感じてるってわけか?」
「そんなことは……」
 指先を唇に当てたまま、ロイは俯いている。「あの家は広いし、部屋は余っているし、あなたは当座住む場所がなかった」
「ジムを泊めなかったくせに。君はそういうタイプじゃないんだろう? 自分のプライベート空間を他人に侵されるのは苦手なはずだ。あの時のお返しにとでも考えたのか?」
「ジムには自分のアパートがあるから。もちろん泊めることだってあります。今、あなたを泊めているのはただ……」
「ただ?」
 ロイは立ち上がり、また窓の外の雨を伺うふりをした。
「ただ、あなたとゆっくり話をしてみたかっただけです」
 そうだな、とカーターも同意した。
「私もそう思ったから、好意に甘えたんだと思う。じゃあ、今はもう友達になれたと思ってもいいのかな? 私はずっと、君と友達になりたかったんだ」
 振り返ったロイは、やっと素直な顔で頷いた。

 その日、ベッドの傍らで眠る男の背中を、カーターは長い間見つめ続けた。
 深夜になるまで小やみになるのを期待して待っていたが、結局雨は勢いを消さないまま、雷鳴が鳴り続け、諦めて泊まることにしたからだ。
 ロイがソファで眠るというのを、むりやりカーターはベッドに引っ張り込んだ。小さなソファでは足を伸ばすこともできないし、ベッドはダブルとまではいかないにしても、余裕がある。ロイは遠慮して落ちそうになるほど隅っこに、背を向けて眠っている。
 規則正しい呼吸に合わせて上下する毛布にくるまれた塊を、電光を落としたスタンドの明かりの中で、カーターはまじろぎもせず眺め続けていた。

 だだっ広い砂浜にぽつんとロイが座っている。
「なにをしてるんだ? 寒いだろう? 帰ろう」
「あるけない。ロイはひとりでたてない」
「歩かなくていいんだ。君はそのままでいればいい」
 カーターはロイを負ぶうと、砂に足を取られながらも歩き出した。
 精神的な檻に閉じこもっているせいで、歩けないのだとドクがいっていた。それを解消してやるべきだろう。歩けば元気になるに違いない。カーターはそう信じていた。
 だが、どうしてかそうすることをカーターはしたくはない、と思っている。
「ロイ、私と一緒にいかないか?」
「どこへ?」
「どこでもいいさ。君がいれば。君は私が好きか?」
 すき、とロイがあどけなく答える。ぎゅっと背中から回した手を首に回して頬をすり寄せる。
「いく。デインといっしょに」
「そうか。だったらこのままでいいな。君は歩かなくてもいい。なにもしなくてもいい」
「ロイ、このままでいい」
 そう、無理をさせることはない。
 痩せて追い詰められて、死にかけたのだ。現実に戻っても苦しませるだけだ。一生、そばにいてやればいい。
 ロイは成長しない。このままずっとあどけないまま、私を見続ける。私だけを頼りにして、ころころと一緒に遊び続けるのはきっと楽しいだろう……。
 どこへも行くな。どこへも行けないよう、君を立たせることはすまい。
 柔らかな頬がカーターの頬に触れる。
 この感触を、一生大切に――

 ロイはなかなか眠りに就けなかった。
 密着しないように、ベッドから落ちそうな端っこに身を置いているせいもあったが、過去の記憶がばらばらに、いくつもいくつも浮かび上がるのを止められないでいたからだ。
 あの浜を、久しぶりに見たこともそうなのだろうが、カーターが来て以来、忘れていた過去のことをやたらに思い出して溺れそうなほど、息苦しい時がある。
 今夜、それに上乗せされたのは、戻れないと電話で伝えたジムが、ひどく不機嫌だったせいもある。
「なんだって飛行機で戻らなかったんだ?」
 ジムにしてみれば、かなりの距離を走ることになる車での移動など、夢にも思わなかったに違いない。
「ヘイズ大尉が、前から話をしたいといっていたのは知ってるだろう?」
 ヘイズとではなく、今一緒にいるのはカーターだ、とロイはいいそびれてしまった。なんとなく、それをいうとジムの怒りが倍増するのではないか、と思ったからだ。
 ジムのことを後回しにしているわけでは決してない。明日の日曜だってまだ残っているのだ。だからそんなに怒ることもないだろう、とは思いつつ、待っていてくれてることを考えれば当然な気もする。
 夕方には戻れると思っていたんだ、とロイは説明した。
 まさか土砂降りになるとは思わず、それもヘイズのクーペなら間違いなく帰れるはずだそう思うと雨宿りが不自然に思えて、実は……と言いかけたときジムが声音を弱めた。
 こちらの方面が豪雨ともいえる天気なのは、ジムもニュースで知っているらしく、「道路が事故であちこち閉鎖されたりしているようだな。かなり渋滞しているからまあ、雨宿りは正解だ」といった。
 それは知らなかったものの、それではヘイズもどこかで立ち往生しているのかもしれない。
「ジム、すまない」
「いや、仕方ないな。気をつけて帰ってきてくれ」
 最後にはジムも穏やかな声で応対してくれたものの、なんだか気分がすっかり落ち込んでしまった。いずれカーターと泊まったことがばれれば、また怒り出すに違いない
 ああ、とロイはため息をついた。

「デイン?」
 目の前にロイの頭が見えた。
 背をよじって顔をこちらに向けている。
 あまりの近さに、二、三度瞬きをした。力を込めてロイの身体を抱きしめていたらしい。
「……デイン」
 ひどく困ったような声で、ロイが身じろぎした。
「なんか……夢を見ていたよ」
 ああ、とロイがどこか空気が抜けたような声で答えた。抱きしめているせいか、とやっと思い至ったものの、なんだか焦ってカーターの腕はなかなか離れようとしない。 
 それではじめて、カーターは自分の身体の一部が意志に反した変化をしていることを――それもまずいことにロイに密着した状態で――自覚した。
「す、すまん……夢を、見ていたようだ」
 カーターはやっと仰向けに寝転がり、身体から力を抜くことができたが、ロイはそのままの姿勢で壁を向いている。深呼吸をしてリラックスしようと試みるが、焦って咳き込んでしまった。
「起こして悪かったな」
「いえ……」
「まいったな。とんだ醜態をさらしてしまった……」
 なんでこんなふうに興奮しているのだ私は、と自分を叱咤する。そんな淫猥な夢を見たわけではない。そう、それはまだ少しも消えずにそこにあるかのようだ。
 幼い表情の、忘れることのできないあの顔の――

 現実と違う夢だったな、とカーターは今の物語の筋を振り返った。
 一緒に面倒を見ていたジムやバークに断りもなく、ロイを歩かせることを決行したのはカーター自身だ。ふたりは、傷心のあまり追い詰められたロイを、それこそ舐めるようにかわいがり、本当の幼児に接するごとく相手をした。そのまま、彼が復活などしなくともいいとすら思っているんじゃないかと、時折カーターは心の中で焦り、ふたりに対して憤りのような気分に襲われたものだ。
 ふたりの目が届かない海岸へ日光浴に出かけたとき、カーターはロイに厳しい顔を見せた。精神的な拘束を受けているだけで、本当は歩けるはずだというドクターの診断を信じたかった。
 自分でなにもできず、立つことすらできないロイの姿があまりにも哀れだったからだ。
 怖がって、嫌がって泣くのを叱りつけ、強引に立たせた。結果的に、ロイは歩いた。歩いて動くようになったロイはみるみる力を取り戻していくように見えた。
 それがロイを健康へ導いていったのは間違いない。
 頼りになる、若いながらも優れた士官を甦らせたい一心だったのだ。
 だが、今の夢は――

 カーターはロイをあの幼児の時代に置いておきたいと思っていたようだ。そして、彼を自分のそばに……。一生、そのままでいてくれとむしろ願っていたような……。
 そんなふうに考えたことはなかったはずだ。他のふたりと違って、カーターは常に彼の復活を願っていた。
「ただの夢だ」
「ええ」
 ロイの声が、だるそうに答えた。目覚めはつかの間で、また眠りに戻っているのだろう。
 目を閉じると、まださっきのロイの姿が目の前に浮かび上がる。
 もし、彼があのクリスマスの前、記憶を取り戻さなかったら――と、カーターは考える。
 たどたどしいしゃべり方の、幼い表情をしたこの男と、かいがいしく世話をするジムと、今頃は『家庭』を築いていたはずだ。
「デイン、おかえり」と、抱きついてくるロイを相手に、ゲームをして楽しんでいたかもしれない。そうだったとしたら、カイルを引き取ることはしなかったはずだし、チームを辞めていたのはジムのはずで、カーターはまだ現役のチームの隊長のままだったことだろう。
 そして、どうなんだろうか? その愛情が、むつまじい親子のままで育まれていくのだろうか? ロイを挟んで、カーターとジムは彼のパパとママという役割だけで、満足していけたのだろうか? もちろんそのはずだ。
 そのはずだと分かってはいるのだが……。
 すう、と深い呼吸の音がした。
「君の夢だったよ」
 空気に溶けるほどの小声で囁いてみたが、もう返事はなかった。
 穏やかな寝息に、顔を起こして顔を覗き込む。
 そんな幼い彼の夢を見ながら、カーターの身体はおかしくなってしまったらしい。一緒に風呂に入って、裸で抱きつかれてもそんなことを考えたことなどなかったというのに。 
「君の夢だったよ……」
 カーターはその寝顔に、もう一度囁いた。
 そんなカーターの囁きが、すっかり眠っていたと思っていたロイの耳に届いていることを彼は知らなかった。
 ロイは壁を向いたままふっさりと瞼を開け、また閉じた。
 ロイはいつまでも眠りにつくことができないまま、静かな部屋の雨音を聞いていた。

 雨が途切れ始めたのは、翌日の午後も過ぎてからだった。
 カーターとロイはドーナツ責めに参りながらも食事をし、ロイは小やみになってから大急ぎで幌を張った。
「また濡れてしまったな」
 カーターがタオルを差し出すと、運転席に座ったロイは髪を拭きながらエンジンをかけ、「昨日ほどではありません」と暖房のスイッチを入れた。
 あちこちの部屋から、遅い旅立ちの泊まり客たちが出発していく中、カーターたちもやっとノーフォークへ続く道を走り始めた。
「どっかでハンバーガーでも買おう。まともなものが食べたい気分だよ」
 ロイが同意して、ずいぶん走ってからやっと見えてきたファストフードのドライブスルーで肉の匂いのする食事を買い込んだ。
 さすがの小食男も、ジューシーな肉汁とチーズの挟まった大きめのバンズを残さず食べた。カーターなど、もう一個買えば良かったと思ったほどだ。
 夕べ、カーターがロイを抱きしめてしまったことに関して、ロイはなにもいわなかった。寝ぼけていたようだから、覚えていないのかもしれないし、そうであってほしいとカーターは願った。
 だが、夢は鮮明に脳みその中に残っている。
 心理学などというものを、正式に学んだことはないが、フロイト博士の著書くらいは目を通したことがある。ただ、のめり込むには至らなかったのは、自分にその手の才能がなかったともいえるし、深い興味を覚えられなかったせいもある。
 実際のところ、夢がなにかを意味したり、語りかけるなどというのは、信じていない。それでいうなら、カイルはまだ死んでから一度もカーターの夢に現れないし、夢に救われたことなどないし、もともと覚えているほどの夢を見ることなどまれだからだ。
 子供の頃に見たかった両親は、十代も終わりがけになってやっと夢に登場したが、結局話もなにもしてはくれなかった。
 祖母によれば、死んだ人は夢の中でも話をしないのだそうだ。真偽のほどは不明だが、カーターにもそう思えたし、またそれがなによりも夢には意味などないのだと語っているようにも思えた。
 けれども夕べのあれは、奇妙な夢であったことは間違いない。

「なあ、君は今、幸せかな?」
 フロント硝子を見ていたロイが、いぶかしげな目を向けた。
「さあ。考えたことはありません」
 いかにもらしい返事に、カーターは笑った。
 決まっている。ロイの前途は洋々としているはずだ。苦しい時代を抜けて、愛し合える人がいて、自分の生き方を全うしているはずの彼が、不幸なわけはない。過去のトラウマが、そう簡単にすっかり解消したとは思えないが、あれから時間もたち、彼なりに解決していっているはずだ。
 ロイがくしゃみをした。
「雨のせいで冷えてきたな。風邪引いたんじゃないのか?」
「いえ。大丈夫です」いいながらもまたくしゃみをする。
 衣類はすでに乾いている。完全に雨がやむまで幌を張るのを待てなかったのは、やはり今日、会いたい人がいるからなのだろう。
 そう思うと、この男がかわいくすら見えた。
 彼が、どんな顔をして恋人と睦み合うのか、想像ができない。無表情な仮面をはずし、普通の男がやるように、そっとキスをし、彼女に甘えるのだろうか?
 この男は、どんな言葉で囁くのだろうか?










硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評