[AUDIENCE七章] of [観客]


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AUDIENCE 7章 

 以前住んでいたアパートが空いたままだというので、シンシアはそこへ戻った。
 弁護士の一人に頼んで、離婚の手続きを終え、独身生活は結婚生活よりうんと早くシンシアに馴染んだ。
 半年ももたなかった、実際に一緒に顔を合わせた時間はもっともっと少ない、人の妻としての日々は、シンシアにとって夢と同じくらい希薄なものだった。
 夜になるとロイを思い出し、悲しさや悔しさが込み上げたが、同時に苦しそうな彼の顔が切なくもあり、どうしても憎みきれない自分をワインの酔いで無理矢理眠らせた。
 カウンセリングに行く代わりにエステに行き、服を新調し、ジムに通って汗を流した。今必要なのは自分への自信だった。
 髪を染めると、ロイのような美しい金色になって、シンシアは思わず鏡を覗き込み、気に入らないのかと気にする美容師に満足したような微笑みを見せた。
「前よりうんと綺麗になったよ」と言ってくれたスペンサーと食事もした。
 理想とする自分を取り戻したかのように、シンシアは落ち着きを取り戻していった。

 車を止め、長い海岸線が目の前に続く場所にシンシアは降り立った。
 左右に広がる海が、荒い白い波をたてていた。
 シンシアは、久しぶりにバージニアビーチを訪れていた。
 賑やかな祭りが終わるように、シーズンを終えた海岸は閑散としており、冬の訪れを思わせた。
 シンシアは懐かしいビーチハウスの近くまで車を走らせた。遠目に見える、かつての我が家には灯りが灯っている。彼がいるのだ、と思うと思わずブレーキを踏んで、路側帯に止めた。
 結局一度も顔を合わせることのないまま、二人は別れた。
 しばらくは立ち直れそうもないと思っていたのに、シンシアは仕事に追われ、世の中に存在する、悲惨な男女の行き違いやすれ違いやさまざまなトラブルを見ていくうちに、やはりもう一度話し合うべきだったのではないかと思い始めていた。
 いつも留守がちなビーチハウスに灯りがあるのは、ロイもそう考えているのかもしれないと、シンシアは偶然を信じてみたい気もしていた。
 だが、彼の留守を狙うかのように黙って去ったことを思うと、行動に移すのは躊躇われた。
 シンシアは街を歩き、バーでペリエを飲み、どうしようかと迷い続けた。

「そうだ、カップを返してもらおう」
 シンシアはそう思い立った。
 ロイと一緒に買い物に行って買って貰った、シンシアのお気に入りのカップを置いたままだったのを思い出したのだ。
 時計を見ると、すでに零時を回っていた。いくらなんでも非常識だろうか? 
 だが、主が起きているなら時間は関係ないだろう。週末でもあるし、ロイは夜更かしをしているらしい。
 ビーチハウスには灯りがともり、リビングのドアが半分開いたままだったが、中に人の気配はなかった。
 このドアは、爪が甘く、勝手に開いていることがよくある。それが海岸の風に煽られて徐々に大きく開いてくるのをシンシアは知っていた。逆に吹く風にすごい音で閉じられることも。
「ロイ?」
 声をかけてみたが、室内はしんとしていた。
 キッチンに入り、お気に入りのカップが棚に置いたままになっているのを見て、シンシアの胸が痛んだ。ここへきた口実とはいえ、もうそのカップを見るのは悲しかった。
 ふと、キッチンからベランダへ出るドアが少し開いていて、そこから話し声が聞こえてくるのに気がついた。

 そっと覗いてみると、ベランダにもたれた大きな背中が見えた。
 ジムがいる。
 手すりにビールの缶が置いてある。
 こちらに背を向けておいてある大きな椅子の上に、微かに金色の髪の毛が見え、ロイが座っているのだと分かった。
 なにを話しているのか聞き取れない。
 かすかにそよぐ風に流されてしまっているようだ。
 だが、そのときジムが椅子を振り返り、思わずすがりたくなるような温かい笑顔を向けるのが目に入った。
 そして、手を差し伸べた。
 椅子からビールが床に置かれるのが分かった。
 シンシアは息を呑んだ。
 ビーチチェアの中から、懐かしい白い長い指が見え、その手に応えるように伸ばされた。
 手が強引に引き寄せられ、かつて夫だった男の痩せた背中が立ち上がった。
 二人は並んでベランダに立った。
 ジムの手が優しくその肩に乗せられ、父親が息子にするように後頭部の髪をくしゃくしゃにすると、ロイがジムを見上げ、ふっと笑いを漏らした。
 シンシアには決して見せたことのない、安心したようなその表情に、シンシアは眉を寄せた。
 その場を、音を立てずにあとじさると、そのままリビングを出ていた。


 キッチンを振り返ったロイに、ジムが不審な顔をした。
「どうした?」
「誰かいたような気がする」
「鍵かけてなかったな。あのドア、また開いたままか」
 ジムはキッチンに入った。リビングを覗いても、何の気配もない。風の向きが変わったのか、ドアが激しい音をたてて閉まった。 
 ジムはそのドアに鍵をかけた。
「シンシアだ…」
 ロイの言葉にジムが戻ってくる。食器棚の中を、ロイはじっと見ていた。
「彼女のお気に入りのカップが消えている」
 ロイは椅子に腰掛けた。
 ジムが眉をよせた。
「来た…ってことか?カップを取りに? …まだそのへんにいるんじゃないか?」
 歩き出そうとするジムのシャツの裾を、ロイが掴んだ。首を振っている。
「あれは彼女のお気に入りだった。どうしても取り返したかったんだろう」
 ジムは立ったまま、その顔を見ていた。
「…そうかもしれんな。まあ、今さら話すことはないか」

 ロイはテーブルにだらしなく腕を倒し、頭を乗せた。
 いきなり疲れたように表情が曇っている。
 珍しく酔っているのだろうか、とジムは訝しんだ。大した量でもなかったのに。
「…会いたくない…」
 夢見るような口調でロイが言った。
「俺がひどい人間だと…、彼女は思い出させる…」
 ジムは何も言えず、怒濤のようなロイの結婚生活を思った。
 始終くたびれ、日に日にやつれていったように見えたあの頃…。何があったか本当はほとんど知らないが、美しかったシンシアは険しい表情や泣き顔をジムにすら見せるようになった。
 あの日具合が悪かったはずのロイの首を絞めるほどに、二人はまるで戦うために暮らしていたようだった。
 目映く輝き、羨まれたカップルが、お互いを酷く傷つけあったことだけは理解できた。
 シンシアの影が突然現れたことが、ロイを脱力させているのかもしれない、とジムは感じた。
 気配だけでこんなに堪えているのなら、顔を見たらどうなるのか、元の妻にロイは恐怖すら感じているように思われた。
「眠くなった…。久しぶりに手を…」そう言いかけて、ロイははっと俯いた。「いや、なんでもない」
「子守歌、歌ってほしいか?」ジムが笑った。「悪霊退散の歌」
 下手なリズムでたらめな歌を口ずさむジムにロイは笑いだし、ジムの胸を掴んで引き寄せた。
 ジムはかがんだ姿勢で戸惑った顔をした。
 ジムが腕をテーブルで支えると、ロイは左胸に耳を寄せた。
「お前の心臓の音が好きだ。力強くて、安心する」
「じゃあ、今夜は胸を貸してやろうか? 抱きしめてやったっていいんだぜ」
 ふざけた調子でジムが言うと、ロイは首を振り、「ばか」と苦笑して立ち上がった。
「客間を作ったんだ。ソファは寝心地悪いから。今夜はそこに泊まっていくか?」
「ああ、そうだな。俺はあんたのベッドでもかまわないんだけど」
「お前が入ると、多分あのベッドでも狭い」
 ロイが笑い出した。
 ジムはテーブルの脇にしゃがむと、黙ってロイの手を握った。
 今度はロイがたじろいだ。
 まるでプロポーズをする男性のような姿が、ロイを赤面させた。
「じゃあ、ぐっすり眠れるようにまじないをしてやろう」
 しばらく手を握ったまま、ジムは祈るように何かをもごもご呟いていた。
 ロイは微笑みながら、その姿を眺めている。
 子供だましの呪文がおかしかったが、今夜は悪夢を見ないような気がしていた。


 家から出ると、シンシアは息を吸った。
 相変わらずバリアのように張られた、結界の中で二人は二人だけの芝居を演じていた。
 シンシアを観客にしたまま。もっともそんな観客がいることすら気付いていなかったはずだけれど。
「例えばゲイとか…」
 パトリシアの声が蘇る。
 そうではない、とシンシアは否定した。
 キスしていたわけでも抱き合っていたわけでもない。けれども、その二人の間に何かがあるのは感じられた。愛情なのか友情なのか、その正体は分からない。けれども、いつも感じていた二人の絆だけはいっそう強くなっていたようにさえ思えた。
 ロイにとって、妻など必要ではなかったのだ。
 必要なのはあの大男。
 それだけは確信していた。おそらくロイ自身が無意識によりかかっている男。
 考えたら、あのふたりといると、いつも人生の中心にいるはずのシンシアは観客席に追いやられているかのような疎外感を覚えさせられた。ロイはロイとしての、ジムはジムなりの世界の中心ではあるが、その中にあってなお、輝いているのは自分のはずだった。
 けれど、それは裏切られた。
 この三人の輪の中で、重点を占めているのはロイだ。
 ジムもロイもシンシアに気を使い、優しく接してはくれたが、世界の中心にいたのはロイで、シンシアとジムがその周りを回っていたような気がした。
 その発想は不愉快だった。
 
 今振り返れば、走って戻って二人をののしりそうだった。
 だからシンシアは足を速め、車を止めた場所まで急いだ。
 偶然を信じているシンシアには、今日の二人を見たのもまた、自分に必要な出来事だったと認めざるを得なかった。
 こうして未練がましく、二度とこの家を訪ねないように。
 ロイを自分の王子様だと、夢を見ないように。
 でも…、とシンシアは思った。
 理性のいうことを一切聞こうとしないのもまた、恋というものだ。今でもやっぱりロイを愛している自分を、シンシアは知っていた。
金粉をまいたような金色の髪の、まっすぐな青緑の眼差しを向けてくれていたロイの姿だけを覚えていたい。
 愛して結婚してくれた、あの時の記憶だけを。
 真っ直ぐな背筋で歩く、濃紺の制服姿。
 見た目よりもうんとたくましい力。
 落ち着いた言葉遣い。
 甘いキスの味を、シンシアは忘れられないことを、誰よりも分かっていた。
 どれだけ酷い言葉を投げつけ、責め続けても、決してシンシアに荒い言葉を向けなかった夫。
 首を絞められ、殴られ引っかかれても、じっとシンシアを抱き続けていたロイ。
 シンシアを責めることなく、ひたすら自らを責め続けた男……。

  時間が必要なのかもしれない。
 いずれジムだって結婚し、ロイばかりにかまってもいられなくなる。ロイだって、あの奇妙な発作がいずれ治まっていけば、また相手を探すときが来るだろう。精神的なものならば、特にその可能性は高い。
「たとえば、ゲイとか」
 パトリシアが呪文をかけたように、その言葉が頭をよぎる。
 彼らがすでにそう言う関係なら、自分を利用して貶めたのなら、絶対に許さない。
 けれども、シンシアを抱けないまま凍り付いていたロイは、自分でも酷く意外そうな顔だった。バスルームでのたうつほど苦しんでいた彼の姿は、いたずらに世間を偽る目的でシンシアと結婚したとは思えなかった。
 シンシアは、ロイをむしろ哀れんでさえいた。
 苦しみに耐える姿に、同情していた。その姿は母性本能をくすぐるほど、セクシーにさえ思えた。
 そう、なんでそうなっているのかさえ、正直に話してくれたら、シンシアはロイの女神にだってなれたのだ。戦いに疲れた戦士を労る女神に。けれど、実際に夫を労る役目を負ったロイの女神はジムだった。
「女神にはとても見えないけれどね」
 シンシアはひとり呟いて笑った。
 秘密の事柄をどうしても聞きたかったわけじゃない。それを二人だけが知っているということが許せなかったのだ、と今になって理解できた。
 チームの隊長と曹長という絆が、その世界を知らないシンシアを意固地にさせただけかもしれなかった。
 男の世界がえてしてそういうものだということは分かっている。それでも、シンシアはジムに嫉妬していたのだ。 ジムのようにロイを理解し、彼の苦しみを和らげてやりたかったのに、その席にどうしても座れなかったことが許せなかったのだ。
 運転席に当然のように座って、毎朝彼を仕事場へと運んでいく姿が。

 足を止め、思わずビーチハウスを振り返る。
 短気で決断が早い自分が、少し馬鹿に思えてきた。
 二人とも、必死で気を使ってくれていたのに、と思うと悪いのは自分かもしれないという気がした。
 シンシアは、誇り高い自分を思い出そうと努力した。
 今さら謝って、許しを請うほどシンシアは惨めな女じゃないのだ、と自分に言い聞かせる。それに今、またあの頃に戻るのはもう嫌だった。
 一度は捕らえることができたのだ。いずれ再びそのチャンスがないとは言い切れない。
 もっともっと女を磨いて、心の広い自分を確立できたら、たとえロイがあの異常な発作を抱えたままでもかまわない。そのときは女神にだってなってやる。一生セックスなんかしなくたって、ロイが自分のものでいてくれるのなら。
 観客席などにいるつもりはない。
 舞台に立って、ヒロインを演じなければ我慢できない。
 これまでずっとそうしてきたのだ。
 彼の中で燦然と輝いて、君臨してみせる。
 ――そう、絶対に。

 気がつくと、手にカップを握りしめていた。
 シンシアはそれを海岸に向けて放り投げた。
 こんなものはいらない。
 欲しいのはロイ・フォードだけ。
 たとえそれが王子様ではなく、傷ついた戦士だったとしても。
 手に入れるわ、いつかきっと…。
 シンシアは顔を上げ、凛としてかつての自分の家を見つめた。













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金の砂銀の砂第一部

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評