[AUDIENCE六章] of [観客]


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AUDIENCE 6章 

「ロイ、これは異常だよ。たびたび起こっているんだって? 最近ずっとか?」

 酷い顔色に汗を浮かべているロイに、ジムはそう言った。

「疲れてるせいだ。…家に戻っても彼女がいることで、ゆっくり休めない」

「ばかいえ、普通は女房の顔を見れば、ほっとして安らぐもんだ。結婚したことで落ち着くならともかく、元に戻るなんておかしいだろう」

 だが、それは本当だった。

 シンシアがそばにいるのが、最近はつらく苦しくさえ感じられていた。

 仕事で離れるとほっとした。

 仕事中に発作に見舞われることもなかった。

 シンシアの存在によって、彼女を抱かなくてはいけない責務のようなものが、ロイを追いつめていた。

 彼女は美しく、魅力的だ。ビーナスのような肢体にキスしたかった。以前のように弾けるような笑顔を見たかった。気持ちはそうしてやりたいのに、彼女を抱こうとすればするほど、発作は激しく現れた。

 自分の躰が腐っていっていることに、ロイはなげやりな気分すら覚えていた。

 

 この家に帰れば、必ず夜にはけんかになる。

 それを避けようとすれば、死にたくなるほどの苦痛に苛まれる。いくらタフな体力を培っているとはいえ、血を吐くほどに苦しんだ翌日の訓練は堪えた。

 けんかをして睡眠時間が減ると、命取りになりかねないミスを犯す可能性もある。それはロイ本人だけでなく、チームの仲間達の命までを脅かす結果になる。水の中での訓練は特にそうだ。万全の体調であっても危険が常に身を潜めている。

 だからせめてゆっくり眠りたいと、最近はそればかり考えるようにさえなっていた。

 近頃彼女は、このままでは離婚も視野にいれていることをほのめかし始めていた。

 顔を合わせればこの件でロイを責め立てるのも、自分のせいだと思うと反論ができず、彼女が気の毒だとも思う。だが、それは新たなストレスをロイに押しつけた。

 子どもが欲しいなどと言われると、ロイの方が泣きたくなった。

 出て行くのなら、そうしてもらってかまわない。

 いますぐでも目の前から姿を消したってかまわない。むしろそうして欲しかった。呻き声を上げたいときに、それすらも耐えなければならないのは地獄だった。

 なにより、こんな惨めな発作にのたうちまわっている姿を彼女に見られるのは、耐えられなかった。


 

 シンシアは、目を開けると、上掛けもなしで、洋服のままベッドに突っ伏していた自分の姿が目に入った。

「…いやだ、寝てたのね」

 ロイの姿はベッドにはない。さっきのことを、シンシアは思い出した。

 時計を見ると、それほどには時間がたっていないことが分かった。

 ほんの15分程度のことのようだ。いや、30分? シンシアには分からなかった。

 ジムはまだいるのだろうか?

 ロイはまたソファで寝ているのだろうか?

 そうなら、今夜こそ徹底的に話し合わなければ。明日は休日だから、ロイを困らせることはないはずだ。徹底的に話し合って、どうしても駄目ならこの家を出て行くことにしよう。

 そっとドアを開けると、リビングから薄暗い灯りが漏れていた。


「…違う。何度言ったらわかる…」密やかなロイの声がした。「それとは何も関係がない…」

「でも、どう考えたって」

「しつこいぞ、ジム」

 薄明かりに目が慣れてくると、ソファに腰掛けてふたりで話をしているのが見えた。並んで座っているが、ジムの躰がロイの方を向いて険しい顔をしているのも分かった。

「…彼女に話をしないといけないよ。シンシアはなんといっている?」

 自分の名前が出たので、シンシアはどきりとした。

「…話などできない」冷たい氷のような声でロイが答えた。優しいロイの声とは思えなかった。

「できない…って。ちゃんと話してやらなきゃ、心配するだろう? ロイ、いいたくないのは分かるが夫婦なんだから…」

 いきなり、ジムの大きな体が押しのけられた。

「帰ってくれ、もう話すことはない」

「ロイ、落ち着け」

「お前が帰らないなら、俺が出て行く」

 ロイは立ち上がり、リビングから出て行った。

「待てよ! ロイ」

 足音も荒く、ジムが後を追う。

 まるで芝居を見ているようだった。

 どうしてシンシアが舞台に上がれないのか、こうして取り残されて観客の役のみを強いられているのか分からない。

 何かを隠しているらしいことだけは、シンシアにも理解できた。

 二人が出て行ったあと、シンシアはリビングからそっと外を伺った。

 暗闇の中で、もみ合っているらしい姿が見えた。ジムの掴んだ手を振り払い、激しい勢いでロイが怒鳴り、ジムは諦めたようにかまうのをやめたようだった。

 ジムが一人でピックアップトラックに乗り込み、走り去るのが見えた。

 ロイはそのまま砂浜のほうへ下りていった。

 シンシアはその場に座り込み、魂が抜けたような自分の躰を見下ろした。

 のけ者になっている…。

 惨めで情けない気分に取り憑かれ、ドアに掴まって泣いた。




 髪を嬲る風が、ロイには気にならないほど苛立っていた。

 気分が悪く、目の前がぐらぐらと揺れた。

 砂浜に跪き、拳で砂を打ち付ける。無様な姿をシンシアだけではなく、またジムに見られてしまった。立ち直っていなかったことがばれたのが、耐えられなかった。どうしてこんなことになってしまったのかと思うと、情けなくて大声で叫びたい、凶暴な気分になってくる。

 今家に入って、いつものようにシンシアがロイに詰め寄ってきたら、我慢できる自信がなかった。

 彼女が言っていることは仕方のないことだと、分かっているからこそ、感情が爆発するのが怖かった。怒鳴ったり、下手すれば殴ってしまいかねないほど、気持ちが荒れている。激しく胃が迫り上がり、ロイはその場に嘔吐しかけたが、もう何も出てこなかった。

 呪いがいつまでもロイにのし掛かってくる。

 あの時、死んでいたらどれほど楽だったかと思う。

 砂に足をとられ、ロイはそのまま砂の中に倒れ込んだ。両手をついて、息を整えていると、空気に饐えた匂いがが混じっていることに気がついた。

 いきなり、背後から激しく突き入れられた痛みが全身を走った。

 

 振り返ると、いつものゾンビのような腐臭を漂わせた自分ではなく、はっきりとあの時の男達の顔が見えた。

 下卑た笑いを浮かべ、手に鞭を持って、ロイの腰を誰かが押さえている感触すらある。

 躰が動かせず、ロイの喉が引きつった。

「…やめ…てくれ…」

 叫んでも、男達は容赦をしない。

 いつの間にか裸に剥かれ、全身をいたぶられ、ロイはのたうち回った。

「いやだ…、いや…、いや…あああ」

 子どものように泣きわめく自分の声が聞こえる。

 実際のあの時、ロイは泣いたりはしなかった。苦痛の声を漏らしても、必死で耐え続けたはずだった。だが、恐怖は今の方が大きい。逃れられるなら、何でもすると思うほど、恐ろしかった。

「助けて…、っもう許して…くれ…」

 手に食い込む縄が、ぎりぎりと痛み、苦痛が全身を駆けめぐる。

「いや…、いやだ…、ああああ…」

 嗤い声が方々から木霊する。

 遠くで犬が鳴く声がして、潮の香りが鼻をついた。

「ゆるし…、ゆるして……」

 口の中に砂を詰め込まれて、泣き声が埋もれ、不快な感触に目を開ける。

 口に何を詰めた…。お前達と同じ人間なんだ、人をおもちゃのように扱わないでくれ…。

 泣きながら心の中で言う。

 これ以上、どうしようというのだ。これだけ打ち砕けば、満足だろう…。

「二度と…人間に戻ろうなんてしないから…。もう許して…」

 ロイは声をたてて泣いていた。

 砂中深く埋められた手が痛む。砂浜に横たわり、ロイは誰もいない真っ暗な波打ち際で、塩辛い飛沫を浴びていた。

 誰もいなかった。

 靴は片方脱げていたが、服はちゃんと身に付いたままだった。

 今のは何だったのだ。

 実際に口にたくさんの砂が入り込んでおり、それを感じてまた嘔吐した。まるで本当に詰め込まれたかのような、大量の砂が吐き出されると、海の水ですすぐように顔を浸け、そのままその場に倒れ込んで、また目を閉じた。

 生々しい記憶の再現が、ロイを打ちのめしていた。

 たった今本当に嬲られたかのように、体中が痛んだ。

 どれが本物の痛みなのか、幻なのかも区別できない。

 犯された惨めな感覚だけは、しっかりと躰に残っていた。

「…おねがい…。お願いだ…」と、ロイは呟いていた。

 ロイは寄せてくる波の中に顔を洗われながら、しばらくそのまま動かなかった。

 水はどんどん満ちてきている。

 顔に波がもろに被さり、躰が冷えて凍えそうだった。帰って熱いシャワーを浴びたい。暖かいベッドに逃げ込みたい。

 やっと自分を拘束する者がどこにもいないのだと認識し、ふらつきながら立ち上がると、ロイは自分のビーチハウスを見やり、ぐっすり眠りたいのに、また今夜もそれができないことを思った。

 シンシアの攻撃。

 その後、眠ればまた訪れるだろう悪夢。

 ロイの安らげる場所がどこにもないことが、ロイの神経を疲弊させていた。

 遠くに見える家の灯りが、ちっとも暖かく感じないほど、ロイはその家が厭わしく、それでもよろめきながら、灯りを目指して歩き出した。


 

 リビングに座り込んだまま、シンシアは靴音に耳をそばだてた。

 ベランダを歩いてくる足音。

 心なしか乱れてはいるが、ロイが帰ってきたのだ。

 シンシアは廊下に引っ込み、寝室に逃げ込んだ。すぐにバスルームのドアが開かれ、やがてシャワーの音がかすかに聞こえた。

 バスローブを羽織って出てきたロイの前に、シンシアが立ちはだかった。

 はっと顔を上げたロイの目がシンシアに注がれた。

「私の身にもなってみて。いつもいつも具合の悪そうな夫を、黙って見てろって言うの?」

「ああ、ほんとに…すまない」

 食いしばった歯の間から漏れるような声で、ロイが言った。

 目を伏せ、眉間に皺が寄っている。躰の横にたらした拳を握りしめているのが見えた。

 穏やかな彼が、今にも怒り出そうとしているのではないかと思うと、かえって神経が逆立った。怖いというより、一度本気で怒らせて、本音をぶちまけさせたい気持ちが先立った。

「…話してくれさえすれば解決するのよ! ロイ! どうして分からないの?」

 激しい金切り声に、ロイはシンシアの肩を抱き寄せた。

「すまない…。君をこんな目にあわせるつもりはなかった。心配かけて申し訳ないと思ってる…」

 シンシアの意に反して、ロイは穏やかな声で言った。

「謝って欲しいんじゃない! もうたくさん! 謝罪の言葉は聞き飽きたわ!」

「…シンシア…」

「言いなさいよ! ジムと何を話していたの? ジムには原因が分かってるんでしょう? 人をなんだと思ってるの? あなたはどうして私と結婚したの? 妻に言えなくても、ジムになら話せるって言うの?」

「…ごめん」

 シンシアはロイを突き飛ばし、寝室に入り込んで鍵をかけた。


 

 深夜、足音を忍ばせて、シンシアが自分の寝ているソファに近づいてくるのを、ロイは感じていた。

 じっと顔を伺っている気配がする。

 息を詰めているくせに、時折熱い吐息が聞こえるのは、泣いているせいらしい。

 朝まで責め立てられないと分かって横になったものの、ロイは眠れなかった。腕ひとつ上がらないほどへとへとになっているのに、まどろんでもすぐに目が覚めた。

 不意に…。

 喉元に、手が回されるのが分かった。

 暖かい綺麗なマニキュアを施した、シンシアの手がロイを締めようとしているのだ。殺そうとしているらしい、と思ったが黙ってされるままになっていた。躰が重く、だるかった。指一本動かしたくなかった。このまま彼女に殺されてもいいと、ぼんやり考える。

 だんだん息が詰まってくる。

 爪が喉に食い込むのが痛くて耐えられなくなってきた。

 女性の力とはいえ、喉がむせた。ぼやぼやしていたら、うっかり意識を失って本当にこのまま殺されかねないほど、シンシアの手には力が籠もり始めていた。

「シ、ンシア…」

 ロイが目を開けると、何かに取り憑かれたように形相の変わったシンシアの顔が見て取れ、思わずその手を掴んで首から引きはがした。

 呼吸が乱れていた。

 暴れ出すシンシアの腕を掴んだまま、激しく咳き込んだ。

「…殺してやりたい!あなたなんか、大嫌い!」

 シンシアが泣き叫んだ。ヒステリーの症状でも起こしたかのように、シンシアは叫び、身を捩らせた。

 ロイはその腕を掴んだまま、何度もシンシアの名前を呼んだ。

「落ち着くんだ、シンシア! 落ち着いて!」

「死ねばいい、馬鹿にして…! 私を馬鹿にして!」

泣き叫ぶシンシアを、ロイは抱きしめた。ロイの心に痛みが走る。こんなに柔らかな、か弱い躰で、全力で締めようとした力は、考えられないものだった。

 殺したいならナイフか何かを使えばいいだろうに、本気で殺したいと思っていたわけではなく、ここで逃げるように寝ているロイが腹に据えかねて、思わず手が出たのかもしれない。 だが、悪鬼に取り憑かれた人間は常軌を逸した力を出すことがままある。

 自分のせいで彼女を殺人犯にするわけにはいかないと、ロイは思った。

 暴れるシンシアの躰を抱きしめたまま、彼女が疲れ果てるまで、ロイは黙って耐え続けた。ここまで彼女を追い込んだのは自分の責任だとロイは思った。

 シンシアの暴れる手は、何度もロイの頬や頭や胸を思い切り打ったり、ひっかいたりしたが、ロイはされるままになっていた。目の縁にあたった手の骨が、激しい痛みを与えたが、ロイは黙ってその手を受け続けた。

 

 もう駄目だ、ロイは思った。

 このままでは自分だけでなく彼女も潰してしまう。

 この結婚が失敗だったのは、今さら考えるまでもない。

 光の中でウエディングドレスを着て、きらきらと輝いていた、美しいシンシアの姿が思い出された。

 二人でキスをし、彼女と愛を確かめ合って、穏やかに暮らしたかった。小鳥のさえずりのような、シンシアの他愛ない話を聞きながら、休日の午後を過ごしたかった…。

 それなのに、彼女からそれを奪ったのは紛れもない自分であることが、ロイは悲しかった。

 仕事の傷だと言っても理解してくれないのは、当然だ。

 セックスの時にそれが現れるのは、自分が男達に強姦されたからなんだと話さなければ、彼女は納得しないだろう。何人もに、死ぬ寸前まで滅茶苦茶にいたぶられたのだと。

 そんなことを知られるくらいなら、死んだ方がましだった。

 知られて同情され、そういう目で見られると思うと、どっちにしても一緒に暮らすのは無理なことだ。

 

 しかも、今となっては記憶の再現が怖かった。

 シンシアの目の前で、あの男達が現れたら…。

 泣き叫び、許しを請い、犯される痛みにのたうつロイの姿を見られたら…。

 気が狂ったと思うだろう。何があったのか察してしまう可能性だってある…。

 だんだんその手に力がなくなり、シンシアは脱力した。

 涙すら枯れ果てたように、目を閉じ、そのまま眠りについたようだった。

 抱きしめた格好のまま、ロイの意識も途切れてきた。それはもはや、愛し合って結婚したばかりの夫婦の姿とはとてもいえなかった。

 さんざん躰を苛んだ痛みと疲れと、シンシアへの申し訳ない気持ちとが、ロイをぼろぼろにしていた。


 朝、ロイがリビングで目を覚ましたとき、シンシアはどこにもいなかった。

 ロイは彼女を抱きしめたまま、いつのまにか眠っていたらしく、リビングの床に不自然な格好で転がっていた。鉛を詰め込まれたように動かない体を無理矢理起こし、バスルームで鏡を覗くと、ひどい顔をしていた。

 ところどころ青ずんだ痣やひっかき傷ができ、首に食い込んだ爪の後がくっきりと残っていた。触るとひりひりと痛んだ。

 彼女はおそらく夕べのことは覚えてはいないだろう。

 

 ロイは洗面台に腕をついたまま、深いため息をついた。












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