[鍵9] of [鍵]

kagi_title.jpg

鍵 その9

 ロイはクローゼットの空いたままのドアに気づき、ベッドから降りると激しい音をさせてドアを閉めた。
 ドアが勢い余って軽く開き、体全体で再び押さえるように閉めた時、ジムが戻ってきた。
 足下に落ちていた枕を拾い上げる。
「らしくないな、ロイ。あんたがそんな粗暴なことをするなんて」
「俺はいつだってこんなふうだッ!」
 クローゼットのドアを押さえたまま、俯いて怒鳴るロイを後ろから抱くと、ロイは離せ、ともがいた。
 本気で力を出して、そのままひょいと片手で抱え上げ、ベッドに乱暴に放る。
 ウエイトも身長もはるかに勝るジムが本気を出せば、ロイなど子供みたいなものだ。
 ついでにロイの顔に枕も放って、ジムは自分もベッドに乗った。
 顔にぶつけられた枕を忌々しげに手に取り、ロイはジムを睨んだが、ジムはそれを奪って脇にどけた。
「ほんとに手に負えない人だな。あんた、あの時もそういう態度を見せれば良かったんだ。彼女にも。そうすれば、事態はもっと違ってたと思うな。気を使うばかりじゃ関係は発展しない」
「さっきは、動転してたんだッ」
「さっきの話じゃなく、あんたと彼女が夫婦だった時だ。あんたは格好ばかりつけて、彼女に気を使うばかりで一切本音を見せなかったんだろう? 一度くらい、叱りつけたり怒鳴ったりしたのか?」
「そんなことはできない」
 ロイはジムから目を反らすように、傍らの枕を摘んだ。
「俺には見せるくせに。あんたはしょっちゅう、俺に怒ってるだろうが」
「おまえは別だ」
 ジムはうっすらと笑った。
「……そうか。俺には我が儘なんだな」
 ロイははっとしたようにジムを見ると、再び瞼を落とし、唇を噛んだ。
 ベッドのサイドテーブルに乗せていた電話が鳴り出した。固定電話ではない。ロイの極小の携帯の方だ。コンパクトのように畳むタイプではないから、液晶がそのまま点滅するのが見えた。
 液晶の小窓に名前はなかった。長い番号だけが点滅している。登録していない人物からの電話らしい、とジムはそれをとってロイに渡した。
 ロイは、番号に心当たりがあるのか、しばらくそれを眺めるばかりで、通話ボタンを押そうともしない。
「出ろよ。シンシアなんだろ?」
 視線を落としたまま、ロイはやっと電話を耳に当てた。

 シンシアは、長い呼び出し音に耳を澄ませていた。 
 出るつもりがないのだと諦めかけたとき、「シンシア」という、高くも低くもない、特徴のある甘めのロイの声が響いた。
 番号で自分だと分かったということは、ロイの携帯にもまだ、自分の番号が残されていたのかもしれない、とちょっと胸がじんとしたが、あるいは単に番号を覚えていただけかもしれない。
 彼の記憶力は半端じゃない。ものを覚える訓練を、厭というほどさせられているのだ。
 今更、そんなことに胸をときめかせてどうする、とシンシアは自分を叱咤した。
「さっきは……ごめんなさい」
 返事がない。しようがないだろうな、ものすごく怒っていて当然だと、今相手が浮かべている表情を想像する。
「いや……もういいよ」
 穏やかな声が応えた。
「……幸せなのね? ロイ」
 長い間があった。やがて、微かな吐息が聞こえ、「うん」という声が戻ってきた。
 シンシアの聞いたことのない、素直な子供のような返事だった。
「よかった。あのね、私も恋人できたってこと、伝えたかったの」
「……そうか」
「今日のことは、ほんとに許して。あんなことするつもりはなかったのよ」
「分かってる。鍵を返しに来てくれただけなんだな」
 そうよ、ほんとにそれだけ……といいかけて、シンシアは言葉を詰まらせた。
「シンシア、……ごめん」
「や、ね。なぜあなたが謝るの? 私たち、もう他人なのに。私は今、スペンサーを愛してる。あなたがジムを愛しているように……」
 語尾が揺れて、シンシアは涙を拭った。
「シンシア……」
 戸惑ったようなロイの声が、さっきのジムとの間で出された声とはまるで違うことが悲しかった。
 ロイの自分を呼ぶ声は、つらい新婚生活を思い出させた。
 結婚生活も終わりの頃は、ロイはいつもこんなふうに躊躇うようにシンシアの名前を呼んだ。
「大丈夫。もう、二度と会うことはないから。鍵は返したし、もうなにもそこに用事はなくなったから。私にももう、新しい生活があるの」
「うん」
 シンシアは息を吸った。嗚咽に変わりそうだった涙は引っ込んだ。
「それに、別れた人が幸せになっていると知って、思ったよりほっとしているっていったら信じる?」
「……うん。君はそういう女性だと、分かってるよ」
「私も幸せだから、あなたもほっとして」
「安心したよ、よかった……シンシア」
「ねえ、携帯の登録、消してないの?」
「君の?」
「そう。さっき私からだって、分かったみたいだったから」
「番号を覚えてしまってるんだ」
 そう、とシンシアは自嘲を込めた笑いを浮かべた。
「さよなら。ロイ」
「……さよなら、シンシア」
 ロイの言葉が終わるかどうかという間際に、シンシアは携帯をたたんだ。
 無造作に助手席に放り出し、しばらくじっと横目で睨んだ。
 ハンドルに乗せた手をまたのばし、ピンク色のおしゃれな携帯を、再び手に取った。
 アドレスを表示して、Mを呼び出すと、「マイハズ」という、未練たらしい項目を見つめた。
 それを「ROY」と打ち換え、やがて決心したように削除を押して、すべてを消去した。
 そこにはあのビーチハウスの固定電話の番号も記されていたはずだが、僅かしか使わなかったあの家の番号はもう、記憶にもあやふやになっている。
 シンシアは、ロイの携帯の番号を最初から覚えていない。
 自分のだって、ろくすっぽ覚えていやしないのだ。だからもう、かけることはできない。
 これまでつながっていた僅かな糸すら、切れてしまった気がした。
 いや、切れたのではなく、ロイはすでに切っていた。
 彼の携帯にはすでにシンシアの登録はないのだ。番号を覚えていたのは、ただの習慣だ。
 当然だろう。
 お互い、連絡を取るような用事など、もうなにもない。自分だって、早くにそうするべきだったのだ。
 別れてから一年半もたつというのに、マイハズだなんて、自分はほんとに馬鹿だと、シンシアは唇を噛んだ。
 使うことのないアドレスを、改めて見ることもなく放っておいたといえば聞こえはいいが、頭の隅で分かっていて敢えてそのままにしていたのは確かだ。
 かかったままのエンジン音のする車を動かすために、正面を向いて、ハンドルを握り直した。
 対向車も、後続車もいない、広い道路に滑り出す。
 そう――
 鍵は返した。
 電話番号も覚えていない。忘れ物もない。あの家に、もうシンシアの必要な品物はなにひとつ残ってはいない。
 もう二度とこの場所に来ることはないだろう。
 ここはもう、シンシアには関わりのない場所なのだ。
 夏のリゾートは、お手軽にバージニアビーチなどでは過ごさない。海に入りたかったら、マイアミまで足を伸ばす。あるいは、カリフォルニアだっていい。
 自分でそれだけの生活をできるだけの仕事を、今、シンシアはこなしているのだ。
 あれは駄目出しだと、シンシアは納得していた。
 普段やりそうもないことを、そもそも自分がしてしまったことからして、これは神様がきっぱり過去を忘れるようにと、自分に与えたものなのかもしれない。
 先日プロポーズをしてくれたスペンサーへ、迷いなく返事ができるように。
 スペンサーはスペンサーのまま、ファーストネームもなしで、他の同僚たち同様に携帯には登録している。
 もし、スペンサーと結婚しても、今度は名前を入れることにする。
 笑ってしまうが、彼の名前は「ガーネット」だ。でも、その名前はゴージャスすぎると本人も自覚済みの、ごく普通の男性だ。
 一般的な感覚でいえば、「ロイ」はたくましい男性の名前のイメージがある。
 ロイはたくましく、そして美しくて、それこそ宝石の名前が似合いそうに思える王子様のような男性だった。
 でも本当は、王子様などいないのだ。きっと最初から――
 少なくとも、ロイはもう、シンシアの王子様ではない。
 もう、来ないわ、ロイ……と、シンシアは呟き、それからきっぱりといった。
「頼まれたって、二度と来るもんですか!」
 シンシアは深呼吸をすると、自慢の真っ赤なボルボのエンジンを吹かし、自分の住む街へと進み始めた。















硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評