[鍵8] of [鍵]

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鍵 その8

 寝室を出ると、シンシアはウサギのように駆けだし、一目散に車に向かい、エンジンをかけた。
 かかったかどうかも分からないほどのタイミングで車を出して、地獄に響くようなタイヤの摩擦音をさせながら、一息にアクセルを踏んだ。
 直進車が走ってきて、派手なクラクションを鳴らし、今度は思い切りブレーキを踏み込む。
 さらに追い立てられるように後続車が来て、クラクションを鳴らした。
 頭がくらくらして、シンシアはいくらも走らないうちに、車を路肩に寄せた。
 やっと買い代えたばかりの新車のボルボをぶつけるわけにはいかない、という理性がかろうじて頭の隅に残っていたからだ。
 はあ、と大きなため息をついて、しばらく呼吸を整えてから顔を上げ、リアウインドウに目をやった。

 ビーチハウスが遠くに見えた。
 まだ夕闇が訪れたばかりの街に、家は灯りもなく、二人はきっとまたベッドで睦み合っているのだ。
 寝室の灯りは点いたはずだが、裏手になるためここからは見えない。
 シンシアは深呼吸をし、たった今見たばかりの光景を思い出していた。
 信じ切っているようにジムに身を委ね、吐息を漏らしていたロイ。
 大きな背に回された長い指。蜂蜜でも舐めたかのような、甘い甘い、声だった……。
 ハンドルに顔を埋め、しばらくその余韻に浸りながら、ようやくシンシアは顔を上げた。
 以前ジムを愛していると言った言葉は本当なんだと、やっと頭に浸透してきた。
 偶然に再会してから、久しぶりに追い求めたとき、いかに彼が落ち着き、その魅力を増していたかを思うと、やはりジムがロイには必要な相手だったのだ。
 これまで、認めたくはなかったが、男女だけでなく愛し合える真の相手が誰であっても、それが人を包み込むのだと、シンシアは素直に感じていた。
「……ほんとに、ジムを愛しているんだわ」
 シンシアはそう思った。
 くやしいが、自分ではロイにあんな表情はさせられない。
 一度だけ、ジムの胸に縋って泣いたことがあるが、人柄がにじみ出るような安心感のある温かい胸だったのを思い出した。
 大きな、ゆとりのある笑顔を湛えることのできる、あのグリズリー男のような愛情は、おそらくシンシアは持つことができない。
 ジェンダーフリーが主流の今の世の中ではあっても、男女の物理的な力の差はなくなったわけではない。
 それと同じように、ジムのようにただ、ロイを包み込むような大らかな愛は自分は持つことができない。悔しいことに。
 シンシアは、ロイの発作を目の当たりにしつつも、責めるばかりで抱きしめてやることすら、しなかったのだ。
 あのとき、ロイの秘密を知ることばかりにこだわっていなければ、今頃ああしてロイとベッドにいたのは、自分のはずだったのに。
 絶対に手に入らないかもしれないと思っていた極上の男は、少なくとも一度はシンシアの手の中にいたはずなのに――。
 結婚式のとき、ジムはロイの介添え役まで引き受けた。
 その後も、ふたりは友情を培っているだけに思えた。
 いったい、いつどういうきっかけで、あのふたりは一線を越えたのだろう。
 お堅いばかりのジェントルなロイが、なにを考えてそれを受け入れたのだろう。
 シンシアとの夫婦生活を営もうとするたび、起きてきた嘔吐の発作は、そのとき、ジムとの間には生じなかったのだろうか。
 もちろん、そうだったのだ。
 だからこそ、受け入れることができたのだろうから。
 それはきっと、あの、忌まわしいばかりの過去から、ずっとつながってくるものに違いない。
 シンシアがずっと知らされることもなかった、ロイの傷を塞ぐのは、やはりあの影のようにくっついていた男以外にはいなかったということなのかもしれない。
 だとしたら、それはシンシアの魅力云々の問題ではないような気がして、少し気分が落ち着いてきた。
 そもそも、ジムと自分じゃ比べるなにかすら思いつかない。
 熊男と自分が勝負して負けたなどとは、思いたくはなかった。
 いずれにしても、それはシンシアが勝手にあの家を出た後の出来事のはずであって、裏切られたわけでも、奪われたわけでもないはずだ。
 別れたのは自分の意志で、ロイに捨てられたわけではない、やっと気を取り直した。
 シンシアは、携帯を取り出した。
 ひとつだけ、どうしてもいわねばならないことがある。今更のような気はするが、それこそ今更、躊躇する必要もないように思えた。
 さんざん恥を晒したのだ。もう、なにも怖くはない。
 登録を消すことのできなかった番号を繰り出す。
『マイハズ』とだけ、記されたままの携帯の番号を。
 彼はもうとっくに、ハズなどではないというのに――。














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