[仲間たち] of [硝子の破片]


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第二十章 仲間たち

 カーターに促されるように後部座席に座ったロイの横に、バークが並んだ。
 バークは見るも哀れなほどに、憔悴していた。自殺しようと水に入ったロイよりも気落ちしているように見える。 
 ジムの運転するロイのラングラーが、ぴったりと後ろをついてくる。
 カーターはハンドルを握る手に、なぜだか冷や汗をかいていた。
 骸骨がロイの皮を被っているだけのように思えるほど、この男が隔離前に会ったときに比べて、異常なまでに消耗してしまったことが分かった。
 それなのに、すでになにも考えてすらいないような、表情のない顔をしている。
 重苦しい空気が車内に漂い、後部座席でバークもロイも黙ったままだった。
 カーターはマネキン人形にでもなってしまったかのようなロイの顔を、バックミラーで盗み見ながら、これからどうしたらいいのか考え込んだ。
 このまま、まっすぐ海軍病院へ運び込むのが最も適切な処置であることは、誰もが考えていたはずだった。
 大量の栄養剤でもぶち込んでもらって、とにかく生きるという確証を得なければならないはずだ。
 まるでらしくなく、背もたれに背を預け、座っているのも大儀なはずだ。
 ハルトマンが、だから言っただろう? という声が聞こえるような気がした。
 さっきの男の報告が上がれば、間違いなくロイは隊長にはなれない。
 仕事どころではない、とカーターは思った。
 いっときだって目も離せない状態じゃないか、とカーターはロイの顔を見た。
 すぐにまた、何らかの方法で死のうとするだろう。命を絶つ方法は、誰よりも詳しいのだ。
 じっと考えに囚われているようなロイの顔は、窓の外を見ているようで、何も見てはいないようだった。
 だんだん呼吸が荒くなってくるのが分かる。
 バークが心配して背中をさすっているのが目に入る。さすっては駄目だ、と言おうと思ったが、言葉にならなかった。
 吐く息の音が、走っている車の雑音に負けないほどになっていた。
 ミラーの中に、激しく上下される肩が映った。
 ロイが蹲った。                               
 カーターは路側帯によせ、ブレーキをかけた。
 バークが驚いてロイの背中に手をかけたまま、とがめるような目を向けた。
 ロイがドアを開け、道路に転がり出ると、地面に手をついたまま蹲った。
 追突しそうなブレーキ音を響かせて、ジープが止まると、後ろからジムが駆け寄ってきた。
 ロイは、激しくえずいたが、何も、胃液すらも出てはこなかった。
 いつから食べていないのか。水さえ飲んでいないのか、それとも今日、これ以前にも吐いたのか……。そのどれもだろう。
 五日間、食事をとったかどうかも怪しいと、カーターは思った。
 バークがロイの背中に手をかけようとするのを、慌てたようにカーターは掴んだ。
「なんだ?」
「触れてはいけません」
「君はなにをいってる……」

「ロイ!」
 ジムがすぐ近くに蹲ると、ロイは反射的にその腕を掴んだ。
 バークの腕を引っ張って、カーターが離れた場所に連れて行った。
「身体に触れると、気持ち悪がるんです。あんな状態のときは特に……。背中をさすってやることもできない」
「……発作というのはあれか」
「錯乱してないぶん、軽いほうです。けどどうしてここまで……」
 何度もジムと交わした疑問を口にしたカーターに、バークは俯いた。
「隔離から外したからだ。あの時のロイの顔を、私は忘れられん。実戦に出るなと言われた時の、ロイの顔を……。それがショックでこうなったんだ。間違いない」
 バークは振り返って、ジムのジャケットの袖がくしゃくしゃになるほど強く掴んで、小刻みに身体を震わせたまま蹲っているロイを見つめた。
 確かにジムは腕を掴まれているだけで、見ているだけだった。
「……なんで…触れられるのが嫌なんだ?」
「触れられたくもないのに、身体中勝手に触られた後遺症……だと思いますがね」
 それは、哀れな姿だった。
「一人で戦うな、などと……。無責任な言葉だな。ずっとひとりにしていたのに」
 バークが声を震わせた。
「一人にしてました。そしてあんなになるまで、放ってしまった……。馬鹿でした。隊員は何人もいるのに、ジムを一緒に隔離からはずせばよかった」
 自分は甘い、とカーターは落ち込んでいた。
 いつもそうだ。楽観的なのは性分だが、それが過ぎて、取り返しのつかない無理を押し通してしまうことがある。
 この男を見ていたのに。
 何度もロイは辞めたいと申し出るほど、疲れ、自信を喪失していたのに。
 部下に対してもそうだが、自身を判断する力は、おそらくカーター以上にあることを思えば、周りが思う以上にロイは危機感を抱いていたのに違いない。
 軍において、命令は絶対である。
 アイアイサーと答えさせることは、絶対服従を意味する。絶対の威圧をもって、ロイが辞職することをカーターは止めたのだ。止めたくせに、なにも考えてやらず、飼い殺しにしただけだったのだ。
 ましてや、辞めないならば仕事をするしかないロイを、結局は実戦に出るなと宙ぶらりんにしてしまったことになった。
 どれほどの屈辱と身の置き所のなさを味わわせたことだろう。
 カーターは車に乗せていたミネラル水のボトルを、ジムに差し出した。
「何か胃に入れたほうがいい。このまま胃が空なのはかえってよくない」
 ジムは頷いて、ロイに水を飲ませた。
 ジムは、自分が乗ってきたジープの助手席にロイを乗せると上官たちに告げた。
 ふたりで話がしたい、とカーター達には言ったが、ロイを側に置いておきたかったのだ。
 幌を張っているとはいえ、カーターの乗用車に比べれば、暖房をつけても暖かいとは言い難かった。
 バークは、それは今のロイには良くないと反対した。
「寒い車に乗せたら風邪をひかせるかもしれん。この状態じゃ肺炎になるかも……」
「私の車に乗せるといい。私がジープを運転する」
 カーターの申し出を、ジムは断った。
「大尉の車で、帰ります。大尉が大切にしている車ですから」
 ジムの思い詰めたような顔に、ふたりは、顔を見あわせた。
 やがて諦めてそうかと頷き、自分たちの車に乗り込んだ。
 ロイは、自分の車の定位置――つまり運転席側に無意識に進み、ジムから手を引かれるようにして助手席に誘われた。
 座席に落ち着くと、ジムはさっきの毛布を三枚ともかけ、風邪を引かせないように気を配った。
 上官のふたりにはそうは言ったものの、話など、とてもできる状態ではない。
 それでもかまわなかった。
 カーターの車が発進したあと、ジープも続くように動き出す。

 幌が風をうけて、激しい音をさせた。
 戦いは終わったのだ――と、ジムは思った。
 これからこの人を病院まで運んで、そしていつ会えるか分からない……。またいつかのように、薬を打たれ、助けて欲しいと叫ぶこともできず、身動きできない状態で、たったひとりで閉じ込められるのだと思うと、やりきれなかった。
 けれども、あの頃に比べたら、ロイは本当に狂ってしまったように思えた。
 死人のような、血の気のない顔にはまったく生気がない。
 しゃべることすらしない。
 ジムがそっとロイの手を握っても、ロイはその手を握り返してはこなかった。
 そのまま目が閉じられ、しばらくすると、寝息のような音が聞こえてきた。
 だが、完全に眠ってはいないらしく、ロイは時折ふっと瞼を開けた。
 その浅い呼吸の音に、ジムはそもそもの原因となった悲惨な日の、血まみれのロイの呼吸を思い出した。
 微かで、途切れそうに心もとない、それでいて生きようとする呼吸の音を……。だが、今はもう生きようとする意志すらないように思えた。傷は塞がってしまっているはずなのに、あの時よりもロイは血を流している気がする。
 そしてもう、身体の中を巡るほどの残量が残っていないように――。
 走っている最中だというのに、涙でフロントガラスが見えなくなる。
 何度もハンドルから手を離し、ジムは涙を拭った。

 岸壁の駐車場が見えてくると、まるで暴走族でも集まっているような、ヘッドライトの灯りが浮かび上がっていた。 
 バークの車のまわりに、たくさんの車が停車しているのが目に入った。 
「なんだ? なんの騒ぎだ?」
 ジープが入ると、車の周りに立っていた連中が、いっせいに駆けよってきた。
 リックがまっさきに、ジープに辿り着き、「ああ、戻られた!」と、叫んだ。
 ジャックが、ポールが、ディクソンや大勢の男たちが、小走りに走り寄ってくる。
「おーい。大尉は無事だぞ!」
 ポールが大声で告げると、こちらへ向かっていた連中も急ぎ足になった。
 あっという間に、ジープは男たちに取り囲まれていた。
 全員が、「大尉!」「大尉!」と呼びかけている。
 チームの全員が、そこに集まっていた。
 ロイの姿を見て、わっと歓声が上がった。
 ロイはびっくりしたような顔で、車に乗ったままだった。
 ポールが助手席のドアを開け、ロイの降りるのを待った。ジムはロイを促し、ポールがその手を引っ張った。
「大尉、おかえり」
 ポールが笑おうとしながらも、強張った顔でロイの顔を覗き込んで言った。「俺はあなたがいないと、淋しいですよ」
「大尉」リックが拳で打つまねをした。「俺との試合の約束、まだ果たしてないでしょ? あんたに一発お見舞いするの、楽しみにしてるんだから」
 言いながら、すでに口元を歪め、涙を零している。
 ジャックがロイの手を取った。
「みんな、あなたが大好きなんです。どこへも行かないでください」
 ロイは全員に手を握られ、髪に触られ、肩に手を乗せられて、次から次に声をかけられて返事もできないほど戸惑っていた。
 黙って見ていたビリーが、つかつかと歩み寄ると、ロイの頬を激しく打った。
 ロイがその程度の勢いで後ろに倒れそうになり、そばにいた連中が支えた。
「なにするんだ、病気なんだぞ」と、止めに入る手を振りほどいて、ビリーはロイの前に戻った。
 口を開けようとして何も言葉が出ないのか、ビリーはわなわなと震え、そのまま腕を肩に回して抱擁した。
 ロイは驚いたように頬を押さえていたが、その手をビリーの身体に回した。
 間もなく、カイルがその脇からしがみつき、ジョンが肩に手をまわし、ディクソン大尉が手を広げてそれを包んで、ロイは幾重にも抱きしめられていた。
「大尉の捜索に、全員が出てきたんです。集めたわけじゃなくて、いつの間にか」
 ポールがそばに来て報告した。「連中は、大尉が身体を壊したことを苦にしたとしか思っていません。ことをでかくするのはどうかと思ったんだけど……あっという間に伝わってしまって」
「いや、もういいさ。そんな体裁なんか、言っている場合じゃなかったんだ。おまえの言うとおり、ロイは危なかった。僅差でもう、二度と姿を見ることはなかったはずだ」
「……じゃあやっぱり……」
 ジムはポールの肩を叩いた。
 ポールは険しい顔をしていた。
「それにしても、……五日前と別人じゃないですか。なんでいきなりそこまで思い詰めたんです?」
「どういう五日間を送ったのか、見当もつかないんだ。なにを考え、どういう理由でいきなり結論を出したのか、まるでわからない。というより、そうしなくても、もう半分死にかけてるみたいだろうが」
「どうするんです? これから」
「海軍病院に……運ぶしかないだろう。ひどく衰弱してる」
「また、病院に逆戻り……ですか?」
「仕方ないさ。そもそも復帰が早すぎたのかもしれん。一、二年はじっくり休養すべきだったのかもしれんな」
 ううむ、とポールは腕組みをした片手を立てて、口髭を引っ張った。
「そこまで弱い人だとは、とても思えないんだけどな。むしろ、一、二年療養しろと言われても出てくるくらいが、あの人らしい気がするのに」
 ジムは取り囲まれているロイの顔を哀しい気分で見ていたが、その口元に微笑みすら浮かんでいるのに気付き、カーターの方を見た。
 カーターとバークは並んで立っていたが、やがてジムに手招きをした。
「今夜、病院へ回るのは延期できそうだと思うか?」
「病院も、夜中に駆け込まれちゃ迷惑でしょう」
 ジムが期待を込めたように言った。
「でも、容態を見てもらう必要はある。とりあえず、ドクター・ナカニシに電話しよう。動くならそれからだ」
 カーターのことばに、バークも頷いた。
 ジムは集団へ戻ると、手を叩き、みんなの出迎えに感謝の言葉を告げて解散させた。


 SEAL専用の特別宿舎のテーブルセットのある部屋に、シャワーを浴びたカーターが入ってきた。
 ここは将校専用の建物で、会議や特別な作戦などだけでなく、赴任したばかりで家がないものなども泊まることができる施設だ。この部屋が一番広く、続きの間にベッドを四つ並べた寝室がある。入り用なら、簡易ベッドが置けるスペースすらある。
 リビングには広いカウンターで仕切られた簡単なキッチンや、小さいがテレビも置いてあった。
 バークが近くのコンビニまで車を走らせて買ってきた夜食を見て、カーターは微笑んだ。
「まるでおとうさんみたいだな」と、呟くと、
「おとうさんさ。今日いた連中全員のな」と笑った。
「彼らは事情を知ってはいないんだろう?」
「……何があったかは知りません。酷い暴力を受けたとしか。でも、数人は気付いてると思いますよ。少なくともポールや救出にかかわった連中は。なぜこんなに大尉が崩れていっているのか、退院してきた頃よりもむしろ弱ってしまっているのか……。彼らだって馬鹿じゃない。それに……。みんな尊敬以外の感情が若干あるんです。多分。今は特にそれが強いでしょう」
「なんだね? それは」
「……あの冷酷なイメージすらある大尉の裏に垣間見える儚さ……みたいなもんかな。彼には言えませんが、私だってどきっとすることがあったくらいです」
 バークは神妙な顔で聞いていたが、シャワールームのほうを伺った。
「ふたりはまだシャワーか?」
「いろいろジムが声をかけて、呆けたようなロイの髪まで洗ってやってました……。ジムはロイを、本当に心配しているんです。まるで恋人みたいに世話を焼いていますよ。あの大きな身体でかいがいしく」
 カーターは思い出すような顔で、面白そうに笑った。
「大人しく洗われてる大尉の姿がね。滅多に見られるもんじゃない。……あなたも覗いていらっしゃい」
 バークがそっとバスルームを覗いて、ジムが母親のようにロイにシャツを着せていたといいながら、狐につままれたような顔で戻ってきた。
 ドアがノックされ、龍太郎が大きな荷物を持って入ってきた。
 ジムが電話したあと、彼は彼なりに町を探してくれていたらしく、様子を話すと、一度病院へ寄ってから来るといっていたとおり、荷物は医療道具のようだった。
 ジムがバスルームから、下着姿のロイを抱えて出てきた。
「気を失ってしまった」
 ベッドに寝かせられ、龍太郎が診ている間、三人は黙って食事をした。腹は減っていないと思っていたのに、食べだすと止まらないほど、三人共に空腹だったことに気付いた。
 やがて龍太郎が出てきた。暗い顔をしている。
 龍太郎は、勧められた食事を断り、ジムが淹れてくれた珈琲だけを飲んだ。
「酷いチアノーゼが出てますね。胃の中はほとんど空っぽでしょう。びっくりしました。私も五日前に会った時に、こんなに状態が悪くなるとは予想がつかないくらい、まだ普通に見えたんです。今点滴をしていますから。それで少し身体は楽になるはずです」
 そう言いながら、なぜか龍太郎の顔には元気がなかった。
「明日、また来ます。明日もここに? ……もし、夜中になにかあったら遠慮なく呼んでください」
 カーターが頷き、礼を言うと、ジムがドクを玄関まで送っていった。
「……限界ですね。気を失うのが遅かったくらいだ。あんな身体であの冷たい海を渡ったんだから。よく心臓が止まらなかったと思いますよ」
 カーターの言葉に、バークがそのとおりだな、と呟くように言った。
 バークには、いろいろと黙っていたことを話さなければならない、とカーターは思った。
 これまでのいきさつの中で、自分が知る限りのことをバークに伝えた。
 ことに病院での出来事が、よけいにロイには悪い影響を与えたことを告げ、入院させることをしたくないのだと強調した。
「一人で戦わせないと言った以上、今は我々が援護をするしかないんです。アパートに帰して、ジムにだけ任せておける状況じゃない。ここで数日様子を見ましょう。ドクが来てくれるなら、なんとかなるんじゃないかな」
 カーターの言葉に、バークが戸惑いながらも頷いた。

 ふたりが話し込んで寝室に戻ったとき、四つのベッドの二つがくっつけられ、ジムとロイがすでに眠っているのが目に入った。
 それぞれのベッドに寝ていながら、ジムは腕を伸ばしてロイの手をしっかりと握り、ロイは穏やかな顔で眠っていた。
「彼らは……その、そういう関係なのか?」
 バークが目を丸くしてふたりから目を離さず言った。
「そういう関係って?」
「その…手を繋いで寝るというのは、どうなんだ? 我々がいなかったら本当は……」
 抱き合って寝たかったのではないかと、バークは言いたいらしい。
 カーターにとって、男同士の恋愛という分野は無縁のものだ。このふたりがそうなのかと疑うバークに驚いたほどだ。
 だからといって、嫌悪や拒否などという感情はないが、このふたりがそうとはとても思えなかった。
 そういえば、とカーターは、病院とフロリダでジムの手を握って眠ったくだりを話した。ロイの夢の中で、その温もりだけが彼を異国の監獄から救う手立てなのだと、ジムの言葉のままに、カーターは伝えた。
「たまたまなんでしょうけど……安心するのかもしれませんね。それほどに心が弱っていると……解釈したほうがいいんでしょう。もちろん、ロイが眠ってしまってからの話です。手をつないで寝てくれ、と彼が頼むってことはないはずです」
 バークは神妙な顔をして聞いていたが、やがてまたふたりに目を移し、顔を赤らめた。
「……時には私も握ってやれるかな? その……。私の温もりでも……?」
「多分……。ジムのでなきゃいやだと、本人が言えば別ですが」
 そう言ってカーターは笑い、バークは首を振りながら、寝ているふたりを覗き込んでいた。

 朝、ジムが早起きをして、宿舎のキッチンで朝食を作ってくれていた。
 食材まで買いに走ったらしく、心地よい香りが寝室まで漂っていた。
 カーターが覗き込むと、ロイは目を開けており、眠ったことと点滴が効いたのか、昨日よりも人間らしく見えた。 
「気分はどうだ?」というカーターの言葉に、ロイはらしくない仕草で毛布をかぶった。照れているにしても、日頃のロイとは思えない。
 ドアが開き、龍太郎が入ってきた。気にかけて早起きをしてくれたらしい。
 カーターは医師にあとをまかせ、リビングに出て行った。
「いい匂いだ」
 カーターが言うと、ジムが振り返って微笑んだ。
「起きましたか?」
「ああ、目は開けてた。昨日よりはましに見えたな。でも、顔を合わせにくいんだろうな。毛布をかぶってしまったよ。――大佐は?」
「ちょっと自宅に戻って、奥さんに話をしてくるそうです。でも、毛布をかぶったって?」
「声をかけたけど、返事もせずに。まあ、死のうとしたのに助けられて、怒ってるのかもしれん。それとも恥ずかしいのかな?」
 誰の話をしているんです? とジムが呟いた。
「なんか、大尉の行動に思えないですね」
 ジムがロイの様子を確認するために寝室へ向かいかけたとき、バークがドアを開けて入ってきた。相当早い時間から起きていたらしい。
「サムのやつ、自分も来たいと言って、うるさくてな。まいったよ」
 座るなり、タイミングよく出された珈琲を飲みながら、バークが言った。
「死のうとしたなんていったら、えらいことだった。言わなくて正解だったな」
「……今のやつれた顔をみたら、もっと悲しむでしょうね。奥様も」
「ああ。だから、看病は仲間とやってるからと言ってきた。あいつは、聞き分けはいいんだ。様子だけは知らせろと釘を刺されたがね」
 寝室のドアが開き、龍太郎が出てきた。
「しばらくは点滴をしているから、あとでお粥かなにか、胃に負担のないものを食べさせてやって」
 龍太郎の言葉に、彼を食卓につかせ、ジムもカーターも食事を勧めた。
「なにかしゃべりました?」
 バークが聞くと、龍太郎は首を振った。
「まだ、ショックが残ってるんでしょう。本人が起き上がるまで、そっとしてあげてください。今日は土曜日だし、あとでまた来ます」
「有難い」
 バークが安心したように言った。
 間もなく、お粥を運んでジムがベッドルームに入っていった。
「……あなたのおっしゃった通りになってしまった。やはり入院をさせるべきでしょうか? できればここで面倒を見たいんだが」
 カーターが言うと、龍太郎が頷いた。
「今見た感じでは、穏やかな気分になっているようです。はっきり言って、彼にとって病院は逆効果かもしれないと、私も思います。ただ、悪夢を見させないことが必要でしょう。あれがすべての原因だ。今のような身体で睡眠までとれないなら、おかしくなるなと言う方が無理がある。十分に眠って、栄養をつけて元気になれば、まだチャンスはある。――手を握ってやると、わりと穏やかに眠れると思うんだが……」
 ドクターの言葉に、カーターとバークが目を合わせた。
 医師は思わず頬を赤くした。
「おかしいと思うでしょうね。大の男相手に……。でも入院しているとき、ホーナーがそうやっているのに気付いて、実は実行したことがあるんです。お笑いになるでしょうが……。あまりにも穏やかに眠ってくれたもので…」
 カーターは思わず微笑んで、ドクターに手を差し出した。
 ドクターは戸惑ったようにその手を握った。
「あなたは素晴らしい医師ですよ、ドク」
 ドアが開き、ジムがロイを抱えてバスルームへ行った。
 三人は黙ってその方角を見つめていたが、龍太郎が席を立って、バスルームに入っていった。
「……ひとりでトイレに行くことができないくらい、弱ってるのか?」
 バークが心配そうに言った。
「かもしれませんね……。風邪でもひいて熱が出たのかも」
 カーターは不安そうに呟いた。
 やがて、またジムがロイを抱えたまま、ベッドルームに戻っていった。
 龍太郎が難しい顔をして、テーブルに戻ってきた。
「ドク?」
 もの問いたげなカーターの言葉に、ドクは目を上げた。
「歩けないようです」
「歩けない? ……昨日は歩いて戻ってきたんだぞ?」
 バークが咎めるようにいうと、龍太郎は困ったような表情を浮かべた。
「その上、――まあご自分たちで様子を見てください」
 ドクの言葉が終わらないうちに、バークが席を立った。
 全員が、ベッドヘッドにおいたクッションに半身をあずけて横たわっているロイのまわりに集まった。
 ベッドの脇で、ロイの毛布を掛けていたジムが振り返って、戸惑ったように全員の顔を見た。
「ロイ」
 バークが急き込んだようにロイを覗き込んだ。ロイは、気の抜けたような、どこか何か不足しているような表情をしている。
「ロイ、どうかしたのか? 大丈夫か?」
「……ロブおじさん!」
 ロイが嬉しそうな顔でバークに手を伸ばした。幼い子供のような、飾り気のない笑顔が浮かぶ。バークはベッドに腰をかけ、ロイを抱きしめた。
「ロイ、つらい思いをさせて、すまなかった。すまなかったな」
「ロブ……、あしうごかない…。ロイ、へんなの」
 ロイの言葉にバークが身体を離し、ドクの顔を見上げた。
「……なんか、おかしくないか?」
 カーターが立ち上がったジムに囁くと、ジムが頷いた。
「しゃべり方が……。声の調子までちがう」
「ねむる……」
 ロイがバークに言った。「あたまいたい……」
「ああ、私がそばについている。安心して眠りなさい」
 バークはそっと手を握ると、感激しているのか、哀しがっているのか分からないような顔で、その手を口元に持っていった。

「バーク大佐のことを、ロブおじさんって言ったぞ?」
 カーターが強張った顔で言った。
 ダイニングテーブルを挟んだドクの顔を見て、自分の横に座ったジムに目を移す。
 取り乱しているのがひと目で分かるカーターの様子に、ジムは肩をすくめて見せただけで、何も言わなかった。
 ドクが深刻そうに眉を顰め、頭を抱えて考え込んでいる。
「ドク? ロイの状態は相当悪いんですか?」
 カーターが心配して言うと、龍太郎は黙り込んだ。薄い銀縁の眼鏡を外し、考えるように拭いていたが、やっと口を開いた。
「……急激に悪くなったのがこの六日間。いや、有り得ない」
 龍太郎は、ひとりで呟いて首を振った。
「なんです? なにが有り得ないんだ?」
 ジムが鋭い棘を含んだような声で言った。
 龍太郎は思い切ったように続けた。
「催眠療法を失敗したのかもしれない」
「なんですって?」
 カーターが目を剥いた。
「毎回過去に戻って話を聞いたり、暗示をかけたりしていたんです。そのせいかもしれないと思って……」
「過去に戻るって……?」
「悪夢の話をさせたり、子供の頃までさかのぼるんです。そうやって、いろいろな深層心理を探るんですが」
 ジムが思わずテーブル越しに、龍太郎の胸倉を掴んだ。
「まんまじゃないか。あんたの催眠療法のせいだよ。今まさにあの人はその状態だ…」
 カーターがその手を止めた。
「落ち着け、ジム」
「……でも、それでこういうことになるというのはどうにも……」
 ジムが乱暴に胸から手を外して、睨むように龍太郎を見た。
「だったら、元に戻せるんじゃないのか?」
「でも、そういうのは普通に行う治療なのでしょう?」
 カーターの言葉に、龍太郎は頷いた。
「当然です。それに、影響を受けるならもっと早くに出るはずで……。いや、こういうことは、一概には言えないことなんだが……」
 いきり立っているジムに、カーターが座るよう促した。
 ジムが興奮したため、カーターは逆に落ち着きを取り戻した。
「私にはそうとは思えないんだがな。ドクのところへ行き始めてすぐならともかく。ポイントはこの数日のことのはずだ」
「その日、ロイは私の診察室へ訪れました。朝からお茶を飲んで話をした。その時まで、いつもと変わりはなかったんです。それと――」
 ロイの腕にいくつも点滴の跡があったと、医師は告げた。
「念のためにロイがいつも行っていた病院に電話をかけてみました。ここ数日、彼は来なかったらしい」
「じゃあ、どこで点滴を?」
「そもそも、そんなことをするほど悪い状態ではなかったんです。まだまだ不安は抱えていたが、発作が起きたり眠れなかったりというのは減っていたはずだ。だから私は違和感を感じているんですが……。そもそも、跡が古い。少なくとも数日はたっている。昨日今日ならわかるが、かえって一番必要だったあたりでそれを打った形跡がないのも、考えてみるとおかしい……点滴ではなく、注射の跡かもしれない」
「麻薬の跡とか?」
 ジムが、カーターの方へ勢いをつけて顔を向けた。
「そんなことをするわけないだろう? 少佐、いい加減にしてください。ドク、わからない話はもういい。あの人はどうなる? 正気に戻るのか?」
 龍太郎は、気を取り直したようにカーターとジムを見た。「入水自殺を図ったとき、彼は最高に平常心を失っていたはずです。一息で元に戻ることができないだけなのかもしれません」
「……本当に、子供に戻ってしまってるんでしょうか?」
「そうかもしれません。一番楽だった頃に……。ひとつの逃避行動として珍しいことじゃない」
「現実を忘れてしまったのか? 大佐をロブおじさんと呼ぶってことは……。俺のことも…少佐のことも……」
 ジムの質問に、龍太郎は立ち上がりながら答えた。
「まだ様子を見てみないとなんとも……。十時からの予約を終えれば私は今日と明日は時間が空いています。午後には戻りますから。取り乱さずに対応しておいてください」
 龍太郎が出て行くと、カーターが頭を抱えた。
「取り乱すなって言われてもな……」
「一番楽だった頃か……」と、しかめていた顔を緩めてジムが言った。
「あの笑顔を見ましたか? あんな安心しきった顔ははじめて見た……」





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後日憚―哀しみの追憶―

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金の砂銀の砂第二部

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評