[聖夜の前に] of [硝子の破片]


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第三十章 聖夜の前に

 ロイは、熱を出して寝付いてしまった。時折、激しい頭痛を訴える。
 プールで泳いだというから、風邪だろうとドクが言ってはいたが、今回のことのショックが大きかったに違いない。
 信頼していたジムやカーターに置いてきぼりにされた上に、あれほど怖がっていた見知らぬ人間に連れ出されかけたのだ。
 ジムたちチームは、急な呼集隔離のあと、三日ほど休暇がもらえることになった。
 ジムもカーターも家にいることで、ロイは嬉しそうにしていたが、当然一緒に起きて遊ぶほどの元気はないようで、それでもリビングのソファに毛布を敷いて寝かせてやると、黙ってジムやカーターの姿を目で追っていた。
 呼び鈴が鳴るのでカーターが出て行くと、ビリーが立っていた。
「もちっとましなおもちゃを与えてやれよ」
 ビリーはカーターに小さな塊を放ると、さっさと踵を返した。
「お茶でも飲んでいかないか? ビリー」
「デートだから。遠慮しとく。あいつに台無しにされた休暇の続きがもらえたんで、忙しいんだ」
 チーム全員が休暇中なのだから、ビリーも分け前に預かったわけで、玄関近くまで乗り入れたカマロには、綺麗な男性が座っており、イヤホンで音楽でも聴いているのか、小刻みに身体を揺らして海の方を見ていた。
 ビリーは後ろ手に片手を上げ、車に乗り込むとあっという間にエンジンを吹かして消えていった。

「ヘリをビリーが届けてくれたぞ」
 カーターがソファの肘掛けに腰かけて顔を覗き込みながら渡すと、ロイは嬉しそうに手に握りしめた。
「ロイのヘリ」
「あいつには聞きたいことがあったのに。帰ったんですか?」
 ジムがほかほかとふくらんだパンを皿に乗せて、トレーで運んできながら言った。カーターと自分のための珈琲と、ロイへのオレンジジュースのグラスも乗っている。
「デートらしくて。でも相手は男だったぞ」
 カーターが言うと、ジムはちょっと肩をすくめた。
 軍の規律ではゲイは認められていない。それでもちらほら噂が飛ぶこともあるが、正式にばれてしまうと辞めざるを得なくなる。もっとも、ビリーならばそんなことはへでもないことなんだろうな、とカーターは呆れたように言って笑った。
「ほら、缶詰のパンだ。アイシングとチョコとどっちも焼いたぞ。少し食べないと薬が飲めないからな」
 低いテーブルをソファ側にくっつけるようにして、ジムがテーブルに皿と飲み物を移した。
 カーターに起こされて、ロイは上半身を立て、「ビリー、パン、かってくれた」と呟いた。
「ビリーは優しくしてくれたか? 虐められなかったか? ロイ」
 一口大に切った甘いパンをつまみながらカーターが聞くと、ロイは「にんだごっこした。ゆうえんちで」と答えた。
「にんだごっこ?」
 忍者のことですよ、とジムが補足した。
「たかいとこのぼった。カーターしょうさ、いたとこ。チームはしってたとこ」
「……それ、訓練場のことか? まさか泳いだってのも、うちの基地の中か?」
 ジムが言うと、「ビッグバード、いた」と、ロイが頭に手をやった。よほど、鳥の毛のような黄色い髪が印象に残っているらしい。
 ジムは「ビッグバード……スミスが受付にいたのか?」とげらげら笑った。
「ビリーのヤツ、思い切ったことするもんだな。スミスに気づかれなかったかな? ロイのこと」
 渋い顔をするカーターに、ジムはなお笑いながら、ロイに聞いた。
「楽しかったのか? にんだごっこは?」
 うん、とロイは頷き、大きなパンの塊を食べて口の周りをチョコレートで真っ黒にした。
「もっとこの缶詰パンを買ってくるか。ロイがこんなに食欲を見せるなんて、驚きだ」
 ジムが言うと、ロイは「しろいののもたべる」と、アイシングのかかったパンをつまんだ。
「けど甘いな。珈琲のお代わりを淹れてくるけど、ジムいるか?」
 立ち上がってキッチンへ向かうカーターに頷き、ジムはロイの口の周りを拭いてやった。
 ロイはパンを口に入れずに、黙って手に持ったまま見つめて動かなくなった。
「どうした?」
「ロイ、こわかった。こわいひと、きた」
 ビリーとの記憶をさかのぼって、その前の恐怖を思い出したらしいと、ジムは頷いた。
「俺が悪かった。ロイをひとりにして出て行くなんて。もう、二度としないから。ずっとずっとそばにいるようにするから。許してくれるか?」
 ジムはしゃがんで額に手を当て、唇をつけた。
 信用していないのか、ロイは黙ったまま俯いている。
「もう二度とひとりで置いていったりしない。ほんとうだよ、ロイ」
 カーターがデカンタを持って戻ってきて、そばにしゃがんだ。
「ロイ、クリスマスが終わったら選びなさい。ロブおじさんとサマンサと暮らすか、デインとジムと暮らすか」
 ジムは、カーターを見つめた。
「ロイは……サムとロブおじさんだいすき……」
「そうか」
 でも、とロイは顔を上げ、ジムとカーターのふたりを順繰りに見た。
「ジムとデインがもっとすき」
 ロイのことばに、カーターはその頭を抱きしめた。
「私たちも君が好きだ。ロイ、ほんとに無事に戻ってきてくれて良かった……」
 ジムがそのカーターとロイを包むように、大きな手でふたりを抱きしめた。


 バークは葬式から飛んで帰ると、クリスマスプレゼントの綺麗なパッケージを、早速ツリーの根元に置いた。バーク自身が我慢できずに、プレゼントの箱を車から持ち出してきたのだ。随分早くから買っていたらしい。元気のないロイに、もう渡してしまいたいと言うのを、カーターとジムが止めたのだ。
 その日も頭痛を訴えていたロイは、だいぶ熱は引いたものの、パジャマのままでツリーの前にしゃがみ込んで、しげしげと眺めていた。
「サンタ、もうきた?」
「ロイがいい子だからな。どうもゆうべ煙突から入ったみたいだぞ」
 ジムがそばにしゃがんで、髪を撫でながら言った。
「だんろ、サンタあつかった?」
「火は消してたからな。大丈夫だったはずだ」
「プレゼント、みたい、ジム」
「まだだよ。クリスマスの朝になったら、開けるんだ。イブにはきっともう一回サンタが戻ってきて、プレゼントを奮発するはずだから。いっぱい開けるの大変だぞ」
 サマンサには、クリスマスパーティーまでロイの様子は内緒にするつもりらしい。サプライズにするんだと、バークは企んでいるようだった。

 基地で顔を合わせても、ビリーはジムやカーターに近寄っても来なかった。
 訓練のあと、カーターがロッカールームの隅に呼びつけ、ロイと一緒にいたときの、特に不審な男に関しての話を尋ねたが、ビリーは「全部警察に聞いてくれ」と、そっぽを向いた。
「おまえ、そんないい方……」
 そばにいたジムが言いかけると、じろりと睨んだ。
「言ったよな? 俺をのけもんにするなって」
「ビリー、仕方なかったんだ。そう怒るな」
 ジムが宥めるように言っても、ビリーは口を尖らせて、話すことなんかねえ、と顔を背けた。
「じゃあ、なんだ、セーターの弁償ってのを、するか? いくらだ?」
 ジムが言うと、ビリーはふん、と鼻で笑った。
「なんだよ、自分のもんみたいに。――あんたら、ふたりでロイをいいようにしてるんじゃないだろうな? わけのわかってないのをいいことに、お稚児にでもしてんじゃないのか?」
「な、なにを言い出すんだ、おまえは!」
 ジムが本気で怒り出した。カーターは口を開けてビリーを見つめている。
「三人でけっこんするって言ってたぜ、あいつ」
 ビリーは背を向けて歩き出しながら振り向いた。「そうそう、セーターはな、あいつが自分で払えるまでつけといてやる」
 ビリーは、呆然と突っ立っているふたりの前から、さっさと立ち去ってしまった。
「……お稚児って、なんだ? ジム」
「男に可愛がられる男……って意味じゃないですか? 要するに我々がロイを愛人にしていると言いたいんでしょ」
 カーターがむっとした顔をした。
「なんてやつだ。私がそんなことをするわけがないだろう!」
「遅すぎますよ、少佐。もういうべき相手は行っちまった」
 ジムが笑いだした。
「まあでも、三人で結婚するって言ったのは、おそらくロイだ。あなたがウエディングドレスを着せるとかなんとか、言ったことからの発想でしょ。ロイの気持ちは俺たちと一緒にいたいってことなんだ」
「曹長! すいません。ちょっと」
 ジムはポールたち数人に呼ばれて、歩き出した。
「ジム、駐車場で待ってる。一緒に帰るだろ?」
 カーターがその背に声をかけた。
「もちろんです。買い物もしなきゃならないんで。すぐ行きますよ」

 ショッピングセンターで夕食の食材を買うついでに、ふたりはトイショップへ入った。
 カーターとジムは、高価だが、エアポンプ式のモデルガンを買ったらどうだろうと言いながら、溢れるほどの商品に目を走らせた。いっそのこと三つ買って、サバイバルゲームをするか、と二人は盛り上がり、面白そうな玩具を見つけては、手にとって夢中になって眺めた。
「買うなら、三つじゃなく四つでしょ。大佐が拗ねる」
「じじいのくせに、負けず嫌いだからな」
 ロイへのプレゼントといいながら、一緒に遊ぶのが、なによりも楽しかった。
 ジムがものをしゃべる学習型ロボット犬を手にすると、『ずっといっしょだよ!』とそれがしゃべった。
「少佐」
 ジムはそれを手に持ったままじっと見つめて、呟くように言った。
「クリスマスがすんだら、俺が専業主婦になりますよ。少佐が本気ならですけど」
 カーターは、おもちゃから顔をあげない、自分よりも大きなジムを見あげ、真面目な表情になった。
「まあ、少佐が本気でなかったとしても、大佐の奥さんひとりに預けるのは無理だ。だから、俺は職を変えてでもあの人のそばにいます。朝夕だけでもいい。奥さんに頼んで一緒にいさせてもらう」
 カーターはじっと、ジムを見つめた。
「……俺は今の仕事が好きです。でも、あの人と共に捕らえられてから、俺は……一蓮托生っていうのかな。ロイのため……っていうより、自分のためにロイと一緒にいたいと思うんです」
「ジム……。私だって本気で言ったんだぞ。大佐や奥さんには悪いが、三人で暮らしたいと言ったのは嘘じゃない。その場合、やはり一日中そばにいるのは母親だろう? 私はおとうさんになるさ」
「なら、あなたの給料は、三人分の生活費になります。俺は大食らいですからね。貯金は諦めてください」
 ジムが悪戯っぽく笑った。
「それに――。手がかかりますよ、少佐。普通は数年もたてば自立して、親離れをする。でも、ロイはずっとあのままかもしれない。毎日毎日風呂に入れて、手を握って眠らせて、片時も離れられない。正気に戻らないなら、一生、普通よりやっかいな、小さい子供がいるのと同じです。好きな女ができても、結婚もできませんよ」
 ああ…、とカーターは唇の端を上げた。「毎日、寄り道もせずに帰って、女性と出会うこともないだろうさ」
 ジムはくすっと笑った。
「後悔しませんかね? あなたに捨てられたら、俺たちは路頭に迷う。あとになって大佐の家には駆け込めませんからね。そうなったらロイをしかるべき施設に預けて俺が働くしかない」
「さあな。先のことはわからないが、君たちを捨てて逃げたりはしない。……実は私はあまり結婚とかに興味がもてないんだ。だから、たぶん大丈夫じゃないかな」
「もてるでしょうに。意外だな。理由を聞いてもいいですか?」
「ふん、私だって人並みには言い寄ってくる女性もいるけどね。昔の手痛い失恋のせいかもな。女性はこわい」
「本気でロイに、ウエディングドレスを着せたいなんていうのは?」
 カーターは片方の眉を上げ、ジムを見つめた。
「それは、ビリーの言ったようなことを、私がロイに望んでいると? 私はゲイではないぞ、ジム。君こそ、どうなんだ?」
「俺も……ゲイという自覚はないですがね。特にあんな状態のロイ相手に、どうこうしたいなんて考えもしませんが。――我々は、なんかとんでもない方向へ向かってるんですかね?」
「かもしれん。他人には理解できないだろうな。自分でもなんでこういう重大なことをあっさり決めているのか、よくわからないくらいだ」
 実際には、ジムは自分の気持ちがカーターに語ったこととは違う意味を持ち始めていることを自覚しつつあった。呼び出しがあった夕方、雨の音のするリビングのソファでロイにしたことは、自分でも抑えられないことだった。もちろん、それ以上にどうこうしようというつもりはなかったが、それでももし、あのまま一晩カーターもバークも戻らなかったら……。ロイが黙ってジムを受け入れるそぶりを見せていたなら……。
 絶対に行ってはいけないと承知の上で、ジムは自分が何をしたか分からない。ただ、こうして冷静に接している時、今のロイに直接的な欲望を抱いているというわけではないのだが。いずれにしても、もしも三人で暮らすことになったなら、なおのことこの真っ正直な男を裏切るわけにはいかないだろう。その場合、ジムの想いは永遠に封印されることになる。それでいい。
 ――俺は、ロイのお母さんになるんだ。それ以上の存在には、決して――。
 ジムは無意識に自分の拳を握りしめた。
「ママ、僕これにする」
 すぐそばで、五歳前後の子供が、おもちゃを手にとって母親に呼びかけた。
「サンタさんにお願いしなさい」
 母親の声に、子供は「サンタはパパでしょ?」と、ませた口調で言って、また新しいおもちゃに目を奪われて駆けだしていった。
 ジムは、そのやりとりを見ながら言った。
「年をとっても、あの人はかわいいままなのかな」
「……子どもみたいなじいさんと、でっかいじいさんと、腰の曲がった私とで、公園で日向ぼっこでもするさ。こぢんまりとした老人ホームみたいなもんだな。案外、真相はそんなとこだ。俺は女性と暮らすより、老人ホームで男だけで暮らしたい」
 ジムはその発想がツボにはまったように、げらげらと笑いだした。
 すっかり子供のロイに慣れてしまい、ロイにとって、自分たちがいなくては生きていけないのだと思っていたのに、いつの間にか自分たちにとって、ロイがいなくては生きていけないような気すらしていた。
「私を育ててくれたばあさんがな、いつも言っていた。幸せは、みんなと同じ形でなくてもいい。人と違っていても、自分が幸せだと思える生き方をしなさいと」
 ジムは、黙って頷いた。
「おもしろいな。人生ってのは、思ってもみなかったほうに転んでいくことがあるんだな」
 カーターのことばにジムが突っ込んだ。
「ロイに唇にキスされたし?」
「おまえはどこにしたんだ? 結婚するって言わせるほどだ。おまえだって唇に……」
「してませんよ。キスなんか。俺のことはおおきいおかあさんだって、言ったんだから。子供はみんなパパやママと結婚したいもんです」
 ふうん、とカーターは疑わしそうな目をした。ジムはほんとですって、と念を押した。
「けどまあ、俺たちがその気でも、バーク大佐がうんと言わないかもしれない。自分が連れて帰る気満々ですからね」
「どうするかは、みんなで話し合おう。私たち、みんなすっかり染まってしまったな」
「でも、ロイはきっと俺たちを選ぶ」
 ジムがきっぱりと言った。「案外、大佐夫婦が一緒に住んでくれと泣きつくかもしれませんよ」
「すごい自信だな。――でも、私もそう思う」
 ふたりは目を合わせて、にやりと笑った。
 ジムがカーターを見下ろすようにして、両手を可憐に組んで見せた。
「じゃあ、ウエディングドレスと指輪は、特注でお願いします。浮気は許さないわよ、ダーリン」
「誓うよ。浮気はしない」
「あたし、辞表を書くわ。遠征には行かないわよ。新年からは完全に主婦になるんだから」
 カーターは吹き出しながら、ジムの背中を思いっきり叩いた。そして真面目な顔に戻ると言った。
「受け取るよ、辞表。書くなら早いほうがいいだろう。有給もまだ余ってるはずだし、年明けには自由になるようにしておかないとな」

 車が庭に入ると、浜から駆け込んでくるドクが見えた。
 さすがに揃っての休暇明けで、バークも仕事をしているために、ドクがロイの面倒をみてくれていたのだ。
 いつも束ねている髪が振り乱れ、ドクは息を切らしている。
「ドク? どうしたんだ?」
「レスキューを……ロイが海にいる」
「なんだって……? 海って、海の中か?」 
 ジムはそのまま走り出した。電話をかけに来たはずのドクは、室内に駆け込んで毛布を掴んだ。あの連中がいれば、レスキューは必要ないだろうと判断して表に出ると、カーターが車庫からロープの束を掴んで出てきたところだった。ふたり同時に走り出す。
「散歩してて……犬が流されたのを見ると、ロイはいきなり海に入って。すぐそこにいたのに、犬はあっという間に波に押しやられて……」
「馬鹿なことを……。引き潮なんだ。見た目より、潮の流れは速い」
 カーターが息を切らしながら言った。広大な大西洋につながる浜は、広々としているが、遠浅ではない。すぐに足が届かなくなって、夏でも波が荒いのだ。
 真冬の海は、今白い波を高々と上げて、どんよりと鉛色の空を映していた。
 ジムは走りながらも海に目をやり、波のどのあたりにロイがいるのかを探した。だが、どこにも見えない。いくつものとんがった白いしぶきをまとった波が、あちこちに立ち上がって見渡せないのだ。
 ふきすさぶ風の中で、波間に足を太腿のあたりまで入れて、背を向けて沖を見つめている若い女性の姿が見えた。
「なにやってる! 危ないだろう? 戻ってこい!」
 ジムが叫ぶと、女性は泣き濡れた顔をこちらに向けた。
「お願い、彼を止めて。すっごく沖の方で消えてしまったの。シェリィのために彼がどうにかなったら私……」
 犬の飼い主らしい、とわかってジムは荒い波に入り込んだ。
 カーターも、ジムのあとを追って水に入りかけた。ほんの数十メートル先で、金色の頭が浮上した。
「ロイ!」
 ジムの叫びに、ロイは手を片方高々と上げて見せた。親指を立てている。「無事」を知らせる合図だ、とカーターは立ち止まった。
 ロイは方向を見極めるようにこちらを向き、おもむろに泳ぎだした。
 ジムはどんどん水に入り、ロイに合流すると並んで戻りだした。
 波打ち際でロープを片手に持ったままのカーターの前に、ふたりの長身の男が並んで立ち上がった。白い雫がぽたぽたと流れ落ち、ふたりは顔の水滴を拭いもせずに砂に向かって歩いてきた。
 カーターがよく知っている光景――。
 黒いウエットスーツを着込んで、銃を片手に持っているような錯覚さえ覚えた。
 銃の代わりに、大切そうにロイの片手に抱かれていた子犬は、びっしょり濡れて死んでいるように動かなかった。
 ロイの瞳が光っている――ように見えて、カーターは自分の目を擦った。
 小型の犬は、浜でジムが鼻から息を吹き込んでやると、目を開けて、一声吠えた。げんきんなもので、ぶるぶると震えて水滴を払うと、元気にしっぽを振りさえした。
 女性は浜に座り込んだまま犬を受け取ると、抱きしめてロイに「ありがとう」と、泣きながら礼を言った。
 ロイは微笑みを浮かべ、濡れた犬の被毛を撫でた。
 ――正気に戻ったのではないか? 
 誰もがそう思うほど、それは頼れる表情をした、ひとりの男に見えた。
「ロイ……」
「さむい。ジム」
 いつもの、無邪気なことばが紫色に変色した唇から発せられた。
「当たり前だ、さあ立って。帰るぞ」
 ジムが怒ったような声で毛布をかけてやり、ロイをうながした。
 カーターが、女性に一緒に来ませんか、と声をかけると、家は遠くないからともう一度礼を言って、歩き出した。
 ジムはロイの手を引っ張って、走り出した。
「先に行きますよ! まじで凍えそうだ」
 自分も半身濡れているものの、カーターはドクと一緒に歩きながら「びっくりしたよ」と呟いた。
「私が泳げないので……。素早くて止める暇もなかった。申し訳ない」
「無意識で動いたんだろうな、身体が。上がってきたときは“クリア(成功)”とでも言うかと思って、どきどきした。まるで任務をこなしてるような顔に見えたよ」
 前方を走っていたロイが砂に足をとられて転び、ジムがたまりかねたように肩に担ぎ上げ、別荘への斜面を登っていくのが見えた。

 ジムと一緒に湯船に浸かったロイは、傍らに座ったジムに、甘えるようにもたれかかっていた。カーターもシャワーブースに入ったが、さっきのロイの顔が忘れられず、黙ってお湯を浴びていた。
「いぬ、わんっていった」
「ありがとうって言ったんだろ。ロイに助けられたのを知ってるんだ」
 ジムが言うと、ロイは「およげた」と呟いた。
「うん?」
「ロイ、およげた」
「そうだな。大した泳ぎだったぞ。あんな荒れた海で。でも、この間ビリーとも泳いだんじゃなかったのか?」
「うみ、およげた……」
 カーターはふと、小島で死にかけた日、「泳げない」と呟いていたことを思い出した。絶望に取り憑かれたような声だったことが印象に残っている。次の日、泳げなくてごめんなさいと言ったことも。
「ジム、あたまがいたい」
「風邪がぶり返したんだよ。もう二度と、誰が溺れていても、俺たちがいないときに海に入るんじゃない。わかったな?」
 ジムの声は珍しく威圧的に低かった。
「……うん。ジムといっしょなら、およぐ?」
「暖かくなったらな。冷たい海に入る馬鹿はSEALSくらいのもんだ」
「でも、こいぬ、しんじゃう」
「仕方ないことだってあるんだ、ロイ。子犬と一緒にロイも死んでしまったかもしれないんだ。そしたら、俺やデインはもっと悲しいことになる。わかるか?」
 うん、とロイは俯き、ごめんなさいと小さな声で言った。
 ジムは本気で怒っているらしいな、とカーターは思った。子犬一匹のために、ロイが溺れたらと思うと、抑えられないのだろう。
 ジムが本当にロイを大事に思っているのが良くわかる。もう片時もそばから離れたくない気分なのは間違いない。
 今夜、おそらくジムは辞表を書くだろう。
 カーターは、いずれ昇進する。将校であるカーターには、ジムとは違う道が開けている。あと数年もすれば、現役を退いて作戦本部詰めになる可能性もある。希望すれば、もっと割のいい職務につくこともできるかもしれない。そうなった時には、SEALSを退いてしまってもかまわない。少なくとも、給料だって、ジムよりはましなはずだ。
 ジムだって、そういつまでも現場乗り込みでいられるわけではないが、まだまだチームにとってはこの男は要でもある。けれども、やはりどちらかがロイにくっついて面倒を見るならば、ジムの方が適任だろうと思う。
 ジムが言ったとおり、ロイのそばを一瞬たりとも離れるわけにはいかない。なにもできないからという理由とは違う意味で。
 なまじ歩けるようになって、身体が瞬間的に動いてしまうために、脳みその判断力がついていっていない。三歳児ならできないことが、ロイにはできるのだ。ちゃんとした大人なら、やらない判断ができないまま――。ふつうの人以上のことが。……それは身を滅ぼしかねない。
 今後もそういうことがままあるだろう。
 ドクのように、ロイについていけない人間ではだめなのだ。現役をすでに退いて久しいバークでも、か弱いサマンサでもだめだ。
 ロイと同じスキルを持った、力のある、判断力のある人間が必要だ。
「いたい、いたい」
 カーターは、はっと思考から覚めた。
「どうした?」
 バスタオルをとって、シャワーブースから顔を出すと、ジムがロイを抱きしめて戸惑った顔をこちらへ向けた。
「頭が割れるように痛むらしくて……」
 いたい、いたい、とロイはジムにしがみついて泣いていた。

「熱があるわけでもないし、喉も腫れていない。ずっと頭痛が続いているのは……他に原因があるのかもしれませんね」
 ドクが帰り支度をしながら言った。
「他に原因って?」
 カーターが聞くと、ドクは寝室の戸口に手をついた。
「鎮痛剤が効かない部分みたいですからね。記憶を失った人間が、頭痛を訴えることはたまにあるようですから、それなのかも」
「でも、これまであれほど痛がることはなかったのに」
「割れるほどの痛みは一過性だと思います。すぐにけろりと治まったりしてるんですから。でも、あまり痛がるならまた、精密検査をしないといけないでしょうが……今夜は様子を見ていてください。なにかあったら、すぐに連絡を」
 ジムが心配そうに、ロイのそばに座って、俯せた背中をさすっていた。ドクの言うとおり、さっきほどの痛みは退いたらしく、今は黙って枕に顔を埋めていた。
 ドクがドイツ車独特の音を響かせてBMWを発進させると、入れ替わりにバークが帰ってきた気配がした。リビングに誰もいないのだから、まっすぐに寝室にやってくるだろう。
 海での出来事を話せば、バークは烈火のごとく怒るだろうな、とカーターは思いながら「おかえりなさい」と微笑みかけた。 


「……まあ、ロイ。どうして……あなたがこんな……」
 寝室のドア口に立ったバークの後ろから華やかな声がしたと思ったら、小さな女性が現れた。
 サマンサだ。カーターは、ちょっと眉がひそまった自分に気づいた。この女性が嫌いなわけではもちろんないが、なぜだか、愉快な気分ではないことを自覚した。
「すまん。クリスマスパーティーまで待てないと、ごねてしまってね」
 当たり前です、とサマンサは三人の前に進み出ると、ベッドに寝かせられていたロイのそばまで歩み寄った。「ずっと秘密にしていただけで、離婚ものよ、ロバート」
「サム!」
 ロイは驚いたように口を開け、サマンサに抱きついた。
 連れてこられる道すがらに、バークからあらましを聞かされてでもいたのか、サマンサは動じることなくロイを抱きしめた。
「サム、おかあさん、いっしょ?」
「いいえ。ロイ。ごめんなさい。私だけなの」
「あいたかった。サム」
「ええ、私もよ、ロイ……」
 サマンサは涙声になり、自分よりも大きな身体を胸に埋めるようにしているロイの金色の頭を撫でた。
 バークにうながされて、ジムもカーターもリビングへ出た。
 はしゃいだような、ロイの笑い声が聞こえ、カーターはふっと足を止めた。振り返ると、サマンサとロイは見つめ合うかのように、額をくっつけ合って、なにごとか小声で話をしているところだった。
 ――女性でもあり、おかあさんらしい匂いをさせたサマンサに、カーターは僅かに嫉妬した。最初から、勤務を休む回数が減るように、サマンサを組み込んでロイの面度を見る係をさせることをバークは主張していた。だが、カーターは反対した。その場限りかもしれないロイの混乱を見せる相手は少ないほうがいいとの判断だったつもりだが、実際のところ、その提案が気に入らなかった。会わせたくないと、カーターは思っていたのだ。今、はっきりとそれに気づいた気がした。
 彼女が来れば、ロイはまっすぐにもっとも母親に近いサマンサに懐いてしまうに違いないと、どこかで恐れていたのかもしれない。だからこそ、彼女の姿をさっき見たとき、心なしか浮かない気分になったのかもしれない。
 サマンサは、それほど会った回数があるわけではないが、清楚で穏やかで、聡明な女性だ。隊員たちからも慕われている。
 良い具合に年を重ねた姿は魅力的であり、ロイに愛情を持っている。
 ロイもまた、これまで忘れていた存在に気づくのではないか――。無骨な男の手ではなく、甘い香りの母性の存在に――。
「まあ、いずれあいつに面倒を見させることになるんだ。悠長なことを言ってる場合でもないかと思ってな、連れてきた」
 バークは、長いすに寝そべるように足を伸ばし、ジムが淹れてきた珈琲に口をつけた。
「そのことに関しては、ちょっとお話があるんですが」
 カーターが、生真面目な瞳を向けると、バークは怪訝な顔をした。ジムもいつになく、真摯な表情を浮かべている。
「なんだ?」
「なんというか……。ロイを奥様だけで面倒を見るのは……無理なんじゃないかと」
「無理なことはないだろう? 以前のように歩けないわけでもないし、あの子は大人しいし、賢い。私が留守でも、ふたりで仲良く暮らせるのではないかな?」
 それが……と、カーターが言いよどむと、ジムがあとを続けた。
「今日、ロイは海難救助をしたんですよ、大佐」
 海難救助? と、意味がわからずバークは聞き返したが、その模様を聞かされると、渋い顔をした。
「ロイのしたことは間違いではない。倫理的にはね。でも、間違いでないだけに、咄嗟に行動することが今後もあるかもしれません。ドクはただの散歩をしていただけだった。場所が海でなくとも、サマンサがロイを止めることができないことが、今後も起こるかもしれない。あの鍛えられた部分が不意に現れれば、奥様だって危険に巻き込まれる可能性があると思います」
「君たちは、なにを考えている?」
 さすがに指揮官らしい勘の良さで、バークが鋭い瞳を向けた。
 カーターは言いよどんで唇を舌で湿らせた。自分たちが彼女やパークの代わりになるなどと言えば、どうなるのだろうか、とこれまでの気楽な気分が萎みかけてもいた。ロイだって、今すぐにでもサマンサと行く、と言うかもしれない。
 そんなカーターの逡巡を感じたのか、ジムが口を開きかけたとき、ロイの声がした。
 泣いているらしいと、ジムは慌てて寝室を覗いた。
 サマンサに抱きしめられたまま、ロイは泣きじゃくっていた。
「私と一緒に暮らしたくはないの?」
 どうやら、サムが自分のもとへ来てくれるかどうかを確認したらしい。
「ロイは……ロイは……」
 本心を言うことを躊躇っているのか、ロイは続きのことばを言えないまま、嗚咽だけを漏らしている。バークがサムの隣に腰かけて、波打っている背中を撫でた。
「ロイ、私たちと一緒に暮らそう。サムと一緒に毎日遊んで、楽しく暮らすんだ。仕事がないときは私もいるし、ジムやデインも遊びに来てくれる。そうしよう、ロイ」 
 ジムとカーターは顔を見あわせた。だが、口を挟むことは差し控えた。
 ロイが今の状況でどう答えるのか、知りたいと思ったからだ。
「……ロイ、ここにいる」
「ああ、住むのはここでもいい。サムと私がお引っ越しをしてくればいいんだ。どうかな? ロイ、君は私たちの息子になるのはいやかな?」
 嗚咽がやんで、ロイは息を詰めているように見えた。
 ジムは、一番下の弟がひどく心優しくて、まだ幼児の頃、パパとママとどっちが好きかと両親が戯れ事で聞いたとき、絶対に答えなかったことを思い出した。妹たちは案外さっぱりと、パパとかママとか返事をしていたのに、三歳にもならない弟は、口をつぐんで頑としてどちらとも言わなかったのだ。
 少し大きくなってから、その時のことを聞いたジムに、弟は笑って答えた。
「覚えてないけど、きっとどっちって言ったら、どっちかが悲しいだろうなと思うと、どうしても言えなかったんだと思う」
 ロイは今、それと同じ心境なのだろう。
 本当の幼児の頃からかわいがってくれたはずの、サマンサとロバート夫婦は、もちろん好きなのに違いない。だが、今現在、当時はいなかったはずのジムとカーターがいる。
 おそらく、小さなジムの弟と同じような葛藤をしているのだろう。そっくりな逡巡が伝わってくる気がした。
 ロイは微かに顔を上げ、なにかを探すように瞳を動かすと、戸口に突っ立ったままのジムとカーターのほうを見た。その瞳に、ふうっと新たな熱い涙が盛りあがる。サマンサはその視線を追うように、ふたりに目を移した。
「ロイ、どうなんだ?」
 バークがたまりかねたようにうながした。
 やめて、というようにサマンサは夫を制し、「そんなに追い詰めないで」と微笑んだ。
「ロイ、まだ時間はあるわ。じっくり考えましょう。そうね、クリスマスまでに誰と暮らしたいのか、あなたが決めるの。ね? それでいい?」
 ロイは頷き、項垂れて手の甲で涙を拭った。
「ロイ、わがまま。ごめんなさい」
「我が儘じゃないわ」
「こんなふうにないたらいけない。サムやロブおじさんのいうとおりにしなきゃいけない」
 サマンサは驚いたように、ロイの瞳を見据えた。
「まあ、どうして? あなたは誰の言うとおりにする必要もないのよ。気を使う必要はないの。自分の本当の気持ちを言ってくれさえすればいいの」
「おかあさん、いないときおじさんやおばさんや、サムのいうこときかないといけない」
 そうじゃないわ、とサマンサは繰り返した。
「いいのよ、ロイ。もうおかあさんは、そんなふうには言わないわ。あなたがしたいようになさい、って言うはずだから」
「おかあさん、ロイをゆるす?」
「もちろんよ、ロイ。おかあさんはあなたを許すためにあなたを生んだんだから。いつだって、あなただけを愛しているのよ」
「おかあさん、ロイをあいしている?」
 質問口調でありながら、ロイは自らを否定するように首を振っていた。母親はロイを愛していないのだろうか? とふとジムは思った。
「ジュリアはいつもあなたの話しばかりするわ。マイクだってそうだったのよ、ロイ。分かっているでしょう?」
 ロイは、黙って俯いたままだ。 
 サマンサは、立ち上がってそばに脱ぎ捨てていたコートを羽織った。
「じゃあ、私は帰るわ。今夜はこれ以上、ロイにこの話はしないであげて」
 いいわねロバート、と、夫に釘を刺して、サマンサは寝室を出た。

 カーターとジムは、バークとロイを寝室に置いたまま、黙ってサマンサについて玄関へ行った。
 車に乗り込みかけて、サマンサがジムを見上げた。
「……どうするか、決めてるんでしょう? あなたたちは」
 ジムはきっぱりと頷いた。
「そして、ロイもそれを望んでいるのよね?」
 サマンサは、妙にしゃちこばった顔をしているカーターに目を移し、それからうっすらと微笑んだ。
「わかってないのは夫だけなのね。忙しいあなたたちが、そう決めたということは、本気なのね? どちらかがずっとついていてあげられるのね?」
「俺たちは、ロイのおかあさんとおとうさんになりたいんです」
 そうね、とサムは頷いた。
「あなたたちと、ロイの望みが同じなら……。私の出る幕はないわね」
 まだエンジンが冷めないままの車に乗り込み、キーを回すと、低い唸りが響いた。
 サマンサはドアを閉め、思い直したようにウインドウが静かに下りた。
「ねえ、もしもあの子がああなった最初から私がそばにいたら、私を選んでくれていたと思う?」
 もちろんです、とカーターが微笑んだ。
「誰よりあなたに懐いてしまったんじゃないかな。やっぱりおかあさんに一番近いのは、あなただと思う」
 カーターのことばに、ジムも隣で頷いた。
「私は物わかりのいいふりなんて、したくはない。ロイを愛しているわ。できればあの子――おかしいわね、あの子なんて。あんなに素敵な男性に対して。でも、寂しいくらい、愛らしいロイを見たら……一緒に暮らしたい……」
 サマンサの声が涙に揺れた。
 ジムは女性の涙に弱い。こうなると、口を挟むこともできずに、固まったように車のそばにそびえ立っている。
 代わりにカーターが窓に手をついた。
「サマンサ、ロイが結果的に誰と暮らすことになっても、いつでもお互いに会えるようにしましょう。誰も寂しい思いをしなくてすむように」
 そうね、とハンケチで涙を拭くと、サマンサはカーターの手に手を乗せた。それは、カーターが胸をつかれるほど、小さく華奢な、なのに柔らかくて温かい手だった。
「忙しかったの。叔母が倒れて……。そうでなかったら、きっとロバートは私を呼んでくれていた。そしたらロイはきっと――でも、運命なんて、そんなものよね」
「ロイは、返事ができないほど、ほんとはみんなといたいんです。みんなが好きなんだ」
「……そうね。きっとそうなのね」
 サマンサは寂しげに微笑み、窓を閉め、そのまま車を発進させた。
「……負けていたかもしれないな、彼女が最初からいたら」
 ジムが、小さくなっていくテールランプを見つめながら呟いた。
 そうだな、とカーターも車を見送った。
「ほんとうは、彼女に任せるのが一番いいのかもしれない、とはわかっているんだがな」
 分かってはいる。
 仕事を辞めることもなく、会いたいときに会いにいけばいい。今なら、五人で一緒に暮らしたらどうかという提案も、そう難しくはないのかもしれない。なんだったら明日にでも、それをバークに提案してみてもいいだろう。
「それに、考えたら、彼には本当の母親もいるんだ。たとえ彼女が面倒を見られないとしても、ロイの叔父って人に許可を得る必要がある。子猫を預かるって具合にはいかないからな」
 だが、ジムはカーターの手をそっと握ってきた。
「少佐、頼りにしてますよ。俺はもう、迷わない。誰がなんと言っても、俺はロイのそばから離れない」
 カーターも、その無骨な大きな手を、ぎゅっと握り返した。


 バークと共に眠っていたはずのロイが、起き出してリビングへ現れたのは、深夜もだいぶ回ってからだった。
 カーターとふたりでバーボンを飲んでいたジムは、驚いて手招きをした。
「どうした? 眠れなかったのか? また頭が痛むのか?」
 ロイはそばまで来ると、手を引かれるままにジムのいるソファに座った。カーターは向かいのひとり掛けソファから、黙ってロイを見つめている。
「ちいさいおねえちゃん、いた」
 ジムは意味が分からずに、誰のことだ? と問いかけた。子犬の飼い主かとも思ったが、彼女は“小さいおねえちゃん”というのには当てはまらない気がしたのだ。
「ビリーと……。あるいてたとき。ちいさいおねえちゃん、ロイになかないでっていった……。ロイは、おおきかった」
「その子がどうかしたのか?」
「ロイ、おおきいの……どうして? ロイは……おとな…だから?」
「そうさ」
 ジムは微笑んだ。
「ロイは大人なんだ。そう言ってるだろう? 大人で、海軍の将校で、俺たちSEALSの副隊長だ」
 ロイは思い詰めたように黙っている。やがて、小さく唇を開くと、ぽつんと呟いた。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
「ロイ、ジムとデインといたい……お、おとな…だけど……ロイはひとりでいられない」
「うん。俺たちも同じ気持ちだ」
「……でも、おしごといく、ジム。だからロイは……」
「行かない。もう仕事は辞めるよ、ロイ。デインが俺たちを養ってくれるんだ。いいだろう? 分かるか? ロイ、これからは、デインがおとうさんだ」
 カーターが、仕方ないな、と笑った。
「君のお菓子やおもちゃで、俺の給料は飛んでいくな」
「おかしも、おもちゃもいらない、ロイ」
 ジムは思い詰めたように返事をするロイを抱き寄せ、自分の胸に顔を押しつけた。
「ロイをゆるす? ジム」
 ――おかあさん、ロイをゆるす? とサマンサに聞いていた、その本当の意味はわからない。ロイはいつも母親に許されないと思ってでもいたのだろうか? それはいったいなんに対してなのか、ジムには見当もつかなかった。小さな子供に有り得ない気の使い方は、今だけでなく、本当に幼少の頃から培われたものであると伺い知れるだけに、ジムの胸は痛んだ。
「当たり前だろう? 俺はロイを許すためにそばにいるんだ」
 わからないままに、ジムは返事をした。許すという意外に、なにを言えばいいのかもわからなかった。
「デインも?」
 カーターは、ふたりの座るソファのそばまで来て、ロイの前に身をかがめて頭にキスをした。
「君を許さない人間なんか、いないよ。君はみんなに愛されているんだから」
「おとうさんも、おかあさんも?」
「そうだよ。君はそのままでいいんだ。ちゃんとひとりで歩けるし、子犬だって救えるくらい強い」
「ジム、だめって」
「そう。君のことが心配なんだ。ジムもデインも、君がいなくなったら、生きていけない。だから危ないことはしてはいけない――けど、これからはそんな時、ジムが止めてくれる。ジムが一緒に子犬を救ってやれる。ロイを守ってくれるんだ。ずっと一緒にいるんだから」
「ずっと?」
「ずっとだよ。うんと我が儘を言って、うんと泣いて、うんと甘えていいんだ、ロイ。君は君であることが素晴らしいんだ。ジムもデインも、そんなロイが好きだな」
 ロイは、ぼろりと涙を零した。
「ロイが……よわむし……でも?」
「弱虫でも、泣き虫でもいいんだよ、ロイ。君が元気で生きてくれるのがなにより大切なことなんだ」
 カーターが笑って、頭を撫でると、ジムが自分のシャツの裾でロイの頬を拭った。
「いきていて、いい? ジムやデインといっしょに?」
 その言葉は、たどたどしくはあったが、幼児の発想ではない。この言葉は、あるいはロイの潜在意識のどこかに潜み、本来のロイが思っていることなのではないかと、ジムもカーターも思った。
“生きていていいのか? 俺は――。こうなった今になっても?”
 表面には現れないロイが、必死に二人に本音を見せた、そんな気がした。カーターはうなずき、ロイの肩に手を当てた。
 一緒に生きよう、ということばが不覚にも涙に掠れた。ジムは、カーターの頬も、自分のシャツで拭った。
「べんりなシャツ……ジム」
 ロイがべそをかきながらも、笑った。
「いつかもあんたは、俺にそう言ったな」
 ジムは自分の涙は拭わないまま、大声で笑った。

 ロイは知っている。
 母親であるジュリア・フォードが、本当は誰を愛していたのか。
 危険な仕事をしている男を捨て、マイクにすがったジュリアの心の中に、いつまでも生き続けていた男――。
 テレンス・ランド。ロイにうり二つの――。そして、母は時々ロイを「テリー」と呼んだ。
 自分はなんだったのか、母にとって、父にとって、あるいはテリーにとって。
 それはロイの心の中に澱のように沈殿し、混濁した迷路のようにロイの中に生き続けた。
 ロイにその自覚はなかったものの、意識のどこかに、ずっと疑問符を伴ったまま沈んでいたのかもしれなかった。
 もちろん、そんな過去の細かな状況など、ジムもカーターも知るはずもなく、当のロイでさえ、――例え意識がすっかり大人のロイであっても、気づかない程度のものではあったのだろうが。
 「許す」という言葉の中に、ロイへの何かが反応する意味があったのかどうか、それは答えたジムにすら分からなかった。もちろん、サマンサにも。

 翌日――。
 その日、朝から激しい雪が降り続けていた。
 ベッドにロイがいないと、バークが起きるなり二階に駆け上がり、ほかの二人を叩き起こした。夕べジムたちと話しをしたあと、また頭痛が始まって苦しんでいたはずなのに、どこへ行ったんだ、と大騒ぎになった。
 全員がパジャマのまま、あわててリビングに下り、玄関の鍵がかかっていることを確かめると、バスルームのドアを開けた。
 ロイが制服を着込んで鏡の前でネクタイを締めているのを、起きてきた面々は驚いたように見た。ジムが毎晩アイロンをかけ、壁にかけておいたおかげで、ロイの姿はぱりっとしていた。
「……なにしてるんだ?」
 ジムが額に手を当てながら尋ねると、ロイは戸惑ったように全員の姿を眺めた。不安そうな、どうしたらいいのか分からないような、困った顔をしていた。
「似合ってる。やっぱり君はその姿が一番いいな」
 カーターが微笑んだ。「今日はその姿で一日過ごすか?」
 そう言って、ほっとしたようなバークと共に、バスルームを出て行った。
「すぐ朝飯にする。上着くらいは脱いでおかないと、汚したらいけない」
 ジムが上着を脱がそうとすると、ロイは素直に腕を抜いた。
「……どうして?」
 ロイの言葉に、ジムがドアを出て行きながら答えた。
「どうしてって、食べてるとき溢したりして、染みになったら困るだろ? さあ、こっちに来て椅子に座ってろよ。卵は何にする? やっぱりオムレツか?」
 ロイがついてこないので、ジムは不思議そうに振り返った。
「……ジム。何してる?」
「なに……って…上着をかけに行くんだよ」
 戸惑ったような顔で聞くロイに、顔は洗ったのか? と頬を押さえ、前髪をちょっと整えた。「熱は引いたみたいだな」
 カーターが顔を洗いに戻ってきた。
「さて、今日は休みだしロイ、外を見てみろよ。雪が降ってるぞ。スノウマンでも作るか? ああジム、サンドイッチの中身はターキーにしてくれ。ロイはジャムの方がいいかな?」
「ジャム……」
 ロイが呟くと、カーターは赤いのの莓のジャムな、と笑った。
「外へ出るのはいくらなんでも、まだまずいですよ。今日は一日静かにすごしましょう」
 ジムが言うと、カーターは素直に頷いた。
「そうだな。それにその制服はまずい。それを着たいなら室内でゲームでもするか」
 ロイは自分の姿を見下ろし、ジムを見た。
「……制服、まずい?」
「いや、いいさ。それを着てろよ。でもシャツだけだと寒いからカーディガンをもってきてやる。頭は痛くないのか?」
 痛くないというロイを出し、カーターを残して寝室へ行くと、ジムはカーディガンを持って戻ってきた。
 バークは入ってきたロイに、おはよう、とにこやかに声をかけた。ジムはカーディガンをかけてやると、キッチンへ入っていった。
「ジュースでも飲むか? ロイ」
 質問の意味が捉えられないように、ロイは黙って立っている。
 座りなさい、と言っても立ったままのロイに、バークは眉を上げ、新聞を読み出した。
「ロイ、こっちへ来いよ」
 ジムの声に、ロイは素直に呼ばれるまま、キッチンへ入っていった。
「フライパン、任せるからこないだみたいに卵を返せ」
 ぽん、とロイは器用に卵を跳ねさせた。形のいい、綺麗な卵がフライパンから皿に手早く移される。
「……やっぱり、うまいな」
 ジムが感心したように、新たなオムレツの具をフライパンに流し込む。その手に、ケチャップを握らせて、ジムは今度は自分で卵を掻き混ぜはじめた。
「……ジム。みんななんでここに……」
「何って、これから朝食……」
 ジムはやっと、ロイの表情に気づいた。
 ひどく困惑しているものの、それは子供の顔ではないように思えた。
 カーターが暢気そうな顔で、キッチンのカウンターを覗いた。
「私もケチャップで名前、書きたいな。おお、今日のオムレツも綺麗だな、ロイが作ったのか?」
 あくびをしながら言うカーターの顔に、ジムが目配せをした。
「……なんだ? 綴りなら……D、A……」
 キッチンから、靴音をさせて、ロイが背筋を伸ばして出てきた。
「カーター少佐。……なぜここにいるのか、俺には理解できていません。申し訳ありませんが、ご説明をいただけますか?」

 カーターが顔を上げ、ロイの顔を凝視した。
「……壁にかかっていたからつい、制服を着てしまったけど、考えたら俺は辞表を……。いや、結局大佐には……そもそもここはどこなんです?」
 自分が何をしていたか分からなくなったのか、ロイは俯いて考え込んでしまった。
 バークが驚いたような顔で、テーブルに手をついて、腰を浮かせていた。
 カーターとジムに促されて、とりあえずテーブルに座らされたロイは、この部屋がどこなのか、なぜバークまでがここにいるのか理解できず、戸惑っていた。
 バークは目をまんまるにして、昨日までと、まるで違う様子のロイを見つめていた。
「ロイ、ここはバーク大佐の別荘だよ」と、カーターが言うと、不思議そうな顔をして全員の顔を眺めた。
「……大佐の別荘?」
「そうだ。俺たちは今、ある問題を解決するために、ここに泊り込んでいる」
 カーターがしかつめらしく言った。
「……俺は…すいません。一緒に何かしていたのでしょうか? 何も覚えていない…。すっかりおかしくなってしまったのかもしれない……」
 ロイが青ざめた顔で、全員を見回しながら言った。
「いいんだ。少し疲れてたんで……君は、…君はずっと眠っていた」
 バークが安心させるように言った。「どこまで覚えている?」
「……辞職届けを書いて…。父の思い出の島を見にいこうと…。それから……」
 いくら考えてもそれ以上思いつかないことに、呆然としている顔を見て、ジムが言った。
「そこで気を失ってたんだ。浜でな」
 ロイが顔を上げた。
「一ヶ月以上寝てたよ。ずっとずっと、眠ってた」
「眠って……。そんなに?」
「ああ、あんたは病気だったんだ」
「病気……。じゃあ、頭がおかしくなってたのか?」
 ロイが唇を噛んだ。
「いや、そうじゃない」
 ジムが慌てて言った。「身体だよ。栄養失調から、なんだか昏睡状態になって……。俺たちが隔離されてた間、あんた、酷く吐いたりしたんだろう?」
「そうそう。風邪も引いて熱も高かったし」
 バークが付け加えた。
「一時はどうなるかと思ったくらい、重病だったな。いや、気を揉んだよ」
 カーターが言って、言いすぎだとジムに抓られた。
「……気分はどうだ?」
 カーターが咳払いをしながら聞くと、ロイははにかんだように微笑んだ。
「なんだか……。すっきりしています。仕事に行こうと思うほど……」
 ロイの言葉に全員が笑った。
「そうか。それは良かった」
 バークが安心したような声を出すと、ロイがはっと顔を上げた。
「では、俺のために、みんなここに……」
「いや、そうじゃない。君はずっと病院で寝てたし、そろそろ目覚めるからと、つい昨日引き取ったばかりだ。いや、医者ってのは偉いもんだ」
 バークが夕べ食べすぎたチキンの油が効いているのか、ぺらぺらと嘘を並べるのに、カーターもジムも呆れた。
 もうこういう日は来ないと、最近はすっかり思っていたために、正気に返ったらどう口裏を合わせるかなど、まったく話していなかったのだ。
 子供になってしまったから、みんなで抱えて回ったなどと知れれば、ロイはとても居られないだろう。
 そういう意味で、バークの機転は効果があったし、カーターやジムが言うよりも、立場上、説得力はあった。
「今回は単なる合宿なんだ。たまにはコミュニケーションをとろうと、連日飲んでな」
 やっぱりカーターは嘘が下手だ、というように、ジムが横目で咎めるような目を向けた。
「……そうか。目が覚めたか…」
 なぜか残念そうな響きをこめて、バークが呟き、ロイの肩に手をかけた。「良かった。良かったよ、ロイ」
「……申し訳ありませんでした。大佐。すっかりご迷惑をかけたようですね。少佐にもジムにも…何と言っていいのか……」
 ロイの言葉に、バークは首を振った。
「いや……、私は迷惑など…。私をロブおじさんと呼んではくれなくなったんだな」
「……大佐?」
 怪訝な表情のロイを見て、カーターがつま先でつつくと、バークはあわてて付け足した。
「寝言でそう言ってくれたのが、嬉しくてな。何度も何度もそう呼んでくれたんだよ。子供のころの夢でも見てたのかな?」
 カーターとジムがひやひやして、バークを見つめた。チキンの油が、余計なことまで言わせそうで、口を塞いでやろうかと、ふたりは目配せした。
 ロイは微笑み、立ち上がってバークを抱きしめた。
「あなたはいつでも、ロブおじさんだと思っています」
 ジムとカーターは、顔を見合わせ、同時にほっと息をついた。


 龍太郎は、ただ驚いていた。
 すっかり大人に戻ったロイは、落ち着いて龍太郎の問診に答えている。
 まだ、ところどころあやふやで、不安そうな表情を浮かべることはあるものの、目の前の男は、確かにロイ・フォードだった。
「俺は、ひと月以上も、本当に眠っていたのでしょうか?」
 龍太郎は、頷くしかなかった。痩せて筋肉の落ちた身体を見て、自分でもそう信じているようすのロイに、嘘をつくのは忍びなかったが、だからといって事実を隠したがる他の友人たちの意向を、台無しにするのも躊躇われたのだ。
「焦らず、じっくり体力を取り戻しなさい」
 龍太郎の言葉に、ロイはきっぱりとした表情で言った。
「……間もなく、三ヶ月の遠征が始まります。それに行こうと思っているんです」
「それは無理だというしかない。今無茶をしたら、またどうなるか……」
 医者らしい、大事をとった意見だが、あながち間違っているわけではない。
 最近ではジムたちと、子犬のように転がり回って遊んでいたとはいえ、基礎体力回復までにはとても至っていないはずだ、と龍太郎だって知っている。
「いきなり、訓練に戻るのは無理のはずだ。体力を試してみたかい?」
「腕立て伏せもできませんでした。ほんの数えるほどしか」
 彼らの腕立て伏せは、地面ぎりぎりまで身体を下げる。あるいは、片手で、あるいは指だけで同じように行うのだ。百回できますと言われたら驚くが、数回と言われて頷いた。
 この答えに龍太郎はその三ヶ月の間を、基地に残って自主トレをするよう、説得した。
「……ドク。身体だけなら、すぐに回復します。今なら、それができそうな気がするんです」
「悪夢など見ずに?」
「たぶん。分かりませんが。なんだか、ひどく安心している部分が、今の自分に感じられるんです」
 ――安心している部分、というのが、龍太郎には耳に響いた。
 なにか憑きものが落ちたようなロイの顔には、確かにそれが伺える。
 精神面さえ安定すれば、確かに体力などあとからついてはくる。それにカーターやジムが一緒なのだから、もう無茶はさせないはずだ。
 そして、得体の知れない足跡のことを考えた時、あのチームが隔離された五日間のことを思えば、ロイをジムやカーターのそばに置いておくほうがいいようにも思える。むしろ、この地をしばらく留守にするのが安心かもしれないと、龍太郎は思った。
「分かった。なにかあったら、必ず上官のカーター少佐に伝えると約束してくれるなら。あるいは、ジムに」
「お約束します。もう以前のような無理はしません」
 ロイは、丁寧に礼を言った。
 寝室から出ると、外には馴染みの面々が、しかつめらしい顔をして、てんでに座っていた。
 くすぐりあいっこをして、どたばたとここで暴れまわっていたのは、つい先日のことなのだ。
 それぞれが、ここしばらくの、自分でも信じられないに違いない行動など、とったこともないかのように、落ち着いてロイと会話を交わしている。
 あんな生活で、回復させるなど無理だろうと龍太郎は思っていた。
 医療的な働きかけなど、一切しなかったのだ。
 彼らが、新春明けて遠征に出かけたら、すぐにサマンサ宅を訪問して彼女を説得し、ロイの治療にとりかかろうとまで思っていたのだ。
 彼らはひたすら、ロイを甘やかした。
 いや、その中に、彼らなりの配慮はあったのだろうが、龍太郎にはただ、ロイをかくまっているだけの、甘い行動にしか思えなかった。
 だが、歩けなかったロイが歩き出したころから、口出しをしなくなった。そしてこうして、奇跡のようにロイは復活した。
 彼らは、ロイに刺さった硝子の破片を抜こうと言う龍太郎に反対した。抜いて僅かの血でさえ流させたくはないと。そして、抜かないまま、それを溶かしてしまうほどの熱を注いだ。
 愛という熱情を。
 破片は流れてロイの中に混じり、いつしか排斥されていったのかもしれない。
 絆、というものの強さを――、彼らが持つ愛情の深さというものを、龍太郎は思った。そして、人が生きていく上で、いかにそれが大きな意味を持つものなのかも。

「負けたな」
 お茶を淹れ、龍太郎に手招きをしながら和やかに歓談している、大人の男たちの間に、龍太郎は敬意を払いながらも、加わっていった。
 珈琲のカップを口につける、知性の煌めくロイの横顔が、龍太郎には無性に眩しく感じられた。


 クリスマスイブを一週間後にひかえた朝、全員がそろって別荘を出た。
 家へ帰る途中、ロイのジープを運転しながら、街を通って赤や緑の賑々しいクリスマスのデコレーションを見て、ジムはちょっと複雑な気分になった。
 先月、町を車で走りながら、カーターとふたりで、ロイに何のプレゼントをするか、クリスマスパーティーで何をして楽しませるか、などの話をしながらツリーを買って帰ったのが思い出された。
「本当にもう、クリスマスなんだな」
 助手席で広場のツリーを眺めながら、ロイが呟くように言った。失った一ヶ月半の記憶の空白が大きいせいか、まだぼんやりしているように見える。
 それでも、ジムは当然のように、別荘の続きとして、ロイと共に眠るために泊まりこんだ。ロイもなぜか、強く帰れとは言わず、お前がベッドを使うならいいよと言って、ロイはそばに置いたソファで眠った。
 ロイは毎日せっせとバランスを考えながら食事を作り、ジムと一緒に食事をした。
 ロイが食後にミルクに蜂蜜を入れて飲むのを見て、ジムが「甘くないのか?」と聞いたが、「甘い」と、顔をしかめながらも飲んだ。
「以前より胃が縮んだみたいで、いっぺんにたくさん食べられないんだ。蜂蜜もミルクも栄養があるから」
「前からそうして飲んでいたのか?」
「いや。なんとなく。前なら死んでも飲めなかった。俺はミルクも甘いのも嫌いなんだ」
「じゃあ、ミルクは飲んでなかった?」
「飲んでた。ほんとは苦手だけど、必要なものだ」
 ジムは微笑んだ。
「うん。蜂蜜入りミルクはいいぞ」
 ジムがなぜか嬉しそうに見ているのを、ロイは不思議な顔で見返した。


 クリスマスの前日の夜、たくさんの荷物を持ってロイの部屋へ行くと、ロイが目を丸くした。
「クリスマスツリーを飾ろう」と、ジムがいうと、ロイは呆れたように、その道具を点検し、「天使が三個、星が五個、サンタが一個」と数え始め、思わずジムは笑い出した。三十センチほどの、卓上用ツリーではあったが、それが部屋に現れただけでぐっとクリスマスの雰囲気が盛り上がった。
 あの別荘の大きなツリーは、結局バークが自宅に持って帰った。プレゼントの箱も開けないまま、一緒に持ち去った。
「あげればよかったのに」と、ジムが言うと、「でっかいヘリコプターだぞ」と言って、残念がった。今は自宅のベッドの横に置いてあり、サマンサがそれを寂しげに見ていると、語っていた。
 パーティーの話は中止した。
 子供でなくなったロイを囲んで、いつまでもあの時の気分のままで接していてはいけないと、話し合ったからだ。
 このときばかりは、みんなクリスマスパーティーの前にあの愛らしい子供がいなくなったことを、残念にすら思っているようだった。
 ジムが買ってきた小さな樅の木に、二人で天使や星をぶら下げて、赤い蝋燭に火をつけると、部屋の中が幻想の世界に見えた。
「……なんだか、綺麗だな。ツリーなんて久しぶりだ」
「大佐の別荘にあったろう?」
「ああ。すごく大きかったな。あれは、誰が飾ったんだ?」
 あんただよ――と、ジムは心の中で呟いた。
 ロイは、ツリーに一個だけかかっているリボンのかかった小さな箱を指でつついた。
「俺は昔、この中に何が入ってるんだろうと、剥いてしまったことがある」
「へえ……。で?」
「空っぽで、がっかりしてたら、母が“そこにはね、愛が詰まってたのよ”と教えてくれたな」
「……」
 ジムは、その「母」が自分のことではないだろうな、とどぎまぎした。
「愛は目に見えないから、空っぽに見えるんだって。――ロマンチックだな、女性は」
 久しぶりのワインに酔ったのか、ロイの頬が少しだけ上気して見えた。
 確かに、愛など形には見えない。
 現に、今、ジムの周りにはそれが立ちこめているのだ。
 このままキスして、全身で愛したい……、とジムは本気で思った。今夜その手順を辿る恋人たちが大勢いることだろう。
 けれども二人は恋人同士ではなかった。手を握って眠るのは、ドクがカウンセリングをするのと同じレベルのものだ。それだって、すでに眠りに入ってから、ロイが意識のない状態でしか行わない。
 ジムのキスを受け入れて、甘い吐息を返してくれたロイは、もうどこにもいないのだ。
 その夜、ベッドとソファに並んでいながら、ジムはまったく眠れなかった。なぜかロイも目を覚ましているらしく、その気配は感じながらも声がかけられなかった。
 ロイがなにかしゃべれば、その唇を塞いでしまいそうだった。
 悶々としたまま、これはこれで地獄だな、とジムは思いつつ、それでもいつしか心地よい眠りに入っていった。

 なんだか、幸せな夢を見て微笑みかけ、ジムは目を開けた。自分の唇の両端が上に引き上がっているのが感じられるほど、笑っていたらしい。
 すぐ隣に置いたロイのソファからは、穏やかな寝息が聞こえてきていた。
 いつのまにか伸ばされた手を、ジムは握っているのに気付いた。自分がそうしたのではなく、ロイの方から手が伸ばされている。
 ふたりをつないでいるのは、握り合った手だけなんだ、とジムはさらにその上にもう一つの手を重ね、じっと寝顔を見つめていた。
部屋の温度が冷えていた。
 ジムはロイの上掛けを肩まで丁寧にかけ、思わずそっと唇に唇を重ねた。
 ぽかっと、ロイの瞼が開き、青緑色の瞳がまっすぐにジムを見ていた。
「……ロ、ロイ」
「ジム、すき……」
 あどけない口調で、呟かれた言葉が消える瞬間に、ロイは瞳を閉じた。
「寝、寝言か?」
 まさか、また子供に戻ったのではと、慌てて軽く揺すってみた。
「……なんだ? ジム……もう朝なのか?」
 今度は紛れもない、大人の声だった。
「いや、すまん。なんでもない」
 ロイはまた寝息を立てていた。
 ――ジム、すき……。
「俺も好きだよ、ロイ……」
 ジムは、半泣きのような表情を浮かべて、呟いた。





硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評