[復活への誓い] of [硝子の破片]


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第九章 復活への誓い

 海軍上層部の元に、精神科の医師から、ロイ・フォードの精神的外傷には特に問題になる点はない、との報告が出された。
 要療養期間の申請がなされただけで、医師たちの意見は一致したようだった。
 ロイ・フィッツジェラルド・フォードという男性患者は、本日限りで退院する。

 病院の玄関口で、担当の若い医師は微笑んでロイの手を握り、「頑張ってくださいね」と、退院の言葉を送った。
 ハルトマンまでが、わざわざオフィスから奥まった精神科病棟までやってきて、ロイに祝いの言葉をかけてくれた。
「思ったよりも、うんと早かったですね。貴方は私が考えているよりも、ずっと強い方なんでしょう」
「有り難うございます。ドクターやみなさんのおかげです」
 ロイは、後ろで自動ドアが開くのを感じた。
「でももしも、なにかあったらすぐに私のところへ来るように。これまでと違う、と感じることがあったら、いつでも相談にのります」
 礼を言って、握手をしながらも、ロイは二度と来ません、と心の中で呟いた。
 敷居を跨いで、外の敷石に出る。
 まばゆいばかりの陽射しは、病院の中庭とはまったく違う新鮮な空気すら漂わせているようだった。
 ロイは、タクシーを断り、バスに乗り、それを下りてからは晴れた空を眺めながら自宅までの道のりを歩いた。
 脱走経路を抜けることなく、正面玄関から出られたことが嬉しかった。
 ノーフォークは美しい緑の多い街だ。
 鳥のさえずりが響き渡り、冬がすっかり終わっていることを、ロイに教えているようだった。
 クリスマスが終わってすぐに出動となった、あの寒い日、道路には小雪が走っていた。
 ずいぶん長いこと、病院のベッドで過ごしたことが改めて思われた。
 空高く舞う雲雀の声に、ロイは思わず空を見上げた。
「雲雀が鳴いているよ」と指をさして教えてくれた、ロイの父親の亡き姿が思い浮かび、こうやって空など眺めることが、ほとんどなくなっていたことに気がついた。
 不意に一筋涙が頬を伝い、ロイは感傷的になっている自分に微笑んだ。
「おまえは、こんなことに負けるはずがないと思っていたよ」
 父ならばそう言うだろう。
 そして、ロイは負けずにこうして自由に街を歩いている。
 暖かい陽射しを浴びて、ロイは長い道のりをゆっくりと歩き、懐かしい我が家を目指した。


「うちにいらっしゃい」
 ロイのアパートを訪ねたバーク大佐婦人のサマンサは、ロイを抱きしめたあと、微笑みながら言った。
「まだしばらくは療養でしょ? ひとりで食事の準備だって大変なんだから」
「……本来なら、ジュリアが来てくれるか、君が家にもどるべき状況だよ」
 バークは、ロイの母親の名前を出し、ちょっと俯いた。「まあ、今はそれも頼めないから……。せめて暫くの間だけでも、うちにきてゆっくり休養をとったほうがいい」
 ロイの母親は、身体の調子を崩して、今は入院中なのだ。それは珍しいことでもなく、幼い頃から母は時々寝付いた。
 特に父親が亡くなったあと、ロイが十四、五歳くらいからは、不意に現実から逃避するかのように夢に這入り込み、鬱々とした時を挟むようになった。
 以来、入退院は繰り返されて来ていることだ。医者は毎回、特別にどこかに疾患があるわけでもない、療養代わりに入院をさせている程度だと安心させてはくれるものの、腺病質なのは確かだ。
 心の弱い母には、何も知らせてはいないと、彼女を見てくれている伯父が、見舞いに来た時に言っていた。その伯父からも、退院したら伯父の元に戻って来るように連絡を受けている。だが、いくら母の実兄でも、母子そろってやっかいになるわけにはいかない。
 それは、このバーク夫妻だって同じだ。
「お心遣い、感謝します。でも、サムは誤解している。俺は料理は嫌いじゃないほうなんですよ。ひとりで大丈夫です」
 ロイが微笑むと、サマンサはため息をついた。
「じゃあ、なにかあったらいつでも電話をちょうだい。私が飛んでくるから。約束して?」
 ロイは、サマンサの頬にキスをし、約束すると言った。

 夫と二人でアパートを出て車に乗ると、サマンサは不満そうに口を尖らせた。
「ほんとに日に日にマイクに似てくるわね、ロイは。強情で、なんでも自分で処理しようとするところなんか、マイクを見ているようだわ」
 バークはハンドルを握ったまま、妻の顔を見て笑った。
「俺の親友の悪口を言うなよ」
「悪口じゃないわ。でも、見た? あの痩せ細った身体。退院させるなんて、ドクターたちもどうかしてるわ。どうせなら、もう一、二ヶ月預かってくれればいいのに」
「ちゃんと回復していると判断されたんだ。ロイはもう一人前の男だ。息子のように思っていても、彼が私たちに心から甘えることなど、できんよ」
「男って馬鹿だわ」
「今度は男の悪口かい?」
 バークは妻の手を握った。「私たちに本当の息子がいたって、多分同じことをするよ。男ってのは、そういうもんだ」
 サマンサは首を振り、またため息をついた。
「どんなものか知らないけど、ほんとに馬鹿だわ」


 どたどたと走ってくる足音がして、玄関の呼び鈴が鳴らされた。
 ドアの向こうに大柄な影が現れ、半泣きの、嬉しそうな顔を見て、ロイは微笑んだ。
「よかった……! 退院したって聞いたから、基地から飛んで帰ってきたんだ」
 ジムはロイに抱きついて、顔をくしゃくしゃにした。
「一般病棟を出て、精神チェックを受けていると聞いて、心配しましたよ」
「……すまない。なんの問題もなかったんだが、必要なことだったらしくて。でも、我慢した甲斐があった。今日から自由だ」
「当然ですよ! あなたは俺の大尉なんだから」
 浮かれたような言葉に、ロイは苦笑した。
「俺の……大尉?」
「俺は大尉の曹長だ。いずれ、隊が二分化したら、絶対にあなたのチームに入れてもらうつもりですから。これは俺たちの憧れですよ。自分が上官のためにあると思えるほどの関係になりたい人は、そうは見つからない」
 それはもう、ないのではないかな、とロイは思いながらも否定はしなかった。大袈裟で、買いかぶった言い方だと気恥ずかしすら覚えたが、ジムの気持ちに今ここで水をさすこともない、と考えたからだ。
「いろいろ、世話になったな、ジム」
 改めてロイが言うと、ジムは照れたように真っ黒な短髪をかいた。
「とんでもない。俺は世話なんかしてませんよ。なあんにもね」
 ジムの部屋は、同じアパートの階段を上がってすぐの二階で、ロイの四階の突き当たりの部屋とは対極に位置していた。
 同じアパートに彼がいることが、ロイにとっては心強く、その夜は一緒に食事を楽しんだ。
 いつから訓練に戻るんです? というジムの言葉に、ロイは医師から最低でも一ヶ月は仕事へ出るなと申し渡されたことを告げた。
 本当は、訓練に参加しないなら一ヶ月、するつもりなら少なくともその倍は大人しく療養しろと言われていたのだが、それは自分で判断することだ。
 医者というのはおうおうにして、大事を取りたがるものであり、病気でもないのにそこまでしなくても大丈夫ではないかという、漠然とした自信のようなものもあった。
「そうだな。戻るとなれば、まず筋肉をつけなきゃ。一ヶ月でも足りないくらいだ」
 ジムの言葉にロイは頷き、「徐々にトレーニングを始める」と言った。
「ああ、それはいい。チームのみんなも待っています。でも無理はしないで。」
 ジムはビールを飲み、浮かれたように今のチームの様子を語った。それを聞いていると、ロイはなんとしても、早くチームに戻りたいと願っている自分を感じた。
 ジムが自ら作った料理を、もりもりと食べながら心配げな顔をした。
「そんなに残して……。まず食うことをしなきゃ」
 ジムよりも少なめに盛られていたサラダも、煮込んだ牛タンのスープも、ロイは半分ほども食べないまま皿に残していた。
「またあとで食べることにする。いっぺんに入らないんだ」
「……まあ、運動しなかったんだから当然だ。これから嫌でも腹が空きますよ」」
 少し戸惑ったような表情を無理に消すように、ジムが笑った。
「うん。俺もそう思う」
 ロイが微笑むと、ジムはほっとしたようにしていたが、「電話機、借りますよ」と言って寝室に勝手に入っていった。
「何をしているんだ?」
 ロイがドアから覗き込むと、ジムが立ち上がって戻ってきた。
「短縮1番に俺の番号を入れておきました。夜中でもいつでも、なにかあったら電話をかけてください」
 ロイはぽかんとし、それから笑い出した。
「……よく気がまわるな」
 ジムはちょっと照れたように、顔を赤らめた。
「あなたのことだ。心配はしてませんけど……。でも一応、俺のための気休めです」
「気休め?」
「……もし眠れないような夜があったりしたら……一緒に、夜通し話をしましょう。なにもなくても、たまには電話をくれたっていいでしょう? 目と鼻の先に住んでるんだから」
 ジムの言葉に、ロイはそうだな、と返事をしたが、実際にそんなことがあるとは考えていなかった。鼻先に住んでいるからこそ、電話など必要なはずもない。
 ジムが帰ったあと、電話機の短縮ボタンの横に『ホーナー』とシールが貼ってあるのを見て、ロイは微笑んだ。
 剥いでしまおうかとも思ったが、せっかくの好意を無下にするのもためらわれ、そのまま貼っておくことにした。


 ベッドに入ると、ロイは深呼吸をした。
 まず、スケジュールを立てなくてはならない。
 ノートを取り出して、運動のメニューを書き込んでいく。少し行ったところに市民のためのプールも開放されている。負担をかけずに身体に力を養うのはやはり水を利用するのが一番だ、とロイはプールの時間を多めに取った。
 枕元に、水を汲んだガラスのポットとグラスを置く。
 もう一度、腹式呼吸を繰り返し、長い息を吐くと、ロイは毛布に潜り込んだ。
 悪夢など見ない。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、ふと、電話のシールに目が行った。
『ホーナー』という不格好な文字で書かれたシールが、頼もしくすら見えた。
「かけることはないよ、ジム」
 ロイは電話機に囁くと、手を伸ばして枕元のスタンドをオフにした。

 トレーニング用品を買い込んで、ロイは黙々と体力づくりに集中した。
 最初は十回も出来なくなっていた腕立て伏せが、徐々に三十回、五十回とこなせるようになっていった。
それはロイに希望を与えた。
 ゆったりとした気分で食事を作り、一日の運動メニューをチェックする。
 昨日できたことには、今日は少し上乗せをしていくよう心掛けた。
 プールやランニングで持久力を回復させ、ジムに行って筋トレをしたりして、無駄なく一日を過ごすことを自らに課した。そういう自己管理は、ロイにとって苦ではない。小さな頃から、自らをこうして鍛えてきたのだ。

 ヴァージニアの、初夏のような日差しが、そろそろ垣間見える季節になってきている。
 ロイは賑やかなビーチ沿いの通りをぶらぶらと歩いた。
 片側に広がる長い海岸線がロイは好きだった。
 大西洋を臨む四十五キロ以上も続くはずの長い海岸線には、たくさんのリゾートホテルや土産物屋が並んでいる。
 夏にもなれば、浜は人であふれ、とりどりのカラフルなビーチパラソルが一面に開かれる。
 行楽に訪れるにはまだ早いせいか、人はそれほど多くはないが、早いスイマーたちが、すでに賑やかな声を上げて、波の飛沫を浴びていた。
 海に入りたいな、と思う。
 だが、まだ早い季節の海に入るのは、やめておいたほうがいいだろう。夕方の少し冷えた風にあたっても、すぐに微熱が甦るのだ。
 トレーニングがこなせる自分に安心もしていたが、油断するつもりはない。
 ロイはその景色を眺めるのが、日課のひとつになっていた。
 外へ散歩に出ると、基地から船舶が行き来しているのが遠目に見えるときがある。
 たまらなくなって、車を走らせ、SEALの訓練場をそっと覗くことにした。
 大きなリトルクリークの基地の、一番奥まった場所にあるこの基礎訓練場は、基地の中にあってさらに金網に囲まれている。競泳用や、潜水用プール設備のある建物も隣接している。
 だが、外の濃い緑の木々の草地なら、ジープごと乗り入れることは可能だった。もちろん、堂々と見学に入ってもかまわない立場ではあるが、今はまだ仲間に姿を見せたくはなかった。
 カーターやジムやビリー、ポール……。
 懐かしい顔ぶれが、たくましい身体を酷使して、訓練に励んでいる。金網越しに、車のボンネットに座って、ロイは黙ってそれを眺め続けた。
 帰りたい……と、心から思った。
 あそこへ帰りたい……。あの仲間のもとに。焦るような気持ちと、激しい孤独感に、ロイは思わず目を伏せた。
「……もうすぐだ」
 ロイは呟いた。「あとほんの少しで嫌でも帰れる……」
 ロイは何度もそう言い聞かせ、車のエンジンをかけると、走り出した。

 アパートの鍵を開けていると、ジムが階段を上ってくるのが分かった。 
 ジムは朝と晩、必ずロイの顔を見に来る。もともと世話好きだと思っていたが、これほどこまめに面倒を見ようとするのは、ひとつにはロイの悲惨な現場に立ち会ったからではないかと、ロイは思っていた。
 ジムの目の前で、辱められたことを思い出すと、そういう目で同情しているのかと、反発心すら沸いた。
 有難いと思いながらも、そんな目で見ないでくれと言いたくなってくる。
 そんな心の狭い自分が嫌にもなるが、ジムの心配しすぎる態度がロイには鼻につくときがあった。
 だが、心のどこかがジムを頼っているのも自覚していた。それがなおのこと、ジムの存在を否定したくなる。

「今日、来たでしょう?」
 ジムが嬉しそうにロイに言った。「みんなに声をかけてくれたらよかったのに」
「うん。でも、もうすぐ会えるから」
「それもそうか。……今夜一緒に夕飯でもどうかと思ったんですが」
「いや、もう食べてきた」
 ロイは嘘をついた。なぜ断ったのか、自分でも分からなかった。
「分かりました。じゃあ、また明日」
 ジムは素直に頷き、階段を降りていった。
 ――すまない、ジム。
 がっかりしたような、ジムの一瞬の表情が瞼に残っている。
 悪鬼のような顔で、「やめてくれ! 大尉に触れるな!」と叫び続けていたジムの顔が、その上にかぶさってくる。
 ジムが片時もそれを忘れていないはずなのは、なんとなく感じられた。用心しいしい、ジムはロイを伺っている。
 腫れ物に触るように。
 ――それは当然のことだ。
 だが、その目を見る度、ロイは自分がどんな目に遭ったかを嫌でも思い出しそうで、たまらなくなるのだ。
 ジムには、あの時の匂いがする。
 心の中で、ジムがなんどもそれを反芻しているのがわかる。
 それは、たんに気のせいなのかもしれない。
 あの気のいい男に、こんなことを考えること事態、ロイの心がねじ曲がっているのかもしれない。
 だが――。
 忘れてくれ、ジム。でないと俺は……。
 ロイは玄関のドアに背をつけたまま、唇を噛んだ。そのまま、ずるずるとしゃがみ込む。
「忘れてくれ……ジム……」
 ジムの存在が、ロイを過去へ引き戻すのだ……。

 チームのメンバーの、誰もがロイを諦め始めていた。
 おそらく基地に戻ってきても、チームに復帰することはないだろうと思っていたのだ。
「……なあ、大尉の話、なにか聞いてるか?」
 という質問が、絶えず基地内を飛び交い、すでに近頃ではその質問すら交わされなくなりつつあった。
 ミーティングルームで、隊員たちはてんでにだらしない格好で席についていた。まだ開始時間に間があるため、珈琲を飲みながらの者も多い。
 机が教室のように並んだ、極めて質素な部屋だ。
「デスクワーク勤務になるんじゃないかって噂を聞いたけど……フォード大尉」
 前列の席で、ジャックが水のボトルを飲みながら、片肘をついていた。
 隣にいたリックも、浮かない顔になった。
「司法試験受けさせて、JAGに呼ぶとか、ペンタゴン勤務になるとか俺は聞いたぞ」
 そのふたりのそばを通りかけたポールが、立ち止まって自分の髭を引っ張った。
「いや……戻られるはずだよ。今さらそういう道を行くくらいなら、最初からSEALSの隊員になんかなるもんか。あの人は見かけは綺麗だし頭もいいけど、あれで中身はけっこう……」
 ジャックが口を半分も開けて、ポールの後ろに目を向けている。
 リックはしきりに目を擦っている。ざわざわと、並んだ机に座っている連中も浮き立つように一方向を向いている。
 靴音を響かせて歩いてくる方向に、ポールは首を向けた。
「俺の中身はなんだ? ポール」
「た……大尉?」
 ロイは、照れたような笑顔を浮かべ、ポールの肩に手をかけると、部屋全体を見まわした。
 事件から約四ヶ月半ほどが過ぎていた。
 ベージュの制服に身を包んだ身体は、まだまだ細くはあったが、病院で見せられていたロイとは顔つきから違う。
 微かに日焼けもしたのか、十分に健康的にすら見えるロイは、あっという間に全員に取り囲まれた。
「心配かけてすまなかった。みんな、入院中はいろいろ有り難う」
「この野郎、戻って来やがったのかよ!」
 ビリーが後方から飛んできて、ロイの肩を小突いた。
 てんでにみんなが声をかけている中、ジムとカーターが入ってきた。
 カーター少佐は喜びのあまりロイを抱きしめ、「馬鹿、俺に挨拶もなしで先にミーティングルームとはどういう了見だ?」と笑った。
「申し訳ありません。少佐の部屋へ行く前にここを通ったら、みんなが見えたので」
「ああ。いいさ。取りあえず話をしよう」
 ロイはジムをちらりと見た。
 ジムにだけは、今日から来ることを告げている。ジムは、黙って戸口からロイに頷いて見せた。
 カーターは、ミーティングをディクソン大尉に任せて、ロイを自分のオフィスへ連れ去った。
「帰ってきたなんて。たった四ヶ月程度で……」
 ジャックが、感動したように目元を潤ませた。
「さすがだ」
「歓迎会しようぜ」
「酒はまずいんじゃないか? まだ」
 隊員達は口々に騒ぎ、浮かれていた。
 ビリーが口笛を吹いて、ひとりにんまりと笑った。
「さあ、みんな席に着け。こわい人が戻ってきたからな。気を引き締めて行くぞ」
 ディクソン大尉の横で、ジムが手を叩いて気合いを入れた。

「すっかり、元気そうだ」
 カーターが、廊下の自販機から買ってきた珈琲をロイにひとつ渡し、簡素なソファに座るよううながした。
「まだまだ一人前にはできないかもしれませんが」
「当たり前だ。最初からスーパーマンぶりを発揮されたら、連日訓練をしている連中の立つ瀬がない」
 カーターの笑顔に、ロイも頷いた。
「……戻ってくると信じていたよ、大尉」
 しみじみとした口調でカーターはロイを見つめた。少し目元が潤んでいるようで、ロイは瞼を伏せた。
「……少佐、俺はあのとき……」
「俺はなにも知らないぞ、大尉」
 ロイははっと顔を上げた。
「誰もなにも知らん。なにも見てないし、聞いてもいない。誰もが君が戻るのを待っていて、大歓迎している。それだけだ」
「ありがとう……ございます」
 この上官がなにも知らないはずはなかったが、ロイは素直に礼を言った。
「さあ、これからが本当のスタートだ。少しずつやっていけばいい」
 カーターは、浮かれたような声で言った。 

 次の日からロイは訓練に参加した。
 退院してから一ヶ月間、ずっと自主的にトレーニングをしてきたのだというその動きは、他の連中に遜色のない程度には回復しているかのように見えた。
 おそらく競えばタイムは最下位になるかもしれないが、足を引っ張ることはない。
 それでもさすがにひとつの行程を終えるたびに息を切らし、汗を拭ってはいるものの、表情は明るかった。
 そしてそれは日を重ねるごとに、馴染んだ光景に変わっていった。ロイは驚異的な力で復活を遂げているかに見えた。
「……うそだろ」
 ビリーが言うと、ホーナーが隣でじっとロイを見つめていた。
「うそじゃないさ」
 ビリーが顔を向けると、ホーナーはなんとも計れない顔をしていた。
「気力だけは人一倍だから」
「ああ、知ってる。ああいうやつだよな」
 ビリーは呆れたように、全力でメニューをこなすロイを見つめていた。
 ミーティングルームでの騒ぎなど忘れたかのように、隊員たちは、なにごともなかったように振る舞っていた。
 誰もロイに具合の心配をしたり、大袈裟な励ましはしなかった。
 それでいて、ロイが走ったり泳いだりするのを、一心に見つめているふうがある。無用な気遣いが、この若い将校にとって迷惑であることを、彼らは分かっているようだった。
 部下でもある隊員たちは、半分はロイより年長だ。彼らは彼らなりに、大尉に接する態度を統一させているようだった。

 ビリーはいつか誰かに聞かされた、ロイの裸を見てやろうといつも思いながら、ロイがSEAL専用のシャワールームに訪れないことに気がついた。
 訓練で汗をかいて、そのまま家に帰るのは、あの男には耐えられないはずだ。
 ビリーはロイが訓練の作業服のまま、どこかへ消えるのを見て、あとをつけた。
 将校専用の狭いシャワールームに入っていくのを見ると、「なんだ、気取りやがって」と呟いた。
 みんなとシャワーも浴びたくないのか、と思いながら自分も中に入っていった。
 軍での上下関係ははっきりしており、シャワーやロッカーだけでなく駐車場ですら将校専用の場所がたくさんある。空母などに乗れば、居住スペースから食堂からきっちりと分けられているのだ。
 だが、チームは別だ。
 カーター少佐もディクソン大尉も、こんなところでシャワーを浴びたりはしない。大学の運動部のように、みんなでわいわい騒ぎながら、裸でうろつきまわっている。
 ここのシャワールームは、ほとんど使われていいない状態なのだ。
 ロッカーの前で、腰にバスタオルを巻いて、ビリーはシャワールームのブースのひとつに入った。
「誰?」と、ロイが聞いてきた。
「俺だよ。ロジャ」
「……ああ」
 不機嫌な声が聞こえた。
 ブースは分かれているが、完全個室ではない。ビリーは仕切りの間から目だけを出すようにして、ちらっと隣に立つロイの姿を見た。
 それからぎょっとして、ロイが頭を洗っているのを確認すると、まじまじと見直した。
 あれはなんだ……と、ビリーは思った。
 背中を縦横に斜めに走る傷跡。小さく締まった尻にも、太腿のあたりまで、それははっきりと見えており、特に背中は滅茶苦茶に敷いた線路を書きなぐったように、幾本も幾本も重なりあって、模様のように見える。
 髪を洗い終わったように見えたので、ビリーは顔を引っ込めた。
 鞭だ……、とビリーは息を止めて、自分のシャワーに顔を当てた。
 血だらけだったという話を思い出し、どれほどに惨い拷問だったかを考えた。
 それからまた、ロイの身体を思い浮かべた。
 筋肉はかなり戻ってきているようだった。
 体脂肪率がかなり低いだろうと思いながら、たった一ヶ月の自主トレで筋肉を蓄えてきた根性に感服した。
 復帰してここ二週間ほどで、ロイは徐々に競争の順位を上げてきていた。病み上がりの男に負けた連中が、悔しがっていた。
 ホーナーが心配していたよりも、ロイはずっとしっかりしていると、ビリーは思っていたし、そういう超然とした男であることは誰よりも知ってもいた。そこがビリーの嫌いなところでもあるからだ。
 隣で水音がして、シャボンの香りが漂った。
「なあ、大尉。よけりゃ今夜飲みに行かないか? 軽く飯でも食って。酒はもう飲めるのか?」
 水音で聞こえないのだろうか? と、ビリーはタオルを取って頭を拭きながら、もう一度聞いた。
「聞こえた? 今夜……」
 隣を覗き込むと、ロイはお湯を出したまま、床に座り込んでいた。
 壁に向かって肩をつけ、じっと動かない。
 弾ける雫が、白い身体に降り注いでいた。

「……ロイ!」
 ビリーは顔を引っ込めて大声で怒鳴った。
慌てたような返事が戻ってきた。
「なんだ?」
「食事でもしないか? 酒でも飲んで」
「ああ、酒はまだやめてる。食事はつきあうよ」
「じゃ、外で待ってる」
 ビリーはさっさと洗い終えると、ロッカールームへ歩き出した。
 無理するからだ、と呟きながら、おとなしく服をつけた。
 全力を使い果たしているんだろう、とビリーは思った。
 激しい訓練を考えたら、病み上がりで、いきなり全メニューがきつすぎるのは、誰が考えたって分かる。
 けれども本人がそれをこなすというのなら止められない。
 そのうち身体が慣れてくる。
 たとえ、シャワールームでへたばっても、それを知られずにやり続けるつもりなのだ。
 超然としたスーパーマンを演じるには、それなりの努力と我慢が必要ってわけだ、とビリーは煙草に火をつけた。

 外で煙草を吸っていると、ロイがすっきりした顔で現れた。
 きちんと梳かされた髪が、夜風に揺れるのが色っぽかった。
「俺の車で行こう」
「喫煙すると持久力が衰えないか?」
 煙草を咥えたまま、自慢のカマロのハンドルを握るビリーに、ロイが前を向いたまま言った。
 流れてくる煙が迷惑なのだろうが、払いのけるような不作法なことはしない。
「俺はガキの頃から肺を真っ黒にしてるんだ。やめるつもりはない。国中が健康志向を目指すなら、敢えて喫煙者でいるという信念があるんだな。馬鹿げた、健康オタクなやつらに従うつもりはないね」
「馬鹿な信念だ。きついのは自分だろう」
「それが俺様ってもんよ」
 ビリーは、けらけらと笑った。
「変わってないな、おまえは」
「安心できて、いいだろ」
 何が食べたいか聞くと、何でもかまわないという。
「うまい店があるんだ」

 ビリーは、観光客向けでない、小さな海沿いのレストランに連れて行き、いかにも馴染みのように親父に声をかけ、注文した。
「……ずっとここに住んでいるみたいだな、ビリー」
 ロイが、心なしか笑っている。
「ああ、俺はどこ行っても馴染むの早いんだ」
 ビリーは地ビールを飲みながら、水のグラスを傾けるロイを伺った。
「もちっと気の利いたもん飲めばいいのに。せめてペリエとか」
「微炭酸を飲むくらいなら、ミネラルウォーターのほうがいい」
 漁師がエプロンを着けただけ、という風情の、赤銅色の皮膚をした親父が両手に皿を持って運んで来た。二人で、チェサピーク湾自慢の小型の蟹をつつく。
「俺は、あんたが嫌いだった」
「うん、知ってる」
 ロイが上品に蟹をフォークに取り、ワインビネガーにわさびを添えて貰って、食べ始める。
「なんだ? それ」
「わさびだ」
 ビリーは舐めてみて、吐く真似をした。
「よくそんなもん、つけられるな」
 ビリーは蟹の甲羅がついたままの塊を、せっせとほじくりながらそのまま食べるのが好きなのだ。
「で、嫌いだったけど、今はちょこっと好きかな」
 そう言うと、ロイが青緑の瞳をこちらに向けた。何となく下げ気味の眉がらしくなく、間抜けに見える。
「なんだよ。俺が好きって告白してんの、そんなにおかしいか?」
「……いや、嬉しいよ」
 ロイの顔がいつもの表情に戻ると、また上品に蟹の身を取り出す。
「うまいな。どうやればそんな風にとれるんだ? だいだい、西の蟹と比べて、ここのは小さすぎる。こせこせ食うのは性に合わないんだよ。蟹なんてもんは、こうバキッと……」
 ロイはビリーの皿から蟹をとり、甲羅から身を出して皿に置いた。
 細い金属のカギ状のスティックの先に、魔法のように白い蟹の肉がするすると出てくるのは面白いほどだった。
 あっという間に、ビリーの目の前に蟹の肉がきれいに並んだ皿が置かれ、ビリーは目を丸くした。
「……お子様みてえ。これを食えっていうのか? 俺、母ちゃんにもこんなことされたことねえよ」
「食べにくいんだろ?」
 なんだかんだと言いながら、嬉しそうにロイのビネガーに手を延ばして蟹を食べるビリーを、ロイは微笑んで見ていた。
 ビリーはさっきの手つきを真似て、蟹をほじり出す。
 ロイは煮た野菜のスープを食べ始めた。ぴん、と蟹が飛ぶと、ロイのほっぺたに白い身がついた。
「ごめん」
 ビリーは首に腕を回し、迷わずその頬に唇をつけ、直接それを食べようとした。
 突然、ロイが椅子から転げ落ち、つられたビリーもロイの上に崩れ落ちた。
「ど、どうしたんだ? 大丈夫か?」
 ビリーはげらげら笑いだし、床に座ったまま、ロイの肩に手を回した。
「俺のキスに驚いたってわけ? 初心だな、まったく……」
 ビリーの顔から笑いが消えた。
 ロイは固まったようにその場に座り込み、目を見開いていた。
「大尉?」
「……すまん。ちょっと、びっくりして……」
「もう少し、鍛えろよ。こっちの方。まさか女とキスもしたことないなんて、言うなよな」
 ビリーは小指を立てて、ウインクした。
 ロイは立ち上がったが、その顔色があまりにも悪いのに、ビリーは戸惑った。
「……大丈夫か?」
 思わずそう言うと、ロイは頷いた。
「すまない。平気だ」
 座りなおしたロイは、取り澄まして食事を続けたが、ビリーはそのスプーンからいくらも食べ物が口に入っていないのを、じっと見ていた。




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

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金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評