[悪夢] of [硝子の破片]


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第八章 悪夢

 悪夢が来る……。

 眠りにはいると、ロイの身体は腐敗臭を漂わせ、血と男達の体液をまとわりつかせて彷徨い始める。
 それがロイ自身を襲いに来る。
 あるいは闇の蠢くものが身体中にまとわりついて、動けなくなる事もあった。首に巻き付き、足を引っ張り、床に押さえ込まれる――。
 ロイはうなされ、跳ね起き、冷や汗でびっしょりと濡れた身体を震わせることが頻繁に起こった。

「よくないね。身体の回復が遅れている……」
 軍の担当医ハルトマンが、毎回検診のたびに、ロイに忠告した。冷たい目をしたアフリカ系のこの医師は、普段よりもさらに厳しい顔を見せた。
「睡眠剤を飲んでいないと聞いたが、なぜだね? このまま不眠が続くと、身体がもたないよ」
「……目が覚めないと、悪夢が続くんです」
 患者の言葉に首を振り、医師は看護師に注射の準備を指示した。ロイは怯えたような瞳を向けた。
「……しないでください。大丈夫ですから。本当に……。それは……」
 だが、医者は嫌がるロイの身体を男性看護師に押さえさせ、無理矢理針を腕に刺した。
 目を潤ませ、拒否の気持ちを全身に表している患者に、医師が語りかけた。
「悪夢といっても、夢だ。今は身体を休めないといけない大切な時期なんだ。精神安定剤も入っているから、悪夢はないはずだよ。さあ、落ち着いて」
「ドクターナカニシは……」
 彼はこんな強引なことはしなかった。
 穏やかな、少し癖のある英語を話すリュータロウ・ナカニシは、最近姿を見せなくなっている。
「彼は、週半分のみ、ここへ来るだけだからね。軍関係の入院患者は、今後は私が責任を持つことになった。私の方が、キャリアは確かですよ」
 時間を計って脈をとる医師が、看護師に頷く。
 患者は、抗えない強い薬剤の力で、睡眠に入りかけている。
 看護師は次の病室へ行くためにワゴンを押し、眠りかけている患者の方へ目をやった。
「睡眠が足りてくれば、彼も落ち着いてくるだろう。……だが、やっかいだな」
 ハルトマンが言うと、看護師が眉を顰めた。
「……無理もない…」
「しかし、このまま不眠が続くようなら、精神病棟に移すことも考えなくてはいかん。長くかかりそうだな、この患者は」
 医師は看護師を促すようにして、部屋を出て行った。
 額にびっしょりと汗をかき、苦しげに顔を歪めている患者を残して……。

 毎日のように、医師は睡眠剤をロイに打ち続けた。
「痛めた傷の方は、かなり回復してきているよ」
 ハルトマンの言葉にロイは頷いた。
 ロイは、もう不眠を医師に訴えなくなっていた。悪夢はないはずだという言葉とは裏腹に、連日、朝目が覚めるまでの間に行われる悪鬼たちの攻撃に、気持ちがげっそりと萎えていた。
 いくら説明しても医師は理解しなかったし、実際のところ、そんな状態の睡眠でも、ロイの身体自体には効果をあげていた。睡眠を確保された身体は、いくら精神的に落ち込んでいようとも、治癒すべき傷を確実に修復していっているようだった。

 やがて身体を起こして歩くことを促され、病院の庭に出ることを許可されて、ロイはだんだん調子を取り戻してきたことを感じ始めていた。
「大尉!」
 庭先でカーディガンをひっかけたパジャマ姿のロイに、ジムがそばに近づいてきた。
「ああ。来てくれたのか」
「だいぶ、顔色が戻ってきましたね。外に出られるようになってよかった」
「うん。気持ちいいな」
 春の兆しを見せる日だまりが、ロイの座るベンチをほかほかと包んでいる。
「太陽っていうのは、本当に人間に力を与えるものなんですよ。俺は、日が差すとパワー充電される気がする」
 ジムも隣に座って、空を見上げて微笑んだ。
 日の光が、ジムにも降り注いでいる。
 この男自体が太陽のように、エネルギーを発散している気がして、ロイはその存在感に内側から力がみなぎるような気がした。
「……おまえは、傷はもういいのか?」
「俺のは、大したことはありません。治るのが早すぎるって、医者が呆れてましたよ」
 ロイは、声を立てて笑った。
「少し、歩かないか? ジム」
 いいですよ、とジムは立ち上がった。思わず手を差しのべかけ、ロイがちゃんと立つのを見て、ジムはその手をポケットに突っ込んだ。
「池の方にアヒルがいる」
 フラットなシューズを履いたロイの足は、思ったよりもしっかりと歩き出して、ジムを安心させた。
「眠れてますか?」
「うん。大丈夫だよ。ゆっくりだけど、天気がいい日は一日中歩き回ってるから、くたびれて眠ってしまうようだ」
「それはいい。じゃあ、今日も嫌と言うほど、歩きますか?」
 ジムが嬉しそうに、ロイの背中に手をかけた。

 身体を動かすようになって、ロイはやっと毎日の強引な睡眠剤の投与から開放されていた。
 自分の意思で眠りについたとき、不気味な悪夢は現れなくなっていた。
 ぐっすりと眠り、起きるたび、ロイはどんどん気力を取り戻していく自分を感じ始めていた。


 ドクターハルトマンは、硬質な陶器を想像させる、五十代の医者だった。
 怜悧な表情が取っ付きを悪くしているが、患者にとってそれは頼りに思える反面、逆らえない威圧感を感じさせる部分でもあった。
 ハルトマンは、いつものようにロイの検診をすませて、その顔をじっと見た。
「外科的な治療はほとんどすんだと言っていいでしょう。二ヶ月……いやそれ以上になりますか」
 医師は、そぐわない幼稚な仕草で指を折り、カレンダーに目をやった。「よく頑張りましたね」
 ロイはほっとしたように頷いた。
「ありがとうございます。では退院も……」
「ベッドが空いたら、精神病棟の方へ移りましょう」
 ロイは、呼吸が止まったように、医師の顔を見つめた。
「精神病棟……?」
 ロイの大きく見開かれた目を見ながら、医師は表情を変えずに続けた。
「もう少し大事をとって、様子を見て何事もなければすぐに退院できます」
「……なぜです? もうすっかり良くなっています。夜も眠っているし、元気です」
「軍からの要請です。言いにくいが、特異な体験をされたわけですから、それを完全に克服できたと証明する必要があります」
 ロイは、身体から力が抜けていくのを感じていた。
「大丈夫。証明されればそう長くはかかりません。いろいろなテストをして、どれもに合格をすればすぐに晴れて退院です。おそらく、軍はあなたに期待しているのでしょう。これほど厳重にチェックをされるということは。そう思って、あと少しだけ、頑張りなさい」
 激しいショックをロイが襲った。
 上層部がロイに行われた陵辱に対して心配をしているという事実に、ロイはプライドをずたずたに引き裂かれたような気がした。
 誰と誰が知っているのか分からないが、次期隊長として推した人物たちが、顔を突き合わせて、ロイが受けた数々の辱めの事実を討議し、それを本当に克服したかどうかを確認したいのだ。
 あんな目に遭った男を、チームのリーダーにすることに不安を持っているのだと思うと、ロイは目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
 じっと見つめる視線に気がつき、ロイははっと顔を上げた。
「真っ青ですよ。大丈夫ですか?」
 慇懃無礼なハルトマンの顔に、ロイは嫌悪感を覚えた。黙って観察されるかのような視線が、不愉快だった。
「……大丈夫です」
 気を取り直して姿勢を正すと、ハルトマンが続けた。
「私個人の意見としては、違う仕事をお勧めしたいですよ、大尉。軍とはいっても、仕事はいろいろです。船舶が嫌なら、基地にいて、穏やかな仕事に回してもらうよう意見書を出してもかまいません。あなたは優秀でお若い。新たに資格をとって、もっとやりがいのある部署に就くこともできるでしょう。それならば、おそらくもっとことは簡単なはずです。今すぐの退院も認められるかもしれません」
「要するに、チームとしての働きに不安があると?」
 ハルトマンは黙ってロイを見つめた。
「……そうは言いません。ただ、仕事の内容は変わらない。あなたはそれに耐えられないのではないかと、私も気になるところです。通常の怪我ではないのですからな」
 医師は急に笑顔になり、表情を硬くしているロイの肩に手を置いた。
「そんな心配をはね除けるための検査です。そうなれば誰も文句は言えない。どうします? このまま退院手続きをとりましょうか?」
「いえ……」
 ロイはハルトマンを見つめ返し、精神科のチェックを受ける旨を伝えた。

 精神病棟の、一番症状の軽い患者が入院する一階の端の部屋が用意されるはずだったのに、退院予定の患者が再発し、ロイの部屋は三階に指示された。
 そこは重度の精神疾患の入院者が多く、薬でぼんやりしているのか、互いに会話もなく廊下を歩きまわるゆっくりとした音や、閉ざされた部屋から悲鳴のような声が聞こえるときもあった。
 この上の階は、一般の患者は入れないほどの厳重なドアのある部屋ばかりが用意され、立ち入りは禁止だと教えられた。
 担当医はこの不都合な状況をロイに謝った。
 あなたの場合はチェックだけだからと、ロイの行動を束縛したりはしなかった。
「普段は一階のロビーで過ごすといいですよ。テレビも雑誌もありますし、庭の散歩も自由です」
 まだ若い医師は微笑み、それから毎日のように決められたロイのテストを行うために、部屋を訪れた。
 深夜になると、隣の患者の、わめく声が聞こえる。
 ベッドに入って眠るころになると、しんとした病棟の中から、人間の声とは思えない叫び声や泣き声が漏れ伝わることがあった。
 それはまったくの健康な人間でさえ、憂鬱な気分にさせてしまうような何かを感じさせた。                                        
 ロイは眠ろうとするものの、ハルトマンが言ったことばが頭をぐるぐると回り、なかなか寝付けなかった。
 運ばれてきて目覚めた後、悪夢に魘され、嘔吐をし、ロイは滅茶苦茶な精神状態になっていたのは事実だった。
 その後も、強引に腕に薬液を注入されるほどの醜態を晒した。あれはすべて軍に報告され、検討対象になっていたのだと思うと、数人の、バッジや略式勲章をごっそりつけた男たちが、男に強姦されたロイの身を哀れみ、重要な任務に戻すことを躊躇っている様が目に浮かんだ。
 惨めだ……、とロイは目を閉じた。
 悔しさに、涙が溢れた。
 ことは、常に起こったその時よりも、あとになってから人を苦しめる。
 ひとつの鎖が、次の鎖を呼び出し、ずるずると身体に巻き付くように、苦しみの海に引きずり込もうとする。
 それは、遠い過去の彼方まで続く鎖だ。
 新しい鎖と、古い錆びた鎖が、ロイの手足にとぐろを巻くように、重なりはじめていた。

 ロイには、これまで人に蔑まれたり、無用に同情を買ったりするようなことは一切なかった。そんなことがないよう身を正してきた。
 早くに父親を亡くした子、という哀れみさえ、ロイに向けられることのないよう、ティーンエイジャー特有の反抗期すら、ロイは自覚して押さえ込んだ。
 身体の弱い母や、優しい伯父夫婦にやっかいをかけないよう、勉強に、スポーツに打ち込んで、ただ真っ直ぐに大人になることを望んだ。
 ロイにとって、セックスや身体の快楽に関するものは、これまで無意識に避けてきた事柄だった。
 そんなことよりも優先すべき事項がたくさんあった。自慰行為ですら興味を持たず、男性の身体に訪れる自然の変化を嫌悪した。
 それでも若い肉体を宥めなければならない時は、冷たいシャワーを浴びた。
 ロイの母親は、ふたりの男性を愛し、それに潰されるように自らを壊していった。
 そして、ロイにとって偉大な存在だった父は、父ではなく、別の男が実の父だと悟ったとき、ロイの柔らかな心のどこかに、なにかが刺さった。
 母が誠実な父親を裏切ったのかどうなのか、事情は分からないなりに、そういった行為の結果、父の子供でない自分というものが生まれたことが許せなかったのだ。

 母は、時折小さい頃からロイを違う名で呼ぶことがあった。
「テリー」と、歌うように母は呼びかけた。
 その名が、実の父だと重なったと同時に、母は母ではなく、性を感じさせるひとりの女になった。愛してはいたが、同時に嫌悪もした。
 だから、ロイは性に関する事柄を無意識にしろ避けたのだ。それが反抗期を押さえ込んだロイにとっての、意識の底に芽生えた反抗だということには、ロイはさすがに気づいてはいなかったが。
 新入り歓迎の儀式だって、大騒ぎして喜ぶ気持ちが理解できないほど、子供じみた行動に思えていた。なにをされるかはわからなかったが、いずれにしても他愛のない辱めを与えるつもりなのは、了承していた。だから、やってみんなの気がすむものなら受けてもかまわないと思ったのだ。
 だが、そんなものとはまるで違う、予想もしていなかった出来事が起きた。
 自分でもまともに触れたこともない、単なる身体の一部だとしか思っていなかった部分をこじあけられることの屈辱、異様な圧迫感と痛みに、身体よりも心が竦んだ。
 排泄のみに使われると信じていたその場所を征服され、ロイは犬のように這わされ、仰向けにされて、女を犯すように身体を開かれた。
 他人に囲まれ、押さえ込まれることだけでも、耐えられないほどの恐怖を覚えた。
 裂けてずたずたになるほどの、喉元から突き出るのではないかと思うような、内部に与えられたショックが蘇る。
 そして不可抗力による刺激とはいえ、ジムの見ている前で快感の証を晒したことを、ロイはうっすらと思い出した。ここ暫くの間、意識下に閉じ込めていたものが、ロイの心を揺さぶっていた。
 ロイは両手を顔に埋めた。
 忘れることができると思っていた、大きな傷がぽっかりと口を開けるような気がした。
 船の碇は、大きな鎖に繋がれて、海底まで巻き上げ機から流れるように、じゃらじゃらと滑り落ちる。
 母との記憶までを引き出すほどに、絡み合った鎖が重くて、ロイは果てもなく後戻りして海底を目指すかのような意識を振り払った。
 海底に沈んでしまうまでに、なんとしても重い碇を断ち切ってしまわねばならない。
 これは悪夢ではない。
 自分で自分を苦しめている、単なる記憶にすぎない。
「もう思い出してはいけない。すべては終わったんだ……」
 ロイはそう自分に言い聞かせるように呟いた。
 起きた事実は変えられない。
 好奇の目で見ている連中がいるのなら、それを克服したことを知らさねばならないと、ロイは決意した。
 もう、悪夢などに追われているわけではないことを。
 隊長就任などという話は、いつでも反故にしてもらってかまわない。ロイの望みは、志願して手に入れた大切な仕事を失いたくないだけで、すっかり以前の状態に戻ってくれればそれで良かった。
 そのための検査を受けているだけ、ハルトマンも担当医師もそう言った。実際、それ以上のなんらかの治療を施されているわけでもない。
 ロイはしっかりと立ち直り、そんなことには負けてなどいないことを回りに証明することを心に誓った。
 だが、半月もの間、健康状態のチェックも兼ねてこの病棟にいる間、環境がロイの気持ちを落ち込ませた。
 青白い顔のうつろな表情をした患者と行き違うたび、本当はここから二度と出してもらえないほど自分は悪いのではないかとすら疑った。
 三階に入れられたのは、偶然ではないのではないかと。
 深夜、巡回に訪れた看護師に悟られないよう、ロイはベッドで息を殺して眠っているふりまでした。もう、不眠だなどと金輪際思われるわけにはいかなかった。
 僅かの隙も見せない。
 順調に、回復していないのではないかと疑われるようなそぶりを、片鱗でも見せるわけにはいかない。

 ロイは一日のほとんどを庭で過ごし、歩き回った。
 日差しを浴びて身体を動かすことのみに専念した。
 広々とした庭には、高い柵がある。
 あれを乗り越えることくらい、ロイには簡単なことだ。見つかっても、銃撃されることはあるまい。刑務所や捕虜収容所ではないのだ。
 ロイは、あらゆる場所をチェックした。
 一般病棟へ続く中庭や、裏口。いくらでもどこからでも、特殊部隊に身を置いている兵士ならば脱出は可能に思えた。
 鍵をこじ開けるための細い金属がないかとまで、目をあちこちに走らせる。
 柵を修理したらしい針金を、ねじ切ってポケットに忍ばせたりもした。
 もし、退院予定日が来ても実行されなければ、どこから脱走するかまで確認するほどに、ロイは自分が神経を尖らせていることに、気付いていなかった。




硝子の破片

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後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評