[雪降る夜の夢のように] of [硝子の破片]


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第七章 雪降る夜の夢のように

 龍太郎は、クリニックの開業を間近にひかえ、病院をしばらく休んだ。
 新年からは、週の半分を海軍基地の専属カウンセラーとして、残り半分を一般の患者相手に過ごすことになる予定だ。
 一週間ほどクリニックに揃える備品だの、州に届ける書類だのの雑事に追われ、やっと一息ついて海軍病院へ顔を出した。
 意外だったのは、例の海軍大尉の回復が芳しくないという報告だった。
 ロイ・フォードは相変わらず紙のように白い顔をして、ベッドに横たわっていた。ずっと微熱が続き、食欲もなく、よく眠れないらしい。
 看護師の話では、深夜悪夢にうなされて、そのまま朝までぼんやり横たわったままのことも多いということだった。

「どうしたんです? どこか、痛いところがありますか?」
 龍太郎の穏やかな声に、ロイは頷きも、否定もしなかった。
「いつ……退院できますか?」
「それは、あなたの回復次第です。実際には傷はずいぶん良くなっている。でも、微熱がひかないし、眠れない状態はいけません。退院許可など出せませんよ」
「……あなたは、今後精神科のクリニックを開業されると聞きました。軍にも来られるとか」
「そう。外科は殺伐としているのでね。それに、身体に負った傷の治療と同じくらいに、精神に負った傷は深いものなんです。いや、それ以上の場合だってなくはないし、心が病んでいると、身体に影響も出るものなんです」
 ロイは相変わらず冷たい光を湛えた瞳をこちらに向けたまま、黙って聞いていた。
「あなたには、カウンセリングが必要だと私は思う」
「……でも、何も話すことは……、話すことは、出来ないのです。ドクター」
「医者には守秘義務がある。でも、あなたが話さなきゃいけいないのは、過去の経過ではなく、今のあなたが考えていることなのですよ、大尉」
 龍太郎が、ロイの肩にさりげなく手をかけ、軽く力をこめると、ロイはぴくり、と身体を震わせた。
「……身体を覆う、たくさんの鎧があるでしょう?」
 しばらくして、ロイが囁くような声で言った。
「それは、尊厳とか、プライドとか、そういうこと?」
「人間が普通に暮らす上で、必要なこと全てです。それを失ったら……」
 ロイはほとんど顔が見えないほど、顔を横にして枕に埋めると、小さいが、強い口調で言った。おそらく、目の前の青年は、普通の人間以上にその鎧をまとって生きてきたであろうことは、察せられた。
 そして彼は、その鎧を剥ぎ取られた人間はどうすればいいのかを問いたかったのかもしれない、と龍太郎は思い、黙って話の続きを待ったが、ロイはそれきり、口を開かなかった。
「鎧などなくても、人は生きていけますよ、大尉」
 返事はなかった。
「少し、眠りなさい。睡眠薬が必要かな?」
「いえ……覚めないまま夢が続くのはつらいので」
「どんな夢です?」
「ただの……悪夢です。形もストーリーもありません」
 ベッドに横たわったロイは、そのまま目を閉じた。
 だが今夜も、きっと彼は眠れない苦しい夜を過ごすのだろう。
 目を閉じると、最初の印象どおり、儚い、美しい青年だった。
 外では、猛烈な風に、たくさんの小雪が舞い上げられていた。
 龍太郎はふと、目の前の患者とその雪がたぶるような気がした。
 思うに任せない、運命の大風に、自分をコントロールできずに苦しんでいるこの青年に……。
「ドク……」
 目を閉じたまま、ロイは龍太郎に背を向けるように寝返りを打った。
「なんです? 大尉」
「……鎧がないと、戦いにはでかけられない」
 龍太郎はため息をついた。
「かもしれませんね。そういうものの必要ない場所で、生きることはできませんか?」
 そうではないことは、龍太郎にも分かっていた。
 それは戦場でつける鎧ではなく、日常ただ生きていくためだけのことなのだということは――。
 職場の云々ではないのだ。どこにどう暮らしていても、人間にはある程度の鎧が必要なのは、間違いない。
「……もう、戦えないかも…しれない」
 ぽつりと吐かれた言葉が、ぬるい病室の空気に解けて、雪のように消えていった。
それを置き換えたなら、生きてはいけないということかもしれないと、龍太郎は背を向けた金色の頭を見つめた。
 白々とした病室の灯りが、その髪に反射した。
 金粉を撒いたような髪なんだな、とそれすらも龍太郎には、そんなものを備えて生まれた青年が気の毒に思えた。
 きっと誰もが触れてみたい。
 意識を持っていないときのこの男は、そういうベールにくるまれてでもいるかのように、儚い美しさを見せることに、龍太郎は気づいていた。



 薬品臭い病院は、ビリーがもっとも嫌っている場所だ。
 せっかくのブランドのジャケットに消毒薬が染みそうだ、と袖の匂いを嗅ぐ。
 片手に持ったカサブランカの花の匂いしかしないのに、ほっとする。
 死んだってこんな所で寝ている気はしない――もちろん死んだ人間はここには寝ることはできないわけだが――などとぶつくさ言いながら、教えられた病室の前まで来た。
 開いたままのドアを覗くと、簡素なベッドに横たわったロイがいた。
 目を閉じて、シーツと同じくらい白い顔をしている。
 ビリーは瞬きをし、ブルネットの巻き毛をかき上げて、やっぱり帰ろうかと思った。
 こんなロイに会いたくはなかった。

「……だれ?」
 中から気力の抜けたような声が聞こえ、仕方なくビリーは中へ入っていった。
「……」
 誰なのか認識していないような、ぼんやりとした顔がこちらに向いた。
「よお。こっちに来たぜ。同じチームだと言われたのに、いないなんてどういうことだ?」
「……ビリー? おまえか」
 この呼称は、訓練学校で定着したものだ。他では誰も呼ばない。一瞬、懐かしさが漂いかけたが、目の前の男の姿を見て、感慨は吹き飛んだ。
「だらしねえなあ。どうなんだ? 具合は」
「せっかくお前がきたのに……。多分、俺は戻れない……」
 ふっさりと付せられた瞼を覆う睫が、閉じられた。
ビリーは胸が塞がるような思いがした。
「花、花持ってきた。気が利くだろ?」
 ビリーは当たりを見回し、ずいぶんたくさんの花が飾られているのに驚いた。花をベッドに放ると、直接枕元に近いベッドの脇に腰掛ける。
「らしくもなくか弱い声して、戻れないなんて言うなよな。あんたがいないと、虐める相手がいなくてつまんねえだろ。何のために東まで来たと思ってるんだ」
 ロイは目を閉じたまま、微かに笑ったようだった。
 二週間を越えるほど眠り続けたと聞いていた。
 眠りから覚めない間にずいぶん体重が落ちたのか、どこから見ても、特殊部隊などに身を置いている男には見えなくなってしまっていた。
 肌が透けたように白く、影が薄くなっているように感じられた。
 起きているのかどうなのか分からないほど、黙って目を閉じたままのロイの顔を、ビリーはじっと見つめた。
 覚えていた金色の刈り上げられていた頭は、卒業までには多少伸びてはいたが、今はさらに美しい柔らかさを見せていた。
 綺麗な金色だったんだな、とビリーは思いながらその髪をそっと掬った。
 細い鼻梁に、色をなくしたような桜色の唇――。
 隊の連中が、おかしな気分になったというのが、理解できる気がした。
 己の信念で人を引っ張っていた、気力の塊のような男はどこにもいなくなってしまっていた。病人だから仕方がないのかもしれないが、こんなに変わってしまうほど、痛めつけられたのかと思うと、やりきれない。
 大きな影が入ってきたのに気付き、ビリーが目を上げると、怖い顔をした大男が戸口からこちらを睨んでいた。
「……そんなところに座って、大尉が迷惑だろ?」
 自らどこか具合が悪そうな男は、機嫌の悪そうな低い声で言った。「誰だ?」
「そっちこそ、誰なんだ? 偉そうに」
「なんだと?」
「……ビリーだ。ロジャ・ウイリアムズ……中尉だ…」
 ロイが目を閉じたまま言うのが聞こえ、男は枕元までやってきた。
ビリーと反対側に立ち、ロイの顔を覗き込む。
 それからビリーに目をやった。
「チームか? ビリー中尉。大尉と知り合いなのか?」
「一昨日着いたばかりだ。この大尉と訓練校が同期なんで見舞いにきた」
「俺はジム・ホーナー曹長だ」
「ああ、聞いてる。あんたら、捕虜になったんだってな」
 何気なく言っただけなのに、ジムがベッドの反対側から手を延ばし、口を塞いだ。
 その手を胸ぐらに落とすと、すごい力でビリーを病室の外へ連れ出し、廊下の壁に押しつけた。
「お前、捕虜になったことがあるか?」
「ああ?」
「経験があるか?」
「……ないよ。実戦の経験だってまだない。文句あるのか?」
 ホーナーは掴んでいた手を離し、項垂れるように廊下の長いすに腰かけた。廊下の壁にもたれたまま、ビリーはジムを睨んだ。
「……地獄だ。ビリー中尉。実戦に出たらいずれ分かる……。でも捕虜がどんな酷い目に遭うかなんて、俺は誰にも経験させたくはないよ」
 さっきの勢いが嘘のように、ジムはしんみりと言った。
「何があった?」
 ビリーが気を取り直してジムの隣に座ると、ジムは首を振った。
「血反吐を吐くまで蹴られたり殴られたり……。俺も大尉も何カ所か骨折だ。骨はまた繋がるからいいさ。でも……」
「内臓をやられてるって?」
「死ななかったのが奇跡なんだ。あの人の前で二度と捕虜なんて言わないでくれ。身体もだけど、心のショックの方が大きいんだ。縛られて身動きできない状態で、好き勝手な暴力を受ければ誰だってああなる。仕事に復帰できないかもしれないのも堪えてるんだ」
「ああ、ごめん。悪かった」
 ビリーが素直に謝ると、ジムは手を差し出した。
「すまん。無礼な態度をとってしまった。俺が戻るまでチームを頼む」
 その手をがっしりと受け、ビリーは頷いた。
「わかった……あんたは大丈夫なのか? 同じくらいやられたんだろ?」
 ホーナーは真っ暗な顔をし、首を振った。
「集中したんだ。大尉に。その分俺が食らった暴力は減った」
 ビリーは眉を寄せて頷いた。

「…んん……うぅぅ……」
 病室から絞り出すような声が聞こえた。
 ジムは飛び込むように病室に入ると、ロイの手を握った。
「ここにいますよ、大尉。俺はここだ」
「……たすけて…くれ……」
 さっきのビリーの失言のせいなのか、ロイは夢の中でうなされているようだった。
 そのまま踵を返すと、ビリーは病室を後にした。
「たすけてくれ……か」
 どれほどの目に遭えば、そんな言葉を吐くのだろうか。少なくともあの男だけはそんな言葉とは無縁に思えていたのに。
 ビリーはこれからの自分が、とてつもなく暗い孔に落ちていく蟻にでもなったように、不安がぽっかり口を開けるのを感じていた。

「顔色がいいな」
 カーターが、病室に入ってくるなり笑いかけた。
 決してそうとはいえない、白いロイの顔が一瞬和んだ。
 カーターの笑顔は、鬱々とした病院の空気さえも吹き飛ばしそうなほど、さわやかだ。
 龍太郎は、ちょうど回診を終えたところだった。
「少佐、申し訳ありません。間もなく隊にも戻れるとは思うのですが……」
 きちんとした口調で、ロイが言った。つい先ほどまで、俯き加減に龍太郎と話していたときとは、声すら違う。
「焦る必要はない。上層部もゆっくり休ませろと言ってきているし、身体がきちんと回復すれば、嫌でもまた、こき使われるんだ。今のうちにしっかり休んでおくことだ」
「少佐、お見えだったんですか?」
 ジムが茶色の紙袋を持った、大きな身体を戸口に見せた。
 数箇所の骨折をしていたジムは、すでに退院し、無理のない程度に仕事へも戻っているらしかったが、病室を訪れることを日課としているようだった。
「ホーナー、大尉を毎日独り占めしてるって、隊の連中がこぼしてたぞ」
「いや、俺はそんな……」
 ジムは耳まで赤くなった顔を、ロイに向けた。
「大尉、今日は綺麗な林檎を持ってきました。少佐もドクターもいかがです?」
「それは有難い」
 微笑む少佐と龍太郎にも、林檎が渡された。ロイの食欲がすすまないことを知っているジムは、こうして毎日いろいろなものを買い込んでは、病室に持ち込んでくることを、龍太郎は以前から知っていた。
 ロイは時々、激しい嘔吐をした。たいして食事も摂れていないというのに、食べたものを全て吐いても、それが治まらないことがある。
 精神的なものなのだろうが、体力を消耗させるため、その治療も行われている。
 その症状をジムが知ったとき、この大男はぼろぼろと涙を零した。
「……吐く……?」
「惨い目にあったことで、気持ちがまいっているのだと思うが」
 龍太郎の言葉に、ジムは頭を左右に振った。
「それも……あるでしょうが……。それはおそらく……」
「なにか心当たりが?」
「その際中に……、何度も吐いたんだ!」
 ジムが苦い食べ物を吐き出すように言った。「何度も……。吐くほど喉に責めを……。ちくしょう……! あの綺麗な唇をこじ開けて……どこもかしこも穢しやがった!」
 龍太郎は目を閉じた。
 無惨な傷跡は、確かにどこもかしこも、ひとりの人間を玩具のように扱ったことを物語ってはいたのだ。
 食事が喉をとおらないのは、その影響も大きいのかもしれない。食べるものが喉をとおる度に、身体が嫌なことを思い出すのかもしれない。
 その告白を聞いて以来、何でもいいから食べられるのなら、食べたほうがいいと思い、持ち込まれたものは黙認していた。
「きれいな色だな」
 意外なことに、ロイはジムの差し入れを、毎回素直に受け入れた。
 決して器用とは言いがたい手つきで林檎を剥き始めた、ジムの横顔をじっと見つめているロイの瞳が穏やかなグリーンの光を湛えるのを、龍太郎は不思議な思いで見ていた。
 冬の海を思わせる冷たい藍色の瞳――。
 龍太郎が知っているのは、そんな目の色だ。だが今、その瞳は陽射しがさしたように揺れている。
 落ち着くのだろうな、と龍太郎は思った。
 このジムという男は、図体はでかいが、そんな安らぎを感じさせる。荒々しい動きで、あまり繊細とはいえないのに、懐の深い人間なのだろう。
 穏やかな表情のロイを、龍太郎は眩しげに見つめていた。
 かしり、と音をさせてロイは林檎の破片を囓った。躊躇いなく嚥下させる白い喉もとが、上下に動く。
 さわやかな林檎の酸っぱさが、嫌なことを考えさせないのか、それともそれをジムが渡したものだからか、躊躇いなく、それはロイの喉をとおっていくようだった。
 ただそれだけの仕草が、妙に龍太郎の心に残った。

 病院の敷地に、うっすらと雪が積もっている。
 龍太郎はカーター少佐と共に、駐車場に向かう小道を歩いていた。何か話ししたげなカーターに誘われるようにして、龍太郎は散歩がてら、少し歩くことにしたのだ。
「ホーナーのおかげで、フォード大尉も大分落ち着いたようですね」
 龍太郎が言うと、カーターが呟くように応えた。
「同じ苦難を共にしたせいでしょうか? あのふたりには強い絆が生まれているようだ」
「……多分ね」
 龍太郎は素直に相槌を打った。
「知ってますか? 目には見えない速さで飛んでくる銃弾の強さが」
「強さ? 目に見えないのに分かるんですか?」
「分かるんです」
 何を言いたいのか、龍太郎が捉えかねていると、カーターはかまわず続けた。
「人間の悪意の塊だからですよ。武器には善の心など、何も含まれてはいない」
「なのに、あなた方はそれを使うのが仕事だ」
「そう……。志を持って入隊した。誰もが同じ想いで。私の父もSEALでした。フォードのところは親子三代、海軍の家系です」
「あなたは今、軍人であることを後悔しているんですか?」
「そうではない。誇りに思っています。けれど、この仕事は喪失感も大きい……」
「私が医学の道を進んだように、ですね。決して思うようにいかないこともある」
「そう……。所詮、どういう道を選んだとしても、皆同じように良い部分と悪い部分があるということなんでしょう。……悪意は武器だけじゃない。それを持つ人間の魂がそれを必要とする。武器がなくたって、簡単に人の一生など打ち砕くことができる……。その悪意のみを全身で受け取った場合、それを打ち砕くのは容易ではないでしょうね……」
 龍太郎には、この男が何を言いたいのかが、やっと分かったような気がした。
 一発の弾丸で、人は容易に死んでしまう。
 悪意の塊。そこには、なんの善の要素はない。
 だが、その悪意が幾重にも重なってじわじわと死に至らしめるとしたら――。
 ひとりの人間に余るほどの、悪意だとすれば――。 
 龍太郎は、軽い目眩に襲われた。
 少佐の胸元の金のバッジが、冬の光にきらりと反射した。
「彼は生まれながらのリーダーだと、私は思う。それこそ、私が努力した部分を、もともと備えた男なんです」
「フォード大尉が?」
 龍太郎は、無意識に表情を消しているように見える、大尉の横顔を思い浮かべた。
「じきに、彼は新しいチームを率いることになるでしょう。今回のことが、その妨げにならなければ、と願うばかりです」
 龍太郎は、銃弾の飛び交う中を、背をかがめて侵攻する、兵士たちの姿を想像した。もっとも、それはいつか映画で見た程度の、貧相な場面ではあったが。
「まあ、ホーナーがついてる。あいつがいれば、大丈夫でしょうが」

 バタン、と駐車場から車のドアが閉まる音がした。
「少佐! 先に来てたんですか?」
 車の側から、一人の青年が走り出してきた。
「俺、大尉を見舞ったらすぐ戻るから、待ってて!」
「ああ、分かったよ。ドクに挨拶して。ドク、カイル・デミです」
「ドクター? 俺が怪我したときはよろしく!」
 野ウサギのように、素早い動きで立ち去っていく後姿を、龍太郎は見送った。カーターも何となくカイルのほうを見ていた。
「彼は、我々のチームの狙撃手なんですよ。あれでも」
 カーターが微笑みながら言った。
 ジージャンを引っ掛けた、学生のような姿があっという間に病院の建物に消えていった。
 この青年が、いずれ本当にこの病院の手術室に横たわることになろうとは、さすがに龍太郎も考えつくこともできていなかった。
 それほどに、生き生きとした動きが美しい。
 ロイだって同じように、躍動感に溢れる青年だったはずなのだ。
「大尉と同じ年くらいだったかな、カイルも」
 カーターが眩しそうに目を細めて、カイルの消えていった建物のほうを見やった。
「みんな、若い……」
 龍太郎は、思わず呟いた。
「ええ、みんなね」
 若いからこそ、哀しい。
 誰よりも鍛え上げた美しい身体を傷つけられて、長い一生を病人のように送ることになる運命が隣り合わせだから。
 あるいは、不意にその生きるための鎖を断ち切られるから。
 どの世界にいても、運命というのは残酷だ。どこにだって危険は潜んでいる。
 でも、分かっていて飛び込むものはそれほど多くはないだろう。自ら志願して、自分たちの祖国を守ることに意義を感じているからこそ、彼らはその運命を恐れない。
「フォード大尉は、戻れないかもと、私は思いますよ」
 龍太郎の言葉に、カーターは顔を上げた。
「戻らない方が、おそらく彼のためにはいいでしょう。デスクワークなどを考えてあげてください」
 じっと龍太郎の顔を見つめていたカーターは、そうですか、と小石を蹴った。

 カーターと別れると、入れ替わりに、また紺色のコートを着た影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 隣に小さな女性が手をつないで並んでいる。
 年配の恰幅の良い紳士は、たびたびフォードの病室を訪れている、カーターの更に上の位である、バーク大佐だと龍太郎は覚えてしまっていた。
 最初に患者が運び込まれた時もカーターのそばにいた。隣の夫人も、一人で見舞いに来る姿を時折見かけた。
「ドクター」
 バーク大佐は微笑み、夫人がにっこりと微笑んだ。
「今日は見舞い客がひっきりなしでしたよ」
 龍太郎が言うと、大佐が頷いた。
「来られないときがあるから、暇ができると集中するんでしょうな」
 この夫婦は、ロイを自分の息子のように心配しているようだった。
 婦人は、細かい事情は知らないらしく、ただ息子のような大切な男が傷ついて戻ってきたことに胸を痛めていた。
「ロイは食事をしてるかしら? ただでさえ、あまり食べるほうじゃないのに」
 婦人は、手製のスコーンだと言って、包みを見せた。
「渡しても大丈夫?」
 龍太郎は「何でも食べられるものは、差し入れてください」と言って、この少女のような表情をした夫人に微笑みかけた。
 彼女のスコーンも、きっとロイの喉をとおるだろう。


 間もなく消灯、という間際に、龍太郎は再びロイの病室を覗いた。
 ロイは横になって、眠っているようだった。
 その顔を覗き込むようにして、そばにホーナーが蹲っている。龍太郎の気配を察して、ホーナーが慌てたようにこちらを振り向く。
「そろそろ、消灯だよ。本当なら見舞い客は入れない時間だ」
 龍太郎はそっと、声をかけた。「彼は眠っているのかな?」
「夕食がすんで、三時間ほど……」
「そうか、あまり眠れていないようだから、このままにしとこう」
「じゃあ、俺は帰ります」
 ジムは名残惜しそうに振り返ると、もう一度ベッドのほうを窺い、静かに立ち上がった。廊下へと出たジムを見送るように、龍太郎は一緒にエレベーターの方へと歩き出した。
「明日から、暫く来れないかもしれません。遠方へ行くので……」
「大丈夫、彼のことは気がけておくよ。あなたもあまり最初から無茶をしないように」
「俺は……大丈夫です。手を抜いてますから」
 ジムは朗らかな笑みを浮かべ、その表情を引き締めた。
「大尉をお願いします」
 ジムがエレベーターの箱の中に消えると、龍太郎は看護師に呼び止められた。
 昨日入った患者の容態が急変したという報告に、龍太郎は階段を駆け下りていった。

 龍太郎が、ロイの病室に戻ったのは、ずいぶんたってからだった。
 ロイはあのまま、眠り続けているようだった。
 だが、その夢が穏やかではないものであることを物語るように、ぴくり、と身体を震わせ、ロイがつらそうに眉をひそめた。
 龍太郎が入ってきた物音に反応したのかもしれなかった。
 毛布からはみ出た手が、ぎゅっとシーツを掴むように閉じられる。
「大丈夫だ、大丈夫だよ…」
 龍太郎は静かに声をかけ、握り締めた指をほぐすように優しくさすった。
 ロイの冷たい指先が、龍太郎の手をそっと掴むと、ロイは再び穏やかな寝息を立て始めた。
 いつも、脈を取るたびに、この男の体温の低さを感じていた龍太郎は、思わずその手を握り締めた。
「ロイ、安心して眠りなさい」
「……いて……。そばに…」
 眠ったまま、真綿にくるまったような不明瞭が声が聞こえた。
「ああ。いるから。大丈夫」
 空いた方の手で、龍太郎はぽんぽんと胸元を叩いた。
 ふうっと軽く息を吐いて、その呼吸が規則的に繰り返されていくのを龍太郎はじっと見つめた。
 ロイの眠る顔が、穏やかに変化してきたのを見て、龍太郎はやっと、得心がいった。
 先ほど、ジムはこうして彼の手を握っていたのだろう。
 押しつぶされそうな悪夢にうなされるたび、深夜ロイはこうして、誰かの手の温もりを探していたに違いない。
 ジムがやって来る、僅かの時間だけが、ロイが安心して眠れる時間だったのだ。
 龍太郎は、もう一方の手で、ロイの形の良い、綺麗な額にかかる、金色の髪をそっと払った。
 少し濃い目の、金粉でも入っているかのような美しい髪の色。
 くぼんだ瞼の下の金色の睫が、濃い影を落としていた。
 龍太郎は思わず、その額にそっと唇を押し付けた。
 医師にあるまじき行為……。
 ちくりと胸を刺した、自身の警告を、龍太郎は嘲笑った。
 カーターが言った言葉が思い出される。
「ホーナーがいれば大丈夫……」
 その言葉に、無意識に嫉妬していたのだと、龍太郎は認めざるを得なかった。
 林檎を剥く、ジムを見つめていた深いグリーンの温かな光に。覆いかぶさるように、眠るフォードを覗き込む、大きな後ろ姿に……。
 カーターは気付いているのだろうか?
 いや、カーターだけでなく、当の本人たちでさえ、何も分かってはいないのかもしれない。ついさっきまで、龍太郎自身がそうであったように……。
 カーターが言ったように、いつの日か、彼は多くの兵士を率いて、再び戦場へと出向くのだろう。その側を、片時も離れず、見守り続けるジム・ホーナーの姿が目に浮かんだ。
 ロイが剥ぎ取られた鎧の代わりに……?
 代わりになりうるのは、ジムなのだろうと、龍太郎は思う。少なくとも自分などは通りすがりのただの医者以上の役割はない。
 それにもう、龍太郎は毎日この病院にいるわけではない。すでに、ハルトマンから、ロイの治療を専任すると言われてもいた。
 窓の外には、黒い背景を狂ったように、雪が舞っている。
 風もなく、音もなく降りしきる雪は、今夜世界をすっかり覆いつくしてしまうだろう。そうやって、ロイの心の中にも真っ白で無垢な雪がつもってしまえばいいのにと龍太郎は思った。
 嫌な記憶を、すべて消してしまうように。
 消灯後の病院は、薄い灯りだけを残して寝静まってしまっている。
 ロイの細く長い指に、やっと龍太郎の体温が伝わり、人間らしい温もりを持ち始めてきた。微熱があるというのに、いつもこんなに冷たい指をしているのだろうか、と龍太郎は思った。
「大丈夫だよ」
 龍太郎は、またそっと囁いた。
「誰にも君の眠りは邪魔させない。ゆっくり眠りなさい」
 握られた手に、安心するかのようにロイは寝息を立てている。規則正しい、夢すらも見ていないような呼吸が、穏やかに胸を上下させている。
 ロイの静かな寝顔を見ていると、彼を再び悪夢の世界に戻したくはなかった。
 見回りの看護師が来たら、龍太郎はきっと先ほどのジムのように、慌てふためくに違いない。
 どう考えても、大の男の手を握っている医者の姿は異様だろう。
「――まあ、それもいいさ」
 龍太郎は、自分の想像に苦笑した。
 今夜はずっとここにいよう、と龍太郎は決めた。不可思議な、自分の裡に芽生えた感情を見つめるために。
 彼の指先から、身体中に龍太郎の温もりが伝わるまで……。
 ジム・ホーナーの代わりに、とは思うまい。
 龍太郎は椅子に座ったまま目を閉じた。
 とりあえず、今夜だけは彼のなくした鎧の代わりに。
 美しい眠れる人の側で……。
 詩人のような発想に、龍太郎はくすりと笑った。




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