[クライングナイト] of [硝子の破片]


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第三十六章 クライングナイト

 ジム・ホーナーは長いこと、ロイの良き理解者――友人であり続けた。二人の関係は、親友と呼べるまでに親密になり、ロイが意外な短絡的な結婚を決意したときも、またそれから日をおかずして離婚してしまったときも、黙ってスタンスを変えることなく、見守り続けた。それしか、他に方法がなかったせいもあるが、一歩を踏み出す勇気がジムにはなかったのも事実だ。
 上質の士官としてのロイは、ジムにとって誇りでもあり、また、それでいて時折見せる生きることに不器用そうな雰囲気をかいま見るたびに、そっとそばにいることで支えてきたつもりでもあった。
 ジムはなぜだか、自分の胸の裡に大きな黒い孔を抱えていると、常に感じていたし、その孔がなんによって穿たれているのかも漠然とながら自覚はしていた。
 それを、自分は一生抱えて生きるつもりでもあったし、ロイにもまた漆黒の孔がその胸中にあることを感じることはあっても、それがジムと同じ種類のものであるとうぬぼれるほど、ジムには自分の――ロイにとっての――自信があるわけでもなかったからだ。
 ふとしたとき、ロイが自分をじっと見つめている気がすることがたまにあった。そんなとき、ジムの心臓はいつになく走った後のように鼓動を早めた。あるいはもしかしてロイは……と探るように見返すと、ロイはいつも何事もなかったかのように目線を逸らした。
 これを天から眺めている神様がいたならば、ふたりはとっくにお互いを特別の存在だと思っているのは明白であることに気づいただろう。
 だが、互いに「それは間違った感情だ」とでも思っているかのように、穏やかに自分たちの気持ちを隠して生活することによどみがないようにも見えたはずだった。
 その、言ってみれば不安定な、本音を隠したふたりの関係が壊れたのは――。
 ジムがとうとうそばにいるだけでいいと思えなくなったのは――。
 ロイが傷を負って帰ってきてから、実に三年もの月日が流れた後のことだった。
 それは、哀しみに満ちた夜に起こった。

 砂浜に打ち寄せる波が荒い。
 ジムはロイを支えるように背中に手を当て、長い海岸線を波の音に耳を傾けながら歩いていた。
 居並ぶリゾートホテル街のさらに北に位置する場所は、別荘や冬でも海辺に住みたい人たちの、わずかな居住空間となっていた。バーク家の別荘から、ずっとずっと北を辿った岬の突端に、白い家が見える。オレンジの屋根に、真っ白な壁を持つビーチハウス。
 今は、そこがロイの借りている家だ。
 新妻の希望で借りた家は贅沢で、ロイはそれをすぐに処分するつもりでいたらしかったが、なんやかやとあわただしく過ぎていく日常の中で、いつの間にか借りたままになっている。
 家が見え始めたというのに、ジムの横を歩くロイは砂に足を取られ、よろめいた。
 珍しく深酒をした。
 もちろん、ジムも相当に飲んだ。だが、今夜の酒はまずかった。さっきまで一緒にいたチームの全員が、同じように苦い酒を飲み、重苦しい想いを抱えて帰途についている頃だろう。
 一昨夜、デビッド・ガーランドが死んだのだ。
 任務中の殉職だった。ガーランドは二階級特進となって、棺に納められ、棺に掛けられた合衆国の星条旗が肉親に渡された。
 仲間を失うのはつらい。ことに、隊長であり、訓練校時代からガーランドの面倒を見てきたロイは、泣くに泣けないに違いなく、涙の代わりに、ただ青い顔をして酒を飲み下していた。おそらく、ロイがガーランドのために泣くとしたら、ひとりになったあとのことだろうと、誰もが知っていた。

 頭を冷やすために歩いてきた砂浜から、これ以上進めないところまで歩いてくると、荒く険しい岩肌が見えてくる。そして、その海岸沿いに、切り立った崖がだんだん高さを増してゆく。
 ロイの高台のビーチハウスや、距離を置いてぽつんぽつんと建っている他の住人のために、三メートルほどの崖に木製の梯子のような階段がかかっている。
 ぎしぎしと音を軋ませながら、ロイは先に上りかけ、あがりきれない足が階段に躓いて手をついた。
「しょうがないな」
 立てるか、と聞いても、もやは返事もない。
 ジムは、いったんロイを階段から剥がしてから、大きなたくましい腕でロイを横抱きにした。士官のドレスブルーの制服に包まれた身体が、酔いに任せて無防備にジムの手に預けられた。滅多にロイはこんな醜態を見せない。
 ふと、ジムは一番つらいときだったあの頃、こうしてロイを抱えてまわったことを思い出した。
 小さな幼子のように、ジムの首に手を回して縋ってきたロイがいたことなど、もう誰も思い出せないほどに、ロイはチームの隊長として身も心もしっかりと生活をしている。
 階段を上がってしまうと、ロイは大丈夫と呟きながら再び自分の足で歩き、玄関の鍵を開けて中に入った。ジムも黙ってついていく。ジムだって、乱れてはいないが、相当に酒が回っている。帰宅するために十五分程度とはいえ、車に乗るわけにはいかなかった。ジムは未だに古ぼけた、あのエレベータもない、独身専用のアパートに住んでいるのだ。
 このまま、ソファかどこかで寝かせてもらうつもりだった。
 だが、ロイはベッドに制服のまま横になった。
「しわになるだろ、飲み過ぎたな、今夜は」
 ジムはロイの濃紺の上着に手を掛けた。
 上着くらい脱げよ、しょうがないなと呟きながら肩に手を触れると、初めて他人の存在に気づいたかのように、ロイが跳ね起きた。ロイの瞳は、まともではないような色を湛えている。
「触れるな!」
「ロイ?」
 何を今更、とジムは戸惑い、久しぶりに見る怯えたようなロイの顔を見つめた。くっつきあって、訓練をすることにもさほどの屈託も見せなくなっていたはずなのだ。
 ロイは自分の両肩を抱くようにして、ジムから視線を逸らしている。
「――俺に……触れ……るな。だれも、だれも……」
 相手がジムではないかのように、ロイの声が震えていた。それはかつて、ロイが汚辱にまみれた後、苦しんでいたときのままに見えた。
 悲痛なその声を聞いて、ジムは一息に三年前の忌まわしいあの牢獄の匂いまでを思い出していた――。

 ――忘れていたと、思っていた。
 実際、あの頃関わったバーク大佐やカーター少佐ですら、すでにすっかり現在のロイを眩しそうに見ることはあっても、痛ましさや心配げな眼差しを向けることはほとんどない。
 失敗に終わったとはいえ、女性と恋をし、結婚までした男の過去を思い出すようなことはなくなって当たり前だ。
 だが、きっとそうではなかったのだ、とジムは唇を噛んだ。その女性との破局の原因もまた、過去に根ざすことは間違いないはずだった。それでも、ロイは、その後の独身生活を淡々と過ごしていたかに見えていた。
 ジムですら、そんなロイに安心していたのだ。すっかり、過去のことなど忘れたかに思えたロイは、だがその酔いのためか、あるいは悲惨に命を散らした隊員が我が身に重なったのか――。
 おそらく一人で過ごす夜、ロイは未だ、過去の鎖に縛られることがあるのだと、今夜痛いほどにジムは思い知らされた。おそらく、ほんのたまに。ロイ自身すら忘れかけた頃に。
 三年もの間――。三年もたってなお――。
 いや、それは“まだわずかに三年ほどしかたっていない”というべきか……。
 思わずジムは、ロイの腕を両手で掴み、その唇を奪ってしまっていた。
「ジ、ム……なんの真似だ!」
 ロイは驚き、瞬間ジムをはね除けた。身を捩って逃れようとするが、ジムは離さなかった。
「聞けよ、ロイ。あんたこのままでいるつもりか? 好きな女も抱けないまま……」
「ほっとけよ、だからってなんでこんなことを……」
 おまえは馬鹿じゃないのか、と言われているようで、確かにそうだ、とジムは心の中で嗤った。自分がしていることは理屈に合わない。ましてや、ロイを蹂躙した人間と同じことをしようとしているジムを、ロイが許すはずもない。だが、今夜、ロイの空虚なまでに整然とした生活感のない部屋の空気や、ベッドに横たわったロイ自身が発する孤独感に、ジムが押しつぶされそうだった。
 ずっとずっと、好きだった、とジムは自分の気持ちにせかされていた。ずっとずっと、見守ってきた。この人のことしか見ていなかったし、この人のことしか考えずにこれまできた。しっかりと、ひとりの男として生きているロイに、自分もそのそばにいられるだけでいいと思い続けてきた。
 だが――。
 今また、ロイの心の中にあいた暗い空洞が見えるような気がした。たくさんの友情に囲まれていてさえなお、孤独を抱え続けているのなら、そしてそれが友情では埋まらないものなのなら――。
 ジムにはもう、自分を止めるつもりさえなかった。
 どこか遠くを見ているような、怯えた瞳をもう、ほっておくことなどできなかった。

 ジムの無骨なはずの指が、唇が、ロイを少しずつ崩していく。
 瞬間、我を忘れてしまったそのあとに、自分が今、ジムによって一枚一枚服を剥がれていくのを、他人事のように感じていた。 
 かつて、ロイはめちゃくちゃに打ちのめされていたとき、無性にジムを求めて「自分を抱いてみてくれないか」と、言いかけたことを覚えていた。
 それで、ジムがなんというか知りたい、断られて蔑んだ目で見られるのか、それとも受け入れてくれるのか、そうなったとき、本当にロイがそんなことに耐えられるのか――。
 あるいは、本気で自分がそれを望んでいるのかどうか――。
 そのとき、そんな想いが錯綜したことも思い出した。
 ずっと、そう思い続けていたのかもしれないとすら思う。いや、きっとそうだったのだろう。美しい女性に恋をしたと思っていた。彼女を幸せにできるのではないかと思って、結婚に踏み切った。だが、そういったことでさえ、もしかすると自分は“ジムを安心させたくて”そう思いこんでいたのではないか……。でなければ、社会的に正当な道ではないと――もちろん軍はそれを禁じている――自分に言い聞かせていたのではないか……。
 そんな道にジムを引っ張り込むわけにはいかない、いやジムのためなどとごまかしてはいるが、自分自身の逃避として、これまで心の真ん中にある疑問から目をそらし続けてきたのでは……。
 ジムの身体はたくましく、恐ろしいまでに力を漲らせていた。いつなんどきでも、ジムは生命力の塊のように、夏の草を思い出させるような、暖かさを持っている。
 ジムにそうしてほしい、と思う反面、そういった他でもない男性体の下になって、自分が自分の意志を保てない状態になるなどということは、考えるだけで怖くもあった。
 ジムの唇が、ロイの全身に優しくキスを始めた。
 いつかも、こうしてジムはロイにキスをしてくれた。怯えながらも、不可思議な感覚に溺れそうになったことを思い出した。
 ――ジムは、もうずっと以前からロイを特別な存在としてそばにいてくれていたことを、その記憶が思い知らせた気がした。そのとたん、ひどく泣きたいような気分に陥ってロイは慌てた。
 ――ジムが自分の身体の一部であったなら……。片時も離れることのできない、パーツの一部であったなら……。ロイ自身がジムを特別な存在だと感じ、そう思い続けてきたことすらも、やっと自覚できた気がした。
 今ジムがそれを実行しようかとするかのような勢いで、ロイの閉ざしてきたすべてを押し開いた。
 怖い、と思う反面、限りなく待ち望んでいたようにすら思える。身体は意志に反して、すでにジムの与える快楽の兆しを感じ始めてさえいる。
 やっと他人の手によって翻弄されているばかりの自分の身体に意志を持たせ、握りしめていた拳を薄闇に持ち上げてみると、それがロイの脳からの指令を拒否するかのように震えているのが分かった。
 その手をのし掛かる重い背中に回して、手を開いて肌の感触を確かめた。
 まだ、怖かった。
 ジムの圧倒的に重い身体が。
 それに身を任せてしまいたいと思う、自分の心が。そして、他愛もなく沸き上がった本能的な身体の反応が。胸の奥のほうから、こみ上げてくる苦い記憶が――。
「俺はあんたが好きだ。ずっとずっと好きだった……」
 何度も繰り返し囁かれる声に、ロイは瞼を閉じた。
「愛している……ロイ」
 ああ、とロイは頷き、眦から流れ出る熱いものを止めることができなかった。
 愛している――。おまえは俺を……愛してくれている。そして俺もまた……。
 ロイは今夜そういったすべての葛藤を捨て始めていた。捨てて、ジムのなすがまま、自らの思考能力すらも停止させかけていた。 
 怒濤のように荒れ狂う波にもまれるように、いつの間にかロイはただ、その囁きに溺れ始めていた――。  

 室内は仄暗い常夜灯の明かりだけだった。
 つい、眠ってしまっていたらしい。酒と疲労の蓄積と久しぶりにすっきりとした感覚に満足感を覚えて、ほんのわずかながらも、うとうとしてしまったのだろう。
 ジムは起き上がり、手を伸ばして下着をつけると、キッチンの冷蔵庫まで足音を忍ばせた。外で潮騒が激しいうなりの音をさせているのはいつものことだ。
 ジムはキッチンのベランダを開け、吹き付けてくる潮風に頬を当てた。薄着の身体にぶるっと震えが走る。あまりの寒さに窓を閉め、ジムは両手で身体を抱くようにした。すでに秋も終わろうかという、こんな季節に下着のシャツ一枚でうろうろするなんて馬鹿のすることだ。
 ジムは、部屋の隅にある暖炉の前にしゃがんだ。確かロイは今時薪を使っていた、と暖炉をのぞき込むと、手入れをしていつでも点火できるように薪と人造の炭が積んであった。長いマッチで火を入れたとたん、炭はあっという間に炎を吹き上げ、それだけでほっとする熱風を感じた。炎は落ち着いてくるにつれ、薪を燃やしつつ赤い熱源となって部屋を暖め始めた。しゃがんだまま、ジムは長いこと身じろぎもせずに、その赤い炎を見つめていた。
 だんだん頭が覚醒してくると、自分が今広くて寝心地のいいベッドから抜け出てきたことを思い出した。いつものようにソファではなく、片隅にロイの眠るあのベッドから。
 そして、しびれるような感覚が身体に残っていることも自覚した。
 そうだ、俺はロイを――。
 とうとう、禁断の領域を、自分は侵してしまったのだ、とジムは空っぽになったような心を塞ぐように、自分の胸に手を当てた。それはこれまで真っ黒な孔が穿たれている、と感じていた空虚さとはちがう、むしろその孔がどこかへ吸い込まれて消えてしまったかのような軽さを感じた。
 何度も何度も、ロイを愛していると囁いた、自分の声が耳元に甦った。その最中、夢中で自分でなにをしたのか、はっきりとは思い出せないほど頭に血が昇ってしまっていた。 覚えているのは……。
「吐きそうだ」とロイは何度もジムに訴えた。その言葉はジムを凍らせた。それは、ロイが何度も悪夢と戦って起こしてきた症状だ。それでも、ジムはやめなかった。
 宥め、吐いてもいいからとむちゃくちゃなことを呟きながら、ジムはロイをその大きな体の下に組み敷いた――。
 たくさんのキスを、ありったけの情熱を、今夜ロイにジムは注いだのだ。
 もう、そばにいることすら許してくれないかもしれない。ジムの本心を知ってしまった以上、そして押さえつけるようにして、激情をぶつけてしまった今、ロイには今後、受け入れるか拒絶するかのどちらかの選択肢しか残されていない。何事もなかったように、以前のままにつきあうことなどできるわけもない。
 酔った勢いだという、いいわけなどしたくはなかった。
 まだ暖まりきれない部屋の寒さも気にならなくなっていた。
 ジムは自分がしでかしたことを反芻し、体中の力が抜けていくような焦りを感じていた。


 ロイは目を開けた。
 薄暗い常夜灯が簡素な部屋の中に、少しだけ視野を開いている。
 どれほどか分からないが、気を失っていた気がする。単に眠っていただけとは言い難い、切迫したものが途切れたあとの闇を覚えていた。だが、霞みがかかったような脳内に、ぱたんと静かにドアが閉じられる音がしたのは聞こえていたし、意識が遠のく寸前に聞いた、ジムの低い、「すまん」という声も夢ではないはずだった。
 なにが起こったのか、とロイは数回瞬きをした。指一本すら動かないほど、疲れ果てているように身体が動かなかったからだ。
 白い天井を、ロイは見つめた。
 それがスクリーンででもあるかのように、様々な光景がフラッシュのように甦る。それはほんの今さっき、経験した出来事をまるで自分が映画を見ているかのように、客観的に映し出していた。ただ、自分は視点の中であり、姿はもちろんなく、見たままのジムの姿だったが。
 思わずしがみついた、はりのある固い背中と、自分のそのときの指先の感触だけが生々しく、いっさいの出来事が夢ではないと教えていた。
「……ジム……」
 瞼がふっさりと落ちた。
 まるで嵐の中で風雨にまみれて戦地を駆け回ってでもいたかのように、身体が疲労している。それなのに、今心がひどく穏やかなのが不思議なほどだった。
 ゆっくりと、ロイは身体を起こした。
 ベッドルームの空調は、ジムがセットしたのか心地よい温度を保っている。
 何も身につけていない自分の身体が、なんだかひどく卑猥なものに思えて、慌ててまた、上掛けに潜り込んだ。羽毛がたっぷり入った冬用の上掛けは、ほかほかとジムのぬくもりをまだ残している気がした。
 なぜ今、ジムはここにいないのだろう? 
 改めて顔を合わせたとき、自分はジムになにをいうのだろう、とロイは自問した。トイレにでも行ったのなら、すぐに戻るだろうと思っていたのに、ジムはなかなか戻ってこなかった。
 いつの間にか、ロイはふたたび微睡みの中に意識を沈め始めていた。

 出たときと同じように、ジムは足音を忍ばせて寝室へと戻ってきた。
 ベッドの脇に立って、ベッドをのぞき込むと、ロイは上掛けにくるまるようにして横たわっていたが、気配を察したのか、長い金色の睫が震え、半分ほど開いた。ジムは思い切って持ってきたペットボトルを口に含んで、唇から直接水をロイに与えた。
 暗い常夜灯にすらそれと分かる青緑色の瞳が、戸惑うようにジムを見つめた。
「喉が渇いてるだろ。もっと飲むか?」
 ジムが手にしたままのミネラルウォーターの瓶を差し出すと、ロイは少し身を起こして唇をつけた。
「……大丈夫か?」
 なぜだか、掠れてしまった自分の声に、ジム自身が羞恥を感じた。
「……あちこち、だるい……」
「すまん。いや、そうじゃなくて……」
 身体に負担をかけてしまったのは言われなくても分かっている。ジムが聞きたかったのは――。
「大丈夫かっていうのは、おまえが悪鬼に見えたかってことか?」
 ジムの不安を感じ取ったかのように、ロイが言葉を続けた。
「……ほんとにどうかしてた。あんたがもっとも嫌だと思うはずのことを……俺は無理矢理……」
「馬鹿にするな。いくら酔っていても、本気で拒めば拒めた」
 ロイは目を閉じて、深い息を吐いた。ジムは、なんとなくリアクションに困り、水を一口飲むと、ベッドの端に腰を下ろした。じゃあロイは、本気で拒まなかったとでもいうのだろうか。歩くことすらおぼつかないほど、酔っていたくせに。それを承知でジムがなにをしようとするかを、分かっていて受け入れたとでもいうのだろうか。
「俺は……たぶん、ずっとおまえを望んでいたのかもしれない」
 囁くような声が、渇いた空気に溶けるようにしっとりと響いた。
「望んでいた? 俺を?」
 多分な、とロイは小さく笑った。
「ずっと、こうして欲しかったのかもしれない……おまえのその温かい手で……」
 ロイは自分の言葉に躊躇うように言葉をとぎらせ、ちょっと唇を閉じた。ジムは黙って次の言葉を待った。
「……おまえの手が触れると、俺は生きているという実感が……なぜだかずっと、手を握ってくれるだけでなく、すべてを包み込んでほしいと……思っていた気がする」
「ロイ、ほんとか?」
「酔ってるのかな。馬鹿なことを言っている」
 もっと酒を持ってくるか? とジムは心の中で思った。酔ってこんなことを言ってくれるのなら、浴びるほど飲ませたってかまわない。
 ロイはジムの胸に頭を預け、くっついた左側の耳を押しつけた。
「おまえの心臓の鼓動の音が好きだ。いつも力強くて……生きろ、と俺に伝えてくれる。おまえはいつも太陽のような、夏の日差しを思い出させる匂いがする……どんなに寒くても、おまえの身体はいつも温かくて、活力にあふれている……」
 柔らかな金色の髪が鼻先をくすぐる感覚もさることながら、ジムは思わぬロイの長饒舌に頬が赤くなってしまっていた。それも、思い切りの愛の告白のようにすら聞こえる。
「吐かなかったな」
 ジムは、どう言ったらいいか分からなくなって、雰囲気がぶち壊れるような言葉を吐いた。馬鹿丸出しだ。
 ロイが「殴り損なった」とくすっと笑った。
 吐きそうだ、と嫌がったロイに、吐いてもいいから、殴ってもいいから、とジムが言った言葉を覚えていたらしい。とにかくジムは必死だったのだ。
 ロイが不意に笑い始めた。照れも手伝って、ジムもつられて笑い出した。額をくっつけあって、ふたりで忍び笑いを交わし合ううち、ジムの瞳にじんわりと涙が浮かんだ。
「……よかった。笑ってくれて。嫌われるかと覚悟していた」
 ジムが鼻をすすると、ロイがにじみ出てきた涙を拭うように――相変わらず涙もろいな、と笑いながら――細い指でジムの目元を撫でた。
「あの時、おまえはすべてを見ていた。あの時もおまえのほうが泣いていたな。ずっとずっと、俺を見ていてくれた、いつも変わらずそばにいてくれて……」
 ロイは、きりっと酔いを忘れたような表情をした。
「おまえがいたから、今までこれた」
 その、青緑色の、今は深い緑色が強く表れている温かそうな色をした瞳が、まっすぐにジムを見つめている。
 ジムの黒い瞳から、ぼろっと大きな涙の粒があふれた。
「ほんとうだ。……ジム」
 そうとも。
 ジムはロイを抱きしめた。
 いつだってそばにいる。あんたが子供になろうと、兵士であることを辞めることになろうと、そんなことはどうでもいい。ロイがロイでいるという、ただそれだけがジムにとって大切なことだ。そして、その時々に、必要な形でそばにいることさえできるのなら――。
 いや、ほんとうはそうではない。
 ジムが好きなのは、やはり上官として尊敬できる若き士官だ。
 どんな目に遭おうとも、必死で祖国のために戦い、守ろうとしている戦士であるロイだ。日常の、自分の生活などとんと関心がなく、遊びらしい遊びもせず、呼吸すら忘れるほどに仕事に打ち込んで、不意に窒息しそうになっているロイの肩の力を抜いてやる――。そして、できることならこの手に抱きたいと、ジムはどれほど望んでいただろう。つきあってきたこれまでの数人の女性たちを愛するがごとく――いや、そんなものではない、もっともっと深い部分でつながることを、ジムは長い間夢見てきたと言っても、それは決して言いすぎではない。
 それほどまでに、人を求めたことはジムにはなかった。
「ずっと、そばにいる。あんたが迷惑でないなら」
 ロイはふっと唇をゆるめ、頷いた。
「そばにいてくれ。おまえが迷惑でないなら」
 この瞬間に、ロイに何が降りてきているのか、ジムが理解できないほどの素直さを見せる愛しい人の珍しい姿に、ジムは感激してそれ以上の言葉はでなかった。
 薄い上掛けにくるまれただけの、なめらかな皮膚を撫でるようにさすり、ジムはその細い身体を思い切り抱きしめた。
 ジムは知っている。ロイが一度に充分な量の食べ物を食べることができなくなってしまっていることを。あの、忌まわしい出来事以前の体重にはまだまだ戻り切れていないことを。健康体ではあっても、わずかどこかが以前とは違うのだということを。
 それでも一頃と違って、薄いながらもすっかり綺麗な筋肉に覆われた身体を、ジムはもう二度と離さないと心に誓った。
 離さない。
 なにがあっても。
 さっきまでの、むせび泣くかのように孤独な陰が、ロイの周りから消えているのが、ジムには嬉しかった。
 それを塞いでいるのは自分なのだと、この夜ジムは初めて実感した。それはジムの胸に空いた、黒い大きな孔が塞がった瞬間でもあった。
 支え合うのが人だという。父親の口癖である、子供の頃から聞かされていたその言葉の意味が、ジムにはやっと分かった気がした。守るだけではだめなのだ。
 ロイは隊長として、できすぎている。任務の成功を第一としながらも、部下の命も第一として考えるから、自然自分のことを後回しにしてしまう。相容れない二つを天秤に乗せたとき、そこに生じる齟齬は、自分の命で埋めるしかない。
 乗り込むときには、先頭に立ち、撤退するときはラストを行く。それでも、今回のように運命が容赦なく隊員を捕まえてしまうことは避けられない。庇って庇えるものなら、ロイは部下を死なせる代わりに自分が犠牲になることを厭わない。
 だから、ジムが自分の存在をないがしろにしたがる隊長を守ってやりたいと、気負っていたのだ。
 もう、二度とロイをどんな目にも遭わせたくはないと。
 だが、今夜、ジム自身がロイによって支えられてきたことを、実感した。
 ひとりにはさせない。もう二度と、哀しみの夜をひとりでは過ごさせない。そして、自分もまた、そんな夜を過ごすことなどなくなるように、ロイが必要なのだ。
「月、出ていた?」
 ロイが、ベッドから身を起こした。「月が見たいな」
「寒いぞ。風が強かった。でも暖炉に火を入れたから、リビングはだいぶ暖まっているはずだ」
「月を見よう」
 素肌の上にガウンを引っかけるロイを見て、ジムは改めてその白い身体をさっき自分の手の内にしたのだと、めまいがしそうだった。
 ロイは、クローゼットのドアを開け、分厚い布地の入った真新しいビニール袋を引っ張り出すと、ジムに放った。
「そんな格好でいると風邪を引くだろう? ガウン、新品だから」
 ああ、すまん、とジムは袋を開けて布地を広げた。それはなぜだかロイには大きすぎるほどのサイズで、着られないのではないかと恐る恐る袖を通したジムを安心させた。同時にちょっと疑問のこもった目を向けると、ロイが肩をすくめた。
「客用に用意しただけだ。大は小を兼ねるというだろう? どんなサイズの客でも慌てなくてすむ」
 この家に泊まり客が来ることがあるのか、とジムは一瞬考え、それが自分のことだと思い至って思わず嬉しくなった。以前から、ジムは時折ふたりで飲んで、そのまま泊まり込むことがあったからだ。たぶん、他にはそれほどのつきあいをしている相手はいないはずだ。仲間たちが飲んだあげく泊まったとしても、潰れて雑魚寝になるからで、大尉の家でガウンを借りることなど思いもよらないだろう。
 大は小を兼ねるなどといいながら、ロイはいつジムが泊まってもいいように、ガウンを用意してくれていたに違いない。
 もちろん、それは友人として設定されていたことではあっただろうが。
 ほとんどあつらえたような、大きく裾の長い、暖かなガウンが、ロイの愛情の印のように思えて、ジムはそっと両手で自分の身体を撫でた。

 岬側の波は、いつだって荒い。
 夏であろうと、冬であろうと、かまわず海は白いしぶきとなって砕け散るまで、突き出た岩肌に挑んででもいるかのようだ。
 ロイはリビングの窓から外を見ると、躊躇いもなく硝子の掃き出しのドアを開け、ベランダへ出た。ベランダは家の海側をほとんど取り囲んでいて、砂浜に続く海も、あるいはキッチン側からは岩肌が突き出た深い色の海も見ることができた。
 ロイは、広い砂に続く、さっき自分たちが歩いてきたままの、浜が見える位置に立ち、そのまま天を見上げた。
 ジムも続いて外へ出た。室内が寒かったわりに、屋外の空気はそれほど冬の気配を見せてはいなかった。水平線の遙か上空には、いつも姿を変えて異動を続けている球体の姿があった。
 明るい光を放つ月が、しんと透き通るほどの光を投げかけている。満月にはまだかなり足りないというのに、光はびっくりするほど周囲を明るく照らしていた。
 昼間とは違う、清浄な光。太陽が生命力にあふれた恵みをくれるのなら、月はまた別の、人の意識の底に囁くかのような、なにかを諭すかのような光を投げかけてくる気がした。
 ジムは立ち止まったまま、じっと彼方を見つめているロイのそばに立って月を見ているものの、黙ったままのロイの気配に怯え始めてもいた。
「……ロイ、やっぱり……怒ってるのか?」
 ロイがさっきの饒舌な時間など忘れたかのように押し黙っているのは、やはり、何事か今しがたの記憶をたどっているせいだと思ったのだ。
 だが、ロイは静かに首を振った。
「ガーランドのことを……考えてたんだ。あいつには、恋人はいたんだろうか?」
「さあな。葬式には二、三人若い女性の姿があったが……」
 きっと酒を飲んでいたときからずっと、ロイは心の中で早世した部下のために泣いていたのだろう。ジムのせいで、思考を妨げられながらも、心の底に沈んで消えない面影を見つめていたのかもしれない。そう思うと哀しみの気配を湛えてはいるものの、帰ったときのような押しつぶされそうな孤独感が消えているのはなんとなく感じられて、ジムをほっとさせた。死んだ友人のために涙を流すのなら、それすらもジムが吸い取ってしまいたいと、ジムは傍らで天を仰いでいる男の気配に神経を集中させた。
 ロイは長いこと、黙って空を見つめ続けていた。
「ガーランドは、なんでSEALSになりたかったんだろうな」
 ぽつりと、ロイが呟いた。
 死んだデビッド・ガーランドが訓練学校で脱落しないよう、手助けをしたのを後悔しているのかもしれない。ビリーの話や本人の口から聞かされた話では、ガーランドはロイがいなかったら、絶対にSEALS訓練学校を卒業することなどできなかったはずだ。隊員にならなければ、空母乗り組みのコンピュータ担当者として、今も生きているのだと思えば、ロイの気持ちが分かる気がした。
「さあな。それは、俺自身のことにしたって分からないよ。でも本人がそう望んでそれを手にして、そして職務を全うした……。だからきっと、今は満足して神様に迎えられているんじゃないかな。胸に勲章をつけて。あいつはあんたに引っ張ってもらったことを、本気で感謝していた」
「……あいつがそういっていたのか?」
「俺は下士官の長だぞ。あのチームはあんたのものであって、俺のものだ。だが隊長と違って連中の家庭の事情まで把握するのが、俺の仕事だ」
 そしてそれは、ジムの性分でもある。家族同然にチームがまとまっていることを、常に念頭に置いていることを、ジムは苦にしなかった。
「カーター少佐も……いつか同じようなことをいっていた。なぜチームにこだわってきたのかなんて、考えてみたら俺にも分からない」
 辞めざるを得ない寸前までいってなお、それを手放さなかったものの言葉に、ジムは頷く以外とる術がない。
 語尾が掠れ、何気ない仕草で、ロイの右手が目元を拭ったが、ジムは見ないふりをして、ロイと同じように天を眺めた。ロイがなにか呟いた気がしたが、はっきりとは聞こえなかった。ガーランドが後悔してなければいいが、といったような気もした。黙っていられなくて、気分を変えるようにジムは続けた。
「星が見えないほど、月が明るい。こんなこともあるんだな」
 ジムがやっとロイの方へ視線を向けると、ロイは空を見つめたまま頷いた。
「月……」ロイが呟いた。「おまえが昼間の太陽なら、俺は月かも……」
 ジムが太陽で月がロイ……? ジムはそりゃ逆だろうと思ったが、ひっそりとさえざえと輝く月は、確かにロイの美しさを語っている気もする。自分がロイにとっての太陽だというのが、どうにも信じられなくはあったし、自分がそんなたいそうなものに例えられるというのは、なんだかも尻が落ち着かない気分ではあったが。
「おそらく」ジムは無意識に呟いた。「たとえば鍋には蓋があるように、サイズを測った頭にぴったりの帽子があるように……ええと、こう、ふたつがぴたっとくるってやつは何があるかな」
 ジムは自分の例えの情けなさに、くすっと笑った。――浅学な自分では適当な言葉が見つからないなりに、今ここで言いたかったことは――。
 そう、俺たち流に言うならば、それぞれに馴染んだ銃があるようにか? ロマンチックとは言い難い。それに少しそれでは足りない気もした。ジムはめまぐるしく脳みそを働かせた。
「他では代理がきかない……それは一対のものという意味か?」
 ロイが、わかりやすい言葉で質問した。
 一対としてしか機能しない、そう、要はそれが言いたかったのだ。
「……かもな」
 銃身に弾を込めて初めて武器になるようにだ、とジムは笑いながら頷いた。兵士となってから、すでに染みついてしまった軍人としての思考のせいで、どうしても例えがそこから抜けきれない。「そう、そういうことだ。口径の違う弾じゃ、銃は機能しないだろ? 俺にとってあんたは、そういう存在だ」
 ロイはまじまじとジムを見つめて、その物騒な例えに微かに笑ったが、黙って頷いただけだった。
 たとえば、影でもいい。例えがだいぶ文学的になって、ジムは気をよくした。太陽のようだとロイは言ってくれたが、日が翳ってさえなお、そこに存在するはずの影に、ジムはむしろなりたかった。
 だが、もうそんな言葉は出てこなかった。
 ロイが、自らそっとジムの唇を塞いだからだ。自分よりも大柄なジムへ少し顔を上げ気味の、たどたどしいばかりの初心なキス。
 けれどもしっかりと、恋人に贈るキス――。
「俺はおまえの光で輝く月だよ、ジム。太陽がないと、存在すら見えなくなる」
 あんたは暗闇の中ですら輝いているよ、といいかけたが、ジムは黙った。
 あるいはそうなのかもしれない。ロイがそう言ってくれるのなら、素直にそうだと信じたい。必要なら、ジムはロイの太陽にも影にもなれる。愛用のMP5の小さな弾丸にだってなってやる。ジムの非文学的な脳みそは、もうこれ以上の言葉を紡ぎ出すことができなかった。深遠なる宇宙の対の存在に勝る例えなどもうない。
 言葉など、もう必要ではないことを、ジムは感じていた。
 そのままふたつの影は、ひとつのシルエットとなって、煌めく月の前に浮かび上がった。ベランダの向こうに荒れ狂う波すらも、今は静かにその姿を眺めているかのように、一時、音が消えた。
 青緑色の瞳が、揺らめくような光を湛えて、じっとジムを見つめてくる。
 そう。言葉よりももっとジムの気持ちを伝える術がある。ロイを輝かせることが、今のジムならできるのかもしれない。ロイがそう言ってくれるのなら。
 この夜から、ロイはジムの恋人に……ジムはロイの恋人になったのだから――。
 シルエットは、いつまでも一つの塊となったまま、広い大西洋に描かれた一枚の絵となって、うっすらと月の光に溶けこんでいった。

「冷たい」
「うん?」
 ジムの声に、うっとりとしたような瞳が開く。
「さすがに冷えてきたぞ、ロイ。あんたの唇が氷みたいになってきた」
 せっかくのロマンチックな場面ではあったが、ジムはロイを抱くように肩に手を回して回れ右をさせた。
「暖炉が勢いをつけてるはずだ。ココアでも飲んで暖まらないと。外に出ていい格好じゃない」
 ロイは素直に歩き出しながらも、くすりと笑った。
「まるで、母親みたいだな、ジム」
 そうだな、とジムは笑った。一生、あんたのママになるつもりだったんだぜ、と言ったらロイはなんというだろう。
 でも、今のジムは母親ではない。もちろん、ロイだって子供でもない。だから、ジムはココアを飲んだあとは恋人の続きをするつもりだった。
 だが、いったん切られたロマンチックの空気に、ロイはすでに醒めたような顔をしている。せっかく自らキスをしてくれたのに、とジムは今が夏でなかったことを悔やんだ。だが、このまま寒風にさらされた屋外に突っ立って、ロマンチックなど続けるわけにはいかなかった。それに、自分はとりあえず下着をつけているが、ロイのガウンの下は……と思い出しただけで、心臓が跳ね上がった。
「朝までキスをしないか? ロイ」
 我ながら、ロマンス映画のような台詞だ、とおかしくなりながらも、ジムはロイに囁いた。シュワルツネッガーやスタローンみたいなタフなヒーローだって、たまにはロマンチックな場面を演じているんだ。俺だってそれくらいいえる、とジムは胸をそびやかした。
 ジムの言葉が聞こえたのかどうなのか、俯いたまま、ロイは黙ってベランダのドアを開けて先に室内へ足を入れた。
そびやかした胸は、あっという間に猫背になり、ジムはとぼとぼと後に続いた。相手は女性でもなく、ましてやあの気高い男だったと臍を噛み、今のような台詞にきっと全身鳥肌を立てているのかも、と思うと一気に気力が萎えてきた。対の存在にはほど遠い。
 ふわりと暖かさが包み込むような室内にはいると、やっぱり外が相当に寒かったことを実感させられた。そのままロイはキッチンへ入っていく。どうやらココアをロイが作ってくれるらしい。
 ジムも続いてキッチンへ入ると、やはりロイは冷蔵庫からミルクを出し、ミルクパンを出してそれに注いだ。
「――うん」
 背を向けたままの、かなりタイミングをはずした返事に戸惑っていたジムは、それが「朝までキス」にかけられたものだと、分かって頬を紅潮させた。
 毛布を持ってきて、ココアを飲んで、そして暖炉の前でふたりで火を眺めよう。手を握り合って、あるいはロイの肩を抱いて。時折キスをして。
 さすがにその言葉は口にしない分別を引っ張り出しつつも、ジムはまた一気に活力を取り戻した。
 いそいそとベッドルームから毛布を持ち出してきたジムは、暖炉の上の棚にあるものが意識に引っかかり、立ち止まった。無造作に棚の上に置かれているようなのに、他のものと同じように埃すらかぶっていない品物が、ジムをその場に釘付けにした。
 親指ほどの、小さな黒い塊に見えたそれは、ヘリコプターの模型だった。プロペラも車輪すらもついていない、胴体だけの小さなシコルスキー。大佐の別荘をいくら探しても見つからなかったそれは、とっくの昔にどこかへ紛れて無くなってしまったものだと思っていたのだ。幾度もここを訪ねてきたのに、これまでまるで目に触れることがなかったのが不思議なほどに、それは当然のような存在感で棚に置かれてた。
 あれから引っ越して、この家に移って新しい生活をしていたはずのロイは、このヘリを未だに持っているのだと知って、ジムは口を開けたままそれを眺めていた。
 キッチンから出てきたロイは、毛布を抱えて突っ立った男にいぶかしげな視線を向け、それからその先にあるヘリの模型を見つめた。
「捨てられないんだ、それだけは」
 ロイがココアの入ったカップをふたつとも持ったまま、暖炉の前のラグの上にあぐらをかいた。
「……なんで、これを?」
 ジムはロイを見ることもできず、立ったまま、喉になにかがつかえたような声を出した。これまで、極力この話題には触れないようにしてきたのだ。
「気に入ってるんだ。俺はヘリが好きだから。なぜだか、墜落した残骸みたいだけどな」
 ああ、と真抜けた声で、ジムは応えた。
「あんたが……とばせばいい……」
 ロイはちょっと押し黙り、それからさりげない調子で続けた。
「そうだな。それは、ロイのヘリだから」
 その、かつての幼い台詞のような調子に、ジムの喉もとから、熱い塊がこみあがってきた。ココアを床に置いたらしいロイが、立ち上がってジムの背中に重なるように額をつけた。
「俺は、穢れてないと……おまえがいってくれた」
 ああ、とまたジムは喉を鳴らし、毛布を持ってない方の手でぐいっと目元を拭った。覚えていた――あるいは思い出していたのだ、ロイは。あの時のことを。
「今もそういってくれるか?」
 言葉が声にならなくて、ジムはこくりと頷いた。「……れい……だ」
 “あんたは綺麗だ”が、掠れて潤んだ。今こそ、それをいってやりたいのに、涙があとからあとからあふれ出て、ジムは嗚咽すら漏らしそうになっている。子供のように、声を上げて泣きたいほどの気分に必死で逆らって、ジムはもう一度不明瞭な声を出した。
「あんた……れより、……れいだ……」
 ロイの腕が、ジムの胸元を包むように回された。
「ジム、俺は……」
 背中越しの声が、とまどうように途切れ、ロイの額の感触だけが妙にジムを刺激した。
「俺は……どこへも行かない。ずっといる……」ジムは思わずそう呟いていた。あのとき、あの幼いロイの身体中にキスをした台詞のままに。
「ずっといるから。ロイ。あんたのそばから離れない……」
 今、もしも呼び出しのベルが鳴ってもだ、とジムは心の中で続けた。あのとき、呼び出されて、幼いロイをひとり別荘へ置いて出たときの胸の痛みが甦った。置いてなどいくわけがない。ベルが鳴れば、ロイはもはや、ジムを引っ張って戦地に赴くのだから。
「一緒に行く。おまえとなら、どこまででも」
 ロイの、落ち着いた高くも低くもない、柔らかな声に微妙な甘さが加わっていることに気づき、ジムはうっと声を漏らした。
 振り返って抱きしめた力が強すぎて、ロイは微かに顔をしかめたが、なにもいわなかった。そのままふたりは床に溶けるようにしゃがみ込みこんだ。
縋り付くように、ロイの肩を力を込めて握ったまま、ジムは顔を上げなかった。
「ジム? どうし……」
 ジムは大きな体を縮め、ロイの胸に縋るようにして嗚咽を漏らしてしまっていた。

「ジム……痛いよ」
 ロイの肩に食い込まんばかりに力を入れていた指を、ジムははっとなってはずし、そのまま尻餅をついた。我慢してくれていたらしく、ロイは自分の肩をそっと揉みながら、並ぶように腰を落ち着けた。
 床に座り込んだまま、ジムはロイに謝ることすら考えつかず、ひたすら涙を拭っては、あふれかえる過去の記憶に押し流されそうになっていた。 
 ロイも黙って暖炉の火を見つめながら、ジムの隣に座ってココアを口につけている。泣きじゃくっているといった方が近いジムに、語りかけることもせず、ただ黙ってそばにいる。同じように、ロイにも過去の記憶が浮かんでいるのかもしれないし、単にどう対処したらいいのか分からないでいるのかもしれない。
 ジムはひとしきり流れた涙をガウンの袖で拭うと、やっとカップを手に取り、すでに膜が張ってきたココアを口に含んだ。ココアは思い切り甘かった。なぜ、苦手なくせに、こんな死ぬほど甘いココアをロイが作ったのか、聞こうとして俯き加減のロイの頬にも涙のきらめきが見え、よけいにジムは言葉を口にすることができなくなった。
 なんだか、馬鹿のように泣いてしまったなんて。せっかくこうしてふたりで語り合おうと、夜っぴて起き出しているというのに。だが、その互いの沈黙は悪くないものに思えた。ロイがベッドへ戻って行かず、そばにいてくれることが嬉しかった。
「俺たちは、今後どうなっていくんだろうな」とジムは何気なく口にして、カップを口につけた。
「どうって?」
「今夜限りってことは……まさか、あんたそんなつもりでいるわけじゃ……」
 ジムが慌てたように横にいる愛しい人に目をやると、ロイはうっすらと微笑んですらいるようだったが、返事をするつもりはないようだ。すでにロイの饒舌な愛の語らいは終わったらしい。
「甘すぎて飲めないな」
 自分で作ったくせに、ロイはいかにも不味そうな顔で、舌を出した。ジムは思わず泣き笑いのような表情を浮かべ、まじまじといつもの上官に戻ったかのようなロイの顔を見つめた。今夜限りでなんて、いるつもりはないはずだ。だからこそ、今そばにいてくれているんだろう。
 祝福されることなどない、禁じられた関係を、今後も周りに気づかれないようにしなければならない。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも――。
 激しく打ち据えられるロイの身体が、痛みにしなるのを、耐え難い屈辱に蒼白になった顔が歪むのを、ジムは今後も忘れることはできないだろう。
 やつれて痩せ細っていくばかりの、あの硝子細工のように脆かったロイの姿を。
 テーブルに仲間たちに押さえ込まれてすべてを晒された、人魚のような姿態を。初めて会ったときの、帽子の庇から覗いた青緑色の光るような瞳を。
 海に沈みかけた、あの日――。
 そして、あどけない無垢な瞳でまっすぐに見つめてきた、愛らしいロイ……。
 人は死に至る寸前、走馬燈のように過去の記憶が巡るという。本当かどうなのか分からないが、今、ジムはある意味で死を迎えているのかもしれない。つらかった、片思いをし続けていた過去の自分が、たぶん今日、死んだのだ。
 きっとそのせいで、目まぐるしいばかりの過去の記憶が駆けめぐっているのだろう。小さなヘリコプターの模型と、幼さが戻ったような、ロイの言葉がそれに拍車をかけている。
 今回のガーランドのようなことがまたいつ起きるとも限らない。あるいは、かつてのような、悲惨な出来事が――。
 それなのに、そんな職業を、捨てきれない自分たちは――。
 そこまで考えて、ジムは無意識に首を振った。カーター少佐がいうように、やはり自分は悲観的なのかもしれない。カーターのアドバイスどおり、ジムが願ったことが今夜叶ったというのに。叶うはずもないと思っていた恋がこうして叶うのなら、なんだってうまくいくと信じていればいいのかもしれない。
 ふわっとした感触に、ジムははっと顔をあげた。
 ロイがジムの肩に身体を預けるように、崩れかかってきたからだ。手にしたカップにはまだココアが残っているのに傾きかけたのを見て、ジムはそれを掴んで床に置いた。
 穏やかな息が聞こえてきた。
 眠ってしまったらしい、とジムはその頭に唇を寄せ、頬に手を当てて顔を上げさせると、閉じた瞼にキスをした。やはり、疲れさせてしまったのだろう。酒もたっぷりと身体を巡っていたのだ。ジムがロマンチックな雰囲気が消し飛ぶほど、動揺して自分の思考に入り込んでしまったために、ロイもどうすることもできず、黙ってそばに居続けたのだ。暖かさに誘われて、眠りがロイを捕らえてしまっていた。
 こんな無防備な姿は、子供のようになったとき以来見ていない。
 ぱちぱちと、暖炉の火がはぜた。
 こんな、何もない床の上で座って眠るのはきついだろうと思うものの、起こしてベッドへ促すのがなんだかもったいないほどに、心地よい空気がジムの周りを取り囲んでいた。
 キスをするのも、抱くのもいいが、こんなふうに全身でジムに気を許してくれているのが、なんだか途方もなく嬉しかった。
 いつかの夜、ポールがロイに似合う女性の話をしたことを思い出した。
“大尉には……そうだな、温かくて気持ちの大きい、引っ張ってくれる人がいいかもしれない”
 恋愛のリードなど、この人にはできないだろう。その豪傑の女性像は、性別を超えたなら、まんま自分に当てはまるんじゃないかと、ジムはひとり気をよくした。もっと早く、自分が覚悟をすればよかったのだ。そうすれば、ロイはもっと早くこういう気を緩める時間が持てたはずだ。
「おまえを……愛して……俺はおまえが……必要…だ」
 聞こえないほどの、とぎれとぎれの言葉が、ジムの胸を熱く叩いた。寝言らしく、そのまま眠っている者独特の呼吸があとに続いた。
「両思いだったなんてな……」
 思いがけない言葉に全身の血液が逆流しそうになるのを堪え、ジムはそっと身体をずらして自分の両方の足の間にロイの身体を倒し込んだ。背もたれがないために不安定な自分の身体を支えるために、後ろに片手をついた。そのポーズが、図らずもあの、忌まわしい牢獄の夜と同じだったことにジムはまた、涙を溢れさせた。
 こうして、ふたりして年老いていく姿を考えるのだ。カーターがいったように、公園でひなたぼっこをする、退役軍人になればいい。そこに、老いたカーターも混ざってくるかもしれない。遊びすぎて、独身のままかもしれないビリーだって参加するかもしれない。
“こぢんまりとした老人ホームみたいなもんだ”
 カーターの暢気な明るい声が思い出され、その光景までもが浮かんだ。年をとっても、きっとロイはいつまでも美しい凛とした姿でいるに違いない。
 だんだん発想が馬鹿馬鹿しくなっていって、ジムはひとりくすりと笑って鼻をすすった。
 弾丸も、人の悪意もくぐり抜け、これから長いときを共に過ごす。それが、これからのジムの目標とすることにすればいい。取り越し苦労をしたって仕方がないのだ。
 ロイは、茨の中に放り込まれ、その茨が罠のように仕掛けられているかもしれない道を、再び歩くために努力し続けた。
 舗装された綺麗な道路を指し示されても、それを決して選ぼうとはしなかった。だったらジムも、ロイと共に、茨の罠をよけながら歩いていくだけだ。
 それが、死んだ隊員と同じく、ふたりが選んだ道なのだ。
 ジムは座ったまま、ロイの胸元に片手を乗せた。
 金粉をまぶしたような、柔らかな金色の髪が鼻先をくすぐった。
「今夜はずっと、あんたを見ているからな」
 ジムは小さな声で呟いた。
 すうすうと、穏やかな息が聞こえるたびに、ロイの胸元が上下する。ともすれば、今にも止まりそうに弱りかけていたこともある鼓動が、厚地の布越しにジムに大丈夫だよと伝えている気がした。錯覚には違いないが、耳を澄ませれば、その密やかな音すらも聞こえてくるようだ。
 暖炉の火が消えるまで、この鼓動の音を聞いていたい。体中で、あんたの鼓動を感じていたい。
 生きろ、とジムの鼓動がいっているのなら、ロイの鼓動は“生きる”と呼応し続けているに違いない。だからこそ、ロイにはジムが必要なのかもしれなかった。
 今夜のことは、ジムの宝物を入れる心の宝石箱に大切にしまっておこう。
 思ってもみなかった夜は、ある意味喜びと、切なさの同居する不思議な時間となっていた。

 クライングナイト――。
 それは、哀しみのたゆたう波の音と、艶やかな月の光と共に、すべてを覆す一夜――。
 ロイがガーランドのために涙を流し、孤独を噛みしめて自分のために心の中ですすり泣いた夜。
 そして溶けたクラゲのようにジムもまた、今夜、涙が止まらない。
 ジムとロイの隙間を埋めるために、神様が与えてくれた夜。
 自分のどこにこれほどの涙のタンクが埋まっているのか、不思議に思いながらもジムは腫れぼったくなった頬を、ロイの髪にこすりつけた。
 すでになにを想って泣いているのかすら、分からない。それでも切なくて、愛しくて、ジムは泣き続けた。
 のぞき込んだロイの顔は、ひどく穏やかで、安らいでさえ見えた。きっと心地よい夢を見ているのだろう。もう、ロイの頬には涙の跡は見えなかった。
 いい夢を見てくれ。つかの間の夢には、決してしないから。
 そう。それだけははっきりしている。
 俺たちは今夜、クライングナイトに、終わりを告げた――。
 お休み、ロイ。楽しい夢を。
 お休み、ロイ……。











硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評