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第三十三章 告発

 電話がかかってきたとき、フィル・ハミルトン、という名前を聞いて、ロイは会うことを承諾した。
 先日基地に訪ねてきてから、三日後のことだった。
 基地から離れたバーで待ち合わせをし、ハミルトンは先日訪ねた時の無礼を改めて詫びた。まるで貴族に謁見する一般市民のように、その存在感に萎縮しているようなハミルトンに、ロイは無表情な顔で頷いただけだった。
 カウンターではなく、奥の静かなボックスにふたりは腰を落ち着けた。ハミルトンは、ロイよりいくつか年上らしい、まだ若い男だったが、茶色の整えた髪に指を当て、躊躇したように言葉を続けることができないでいるようだった。
「で、なんの用だ?」
 ロイが率直に聞くと、頭にやった手を引っ込め、デイン・カーターとジム・ホーナーが、査問会に呼ばれることになるかもしれない、と告げた。 
「査問会? なんの罪で?」
 ロイが聞くと、ハミルトンは苦い顔をした。
「下手すれば、そのまま除隊か、軽くても転属かもしれません。あのふたりがあなたを……その、軟禁しておもちゃにしていたと……ペイジが告発の準備をしています」
 ロイは口を開かないまま、目だけを光らせて目の前の男を睨みすえた。
 ジム・ホーナーが、あのあと駐車場でペイジを殴り、怒らせたことも原因のひとつであるとハミルトンは続けた。
「ジムは重傷を負わせた?」
「いえ、そこまでは。たまたま人が通りかかって、食らったのは強烈ながら一発ですんだらしいんですがね。まあ、顔は変わってましたが、痛みよりプライドの問題でしょう」
 ジムのやつ……とロイは苦い顔をしたが、あの室内の様子を窺っていたらしいことを考えれば、その程度ですんだのはペイジが強運の持ち主だったというほかはない。もちろん、ジムの一発よりも、ロイとの先日のやりとりのほうが、ペイジを憤らせているのは間違いはないのだ。
「あの時もそう言っていたが、軟禁……などと、馬鹿なことを。俺はあの時一緒にいた医師に確認した。俺は……記憶を無くしていたと言っていた。あの家にいたのは彼らだけではなく、大佐や医師までが一緒になって面倒を見ていてくれたはずだ。その告発には無理があると思うが」
「……大佐や医師が証言をなさるでしょうが……。どこまで通用するか。あるいは四人ともが同じ罪になることも。――裁く人間たちの、あなたに対しての心証が……おそらく最悪だと思うんです」
「俺の……? なぜだ?」
「ペイジは、この間のことでひどくあなたを逆恨みしています。あなたがテストのとき、どういうことをしたかということをビデオに撮っていて……その、それを見ればおそらくあなたがあのふたりを迷わせたのだと……判断されるかもしれない。ペイジはいざとなったらそれを提出するつもりです」
 ロイは低い抑揚のない声で言った。
「なにをした? 俺があのテストの時、どうだったというんだ?」
 ハミルトンは、俯いた。

 靴音を高く鳴らして立ち止まると、ロイはある部屋の前で立ち止まった。
 普段、一般の兵士が立ち入ることができない、一般の建物を装った軍のビルの中である。
 ノックをすると、「入れ」という短い返事があった。
 部屋の中には、SEALを管轄するトップの男が三人、難しい顔で立っていた。二人が軍の制服で、ひとりは仕立てのよいスーツを着ていた。
「ウイルコックス提督だ。こちらはサザーランド海軍長官、調査室最高責任者ブキャナンだ」
 提督はロイを座るように促すと、他の二人と共に、ソファに座った。ロイは立ったまま、敬礼をした。
「電話で聞いたが、調査部が提出した報告書に対しての話をしたいとか」
 ロイは進められた椅子には座らず、ソファの三人の前に背筋を伸ばして立ったままだった。
「今日は、時間を頂きましてありがとうございます」
「査問会が開かれる前に、こんなふうに話しをすることなど、本来はありえないんだ」
 調査室責任者のブキャナンが、憮然とした顔で目を背けた。それを制するように、提督が続けた。 
「君のGI501でのテストを強行したことを、申し訳なく思ったのでね。一応話しがあるなら聞いておこうと特別に時間をとったんだ。ただあの時は調査部の報告に君が捕らえられるのを怖がっているようだ、とあったのでね。テストを任せた。隊長候補を推されてなければそこまでする必要はなかったんだが。……結果は最悪だ。君は、食事もとれず、怯えて発作を起こしたとある」
 提督が、老眼鏡をかけて書類を見ながらちらりとロイに目をやった。
「それに関しては、実は覚えておりませんので」
「そのようだな。テストどころではなくなって、たった二日で中止したくらいだ」
 ブキャナンが嘲笑うように言った。「そのまま潰れてしまったようだな。自殺未遂を起こし、ふた月近く病欠で。……それで隊長候補を下ろされ、まだなにか我々に言いたいことがあるなどと」
「隊長候補のことは、決定どおりで異論はありません。ただ、カーター少佐とホーナー曹長に関しての意見を申し上げたかったんです」
「どういうことかな?」
 ウイルコックス提督がうながした。
「私は、十一月初旬、――正確な日付は記憶しておりませんが、調書に書かれている通りだと思います。精神的に極度に不安定な状況に陥りました。そのせいで自殺未遂を図ったと、聞いています」
 ロイは、やや低めの、落ち着いた声で話し出した。
「聞いていますということは、それも覚えていないのか?」
「はい。その前後一ヶ月半ほどにわたり、記憶を無くしており、お話することができません」
 ウイルコックスは、手元に持った写真を出し、ロイに差し出した。
 カーターとジムが、ロイを抱えあげている写真だった。
「彼らは私の面倒を見てくれ、医師は、おそらく精神的な理由から、足が動かなくなっていたと言っていました。その時の写真だと思います。歩けなかったのなら、抱くか負ぶうしかなかったはずなので」
「報告書では、君が彼らの……」
 ウイルコックスは言いよどんだ。「恋人だったとあるが……」
 ロイは、きっぱりと顔をあげた。

 ロイはまっすぐに提督の顔を見た。
「捕虜になり、男にレイプされ、精神的に弱っていた私に、彼らがそのようなことをすると、提督は本気でお考えですか? もし、そういうことがあったとすれば、私は今ここに、正気ではいないでしょう」
「……しかし、記憶がなかったというならば、それは分からないではないか? なにごとかあっても、君に自覚はなかったかもしれない。報告では、まるで女の子のように扱われていたとあった。君を訪ねた調査員にまで誘いをかけてきたそうだな。君がそういうタイプの男なら、かえってそれで立ち直ったとはいえないか」
 調査室のブキャナンが不機嫌そうな顔で、言った。
 ロイは、その男の顔に視線を移し、口を開いた。
「調査室のデイビッド・ペイジという男の報告書を、丸呑みにされている理由がわかりません」
「彼は、クセはあるが、仕事はできる、有能な男だ」
「その評価は、いささか違っていると思われますが」
 ブキャナンは気色ばんだ。
「君はペイジをも誘惑したらしいな。報告書に色をつけてもらうために」
 ブキャナンが放ってよこした写真には、駐車場でロイに接近して、今にもキスをしそうなペイジの姿が写っていた。「ペイジが別荘へ訪問したときも、同様だったらしいじゃないか」
 ロイは黙りこんだ。
「個人の嗜好にまでとやかく言うつもりはないが、君のその、男を惑わせるという部分があるのは確かだと私は思うが」
「……私自身のあずかり知らぬところで、そういう風に感じられているかどうかは、分りません。それが私のせいであるというのなら、甘んじて受けます。しかし、カーター少佐とホーナー曹長は、まったく関係がありません」
「関係がないとは思えんね」
 ブキャナンがそっけなく言って、顔を背けた。
 ロイは手に持っていた書類を、提督に差し出した。
「これを……。一部は警察の資料です。何者かが、意識を失っていた私を誘拐しかけたという。黒のマーキュリーということしか分かりませんが」
「黒の……マーキュリー」と、ブキャナンが呟いた。
「心当たりの人物の靴跡を照合すれば、誰だかわかるはずです。偶然私を救ってくれた男女も、多少は顔を覚えているはずですし――もう一通は、ペイジという男の経歴です」
 提督は差し出された書類を手に取り、ブキャナンの顔を見た。
「ペイジの経歴ならちゃんと調べてある。採用の際にな」
 ブキャナンはそう言いながら、提督の手元を覗き込んだ。
「むしろ、雇用後の彼の生活のほうが大切かと」
 ロイの言葉を聞きながら、提督は書類に目を通し、目を見開いた。
「これは……」
「ペイジは、これまで多くの若い男を半ばレイプまがいの方法で、手にし続けてきたようです。ほとんどが、なんらかの問題を抱えた軍人です。調査の際に得た個人的情報と、そのときの写真を撮り、脅してすべての被害者の口を閉ざした。そのまま恋人になった男もいます。ペイジはその男に執着した」
「こんなものをどこで手に入れた? どうやって君はこれを探ったんだ……」
 青ざめたブキャナンを、ロイは無表情に見た。
「データを積み重ねていけば、自然と見えてきます。悪意を突きつけられた男たちの中には、身を持ち崩し、今なら証言をしてもいいと言う者も」
「だが、ペイジがどうであれ、君は我々がしかけたテストに合格しなかった。提督や長官の前だから黙っていたが、テストの時のもようがどうだったか、私は聞いているぞ。ペイジのあら探しをしたって、君の問題が帳消しになるわけじゃない」
「ですが。テストの時あなたはそこにおられなかった。すべてペイジにお任せだったはずです」
「それがどうした? ビデオだって報告書についてきた。気の毒だと思って私の胸に納めておくつもりだったが、あれをここで披露するか?」
 ブキャナンが、勝ち誇ったような笑いを鼻先に浮かべた。
「……その前に、ひとりここに証言者が来ているのですが」
「ここに?」
「廊下で待っています。中に入れても?」
 提督の合図で、ロイはドアを開け、スーツをこざっぱり着た男を呼んだ。
 ブキャナンは、思わず立ち上がった。
「調査室のフィル・ハミルトンです。ペイジの部下であります」
「ハミルトン、なんの真似だ? おまえはいつからこの男の部下になった?」
 ブキャナンが怒鳴ったが、ハミルトンは平然と挨拶をした。

 ハミルトンは、ロイの横に立ったまま、最初にペイジがロイに執拗に下劣な質問をしたことから、ロイの救出時の写真と囚われた兵士の画像のコピーを彼のアパートに持って行ったことまでを、簡単に説明した。
「フォード大尉は、おそらくコピーを見て、相当にショックを受けられていたと思われます。顔つきが変わるほど消耗されていました」
 念のために、ハミルトンはその写真と同じものを三人に渡した。
「惨いな……だが、なんでわざわざそんなことを……」
 ウイルコックスが苦い顔をした。
「予定されていたテストの前に、大尉を動揺させるのが目的だと思いますが」
「動揺させる?」
 ウイルコックスは、驚いたようにブキャナンの顔を見た。「そんなことは聞いてないぞ。テストは公平に行われるはずじゃないのか?」
「私はそんなことまでは知らない」
 ブキャナンが焦ったように言った。
 ハミルトンが続けた。
「どんな内容だったか、私なりに報告書をまとめています。ペイジにお任せになったのは、最大のミスだったと、わかるはずです」
 ロイが眉をよせ、低い口調で言った。
「私は……なにも覚えていません。その時のことは。でも、それ以来すっかりおかしくなったようです」
「大尉がふたたび捕らえられて、敵に押さえ込まれたとき、対応できるかどうかを試すと聞かされていました。最初に調書を取ったときから、大尉は男性を怖がっているように見えると。そのため、同じようなシチュエーションが組まれました。傷をつけたり、殴ったりはもちろんしませんでしたが……ある意味、それ以上のことを……」
「それ以上のこと……? なんだそれは?」
 提督が言いながらも、すでにその情景を思い浮かべるように、苦々しい顔で呟いた。
「つまり、実際に行われた状況と極めてよく似たことが……行われたのです。裸で小部屋に放り込み、縛って床に転がして……」
 ウイルコックス提督は、早い目の動きで報告書を追った。それをサザーランドが横から覗き込み、喉の奥で唸った。ブキャナンはある程度を把握しているのか、目を逸らしている。
「それはテストだ。ある程度の状況は組んでしかるべきだと思うが」
 ブキャナンが、口を歪めて呟いた。
「裸で小部屋に放り込んで、二日間、まるっきり食事がとれないほどのショックを与えることが、テストだと?」
 ウイルコックスが低いうなるような声で言った。「点滴のみで、二日も閉じこめたなどと、有り得ない。それは……それはまるで、虐待ではないか」
「確かに、大尉はあの時、簡単に我々に押さえ込まれ、ひどく怯えて……でも正気を無くして食事すらとれなかった直接の原因は……」
 ハミルトンは、言いよどんで、傍らのロイをちらりと横目で見た。「テストなど……。あれは、被害を負った人間を潰すだけの、非道な行いです。ペイジは、あの男はここにいる大尉を――」
 ロイが表情を消したまま、目を閉じた。

 信じられない告白に、室内がしんとなった。
 提督は腰を浮かし、ロイの悲痛な顔を見ると、ハミルトンに言った。
「……なにを…したと? 君がここに書いているのは本当のことか?」
 サザーランド長官は、額に手を当てて項垂れていた。
 ハミルトンは、唇を舌で湿らせ、続けた。
「私は硬く口止めをされました。口止め料を与えられ……昇進を約束されました」
「だったら、君も同罪だ」
 ブキャナンが言った。
「そうです。ですが、ひとりの優秀な隊員を、あるいはその周りで手助けをした兵士たちを潰してしまうくらいなら、私は自分が潰れたほうがましです。改めて大尉にお会いした時、そう思いました」
「わ、私は見たぞ……。この大尉が、自分でペイジたちに奉仕し、自分でしてくださいと頼んでいた場面がビデオに映っている。それが彼の正体なら、テストがその方向に向かってもしかたあるまい」
 ブキャナンの言葉に、ハミルトンは続けた。
「どれほどのことが行われたあと、大尉がそうなってしまったかの過程は映っていないはずで。いや。あるが、提出してないだけです。あれはもう、二日目も終わりの頃の場面です。そうさせるのは簡単でした。ご存じの通り、大尉は実戦で得た深いトラウマを持っていたわけですから」
「大尉?」
 提督の視線に、ロイは険悪な眼差しを返した。
「気が狂っていたんです。おそらく、その時」
「狂った……?」
「まるで記憶にないので。ただ、これまでと比べものにならないほどの悪夢に襲われたと思ったのは確かです。それ以後、私は外へ出るのも恐いほどの症状に陥りました」
「それで、どうした?」
 提督がロイから目を逸らして、ハミルトンにうながした。
「大尉は自殺などしていません。つけていた私を怖がって、逃げようと海に入っただけで」
「……死のうとしたのではなく、君から逃げたと?」
 ウイルコックスが言うと、ハミルトンがきっぱりと言った。
「――ペイジは偏執狂なくらい、最初の調書のときから大尉を言葉で責め、最後には陵辱しました。なんでしたら、調書を取ったときの原本をお持ちしています。提出されたときのもののような、穏やかなものではありません」
 ハミルトンは、手に持っていた書類とテープを渡した。
「君は……なぜ今日、首を覚悟でここへ来たんだ?」
「大尉をここまで貶めた理由が……許せなかったからです。それを聞き出したとき、震えるほどの怒りを覚えました」
「ペイジの理由はなんなんだ? 個人的に怨みでも……」
「いえ。それならばまだ理解できます」
 ハミルトンは、怒ったように声を固くして、唇を舐め、一息に続けた。「SEALSの隊員としてはいられないほど滅茶苦茶に潰したら、自分のものとして手に入れる。大尉が調査室へ異動になれば、さらに追い込んでいく予定だと……。たとえ仕事で役に立たなくなっても、手に入れたら、死ぬまで愛してやるんだと酔った時にしゃべったからであります。あの男は、そういうふうにしか、人を愛することができないのではないかと」
「カーター少佐とホーナー曹長のことは、証言しようがありません。けれど、そんな状態で死にかけていた私が彼らを誘惑するわけはないし、彼らが高潔な人間であることは、隊員たちみんなに聞いていただければ分ります。我々の仲間の団結を思えば、彼らの友情はご理解いただけるでしょう。ペイジのことを調べたのは、彼らに対しての偏見を取っていただくための手段のひとつとしてでしたが……」
 ロイはことばを切った。「申し訳ありません。ハミルトンから、ここまでの内容を聞いていたわけではないので。……動揺しています」
 ロイの直立した足が、微かに震えているのを見て、提督は頷いた。自分の手だって、聞いただけなのに同じように震えているのだ。
「それに、彼らだけではなく、私の親代わりであるバーク大佐も一緒でした。ナカニシという医師も。間違いがあったとしたら、全員同罪です。だとしたら、私は身がもちませんが」
 ロイが薄く笑って見せた。「……そういうことに慣れた身体は、わかるものだとなにかの書物で目にしました。証拠として必要ならば、医師にすべてをチェックしていただいても……」
 毅然として言い放っているように見えるロイの声は、語尾が掠れていた。精一杯の理性を振り絞っている、悲痛な姿であることは、誰の目にも明らかだった。
 提督は、圧倒されたような顔で、青ざめてさえいた。
「もういい、大尉……分っている…。バークのことも、君の父親のマイクのことも、私は知っている。マイクとは同じ船で二年共に起居したことがある。君によく似た、生真面目な雰囲気を持った男だった。でも、似ているというならむしろ君は……」
 提督は言いかけたことばを飲み込んだ。
 彼がなにを言いかけたのかは、ロイには分かっていた。似ているというなら、マイクよりももっと瓜二つの男が確かにいたはずだ。じっと見つめるロイの視線を避けるように、ウイルコックスは咳払いをした。
「いや、なんでもない。ちょっとした勘違いだ。話はわかった。下がっていい」
「ありがとうございます。では、私の話は以上です」
 ロイは帽子を傍らに抱いたまま、踵を鳴らして略式敬礼をすると、部屋を出ようとして、ウイルコックス提督にふたたび止められた。
「君は、チームを除隊して軍の他の部署に行くことを、どう思うか? 君ほどの人材なら、もっと適所があるようにも思える。もちろん、調査室ではなくても」
 ロイはひとつ小さく呼吸をすると、きっぱりと言った。
「私は志を持って、SEALを志願しました。このまま、身を退かせていただきたく思います」
「辞めるというのか?」
「はい。私事で、周りに迷惑をかけてしまいました。早く決断できず、申し訳ありません」
「私事ではなく、これは仕事中の負傷だ。率直にはどうだ? また任務が行えるという自信はあるか?」
「そうだ。また押さえ込まれる羽目になるかもしれん」
 ブキャナンが、負け惜しみのように呟いた。
 ロイは微かに微笑みを浮かべ、上官に対しているような顔ではない表情で、ウイルコックスを見た。
「提督。――率直にいうと、自信が持てるとは思いません。それを断言できないほど、何度も自分に裏切られてきました。いろいろな外的なきっかけがあったとはいえ、それに負け続けたのは確かです。心残りは必死で助けようとしてくれた、バーク大佐をはじめ、仲間への償いができないことだけです」
「……ずいぶん…つらい思いをさせたようだな?」
「一番つらかったのは……。ペイジのことより何より、拷問されてレイプされた私を、軍が信用してくれなかったことです。それが一番、堪えました」
「それがなければ、ペイジがつけ込む隙もなかったわけですからね。傷に塩を塗られたようなものだ。余計なことをしなければ、とうの昔に大尉は立ち直っていたのでは?」
 ハミルトンが、ぞんざいに呟いた。
 提督は言葉が詰まったように、ロイの顔を見つめた。
 横に座って黙ったままだったサザーランドが、初めて口を開いた。
「……申し訳……なかったな、大尉」
「いえ、それで私が不適合者だと、自覚できたのですから」
 ロイは、踵を鳴らして回れ右をした。「失礼します」
「大尉」
 ハミルトンが呼び止めた。「なぜ、ペイジがやったと気付いたんです? テストの時はマスクをつけていたし、あなたは確かにあの時はわかっていなかったはずだ」
 ロイは微かに笑った。
「匂いが……。あの男はいつもミントの匂いをさせている。俺はあの匂いが大嫌いなんだ」
 ロイは姿勢をただし、顔を上げて部屋を出て行った。

 土曜の午後、ジムは暇を持て余していた。
 ロイは、ペイジから受け取ったという写真のことも、自殺に関しての話もジムになにも聞いては来なかった。今日も休日だというのに、やはりどこかへ出かけているらしい。
 ジムはいつかの公園に出かけ、同じベンチに腰掛けて空を見上げた。
 晴れた空にほんわりと雲が浮かんでいる。
 目を閉じて久しぶりに温かい日差しを浴びていると、あの時の会話が思い出された。
「ジムがすきだ……」
 混じりけなしの純粋さで、ジムに好意を示してくれたあの日が懐かしかった。
 あの時は、早く元に戻って欲しい、とあれほど悲しんだにもかかわらず、ジムは子供のようにジムに頼りきっていたロイのことを、もう一度見たいとすら思った。
 くすぐられて、けたけたと笑い転げる顔。
 どこへ行くにも、抱き上げると肩に頭をもたせかけていた柔らかな頬の感触。バスで泡だらけにされていた顔。甘いキスを自らジムにしてくれた、キャラメルの香りのするロイを……。
「勝手なものだな」
 ジムはことばに出して、笑った。
 不意に目の前の陽射しがさえぎられ、ジムは目を開けた。
 紺の制服を着たロイが、微笑んで立っていた。
「ロイ……。仕事だったのか?」
「おまえの車が止まってたから……。年寄りみたいに、公園で昼寝か? ジム」
「ああ、雲を見ていた」
「雲?」
「ほら、あれなんか輸送機に見えないか? あそこが翼で、プロペラまで見える」
 ロイは呆れたようにジムを見て、雲に目を向けた。
「……見えないこともないな」
 いかにもロイらしい返事に、ジムは苦笑した。
 パラシュートだ! いっぱいいっぱい! と無邪気に指をさしたロイと話したのはまだ凍えるような北風が吹くころだった。
 それほど前のことでもないのに、あれからもうずいぶんたったような気がした。
 ジムは隣に座ったロイの頭に手をかけ、思わずくしゃくしゃにかきまわした。
「……なにをするんだ!」
 ロイが頭に手をやり、細い金色の髪を丁寧にときほぐそうとしながら、怒ったようにジムを見た。「みろ。もつれたじゃないか」
「だって、かわいいぜ、その頭」
 ジムが真顔で言うと、ロイは横目で睨んだ。
「なに馬鹿なことを言っているんだ。今日はおかしいぞ」
 ジムは笑い、確かにな、と心の中で呟いた。
「……あ」と、手を頭に乗せたまま、ロイが指差した。
「見ろ、ジム」
 ジムは指の方角を眺めた。
 誰か来たのかと思ったが、指されたのは空だった。
「あの雲、空中降下しているように見えないか?」
 前回のように、たくさんの雲がきれいに降りてきているわけではなかったが、確かに、巨大な四角い弓なりのパラシュートのように見える雲がひとつ、浮いていた。
 空中降下か……と、ジムはうっすらと嗤った。
 ジムはじっとその雲をみつめ、「一番下が俺だ。一番上から降りて来るのはあんただ、ロイ」と言うと、ロイが雲から視線をジムに向けた。
「一番上? ひとつしかな……」と言いかけて、じっと見つめた。
 何かを思い出そうとしているのか、不意に押し黙り、時おり瞳がかすかに揺れるように光っている。
「……前に、ここに来たな?」
 ロイが言った。「ここで、一緒に雲を見た……?」
 ジムは黙って、ロイの顔を見つめた。
「おまえが…泣いて……。それから……」
 それでもジムは何も言わなかった。ただロイの瞳だけを見つめ続けた。
 ロイはいきなり表情を曇らせ、戸惑ったようにベンチを立った。
「先に帰るよ」
「ああ、気をつけてな」
 キスしたことを、ロイは思い出したのだろうか? とジムは思った。けれどもそれは、幻のように、夢と同じレベルのものだとジムは思った。
 あの、弱々しかったロイはもういない。
 以前のように週末、手を握って眠ることもなくなった。夜中にたたき起こされることも、腕を掴んで苦しみに耐えることも。
 そのかわりに、まっさらな友情が戻ってきた。
 いや、それはむしろ強固な絆となって、ロイとジムの間にしっかりと根付きつつある。
「友情と愛情の区別なんて、誰がどうやって決めたんだ?」
 ジムはひとり呟いた。
 キスできなくても、抱きしめることができなくても、ジムにとってロイは愛情の対象だ。だが、ロイが望まない限り、それを表に出すことはできない。
 そしてそんな日が来ないことは、ジムが一番良く分かっていた。 

142
 ロイは、芽吹いた緑の敷物のような芝を踏みしめるように、歩を進めた。
 記憶がなくなっていた日々、ジムとパラシュートの雲を見ていた光景が思い出されたのが、なぜだか怖くて、逃げるように歩いてきた。
 公園の入り口まで歩いてきて、不意にくしゃみが出た。
 ポケットに手を入れ、ハンカチを出すと、何かがひっかかって足元に落ちた。
 小指半分ほどの、小さなシコルスキー型ヘリコプターの模型が、芝の上に転がっていた。
 思わず足が止まった。
 模型を拾い上げ、ロイは、まだ少しもつれたままの頭に手をやった。
 写真の件でロイは唯一、龍太郎にだけ、真相を話してくれるよう問いただした。その間記憶を失っていたのだと聞かされたが、それだけではないような気がした。
 なぜ、こんな小さなプラモデルを、ポケットに入れているのか。
 あの、目が覚めたと思っていた朝、みんなの会話がどことなくおかしかったのを覚えている。だが、その時の会話すら不鮮明なのだ。
 自分の記憶が途切れているのは、気持ちが悪い。
 おまけに、あの写真の姿――。
 どう考えても奇妙な気がするが、誰に聞いてもごまかしているとしか思えなかった。
 少なくとも、記憶を無くし、足が不自由だっただけならば、一ヶ月以上眠っていた、と彼らがロイに嘘をつく理由がどこかにあるはずだった。
 コートの襟をかき合せて、そっと頬にキスをされ、やがて「キスをしてもいいかな」と、唇に触れてきた温かい感触が蘇ってきた。
 泣いていたジム。その涙を拭った指は自分のものだった。
「ジムがすきだ……」
 ロイは、ジムにキスをした――。
 思わず片手で顔を覆った。それが本音だったのは、自分で今、分かっている。振り返ると、遠くにまだベンチに腰掛けたままのジムがいた。
 走って戻って、ジムの首に抱きついてそのままキスをしたかった。
 ……けれども、ロイの足は動かなかった。
 戻る代わりに、足を前に出した。公園を出て、止めていた車に乗り込むと、キーを回した。
「一番下が俺だ、一番上から降りてくるのはあんただ、ロイ」
 優しいジムの声が、指をさした冬の空気と共に、ロイに甘い記憶として流れてくる。
 寒かったはずなのに、まるで童話のように、ほかほかと静かな時間……。
 その時に見た、パラシュートの雲の形までが目に浮かんだ。
 それはとても穏やかで、幸せな記憶だったことだけはロイにも感じられた。 
 この思い出だけで十分だと、ロイは思った。
 ポケットに入れた模型と共に、不思議な穏やかな気分を、ロイに与えてくれていた。
 それだけで、一人で生きていける。
 今後、ロイが違う仕事をし、ジムがガールフレンドを作って結婚をしても、それは変わらずロイの中に生きていくだろう。
 ジムのそばにいることができなくなるのはつらかったが、それでよかったのかもしれないと、ロイは思い始めていた。
 ――そう。もう辞表を書くまでもない。
 自分は、軍とは縁を切るしかないのだ。







硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評