[ロイ・フォード大尉] of [硝子の破片]


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第三十二章 ロイ・フォード大尉

 遠方訓練へ行っている間に、空気がすっかり春の気配を感じさせるようになっていた。
 ジムは久しぶりの休日を朝寝坊し、ベッドに起き上がった。
 夕べビリー、ディクソンの将校二人と、ポール、ジャックを交えてさんざん遅くまで飲み明かしたために、二日酔いのように頭がぼうっとしていた。
 ロイはどこかへ行っていて、遅くまで留守だったようだ。ビリーが飲もうと誘ったらしいが、断られたと愚痴っていた。
 あまりおせっかいを焼きすぎては、かえってよくないのかもしれない、とジムは自分を戒めるようになり、呼ばれたときだけ力になればいいと、やっと思えるようになっていた。
 そういう意味では、ロイよりも自分のほうが、復活が遅かったのかもしれないな、とジムはひとりベッドの中で笑った。
 窓から入る陽気にカーテンを引くと、ガラス越しにロイが駐車場を自分の車へ歩いていくのが見えた。ジムは窓を開け、「ロイ!」と声をかけた。
「おはよう、ジム」
 ロイが穏やかに、よく通る声を響かせた。
「どこ行くんだ?」
「いろいろ用事を貯めていたから、すませてくる」
「そうか」
 よほど、用事が山積しているらしい、とジムはちょっとがっかりし、窓を閉めようとした。
「ジム!」という声に顔を向けると、ロイが微笑んでこっちを見ていた。
「今夜、夕飯食べに来ないか?」
「ああ、行くよ! ワイン持って。白と赤とどっちがいい?」
「赤だ! 極上のフィレ肉を焼く!」
 ロイは車に乗り、片手を挙げて走り去った。
「ロイが極上ってんなら、ほんとに極上なんだろうな」
 ジムは嬉しくなり、さっそくワインを買いに出る準備を始めた。

 ロイの訓練中の厳しさが蘇ってきていた。
 カーターはほとんどをロイに任せ、指示を飛ばしながら自ら訓練をこなすロイの姿を、離れたベンチに座ってじっと見ていた。
 以前からカーターが指導するよりも、ロイの訓練のほうがより厳しく、ハードだったが、隊員たちはロイのときのほうが、タイムが上がったり、苦手とする種目を難なくクリアすることが多かった。
 隊員たちは、ほんの一、二ヶ月前までさりげなくカバーしてあげなければ、などと思っていた副隊長が、みるみる実力を取り戻してきていることを感じ、ひいひい言いながらも嬉しそうに指示に従っている。
「やっぱり、あいつには適わないな」
 カーターが呟いたのが聞こえたかのように、ジムがにやりとこちらを見て笑いながら、訓練用の障害物を乗り越えるために、猛ダッシュで駆け抜けていった。
「それなのに、隊員でいることすらできなくなるなんて、どういうことだ?」
 カーターは眉を寄せ、考え込むように口に拳を当て、膝でそれを支えた。
 部外者は立ち入り禁止の場所なのに、訓練場の入り口に三人の男がやってきた。胸に受付で与えられたらしい立ち入り許可証を下げている。
 金網の外からじっと訓練の様子を窺がっているのを見て、カーターが側へ近寄っていくと、男は「調査室のペイジ」と名乗った。
 離れた場所でこちらを見ているロイに気がつき、ペイジは片手を挙げた。
 ロイがこちらへ向かって歩いてくる。
「ああ、あなたはあのときの……」
 部下らしい男の一人を見て、カーターが声をかけた。ロイが海で死にかけたとき、毛布を持ってきてくれた男だ。
 紺色のスーツを着た男は握手をし、「ハミルトンと言います」と、少しだけ微笑んで見せた。

 ロイが来ると、ペイジはどこか部屋を貸して欲しいと言い、カーターは先に立って案内した。
 応接間になっている部屋のソファに、ペイジとロイが落ち着くと、カーターは飲み物を尋ねた。
「いや、おかまいなく」
 ペイジは鷹揚に手を振り、早く立ち去ってほしいそぶりを見せた。二人の部下が、ロイの後ろに脅すように立っているのが、気に入らなかった。
 カーターは隣の子部屋に入り、耳にインターカムをセットした。
 応接室はいろいろな場合に備えて、隠しカメラと隠しマイクがセットしてある。さすがにカメラははばかれたが、声だけでも聞くべきだと思ったのだ。
 後ろのドアが開き、ジムが顔を覗かせた。
 カーターは手招きをし、もう一つのインターカムを耳につけるよう合図した。
「またお会いすることになりましたな」
 ペイジの不愉快なしゃべり方が、隣の部屋の二人の耳に響いた。「また二、三質問なんですが」
 ロイは「どうぞ」と落ち着いた声を出していた。
「五ヶ月ほど前、…正確には十一月二日、あなたは自殺未遂をされたようですね」
 ジムが舌打ちをした。
 カーターは眉を顰め、じっと聞き入った。
 これは覚えていないロイにとって先制攻撃を仕掛けられたも同然だ、とカーターは思った。

 ロイは躊躇ったように黙り込んだが、やがて口を開いた。
「……覚えていません」
「なぜですか? 覚えていないというのは?」
「体調が悪く、精神的に不安定な状況が一番酷い時だったのでしょう。思い当たることはありますが」
「ひところは良かったのに、またぶり返したのですね? 今後も起こる可能性がありますか?」
「不安定な状況は、今後も起こるかもしれません。それが起きれば自殺未遂のほうも何とも言えません。自分で死のうと思った覚えはありませんから」
「……断言されたということは、自信がないわけですね?」
「自信など……。そんなものは幻と同じだ。貴方が振りまいたようなね」
 ジムとカーターは目を見合わせ、口元に微笑を浮かべた。 
「ずいぶん、印象が違いますな。以前とは。……私が振りまいたとはどういうことです?」
「ご自分で考えればいい」
 ロイの声が氷のように冷えていた。
「分りませんな?」
「人との距離感を保てない、貴方のような人には理解できないでしょうね」
 ペイジは愉快そうに笑った。しゃがれた、嫌な声だった。
 ジムが囁いた。
「……嫌なやつですね」
「ああ、ペイジと言ったか?」と、カーターが頷くと、ジムが首を振った。
「大尉ですよ」
 そう言いながら、ジムはくすりと笑った。
「…まあいい。今日はそういう用件で来たわけではありません」
「それにしては、前置きが長いな」
「あなたをわが調査部にお迎えしたいと、そう思いましてね。直々にお誘いにあがったわけで」
「……調査部の件は、お断りしたはずです」
「以前はね。あなたは優秀なSEALの隊員だった。だが、事情が変わってきた。あなたはもはや、任務には出られないはずです。同じような場所へ赴けば、また混乱してしまわれるのではないかと、上層部は心配しています。まあ、今日私が出向かなくても、じきに辞令が下りるでしょうがね。ただ、他にもあなたを欲しがっている機関があるようなので、念のために出向いたのです」
「……」
「情報部も、安全とは言えない。他の部署も似たり寄ったりです。わが調査部なら、少なくとも戦場やテロの巣窟へ出向くことはない。あなたが捕虜になったり、捕らえられて酷い目に遭うようなことは、二度とありませんからな」
「……そういうふうに報告書をあげたのか? ペイジ」
 ペイジはくすくすと笑った。
「事実ではありませんか」
 カタンと音がし、誰かが立ち上がった気配を感じた。
「大尉、あなたが自殺を図ったあと、ひと月以上もの間、誰にかくまわれていたかも調査済みです。以前捕まってペットのように飼われていた男は、名うての男好きだった。それが、ああいう不遇を招いたのです。あなたは彼に良く似ておられる」
 ペイジは勝ち誇ったような声を出した。
 カーターが、「あの写真……」と呟くと、ジムが頷いた。
「こいつだったんだ」

「ご自分の意思でかどうかは分らないが、男をその気にさせる能力に長けておられるようだ。私も思わずキスを誘われましたしな。駐車場で」
「……キスだとぉ? いつの話だ?」
 ジムが唸った。
「あれを、俺が誘ったと?」
 ロイが、くすりと笑った。
「プレゼントをご覧になりましたか? かわいらしい格好で、まるで女の子のように大切に扱われて。彼らが複数であなたをペット代わりに飼っていたと、私は解釈しましたよ。貴方は正気ではなかったかもしれないが」
 ジムとカーターは黙り込んで、お互いに睨みあった。
「あの時のあなたは、乱れに乱れて、ほんとうに愛らしかった。まるでマスコットのようにね」
 ジムがかっとなって立ち上がりそうになるのを、カーターが抑えた。
 同時に、ガタンと椅子が蹴られたような音がした。
 うっという、呻き声がした。ロイが、ペイジの胸倉を取っているのが、目に見えるようだった。
 ロイの低い、よく通る声が響いた。
「いいか。俺がお前のいうように、チームのマスコットだというのなら、どんな連中のマスコットか、分かっているはずだな。分かってるなら、今後しっかり自分のケツを守ってろ。やられるのがどんな気分か、自分で味わいたいならいつでもそう言え。俺の仲間を侮辱するのだけは許さん」
「は、離したまえ、たい……」
 ペイジの声と共に、激しい音がし、肉を打つように弾け、どすん、と床に倒れた音がした。
「後ろから近寄るな! じっとそこに立ってろ! 貴様らのボスと話をしている!」
 ロイの落ち着いた、ぴしっと鞭を打つような低い声がした。部下の一人が蹴られて倒れたらしい。
「見に行ったほうが……」
 ジムが腰を浮かすのを、カーターは止めた。
「やられてるのは向こうだ」
「ハミルトン、ジャクソン、……押さえ込め…そうすればこいつは…泣いて縋ってくる……」
 ペイジの声に、激しい音が響き渡り、ジムはまた腰を浮かせた。
 ドアの回される音がしたが、隣の壁に生の音が振動となってカーター達に感じられた。誰かがドアに押し付けられたのだ。

 ジムは完全に立ち上がって、ドアに手をかけていた。
 カーターが、カメラのスイッチを入れた。
 ロイがペイジをドアに押し付けているのが、画面に映った。
「ジム、ロイは無事だぞ」
 すぐそばに、黒いスーツが倒れて、身体を丸めて呻いていた。
 聞いたこともない、どすのきいたロイの声が響き渡った。
「後ろから近寄るなと言ったはずだ!」
 それから押さえつけたペイジを、ロイは睨みつけた。「捕らえられた男の恋人だった男が誰か、名前を挙げてほしいか? デイビッド・ジェラルディン・ペイジ」
 苦しそうに呻くペイジの声が漏れた。
「大尉、ボスの首を緩めてくれ」
 カーターが知っているほうの、紺のスーツの男の声がした。確かハミルトンと名乗ったはずだ。「首が絞まっている」
「締まっているんじゃなくて、絞めているんだ。口を出すな」
「……そんな…脅しなど…こわくは、ない」
 ロイは、不意にペイジの顔を覗き込んだ。
 ドアに押さえこんだまま、その唇にキスをしそうなほど顔を近づけた。
 ロイの顔が、ひどく不安げな表情を浮かべているのに、ジムは気づいた。

「なにをしてるんだ?」
 カーターが呟いた。
 ロイは戸惑ったような顔で、そのままペイジの顔を覗きこんでいる。
 キスでなければ匂いでも嗅いでるみたいだ、とジムが呟いた。
「……おまえか…」
 ロイは目を見開いて、ペイジの顔を見た。
 恐怖を感じたように、ロイはペイジの身体から手をはずし、一歩離れた。
「お前、まさか俺を……GI501で……」
 ペイジはドアにもたれていた身体を起こし、余裕を取り戻したかのようにロイの前に立ちはだかった。
 上背のある身体に、ロイの姿が隠れるほどの、顔に似合っていない体格が、そびえるように胸を張っている。
「信じられないほどの身体だったよ。……捕らえた連中が、拷問を途中でやめられなくなったはずだ」
 今までと違って、囁くように交わされた言葉は、カーターにもジムにも聞き取れなかった。
「なんて言った?」
 カーターがジムに言いかけたとき、いきなり、ペイジの身体が横様に吹っ飛んだ。
 ロイが蹴り上げた足を、スローモーションのように元に戻した。
 倒れたペイジが呻いて身体を起こすと、その胸ぐらを掴んで顔を突きつけた。
「俺を狂わせて、調査室で檻にでもいれて、おもちゃにするつもりだったのか?」
「あの時、君はすでに正気じゃなかった」
 ペイジは胸倉を掴まれたまま、くくっと笑った。「自分からすすんでやったことを忘れたのか? 私は単なるテストを行った。君は怯えて、許してくださいと泣いて従ったんだ」
「そうだ。俺はおかしかった。お前にさんざんいたぶられて、すっかりまいってしまった。なぜだ? なんでそこまで俺にかまう? ……お前は自分の恋人を、ハルトマンと組んで、無理やり記憶を取り戻させ、自殺に追いやった……彼はたくさん恋人がいて……しょっちゅうお前を裏切ってたらしいな?」
 ペイジが黙り込んだ。
「お前は彼が忘れられないんだ……そうだろう? お前の恋人と、俺がダブって見えたか? それとも、レイプされた男が憎かったのか?」
「とんでもない。私は……純粋に君が欲しかった。仕事でも、私的にもね」
 ロイの曲げた腕が今にも殴りつけるように、拳を固めて後ろに引かれたが、ややあってロイは腕を下ろし、掴んだと同じ勢いで、ペイジを床に突き飛ばした。
 どたりという温い音がした。ごほごほと咳き込む声がした。
「二度と俺の前に現れるな。俺はチームをやめるつもりはない」
「もう遅い。あの写真は報告済みだ。まもなく辞令がおりる。調査室に来ないなら、君の行く場所はないように、さらに追加の報告を上げる。君を飼っていた恋人たちが残念がるだろうな」
 立ち上がりかけたペイジの顎に、強烈な音が弾けた。
 一度ひっこめた拳が、綺麗に決まり、ペイジは床に仰向けに倒れ込んだ。
「……仲間を侮辱するなと言ったはずだ」
 黒いスーツが立ち上がってペイジを庇うように、上半身を起こした。

 黒スーツは、身を低くしてロイの前に立ち上がったが、冷たい青緑色の瞳に睨まれて、逡巡したように後じさりした。
 それにはかまわず、無造作にロイはドアを開け、背を向けたまま立ち止まった。
「ペイジ……」
 ロイがドアに手をかけ、振り返った。
 ペイジが顔を上げると、ロイは、その目をじっと見た。
 怒りにたぎっているはずのロイの表情は、憤りの中に哀しみの色を湛えてさえいるように、ジムは感じた。
 やがてロイは、氷のような声で言った。
「……自分を憐れだと知れ」
 ドアが閉じる音がした。

 ロイの足音が遠ざかるのが、カーターとジムのいる部屋のドアの外に響いた。
 再び力なくドアの開く音がした。カーターはすかさず廊下に出た。
「御用はおすみですか?」
 ペイジはむっつりと黙り込んだまま、部下に肩を担がれて足音荒く出て行った。
 応接室の中に、散らかった書類を、あたふたと鞄につめこむ、紺のスーツの男が目に入った。
「君が毛布と薪を準備してくれたおかげで、彼は命拾いした。本人は知らないからね、私から礼を言っておく」
 ハミルトンは頷き、腫れ上がった顎を押さえた。ロイに殴られた跡らしかった。
「あれがもともとの彼ですか? 最初分からなかった」
 ジムがドアを開けて出てきて、カーターの後ろに控えるように立った。
 カーターは頷いた。
「もともと、我が隊で一番怖い男なんだ」
「毛布と薪は……俺としては詫びの気持ちがあった。コピーを届けたのは俺だったし……」
「……聞きたいんだが。ペイジは他に大尉になにかしたのか? GI501では、どんなテストがあったんだ? 君は知っているんじゃないのか?」
 カーターの鋭い目と、後ろに控えた大男のどす黒い、怒りに燃えた顔に目をやり、男は急に腰がひけたようだった。 
「な、なにも……」
「本当のことを言えよ」
 ジムが、狼が唸るような低い声を出した。
「最初の調書の時から、ペイジはあまりにも酷い質問をしすぎだった。だが、テストの内容に関しては、俺は知らん……」
 カーターは、濃いブルーの瞳を更に沈ませるように、光らせた。
「……ペイジに伝えろ。報告書は間違いだと訂正を出さねば、海軍特殊部隊が総出で挨拶に行くとな。俺たちは正門から入るような訓練は受けていない。フォードがすっかり立ち直って、隊長として適任だと正さなければ、お前たち全員、チェサピーク湾で延々泳ぎ続けることになると伝えろ!」
 ジムが補足した。
「……これは誓って、脅しじゃないぞ。俺たちの手は、決して綺麗とは言えない。おまえらがのほほんとデスクワークをしている時に、俺たちが何をしているか知ったら、口もきけないだろうよ。今出ていって殴らなかっただけ、ありがたいと思え」
「俺たちを、悪く言う連中がなんと呼んでるか、知ってるか?」
 低い、脅すようなカーターの声に、男は答えなかった。
 代わりに息を飲み、ハミルトンは「必ず伝える」と言って、慌てたように通用口を出て行った。


「……なんかあったはずだ。ロイが崩れたのは、おそらくペイジのせいで…」
 ジムが忌々しそうに、男の去ったあとを見ながら呟いた。
「ああ、確かに。――そういえば、あいつらに調書を取られた頃からだった。空母で、あいつは……」
 カーターは、腕組みをして、ちょっと考えるような目をした。「でも、ロイが自分で始末をつけた。口出しは余計だったかもしれん」
「足りないくらいですよ。……それにしても、胸がすくような蹴りだった。けどどうせなら、ぼこぼこにしてやればよかったのに」
「それがロイらしいところだろ……『自分を憐れだと知れ』……殴るよりきついぞ。」
 カーターがロイの声音を真似すると、ジムがにやりと笑った。
 カーターも声を上げて笑い、二人で手を打ち鳴らした。
「やったな。昔のフォードだ」
「ああ、何だか嬉しくなりましたよ」
 ジムは言い、ふと慌てたようにあたりを見回した。「今のやり取りで、また具合が悪くなってるかもしれん。俺たちがロイを抱いていた写真がどうとか言っていたし……どっかに蹲ってるかも。あの場は強がってたけど、ショックが大きいんじゃ……」
 カーターは眉を下げ、「やっぱりお前は悲観的だよ、ジム」と言って顎で外を促した。
 ロイが陰険な顔をして、こちらを見ていた。盗み聞きをしていたのがばれたらしい、と二人は首をすくめた。
「おい」
 カーターがジムを小突いた。「ああいう顔をしているときの対処は、どうするんだ?」
「機嫌が直るのを、待つしかありませんね」
 ジムが笑い出し、外に向かって手を振った。ロイが微かに笑ったような気がした。
「よっしゃ、上機嫌だ」
 カーターは、呆れてその背中を見つめた。
「上機嫌だって? あれがか? 俺にキスしてくれた、あの可愛らしかった子供が、どう成長すればあんなふうに育つんだ?」
 ジムは、先に歩きかけ、ふと何かを思い出したというように振り返った。
「忘れていた用を思い出した。すぐ戻ります」
 カーターは青い瞳を微かに翳らせてジムを睨んだ。
「すぐにすませろよ」
「すぐに」
「手伝おうか?」
 将校殿の手伝いなど、必要な用ではありませんよ、とジムは笑い声をたて、そのまま小走りにドアを開け、あっという間に角を曲がって見えなくなってしまった。
 庇い合って出て行った件のふたりが、さっさとマーキュリーを――絶対にその主はあいつだとカーターは踏んでいた。ここにそれで来たとは思えないにしても――発車させていればいいが、とカーターは思いつつ、駐車場のある方角に目をやった。
 自分が拳を固めていたのに気がつき、カーターは息を吐くと、くすりと笑った。
「そうだな。将校と兵士の面倒を見るのは、血の気の多い下士官殿だと、昔から相場は決まっている」

 ペイジに置いていかれないようにと思いながらも、ハミルトンの歩調はのろかった。置いて行かれたら帰りが大変だが、それならそれで帰る手段を考えるしかない。
 携帯が鳴り、蓋を開けたとたん、「早く戻ってこい!」という苛々したペイジの声が響き、勝手に切られた。今、三人雁首をそろえて狭い車に乗って帰るのは気が重い。
 自分が辿っていた道とは別の建物の角から、さっきの大男が小走りにどこかへ行くのが目に入ったが、その姿すら見えただけで格別に思いを向けたわけでもない。
 上司が待っている様子なので仕方がないと駐車場へ向かう途中で、ハミルトンの荷物が手から滑って落ちた。慌てて詰め込んだ書類が、風に巻かれて散らばった。
 舌打ちをしながらしゃがんで拾っていると、目の前に影が差し、磨かれた靴とのばした細長い指が書類を拾ってくれているのが目に入った。
 顔を上げると、先ほどのフォードが黙って書類を差し出したところだった。思わず殴られた顎に手をやり、立ち上がって身構えた。フォードはしゃがんだまま、ハミルトンに目をやることもせず、まだ書類をかき集めていた。
 俺を追ってきたのか? と、ハミルトンは訝しんだ。この男にしてきたことを考えれば、怒りが治まらずにいるのも無理はない。ことに、自分が知っているはずの傷心した兵士ではなくなっているらしい、さっきの様子を考えると覚悟を決めるしかないかもしれないとすら、思った。立って見下ろしていてなお、有利なはずの自分を脅かすほどの気配を漂わせている姿が、恐ろしくさえ感じられた。
 俯いた肩から背中の線はまだまだ、骨張った細さを見せており、現場復帰して訓練を受けているとはいえ、通りで知らずにけんかをすれば、簡単に勝てそうにすら見えるというのに。
 フォードは穏やかな顔で立ち上がった。
「ハミルトン、だったかな?」
「ええ。――なにか?」
 フォードは書類を持った手を差し出し、ありがとう、と言った。
 ハミルトンはなんだか分からないまま反射的に書類を受け取り、目で問いかけた。
「テストの時、俺を車で送ってくれたのは君だったと思ったが」
 フォードの言葉に、ハミルトンはうなずき、「私です」と答えた。
「その礼を言いたかっただけだ。さっきは殴ってしまって悪かった」
 ハミルトンは戸惑い、微かに唇の端をあげ、笑おうとしたがうまくはいかなかった。礼を言われるほどのことはしていない。むしろ――。
「よくは覚えていないが、参っていたあの時、君の発する気配に救われたと思っていたんだ。車の中だけではなく、あそこにいた間ずっと。……それだけだ」
 フォードはそのまま踵を返すと、歩き出した。
 背の高い、すらりとした美しい後ろ姿だった。
 ペンタゴンの一室で初めて見たときの印象もそうだった。凛とした雰囲気を持った気高さに軽く圧倒されたものだ。だが、その後監視を続けていくうちに、彼の印象は変わっていった。頼りなく、常に追い詰められた者のような儚さを身にまとい、最終的には人形のように表情をなくしてしまっていた。その後は言うまでもない。知性をなくした人間が、あれほど無防備で無邪気な顔になるとは、ハミルトンも知らなかった。
 今さら調査室に入れるなどという、ペイジの発案に訝しんだほど、彼はもう硬派な仕事はできないのではないかと思ってさえいた。
 さっきの、瞬間的な狼へ変身したかのような獰猛さ。そして、今こうしてそのすぐ後に、自分へ、かつてのささやかな励ましに対しての礼を言う、その態度に呆気にとられてしまっていた。
「大尉!」
 ハミルトンは、小さくなりつつある後ろ姿に声をかけた。
 フォードが振り返る。軽い潮風が、金色の前髪を乱し、フォードが片手でそれをちょいと整えた。
「わざわざ礼を言われることなど、してません。俺はほんとは――」
「君が俺の監視をしていたのは知っている。君の人間性に感謝しただけだ」
 片手をあげ、フォードはまた背を向けて歩き出した。背を向ける前に、わずかに浮かべた笑みに、日が差したような光が宿った気がした。
 ハミルトンは、唇を噛んだ。
 人間性――という言葉が胸に刺さった。
 覚えていない、というのがどこまでなのか見当もつかないが、ハミルトンはあのテストの行われている間、彼の世話をした。
 テストの合間、幻惑に取り憑かれたように、自身を見失っていたフォードに水を飲ませ、スプーンでスープを口に入れることまでした。それすらも受け付けないと分かって、点滴を施すよう医師に伝えた。点滴を行っている間、ベッドもなかったあの小さな部屋の床に座り込み、彼の頭を膝に乗せて、あの金色の細い髪が顔に被さるのを指で払いのけた――。
 彼は「気配」と言った。具体的なことは覚えていなくても、そうしたハミルトンの、一連の行動を……あの時、彼に心底申し訳ないと思っていた気配を感じていたのかもしれない。
 確かに、同僚として仕事をするならば、今の彼ならば申し分はないだろう。
 だが、彼は調査部などに入るよりも、厳しい兵士としての方が似合っているのは間違いない。
 ペイジは、とんでもないことをしている――。
 国家のために傷を負い、それでも必死で這い上がろうとしている人間を、上から足で踏みにじるようなことを。そうまでして彼を迎えたい真意はなんなのか、ハミルトンには測りかねた。
 鈍く痛む顎に手を当て、ハミルトンは建物の中に消えてしまったフォード大尉の影を探すように、いつまでも立ちつくしていた。





硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

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金の砂銀の砂第二部

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評