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第二十七章 置いてきぼり

 玄関のドアが開き、髪に雨の滴をつけたカーターが入ってきた。
「……招集だ」
 ただいまも言わず、呆然とリビングに座っているジムとロイを見つめ、カーターが言った。戻ったばかりなのに、また基地に引き返さないといけないのだ。
 留守だったバークから電話が入った。叔母の家に行って、帰る途中だという。
「家内は、シャーロッツビルに残したんだ。叔母がいよいよ危篤状態に陥っていて、看病していたそこの娘まで倒れてしまって……。だから、今夜ロイを家内に預けられない」
 バークが狼狽えたように、とにかく戻るというのを、カーターは止めた。
「直接基地に行かれていてください。そのほうが近いでしょう? ロイのことは、なんとかします」
「俺が残ります」
「ジム、ディクソンもビリーもポールいないんだ。今回ばかりは、おまえが抜けるわけにはいかない」
 受話器を見つめながら、カーターが苦々しく言った。
「でも、ロイをひとり残すわけにはいかないでしょう?」
 ディクソンと曹兵のポールは、西海岸コロネードの訓練学校まで出張しているのだ。ビリーは、正規の休暇中である。父親が危篤だと言ってロサンジェルスへ戻っているはずだ。こうなることが分かっていながら、みんなに招集がかかったら、という想定が甘かったことをふたりは後悔した。
 カーターは、ジムにとにかく着替えるよう指示すると、ドクターの携帯を呼び出した。
 医師は、事情を聞いて、ロイを預かることに快く応じた。診察の予約があるので、昼間は診療所へ連れて行くがいいかと問われ、カーターは承諾した。
 ただ、今夜は学会からの帰りで、帰宅途中だという。
「まだ、車の中なんです。一時間だけ、待っててくれるようロイを説得してください」
 必ずそれまでには着くからと、医師は約束した。
「どこ……いくの?」
 ロイが不安そうな顔をして、黒い戦闘服に着替えているふたりの男をソファに座ったまま、見つめていた。すでにさっきからの涙の上に、新たな涙の筋ができている。
 ジムは、そのそばに行き、ロイの肩に手をかけた。
「いいか? 俺たちは出かけないといけない。仕事なんだ。だからロイは、ここで待っていてくれ。一時間――」
 ジムは、テレビをつけてみた。アニメが始まったばかりだった。
「ほら、いいか? これが終わったら、次はロイの好きなタートルズが始まる。それが終わったら、ドクが来る。それまで、ここでじっとテレビを見て待っていられるか?」
 ロイは涙を拭って頷いた。
「まっていられる。マイキーと」
「いい子だな」
 ジムは、額にキスをした。「すまん。ほんの今、どこへも行かないって言ったばかりなのに、今回だけは仕方がないんだ。これが終わったら、本当にずっと、ロイのそばにいるから」
 カーターがキッチンから出てきて、テーブルにグラスとオレンジジュースのパックを置いた。ついでに、車に走って戻って、買ってきたらしいドーナツの箱を開けて見せた。
「お腹が空いたらこれを食べて。ドクが来たら一緒に夕食にしなさい」
「時間がない。もう行かないと」
 ジムが、気がかりそうな顔をロイから離せないまま、時計に目を走らせた。
 ドアを開けると、雨がざんざんと音を立てて降りしきっていた。
 ジムもカーターも、玄関口でそれぞれにロイを抱きしめた。
「いい子で、ドクを待ってるんだよ」
「うん――」
 ふたりは名残惜しそうに振り返りながらも、玄関先に止めていた車に乗り込んだ。

 ロイは開けた玄関先に立ったまま、消えていくテールランプを見つめていた。
 ものすごい雷鳴が鳴り響き、ばりばりと空が裂けて、どーん、とあたりを揺るがすような激しい音がした。
 ロイは、その場に耳を抑えて蹲った。 
「ジム……! こわい、こわい!」
 目を開けると、すでに車の光も届かないところに消えてしまい、ざんざんと雨だけが音を立てていた。
 やっとの思いで立ち上がり、ロイはドアを閉めて部屋に戻った。
 ――行ってしまった。
 黒い服を着て、ロイを置いて。どこへ行くとも、ロイには分からないまま。
 一息に、取り残されたことを、ロイは知った。
 誰もいない部屋はしんとしている。もう夜で、空が怒ったように鳴っているのに。
 心細い気分でカーテンを閉め、賑やかに動くテレビの画面に目をやった。これが終わったら、マイキーが映って、マイキーが消えたらドクが来る。
 待っていられる。
 ジムに約束したのだ。ロイはぐいっと手で涙を拭った。
 傍らのオレンジジュースのパックを手に取り、グラスに注ぎかけたとき、ものすごい雷鳴と共に、家の灯りが消えた。
 持っていたオレンジジュースのパックが、床に落ちた。
「マイキー……」
 テレビの画面が、消えたはずなのに薄明るくぼうっと暗闇に浮かび上がっている。それが、不気味な姿を形成しはじめた。
 ロイは悲鳴を上げて、その場に蹲った。
 怖い――。マイキーがいないなら、ドクは来ない。
 なにかがやってくる。きっと、やってくる。
 こわいこわい、こわい!
 ロイは堪え切れない、嗚咽を漏らしはじめた。


「俺たちが出動になって、もし帰ってこられなかったらどうします?」
 ハンドルを押さえた手を握りしめて、ジムが呟いた。
 それは決して大袈裟ではなく、これからすぐに起こりうることでもあった。
「大佐は現場には入らない。そのときは、大佐がなんとかしてくれるだろう」
「……こんなふうに、慌ただしく、ひとりで置いて出なくてはいけないことに、なるなんて」
 カーターは、左右に動くワイパー越しに前方を見つめながら、うんと頷いた。
「少佐、本物の三歳児を一時間も家に置きっぱなしにして、出られますか?」
「私には子供はいないんだから、分からないよ。三歳児そのものが掴めていないんだ。でも、君は案外しっかりしているもんだって言ったじゃないか」
「それは、親の庇護があればの話です。警察にばれたら、逮捕されますよ。車にひとり置いたってだめなんだから」
「……ジム、何が言いたい?」
「この一時間は、ロイにとって、死ぬほどこわいはずだ。特にロイはひとりでいることに、すごい恐怖感があるんだから。ほんとの子供以上に、ほっといてはいけなかったんです」
「分かってる。けど、どうしようもなかった――俺たちは、やっぱりどこかで真剣じゃなかったのかもな」
 そうなのかもしれないな、とジムも頷いた。自分たちの仕事の不規則性は、十分に骨身にしみている。今や友人も家族も、誰も自分たちと遊びの約束をまともにはとらない。実際の任務でなくても、こうした呼び出しは頻繁に起こるのだ。当の隊員たちですら、友人や恋人と約束をしても、それが実現すればいいが、などとどこかで訝しんでいるのが常だった。そういう状況を分かっていながら、彼らは自分たちだけでなんとかなると、なんとなく思っていたのだ。
 いざとなったらドクがいるし、サマンサだっている。だが、未だに会わせることもしていないサマンサはともかく、ドクにだってほかに用があって、すぐに来られる状況にあるわけではないことなど、考えてもいなかったのだ。
「……泣いてるでしょうね。雷鳴ってるし」
「すでに泣いてたじゃないか」
「俺も……泣きたい気分ですよ」
 ジムは、本当に目尻を拭った。「ドクが早めに着いてくれればいいけど」
 カーターは、通りかかった州間高速道路が渋滞しているのに目をやった。
「……下りは空いてるみたいだから、大丈夫だろう。なんといったって、たったの一時間のことじゃないか」

 龍太郎は苛々しながら、ハンドルに置いた手を小刻みに動かしていた。
 州間高速道路は、ノーフォークに入る手前で、スリップ事故で玉突き事故が発生し、上下線とも進行方向が塞がれたままだった。
 カーターとジムは、もうとっくに家を出てしまっているはずだ。
 招集がかかってしまった彼らには、逡巡の余地はない。何を置いても出て行かねばならないはずだ。
 龍太郎は、携帯を取り出して別荘の電話を呼び出した。だが、ひとりでいるはずのロイはなぜだか電話をとらない。
 幼児じゃないんだ。家にいる限り、大丈夫なはずだ、と龍太郎は思いかけ、相手が「幼児」だったことを思い出した。
 そうでなければ、龍太郎が留守を頼まれることは、ないのだから。
 雷がしきりに空に亀裂を作っている。
 龍太郎はまた、携帯のボタンを押した。
「なぜ、電話に出ないんだ、ロイ?」
 苛々と、幾度も幾度も龍太郎は携帯のボタンを押しては耳に押しつけていた。


 どんどんと、ドアが打たれる音がした。
 ロイは、ソファの前に蹲ったまま、咄嗟にドクターが来たのだと思ってドアを見つめた。
 がちゃりとドアが開き、濡れた靴音がした。
 じゅたっと濡れた靴を室内に入れた影が、まっすぐにロイを見つめているようだった。大きな男だった。
 稲光が男を照らし出す。
 ドクではない、とロイはその不気味な黒い塊に瞳を凝らした。心臓が口から飛び出そうなほど、喉元まで這い上がってどきどきと音を立てた。
 男は手にしていた懐中電灯で室内を照らし、蹲っている影を、頭からつま先まで確認するように光を当てた。
「おや、フォード大尉。よかった。お話があって来たんですが。いやひどい雨になったもんだ」
 見知らぬ男に、ロイは身体を硬くして耳を澄ませた。ロイには、黒い影が見えるばかりである。それはよく知っている――ような気がした。夢に出てきた悪魔の影だ。
 ジムやデインのように、優しい手を差しのべたりはしない、恐い恐い影だ。
「他の人たちは、出かけているようですな? さっき車が出て行ったのを見ましたよ。それにしても、真っ暗とは。停電ですかな?」
 男は耳を澄まして部屋を伺ったが、なんの物音も聞こえないことを確認すると、ロイのそばまで近寄ってきた。
「何度か、コンタクトを取ろうと思ったのですが、どうにもガードが堅くてね。いや、あなたの騎士たちは、よほどあなたが大切なようだ」
 男が目の前に立ち、ロイは見上げることもできないまま、身を固くした。
「どうしました? しばらく拝見しない間に、ずいぶん面やつれされたようだが。ひどく具合が悪いんでしたかな?」
 男は、不意にロイの頬に手の甲を当てた。
「……泣いていた……わけですか? どうしたんです?」
 揶揄するような、含み笑いを漏らしながら、男はロイの唇に指を這わせると、そのまま顎を捕らえてロイの唇に、自分の唇を押しつけた。
「……っ」
 ロイは、びっくりして思わず男を押しのけたが、その腕をがっちり握られた。
「……いや……はなして」
 小さな震える声で、追い詰められた小動物のように目を見開くロイを、男は楽しげに見つめた。
「誘っているんですか? ロイ。そんなかわいらしい言い方をなさるとは」
「いや……だ……」
 ロイは、顔を歪ませて涙を浮かべた。新たに唇が押しつけられ、気持ちの悪い生暖かい舌が這入り込んでくると、ロイは息を詰まらせた。痺れたように、暗い孔に落ち込んでいきそうな予感がした。
 男は、そのままロイを押し倒そうとした。
 ひいい、と絞り出すような声があがり、床に押し倒されると、男の下半身の重みに動けなくなってしまった。
「……悪い人だ。嫌がる振りをすれば、自ら進んで誘ったことにはなりませんからな」
 男はセーターの裾をめくって、じかに肌に手を這わせた。
「あ、ああぅ」
 身を捩って、ロイは叫び声を上げた。必死で手を床に這わせる。
 じりりーんという、電話のベルが鳴り響いた。
 男が、はっと顔をそちらへ向けたとたん、ロイは手に触れたオレンジジュースのパックを顔面に叩きつけた。
 男がひるんで身を起こした瞬間に、ロイは男の胸を突き倒し、起き上がって駆けだした。ロイは急いで玄関のドアを開けた。
 降り注ぐ雨の中を、ロイは外へ飛び出した。
「待て!」
 後ろからシャツの裾を掴まれ、もがいたせいでそれが離れた。勢い余って、ロイは玄関先の階段から転げ落ちた。
「……う……」
 男がかけよって、ロイを抱き起こした。頭でも打ったのか、力が抜けている。
「ずいぶん、情けないお姿だ。狂ったらしいというのは、本当だったようだな。だったら都合がいいというものだ。――私と一緒に来ますか? ロイ」
 男は、車のドアを開けて、助手席にぐったりした身体を押し込んだ。

 車の助手席から、ロイのすすり泣きの声が聞こえた。
 身体を拘束することをしていなかったのが気になったが、ペイジは横目で様子を見ると、必要ないと判断した。
 縮こまって、自分から逃れるようにドアの方へ身を寄せ、震えて泣いている。
「信じられないな。まさかこんな状態になっているとは。あの男たちが手放そうとしないはずだ」
 ハンドルを片手で操りながら、ペイジが手を伸ばして首筋に触れると、「いや……」と、ますます逃れようとした。
「……かえる……おうちに、かえして」
 おねがい、と泣きじゃくる声に、ペイジは異様な悦びを覚えはじめていた。
 車のロックが下りていることを確認し、ペイジは州間高速道路に向けていた進路を変えた。どこか、モーターインホテルにでも入って、すぐにも状態を確かめたくなったのだ。
 ペイジは、被虐的な匂いをさせる若い男が好きだ。美しければなおいい。しかも記憶を失ってしまっているらしい、ということはわかっていたものの、どうやらそれだけではないらしい。
「すぐに着くからね。これからたっぷり鳴かないといけないんだ。今からそれじゃあ、涙が涸れてしまう」
 自分の言いぐさがおかしくて、ペイジはくすくすと笑った。
 信号で停車すると、ドア側にへばりついている身体を引き寄せ、キスをした。ロイは嫌がって顔を背けたが、無理に戻してなお口腔への陵辱を繰り返す。
 ――甘い唇だ、とペイジはうっとりした。硬そうな性格であることを匂わせていた、気取った男は見るたびに崩れていった。ロイ・フォードという男に魅せられ、手に入れる算段はちゃくちゃくと進めていたものの、こんな状態なら問題はない、遠回りに画策する必要などない、とペイジはロイを離してまたハンドルを握った。信号が青になっていたからだ。
 ――これならば、大した手間はかかりそうにない。このまま連れ帰って、密かに飼い続けても逃げることもできやしないだろう。大がかりに捜索が行われたとしても、こんな状態の男をひとり置いて行ったのだから、勝手にふらふらとどこかへ消えたということで、それほど深い追求もあるまい。
 ましてや、自分とフォードの間には、取りざたされるほどの関係はないのだ。自分に疑惑が向けられることはほぼないはずだ、とペイジは考えた。
 ロイは子供のように嗚咽しながら、またドアの方に身を沈めるように逃れている。自分でロックを解除して、ドアを開けることすらできないらしい。
「……いやだ、ジム……デイン……」
 幼い口調に、鳥肌が立つ。
 端正な顔立ちから、理知的な輝きが消えている代わりに、無垢なものの薫りが匂い立つようで、ペイジはロイの着ているセーターに手をかけた。
 再び信号は赤になっていた。
「いやいや……! ふれないで」
 ロイは顔を歪ませて、ドアに身体を押しつけ、後ろ向きになってペイジの手を逃れようとした。
「かわいがってあげようと言っているんだ。大人しく言うことをきかないなら、縛ってしまうぞ」
 腕をねじ上げ、後ろに引くと、ロイは痛みに悲鳴を上げた。
 シャツと下着と共にセーターを捲り上げて、じかに肌に手をかけると、ロイはもう、ことばも出ないようで、激しい息をしている。抗うように力の籠もった、硬直した身体を引き寄せて、頭を自分の腰のあたりに押しつけた。クラクションを鳴らされて、信号が変わっていることに気づき、慌てて車を発進させた。
「かわいい坊やだから、虐めたりはしないよ。ずっと私のもとで飼ってあげよう。小さな檻をプレゼントしてあげようか? それとも、足首を鎖で繋いでおく方が、君には合っているかな?」
 このまま、自分のものを慰めさせながら走るのはどうだ? とペイジは思ったが、逃げようともがいているため、ハンドルを片手で操っている以上、ファスナーを下ろすことができない。
 まあ、焦ることはない、とペイジはひとり笑った。もうしばらく走れば、モーターインが見えてくるはずだ。いつになく、燃えたぎった思いに取り憑かれてしまっているらしいな、とハンターが獲物を手に入れた時のような高揚感に、満たされていた。
 やっとペイジはロイの頭から手を離し、自由にしてやると、ロイはまたドアにくっつくように座り直した。 
 温かい車の中で、振動に揺すられながら、ロイは「……はいちゃう」と言った。
「なに?」
「きもち、わるい。はく……」
「……くそ。待て、車を汚すな」
 路肩に車が急停車し、ペイジがドアを開けた。
 ロイは、小刻みに震えながら、蹲っている。
 外に回って、助手席のドアを開けて襟首をつかむように車から降ろすと、ロイは雨の地面に手を着いた。ショックのせいか、ロイは吐く気配どころか、意識がなくなりそうに、地面に頭をつけている。
 降りかかる激しい雨に、ペイジは舌打ちをしながら後部座席から傘を出そうとした。 
「どうかなさいました?」
 後ろから女性の声がして、ペイジはぎょっとしたように、振り向いた。
 ストレートの金髪の女性が、傘を差して立っている。建物などないと思っていた路肩は、奥まった海沿いにアパートが建っているらしい灯りが、雨の木の間隠れに見えた。よく見ると、すぐ近くが駐車場らしい。ペイジは心の中で舌打ちした。
「いえ、連れが気分が悪いらしくて」 
「私、看護師ですから。ちょっと見せて」
「いや、大丈夫です。車に酔っただけで……」
「キャシィ」
 後方から聞こえた連れの男の声に、女性が振り向いた。ペイジは心臓が跳ね上がった。
「待って。病人みたいなのよ」
 彼女は、車の持ち主を押しのけるようにして、車の後部付近に蹲っている男のそばにしゃがみ込んだ。
「……気分が悪いんですか?」
「救急車を呼んでやれよ。行こうぜ」
 いらいらとした調子で、近寄りもせず、彼女の連れの男が五メートルほど離れた場所で言った。傘で顔すら見えないが、ペイジはこの男が近づく前になんとかこの場を逃れたかった。
「そう。大丈夫。今から病院へ連れて行きますから」
 黒いコートを着たペイジは、ロイの腕を引っ張って立たせようとした。ロイは、嫌がるように女性の腕を掴み、立ち上がろうとしない。 
「待って。嫌がってるみたい。どうしたんです?」
 ロイは女性に抱きつくようにして、「たすけて」と、声を出した。「いや、だ。行かない」
 女性が立っている黒いコートの姿を見上げた。
 身体をどけようとしない女性に、ペイジは「なんでもありませんから」と、金髪の男の腕を掴み、引っ張ろうとして彼女がよろめいた。
「……おい! 乱暴なことするなよ」
 後方に立っていた男が、怒ったように近づいてきた。
「ご心配は感謝しますが、大丈夫ですので……」
 ペイジは迷惑そうに言うと、キャシィの肩に手をかけた。
 彼女の連れは、「彼女に触れるな」と言いながら、傘を捨てて近づいてきた。ブルネットの巻き毛に雨の滴がかかり、額に垂れている。
「キャシィ、君もいい加減にしろよ。連れがいるんだ、ほっといて行こうぜ」
 彼女に言いながらも、しがみつくようにしている金色の頭に目をやった。ぐっしょりと濡れた金色の髪の男は俯いており、顔が見えない。ぶかぶかの服を着た、貧相な男に見えた。
「そのとおり。とにかく、もうけっこうですから」
 ペイジは強引に手近な後部ドアの座席を開け、金色の青年を力任せに引っ張った。
 低い、迷惑そうな声に、キャシィは恐れたように立ち上がり、車に押し込もうとしている様子を見ている。
 ブルネットの男が近づくと、キャシィが雫を垂らした顔を向けて、小さな声で囁いた。
「助けてって、言ったの」
「……なんだって?」
「行きたくないって」
 乗り込むことを拒否しようとするような、若い男の足が、無理矢理押し込まれるのを見て、ブルネットの男は強い力で押し込んでいたペイジを突き飛ばした。
 開いたままのドアから中を覗き込み、座席に倒れ込んでいる男の顔を見て、ブルネットの男は、驚きに満ちた低い声を上げた。
「フォード――?」
 キャシィが驚いたように、自分の連れの背中を見つめた。
「その人、知り合いなの? あなた……」
 いきなり、ブルネットの男は、運転席側に回って乗り込もうとしていた運転手の腕を掴んだ。
「……あんた、あの男とどういう関係だ? あいつになにをした?」
「道で拾ったんです。具合が悪そうだったので、病院に連れて行こうと」
 ペイジは大きな身体を縮めるような素振りを見せ、おどおどとした調子で言った。 
「道で拾った……だとう?」
「離してくれませんか? 私は急いでいる」
「キャシィ、そいつを車から出せ!」
 キャシィはすでに、ロイの身体を必死で引きずり出そうとしている。
「出るのよ!」
 もはや、彼女は頭からびしょ濡れになっていた。半分身体が出てきたロイは、キャシィの肩に手をかけ、朦朧としながらも自分でも出ようとしていた。
 ペイジは掴まれていた腕を振り払い、運転席に入ってドアを閉めた。
「ちょっと待て」
 車に手をかけたブルネットの男は、車が発進したことに驚いた。キャシィはロイと共に地面に抱き合うようにして倒れた。後部ドアを開けたまま、車はタイヤの摩擦音を上げて、車道に出た。
「なんてこと、しやがる!」
 ブルネットの男は、そこにしゃがんでふたりに「大丈夫か?」と声をかけた。車は一息で加速して車体を揺らし、その振動でドアが閉じて、そのまま逃げるように去っていった。
 キャシィは、ロイと共に地面にしゃがみ込んだまま、警察に電話する? と聞いた。
「無駄だ。あいつ、ただの通りすがりとは思えない。ナンバーが読み取れなかった」
 降りしきる雨の滴でぐっしょりと濡れたロイは、キャシィに抱かれるようにして蹲っていた。男はその顔を上げさせ、眉をひそめた。
「おい、歩けるか?」
「だめよ。朦朧としてる。救急車を呼んだ方がいいと思うけど」
 キャシィは、ロイの目を覗き込んだりしていたが、ひとり頷いた。
「見たところ、動かしても大丈夫みたい。取りあえず、濡れるからあなたの家に行きましょう。抱いてあげて」
 力の抜けている身体を荷物のように肩に担ぎ、男は歩き出した。細く見える洒落物だが、鍛えた身体を持っているのだ。
「この人、知りあいなの? ロジャ」
「ああ。俺の上官だ」
 ロジャ・ウイリアムズ――ビリーは憮然と、前を見たまま、強い口調で答えた。




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評