[一番嫌いなもの] of [硝子の破片]


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第二十五章 一番嫌いなもの

 あのツリーが、なんらかの記憶の断片を甦らせたのではないかと、ジムは思っていた。
 そういえば、そういったことの働きかけをなにもしていない。
 記憶喪失ならば真っ先に考えつくことを、今までジムたちは子供になってしまったことに戸惑うばかりで、失念していたのだ。
 どういう仕組みでこうなったのかはわからないが、記憶が戻れば大人に戻るというのは、あり得そうな気がする。むしろ、記憶が戻って子供で居つづけるのは難しいのではないか。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 思い出すためのきっかけを与えたほうがいいと、ジムは訓練場の金網の外に車を止めた。木立の影の目立たない場所を選んで、助手席の窓を開けてやる。
 チームの隊員たちが泥まみれになって、走り回っていて、叫んでいる声までが良く聞こえた。
 助手席からロイが興味深そうに外を見ていた。
 いつか、復帰前のロイが見ていた場所だ。
 あの時ジムが気がついたように、誰かに見られる可能性がある。抱いて表に立つわけにはいかないため、外に出すことはできなかった。  
 ロイは窓を開け、飽きることなく訓練の様子に見入っていた。
 カーターが、別荘では見せない厳しい顔で、指示を飛ばしているのが見えた。
「デイン……カーター…」
 ジムは微笑んだ。
「ああ。デインはうちにいるときは馬鹿みたいだが、仕事のときは厳しいからな。……今、塀を登ったのはリックだ。あいつは格闘が強い。でも、あんたはもっと強かったぞ」
 ジムが言うと、ロイは信じられないような顔をした。
「今走り出したのは、ジャックだ」
「おおきい。ジムみたい」
「ああ。俺と同じくらいあるな。もっとでかいかもしれん」
「ビリーはどれか分かるか?」
「ビリー……」
 ロイは黙って探すような目をしていたが、やがて窓から手をだして指をさした。
「いま、ころんだひと」
 ジムは笑い、覚えていたことに驚いた。自分のことは忘れていたのに、とちょっと唇を噛みかけ、そうではなく、最初に比べたら幾分症状が好転しているのかもしれないと思い直した。
「あいつはロイが気になるんだ。好きなんだよ、あんたのことが。へそが捩れてるから素直じゃないけどな」
「ロイも……はしりたい」
 ロイの言葉に、ジムは頷いた。
「あそこの誰よりも、あんたは早く走れるし、いつも一番だった。その気になったら、いつでも走れるさ」
 ロイは返事をせずに、窓の外を眺めたままだった。鼻をすする音がした。
「また泣いてるな?」
 ジムがその頭に手を乗せた。整髪していない滑らかな髪の感触がした。「ほんとは泣き虫だったんだな、ロイは」
 ロイは涙を袖で拭って、「うちにかえる」と言った。
「もういいのか?」
 ロイは淋しそうに頷き、窓を閉めた。
 落ち込ませてしまったのに気がつき、ジムはキャラメルの包みをほどいて口に入れてやり、自分も一個食べた。
「甘くて、しあわせだな」と微笑みかけても、ロイは笑わなかった。
 手をとって「ごめんな。こんなとこに来て」と言うと、ロイは首を振った。
 わき腹をつついてやると、少しだけ反応して笑ったが、心からおかしいわけではないようだった。
「アザラシ(seal)」
 ジムが言うと、ロイははっとしたように顔を上げた。
「見に行くか? 水族館にいるぞ」
 行かない、とロイは言った。
「どうして?」
 いきなり、激しい嗚咽が漏れた。
「ロイ?」
「アザラシ、きらい」
 嫌いか? とジムが肩に手を乗せると、それを振り払うように身体を揺らして、両手で顔を覆った。
「きらい、はちみつのミルクきらい。ツリーきらい。ジムもデインもドクもロブおじさんも、みんなきらい!」
「……俺も嫌いか? みんな嫌いなのか? おかあさんに会いたいか?」
「おかあさん、きらい。おとうさんもきらい」
 声を上げて泣くロイを、ジムは困ったように眺めていたが、やがてそっと頭を撫でた。
「嫌いって、言ったことなかったもんな。もっとないのか? 嫌いなものは」
「ピーマン」
「ピーマンか。食ってるくせに、嫌いだったんだな。他には?」
「ロイ……」
「なに?」
「ロイがいっとう、きらい……」
 ジムは、ロイを抱きしめた。
「でも、俺は好きだぞ。俺はロイが一番好きだ」
 しゃくり上げた声で、ロイが続けた。
「……ロイは、ロイがきらい……」


 冷たい海風に髪を嬲られながら、カーターは浜辺に腰を下ろしていた。
 寒かったが、天気は良かった。空気が乾燥しており、浜に打ち寄せる波も静かだった。
 カーターはロイを背負って、別荘のすぐ下の浜辺に日光浴をするために下りてきていた。
 ビーチマットを敷き、並んで座っていたが、ロイは蟹を見つけて、砂の上に手をついて眺め始めた。
「チームの仲間に、会いたくないか?」
 横ばいをして歩く蟹をじっと見ているロイに話しかけてみた。
「うん」と、ロイは答えた。目が蟹から離れていない。カーターは無駄な問いかけをしたと頭を抱えそうになったが、
「チーム。みんな、好き…」というあどけない言い方の中に、ロイの本心が垣間見え、カーターは思わずロイの顔を覗き込んだ。名前をすべて覚えていたのだ、とカーターは思い出した。
 ロイがカーターを見て言った。
「カーターしょうさ……、きゅうしゅつ、きた」
 カーターは目を見開いた。カーターという名前を思い出しても、ロイはそう呼ばなかった。デイン、という声の方がすでに耳に馴染んでさえいた。
「……救出? それは君が……」拷問にあったときか? とはさすがに聞けず、「ジムと一緒に帰ってきたときのこと?」と聞いてみた。
 自殺の海の話ではない気がしたのだ。空母に乗ったとき、魘されながら、“地下にいる、救出”と、呟いていたことばが甦った。
「覚えてるのか?」
「しょうさ、ロイをたすけた……」
「……そうだ。君はもう、私が救出した。ここに戻ってきたんだ。私たちのそばに。怖い人たちはもういないんだ」
「……いる…」
 ロイが怯えたような顔をした。
「いない。それはただの夢だ」
 カーターは思わず立ち上がった。
「まわりをみてごらん。ここは君の故郷だ。そんなやつらはどこにもいない」
 ロイは立ち上がったカーターを見上げて、身を竦めたが、カーターは気付かなかった。日がかげり、暖かかった陽射しが不意に消えていって、あたりが薄暗く感じられた。
「……もう帰ろうか。寒くなっただろう?」  
 そそけたような顔を見て、カーターはその背中に手をかけた。背中が強張るように縮められた。
「……いや…」
 砂を掴んで握り締め、ロイは首を振った。
 手を使って逃げようとしているのを見て、カーターを怖がっているのだと、やっと気がついた。ロイが床に転がると、みんな自然にしゃがんで話をする。立ったまま見下ろすのは、悪人だけなのだ。
 ロイの視線がカーターを見上げ、その後ろの木立に移された。
「……きた。…きたよ、こわい…」
 ロイが砂に埋めるように手をつき、身を縮めた。
「なにがそんなに怖い?」
「ひとがいる……こわいひと…。あそこに……」
 確かに木立の向こうに人影が見えたが、すぐに立ち去って行った。
「ロイ……ロイはおもちゃ、おもちゃじゃない……。いたいことしないで。おねがい…」
 見開かれた目が、恐怖の光を宿しており、呼吸が荒くなっていた。
「ロイ、誰もいないよ」
 発作が始まりそうな予兆だと慌てたカーターは、「大丈夫だ。私がついてる」と言ってしゃがむと、肩を抱いた。
「何もいない。ここには君と私だけだ」
「……なぜ? …なの? なんで、いじめる…の……」
 ロイは泣きじゃくっていた。
 カーターは、言葉に詰まった。
 持ってきたペットボトルの水を飲ませたあと、ポケットから小さなヘリを出して握らせ、落ち着かせるように何度も深呼吸をさせると、だんだん強張っていた身体から力が抜け出した。
「誰にも手出しはさせないよ。ロイをいじめるやつは、デインがやっつける」
 泣きべそをかきながらも、ロイは砂浜にしゃがみ込んで、頷いた。
 カーターはロイの身体を起こし、自分の背中に背負うために腕を回すと、立ち上がった。
「もう怖くないだろ?」
「……うん」
 カーターが歩き出すと、ロイの頬が顔のすぐ横に感じられた。
「デイン」
「なに?」
「ごめんなさい」
「いいんだよ。謝ることじゃない。泣きたいときは泣きなさい」
 ロイはすぐに謝ってくる。ジムにもバークにも、ちょっとでも悪いと思ったら、許しを請う。もともとそういう子供だったのか、それとも今の不安がそうさせるのかは、知りようもなかった。
「きらいになる? デイン」
「馬鹿だな。嫌ったりするもんか。大好きだよ、ロイ」 
 カーターはそう言って、もう一度背負いなおすように身体を弾ませた。ジムからロイの、嫌い、みんな嫌いと叫んだ話を聞いてはいたが、どういう意味だったのかは分からない。現にロイはカーターに嫌われたくないと思っているのだ。
「ロイは、私が好きか?」
「すき」
「じゃあ、ロイはロイが好きかな?」
 それにはロイは答えなかった。嫌いなんだな、とカーターは首の横の気配に集中した。
「よわむし…ロイ」
「だったら、強くなればいい」
 あっさり答えたカーターの後ろで、ロイの身体が強ばった。
「なれない……」
「慌てなくていい。まずは、簡単に背負えないくらい、重くならなきゃな……」                                                             

 屈託なく甘えていたロイが、少し元気がないことに、バークが心配そうな顔をしていた。
 バークは床に座り込み、すぐ隣で寝転んでいるロイの頭を撫でていた。
「戻りたがってるんですよ」
 ジムが言うと、バークはため息をついた。
「なまじ記憶が残ってるのがいけないんだな。いっそのこと、すべて忘れて本当の子供の頃に戻れば楽なのに」
「でも。戻る可能性は今のほうがあります」
 ジムの言葉に、バークは諦めきっているような顔を向けた。
「もう戻らんよ。もう二週間を超えた。今のままで幸せに過ごさせてやることを考えてやらなければ」
 ジムはソファにもたれて足を伸ばした。
「今のままで幸せだと、思ってないんじゃないかな……」
 テレビの前でロイとふたり寝転んだバークは、聞こえないふりをしているようだった。 

「そろそろ、どうなさるか考えられたほうがいいでしょうね」
 龍太郎の言葉に、みんなが黙り込んだ。確かに、いつまでもこうして暮らせるはずもなかった。三、四日越しの休みもいつまでもは無理だろう。急な出動がいつあるかも分からず、訓練は基地ばかりでなく遠方へ出ることにもなる。
 実際に三ヶ月の遠方訓練も年が明ければすぐに始まる。基地以外のどこか遠い場所へ移動して、丸々戻って来られない。
「いいんだ、ドク」
 バークが言った。「ぎりぎりまでここにいる。そして全員が仕事に就かなきゃならないときは、家内に預けるよ」
「そう、せめてもう少し……」
 ジムが言った。「せっかく慣れてきたんだ。俺はハルトマンがしたことを、忘れられない。小さい子供が、病院で誰にもかまってもらえず、薬漬けにされたら……。そんなむごいことは、考えただけでつらすぎる。しかも周りの人間は、大人だと思ってるんだからな」
 全員の頭に、怯えて泣きながら嘔吐した夜が思い出されていた。他人を怖がっているのに、他人ばかりの病院へ入れることなど、絶対にしたくはなかった。
 それをすれば、幼いくせに十分に傷ついている心が、即座に打ち砕かれるのは間違いがなかった。
 カーターは、「せめて今年いっぱい……、いや、一年でも二年でも、大佐のいうとおり全員でなんとかこのまま……」と呟いた。
 龍太郎はため息をついて笑った。
「うらやましいですよ、ロイが。こんな仲間を持つことはふつうあり得ない」
 窓のそばで寝転んで海を見ていたロイが、じっと動かないのに気がつくと、ジムがそばに寄っていった。
「寝てる……」
 抱き起こして寝室に連れて行く様子を見て、龍太郎が微笑んだ。
「ほんとにお母さんみたいだな」
「しかも力持ちのね」
 カーターが、窓辺に転がった小さなヘリを拾い上げ、笑った。

 カーターは、前回海辺でロイの言ったことが脳裏を離れず、ずっと考え込んでいた。
 ――ロイはおもちゃじゃない、という悲痛な言葉が渦巻いていた。
 暢気に生活しているように見えるし、悪夢も見ていないはずなのに、絶えず人影に怯えている姿に、胸が痛んだ。
 カーターはまた、海辺にロイを連れ出した。
 晴れていたのに、波が荒く、打ち寄せる潮の音が、激しく鳴り響いていた。ロイは着いたときから帰りたがった。
 冬の海に目を向けず、ロイは砂浜に座らされた途端、身体を前にたおして砂に手を着いた。
「いえに、もどる」
 カーターは座らなかった。座らず、黙ってロイの前に佇んだ。
 一瞬、ロイは怪訝な目でカーターを見上げ、怯えたように俯いた。異様な雰囲気を察知したのか、目を上げず、そのままの姿勢で砂に目を向けていた。
「おいで。立ってごらん。手をとってごらん」
 つとめて穏やかな声をかけたが、ロイは顔を上げなかった。
 ロイはカーターの靴先を見ているようだった。
 その靴先が、いつ自分を攻撃するのか、息を飲んで測っているように感じられた。カーターはその様子に戸惑い、ほんの僅か足を動かした。
 カーターが足をずらした途端、びくっと身体が揺れた。
「……け…けったらいや…」
「なんで蹴ったりするもんか。顔をあげてごらん。君の前に立っているのはデインだ」
「……いや。デインじゃない」
「ロイ」
「たすけて……、かえる」
 声が震えを帯びていた。
「ひどいこと、しないで……おねがいだから……!」
 波がざん、と打ち寄せる音があたりに響いた。 
 カーターは一度しゃがみ、顔を覗き込んだ。
「じゃあ、帰ろう。一緒に歩いて帰ろうか?」
「やだ、たてない」
「立てるさ。自分で立ってみてごらん。一緒に歩こう。ジムやロブおじさんが戻ってくる。帰ろう」
「いやいやいや」
 激しく頭をふり、這ったまま、カーターから逃げようとさえしている。
「……君は、おとうさんみたいになるんだろ?」
 カーターの言葉に、だだをこねていた動きが止まった。
 その頭に手を乗せてカーターは続けた。
「島から泳いで渡ったんだ。あの深い、長い距離を。おとうさんみたいになりたくて、勇気を出したんだ。それを覚えているんだろう?」
 カーターは小島から呼ぶロブおじさんのもとに戻れなかった、という話を思い出していた。幼児になってすら覚えている記憶のひとつだ。
「……もうおよげない。およげない……。おとうさんつよい。でもロイはよわむしだから…おとうさんみたい、なれない……」
「病気だったからさ。泳ぐ代わりに立ってごらん。それならすぐにできるはずだ」
 カーターはまた、立ち上がって、手を差し出した。
 ロイはしばらく逡巡していたが、おそるおそる上体を起こした。膝をついて、差し伸べられた手に、砂だらけの手を伸ばした。
「ちゃんと自分で立って、手をとるんだ」
 ロイは膝を立て、両足で立ち上がると、その手を縋るように掴んだ。カーターは砂を払ってやり、しっかりと手を握りなおした。砂に埋もれていたヘリを拾い上げて、ロイの余った手に握らせると、顔にくっついていた砂を落し、その頬に手を当てた。
 さっき見上げていた幼い表情が、カーターとほとんど変わらない高さにある。肌理の細かい肌だな、と、一瞬カーターはまったく関係ないことを考えた。
「同じくらいの背丈だね」
 カーターが微笑むと、ロイがびっくりしたようにカーターを見た。ロイとカーターは、ほんの少しカーターが高いだけなのだ。
「地面から見上げちゃだめだ。君はこんなに背が高いんだから」
 ロイは戸惑ったように、頷いた。
「私は海軍の少佐だ。将校だ。君のお父さんもそうだった。ロブおじさんもだ。……君も同じ将校なんだよ」
「……」
「いっぱい部下がいる。君が仲間だと名前をあげた連中だ。みんな君をなんて呼んでる?」
 ロイは考えるように口を閉じ、心のどこかを探っているような顔をした。
「…た…たい……」ロイは目を見開いた。「フォード…たいい……」
 カーターは微笑んだ。
「そう。フォード大尉は床や地面に寝転がったりしない。背筋を伸ばして、いつもきちんと立っていた」
 カーターは敢えて厳しい仕事のときの声を出した。「押さえ込まれたら、払いのけなさい。自分で立って、歩かないといけない。つらいときは寄りかかっていい。私やジムがいつでも支えてやる」
「……うん」
「海軍ではアイアイサーというんだ」
「アイ、アイサ…」
「よし。フォード大尉、ひとりで歩いてみなさい」
 ロイは手を離されることを察し、力を入れて離すまいとした。
「…いや……こわい、あるけない」
「歩けるさ」
 カーターは思い切って、握り締められている手を無理に解いて離れた。
「デイン……」
 ロイは膝をついた。「デイン、いやだ…おいていかないで……」
 カーターは、十歩ほど離れたところに立った。
「置いていかないよ。君を待ってる」
「……デイン」
 涙の混じった声がした。
「おいで、ロイ。歩いてこっちへ来なさい」
「……こわい…」
 顔が歪み、今にも激しく泣き出しそうな様子を見せた。
「来るんだ! これは命令だぞ、大尉」
 カーターは鋭い声を出した。                                  
 ロイが砂に手をつきそうな気配を見せた。
 カーターは諦めて数歩戻りかけた。
 蹲ったら、パニックを起こす前に抱きかかえなければと思っていたが、ロイは手をあげ、身体を起こした。膝をついたまま、ロイがヘリをぎゅっと握り締めるかのように、拳を固めたのが見えた。
 小島で思い切って水に入ったとき、本当の少年だったロイは、きっと今みたいな顔をしていたんだろう、とカーターは思った。
 そろそろと、カーターは後じさった。
 ロイは覚悟を決めたように、おそるおそる砂についていた膝を立て、立ち上がった。
 逡巡しながらも、足を一歩前に出した。踏みしめても倒れないことに気がついたのか、次の足を出し、最後の数歩は走るようにカーターの胸に飛び込んできた。
「よし。よくやれたね。怖いのを克服したな」
 それが奇しくも、父親が島から戻ったときに言った言葉と同じだったことを、カーターは知らなかった。
 なぜだか、涙を浮かべたロイの手をとり、カーターは頭を抱いて、額にキスをした。
 それからゆっくりと歩き出した。ロイは素直についてきた。
 手をとったまま、カーターは浜辺を歩いた。
 坂の途中、よろめいて二度ほど転んだので、背中に乗るか? と聞くと、ロイは首を振って立ち上がり、自分で歩き続けた。道のり自体は大した距離ではなかったが、カーターは時間をかけてロイのペースに合わせた。
 半月以上歩かなかった足が、震えているのが見えたが、歯を食いしばって歩く顔が、以前の気力を出しているかのようで、頼もしくすら見えた。
 この男がもしもずっとこのままだったら、大佐がいくら守っても、ロイよりは先に逝くだろう。そのときはジムとふたりで俺が見るか、などと意気込んでいる自分に気がつき、カーターは一人苦笑した。

 戻ってきたジムとバークがドアを開けた途端、ロイが椅子から立って、歩いて抱きついてきたので、二人はびっくりしたように立ち止まった。
 カーターはテーブルで新聞を広げていたが、一人、ほくそ笑むような顔を向けて言った。
「せっかく、歩けないふりをして、いきなり驚かせようと作戦をたてたのに」
「子供はそんな作戦は実行できませんよ。正直なんだから」
 ジムが笑いながら言って、腕の中にいるロイの顔を覗き込んだ。
「すごい。歩けるようになったんだな? ロイ。クララのお父さんになった気分だ」
 ジムが、大きな声で言うと、ロイが微笑んだ。バークが嬉しそうに、頭をなでた。立ってしまうと、バークよりもかなり背が高く、頭を撫でる姿が滑稽に見えた。
「カーターしょうさ、めいれいした」
 ジムがカーターを振り返り、「へえ」と呟いて、笑った。
「そうか。デインじゃなくて、カーター少佐が?」
「うん。ロイはそーこー…だから。ジム、しってた?」
 ジムは笑った。
「知ってたさ。あんたは将校で、俺の上官だぞ。……もう踏んでるやつは、いなくなったか?」
「わからない」
「そうか」
 カーターが、会話を聞きながら新聞をめくっている。片眉を上げているのを見ると、得意満面らしい。
「私もひとつくらい、おとうさんらしくしないとね」
 カーターが言うと、バークが感心した顔でテーブルに座った。
 ジムが喜びのあまり、ロイの腰を持って肩にかつぐと、ロイは歓声をあげた。
 ロイを肩に荷物のように乗せたまま、ジムがぐるぐる回っている。
 ロイのはしゃぐ笑い声が響く中、バークはロイが立ち上がった瞬間の話を、カーターが身振り手振りで自慢げに話すのを、興味深げに聞いていた。
「君はフォードを……マイクを知らないはずだな?」
「もちろんです。大佐。私はこう見えても、それほど年じゃないんですが」
 バークは笑い出し、「いや、あまりにもおとうさんとしての接し方が、マイクに似ている」と言った。
 ロイを肩に乗せたまま、回るのをやめてジムが言った。
「そういや……そんな気がする。俺もマイクは知らないけど」
 カーターが照れたように、頭をかいた。
「真似したんです。あの時の大佐の口調を」
「私はマイクの真似をしたんだよ」
 バークとカーターは声を揃えて笑った。
 ジムがロイを床に下ろすと、思いついたように言った。
「……そうだ。いいものを持ってきたんだった」
 ジムはいったん外に出ると、紺色の制服と、帽子を持って戻って来て、ロイの目の前に広げた。
 ロイが目を見開いた。                          
「将校の制服だ。金のバッジがついてる。胸についてるのが海軍の。おとうさんもつけてただろう? こっちの三又槍を掴んでる鳥がSEALSのだ。これは俺たちチームの者だけしかつけられない。この二本の筋が大尉のバッジだ。これはあんたの制服だよ、ロイ」
 ロイは立ったまま、それをしげしげと眺めていた。
 金色の、特徴のある鳥のバッジを指で触ってみている。
「その三つの槍は、海と空と陸を表してる。俺たちは、空を飛んで、海を潜って、陸を走り回るんだ。全部のスペシャリストなんだぞ」
「きんいろののとり。うみとそらと、りく」
「つづりを覚えてるだろう? シー、エアー、ランドでシールズなんだ」
「シールズ……」
 帽子を被せてやると、リビングの暖炉の上にある鏡を覗き込んで見ていた。子供が父親の帽子を被っているようで、帽子の威厳に適っていない表情が、ジムには切なかった。だが、ロイはじっといつまでも、鏡の中の自分の顔を見続けていた。
 その夜、ロイは制服を抱いたまま眠っていた。腕の中でそれはしわくちゃになっていた。枕の横に制帽が置いてある。
 くっつけた隣のベッドで、バークが手を伸ばしてロイの手を握って、軽いいびきをかいていた。
 そっと制服を腕から抜き取ると、ジムはそれをもってリビングに戻り、スチームを当てだした。
「どうせ明日もまた、しわになるぞ」
 カーターがビールを飲みながら、言った。
「いつこれを着てもいいようにしておこうと思って」
 ジムが楽しそうに言った。「しわになるのは何より嫌いなはずだ、あの人は。そんな服を着ている姿は見たことないですからね」
 ジムの気持ちが伝わったように、カーターはしんみりとした顔をしていたが、背中をまるめてアイロンをかけている姿を見ているうちに、笑いだした。
「おい、ほんとにお前は世話女房だな。はまりすぎだ。女に生まれたほうが良かったんじゃないか?」
「……こんなでかい女房をもらってくれる人がいればね」
 ジムは制服を壁に掛けると、その下に置いてあった黒い靴を磨きだした。
「けど、確かになんだってその制服があんなに気に入ったのかな?」
「大尉だからでしょ」
 なんということもなく、ジムは返事をした。「自分がなにより愛してる海軍の、ドレススーツだ。意識がなくなったって、覚えてるでしょうよ」
「歩けるようになったぞ。次は記憶が戻る番だ」
 さあ、そこまではどうですかね、とジムは磨いた靴を掲げて眺めた。
「悲観的だな、ジム。おまえだって、それを期待したからスーツなんて持ってきたんだろう?」
 ジムは眉を下げた顔で、カーターを見つめた。
「できるだけ情報を与えたいと、思っているのは確かです。でも、無理矢理思い出させるのは怖い」
 カーターは冷蔵庫からビールを取りだし、一本をジムに放った。
「クリスマスのプレゼント、なんにする?」
 いきなりの話題転換に、ジムが笑いだした。
「おもちゃはもう、溢れるほどありますよ」
「それほどおもちゃには、興味がなさそうだしな。結局、あの胴体だけになったヘリが一番のお気に入りだ。大佐が悔しがっている」
「しっくりくるのが、分からないんですよ。幼児のようでいてそうでもなさそうで。適応年齢のものが分からない。まさか本人を連れて行って選ばせるわけにもいかないでしょ」
「あいつがあのままなら、おもちゃ屋に連れてって自分で選ばせるようにすることも考えていいんじゃないか? 人からどう思われたっていいさ。買い物に連れてったり、遊園地に行ったり」
「……確かに、ずっとここに閉じこめとくわけにもいかないでしょうね」
「おまえの考察はどうだ? 子供は慣れてるんだろう? ロイはいくつくらいに感じる?」
「わかりませんね。正直言って。印象で言えば、三歳にも満たないくらいだ。みっつにもなれば、ガキどもはもっと言葉も達者だし、ませてたりするもんです。ことにしっかりしていたというロイなら、なおさらでしょう。今それができないのは、年齢的なことよりも、それが彼に必要なことなんじゃないかな」
 必要なこと……と、カーターはビールの瓶に唇をつけた。
「ミルク嫌い、おとうさんもおかあさんもここにいるみんなも嫌い、ピーマンも嫌い、髪も身体も洗えない、歩けない、怖い、つらい、ひとりでいられない、そういうことを全部吐き出さなきゃいけないんでしょう。うんと泣くことも我慢してたんだ。泣いて甘えることを要求してるように見える」
「私は、甘えっ子だった。母は早くに亡くなったんだけど、祖母が母代わりで。頑強な、太っ腹なばあさんでね。小学校へ上がってからもおねしょしたりして、それでも怒らなかった。したけりゃ大人になってもしなさいとか言うような豪傑でね。帰れば、ご馳走つくって、おねしょはどうだい? なんて今でも聞くよ」
「俺はこれでも、ガキの頃は身体が小さかったんです。親父のあとをついて回って畑を手伝って、なんでも相談して……。姉弟の誰より、親父に甘えて育った気がします。じょろじょろ弟妹が生まれたんで、子守ばかりしてたけど、幸福だったと思います」
「ロイだって、可愛がられていたはずだ。大佐の話では、おかあさんも優しい人だったようだし、おとうさんだって、厳しいばかりじゃなかったそうだし」
「けど、泣いたり甘えたりを抑えなければならなかったんだ。嫌いなことも我が儘も口にしないで。そう強要されたわけでもなく、ロイ自身がそう決めなきゃいれらない、なにかがあったわけでしょ」
 カーターは、ビールを飲み干してソファに身を倒し、宙を見つめた。
「普通、考えないよな。親を気遣うなんて、おとなになるまで意識したこともなかった」
「ほんとなら、でかくて安心できる存在ですからね、親ってもんは」
「もっと馬鹿な子供なら、良かったんだろうな」
「そう、もっとうんと馬鹿な人ならね」




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

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金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評