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第二十二章 蜂蜜ミルク

 長期戦になりそうだと、街から遠く外れたバークの別荘に住まいを移すことにした。ヴァージニアビーチのリゾートホテル街から離れた、寂しい場所である。
 基地までは遠くなるが、誰かにロイを見られるよりは安心できた。
 バークの別荘は古いものの、環境がよく、すぐ下に浜辺があり、リビングの窓はホテルで言えばオーシャンビュー特等室である。
 広い敷地は高い塀で囲まれ、庭は荒れているものの、自然の公園のようだった。
「すごいな。使ってないなんてもったいない」
 カーターが、感心したように部屋を眺め回した。
 趣味の良い籐の家具が揃えてあるリビングは、窓から入る陽射しが冬のものとは思えないほど心地よく、正面の壁には大きな暖炉があった。
 大きな窓の間反対にキッチンがあり、木の格子のはまった壁にしきられて、別の空間になっていた。キッチンの大型のテーブルも籐でできていて、椅子には手製のクッションが、それぞれ六客の椅子に、色違いに配されていた。
「ここは、私の祖父が隠居してから住んでた別荘でね。今は夏しか使っていない。まあ、あちことガタがきてるけど、宿舎よりはましだろう」
 ジムはロイを連れて、掃き出し窓の外のベランダに出てみた。
「海だ……」
 風に金色の髪を逆立てながら、ロイが目を輝かせて、目の前に広がる海に歓声を上げた。
「海が好きか?」
 ジムがロイを抱いたまま聞くと、「うん」と頷いた。
 ロイは、ジムのジーンズとばかでかいセーターを着せられている。着替えを取りに戻ったとき、ロイの部屋の鍵を忘れて、ジムは自分の服を多めに持ち出したのだ。下着は基地で新品をいくつか手に入れている。裾や袖を曲げてジムの服を着たロイは、ほんとうに、子供のように見えた。
「寒いだろ、入ってきなさい」
 バークの声に、ジムはリビングに入り、ふかふかのクッションが乗った籐の長いすにロイを座らせた。
「ぶかぶかの服が、かわいいな」
 カーターが思わず微笑んだ。ジムは、袖をきれいに折り直してやりながら、つられるように笑った。
「この人の、いつもの洒落た服を着ているよりいいかもしれませんね。あの格好をされると、気軽に抱き上げることもできないかもしれない。思わず“大尉”と呼びそうになるかも」
「床に座ったり寝ころんだりするなら、ジーンズの方がいいかもな」
 そのジーンズも、ベルトでずいぶん絞り上げていないと、ずり下がってしまう。サスペンダーがいるかな、とジムがその姿を見ながら呟いた。

 ジムとカーターは、家中をあちこち点検するように見て回った。
「へえ、広い風呂場だな」
 ジムが感心したように、浴槽に入ってみている。
「四、五人は入れますよ。風呂場は新しく作り直したんですね。ここはジャグジーになってるみたいだ」
「じゃあ、みんなで入るか」
 カーターが笑いながら、意味もなくトイレの蓋を開けて中を覗いた。
「少佐、そんなとこ覗いてなにを探してるんです?」
 ジムが思わず笑いだした。
 普段とまるで違う、私服のカーターの、私的な行動がジムにはおかしかったのだ。もともと気取った男ではないが、端正で落ち着いた顔立ちのくせに、どこかが無邪気にできているらしいな、と気づきはじめてもいた。
 メインベッドルームはツインなので、それをくっつけ、手を握って眠れるように移動させた。大人のロイなら、手を握って眠ることにかなりな抵抗を示しただろうが、今の状態なら問題はない、とみんなが真面目に言い出したのだ。手どころか、抱きしめて眠ったって文句はいわないだろうな、とカーターも頷いた。
 ここに眠る以外のふたりは、交代で二階のゲストルームで眠ることにしたらいいと、バークが説明しながら二階を案内した。
「ジム」
 ロイの声が階下から聞こえた。
「どうした? すぐ行くから」
 ひとりにしたから寂しいのかな、と踵を返しかけたジムの言葉に続くように、ロイの声が悲痛を帯びて届いた。
「ジム、おしっこでちゃう」
 ロイの声に慌ててジムは階段を駆け下りた。
 抱き上げてバスルームへ連れて行くのを、階段の上から眺めて、カーターが苦笑した。
「大変だぞ、これから」
「私でも、君でもなくてジムを呼ぶんだな」
 バークの、ちょっと嫉妬の混じったような声がカーターの背後から聞こえた。

 別荘の最初の夜、三人で遅くまで話し込み、いろいろな事柄を決めた。
 三人は交代で休みをとり、ロイの面倒を見ることにした。
 昼間は一人で見るが、夜は必ず残りのふたりも戻ることにしようと、カーターが言った。
「それがいい。これは三人で決めたことだ。これから、三人ともが責任をもつことにしないとな。しばらく飲みには行けないぞ、ジム」
 バークの言葉に、ジムが口をへの字にした。
「飲みに行くような気分になるわけないでしょうが」

 龍太郎に、ここの住所を伝え、こっちに来てくれるように頼むと、基地勤務でない日の昼間なら、患者の予約を制限して自分も留守を預かっていいと言ってくれた。その有り難い申し出に、三人は素直に感謝した。
 軍に秘密にしている以上、休む回数は少ない方がいい。
「本当は家内を加えたら、もっとローテーションが楽なんだが、今彼女の叔母が良くなくてね。シャーロッツビルまで行ったり来たりしてるから、当てにならない」
「それに、数日のことかもしれませんしね。奥様まで巻き込まなくても、なんとかなる間は、我々だけでやってみましょう。ドクが協力してくれるのなら、なんとかなりそうだ」
 カーターが言った。
 あまりことを大袈裟にしたくなかったのだ。ロイが元に戻ったときに、秘密を知る人間は最小限な方がいい。
 幼い子供になった、ということが、誰もに信じがたく、まだ現実感を伴っていなかったこともあり、時間がたっても、ロイの手を握らないままにしてしまっていたことを、ジムさえもが忘れていた。
 悲鳴が聞こえ、慌てて寝室に行くと、ロイはベッドの隅に身を縮め、怯えて泣いていた。
 まぎれもない、幼い言葉で「こわい、こわい」と、叫んでいた。
 その夜食べたものを吐き、前と同じような発作を起こした。子供である分、痛みに耐えられずにいたい、いたいと泣きじゃくり、いやだ、やめてと叫びながら、その合間に吐き気に呻き、見ていられなかった。
 激しい悪夢が、記憶を失った子供になってなお、依然ロイの中に居座っているのが窺えた。
 手を握っていることが、今、いかに重要なことか、三人は再認識した。
 おかしなことに、ジムやバークだけでなく、カーターも夜、ロイの手を握って眠ることに参加した。
 バークへ意見したあとから、カーターは変わった。チームの隊員たちの名前や、自分の名を思い出したことも大きかったようだ。
 カーターが様子を見に寝室を覗いたとき、大きなジムにしがみつくようにして、ロイは大人しく眠っていた。
 穏やかに背中が上下しているのを確認し、ほっと胸をなで下ろす。
「これは大尉じゃない」
 カーターが、灯りを消してドアを出て行こうとすると、ジムの声が闇に響いた。
「ロイだよ」
「……俺の知らない子供ですよ」
「ジム……」
「けど、それなら今から友だちになる。ここにいる坊やはひとりぼっちじゃないんだって、嫌と言うほどそばにいて、面倒を見ますよ、俺は」
「知らない子供か……。確かにな」
 カーターも呟いた。
「子供には、愛情が必要だ。そうでしょう? 少佐」
「子供だけじゃなくて、大人にだって必要だよ、ジム」
 そうですね、と毛布にくぐもった声が、薄闇の中から聞こえた。


 目を離すと、ロイは床に寝転んでいる。
 ベッドからも、自分では身体を起こそうとしない。腹を踏まれている、という言葉がジムの脳裏にその光景を蘇らせた。足で、手で、よってたかって押さえつけられていた光景を。
 転がっているロイのそばに、自分も真似をして身体を倒すと、「こんな目線でみると、世界が怖いもんだな」と呟いた。その手を、隣に転んでいたロイがそっと握ってきた。
 ジムが死んでいる……と言っていたことを思い出した。責められている夢で、横で死んでいたジムを、手を握って生きているのか確かめているようで、その手を強く握り返した。
 実際に責められているときにも、ロイは気絶していたジムを見て、何度もそう思っていたのに違いない、とジムはそのことだけは確信していた。
 ジムは、二度と無理強いをして立たせることはしなかった。
 代わりに足をマッサージしてやり、ストレッチをして股関節や膝の関節が固まらないよう動かした。
 ジムは一日に何度もストレッチを繰り返した。寝転がっていることが多いので、暇さえあれば足を動かしてやった。
 ジムがそれをしてやっていたとき、黙って床に仰向けていたロイが「ジム、ごめんなさい」と言った。
「なんで謝るんだ?」と聞くと、「ロブおじさんにおこられた。ロイのせい」と項垂れた。
「怒られたっていいさ。無理させようとしたんだから」
「……ロイ、あるける?」
「歩けるよ。できないと思ってるだけだ。ほら、足だって固まってやしない」
 ジムが膝を曲げてみせると、ロイは手を伸ばしてきた。引っ張って起こしてやり、ジムはそのまま立ち上がろうとした。
「いや、こわい。たてない」
「大丈夫だ。俺がついてる」 
 ロイは捕まっていた手をジムの腕に移し、力を入れて支えようとしたが、不意にその手をじっとみた。苦しみに耐えていたときに、何度も掴んだ腕だったことに気がついたように、腕を握る力を強めてみている。ロイの瞳が揺れた。
 少しずつ、思い出している、とジムは感じた。
 そのままジムが立ち上がると、ダンスをしているようにくっついて、ロイは立っていた。まだ寄りかかっているには違いなかったが、前回のように怖がったり、痛がったりはしなかった。
 本当は歩きたいのだとジムは感じ、そのまま数歩後ろに動いてみた。ロイはしがみ付いたままではあったが、足を踏み出し、ついてきた。
「……離してみようか? 一人で立ってみるか?」と囁くと、一瞬だけだったが立って、すぐにまたしゃがみこんだ。ジムは抱きしめ、頭を抱いた。
「ほらみろ。できるじゃないか。明日はもっとできるぞ」
 ロイは頷き、なぜかもう一度ジムの腕を掴んだ。
「ジム……」
「うん?」
「いつも、ロイといた?」
「ああ、いたさ。ずっとずっと一緒にいた」
 思わずロイの頭を抱きしめ、ジムは泣きそうになった。
「ジム、おおきい……」
 ジムの分厚い胸に頬を擦り寄せたまま、ロイが言った。
「そうだ。だから、安心してよりかかっていいんだぞ。いつでも抱きしめてやるし、負ぶってもやる。いっぱい我が儘を言っていいんだ」
「わがまま、だめ」
「どうして?」
「おかあさん、こまるの」
 ロイの母親が、ロイの幼い頃から身体が丈夫でなく、時折息子を伯父に預けて伏せってしまうことがあったのだとバークから聞かされていた。
 ずっとずっと、ロイは幼い頃から自らを律する癖がついているのだろう。
「そうか。優しいんだな、ロイは。でも、ジムさんはちっとも困らないぞ」
「……ほんと?」
「ほんとさ。だからうんと困らせていい。キャラメル食べるか?」
 テーブルに乗せたままだったスーパーの紙袋からキャラメルを出すと、一個口に入れてやる。
「甘いだろ? ロブおじさんが山のように買ってきてる。せっせと食べないとな」
「きゃんでぃ?」
「キャラメルだよ」
「きゃらめる、ばいきんこない?」
「ばいきん?」
「はをたべるの。くろいの」
「……少しくらい、大丈夫さ」
 ジムはそっと、ロイの額にキスをした。


 睡眠が足りていることと、嘔吐の発作がないことから、このまま食事がちゃんと摂れ、健康状態が回復すれば、希望が持てると龍太郎が言った。
「むしろ、悩みがない状態の今の方が、身体を作るのには都合がいい。身体が落ち着けば、精神的なものも解決するかもしれません。心身一体という言葉があるように、どちらかが不健康になれば、どちらも崩れてしまうものです。逆もまた真なりですよ」
 龍太郎のことばに、みんなが微かな希望の光を感じた。
 だが極端に食欲がないようで、小鳥の餌程度にしか食べないと、ジムは心配した。
「小鳥よりは食ってるだろ」
 カーターが、そんなジムを面白がって突っ込んだ。
「お前は心配しすぎだ。しばらくすれば、食欲だって出てくるさ」
「そりゃ、そうかもしれませんけどね」
 ジムは、ロイが食べ残した朝食の皿を片付けながら言った。
「ほんとにちょろっとしか、食べてない。子どもになったからって、身体は大人なのに。いくらなんでもこれじゃ、元気になれったって無理だ」
 ジムが冷蔵庫からミルクを出して注いでやると、ロイはべえっと舌を出して嫌がった。
「ミルク、嫌いなのか? 意外だな。大尉に好き嫌いがあったとはな」
 ジムの独り言に、カーターがとうとう笑い出した。
「お前、彼をなんだと思ってたんだ? 好き嫌いくらいあるさ」 
 ちゃちゃを入れるカーターを無視して、ジムはロイにミルクを突きつけた。
「ロイ、食事を残したんだから、これくらいは飲まないと駄目だ。ミルクは栄養があるんだぞ。元気になりたいだろう?」
「うん。……のむ」
 息を詰めたような顔で、ロイはグラスに口をつけ、眉をひそめて一口飲んだ。眦に涙すら浮かべている。ジムはそれを取り上げ、不思議そうに顔を覗きこんだ。
「そんなに嫌いなのに、なんで無理して飲むんだ? ――そういえば、口当たりがいいからって、わざわざ高級ミルクを買ってたのは、嫌いだったからなんだな」
「きらいじゃない。のむ」
「賢いな、ロイは」
 カーターが思わず、幼児を褒める口調で言った。
「無理させなくてもいいと思うけどな……。なにかを混ぜてやったらいいんじゃないか? 俺は冷たくなった珈琲を、ミルクで割るのが好きだ」
 ジムが珈琲を混ぜてみたが、それはさすがに苦い、と言って顔を背けた。苦そうに顔をしかめ、椅子から滑り降り、そのまま床に蹲ってしまった。
 カーターがそれを受け取って、一息で飲み、「うまいのになあ」と舌なめずりをした。
「あなたがうまくたって、しょうがないでしょう」
 ジムが横目で睨みながら、戸棚を探り、サムが置いたままにしていた蜂蜜を探し出して、混ぜて味見をしてみた。
「甘い……。入れすぎたかも。甘いのは苦手だっていってたけど……どうだ?」
 ジムが蹲った身体を起こしてそれを差し出すと、ちょっとだけ味を確かめるように、口をつけた。子供の小さな手ではないのに、ロイは長い指を重ねるようにして、グラスを両手で持って飲んだ。
 ごくごくと喉が鳴った。口の周りについた白い髭を拭いてやりながら、ジムが淋しそうに、呟いた。
「芯から子供になっちまったんだな……」
 カーターは、笑うのをやめ、そんなジムの行動をじっと見て、ため息をついた。

 夕方、バークが仕事帰りに自宅に寄って、お土産を持ってきた。サマンサがロイの好物だといって、手作りのキッシュを預けたのだという。もちろん、今の状態を知っているわけではないが、ひどく弱っていると聞いて、サムはロイに会いたがっているらしい。
 ロイはそれを喜んで食べて、おかあさんがつくった? と聞いた。
「サムだよ」と、バークが言うと、「サムはどこ?」と首を傾げた。
「君が元気になったら、呼んで来るよ」という返事に、ロイは素直に頷いた。
「キッシュが好きか……。料理の本を買って来よう」
 ジムの独り言を聞いて、カーターはお相伴のキッシュを噴き出しそうになった。
 ジムがまた、蜂蜜入りミルクをテーブルに置いた。
 喜んでいたくせに、ロイの皿にはまだたくさんのキッシュが残っていたからだ。
 ロイはそれを見て息を止め、涙を浮かべた。
「昼間、飲めただろう? ちゃんと蜂蜜入れたやつだぞ。甘くてうまかっただろ?」
 ジムが驚いて聞くと、ロイはべそをかいたまま頷いて、グラスを手に取った。
「賢いな、ロイは」
 また、カーターがおだてるように褒めた。「何入れたって嫌いなもんは、嫌いなはずだ。ほんとは飲みたくないんだろ」
「だったら、無理して飲むな」
 ジムが取り上げようとすると、ロイはしっかりグラスを握って離さなかった。
「はちみつ、のむ」
 バークは黙って、その様子を見ていた。




硝子の破片

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評