[硝子の海] of [硝子の破片]


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第十九章 硝子の海

「ロイ」
 息をきらして、ジムがロイの部屋のドアのノックをしても、中から返事はなかった。 
「ロイ!」
 大声で呼んでも、中はしんと静まり返ったままだった。
 駐車場に車がなかったため、いないかもしれないとは思っていたが、嫌な予感がした。結局出動は解除され、五日ぶりに開放されて、飛ぶように戻ってきたのだ。
 ノブを回してみると、ドアは開いていた。

 中はカーテンが閉まったまま、バスルームにもベッドルームにもロイの姿はなかった。
 部屋は煌々と全てのライトが点けられたまま、室内を照らしていた。
 室内の雰囲気がいつもと違う、と漠然とした不安が持ち上がった。
 ひどく散らかっている。
 ドアの外を覗くと、隣から見知らぬ若い男が顔を出していた。
「あんた、ここの人?」
「友達だ。本人は留守なんだが……」
「隣のものだけど、落とし物、預かってるんだ。――ここの人、正気かい?」
 男が気味悪そうな顔で言うので、ジムはそばまで駆け寄った。
「何があった?」
「夕方、俺インド洋の航海から帰ったばかりなんだけど、部屋の電気が使えなくてさ、ビル全体が停電なのかと聞こうと思ってノックしようとしたら」
「……ノックしようとしたら?」
「ちょうど出るところだったみたいで、なんか血相変えて、俺を突き飛ばして走っていったんだよ。目の下真っ黒でさ、悲鳴じみた声をあげて……」
「何時ごろだ?」
「一時間ほど前かな」
 ジムが腕時計を見ると、七時を回っていた。差し出された封筒を受け取り、ジムは礼を言った。
「すまん、取り込んでるんだ」
 男を押しのけるようにドアを閉め、ジムはあたりを無意味に見回した。
 手にした封筒の表書きは、らしくない荒い文字で『バーク大佐』と書いてあった。
 封がきちんとされておらず、蓋は開いたままだった。無礼を承知で覗いてみた。
 辞職願という文字が見えた。
 ジムは青ざめた。
 それからあたりを見まわして、あまりにも雑然とした荒れた部屋に違和感を持った。
 キッチンのカウンターの上に携帯電話が置かれているのが目に入った。ジムはそれを掴み、携帯を開くと、ドクター・ナカニシの名前のボタンを押した。
「ドク、フォード大尉と会いましたか?」
 挨拶もなしのジムの口調に、ドクターは「どうしたのです?」と、逆に聞いてきた。
「……いや、来たら留守で車もなかったんで。いつ会いました?」
「ええと、ちょうど五日ほど前だったかな。ちょっと気に病んでいるふうなところはあったが、いつものように話をして。それほど変わったところはなかった……」
「じゃあ、俺たちが隔離された日か……。その間あの人はひとりだったんだ。出動はなかったんだが今、戻ったら……」
「買い物とか、そういうことではないんですか?」
 ドクターの声が、不審がっていた。大袈裟にジムが騒いでいると思ったらしい。
「大佐宛の辞職願を落として、どこかへ行ったらしいんです。あの几帳面な人が、こんなものを落したなんて。それに……」
 ジムが隣の住人の話をすると、ドクターは考えながら言った。
「ドアを開けて人が立ってれば、誰だって驚くでしょう?」
「かもしれないが」
 ジムはとにかく行きそうな場所を思いついたら、連絡をくれと続けて、電話を切った。
 心臓が大きく打ち、口から飛び出しそうに不快だった。
 ジムはそのまま、カーターの番号を押した。
「カーター」という声に、ジムは怒鳴るように言った。
「少佐! ホーナーです」
「……俺も今、おまえに連絡しようと思っていたところだ。ロイには会ったのか?」
 カーターの硬い声が響いた。
「なんです? なにかあったんですか?」
 ジムの声も低くなった。
「いや、大尉はどうしてる?」
「それが……いないんです。車もなくて。それに、ちょっと様子がおかしくて……」
「……わかった。そっちへいく」
 乱暴に電話が切られた。
 ジムは部屋を右往左往していたが、ロイの行きそうな場所を知っているような人物に心当たりがなかった。
 ジムもまったく見当がつかない。
 うんと身近になってきたのはほんの最近のことなのだ。どこへも出かけないロイの姿しか知らなかった。
 こんなことならやっぱり一緒に休めばよかったと、ジムは後悔した。
 ドクが言ったように、買い物や散歩に出たとは考えられなかった。
 ポールに電話して、ロイのよく行く場所を知らないか聞いてみた。彼は情報屋のあだ名があるくらい、みんなの動向をキャッチするのが得意だったからだ。
 ポールは二、三の場所をあげた後、不審な声を出した。
「どうしたんです? いないんですか?」
「……まあな。ただの外出で、飲みに行ってるだけかもしれんが。ちょっと用があって――」
「……まさか、死にに?」
 ジムは大声でさえぎった。
「なんてことを言うんだ?」
「その可能性があるから、探してるんじゃないんですか? 自分の声がただごとじゃないって分かってますか? あの人は今、ひとりでバーなんか行きませんよ。……曹長。俺は救出班だった。何が行われたかぐらい、想像はつく。最近大尉の様子がおかしかったのは気付いてましたよ」
 ジムは言葉を詰まらせた。
「俺も探します」
 ポールは焦ったような声で、電話を切った。

 十分もしないうちに、カーターが真っ青な顔で現れた。
 ジムは駐車場で待ち、車から降りてきた上官に駆けよった。
「いないのか?」
「……死のうとしているんじゃ…」
 日頃落ち着いている大男のことばにカーターは押し黙り、眉間に皺を寄せて腕組みをした。
「少佐、さっき言いかけてたのはなんです?」
「俺たちが隔離された日、おかしなことがあったらしい……。さっき基地で受付の水兵が言っていたんだ」
「おかしなこと?」
「得体の知れない男が訪ねてきて、大尉にひどく絡んでいたようだと。水兵が助けに入るべきか、と悩んだと言っていた」
 得体の知れない男……と、ジムは黙り込んだ。
「なんだかわからないんだけどな。なにがあったのか、ロイに聞くべきかどうか、迷っていたんだが」
「とにかく、どこか探しましょう、少佐」
 助手席に乗り込んだジムに、どこへ行けばいい? と、車をスタートさせたものの、カーターは行き先がわからず戸惑った。
 ジムがとりあえず基地へ戻ってみましょうというので、基地の中の施設からはじめることにした。本人を見つけるのは困難だが、車なら目立つはずだ。
 赤いラングラーのジープは、この界隈では珍しくはないが、ロイの車は磨かれていていつも綺麗に保たれている。

「いよいよ、ほんとに降参したのかもしれない」
 たくさんの軍艦が影を落とす岸壁を走っていると、助手席で、ジムがぽつりと言った。
「降参?」
「奴隷になったのだと、以前言っていた事があった……現実では負けなかったのに。たびたび悪夢に襲われて、体調を崩して……。それで夢の中で跪いたんじゃ……」
「奴隷って……。何の話をしているか分からないよ。ジム」
「いや、俺にもよく分かってないんで……。でも気になる」
 あてもないまま、ジムとカーターは基地を一周したあと門を出て、夜の街を車で走り出した。
 映画館や繁華街など、大きな駐車場のある場所を数箇所回ってみるが、どこにも姿はなかった。
 雲を掴むような鬼ごっこに、ジムは焦るばかりでどうしようもない絶望感を覚えていた。 

 何度もロイの家に電話をかけ、先に戻っていてくれればと祈ったが、留守番電話に切り替わるだけで、誰も出ることはなかった。
『ロイ・フォードの留守電です。ご用の方は……』
 メッセージの声に、ジムは泣きそうになった。柔らかなロイの高くも低くもない、甘めの声がひどく懐かしかった。
「さっきの話だが……」
 カーターが蒸し返すように言うのを、正面を向いたまま、ジムは頷いた。
「あいつは、気丈に頑張ってたじゃないか」
「……あのひとはずっと夢の中で彼らに犯され、辱められ、暴力を振るわれ続けてたんだと思う。それに耐えられなくなったんだ……」
 ジムの言葉が涙に揺らいだ。「呼集がかかった日、夢を見て無意識に俺の部屋へ来ました。これまでどんなにつらくても、ひとりで耐えていたものを、やっと俺に頼ってくれるようになっていたんです。それはちょっと聞くと情けないことに思えるかもしれません。でも、俺はむしろ、そのことにほっとしてたんです。――なのに、ひとりでいなくなるということは……」
「この五日間、どうしていたんだろうな」
「隣の男が…、ロイが出かけるとき、ぶつかったそうなんですが、目の下が真っ黒だったと言っていました。どこか悪いのかと、そりゃ薄気味悪そうに言われたんです」
 その時の様子を聞いたまま伝えると、カーターもドクと同じようにそりゃ誰だって驚くだろうと言った。
「けど、確かにあいつらしくない気はするな。例の発作でも起こしたか……」
「それに、あの部屋……まるでゴミ箱をひっくり返したようになっていた」
 カーターは、それには反応した。
 あの綺麗な部屋がか? とカーターは呟いた。
「寝込んでいたのかな? それとも、昼間から幻覚でも見ておかしくなってたと? 急にそうなるって理由がわからない。フロリダ以来、落ち着いていたじゃないか。やっぱり水兵が見た男が原因か? だとしたら、何者なんだ、そいつは」
 ジムは返事をしなかった。代わりにぐいっと目尻に貯まった涙を拭った。
 項垂れて考え込んでいたカーターが顔をあげた。
「実家に戻ったということはないだろうか? ……いや、それはないか」
 カーターの言葉に、ジムは思考を妨げられた。何か引っかかった気がした。
 思い出そうとするが、焦って思い出せない。
 カーターが独り言のように続けた。
「お母さんは入院中だそうだ。会いに行くなら病院か……。どこの病院か調べて……」
 ジムの携帯が鳴り、ポールの名前が表示された。
「曹長、思い出の場所ってないですかね? 実家に電話とかしてみたら……。俺だったら、落ち込んだときはそこへ行くかもしれないと思ったんで。……すいません、役にはたたないな」
「いや……、そうだ。行くかもしれん。ありがとう、ポール」
 ジムは電話を切って、車を路側帯にとめ、必死で思い出そうとしていた。
「人魚……。ひれ? いや、尻尾……なんか、そういう名だった。少佐、地図ありますか?」
 カーターは言われるままに、ダッシュボードから地図を出した。
 ロイが小さい頃に住んでいたという町はどこだろう? 海軍の父親のいきそうなところだ。だが、目次で見ても、おそらく地元民が勝手につけたような、そんな名称の島はなかった。
 子供が泳げるほどの距離だ。島というほど大きなものではないのかもしれない。
 ロイが父親を亡くしたとき、一人泣いたという場所……。
 そこになら、いかにも死ぬ前に行くような気がした。ターニングポイントになったと、ロイ自身が言っていたのを思い出していた。
 母親がいなくても誰か親戚に聞こうと、ジムはロイの携帯電話を出して、電話のリストをチェックした。
「ちくしょう、誰が誰だかわからん。伯父って人の苗字はフォードじゃないのか」
「大佐だ。大佐に聞いてみろ! あの人なら、ロイの子供時代を知っている……」
 ジムはバークの番号のボタンを押すと、電話を耳に押し付けた。
 すでに街はすっかり夜に包まれ、冷たい風が吹き渡っていた。

 町外れの岸壁の駐車場で待つよう指示され、そこへ入っていくと、すでにバークは来ており、血相の変わった顔をして車に近寄ってきた。
 バークはそのままカーターの車に乗り込み、後部座席にひとり座ると、人魚の足という岩の場所を指示した。ノーフォークを遙か北に上った、ミリタリー施設の多い街の近くの海岸だった。
「すみません、中を見ちまったんですが」
 ジムが持ってきた封筒をバークに渡すと、中から辞職願の用紙が一枚出てきただけだった。
「馬鹿者が……」
 大佐は唸るように言った。「それほどに思いつめていたとは……」
「大佐、申し訳ありません。私が余計なことを言ったのが負担だったのかも……」
 カーターは、固辞するロイに隊長候補の話をしたことを詫びた。
「不眠で体調を崩したとしか、聞いてなかったんだぞ。それほど悪いと知っていれば、もっと対処の方法だって……」
 地団駄を踏むような調子で、バークは怒鳴った。
「戦ってたんで……」
 ジムが言った。「必死で戦ってたんで。みんなに感謝してるから弱気になってはいけないと、自分でそう言ってたんですよ、大佐……」
 バークは黙り、目頭を押さえて俯いた。

「……ロイは泣かない子供だった」
 車の中の押し黙った沈黙を破って、バークがぽつりと言った。「あれは意固地で……。父親に似て……。いや、似せようと無意識に真似ていたのかもしれん。父親の葬式でも表だっては泣かなかった。自分になにかあっても、泣くなといわれていたんだそうだ」
「きつい親子だな……」
 カーターが言った。
「いろいろあってね。マイクはロイの本当の父親じゃない。マイクはロイを本当に可愛がっていたはずだし、ロイも慕っていた。だが、ほかほかと育ったわけではなさそうだ。特に父親を十四で失ってから、ロイは顔つきが一変した。かわいい、貧弱な印象の子供だった部分がなくなった。ませた、大人びた振る舞いをするのが、痛々しく思えたほどだ」
「父親が亡くなったとき、その人魚の足とやらで一人で泣いたんだそうです」
 ジムが言うと、バークは頷いた。
「もっと人前でも泣いたり喚いたり……。そういう風ならよかったんだ。学校で言われた昆虫採集でさえ、虫をかわいそうがってできなかった頃があったのに。ほんの幼児だった頃は、マイクが女の子なら良かったと嘆くほど、泣き虫だった。マイクの真似をしたって、もって生まれた繊細な部分は、変わらず隠し持っていたはずだ」
 ジムは黙り込んだ。
 そういう強さを見せていなかったら、ロイはもっと男たちの好奇の視線のターゲットになっていたかもしれない。
 ことに男の多い職場や学校の中ではありがちな話だ。そしてロイはそういう場所を選んで入ってきた。
 誰にもからかわれたり、野卑な視線さえ送られる隙などまるで見せないバリアを張って。
 父親への傾倒は、ある意味これまで彼を救っていたのではないか……。
 それとも、何度かそう言う視線を受けて、表情を消し、鋭い顔を作るようになっていったのではないか――。

「なんにしても、そこの人魚のなんとかにいてくれればいいが」
 カーターが言った。「そこにいて、我々が着くまで無事でいてくれれば……」

 冬に向かう海は、固い硝子を思わせた。
 白いさざ波が激しく立ち、人の侵入を拒むかのようだ。
 ことに日が沈んだ海には魔物が住んでいるような、不気味な気配を漂わせはじめる。    ロイは、浜の横を走る道沿いに車をとめ、車の中に座ったまま海を見ていた。
 冷たい風が髪を乱し、冷え切った身体に突き刺すような冷たい空気がまとわりついた。
 頭ががんがんと揺れるように痛み、胸がむかついて仕方がなかった。
 悪魔に追われるようにして、家を飛び出し、気がついたらここへ向かっていた。運転してきたことが信じられないほど、身体が震え、気分が悪かった。
 黒い影になっている島を見ると、不意にそれが明るい陽射しを見せて目の前に蘇った。
 真っ青な夏の空の下、十二歳だったロイはわあわあ大声で泣いた。
 普段から男は泣くものじゃない、と父親に言われ、小さい頃から泣きたくても、声を殺すのに慣れていたのに、大きな岩場にひとり取り残された時は、本当に心細かった。
 ロイは父親が、少し恐くもあった。尊敬し、大好きな父だったし、優しい反面、厳しさを持った人だった。
 その厳しさについていけないほど、神経質な、か弱い子供だった。母に甘え、すぐに熱を出し、夜の闇に怯える子供だった。
 長い航海に出るとき、幼いロイに、父は必ず母を頼む、おまえが守ってあげなさいと諭した。
 父はロイにどんな人間になれなどとは押し付けない人物だったが、強さだけは求めた。
 何となくロイは父のように意思の強い人間になることが目標となった。小学校へ上がる頃からプールに通い、身体を鍛えて空手を習った。
 わざと夜の海岸まで探検しに降りて行き、夜の暗さなど、なんという事もないことを学んだ。
 その報告を手紙ですると、父はいつも、ロイを褒め称える電話をくれた。
 父に嫌われたくなかった。
 そのためには、ロイは自分を変えるしかなかったのだ。
 だが、この小島においていかれた時は、すっかりそれらを忘れるほど、海の深い色が怖かった。水に入ったらもう二度と浮上しないような気がしたものだ。
 父のように船乗りにならず、おなじ海軍とはいえSEALに入ったのはいろいろ理由はあるが、船乗りの父親より更に厳しい世界に挑むことで、亡き父親を追い抜きたかったのかもしれなかった。
「でも、俺はやっぱり小さいころの弱い性格のままでした」
 ロイは車を降りると、車の側面によりかかり、彼方に見える小島の影に、子供の頃の自分の姿を見ていた。あの時、呼ばれるままに覚悟を決め、ロイは父親の元に泳いで戻ってきた。
 この目の前の浜で、父はロイを抱き、「海が克服できたな」と頬ずりをしてくれた。
 その島に再び渡って、もう戻ってくることをやめようかと、ロイはぼんやりと思った。
 臆病な、ひ弱な子供に戻った自分には、ぴったりの場所かもしれない。 
 すでにいろいろな人々に迷惑をかけている。
 カーターが辞めさせてくれないなどということに甘え、いつまでも仕事にしがみ付いて、結局はぼろぼろになってしまうまで自らを痛めつけ、周りを振り回した。
 病気の母の面倒を伯父に頼まなくてはいけなかったが、母の実兄である伯父は今でもしっかり伯母と共に母を見てくれていた。
 ロイはポケットに入れていた手帳を出し、伯父へのメッセージとお詫びを書き記した。書きながら、優しかった儚い母の面影が蘇り、その手が途中で止まった。
 ロイが死ねば、母もじきに死ぬだろう。
 愛するものに去られ続けた母を想うと、胸が痛んだ。
 かつて深く愛した男も、結婚した男も、そして息子である男も母よりも先に逝くことになれば、ただでさえ弱っている母の心臓は、すぐにも止まってしまうかもしれない。
 書きかけたメモを破って細かく引き裂き、風のとばすに任せて、ロイはたたずんでいた。 
 やはり、死を選ぶことはできない。
 このまま引き返して、ハルトマンのところへ行くしかない。ナカニシの診療所には入院施設はない。
 記憶の欠損、身を滅ぼすような嘔吐と不眠。得体の知れない恐怖感。すでに、自分のアパートの部屋の中ですら恐い気がした。
 どこへも行くところがない。
 それならば、病院に行って誰にも迷惑をかけないようにするしかない。伯父はそのことを母には教えないだろう。
 せめて生きてさえいれば、母は泣かずにすむ。
 すでに立っている事すらつらい。
 身体が限界を超えてしまったことは、間違いなかった。
 よろよろと浜辺に下り、ロイは波打ち際に佇んだ。十一月に入ったばかりとはいえ海は冷たく、進入を拒否しているかのように凍ったような風を送りつけてきている。
 ここの浜は砂地なのに岩が多い。さざ波だけでなく、あちこちから頭を覗かせている岩にぶつかる白い飛沫がいっそう冷たさを醸し出す。

 ジム……。
 ロイは自分のために、泣いたり抱きしめたり微笑んだりしてくれた男の顔を、思い浮かべた。
 自分が女だったら、絶対にそばから離れず、守って欲しいと思うほどの男だ。
 あのたくましい胸に縋って、人生のすべてを預け、まかせてしまいたかった。けれどもロイは男だった。
 同じ場所に立って、互いに支え合って、一緒に生きてみたいと思っていたのに、今ではジムに縋ることしか考えていない。ジムの重荷になりたくはなかった。
「ジム…」
 ロイはその名を呼んでみた。強い海風がロイの声を吹き飛ばし、ジムがそばにいないことを思い知らされた。
 背後に視線を感じて、ロイは波打ち際から振り向いた。
 車を止めた道路沿いに、黒い人影が立っているのが見えた。とうとうここまで追ってきた。
 この砂の上で、また引き倒し、残虐にロイを嬲るために……。
「……やめてくれ、もうそばへ来るな」
 だが、男はずんずんとこちらへ向かって歩いてくる。
「来るな!」
 ロイは水に足を進めた。
 氷のように冷え切った水が履いたままの靴に感じられたが、気にならなかった。
 ただ、逃れることだけに意識が走った。
 真っ暗な海側から、道路の街灯を背にした人物はシルエットになっていて、よけいに不気味な存在に思えた。
 それから目を離すことができず、ロイは海に後じさった。
 踵が低い岩に引っかかり、もんどりうってロイは水の中に背中から倒れ込んだ。鈍い痛みが後頭部に走り、瞬間目が霞んだが、起き上がるとさらに数歩後ろへ下がった。
 男がすぐそばまで来て、ロイの腕を掴みかけ、コートを脱ぐようにしてロイは逃れた。
 飛沫を上げながら走り込むと、すぐに深みにはまった。遠浅ではないのだ。
 ロイは無意識に泳ぐ体勢に入っていた。
 追ってくる気配は消えたが、振り返る勇気はなかった。
 ――あの島まで行こう。
 あそこなら、絶対にあの影は来ない。
 ロイは遠くに見える島に向かって、水の冷たさすら感じないまま、抜き手を切った。

 岩場の多い砂浜の脇の道路に、ロイの赤いラングラーが止まっているのが見え、ジムはその後ろに車を止めた。
 潮が満ちており、月が明るくあたりを照らしていた。
 三人はばらばらと走り出し、遠くに見える黒い岩陰に目をやった。結構な距離だとジムは思った。
 ここへ見にきたとしても、この寒風の中、あそこへ泳いで行ったとは思えない。
「どこだ、ロイはどこにいる?」
 バークが叫んだ。
「そのへんにいるかもしれない」
 ジムが砂浜に下りて、浜沿いに走り出そうしたとき、バークが浜辺に捨てられるように打ち上げられた、びしょ濡れの黒いコートを見つけた。
「ロイのコートじゃないか?」
 暗くても物が見える特質を持っているカーターが、月の光を頼りに目を細めながら島を窺った。
「……いる。ぼんやりとだが、人影があるぞ。島に誰か人が座ってて、今立ち上がったように見える」
「この寒いのに、泳いで渡ったっていうのか?」
 ジムも小島のほうを見た。
 岬の突端にある燈台の明かりが僅かにかすめ、月の明かるさとあいまって、小島にぼんやりと小さく人の影が映った。
「俺にも見えた!」
 ジムが叫んだ。
 ジムはカーターと同時にバシャバシャと水に入りかけ、振り返ってバークに叫んだ。
「大佐、火を……。焚き火をお願いします!」
「ああ、分かった」
 ジムは泳いでいる間、燈台の尾ひれのような微かな灯りに、目的の人物がまだいるかどうかを絶えずチェックした。
 水の中のほうがましとはいえ、やはり水は相当に冷たく、海に慣れたジムの身体でさえ、凍っていくような気がした。
 ジムとカーターはひたすら泳いだ。
 岩場が近づくと、カーターは水に潜っていなくなった。潜ったほうが早いだろうが、ジムには暗い水中は見えない。
 ジムは、ばしゃばしゃと波を立て、全速力で岩に近寄った。岩の上のロイの姿がはっきりと見えた。
 SEALにとって、海はゆりかごみたいなものだ。
 死ぬ手段としてはあまり有効ではないような気がしたが、この間のように薬を飲んだかもしれない。あるいは手首を切ったりして。その状態で海に落ちれば助からない。
 いや、体力が落ちていれば、この水の冷たさだけで心臓が止まってしまうかもしれない。いくら鍛えた兵士とはいえ、不死身なわけではないし、今のロイは鍛えた兵士とはいえなかった。
 ジムは焦った。

 ――ああ、来る。
 ロイは、震えながら座っていた岩にしがみつくようにして、砂浜を伺った。
 冷たい水を泳いできた衣類が、風に吹かれて芯から冷えてしまっていた。
 このまま、こんなところにいれば数時間も待つことなく凍えてしまう。なんとか車まで戻るべきなのだと分かっていながらも、ロイは逡巡していた。
 そして、見た。
 ばしゃばしゃと水音をさせて、“それ”がみるみる近づいてくる。
 ここには、来られないと信じていたのに、悪魔たちは容赦なくロイの神聖な場所すらをも犯そうとしている――。
 部屋を追われ、陸を追われ、こんな小さな火もない岩場に追いやられ、行き着く先はもう眼下に広がる海しかない。
 大好きな海は、まるで硝子のかけらを散りばめたように、冷たく身体を刺してくる。
 理性では自殺などしないと思っていた。そう思って遺書を破いた。
 母のためにも、応援してくれた仲間のためにも。自分自身の信念のためにも――。
 だが、こうして引き返すこともできない小島に泳いで渡った時から、ロイはどこへも逃へようもない場所に、――すなわち死に向かうしかない場所に身を置くつもりだったのかもしれない。
 小島の先には、海しかない。
 もはや、どこにも逃げようはないのだ。 
 ただ、この島で悪魔たちに痛めつけられるのは嫌だった。
 たとえ、それが真の夢だったとしても。
 追うように、飛沫まで上げて、やってくるものがなんなのか、もうロイにはわかっていなかった。
「……もう、駄目です。許してください、おかあさん……二度とあれに触れられたくはない……」 
 ロイは、おもむろに立ち上がり、セーターを脱いだ。

 ジムの目に、島の人影が不意に立ち上がるのが見えた。
 ロイは、月の方角を見ていた。
「ロイ!」
 思わず叫んだ。
 同時に、ロイは水の中に倒れるように落ちていった。
 ジムはすぐさま、ロイが消えた海の方角へ向きを変えた。
 カーターが一度顔を出した。
「九時の方角だ!」
 カーターは頷くと、すぐに消えた。
 ジムはカーターの白いセーターを目当てに、その場で斜めに入っていった。
 海の中は真っ暗だった。微かな光が過ぎるたびに、少しだけ視界が開けた。ジムの前にカーターの白い姿がどんどん降りて行く。
 それを見失わないように全力で水を蹴ると、カーターに手を掴まれた。
 引き寄せられ、布を掴まされて、それがロイのシャツの裾だと分かると、それを手繰って頭を引き寄せた。
 頭を抱くと、ジムは逆に浮上するために足を動かした。
 重い身体を引っ張り、ジムは勢いをつけて水を蹴ったが、身体が思うように進んでいないことに焦った。
 重石だ、とジムは直感しつつ、そのまま重い身体を引っ張ってひたすら上を目指した。
 ジムにロイを預けたあと、カーターはすぐそばでなにかをしているようだった。
 突然、身体が嘘の様に軽くなった。
 ジムは、抱いた頭を抱え込むようにして、どんどん浮上した。

 ジムは水面に浮かび上がった。
 やっと顔を出したとき、カーターは激しく咳き込み、ジムも危うく息が切れる寸前だった。水面に上げた頭を抱いたまま、二人は岩場に登った。
 比較的平らな面にロイの身体を斜めに横たえると、カーターが胸を二、三回押した。
 ロイが水を吐き、激しく咳き込んで身を捩り、うつ伏せになった。
 ジムはほっとして、介抱をするカーターの正面で、ロイの腰に巻かれた、引き裂かれたセーターを見つめた。
「石をセーターに包んで、巻いていた」
 カーターがジムを見ながら言った。
 さっきカーターはこれをナイフで切ったのだ。
「大尉、大丈夫だな?」
 カーターの言葉に、ロイは黙って俯いたままだった。岩場に手をつき、蹲るように息を吐いている。
「ロイ、返事をしろ!」
「……しょ……さ……」
 俯いたまま、ロイが声を絞るようにして出した。
 カーターは、なにか言いかけて、そのまま口をつぐんだ。
 ジムは何も言えなかった。
 自殺しかけた人間を救った場合「無事で良かった」と言うべきなのか、「大丈夫か?」と聞くべきなのか、それすらもわからない。
 この寒いのに、わざわざこんなところまで泳いでこようなんて。
 強い父の面影を追ってきたのだろうか? こんな淋しい場所で、自分たちSEALSを常に守ってくれると信じていた海に、沈んでしまおうとしたのだろうか? 二度と浮かんでこないよう、重しをつけて――。
 ジムは、さっさと水に入ってその場を離れた。
「ジム!」
 カーターの声が聞こえたが、ジムは返事をしなかった。今ロイのそばに行ったら、何をするか分からなかった。
 抱きしめるのか、殴るのか、罵るのか自分でも何をするか分からないほど、ぶつけようのない怒りに囚われていた。
 ロイが悪いのではないのが分かっていて、叫びだしそうに哀しく、腹が立った。
 立ち泳ぎをしたまま、こちらを見つめているカーターに目線を合わすこともできずに、ジムは浜のほうに目を向けた。
 浜辺に火が焚かれているのが見えた。
 バークがひとりでかき集めたにしては、ずいぶん大きな炎が上がっていた。
 こちらを伺うように立っていたバークの、良く通る声が夜の空気を裂いた。 
「ローイ!」
 ロイは、はっとしたように顔を上げた。
「戻って来なさい! こっちへ戻ってくるんだー!」
 ジムは水に浮かんだまま、その声を聞いて、身体が震えるほどの感動を覚えた。まるでロイが話した通りの光景じゃないか、と思う。
 彼方の浜から父親が呼ぶ。それを目指してロイは泳いで帰ったのだ。
 水に浮かんだまま、ジムがロイのほうを見ると、ロイはじっとその声の方角を見ていた。
「ローイ、何をしている! 泳いで戻ってきなさい!」
「行こうか、ロイ。冷たいが、戻るしかない。ここにいたら凍えてしまう」
 カーターが手を引っ張って、ロイを水に落した。
 どんなに無意識だって、生まれたての赤ん坊が水の中を泳ぐように、SEALの隊員は誰もが泳いでしまうのを、ジムは知っていた。さっきだって、自分たちより長く沈みながら大して水を飲んでいなかった。
 ロイは平泳ぎを始め、呼び続ける声を目指して進み始めた。暗闇に慣れてきたジムの目に、真摯な少年のような表情が見えた。
「ローイ」
 バーク大佐の声が、さっきに比べて掠れ始めた。泣いているのだろう。
 ジムもふたりの横に並ぶように泳ぎ始めた。
 突然、ロイの身体が波間に消えた。
 ジムとカーターはすぐに潜ると、沈んでいくロイの身体を抱き、海上に引き上げて身体を上に向かせた。
 体力が限界にきていたのだろう、意識を失っているように見えた。
 だが、ジムはロイがなにかを呟いているのを聞いた。
「泳げない……。足が…動かない。ごめんなさい……おとうさ……」
「ああ、疲れてるんだ。大丈夫だ」
 泳ぎながら、ジムはロイを励ました。
「戻れない……」
 哀しげに繰り返し呟く声が、何度も何度もジムの耳を打った。

 浜について引き上げると、バークが駆け寄ってきて、ロイを火のそばまで運んだ。
 ジムもカーターも、息をつきながら大きな炎を上げている焚き火のそばにきて、横たえられたロイを覗き込んだ。
 ジムは、びしょ濡れの髪が貼りついたその顔に、思わず息を飲んだ。カーターもバークも、同じようにロイに目を注いで愕然とした表情を浮かべている。
 五日間、何があったのかとジムは思った。
 痩せ衰え、目元に暗い影を落し、まるで別人のようになっている。
 こんな状態で島まで泳いだとは信じられなかった。
 自殺などしなくても、すでに死の淵ぎりぎりの際に立っているようで、ジムは目を潤ませた。
 誰もロイを責められなかった。励ましの言葉すら出なかった。
 さっき燃えるように湧き上がった怒りが、霧散した。
 ほんの一瞬の差で、真っ暗な海に沈んでいこうとしたロイの気持ちを思うと、助けたことすら無責任な気がした。
 ジムがロイの身体を起こし、火によく当たるようにすると、バークが自分のコートをかけた。ジムにも脱ぎ捨てていたジャケットをかけてくれたが、冬の浜の寒さが身を凍らせてくるのが分かった。
 寒さで唇まで真っ青になっていたロイの身体を支えるように、腕を背中に回しても、ロイはジムのほうを見なかった。
 がちがちと歯を鳴らしながら、ジムは「寒いんだ。抱いてくれ」と、声をかけた。ロイは黙っていたが、ジムはロイの身体に腕を回した。
 カーターが寄ってきて、「仲間に入れてくれ」といって、身を寄せてきた。訓練中、冷たい海で、こうして、いつも仲間で固まって暖をとるのが常だった。
 バークがみんなの脱いだ靴を、できるだけ火にかざすよう棒で支えている。
 それを見て、ジムはあのシーワールドの光の中で、裸足で語り合った光景を思い出した。
 あの時、ロイとジムの気持ちはかなり繋がったと思っていた。
 リラックスし、眠り姫のように睡眠をとり、ロイは寛いだ気分で回復していた。悪夢もなく眠れると、ドクに信頼を置き始めていたはずなのだ。あれは、ジムの気のせいなんかではない。
 なぜ、今こういうことになったのか、どうして死にたいほどの気分になってしまったのか――。
 招集がかかる直前のロイには、決して悲壮感はなかった。
 夢を見かけたと、自ら訪ねてきて、ジムと一緒に、あの狭いベッドで寝ようとまでしていたのだ。
 身体をくっつけたまま、誰も何も言わなかった。
 ただ震えて、身を寄せ合っていた。
 不意に、ひとりの男が現れ、手にした毛布を大佐に渡すのが見えた。男はそのまま引き返し、車に乗って立ち去った。
 一人に一枚ずつの毛布を肩から身体に回し、凍えそうな身体を火にあぶっていると、かなり気分が楽になってきた。
 バークはせっせと固形燃料を継ぎ足し、そのへんに落ちている燃えそうなものを探しては、炎が小さくならないよう躍起になっていた。
「毛布を渡した男は誰なんです?」
 カーターが聞くと、枝を拾ってきたバークは首を振った。
「軍のある機関のものだ。ロイをつけて来たらしい。自分を見て慌てたように海を渡るのを見て、ボートを探していたんだそうだ。我々が来たので、近所の家から暖炉用の固形燃料をもらってきてくれた。毛布もどこかから手に入れたんだろう」
「……なんでそんな男がロイをつけて…」
 カーターは呟いて、はっとしたような顔をした。
「君と私が掛け合った内容が、原因だろうな」
 ジムは聞くともなしに二人の会話を聞いていたが、「じゃあ、このことも上に報告が……」という、カーターの言葉で、ジムもやっと男の目的に気がついた。

 とうとう焚き火が小さく縮み始めたが、服はまあまあ乾いてきていた。
 暖房をつけた車に乗ったほうがいい、というバークの言葉に、カーターは自分の車の後部座席のドアを開けた。
「俺が大尉の車を」
 ジムが立場上、運転を引き受けた。
 本当はロイの側で手を握っていたかったが、まさかバークにロイの車を運転させるわけにはいかなかった。
 車の中で、ジムは携帯をかけ、ポールにロイが見つかったと伝えた。
「ああ、良かった。街をかけずり回っていたところです」
 ポールはほっとした声を出し、で? とジムを促した。
「……無事……ですよね?」
 ジムはどう答えていいのか咄嗟にわからず、逡巡してから「かなり参っているが、無事だ」と伝えた。
「大佐の車を岸壁の駐車場で見つけたんですが、一緒ですか?」
「ああ。同行されてる」
「今どこです?」というので、ジムはここの場所を簡単に話し、他にも探し回ってくれた連中がいるというので、礼を言ってくれるよう頼んだ。




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評