[混迷の泥沼] of [硝子の破片]


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第十八章 混迷の泥沼

 深夜にみんなと別れたあと、そのまま宿舎の仮眠室に泊まった。
 家に帰るのが大儀だったのだ。倉庫を出てきた以上、仕事に出る必要はなかった。
 普段書類を溜め込むこともないので、デスクワークで出てきても実質することはあまりない。
 朝早くから、建物内の売店へサンドイッチを買いに出かけ、自分のオフィスへ行き、珈琲を飲んだ。
 しばらく、オフィスの整理をした。
 いつ辞めてもいいように私物などをすべて持って帰っておこうと思ったのだ。
 資格取得のための勉強は、もう必要がないように思えて、参考書類はそのまま置いておくことにした。
 もう、チームに居つづける意味はないような気がした。
 これからどうするか、落ち着いて考えないといけない。
 その後、診療室を覗くと、龍太郎の顔が見えた。三日ほどまえに会ったばかりなのに、なんだかひどくこの東洋人の医師が懐かしく思えた。
 基地の中の診療所に顔を出すことはしていなかったので、龍太郎は驚いたようだった。
「おはようございます。大尉」
 医師は、にこにこしながらドアを開けた。「お茶でもいかがです?」
「予約でもないのに、かまいませんか?」
「もちろん。午後まで暇です。お茶を飲むのに予約はいりませんよ」
 粗末な基地の設備である小さな丸いテーブルを挟んで、龍太郎はロイにお茶を勧めた。診療室の隅にあるその場所は、カウンセリングをするには不適当だったが、話は自然ロイの心の裡の話に向かっていた。
 龍太郎は、久しぶりの悪夢を見かけてジムの部屋へ行った話に頷いた。それは良い兆候だと、ジムのような相手に頼ることができるというのは、進歩であるとさえ言った。だが、ロイの気持ちは沈んでいた。
 隔離から外された――今チームがその状態であるために、ロイはそれをドクに伝えることができないでいる。それが一番、聞いて欲しいことであるにもかかわらず。仕事にはまだ無理だと言われ、でも行けと言われたら確かに自分がどうなるかを考えることも恐くもあるということを。
 不意になにもかもぶちまけて、大声で泣きたい気分に襲われたが、ロイは息を飲み込み、押し黙って感情の波が去るのを待った。
「私の友人に、ジャーナリストがいるんですが、彼は目の前で恋人を殺された。戦場へ取材に行ってね」
「それは……お気の毒です」
「彼は私の元へ来て、三日三晩泣き続けました。四日目には目が腫れて、美貌が損なわれたとか、なんとかぶつぶつ言い出して――まあ、ハンサムな男だと自負してるいやなやつなんですが。一週間後には仕事に戻りました。あの男にはそれがカウンセリングだったのです」
「それは――どう解釈すればいいんですか?」
 なにが言いたいのかが掴めないまま、ロイは素直に聞き返した。
「発散することも大切だと。泣きたい、愚痴を言いたい、というのはひとつのはけ口です。穴を掘って、『王様の耳はロバの耳』と、叫んでもいいんです。相手が必要なら、私が勤めますよ」
 ロイは少し笑いかけ、すぐに押し黙って俯いた。
「泣くのは罪ですか?」
 龍太郎のことばにロイは顔を上げた。
「大声でお泣きなさい、大尉」
 できません、と言いかけた語尾が掠れた。
 押し殺した感情に逆らうように、ロイの目尻からひと筋涙がこぼれ落ちた。慌ててそれを指で拭うと、ドクは、ソファに座ったロイの手に手を重ねた。
 そのまま唇を震わせ、ロイは黙って泣いた。
 龍太郎の手が、それを誘うように温かなのが恨めしくさえ思いながら――。


 SEALの通用口を出ようとしたとき、入ってきた人物に、わざとのようにぶつかられた気がした。足元に相手の書類が落ちた。
「失礼」と、声をかけると、ロイは相手が落した書類を拾うためにしゃがんだ。二、三枚ばらけている。
「おお、フォード大尉」
 という声に、ロイは嫌な気分になりながら、顔を上げた。
 頬のこけた、薄ら笑いを浮かべている顔がこちらを見下ろしていた。
 思わず息がつまったようになり、ロイは立ち上がって書類を渡した。
「ミスター・ペイジ」
「これはこれは。拾っていただいて申し訳ない」
 書類を受け取りながら、ペイジはロイに手を差し出した。
 ロイは握手を返すと、立ち去ろうとした。
「大尉」
 ペイジが呼び止めた。「今日はあなたにお会いしにきたのですよ。大尉」
「……なんの用です?」
「お約束は、どうなりました?」
「何のことでしょうか?」
「思い出したら、お知らせをと申し上げたのに、何の連絡もない」
「思い出していませんので」
「ふうむ。ハルトマンの話では、ずいぶん取り乱されていたようだが……。思い出したからではないのですか?」 
 ロイは思わずペイジの顔を睨むように見た。
「ハルトマンが、報告を?」
「いや、報告はない。あなた方はやはり、手荒い特殊部隊のようですな。あなたの上司に対して怒っていましたよ。ああ、失礼。彼は私の学生時代からの友人でね。ほんの世間話の中で出た会話です」
「なるほど」
 類は友を呼ぶというが、よく似た友人同士だとロイは思った。 
「……取り乱したかもしれないが、思い出してはいないし、あなたにとやかく言われることは何もない。失礼します」
 ペイジは、手を伸ばした。
 ぐいっと、ロイの腕が掴まれた。
「なにをするんだ?」
「なにも。逃げるように腰が引けておられるから、お引止めしただけです」
「大尉」
 入り口の受付の兵士が声をかけた。「なにかお手伝いすることは?」
 自分たちの上官が、得体の知れない男になにか不愉快なことをされていると、察したらしかった。
「いや。なんでもないよ。伍長」
 ロイは平静な声で言うと、通用口を出た。

 まるで影のようにハルトマンがついてくる。
「錯乱状態になることを、上層部に報告されていますか?」
 ロイは無視して、車に向かった。
 返事をするいわれはない。
 この男といると、気分が悪くなってくるのが分かった。
 車のドアを開けかけた真後ろで、声がした。
「あなたは、男に押さえ込まれるのが怖いとか……」
 ハルトマンの言葉に、ロイは正面を向いてその顔を睨みすえた。
「なぜあなたは私に、そういう悪意をぶつけるのです?」
「悪意? 純然たる仕事ですよ。あの時に話された内容が完全でないと、分かったからには訂正を出さねばなりません」
「なぜです?」
「男に取り押さえらて泣くような隊長では、隊員が困るからですよ」
 ロイはやっと、この男の出てきた意図を察した。
 カーターが、ロイを隊長に、という話を推しているために、上層部が今のロイの状態を確かめようとしているのだ。視線を感じていたのは、本当に見られていたからなのだろう。
「……俺をつけさせてるのか?」
 ペイジはうっすらと微笑んだ。
 車を背にしたロイのすぐ前に立って、明らかに他人との距離を犯し、礼儀に適わない空間に入り込んでいる。異様な距離感が、息苦しくさえ感じられた。
「貴方は本当に綺麗な方だ」
 そっと両の腕を掴まれた。
 爬虫類の目のように、瞬きの少ない、色の薄い瞳が、ロイの目を覗き込んだ。
 ペイジは車に両腕ごと、ロイの身体を押し付けるようにして、顔を近づけてきた。
 ロイはなぜだか身体を動かすことができず、ペイジの顔が今にも触れそうな感触に、身体中を粟立てながら立ち尽くしていた。
 ぷんと、ミントの香りがした。
「……そうやって、いつも誘うんですか? 悪い人だ」
 ペイジはくすくす笑い、人差し指の腹で顎を持ち上げると、本当に唇を寄せようとしたかに思えた。
 外気に冷えた車のドアが手に触れた。
 やっとロイはその身体を突き飛ばした。
 身を翻して車に乗り込み、キーを回してスタートさせた。
 走りながら、あやうく他の車にぶつけそうになり、あわてて急ブレーキをかけると、ロイは手の甲で唇を覆い、吐き気を堪えて改めて車をスタートさせた。
 サイドミラーに、背の高い影が、小さく立っているのが映っていた。
 その姿を目にしただけで、くらっと激しい目眩がした。

 激しい眩暈を感じながら、ロイはよろめきながらも階段を上った。
 家に飛び込み、トイレに向かって吐いた。
 ペイジにあんなふうに接近されたということが、信じられなかった。
 本当にキスをしようとしたのではないかと思えた。
 なぜ執拗にロイにかまうのかが分からない。そして、なぜ自分がすぐに逃れきれなかったのかもわからなかった。
 触れられたわけでもないのに、癇症に歯磨きをして何度もうがいをすると、ロイはキッチンからミネラル水を出して、ボトルごと飲んだ。
 気持ちを落ち着けるために、珈琲豆を轢き、お湯が珈琲に変わって落ちてくるさまを、立ったままじっと見つめた。
 カップを持ってリビングに回ると、玄関のドアの下にA版の封筒が落ちているのが目に入った。
 差出人も宛名も切手もなかった。
 入るときにはまったく気付かなかったが、玄関のドアの下から押し込まれたらしい。
 ロイはその封筒を手に取った。
 珈琲を一口飲んで、カップを片手に持ったまま、ソファに座って封筒を開けた。
 新聞の切抜きが拡大コピーされた、用紙が出てきた。
『海軍大尉三年ぶり無事帰還』と銘打たれたその記事は、三年もにわたって捕虜になっていた大尉が、無事救出され、本国に戻ったことを知らせた記事だった。
 写真枠の中の制帽を被った顔は、小さいものを拡大されて映りがよくなく、はっきりとは分からなかった。
 次のコピーは写真で、ロイはそれを見て、目を見開いた。
 巻き毛が肩よりもさらに長く伸び、小さな動物用の檻に入れられている、綺麗な顔をした男の写真だった。
 檻に小さく膝をたたみ、素裸で檻の鉄棒を握ってこちらを見ている姿が哀れだった。
 救出前に撮ったものか、見かけた者の情報写真なのか、外部に漏れるはずのないものが入っていることになる。
 新聞の写真と見比べるまでもなく、前にペイジが言っていたことを思い出し、この写真が囚われて嬲られ続けた男なのだとすぐに分かった。
 ペイジだ、とロイは思った。
 こんなものをロイの家に送りつけてくるのは、あの男以外に考えられなかった。
 さっき基地で会ったことを思えば、意外と自ら持ってきたのかもしれなかった。
 捨てようと思ったとき、もう一枚、用紙が残っていることに気がついた。
 もう何も見たくはなかったが、すでに四、五センチはみ出しており、それが自分の顔なのに気付くと、封筒から引っ張って、思わず取り落とした。

 床に落ちた写真のカラーコピーを、椅子に座ったまま、じっと見つめた。
 病院のベッドらしいものに横たわり、胸にも腹にも局部にも、惨い血痕と縦横に走った鞭によって裂かれた皮膚をした、それは自分の姿だった。
 死んだように瞼を閉じ、着けていたものを全て剥がされて、今しも治療に入る前なのだろう。記録用に撮られたものに間違いがなかった。
 ロイは、自分では知らなかった、自分の姿をまじまじと見た。
 見ているうちに、涙がこみ上げてきた。
 これほどまでに酷い状態だったとは、思ってもいなかった。
 外見だけでもそうなのに、この瞬間の、身体の内部の状態は、さらに酷いものだったことを、あとでハルトマンが説明したのを覚えている。
 手にした封筒が手から滑り落ち、さらに奥に入っていたらしいL版程度の写真がばらけて広がった。
 各箇所の、傷をアップで写したものである。
 ――それは、無惨で悲痛なものだった。
 ロイは胸を押さえて俯いた。
 よろよろと立ち上がり、バスルームに行くと、便器の蓋を開けて顔を突っ込んだ。さっき吐いたのに、止まらなかった。
 何度も、胃がせりあがり、目が涙で滲んでくる。
 これまでよりもはるかに酷い吐き方だった。口から胃まで出てきてしまいそうなほどの激しい発作に、ロイは呻いた。
 呻いて、悔しくて涙が出た。
 どうしてこんな悪意を受けなくてはいけないのか、ロイには分からなかった。こんなことをされるほど、ペイジにかかわった覚えはなかった。
 ロイはキッチンまで行くことができず、洗面所の水を出して飲んだが、飲んでもすぐにそのまま戻した。
 ずきずきと胃が痛み、不快な痛みが全身に広がっていくようで、ロイはバスルームの床に転がったまま、ぼうっとしていた。

 どれくらいここにいたのか、分からなかった。
 吐いて吐いて、すっかり体力が消耗してしまっていた。
 あの床に置いたままになっている写真を、もう見たくはなかった。ちらりとでも。
 触れたくもない。
 ペイジが調書を取るといって、ロイに突きつけた、非情な刃のような言葉が頭を過ぎる。
 今、こうして考えてみれば、あれがそもそものきっかけだったとロイは思った。
 忘れていたことまで、明確に思い出さされ、あの日ペンタゴンの出口を出て、具合が悪くなったのが最初だった。
 そして。
 ――これはとどめだった。
 順調にいきかけて落され、狙い澄ますように、放たれた矢は、ロイの心臓を貫いたのだ。
 部屋が真っ暗になるまで、ロイはバスルームから出ることができず、ぼんやり蹲っていたが、室内が暗くなると、やっと立ち上がった。
 ロイは真っ暗なままリビングに行き、封筒や散らばったコピーを拾おうとしたが、まるで真っ赤に焼けた鉄ででもできているかのように、それを触ることができなかった。
 ロイは靴を履いた足で、それをソファの下に押し込んだ。
 燃やしてしまいたかったが、どうしても手に取ることが出来ない以上、とりあえずでも目に触れないところに押しやってしまいたかった。
 それが見えなくなると、キッチンに入って行き、缶詰を開けた。
 床に座ったまま、ぼそぼそしたビーフを噛み締めながら、パンをかじった。冷めた珈琲で流し込むようにして、とにかく胃に食べ物をいれようとした。

 ペイジが憎かった。
 ペイジに調査を任せた、軍の見たこともない男たちにも怒りが募った。
 ロイを隊長に推すことを、がんとして譲ろうとしないカーターにも。
 食べていたパンが、床に落ちた。
 ――急に何もかもが嫌になって、ロイはそのまま身体を倒した。
「ジム」
 呼んでも、きてくれることのない名前に、縋るように言葉にしてみる。
「ジム……」
 身体に力が入らない。
 床に転がることなど、普段有り得ないのに、ロイは起きる気力すら無くしていた。 
 外に人の気配がする。
 すると思っているだけだと、言い聞かせても、気配は消えなかった。誰が外に立っているのか、考えるだけで身が凍った。

 どんどん、と激しくドアが叩かれた。
 ロイはぼうっとしたまま、目を開けた。
 寝ていたのか、起きていたのか、今が朝なのか夕方なのかさえ分からなかった。ロイ自身には、基地から戻って時間がどのくらいたったのかも、とうに分からなくなっていた。
「フォード大尉、開けてください」
 名前を呼ばれて、外に本当に人がいるのがわかった。
 ふらふらと起き上がり、ドアの鍵を回したとたん、いきなり外から押し開けられた。
 不安定な身体が倒れそうになって、入ってきた男に支えられた。
「大丈夫ですか?」
 男のひとりがロイを支えて立たせた。
 目眩がする。
「呼び出しです。これから、あなたには行ってもらわねばならないところがある。ご同行願います」
「ど、こへ……?」
「GI501基地の訓練所に」
「GI……501?」
 ぼんやりした視線の中に、命令書が示された。
 軍の責任者のサインが入ったそれを見て、ロイは言った。
「でも……俺はもう、軍を辞めるつもりだ」
「そうですか。だがまだ、その辞表は届いてはいない。あなたはまだ、命令下にあるんです。従わざるを得ないでしょうね」
 男は無表情に答えた。
 なにがなんでも連れて行くという、気負いだけが伝わってくる。
 犯罪者でもないのに、参考人として来てくれと言われた、罪のない市民に向ける眼差しと同じ、疑ってかかっている刑事のような目をしている。
 GI501基地は、基地ではない。
 ある建物……。科学工場のような建物があり、実際、いろいろな新兵器を開発する場でもあり、一角には特別兵士訓練所がある。
 ワシントンDCから外れた郊外の、広い敷地の中にあるそこに、これまでロイは行ったことはない。
 普通に仕事をしている兵士には縁のないところなのだ。
 行きたくない、と無性に背筋に寒気が走ったが、うながされるまま、ロイは男に連れられて車に乗った。

 その訓練所まで車で運ばれたロイは、施設の中の広い室内に座っている男を見て、絶望感に襲われた。
 ペイジだったからだ。
「どうしました? 昼間お会いしたときはお元気そうだったのに、風邪でもひかれましたか?」
 ペイジは微笑んで、ロイのそばに来た。
「……これは……なんの真似です?」
「訓練だとお聞きになりませんでしたか? 我々が任された。なに、訓練というほどのものではない。要は、あなたがまた実戦へ出向くことができるのかどうか、簡単なテストをするという、それだけのことです。お仲間は皆、出動態勢に入っているようですからな。今がチャンスでしょう? 他の人間にテストを受けるなどと、知られない方がいいですからな」
 間合いの近いペイジの圧迫感に、懸命に堪えながらもロイは顔を上げた。
「……必要ない。テストなど。俺は任務から下ろされたんだ。実戦にどうしても出たいという気持ちもない」
「そう言われても、我々も困る。任された以上、仕事はしないといけませんのでね」
 踵を返しかけたロイの腕を、ペイジは取った。
 それを難なくロイは捻ってはずし、ドアへ向かおうとした。
 いきなり、激しいショックが与えられ、ロイはその場に頽れた。
 電流をばちばち言わせながら、案内してきた男はスタンガンをしまうと、倒れたロイのそばにかがんだ。
「手荒にはしたくなかったんだが……。では、部屋へ移そうか」


 ――ロイは、目を開けた。
 低い天井に開けられた、小さな灯り取りの窓から、小さな部屋にいることがわかった。薄暗い部屋の中に、手をひとくくりに後ろで縛られて、横様に転がされているせいで、身体が冷たくなっている。
 それから自分の身体を見下ろして、なにも身につけていないことに気づき、鼓動が早くなった。
 二メートル四方程度しかないような、狭い部屋だ。
 これは、夢ではない。これまで見た夢のように、恐い男たちはいない。あたりはしんとしており、人の気配すらなかった。
 テストだと言っていた、ペイジの顔が浮かんだ。
 ふたたび捕らえられても平静でいられるかどうか、試しているのかもしれない、とロイには察せられた。そう思うと、こんな馬鹿なテストをしようと言い出したのはペイジではないのかと、無性に腹がたった。だが、このことは上層部からの指示だと言っていた。嘘とも思えない。
 時折、そういう話を聞く。何も知らない新兵に拷問の訓練をしたとか、辱めを与えてどれだけ耐えるかを試したとか――。だが、そういうのは一部の悪意のある兵士による虐めのようなものだろうと、ロイは思っていた。実際、軍法裁判沙汰になった件もいくつかあったはずだ。
 だが、これは違うのだろう。これは上層部が望んでいることなのだ。
 隔離から外されて、実戦へ出ることを阻止されたときから、一度はロイにこういったテストをしなければ安心できないということなのかもしれない。ましてや、カーターやバークが隊長候補に推し続けているならば……。
 ――負けない。
 平静に気持ちを維持しないといけない。
 たとえ、辞めるにしても、無様な結果は残したくはなかった。
 ロイは唇をぎりぎりと噛んだ。
 だが、これからどんなことをされるのかを想像しただけで、恐怖が湧いた。
 昨日見せられた写真の、自分の惨めな傷跡が脳裏に甦る。テストであんな傷を負わせられることはないはずだ。
 ましてや、悲惨な屈辱を味わわせることなど――。
 服を剥いだのは、状況を似せるためだけに違いない。それだけでもひどい仕打ちには違いなかったが。
 なにもないはずだ……と、ロイは祈るように、何度も繰り返し心で思いつつも、惨めな姿で転がされている自分の状況に、いい知れない不安を感じていた。
 かたん、と音がして入ってきた男が目の前に立った。
 真っ黒い布の袋を頭からかぶって、切り取られた二つの孔から冷酷な瞳が光るようにロイを見下ろす。手に硬質の素材を感じさせる、鞭のようなものを握っている。
 それを見ただけで、ロイは叫び出しそうだった。
 男の手が頬に触れ、鞭のようなもので撫で回されただけで、ロイの喉からは本当に悲痛な声が漏れ出ていた。

 車の振動で、ロイは目が覚めた。
 クッションのいい大型の車の後部座席に、横になっていたらしい。
 着てきた服をつけて、その上に毛布がかけられていた。
 ロイが起き上がるのをバックミラーから覗いた男が、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 ペイジの部下のひとりだ。
「二日間、お疲れ様でした」
 男のことばに、ロイは身体を起こした。
 身体のどことも言えない全体が、倦怠感のようなひどく不快なもので包まれてでもいるようだった。
「二日間……?」
 痛ましそうな目が、バックミラーから覗いた。
「覚えておいでではないのですか?」
 ロイは頭を押さえ、ぼんやりと、ここ数日を振り返るように思い出そうとしたが、不思議なことになにひとつ覚えていなかった。
「なにが……あった?」
「単なるテストです」
 男は短く言うと、ことばをとぎらせた。
「テスト……」
「具合はいかがですか? 本来ならあと数日続くはずでしたが、あまりにも体調が悪そうなので、打ち切られました」
 ロイは自分の手が震えているのに気づいた。
 身体に力が入らない。
 二日も過ぎたらしいのに、なにがあったのか、わからない。それがいい知れない不安を呼び起こした。
 ロイは座っていようと思いつつも、身体が自然に倒れてしまい、座席に横になった。
「気分が…悪い」
 運転手は、しばらく無言でハンドルを操っていたが、やがてぽつりと言った。
「この二日、あなたはお食事を召し上がっていません。なにも食べられなかったようで。我々が点滴をして、やっとだったのです。申し訳ありません、大尉。すぐに解放したほうがいいと私は主張したのですが……なにせ、軽輩の身で、言い分は通りませんでした」
運転する男が発する気が、穏やかなのにロイは安心して、後部座席から見える範囲の輪郭を追う。
「テスト……だったんだったな」
「……テスト……でした。決められたプログラムを……実行して……本当になにも覚えておられないのですね?」
 男はなんとなく、奥歯にものの挟まったような言い方をした。
「覚えていない。情けないことに」
 力のない声でロイは言った。「じゃあ、食事もとれなかった俺の結果は、悲惨なものだというわけだな」
 運転手は黙った。
 縛られていたのだ。
 その腕を解放されても、食べることもできなかったのだろう。
 なにがどう行われたのかわからないが、このひどい倦怠感を見ても、テストにパスできなかったくらい、取り乱したのかもしれない。
 まるで記憶にないこと自体が、ロイを絶望させていた。
 ――もう、どうでもいいような気がした。
 結果は見えていた。
 ロイはふたたび捕らえられることがあれば、おそらく正気を保つことはできないのだ。
 いや、捕らえられて正気を無くすなら、それでもいい。だが、そういう場所へ潜入すること自体が不可能なのかもしれない。
 それはとりもなおさず、隊員失格を意味していた。
「ご自宅にお送りします。少し、休養なさってくださいとのことですので」
「君……名前は……」
 ハミルトン、フィル・ハミルトンです、という生真面目な調子にロイはハミルトン、と呟いた。心配げな顔が、一瞬、こちらを振り返る。最初にペイジに会ったときに、一緒にいた男だと気がついたが、ペイジとはずいぶん雰囲気が違う気がした。
 ありがとう、ハミルトン、という声は、ほとんど唇を漏れなかった。
 ロイは揺れる車の中で、意識が霞んでいくのを感じていた。


 ロイは男に家に送り届けられたが、もう通常の暮らしができないまでになっていた。
 車を降りて、アパートの階段を四階まで上るのすら、途中でなんども蹲って休憩をいれた。
 足が、身体が、脳みそが、満足に働いていない。
 空白のテストの時間は、思った以上にロイにダメージを与えているようだった。
 これまで緩い坂道だったものが、急な斜面になったかのように、体調が激変していた。
 部屋に戻ってすぐから、激しい嘔吐に見舞われた。
 病院で点滴をしてもらわないとまずいという判断だけはできた。食べ物が喉をとおらないのだ。
 外に出ると、視線を感じた。道路を歩く人全てが悪人に見えた。ことに男性とは、すれ違うのも怖かった。
 激しい頭痛と眩暈のために、車を使うことは躊躇われた。
 結局、病院を諦め、家からほんの五分も行かない小さなショップで飲み物と食料と缶詰を買い、逃げるように家に戻った。
 息を切らし、外に出たことがまずいことだったかのように、また吐き気が襲った。

 一日に何度も立て続けに起こる発作に、ロイはげっそりと憔悴していた。激しい頭痛が一日中頭の中を揺さぶっており、痛み止めを飲んでも効かなかった。
 眠ると、悪夢に苛まれた。
 鞭打たれ、押さえ込まれて蹂躙され、ロイは叫び、そして目を覚ました。
 ベッドに寝転がっただけで、男たちに覗き込まれる気がして、一睡もできない。
 昼間も夜も家中の灯りをつけ、夜は早々にカーテンを閉めて闇を追いやった。うつらうつらすると、瞬く間に悪夢が襲ってきた。

 深夜、無意識でジムの家のドアを叩いていた。
「何時だと思ってるんだよ。隣は留守だ」
 隣の住人が迷惑そうにドアを開け、怒鳴られて目が覚めた。
 ジムがいないことを思い出して、悄然と階段を上っていると、下から何人もの不気味な影がついてきている気がして、ロイは走って家のドアを閉め、鍵をかけた。
 ソファに座り、気を失う寸前まで眠るのを我慢するしかなかった。気を失うように眠っても、じきに悪夢によって叩き起こされた。
 ロイは、起き上がると冷蔵庫から水を出して飲み、チーズを口に入れた。
 クラッカーを出し、キッチンに座り込んで水で流し込んだが、いくらも食べないうちに、それを床に落としたまま蹲ってしまった。
 病院に行かなければ、死んでしまうほんの手前まで到着したかのように思えた。
 点滴だけでも受けなければと、何度も思うたびに、家のドアを開けるのが恐ろしく、ドアの前で長いこと躊躇った。
 ロイはふらつく足で、机に向かった。
 スリープさせていたノートパソコンを起動させ、文書を作成し始める。
 何度も打ち間違え、液晶の画面がちらついたが、短い文書はすぐに出来上がった。印字してそれを封筒に入れる。
 液晶に映る文字を見ただけで、気分が悪くなり、吐き気がこみ上げた。
 こんな状態でありながらも、辞めなければ、という気持ちにせかされていた。
 カーターがなんと言っても。
 カーターではなくバーク大佐に直接、辞職願を受け取ってもらうしかない、とロイは思った。
 隔離されたままにしても、出動したにしても、バークに会うことはできないだろう。
 基地の、バークのオフィスに置いてきて、その足で近所の病院に行こうと思った。隔離から出されてサンドイッチを朝、食べて以来、ほとんど食べ物を食べていない気がする。今日それができなければ、本当に死ぬだろうという、漠然とした自覚があった。
 いや、ドクターナカニシのところへでもいい。基地にいてくれれば、手間が省ける。
 とにかく、家を出ようと思った。
 出かけるために、やっとの思いで車の鍵を手にとって、ロイはドアを開けた。
 目の前に、見知らぬ男が立っており、ロイは短い悲鳴を上げると、突き飛ばすようにして廊下を駆け出した。
 男は怪訝な目を向け、走り去った男を見ていたが、やがて足下に落ちていた封筒を拾った。 




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評