[眠り姫] of [硝子の破片]


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第十六章 眠り姫

 ロイは朝八時をすぎても目覚めなかった。
 ジムが起こして食事に行こうというと、ぼんやりとした顔で起き上がり、朝食が済んで部屋に戻っても、ロイはまたベッドに横になった。
 ジムも仕方なく自分のベッドに上がって、クッションをヘッドに挟んで背をもたせ掛けた。
 枕に頭を乗せ、ロイはぼうっとテレビを見ていたが、やがてまた眠りだした。
「まるで、眠り姫になっちまったみたいだ」
 ジムは今日行こうと思っていた場所のことをチラッと考えたが、今回の目的は遊びではなくロイの休養だったことを思い出し、とりあえずドアに『まだ寝ています』というカードをかけ、ベッドに戻った。
「ロイ、ズボンは脱がないと皺になるぞ」
 朝食を食べに行くときに着ていたズボンを、ロイは大儀そうに眠りかけたまま脱ぎかけ、面倒になったのか、ベルトを外しただけで動かなくなった。
 様子を伺うと真剣に眠っているらしく、ジムは「まるで酔っぱらいだぞ」と笑いながらズボンを引っ張って脱がせ、壁にかけた。
 ついでにシャツのボタンもはずし、寝るなら下着だけのほうがいいだろうと、袖から腕を抜くために上半身を起こした。
「脱ぐ……わかってる、ジム……」
 ロイは本当の酔っぱらいのように、――あるいは眠くてたまらない子供のように、目を閉じたままでシャツを脱いだ。ジムは下着になったロイがベッドに転がると、上掛けをかけてやってから自分のベッドに戻った。
 面白そうな映画が始まったので、冷蔵庫からビールを出して飲みながら、ジムはそれを見ていた。
 何かが動いた気がして、ジムがロイのほうを見ると、ロイの手が何かを探しているように何度も持ち上げられた。
 かすかに眉間にしわが寄り、息遣いが荒くなってきたように感じて、ジムは思わずロイのそばにより、その手を取った。
 しばらく様子を見ていると、ロイはまた何もなかったような顔で穏やかな寝息を立て始めた。
 ジムは微笑んだ。
 今日は一日こうしてベッドにいることになりそうで、おかしかったのだ。嫌というほど、眠らせてやりたかった。
 ジムは自分のベッドから枕を持ってきて、ロイのベッドに乗せると、端っこに身体を乗せ、ロイの手を握った。
 これまでの不眠の埋め合わせをするように、ロイはそれから延々と夕方まで眠った。
 一人でルームサービスを頼み、ベッドに持ち込んで、ジムはランチを食べた。
 こんなに眠ったら、夜また目が冴えるんじゃないかと心配したが、その日の夜も夕食をすませ、シャワーを浴びると、まだ十時にもなっていない時間から、ロイは眠った。
 ジムはほとんど一日中、テレビを相手に過ごした。 


 次の日、ジムは今日の予定を聞いた。
「ユニバーサルに行って、ジュラシック恐竜を見るとか、宇宙へ行ってみるってのはどうです? それともミッキーのカップルにでも会いに行きますか?」
「おまえはどうしたい?」
 ジムは頭をかいた。
「実際には俺はどうでもいいんです。シーワールドは見たかったんだが、遊園地よりも……海にでも行ってみますか?」
 ロイは、海がいいな、と微笑んだ。

 タクシーで砂浜に着くと、ロイはポケットに手を突っ込み、かすかに肩を揺らして歩いた。それは、リラックスしているときだけに現れる、ロイの独特の歩き方だとジムは気づいていた。
 雲ひとつない空から、熱い陽光が降り注ぐ。
「いい天気だ」
 たくさんの観光客が賑わうビーチ沿いを避け、誰もいない岩場の多い砂浜を歩きながら、ジムが伸びをすると、ロイが穏やかに微笑んだ。
「潜りたいな」
「ああ、気持ちいいぞ。誰もいないし」
 言いながら、ジムはさっさと上着を脱いだ。
 ロイも服を脱いで水に入った。
 痩せた身体が水に姿を消すと、ジムもあとに続いた。
 水着も何もなしに水に入るのは、変な気分だった。
 いつもならウェットスーツに身を包んで、装備を山ほど背負っていることを思うと、いたずらでもしている気分になった。
 滑らかに、水の中を白い身体が進んでいく。
 綺麗な魚が腹を光らせてロイの周りを泳ぎまわっている。音のないショーを見ている気分だった。
 シーワールドで見たジュゴンよりも、もっと官能的な光景だった。
 もしも誰かが見れば、本当に人魚が泳いでいるように見えるかもしれない、とジムは思い、自分のメルヘンチックな発想に苦笑した。
 眠り姫だとか、人魚姫だとか、ロイが相手だと、ジムはなぜだかメルヘンの姫君たちを思い浮かべた。
 制服で立っている時にはまったく発想しなかったことだ。もちろん、装備をつけた泳ぐ姿を見たときもそんなことは考えもしなかった。
 白い、なめらかな身体の動きがそう見せるのだ。本人に言ったら目を剥いて怒るに違いない。
 水面で息を継ぎながら、ロイが微笑んだ。
「俺たちは、ほんとにどうしようもないな。遊びに来ても海から逃れられない」
「仕方ないですね。俺たちにとって、この潮水は産湯みたいなもんだし、それに海は守り神です。俺たちは常に海に見守られている」
 ロイは波で顔を濡らして、ジムに頷いた。
「ポセイドンに、挨拶をしないとな」
 ロイは音もさせずに、水に沈んだ。
 何度か息を継いだあと、ロイを見失ってジムは慌てた。
 そう深くはないとは言え、岩場のどこに亀裂があって、海底深くにつながっているか分からない。ロイの息は本来長い。チーム一のジムの潜水記録を破るとしたらロイしかいない。その差も数秒の違いというだけだ。
 だが、今は見失うわけにはいかなかった。
 ジムがやっと深い水の中に、その姿を見つけたとき、ロイは岩場に捕まって、海底のはるか彼方をじっと見ていた。
 吸い込まれそうな深い紺色の水の彼方に、ロイは何を見ているのだろうかと、ジムは思わずその方向に目をやった。
 一匹の魚の影すらない水の壁が続くばかりで、幾重にも幾重にも永遠に続く厚いカーテンのようだった。
 その目線は、チームが潜航していくときのものだとジムは気付いた。
 普通のダイバーとは違い、チームの任務に就いたとき、彼らの目線は海底ではなく海中の先を見ている。その先に存在するターゲットを目指して、ひたすら進んでいくのだ。
 人魚のように見えたことが申し訳なかった。
 この人は特殊部隊の副隊長なのだ。
 どこにいても、それしか見ていない、仕事を愛する男なのだ。
 それなのに、髪を金緑色に微妙に反射させながら、海底に沈んでいるロイの姿は、哀しげで儚く見えた。
 ジムの姿を視認したロイは、手を伸ばしてきた。
 ジムは水を蹴ってその手をとり、ふたり一緒に海面に上がった。
 海上で、ぽつんと浮かんだ二つの影を、眩しい太陽を照り返した水面が取り囲んでいる。
 ジムが微笑みかけると、ロイは照れたように俯き、唇を潮で濡らした。
 ロイはジムが握りしめるようにしたままの手を、そっとはずした。

 その日の夕方、ふたりは飛行機に乗った。
「ああ、何だか俺まで心が洗われた気分だ。楽しかったなあ。週末までいたかったのに」
 自分のほうが楽しんだかのように、ジムが残念がった。
「うん、お前のおかげだ。ジム」

 飛行機の中で、ロイは微笑み、また眠りについた。
 ジムはどうしようかと一人焦った。手はいらないだろうか? このまま寝込んで、飛行機の中で急に魘されたりしたら大変なことになる。
 ジムは客室乗務員にブランケットを頼み、一枚をロイにかけ、一枚を自分にかけて、ジム側のロイの手をそっと包み込んだ。
 うっかり自分まで寝込んで、ブランケットを落とさないようにしなくては、とジムは緊張して座っていた。
 それから、傍らで寝息をたてている、眠り姫になってしまったような男を見た。
 誰かが声をかけるのが分かったが、ジムは上の空でロイを見続けた。
 気がつくと、狭い通路をワゴンが通り過ぎていくところだった。
 あまりにもじっと見ていたのが異様だったのか、飲み物を配りに来た客室乗務員が、微笑んで通り過ぎていくところだった。
 ジムと視線が合うと、乗務員は笑った。
「素敵な彼だわ」
 どうも、と礼を言い、正気に戻ってジムは誤解だ、いや珈琲を……と、言いかけて、頭をかき、まあいいかと一人笑った。

 ノーフォークの基地から少し行ったところにある、アパートの一室で、ロイはジムと共に戻ってきた。
 ジムは二階の自分の部屋を素通りして、荷物を持ったままロイの部屋の四階まで一緒に来た。
 カーターに、旅行を切り上げて戻りましたと、几帳面に連絡を入れたロイが、逆に怒られ、週明けまで出てくるなと言われたと、困った顔をした。
 ジムは俺も部屋には帰らない、と宣言して居座った。
「大尉と一緒に遊ぶように命令を受けてるんですからね。あなたをほっといたとばれたら、少佐から大目玉を食らいます」
 真面目な顔で言うジムに苦笑して、ロイは好きにしろと微笑んだ。
 荷物の中の洗い物の衣類を、ロイは黙って洗濯機に入れ、ジムにも出せといって一緒に洗った。
「買い物に行って、食事でも作るか」
 ロイは諦めたように立ち上がり、車の鍵を手にした。

 毎日、ふたりで買い物をしに、ショッピングセンターへ出かけた。ロイは必要な食材を集めるのに、労苦を厭わないらしい。
 欲しいと思った商品がなければ、ジムはなにかで代用するか諦めるが、ロイは別の店までちゃんと足を伸ばす。
 しかもものによっては、あちらの店がより新鮮で、より安いという情報も、なぜだかきっちり頭に入っているらしい。
「あなたの奥さんになる人は楽でしょうね。――いや、かえって大変かも」
 ジムがショッピングセンターのカートを押しながら笑うと、ロイは棚の前で二つのオリーブの瓶を見比べながら片眉を上げた。
「なぜだ?」
「こまかすぎます。そんな隙のない買い物の仕方をしてると、女性に嫌われますよ」
「そうか? 普通だろう?」
 選んだオリーブをカートに入れて、ロイは今夜のメニューに見あったものがそろったかどうかを検分するような目を籠の中に向けた。ジムが適当に放り込んだミルクのパックを取り出し、ロイは棚からその倍もする値段の瓶づめを入れた。
「そんな高いのを飲むんですか?」
「これは、酪農家が手作りしているやつなんだ。他のより舌触りがいい」
 ジムはなぜだか笑いが止まらず、くすくす笑いながらカートを押した。

 映画に行ったり、散歩をしたりして、考えられないほどの贅沢な時間を堪能した。
 丸三日間の同居生活の中で、ジムはロイの意外な一面をいろいろと発見した。
 ジムの部屋が、雑然としているのに比べ、ロイは整理整頓を絵に描いたようにきちんと徹底した掃除をした。
 軍隊で鍛えられた習慣を、そのまま生活に持ち込んでいるようで、ジムは感心して眺めていた。ベッドのシーツも皺一つなく整えていく。冗談ではなく軍で生活するにおいて、埃ひとつ、皺ひとつ残さないようにと教えられいる。だが、自宅に戻れば日常で、そこまでしたくもない。そもそも、無駄な物がない。極めて掃除がしやすい部屋でもある。
「士官学校で、よく嵐がやってきて死にかけたな」
 床をモップで拭きながらロイが言った。
「嵐?」
「教官たちが、訓練中留守になった部屋に突入して、僅かでも皺がよったベッドがあったり、散らかっていたりすると、部屋からベッドからめちゃめちゃに荒らして行くんだ」
「ああ、それは俺のいた教育隊でもありましたね。将校候補生も一緒ってわけだ」
 嵐は気を抜いた時にやってくる。
 集団生活の同室である、誰かひとりのせいで、全員の持ち物がめちゃめちゃにされるのだ。ひどいときはベッドのマットまではずされて、庭に出されたやつもいたな、とロイは笑った。
「それから、夜のメニューの読み上げも、うんざりした」
「なんです? それは」
「今晩食べるメニューのレシピを、細かく材料と栄養価まで短時間で暗記して、みんなの前で報告させられるんだ。脳が活性化するようになんだろう。暗記に関しては他にもいろいろあって、おかげで大抵の任務の要領はすぐに暗記できるようになった」
「俺は昨日食ったメニューすら、覚えてませんよ。嵐は同じでも、やっぱり士官学校はやることが知的だ」
 ジムは笑った。
 ロイは料理もこまめで、レシピもなしに凝ったメニューを食卓に乗せた。一人で暮らしていて、いつもこんなにまめに作るのか? と聞くと、一人のときは簡単にすませる、と言った。
「いつもひとりでしょ?」と、突っ込むと、「それはそうだな」と、笑った。
「母とふたりでいることが多かったから。俺はいつも母の夕食作りを手伝っていた。彼女は料理上手だったから、面白かったんだ。母が伏せって作れないときは代わりに作ったりして。だから教わったままにしか作れないだけだよ」
 意外に寂しい暮らしだったのかもしれないな、とジムは思った。
 年に半年以上父親が留守をしていた間、身体の丈夫そうでないおかあさんと、この息子はどんなふうにいたわり合っていたのかが察せられて、涙もろいジムはじんとなった。
 要するに、ひとりでもセンスのいい食器に、ちゃんと作った料理を盛り、上品に食事をしているってわけですね、とジムは明るく聞いた。
 そんな生活をするのが普通なくせに、ジャングルでとんでもないものも食べられるということが、信じられなかった。それこそロイには似合わないではないか。
「そうでもない。俺はおまえが思ってるほど、上品じゃないよ」
「アンバランスだな。俺が大尉みたいな人間なら、絶対に軍なんかに入らずに、もっと楽な道を歩くのに」
「もっと楽な道って?」
「いや、そう言われるとわからないんですがね。これしか知らないし」
 ジムは、頭をかいて、馬鹿なことを言ったな、と微笑んだ。
「でもほら、例えば俳優になるとか、モデルとか、歌手とか。すごいセレブになれたかも」
 ロイは珍妙な顔をした。
「無理だよ。そんな派手な仕事は向いてない。それに、歌は上手くないんだ」
 へえ、上手くないものがあるんですね、とジムは嬉しそうに笑った。大尉の歌とやらをぜひとも聞いてみたい、と言うとロイは露骨に眉をひそめた。
「だから、歌えないほど、ひどいんだ!」
 ジムは想像するだにおかしさが込み上げ、くすくす笑いながら続けた。
「じゃあ、医者とか弁護士とか、パイロットとか……」
「まるで子供の将来の夢みたいだな、ジム」
 ロイは声をたてて笑った。
 確かにそうかもしれないな、とジムも苦笑した。
 だが、自分のような平凡な頭と才能しかない人間と違ってロイならいくらでも、それを夢でなく終わらせることができた気がするのだ。けれども、ロイという少年は、そもそもそんな夢を持つことはなかったのだろう。農場で育ったジムとは違う、すぐそばに制服を着た人間がいたのだから、それを憧れに変えるのは自然なことともいえた。
 ジムだって、子供の頃はともかく、父親の農場を継ぐべきかどうか、迷ったこともあったのだ。
 親子で海軍、というのはざらに聞く。ことに、ロイの家は祖父もそうだというのだから、他の道が見えなくても当然かもしれなかった。
 旅行から戻ってから、嘔吐を伴う発作や、悪夢に魘されることは一度もなかった。
 アパートに帰ってからも、ジムがソファを寝室に引っ張ってきて、一緒に寝ましょうと言うと、ロイは戸惑ったような顔をした。
「枕を並べて話をするのは、楽しいでしょ? 夏休みの林間学校みたいで」
 ふたりは、くだらないことをしゃべり合い、笑いの中で眠りについた。ロイが眠ってしまうと、ジムはそっと手を伸ばして握りしめた。
 そのおかげか、ロイは朝までぐっすり眠っているように思えた。
 充足した睡眠が効果を発揮したのか、ロイは休暇に入る前よりはずいぶん落ち着いて見えた。
「この分なら、ちゃんと仕事に戻れそうですね」
 ジムが言うと、ロイは少し考えるような顔をした。
「考えても無駄だよ。カーター少佐はあなたを辞めさせる気がない。そのつもりなら、病院にあのまま置いてきたでしょうよ」
「でもこれからも毎日、お前の手を握って眠るわけにはいかない。……夜中にそうしてくれているのは、知っている……。今、眠れるのは多分それで……」
 申し訳なさそうに俯くロイの肩に、ジムは手を置いた。
「いいじゃないか、毎日だって」
「そこまで甘えられないだろ」
 ジムはまじめな顔をした。
「今できることは、それしかないんだ。そうでしょう? それで眠れてるのは確かだ。だったら、それでやってみるしかない。今更遠慮してどうなるもんでもないだろ?」
 ロイは戸惑ったような目をして俯いた。
「……まるで子供だ。手を握ってもらわないと眠れないなんて、人が聞いたら……」
「誰も聞きゃしませんて。やってみましょう。人に頼ることは悪いことじゃないんだ」
 穏やかに微笑むジムの顔を、なぜだかロイは俯き、見ることはしなかった。
 だが、その顔が本気で拒んでいるわけではないと、ジムは感じてもいた。

 その日のうちに、ロイはドクター・ナカニシの診療所に出かけた。
 高級住宅地の一角にある、小さいが、瀟洒な建物は住宅を兼ね備えた診療所らしかった。
 診療所とは思えない、落ち着いた部屋に案内され、大きめのクッションのいいソファに座らされる。普通のひとり掛けソファに見えるが、背もたれの角度が大きく倒れ、歯科医の椅子のように自在にベッド様に変わるものらしい。
 ロイは素直な態度でドクター・ナカニシに、これまでの経緯を語り、今までここに来なかったことを詫びた。
「あなたが来てくれて、嬉しいですよ。大尉」
 縁なしの眼鏡と、長い野武士のような黒髪を後ろに束ねた東洋人の医師は、本気で喜んでくれているかのように温かく微笑んだ。
「ハルトマンが、二度とあなたを診ないと、すごい勢いで電話をかけてきた。私でよければ、お力になりたいですよ」
「お願いします。ドク……」
「カーター少佐は、なるべく経歴に傷をつけたくないという配慮もあるのでしょう。ハルトマンは融通が利かないのでね。軍に筒抜けになるんです。……少佐はあなたのことを本気で心配しておられる」
「……少し買いかぶられておられると思うんです。今の俺には平の隊員としての自信もありません」
「あわてては駄目です。いっぺんにすっかり良くなることは難しい。催眠療法を嫌がられていたようだが、それもやってみたほうがいいでしょう」
 ロイは躊躇いながらも頷いた。
 ここ数日訪れなかった悪夢が、ジムの手によることが分かっていても、ぐっすり眠ったことが勇気づけてもいた。でもできれば、それに頼ることなく眠れるようになりたかった。
 何よりも、ジムやカーターやバークの気持ちに応えたいと思っていた。
 ずっとひとくくりに医療者を避けてきたが、考えたらナカニシは温かい医師だ。
 このナカニシに、かけてみようとロイは決意していた。
「よろしくお願いします。ドク」

「お、見違えるほど元気そうだな」
 一週間ぶりに訪れたカーターのオフィスで、少佐は明るく言った。
「いろいろ、ご迷惑をおかけしました」
 ロイが言うと、カーターは手を振り、「どうだ? すっかり元気そうに見える。ドクのところへも行ったらしいな」と聞いた。
「催眠療法を始めました。ここ数日、夢も見ません。ただ、今後このままだとは……」
 カーターは笑い出した。
「君らしくもない。思い切って任せてみたらいい。心配しすぎているんだ。気持ちの持ちようっていうだろ? 私は君を諦めきれない。このまま、軍を辞めてしまうことだけはして欲しくないんだ」
「有り難うございます」
「具合が悪いときは休みなさい。君は無理をしすぎる。それが自分を追い詰めているのを知りなさい。大体少しくらいミスがあったからって、すぐに辞めるなんていうのは早計すぎる。そんなことを言っていたら、私はもう何回辞めなきゃならなかったか、数え切れない」
「……はい」
 旅費一切の心遣いを感謝し、けれども自分で出すと丁寧に断ると、カーターは露骨に嫌な顔をした。
「本当に君は無礼なやつだ。人の好意を受け入れることが、そんなに嫌なのか?」
「そういうわけではありませんが……」
「だったら、今度飲みに行こう。ジムや仲間を連れて。そのときの勘定は君持ちだ。たぶん、そっちのほうが出費は多いはずだ」
 ロイは笑って頷いたあと、お土産です、と包みを渡してオフィスを出た。

 ロイが出て行くとすぐに、ジムを呼び出した。
 旅行を早めに切り上げてきたこと、帰ってからの三日間もずっと睡眠がとれていたことを、ジムは報告した。
「なんだ。じゃあやっぱり疲れてただけなんだな」
 カーターは安心した。
「……ただ…」
 ジムが柄にもなく恥ずかしそうな顔をして、言いよどんだ。
「どうした?」
「実は……」
 ジムは、入院中からロイが悪夢に魘されていたときに、手を握ったら眠れていたようだと前置きをしながら、また考えるように口を閉じた。
「……まさか、今回、ずっと手を握って眠らせた…とか言うんじゃないだろうな?」
 カーターが呆れたように言うと、ジムは真剣な顔になった。
「安心するんだと思います。ああいう人だから、それもやむなく……。それくらい切羽詰ってるんだと思う。一時は俺を避けるようにしてたのに」
「あのフォードが手を握ってもらって寝る……」
 カーターは珍妙な顔をした。
「おかしいでしょうけどね。……でもいつまでもそうして眠ることはできないと、大尉自身も言ってましたから」
「……それで睡眠がとれるなら、しばらくやってみたらどうだ? なんなら私が握ってやったっていい」
 からかうような顔をやめ、カーターは言った。「それで元気になるなら安いもんだ。眠れれば落ち着いてくるんじゃないかな」
「そうさせてくれればいいですけどね……。少し素直になった気はするんですが」
 カーターは頷きながら、ロイが渡した包みを開け、中から出てきたものを目を丸くして手に取った。

「なんだ? これは」
 ジムがたまりかねたように吹き出し、ぬいぐるみのアザラシの頭のついた帽子を取り上げてカーターの頭に被せた。
「いかしてますよ、少佐。バーク大佐はペンギンです。選んだのは大尉ですから。今度ふたりでご対面してください」
 カーターは被せられた帽子を手に、なんとも言えない顔をすると、笑いだした。
「いっそのこと、我がSEALチームの制帽はみんなアザラシ(seal)の顔付きにするか」 

ロイはジムに、ドクのところに行ったことを話した。
 ジムはなにかあったらすぐに電話をしろと言ったが、そんな暇もなく毎朝、ロイは熟睡を楽しんでいた。
 ドクターの治療のおかげか、ジムと共に過ごした一週間のおかげか、ロイは毎日ちゃんと、ヴァージニアの朝の日差しの中で目覚めた。
 ジムはそう報告を受けると、満面の笑顔で頷いた。
 その顔を、ロイは陽射しをまともに受けたように眩しく感じた。
 ロイはいつの間にか、ジムの姿を目で追うようになっている自分に気がついた。
 眠るためでなくても、ジムに常に側にいてほしかった。
 だが、それを口にするのは躊躇われた。
 ジムにだって自分の生活がある。
 いつまでもこの狭いソファで寝せるわけにはいかない。
 男ふたりが、特に人よりもうんと大きなジムと、ダブルとはいえ、ベッドで身を寄せ合って眠らせるのは、余計に気の毒だ。タフな男だが、彼だって翌日訓練が待っているのだ。     時おり、ジムに抱かれる夢を見た。
 キスをし、身体を愛撫され、快楽の極みに上り詰めていく。
 内側にジムの身体を感じ、卑猥に乱れていく自分の声でふと目覚めると、まるで自分が淫乱になってしまったような気がして、たまらなかった。
 ロイは、自分がジムを愛しているのだろうか? と繰り返し考えた。
 白い電話機に貼ってある「ホーナー」というシールを指でそっとなぞる夜もあった。

 海上訓練のとき、ジムは上半身を裸にして、隊員たちに檄をとばしていた。
 ロイはその身体を、盗み見るようにして窺った。
 現実にジムがベッドで裸になって、あのたくましい身体でロイの身体を抱くことを考えると、それを受け入れるのは無理なような気がした。二度と男の身体の下になって、その愛撫を受けることなど、できるはずもなかった。
 ましてやあの部分に受け入れることなど……。
 それをリアルに想像するだけで、胸が苦しくなってくる。
 あくまで夢の中だからこそ、それが可能に思えるだけだ。
 裸のままの肉体を眩しく太陽に輝かせ、ジムがそばにやってくる。
 海上訓練の、中型船のデッキに立っていたジムは思わず目を逸らした。
「どうしたんです? 深々と考え込んで」
 ジムの笑顔に、ロイはふっと瞼を伏せる。
「なにも……。みな元気だと思って」
 ロイの視線の先には、レクスターがなんども潜ったり浮上したりを繰り返している。レクスターはどちらかというと、海はそれほど得意ではないので、なんどもなんども繰り返し訓練のやり直しを命じられてはんべそをかいているようだ。
「みな、元気ですよ、あなたもすっかりそう見える」
 うん、とロイは頷き、また目の端にジムの肉体を盗むように入れた。
「さ、大尉の番ですよ。おもいきり潜ってきてください」
 ジムがさりげなく叩いた手の平から伝わる温度が、肩に熱く感じられた。
 ――どうかしている、とロイは俯き、「行ってくる」と、船縁を乗り越えた。
 訓練に身が入らないことなど、そうあるわけでもないのに、ロイはまだ目の前にジムの浅黒い焼けた肌が残像として漂っている気がした。
『あなたはこれまで男性に、そういう目で見られたことがありますか? 男性とセックスしたことは……?』 
 ペイジの言葉が蘇る。
 女性に興味がないとはいわないが、これまでそういう付き合いまで発展したことはなかった。ましてや男が相手で、そんな方向に行くことがあるなどということすら知らなかった。
 ――いや、そういう恋愛感情をぶつけられたことはある。
 だが、それにセックスが伴い、男に受け入れる術があるなどと、夢にも思っていなかったのだ。
 もともと、そういう嗜好の人間だったのだろうか? とロイは自分を訝った。
 たとえそうだったのだとしても、ジムはそうではない。ロイはそれをジムに、ひたすら悟られないように努力するしかなかった。
 ジムには過去に、ガールフレンドがいたことだって知っている。女性の好みも聞いたことがある。紛れもない友情でロイに接してくれているのを、勝手に履き違えて台なしにするわけにはいかない。
 今、ロイは自分が当たり前の感覚を維持できない、不安定な精神状態を抱えていることを理解していた。
 それを解決するよすがとして、ジムに目を向けているだけなのだと思う。
 だが、それでもジムにそばにいて欲しい、手を握ってもう一度眠りたいと本気で願っている自分を持て余していた。
 上から下りてきたビリーが手を伸ばしてくる。
 その手を掴んで、ロイは上へ上がっていく。長く潜りすぎて息が切れそうだ。
 心配して来てくれたのか、ジムに命じられたのかは知らないが、ロイは微笑んだ。
 ブルネットの巻き毛を揺らして、ビリーも笑った。
 こんな訓練はいい。
 ずっとこうして、みんなと海に潜っていたい――。
 ロイは訓練では、なるべく無茶をしないように心掛けるようになっていた。
 きついのは当たり前だが、これまでのように全力ではなく、適度に手を抜いた。
 自分の身体を痛めつけない程度に保つこともまた、大切なことだと気づいていた。
 引き止めてくれているカーターのためにも、心配して毎日ロイを見つめてくれるジムのためにも、バークのためにも、そして何より自分自身のために、ロイは立ち直っていかなければならないのだと、自分に言い聞かせた。

 三日に一度はドクのもとを訪れ、ロイは真面目にカウンセリングを受けるようにもなっていた。
 その強い意志が、今、悪夢を押さえ込んでいるにちがいない、とドクターは言った。
 みんながついていてくれることを忘れないように、このままいけば、何の問題もないと言われ、ロイは気持ちを明るくした。
  ナカニシは、常に冷静で顔色ひとつ変わることなく、ある意味通常のロイ以上にポーカーフェイスを得意とする医師だ。
 ロイの催眠時の話や、カウンセリングとして語る自分の内面についての話にも、ナカニシは暖かい眼差しで頷き、友人のようにお茶を出して振る舞うことすらある。 
 こういった治療でどの程度の効果があがるのかなど、わからなかったし、本来ロイは自分の内面を誰かに語ることなど好きではなかったが、雑談の中にすら、思わず本音を吐露してしまうことすらあった。
 そんなロイの信頼を感じているのか、ナカニシは本当に親身に対応してくれているようでもあり、それもまたロイを力づけ、安心させてくれることのひとつでもあった。
 すべてがうまくいく――。
 ドクターナカニシの言うとおり、それは間違いなく、今後のロイの行く先に明るい陽射しが差しているような気すらしていた。




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哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評