[カーターの葛藤] of [硝子の破片]


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第十四章 カーターの葛藤

「退院前に精神科で少し不都合がありましてね。大尉は重症患者の区画に入れられたんです」
 医師のことばに、カーターは身を乗り出した。
「重症患者の……ですって? なんでです?」
「たまたま部屋が塞がっていて、そこしかなかっただけなんですが。彼にはショックだったようだと、あとで担当していた若い医師に聞かされました。まあ、無理はないですがね。なんども自分はほんとうに、チェックだけでここに入れられているのかと確認したそうです」
「……私だってそう聞いていた。チェックするために少し退院が長引くだけだと。――そんなことだったとは」
「それに……。悪夢を訴えていた頃には、強引に睡眠剤を使って眠らせたと、ハルトマンが言っていました。目覚めないまま悪夢を見るのはつらいからと、私に断っていたほどだったのに。そういったことが不信感となって病院に行きたがらないのかもしれません。でも、点滴を受けねばならないほど、食べ物が入らない、あるいは嘔吐してしまっていると考えていいでしょうね」
 カーターは思わず、目の前の医師の手を握った。
「……訓練は……普通にこなしていたんです。ほんとうですよ、遜色なく、やれていた」
「あり得ませんね。私の診たところ、もうそんなことができる身体には見えない。貧血や、目眩といった症状が出ていてもおかしくはない。できているのだとすれば、気力のみだと思いますよ」
 龍太郎は、ため息をつき、銀縁の眼鏡を外して額の皺をもんだ。
「なんとかなりませんか? それほど嫌がっているのなら、病院にいかせるのは……。彼は……、軍でしか生きていけない。子供の頃からそれしか見ずに、将校になるべくしてなってきた人間なんです。それに、彼はいずれ隊長として、チームを率いる立場にいるんです。精神科の入院が分かれば……。ただでさえ、拷問を受けたことで上層部は躊躇しているのに」
 普段落ち着いている姿しか見せない、真摯な表情のカーターを、龍太郎はびっくりして見た。だが、龍太郎はため息をついて首を振った。
「……少佐、もうそういうことを言っている段階ではありませんよ。このままでは身体のほうが先に参ってしまうでしょう。睡眠不足の上に、栄養が十分にはとれていないとなると……私がもう少し信頼関係が築ければよかったんだが……。クリニックの準備に手がかかりすぎて、途中でハルトマンだけに任せてしまったのが悔やまれます」
 龍太郎は目を伏せた。
「目を離さないほうがいいかもしれません。何をしでかすか」
「ドク……。まさか自殺でもすると考えているんじゃ……」
「あなたなら、どうです? 私ならとっくにそうしているかもしれない」
 カーターは項垂れ、呻くように言った。
「私には……想像力が欠けている。自分がそういう状況になったらという、リアルな置き換えができないんです。それが今まで彼を放っておいた……。私のミスです」
 ドクターはカーターの握った手をもう一方で包むようにして、そっと頷いた。
「誰だって、人の気持ちまでは分からない。それが普通ですよ、少佐。……ハルトマンは優秀で、精神医療でも腕のいい医師です。睡眠剤の件も、常識で言えば間違いではない。私のところは入院施設はない。経過も分かっているし、彼に相談したほうがいいと、私は思います」

 翌日、ロイは昨日のことを、ちゃんと覚えているようだった。
 酷く落ち込んでしまっているのは、カーターにそういう姿を見せたからだと思われた。
 丁寧にカーターに詫びると、「どうか辞表を受け取っていただきたい」と言い残し、訓練場へ戻っていった。
 休んだらどうか、と言いたかったが、うっかり家に戻して、昨日の今日で思いつめては……と、踏みとどまった。
 医師の言った、「自殺」の単語が頭を離れなかったのだ。 
 自分のオフィスに戻ってくると、カーターはジムを呼び出した。
「フォードが、辞めるといって来た」
 カーターの言葉に、驚いたような顔をしたが、ジムは何かを知っているように、項垂れた。
「思い当たることがあるなら、話せ。いつからあんなふうなんだ? 眠れないといっていたが、そんな段階じゃない」
 カーターから夕べの話を聞いたジムは、観念したように顔を上げ、先日、飲みに行った帰りにあったことからの出来事を、簡単に話した。
「訓練中に、これまでそれほど異常は感じられなかったぞ」
「ええ。まあ確かに。むしろ誰よりも完璧にこなしていた。……でもまだ退院してからたった四ヶ月程度かそこらでしょう? 訓練だけじゃなくて、あの人は勉強もして……完璧にやりすぎだった。それが証拠に、ふと疲れているように見えることがありましたからね」
「……やっぱりおかしくなっていると思うか?」
「おかしいって言えば、そうなのかもしれませんが……。これまで忘れていたことを思い出したんじゃないでしょうか? もちろん覚えてはいたでしょうが、それほど意識に上がっていなかったものが、あの日似たような状況にあって、爆発したように出てきたのかも。特に恐怖が。……あの日でなくても、もしかしたらそれ以前にもそうだったのかもしれませんが」
「医者にいかせるべきだと思うか?」
「もちろんです」
 ジムはきっぱりと言った。
「ほんのちょっとの間に明らかに消耗してます。睡眠不足だけならともかく、あの嘔吐の発作が問題ですよ。あれのせいで、痩せる一方だ。もともと肉が薄いっていうのに。なんで病院に行かないのか……」
「行っていたんだそうだ」
 カーターは、入院していたときの話と、近くの診療所に点滴を打ってもらいにいっていたという話をした。
「少佐、俺が連れて行きます。ちゃんと検査を受けさせます。首に縄をかけても」
「……そうだな」
 ジムまでがそう言うのならば、それしかないのだろう。聞かないだろうが、命令の下においても、病院へ行かせるしか方法はないようだ。
 カーターは諦めたように同意した。
「午後から、行ってきてくれ。首に縄をかけていいから。俺からそう命令しておく」
 はい、とジムは踵を鳴らし、表情を引き締めた。
 カーターはロイの上官だ。チームの隊長でもある。だから、ロイを命令下における。
 辞めさせたりするもんか、とカーターは思った。
 あの男を従わせるなら、軍に所属させておくしかない。そして、カーターに対して逆らえないうちに、なんとか思う方向へ導きたい。
 カーター個人とのつきあいは、まだ言うほどもないのだ。縦社会の力で制さなければ、ロイはカーターに話すらしないだろう。
 個人的に、ロイの懐へ入るほどには、まだまだカーターはロイとの関係を結んできたとはいえなかった。
「ホーナー」
 ドアを出ようとしたジムが振り返った。
「俺は……隊長失格だな。まるで状況が見えてなかったよ」
「相手はそれを見せようとしない、手強い人ですからね」
 ジムは微笑み、ドアを閉めた。


 翌朝、出勤してきてすぐに、ロイが入院をさせられそうだ、とジムからの電話で報告を受けてカーターは驚いた。
 昨日午後から、カーターがそう言って、無理に連れて行かせたあと、ジムから検査のために一晩ロイが病院に泊められたと言って、連絡をしてきていた。
 今朝、どんな様子か、病院に立ち寄ったのだという。
 それではこのまま入院するほど、容態が悪かったのだろうか?
 必要な書類や、保証人などのサインがいるというので、カーターは車に乗った。
 ジムが待っていたのは、普通総合病棟だったことから、カーターはちょっとほっとした。総合受付に走ったが、ハルトマンが出てきて、普通の受診患者の来ない、奥の個室へ連れて行った。
 女性看護師に付き添われ、ソファに座っているロイを見て、カーターもジムも驚いてそばに駆け寄った。
 ロイは、青白い顔をして、どこも見ていないような顔をして、ぼんやり座っていた。
 すでに、廃人になってしまったかのような部下を見て、カーターは蒼白になった。
「これは……何をしたんです?」
 カーターが思わずハルトマンの顔を見ると、ハルトマンは不機嫌そうに逆に見返した。
「悪夢の状態は以前に知ってましたのでね、夕べ様子を見ていたんですが……やはり眠れないようでした。注射をしようと押さえたら、ひどく取り乱して激しい発作を起こしました。嘔吐、幻覚を伴っているように見えたので、少し強い精神的な治療を施したんです。何も考えられなくなっていますから、悪夢もなく、さっきまで眠っていました。……ただ、精神病棟はいつも満杯でね。私の知り合いの精神科医がリッチモンドのはずれに私立の病院を持っている。そこへ入院させたらいかがかと思います」
 ジムが、信じられないような顔をして、ロイに近づいていった。
「大尉……」
 ジムが呼びかけても、ロイは返事もせず、その顔がちゃんとした意思や思考を妨げられているのが分かった。
「――確かに、眠れないとか、ちょっと取り乱すことはあった。でも、こんなふうにしてしまうほどじゃ……。昨日まで、ちゃんと仕事をしていたんです」
 カーターが言うと、ハルトマンは冷酷な顔を更に際立たせるような、感情すらないような顔をした。
「ではどうしろと? この患者を退院させるのは、もともと私は懐疑的だった。あれほどの傷と、精神的ショックがあったのに。むしろこうなっても驚きませんよ。また一からやり直しです。今度は徹底的に根本から治療をしなければ」
「治療できるんですか? 忘れてしまえるんですか? それはいつです?」
 ジムが叫ぶように、医者を振り返った。
「忘れてしまうことはできないかもしれないが、落ち着いてはくるでしょう。いつなどとは言えません。それは本人次第です」
「……苦しんでいるだけだったのに。記憶に押しつぶされて……。頭がおかしくなっていたわけじゃない。ちゃんと、取り乱したときの記憶もあって……」
 ジムの声が、悔しそうに掠れていた。
「ドクター、どうしてもそうしなければなりませんか?」
「本人のためを思うなら。今の状態が本人には楽なはずです。身体のためにはしばらくは何も考えられないほうがいい。リッチモンドに行けば、専門の医師がまた話をしてくれるでしょう」
 医者は、淡々と入院するための手続きを説明し、友人の病院がベッドを空ける間の一週間は、ここの普通病棟に入院させておく旨を伝えた。とりあえずその分の手続きをするために、受付にいくよう促され、カーターは立ち上がった。
 ジムは、ロイに何度も声をかけていたが、反応のないことに落胆し、仕方なく立ち上がった。
 そのとき、ジムの腕にロイの手が絡まるように掴まれるのを、カーターは見た。
 考えることを、強制的に止められたはずのロイの顔が、ひどく悲しげに見えた。
 目線は定まっていないのに、ジムを掴む手だけに意思があるように、離さない。
 看護師が優しくその手をとろうとしても、ロイはジムを離さなかった。
 ハルトマンは、男性スタッフに声をかけ、無理に手を剥がし、立ち上がろうとしないロイの身体を強引に両側から掴んで、二人かがりで支えるようにしてドアに向かって歩き出した。
 ジムは悲痛な顔をしてその様子を見ていたが、思わず歩き出しそうになったのを、ハルトマンがさえぎるように立ちはだかった。
「さあ、もう話は終わりです。受付に行ったあと、お帰り下さい」
「……イ…ム…」
 微かな、ロイの声がした。

 ドアを出ようとしていた看護師たちの強引な手を、恐怖の籠った瞳で見て、ロイがこちらに手を伸ばすのがカーターには見えた。
 足の力を抜き、身を捩って掴まれた腕から逃れようとしていた。
「ジ……ム……」
 ハルトマンは、女性のスタッフに命じ、注射器を用意させた。
「少し早く醒めそうだ。押さえて」
 二人がかりで床に押さえ込まれ、ロイは頭を左右に振った。
「ひ…ああぁ……っ」
 恐怖に掠れたような声が漏れた。 ロイの袖をめくって、今しも針をつきたてようとするハルトマンの身体を、ジムが、襟首を掴んでどけた。
 ハルトマンが後ろ向きに、ひっくりかえった。
「この人を押さえ込むな! 一番怖がっていることをするな!」
 ジムの怒声に、看護師たちが怯えたような顔をして、掴んでいた腕を離し、後じさるように立った。 
「……何も考えていないだって?」
 カーターが尻餅をついたハルトマンを睨みつけた。「怖がってるじゃないか!」
「単に、反射的な動きをしただけです。見たでしょう。暴れるんです」
「暴れるって動きか!」
「精神病棟でもないから、他の患者に迷惑をかけるわけにはいかない。薬が切れれば、ベッドから落ちるかもしれない。薬がいやならベッドに縛り付けることになりま……」
 医師の胸を掴むと、カーターはその顔を覗き込んだ。
「君は軍の医師だったな? 実戦の経験はあるか?」
「二年、空母に乗っていた」
 ハルトマンは驚いたような顔で、カーターの手をふりほどこうともがいた。
「で? 戦争に行ったのか? 海上見学だけでなく、現場に足を入れたか? 彼がどんな目に遭ったか聞いたか? 聞いても分からないだろう? ああやって、自分の意思を無視して他人に押さえ込まれるのが、彼にとって、どんなに恐怖か分かってないだろう?」
 看護師たちが、どうしたらいいのか分からないような顔で、こちらを見ている。
 ジムはロイを抱きしめるようにして、看護師たちから奪い返していた。
「こんな方法じゃ本当に狂ってしまう。……悪いが、入院は断る。薬はどのくらいで醒める?」
 胸ぐらをがっちりと掴まれて押し上げられたために、首が圧迫されるのか、ハルトマンは顔を真っ赤にした。
「……小一時間もすれば…。だが、投与しなければ彼は……」
「どっちにしても、君には任せん」
 カーターは、突き放すように腕を離した。
 深い青い瞳が濡れたような光を宿していた。カーターは目に涙すら溜めていたのだ。
「いいか? 今日の治療のことは、報告はいらん。腹痛でも起こしたとカルテには書いておけ。入院もしていないんだ」
「脅すのか?」
 カーターはもう一度医者に詰め寄った。
「脅しだ。このことをばらせば、あんたの不適切な治療のことも報告するぞ。俺と曹長と、そこの看護師たちが今のことを証言する。そうだな?」
 看護師たちは、怯えたように頷いた。
「ふ、不適切とはなんだ……う、訴えるのはこっちのほう……」
 医師が言いかけるのを、カーターは押し込めるように睨み付けた。
「たとえ俺が処罰されたって、いずれ礼はするぞ。俺がいなくても彼には仲間がいる。俺たちが何者か、知ってるんなら口をつぐむくらい簡単なことだろう?」
「わ……わかった…」
 ジムはロイを肩に担ぎ上げて、すでに廊下を歩き出していた。

 黙ったまま、カーターは車を走らせた。
 自分の部下を危険な狂人のように扱われたことが、カーターを怒らせていた。
 薬漬けにして、身動きを封じることに、意味があるとは思えなかった。ロイはどこもおかしなところがあるわけではないのだ。ナカニシが言ったように、彼に治療が必要だというのなら、それは心に受けた傷の回復に対してだけのはずだ。
 現にあれほど頑張ってきたのに、と思うと悔しくて滲んだ涙が少しも乾かない。
「大尉、もう大丈夫だ。俺も少佐もここにいる。もう、病院には入れないから。帰ろう、ロイ」
 バックミラーには後部座席のジムの顔しか見えなかったが、その顔がひどく穏やかで愛情に満ちているように思え、カーターは手の甲で滲んだ涙を拭った。
「……苦し……」
 か細い、ロイの声が聞こえた。
 すまなかった、ロイ――。
 カーターはふたりに聞こえない声で、呟いた。

 ロイの家につれて帰ってきた頃には、薬が切れてきたのか、ロイは頭を押さえ、何度も水を飲みたがった。
 ソファに横たえられたままだった身体を起こして、ぐったりとしてはいるものの、ちゃんと椅子に座ったのを見て、カーターはそばにしゃがんだ。
「……大丈夫か?」
「強い薬を打たれたみたいだったからな」と、ジムが言うと、それにも頷いた。
「……全部分かっていました。身体は動かなかったけど」
「あの医者、何も考えられなくなると言っていたのに……」
 ロイの言葉に、カーターも、くそっと、口の中で罵った。
「じゃあ、あのままあそこにいたら、君は考えられるのにそれを訴えられないまま、さっきみたいな状態にずっとさせられていたわけか……」
 その想像は、身体に粟を立てさせた。
「……でも、そうしていたほうが良かったのかもしれません」
 ロイの言葉に、カーターが立ち上がった。
「ばかなことを言うな。そんなことをされたら、どうなると……」
「……俺は、少佐。もう、軍にいることはできません。ああいうふうに扱われるということは、それなりの診断なのかもしれない。きっと、自分で思っている以上にもう、救いようがないのかもしれない」
 カーターは、打ちしおれた部下の様子に、いきり立っていた気持ちを抑えて、そのそばにしゃがみこんだ。
「そう落ち込むな、大尉」
 カーターは穏やかに言った。「何でも悪いほうに考えてしまいたくなるのは分かる。でも、これは外的なものから発生したことだ。君はどこも悪いわけじゃない。どうだ? しばらく旅行にでも行って気晴らしをしてみろ」
 ロイは顔を上げ、首を振った。
「お気持ちだけで十分です。……母の元に戻ります。実家に伯父がおりますので、頼んでしばらくいさせてもらうことくらい……」
「そんなことは、できないくせに」
 ジムが言うと、ロイが顔を上げた。
「あなたの性分は心得てますよ。そんなことができるなら、とっくにやってるでしょうが。実家に戻らず、我々に黙って、どこへ行こうっていうんだ」
 ロイは、唇を噛んで黙り込んだ。
「とにかく、私は一度基地に戻る。ジムを置いていくから、しばらく寝てろ。いいな?」
 カーターは有無を言わさず、ロイの肩をたたいた。
 項垂れたまま、ロイはなにも言わなかった。

 カーターが場にそぐわない微笑を浮かべて立ち上がると、ジムが眉を上げて見ている。
「あとで、戻ってくるから。ジム、あとを頼むぞ」
 いたずらっ子のような目をして、ドアを出ながら、カーターはジムに手を振った。


 ロイはソファに横になった。
 ジムが珈琲豆を轢いている匂いが漂っている。
 うとうとしながらも、今後のことを思うと、眠ることができない。
 新しい職業を探さなければいけないだろうが、自分になんの仕事ができるのかも分からない。他の仕事を考えたことなどなかったのだ。
 大学で、海洋学の勉強をした。
 深海の怪獣のような生物に、ロイは興味があった。普段目にしないような、異形の魚。煌めくライトを身体に仕込んだような、不思議な生き物たち――。
 連なる岩肌から口を覗かせる、深い深い海の底に、どんな秘密があるのだろうと、意識は常に海底に向かっていた。
 そのまま研究生で残れと誘われたが、諦めた。
 母の面倒を見てくれている伯父を安心させるためにも、父の意向を受け継ぐためにも、大学が終えたら海軍への入隊を決めていた。
 本当なら、士官になる道でももっとも狭き門である最高教育の士官学校へ行くつもりだった。キャリアとなる優秀な将校を排出するところだ。
 そのために、必死で勉強をした。
 ――だが、それは事情が許さなかった。
 母が、父の跡を継いで海軍へ入ること、そのこと自体を嫌がったからだ。
 今となっては、それは良かったのかもしれない。他所の世界を知っているということは、軍以外の場所で生きる術がなんらかあるかもしれないという、希望に繋がる。
 大学へ戻ろうかとも思う。
 あるいは、誘ってくれた教授の研究所へ――。
 だが、軍を逃げるように辞めても、これが治まるわけではないと思うと、暗い気持ちになった。
 それとも、まるで関係ない場所なら、治まるものなのだろうか?
 病院に入るのは恐ろしかった。
 身体を押さえ込まれ、注射をされそうになって、恐怖に我を忘れたのは分かった。
 本当に何も考えられないならそれでもいいが、薬は悪夢の効果を抑えてはくれなかった。
 夕べ、寝ているのか醒めているのかすら判然としない、指一本自由に動かない状態でベッドに寝かせられている間、ロイは悪夢に責め立てられ続けた。
 ジムの言うとおり、どこにも逃げようがない。自分で自分をコントロールすることができなくなっている。
 どうしてこうなってしまったのか、わからなかった。
 目を開けると、ジムの顔が目の前にあり、ロイはソファに起き上がった。
「……ジム?」
「二時間ほど眠ってましたよ」
 ジムが微笑みながら言った。「腹が減ったでしょう? ホットケーキを焼かずに待ってたんだ。食べますか?」
 ロイがカウンターに行って、「仕事を休ませてしまったな」と言うと、ジムはにこにこして熱々のホットケーキを皿に乗せて差し出し、自分の分もテーブルに置いた。
 ロイが自分でバターを出して来た。
「シロップはありますか?」
「……すまない。甘いものは苦手で。ああ、でも蜂蜜ならそこの戸棚に……叔母から送って来たものが。そのまま置いてるから開封してくれ」
 ロイの指差す棚を開け、ジムは蜂蜜を出してくると、自分のホットケーキにたっぷりとかけた。
 口笛を吹きそうな顔で、カットした破片を口に入れるのを、ロイはなんとなく見ていた。
「なんだか、機嫌がいいな」
 ロイがバターの乗ったホットケーキを口にいれながら言うと、ジムが楽しそうにウインクした。
「そいつを食べ終わったら行きますよ、準備をして」
「どこへ?」
 おちゃめな表情で、ジムは胸元からチケットを二枚出して見せた。
「マイアミなんかどうです?」
「マイアミ? 何を言っているんだ? ジム」
「さっきカーター少佐が戻ってきて、そう命令を受けたんです」
「……命令…。タンパの基地か? なんの任務だ?」
 ジムはロイのソファの肘掛に腰掛け、「オーランドにでも行って、すべてのテーマパークを制覇してくるのが任務です」と言った。
「ちなみに、俺もそう命令されました」
 ロイがきょとんとした顔でジムを見た。
 オーランドというと、大抵頭に浮かぶのはたくさんのテーマパークだ。ディズニーワールド、ユニバーサル・オーランド・リゾート、シーワールド・アドベンチャー・パークなど世界でも名のある場所の他にもたくさんのプレイランドがあり、ショッピングなども存分に楽しめるという、格別ゴージャスなリゾートエリアだ。
「チケットは少佐の奢りだそうです。しばらく忙しくて休みがとれてなかったでしょう? ホテルも予約済みです。週末が明けるまで遊んで来いとの夢のような企画ですよ。さ、起きた起きた」
 ロイは起き上がり、首を振った。
「そんな……、行ける訳がない。俺はもう辞表を出したんだ」
「辞表? ……少佐のゴミ箱に入っていたあれのことですか?」
「ゴミ箱?」
「あなたも頑固だが、少佐も似たようなところがあるようだ。辞められませんよ。そう簡単には。辞められない以上、命令は絶対です」
 ジムがいたずらっ子のような顔で言った。
「そんな馬鹿な命令なんて……」
 ドアがノックされ、勝手に開くと、バーク大佐の顔が覗いた。
「大佐……」
 ロイは立ち上がり、ドアまで歩いて出迎えた。絶対に基地では見せない、優しそうな笑顔をたたえ、握手のために手を差し出した。
「座ろう」
 バークはロイをソファに座らせると、自分も隣に腰掛けた。
「曹長から聞いたか?」
 ロイは戸惑ったように頷き、それから首を振った。
「大佐、お聞きでしょうが俺はもう……」
「ロイ、なぜ一人で戦う?」
 ロイははっとしたように、バークの顔を見た。そのグレーの瞳に、悲しげな色が宿り、うっすらと涙を浮かべている。
「ロイ、君はチームの団結の精神を学んだはずだろう? 我々は全員が家族なんだと、忘れてしまってるんじゃないのか? それともそれは、任務上のことだけだと君は解釈していたのか?」
 俯くロイの身体を、大佐はきつく抱きしめた。ロイはさりげなくその腕をほどき、息を整えるように二、三度かすかに肩を上下させ、「申し訳ありません」と呟いた。
 バークは懐のポケットから小切手を出して、ジムに渡した。
「サムに内緒のへそくりだ。ホテル代くらいにはなるだろう。カーターからチケットは受け取ったか?」
「大佐、そんなことをされては……」
「君は私の気持ちを傷つけてるとは思ってないようだな? 人の真心を素直に受けるのも親切ってもんだ」
 ロイは驚いたように、バークの顔を見返した。
「へそくりだからな、たいした額じゃない。年寄りの気持ちを察して、たまには父親の気分を味合わせてくれないか? ロイ」
「……はい。有難うございます」
 ジムの顔を見て頷くと、バークはもう一度、ロイの顔を覗き込んだ。
「サマンサが、なぜ家に連れてこないと私のことを罵るんだ。旅行から戻ったら、たまには顔を出してやってくれ。私のためにも……。私はまだマイクに殺されたくない」
「はい。大佐……」
 ロイが素直に言った。
 バークは頷き、名残惜しそうにロイの姿を眺めていたが、立ち上がってジムに手を差し出し、握手した。
「頼んだよ、ジム」
「お任せ下さい、大佐」
 淋しそうな背中を向けて、バークはドアを出て行った。
「さあ、着替えた、着替えた。夕飯はむこうで食べるつもりなんだ。飛行機に間に合わなくなってしまう。荷物も詰めなきゃいけないんだ」
 ジムの言葉に、ロイはようやく腰を上げた。




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評