[カーターとジム] of [硝子の破片]


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第十三章 カーターとジム

 「いや、いやだ……! っジム…」
 恐怖から逃れようと、ロイは身を捩って抵抗した。
 激しい痛みが身体を中心から裂くように、走る。喉元まで達するかと思われるほど、それは激しいショックと苦痛をロイにもたらした。
 絶叫が迸った。
 まるで断末魔のように……。
 ジム、ジムと何度も叫んだが、その姿はどこにもなかった。
「そいつは死んだよ。呼んだって無駄だ」
 部屋の隅に白いものが転がっている。「お前はひとりなんだ。ここでひとりで死ぬまでこうされるんだ。降参しろ、自ら俺たちに跪くんだ。そうすればこれを使わないでいてやる」
「ゆ…るして……くれ……」
 震えながら、ロイは懇願した。  
「それともこれが好きか? だったら今すぐ、これで殺してやる」男の含み笑いに、ロイは蒼白になった。もう、呼吸すら途切れそうだった。
「い……いやだ…」
 男は愉しそうに嗤った。
「降…参します……」
「跪いて、奴隷になりますというんだ」
 ロイは跪く気力もなかった。
「奴隷に……なります…」と、呻くように言った。男がキスをしてきたのが分かった。生ぬるい感触に吐きそうだった。

 不意に、頭のどこかが夢から抜け出た。
 この唇を噛んだことを思い出した。
 それが、何度も意識を失ってぐったりしていたロイを侮っていた、男の逆鱗に触れた。
 ああ、思い出した、とロイは思った。
 そのあとこの男はロイを殺すことにしたのだ。それもうんと惨いやり方で。そう、この鞭の柄をつかって……。
 いやだ、とロイは身を固くした。
 もう二度と、あんな目に遭いたくはない。
 馬鹿だったのだ、自分は。あんな状況で意地を張って、男たちに逆らい続けた。最初から屈服していれば、引き裂かれるほどの責めを受けることなどなかったはずだ。どんなに辱められようと、最初から許してください、と懇願していれば――。
 そう、屈服する。それしかない。
 そうすれば、おそらくこの毎夜のような責めから逃れられる――。
「お願いだ、許して……。なんでも……言うとおりにする……」
「奴隷になるんだな?」
「……奴隷に……なります…」 
 すがるように、ロイは床に頭を垂れ、男に誓った。
 男がロイの身体を、手にしたままの鞭で撫で回す感触に、ロイは戦慄した。それから逃れようと、身を捩ろうとしたが、もう身体は動かなかった。
 それでも、伸ばした手元にジムの白い骨が触れた……。
 ロイはいつの間にか、電話を握り締めていた。
 ぼんやりと白いシールが目に入る。【ホーナー】という文字が滲んで見えた。
 震える指で、そのボタンを押した。
「ホーナー」という声が聞こえた。
「もしもし? 誰だ?」
 骨になったはずの男の、懐かしい声が聞こえてきた。捕らえられてからずいぶん長いこと、聞いていなかったような気がした。
「…大尉? 大尉ですか?」
 ロイは受話器に唇を寄せ、掠れた声でやっとその名を呼んだ。
「…ジム……!」
 それからすぐに、ジムがドアを叩くのが分かったが、ロイは動けなかった。立ち上がって鍵を開けなければジムは入れない。
 分かっていても、どうしようもなかった。
 ドアが霞んでいる。涙があとからあとから湧いてくるのだ。
 なぜ、泣いているのかなど、とうに分からない。
 ジムに会いたい、と思うだけで動くこともできず、ロイはただ泣き続けていた。

「開けてください! 大尉!」
 深夜のアパートに、焦ったようなジムの怒鳴り声が響いた。

 何度も激しくドアが揺れた。
 ドアを蹴破ったジムは、血相を変えて室内に走り込んだ。
 ベッドのそばでくず折れたように横たわっているロイを見ると、駆け寄って抱き起こした。
 目を見開いたまま、ロイは泣いていた。ジムは彼が狂ってしまったのかと、一瞬思った。
「……なにがあった? 大尉、大丈夫か?」
「たすけて…くれ、ジム……」
 ジムはロイの身体を抱え上げ、そっとベッドに寝かせた。
「苦しい……」
 真っ青な顔で、目を閉じて唸るように言って、ロイはジムの袖をきつく掴んだ。
「……水を飲みますか? 大尉」
 ジムが立ち上がろうとすると、ロイはもう片方の手で、縋るようにジムにしがみついてきた。
「大丈夫、どこへもいかないから」
 ジムはベッドに腰をかけ、ロイを包み込むように抱きしめた。触るなと言われなかったことにほっとした。その身体がいつの間にかまた痩せ、小さく感じられてジムは思わず唇を噛んだ。
「大丈夫、大丈夫だ……」
 ジムはそのまま下ろしていた足をベッドに上げ、抱きしめた身体に毛布をかけると、自分の背中とヘッドボードの間にクッションを入れて場所を安定させた。
「おまえ……、骨に…なった……」
「なに?」
 また、自分が死んだ夢を見たのだろうか? と、ジムは思った。
「俺は骨なんかにはなってませんよ」
 ジムが穏やかな声で言った。
 ロイは掴んでいた手を探るように緩めたり、強めたりして確かめているようだった。
「生きてるでしょう? 二人とも救出されたんだ。俺はどこへもいかない。いつもあなたといますよ。呼んでくれさえすれば、いつでもいる」
「いつでも……?」
「ああ、いつでも。手を……」
 ジムは腕を掴んでいた手をそっとはずし、包むようにその手を握った。
「手を握っているから。安心して眠ってください」
「でも……、俺はもう降参した…んだ」
「降参?」
「もう、奴隷に……。俺は…だめな……」
 ジムは意味が分からず、ただ手を強く握った。
 ロイはそのまま黙り込み、やっと規則正しい呼吸を始めた。

 カンカン音がするのに目が覚めたのか、ロイがベッドルームから顔を覗かせた。
 ジムが、ドアを立てかけて、柱に釘を打っている。
「なにをしているんだ?」
「夕べは壊しちまったから。修理しないと、仕事に行けない」
「壊した?」
「鍵がかかってたんで。蹴破ったんですよ。申し訳ない」
 ジムが笑いながら、自分で壊したドアを修理するのを、ロイは黙って見ていたが、ため息をついてキッチンに入っていった。
「というわけで、実は夕べここは、立てかけてただけで、閉まってもいなかったんだ。物騒なことこの上なかったかな」
 苦笑いが混じったようなジムのことばに、ロイは冷蔵庫を開けかけた手を止めた。
「……そんなふうに入らないといけないほど、俺はおかしかったのか?」
「いや、状況が分からないから焦っただけです。俺は気が短い」
 ジムはそう言って笑って見せた。
「要するに、寝ぼけて電話をかけたんでしょう。悪夢に魘されてましたからね。それで俺のノックにも気づかなかっただけだ」
「……何か言ってなかったか?」
 ロイはジムのために朝食を作りながら、キッチンで背を向けたまま聞いた。
「俺が骨になった…とか……。あまりしょっちゅう、殺さないで下さい」
 ジムは努めて明るく言った。ロイは背を向けたまま、料理を続けていた。
「頼ってばかりですまない、ジム」
 ジムはドアを修理する手を止め、キッチンに目をやった。
 その後姿が何もかもすっかり諦めたように見えたことが、気になった。

 朝の訓練が終わると、カーターはポールを呼び出し、自分と当直を代わってもらうよう頼んだ。
「相棒はフォード大尉だろう? ちょっと二人で話がしたいんだ」
 カーターが言うと、ポールは微笑んで頷いた。
「辞めたいとか言ってるんじゃないでしょうね? ……かなりしんどいんじゃないかな」
 ポールの言葉に、カーターは眉を上げた。
「みんな、そう言ってるのか?」
「若いやつらはそうでもないでしょうけどね。元気そうに振る舞ってるし。……でも少なくとも俺くらい親爺になればね。見なくていいとこまで見えるもんだ」と、カーターよりひとつかふたつ上なだけのポールが笑った。
「ここしばらく、調子が悪そうでしょ? 退院してすぐの時よりもずっと悪そうだ。明らかに痩せてきたように見える。いくら気力で普通にして見せてても、氷みたいに凛としてた以前の大尉を考えたら、今は別人だ。……淋しいですよ、少佐」
 カーターは頷き、なるべく助けてやってくれというと、部屋を出した。

 昼間、ロイの様子は普段と変わっては見えなかった。
だが、痩せてきたと言われれば、確かにそれは間違いないような気がした。
 情報屋の異名をとるとはいえ、カーターは今のポールのことばに、少なからずショックを受けていた。そこまで大袈裟にロイを心配していたわけではなかったからだ。
 自尊心の高い男が、ミスしたことがショックで辞めたいとごねている程度……。
 まあ、原因を考えればそれだけではないことは間違いないが、カーターにはむしろポールの考えていることの方が、意外に思えた。
 ある意味、カーターというのはそういう部分を持った男でもあった。


 夜間の簡単な見回りが終わると、当直の者の行うべき仕事はそう多くはない。
 カーターとロイは、宿直室に遅い夕食を持ち込み、くつろいだ気分で食べた。
 一日不規則な予定に追われ、夕食というより夜食になった食事を、カーターは待ちかねたように食べたが、ロイはまるでさっき食べた人間が、お義理で付き合っているかのような量しか口に運んでいないかに見えた。
「腹は減ってないのか? 君がどこかでつまみ食いをした時間などなかったはずだが」
 カーターが問うと、ロイは笑っただけだった。
「食欲がない?」
「いえ……。そんなことはありません」
 ロイは、食べている――ふりをしている、とカーターには見えた。いくらもフォークに掬われていない。
 自分でさえ、これほど空腹だというのに、同じ訓練をしていつもこんな程度なのか? と聞こうと思ったが、それは大きなお世話な気がした。ポールとの会話のせいで、どうも過敏になりすぎている気がする。誰だって、いつもいつもがっついて食べたいばかりではないときだってあるはずだ。
 たかが食事ひとつに、とカーターは腹の中で嗤った。どうもロイ・フォードに対して、自分は緊張気味になるようだ。
 それは、あんなことがあったからというわけではなく、もともと最初にこの男が赴任してきたときからのことであることを思い出した。
 どこか、自分とは違う、かなり若造であるにかかわらず、近寄りがたいとすら思うときがある。それでいて、どうにもほっておけない気分にさせられる。
 ――なにを言ってるんだかな。
 そんな自分の内心の葛藤がおかしくて、 カーターはことばを飲み込み、黙って食べた。

 食事が終わって、やっとゆったりした時間が来た。
 一人用ソファにだらしなく座って、カーターは珈琲を淹れてくれたロイを相手に、いろいろな話をした。
 なぜ海軍の職を選んだかや、本当は作家に憧れていたこと、好きな女にこっぴどく振られたことなどを、カーターは愉快そうに話した。
「どうして、作家にならなかったのですか?」
 向かい側の二人掛けのソファに、いくらか身体を伸ばし気味に座って、ロイが聞いた。
「想像力がないんだな。どっかで聞いたような話しか書けなかった。机に座ってるより、実際に身体を動かすほうが好きだと気がついたんだ。老後にSEALSの秘密、とかいうタイトルで一冊くらい書けるかな」
 ロイは頷いていたが、それほど興味を持ってした質問ではないのが窺えて、カーターは苦笑した。
「君は何に憧れてた? 子供の頃」
「……父に。自分も大人になったら海軍に入ると、それしか考えませんでした」
「純粋培養ってわけか。どうりでな。でも、お父上は船乗りだろう? なんで特殊部隊に入ることにしたんだ?」
 本当の父親が、SEALSだったから、とはロイは答えなかった。また、それだからという理由だけで選んだわけではないし、それほど実の父親という男の実感があったわけではない。
 冷戦を迎え、テロがはびこる今、特殊任務の大きさを実感したからだ、などという体裁のいい言葉など、カーターは期待していないに違いない。
 実際には自分でも良く分かってはいなかった。
 やりがいのみをご褒美にして、国家のために砕けて散ってしまうような生き方もいいんじゃないかと、悪く言えば、捨て鉢な気分が湧いていたことも否めない。
 あるいは、SEALSなどという職業を、嫌悪していた母への子供っぽい当てつけだったのかもしれない。
 ただ、士官学校にすら貼ってあった『SEALS入隊手続き』という文字を見たとき、ひどくその単語に惹かれたのは事実だ。
「父は航海士だったんですが、実際には父がどんな仕事していたのか、子供の頃にはわかっていませんでした。大人になって、当然のように海軍に入ったものの、船に乗船したいとは、あまり思わなかっただけかもしれません」
「ま、理由なんてな。俺も実際にはよく分からんよ。なにかに役立つ実感が得られる、その程度にしか考えてなかったかもしれん。あるいは、高いハードルを示されて、チャレンジしてみようかと思った程度かな」
 カーターの、軽いその言葉にロイは、頷いた。
「でもそれが自分に向いているのかどうか、そんなことまでには思いが至らなかった」
 ロイのことばに、カーターは飲みかけた珈琲から唇を離し、微笑んだ。
「それは誰にも分からない。私だって、いまだにこれで良かったかどうか迷うときがあるよ」
「まさか」
「本当さ。任務に出かけるときは心底びびってるんだ。俺はこの仕事を恐れている。選んだことを後悔すらするときもあるくらいだ。でも、このバッジをつけてるのは、やっぱり誇りでもある」
 カーターは、ロイと自分の胸につけているバッジを見やった。猛禽類の鳥が三つ叉槍を掴んで羽根を広げている、大きな金のバッジだ。
 軍のバッジはどれも魅力的でかっこいいデザインで作られているが、これに適うものはないと、カーターは自負している。それは、どの隊員だって同じなはずだ。
 ましてや、普通の努力で手に入るものではない。
 一度掴んだら、二度と外したいとは思わないはずだ。
 ロイはカーターの顔を見ていたが、軽く目を伏せた。無意識のように、胸元に止めつけたバッジを指でなぞっている。
「……少し、考えたか? そのバッジを外したいと、まだ本気で考えているのか?」
 ロイは、黙り込んだ。眉間にしわを寄せ、目が閉じられた。
「なにごとにも……辞めどきというのはあると思います。俺は厳しい訓練に耐えて学校を出た。全員で、必死に庇い合っても、結局は半分以上が脱落した中で、残ったんです。――でも、今もう一度あの学校へ行けと言われたら、おそらく卒業はできません」
「もう一度行けなんていうやつはいないさ。安心しろ」
 ロイはきっぱりとした目を上げた。
「少佐、辞表を……受け取ってください」
「大尉……」
 立ち上がろうとして、カーターの手がすべり、持っていたソーサーからカップが床に落ちた。
 薄い陶器は、ぱりんと音を立ててあっけなく割れた。
 残っていた珈琲がその破片にまとわりつくように零れていた。それが、非常用脱出口の赤いランプのせいで、一瞬血に染まったカップに見えた。
 血に染まったカップだと? と、カーターは自分の幻覚を心の中で罵った。
 ロイは席を立ち、掃除用具を持ってきて破片を片付け始めた。
 カーターもしゃがみ、「すまん」と言いながら零れた珈琲の染みついた床を拭き始めた。
 ちりとりに集めた陶器の破片を持って、ロイが立ち上がるとき、よろめいたように見えた。集めた破片がまた床に散らばり、ロイは前のめりになって、その中に手をついた。
「……大尉!」
 ロイがついた手の下から、血が流れ出してきた。
「切ったか?」
 カーターが心配そうに手をとると、人差し指の下から手の平に向かってざっくりと切れていた。
「医務室に行かないと……そうか、医務官はもういないな」
 カーターがポケットから出したハンカチで傷を押さえ、ロッカーから医療キットを出している間、ロイは黙って床にもう片方の手をついたまま蹲っていた。
「どうした? 痛むのか? ほら、立って……」
 動こうとしない姿に、カーターは眉をひそめた。
「大尉? フォード、どうした?」
 カーターは、ロイの顔を見て不審な顔をした。「大丈夫か?」
「血……が…」
 呟くように言う頬に手をやると、瞬間、身を強張らせた気がした。
 まるで、カーターを恐れてでもいるかのように。 
 普段鋭いほどのロイの瞳が、追い詰められた草食獣のように見開かれるのを、カーターは不思議な気分で眺めていた。
 カーターは「大尉?」と、もう一度呼びかけた。
「少佐……」
「脅かすな。どうかしたかと思ったぞ」
「申し訳ありません。気分が……」
 ロイはそう言うと、そのままソファに身を倒し、目を閉じた。
「なんだか危ういな。貧血みたいだった。気を張るのは大事なことだが、張りすぎた糸は切れやすいものだ。君の……」
 カーターは、ソファのロイに語りかけたが、聞いているのかいないのか、ロイはじっと目を閉じたまま、ソファに蹲っていた。
 カーターはため息をつき、ベッドから毛布を持ってくると、それをかけた。
 やはり、そうとう身体が参っているらしいな、と思い、傷つけた手のひらの消毒して手当てをすませると、シャワーを浴びに行った。


 戻ってくると、ロイは真っ青な顔をして、ソファに座っていた。
「具合が悪そうだ。どんな気分だ?」
「な、なんでも……」
「なんでも……って顔じゃないぞ。酷く汗をかいてる…」
 カーターは隣に座って、熱を測るために、額に額をくっつけようとした。ロイは、びくっと身体を震わせ、カーターから逃れようとした。
「大尉?」
 カーターは、ロイの顔の肩に手をかけ、もう一度顔を近づけた。
 ロイが、恐怖にかたまったような視線を向けている。
「なにを怯えている? 襲うつもりはないぞ」
 冗談めかして言ったが、冗談ではすまない雰囲気に、カーターはじっと様子を窺った。
 ロイの唇が震え、目を閉じて微かに首を振るのをみると、カーターはそのままソファの上に、ロイを力任せに押し倒した。
 悲鳴が迸り、カーターはうろたえた。
 今のがこの男の声だとは、とうてい信じられなかった。ロイは喘ぎ、逃れるように身体を捻って激しく暴れだした。
 カーターが試しに圧し掛かったまま、また顔を近づけると、ロイは「許して……やめてくれ…」と呟いた。
「大尉! ロイ! こっちを見ろ!」
「……離せ…! 離して…、離して」
 まるで、そこにいるのがカーターではないかのように怯えて縮こまる部下の様子に、カーターはやっとことの重大さを認識した。
「もういや、いやだ。何でもするから、許してくれ……」
 カーターは頬を二、三度軽く叩き、何度も名前を呼びかけると、ロイがやっとカーターに目線を向けた。
「俺だ!カーターだ!」
「う……」
 ロイが呻いて口を押さえた。背中が激しくうねっている。
「吐きそうか?」
 カーターの問いにロイは頷き、その身体を抱えるようにしてトイレに連れて行くと、すがるようにしてその中に顔を突っ込んだ。
 肩を上下させ、便器にしがみついたままの背中を見て、カーターは始めて、この大切な部下が悪夢などという問題ではない危機にさらされている、と蒼白になった。
 背中を擦ってやると、ロイが呻いた。
「さわ……らない…で」
 カーターが手を止め、「触ると気持ち悪いか?」と問うと、「触れ……るな、俺に触れるな」とロイがもう一度繰り返した。
「分かってるか? ロイ、俺だ、カーター少佐だ」
 ロイは頷き、便器にすがりついたまま、うめき声を上げた。
 カーターは呆然とその背中を見つめた。
 どう対処していいのか、分からなかった。
 そっと立ち上がって、手帳を開くと、部屋の隅にある受話器をとった。リュウタロウ・ナカニシとメモしてある番号を押し、用件を伝えた。
 洗面所を覗くと、ロイの身体が、そのままくずおれていた。
 カーターは、その身体を抱き上げると、すぐ隣にあるシャワールームに入った。
 制服の胸元が汚物で汚れていたので、そのままコックを捻ると、熱いお湯が二人の上から降り注いできた。
 びしょ濡れになりながら、カーターはロイの制服を脱がしにかかった。ロッカーに下着も、替えの制服も常備してある。
 衣類を奪われたロイの身体を見て、カーターは息を飲み込んだ。
 これが、自分たちと同じメニューで訓練をこなしていた男の身体か? と、思わず浮いた肋骨の辺りに手をやった。
 ――そうではない。
 そんなことよりも、カーターはもっと目を奪うものに釘付けになっていた。カーターは、お湯を弾く身体を、上から下まで舐めるように見た。
 すでにだいぶ目立たなくなっているとはいえ、ロイ・フォードの全身に、裂かれたような傷跡がまだはっきりと刻まれていた。
 鞭でさんざん打たれたことは、医者からもジムからも報告を受けていた。
 カーターは胸元の白い皮膚を、更に白く際だつように走る長い線に指をやった。それぞれに、被さるように縦横無尽に傷は重なり合っていた。
 身体の柔らかな部分にも、それは容赦なく飛んできたことが、薄くなった腹部や、両の太腿の内側まで残る傷から察せられた。
 カーターが一番ショックを受けたのは、もっとも敏感な場所、大切なその部分にまで、惨い鞭の攻撃が加えられたということに気づいたときだった。
 お湯の飛沫を浴びながら、カーターはタイルの壁に頭をつけた。
 涙が零れ、思わず嗚咽が漏れてくるほど、カーターは動揺していた。
 バスタオルに包んだロイの身体を宿直室のベッドに運ぶと、カーターはロッカーから持ってきた下着をロイに着せた。
 ロイは目を閉じたまま、意識があるのかないのか、されるままになっている。
 カーターはグラスに水を汲んできて、頭を起こし、それをロイに無理に飲ませた。
 こくん、と喉元が動くと、ロイはうっすらと目を開けた。
「……少佐…」
「すまなかった。ちょっと試したんだ。状態が分からなくて。……これほどだと、なぜ言わなかった?」
「なぜ、言う必要が……?」
 ロイは苦しそうに喘いだ。「無様な姿を、なぜ……」
「ロイ、君はまだしっかり回復していなかったんだ。無理がたたってるんだよ」
「……心が…俺は…きっと心が弱いん…です。…だからこんな……」
「ロイ」
 カーターは、そっと頭を撫でた。「君の心の弱さなんかじゃない。あんな目に遭えば、誰だって同じようになって当然だ。……ジムですら、半分錯乱してた時があったんだぞ」
 ロイはぼんやりと瞬きをして、カーターを見つめた。
「……ジム…が?」
「ジムも傷ついてる。当然だ。君が目を覚まさなかった二週間ほどは特に酷かったな。泣いているかと思えばむっつりと黙り込んだり、夜中には大声で病院中を歩き回って、君を探していたこともあったらしい。今でも、何度も何度も同じ夢を見ると言っていた」
 カーターは、ロイの肩まで毛布を引き上げてやった。
「これが毎日あるのか?」と聞くと、僅かに首を振り、「毎日じゃ…」と答えた。
 それでもこんなことを繰り返しながら、今まで平静を装って過ごしていたのかと思うと、カーターの胸は痛んだ。
 ――いったい何を見ていたのだろう。
 救出したとき、彼が助かっても、立ち直れないかもしれないと考えたというのに。たまに顔色の悪いことも気がついてはいたのに、訓練が堪えているのだろうくらいにしか思っていなかった。
 気丈に振舞う姿に、目を眩まされていた。ポールでさえ、辞めるのではないかと思うほど、やつれていっていることを認識していなかった。
 辞めると言われても、僅かのミスに大袈裟な、くらいにしか思っていなかったのだ。
 険しい顔で目を閉じている部下の頭をそっと撫でると、カーターはため息をついた。
 柔らかな、金色の髪が指に絡みついて、そんなことすらもカーターの胸を抉った。

 基地のSEALS専用入り口で待っていると、まもなく医師がやってきた。
 夜中の、突然の呼び出しを詫びながら、龍太郎を迎え入れると、カーターはロイの状態を説明し、宿直室のベッドルームに連れて行きながら話をした。
「しばらくは目を瞠るほど順調に見えたんです。調子を崩したのは、ほんのここ数週間くらいのはずです。何がきっかけでここまで……」
 龍太郎は、ロイの様子を確認した後、宿直室のソファを勧められて座った。カーターがさっきの椅子に座り込んで、龍太郎をじっと見ていた。
「心の傷というのは、無意識に押さえ込んで、まったく表面に出なかったり、何十年も後になって突然現れたり、人それぞれ、受けた傷の深さにもよって一概には言えません。おそらく何らかのきっかけはあったと思うが、いずれ現れた可能性もあるんです。いや、むしろ、負傷して数ヶ月程度の間にまったく何も感じないほど、精神が回復していたというのが、有り得ない話だったのかもしれませんね」
「もっと、療養期間がいると?」
「そうですね、ガールフレンドとか、奥さんとか、あるいは実家の家族とでも過ごせればいいんでしょうが、彼は一人住まいなんでしょう?」
 龍太郎が出された飲み物を手にして言った。
「お母さんは、今入院中だそうですよ」
 カーターの言葉に、龍太郎は顔を上げた。
「良くわからないが、ひどい鬱状態とか、なんとか……。身体もあまり良くないらしい。気の毒に、ロイはそのお母さんの生活の面倒も抱えてるわけです。もっとも、伯父という人が一緒に住んでいるらしいし、薄給ですから限度はあるでしょうが。恋人の存在も聞いたことがないし」
 カーターはため息をついた。
「見てられないんです。ドク。あれほど重症のトラウマを抱え込んでいるとは……。さっきの様子だと、現実と夢の区別がついていないんじゃないかと思えるほどでした。私は彼を救いたい。なんとかなりませんか?」
「もう一度、入院すべきです」
 ドクターは厳しい顔で言った。
 カーターは、自分がそう宣告されたような、苦痛に満ちた顔を上げた。
「自分で病院へ行くことをしないなら、強制的にするしかない」
 龍太郎の言葉は、断固としていた。
「入院……。それは精神科ということですね?」
「このままでは、潰れてしまうでしょう。手遅れにならないうちに、治療しないと。しっかりした性格なだけに、分かってて、どうすることもできずにあがいているのかもしれない。――先日聞いた話ですが、私の友人が、小さい診療所を持っています」
 カーターは小首を傾げた。急な話の転換の意味を計りかねたのだ。
「そこへ来るんだそうです。大きな病院へ行けと勧めても、ただ栄養剤を点滴してくれればいいという男が。軍人なのになぜ海軍病院で治療を受けないんだと、不思議がっていた」
「……ロイ? ロイが点滴までしていたと……?」
 カーターは、目を見開いた。
「身体がきついんですよ。まだちゃんと判断力がある。精神科といったって、トラウマからくる悪夢への治療です。それさえ解決すればいい。あるいは、休暇を与えて、じゅうぶんに休養を取らせるか……」
「ドク、なぜロイはわかっていて、あなたのところへ行かなかったんです? あいつが軍の要請を無視するとは考えられない」
 カーターはドクを見つめた。
 ドクは困ったように顔を伏せた。
「なにか、あったんですね? 病院で?」




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