[現実虚構の間] of [硝子の破片]


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第十二章 現実と虚構の間

 水中訓練も通常のトレーニングのメニューのひとつだ。
 海軍特殊部隊の特性として、彼らが得意とする海中での行動がもっとも重きを置かれているからだ。
 彼らは別名潜水夫――フロッグマン――、半魚人などとも呼ばれている。
 船底にトラップ爆弾を仕掛けたり、密かに船上に上ったり、何十キロも潜って移動したり、最新の機器を使ったり素潜りだったり、内容はさまざまだ。
 その中でも特に隊員たちが嫌がるのが、身体中をぐるぐる巻きにされて海に放り投げられる訓練だ。
 いかなる状況でも平常心を持って対処できるように、という趣旨だが、なかなかロープが解けないし、解けなくてもとりあえず息を継ぎに浮上しなくては命にかかわる。
 ロープを解くことよりも、その状態で浮上してくることが最優先事項なのだ。
 当然、まわりに隊員同士でいざというときに助けてくれる人間が配置してあるが、危険な訓練であることに変わりはない。
 ビリーがロイの手にロープをかけ始める。
 その後、身体にも足にも巻かれるのだ。
 四艘浮かんだボートのうち、一艘ではジャックが同じことをされている。次々と海に投げられた男たちが数人、海上に顔を出し、そのまま浮かんでいた。
 ロイは身体に縄をかけられながら、生唾を飲み込んだ。
 ボートの揺れに酔ったかのように胸がむかむかする。手足を拘束される感覚に、背筋に冷や汗が流れている気がする。
「いかしてるぜ、その姿」とビリーが後ろからからかった。
「このまま襲いたくなってくるな」
 その声が、ビリーの声ではないことに、ロイは気がついた。
 そっと振り返ると、夢でしか遭うはずのない男が下卑た笑いを浮かべているのが見えた。
 ロイの目が見開かれ、唇が震えた。
「準備はいいか?」
 掛け声と共に、ビリーともう一人の隊員の手によって身体が抱え上げられると、空中に飛ばされた。
 潮の濃い水が、一気に口に入り込んで、ロイは動転した。何が起こったのか理解できず、縛られた身体が動かない。それでも必死に息を止め、拘束された足を蹴って浮上しようとすると、何者かの手に捕まれたことを感じて足元に視線を送った。
 まるで腐乱死体のような、己の姿がその足を掴んで海底に引きずり込もうとしているのを見て、ロイは口をあけ、叫ぼうとした。
 水が一気に入り込んだ。

 「……おい、大尉が上がってこないぞ」
 海中で見守っていた隊員が叫び、すぐさま潜った。
 ビリーが海に飛び込む。離れた場所で自分の担当隊員たちを見ていたジムは、騒然となったボートに気がついて、目を向けた。
「どうした?」
 声をかけると、海上に浮かんでいた一人が「大尉があがってこない」と叫んだ。
 ジムは自分の受け持ちの仲間に、後を頼み、海に飛び込んだ。
 ロイはすぐに引き上げられ、ボートに乗せられた。大量に水を吐いたが、息はしていた。
 カーター少佐が泳いできて、ジムと共にボートに乗り込んだ。
「ビリー、この班を他のボートに振り分けろ。この船は桟橋に戻る」
「大丈夫です」
 ロイが顔を上げたが、カーターは許さなかった。
「俺が行きますよ」
 ジムが言うと、カーターが振り返った。「少佐は残っていなきゃ」
「……ああ、そうだな。頼む」
 カーターは、再び海に入り、ジムに手を振った。
「あとで様子を知らせてくれ」
「了解」

「大丈夫だ、ジム」
 ボートのエンジンをかけたジムに、ロイが蹲ったまま言った。「久しぶりで、水が口に入った。それでちょっとパニックを起こしただけだ」
「ああ、まだ無理なことだってあるさ。あなたは無理をしすぎだ、大尉」
「帰らなくていい。戻してくれ、曹長」
 起き上がったロイは、蒼白だった。
「休んだほうがいい。なにもかもいっぺんに元通りというわけにはいかないことだってあるんだから」
「だめだ、戻せ、誰にも迷惑をかけたくな……」
 弾けた音がして、ロイは呆然とした。
 頬を軽く張られたのだと気がつき、思わずジムの顔を見た。
「少佐の命令ですよ、大尉。なんだってそんなに我を張るんです? 誰だって体調が悪かったり、長く休んだあとは思うようにならないものだ。俺だって、骨折のあとはさすがに無理せず、じっくり時間をかけたんだから。恥ずかしいことでもないし、誰も迷惑などと思っちゃいません」
 ロイは項垂れ、ボートのヘリを掴んだまま、半分浮かしかけていた腰を下ろした。
「普段のあなたなら、素直に休むはずですよ」
 ジムは声を和らげた。「今、少し平常心が失われていると自覚した方がいい」
 黙ってボートのヘリから海面を見ていたロイは、恥ずかしそうに頷いた。
「すまない……おまえの……言うとおりだ」
 ジムは眉間にしわを寄せて、そんなロイの顔を見ていた。

 水をかけられ、ロイは目を覚ました。
 下腹部を押さえつけるように、靴を履いた足が力を込めて乗せられている。
「強情な男だな。そろそろ観念したらどうだ? お前はもう、俺たちの奴隷なんだ。自分で口をあけ、自分で尻を開いてやってくださいと頼むんだ」
 気を失うたびに、また夢を見ていた、とロイは目の前が真っ暗になった。
 懐かしい故郷の夢……。
 ヴァージニアがずいぶんと遠い場所にあることが分かる。ロイの部屋や、チームの仲間たちと飲みに行った店――。
 そこへもう二度とは戻れないことが、哀しかった。
 なぜ志願までして特殊部隊になど入ったのだろう。父親のように、船乗りとしての道もあったのに。母が泣いて、反対したというのに。
 一緒に捕らえられたジムは、どうしたのだろうと首を巡らすと、部屋の隅に転がっているのが分かる。
 ああ、死んだんだったな、と思い出した。すでに人の色をしておらず、それがだんだん腐敗していっているのが感じられた。
「跪け」
 男はロイに命令をした。だが、ロイは寝転がったまま動かなかった。
 激しい鞭が飛んできて、ロイの全身を打ち据えた。
 しなる鞭が身体に当たるたび、ロイははじけるように仰け反った。もうやめてくれと叫びたかったが、ロイは堪えた。
 こんな男たちに降伏などしない。死んだってそれだけはしない。
 下腹部に集中して鞭が飛び始めると、意識が火花を散らすようなショックを受けた。
 ぐったりと目を開けることもできなくなると、男たちの手が剥き出しの腰や、隠された場所を開くように身体に触れだすのが分かった。
 ロイは、今すぐにでも降参してしまいたい気分になった。
 けれども耐えた。
 耐えているうちに、また身体の奥底で反応し始めている自分に気がついた。男たちはただ、嬲るだけではなく、ロイが達くことを要求し続ける。
 別の場所に激しい痛みが加えられ続けているのに、無理やりに下腹部に手を這わされ、壊れそうになるほどの刺激を与えられた。
 信じられない感覚に身悶える。
 なぜ? と自分の身体に問うが、無常にもはあはあと、息をつきだす自分が分かる。
 ジムだけでなく自分の身体までが腐敗したような匂いを漂わせてくるのが分かった。
 ノーフォークへ帰りたい。あの頃に戻りたい……。
 自由な生活を取り戻したい…。俺はおもちゃじゃない、人間なんだ。
 誰か助けてくれ、とロイは心の中で叫び続けた――。

「大尉、最近疲れがたまってませんか?」
 帰宅しようと、基地の駐車場でばったり会ったジムが、顔を見るなり言った。
 ばったり会ったわけではなく、ロイを待っていたのではないかと思うと、たまらなかった。
 この間、取り乱した姿を見られてから、ジムの心配は露骨になり、それがひどく重荷になりつつあった。いや、ジムが嫌なのではないのだ。その存在に、絶対の安心感を得始めた自分が嫌なのだ。
「大尉……?」
「いや……。大丈夫だ。あまり心配しないでくれないか? ジム。みんなが変に思う」
 ロイは目を合わせずに車に乗った。隊員たちが固まって駐車場に入ってきたのが見えた。
「お前には感謝している。いろいろ迷惑をかけてるのは分かってるし、気を使ってくれて、有難いと思っている。でも、本当に大丈夫だから」
 なにか言いたげなジムを置いて、さっさ車をスタートさせた。

 最近、ひんぱんにあの時の夢を見るようになっていた。
 しかも、細部にわたって再現されているかのような行為に、身体の感覚までがそれを思い出しているようで、激しい自己嫌悪と共に目覚めた時は、やりきれなかった。
 異国の見知らぬ土地で、片言の英語で話す男たちの姿を、いつもロイは見上げる格好で転がされていた
  起き上がることもできないように、足や幾人もの手で押さえ込まれている。通常、人はそういう目線で人を見ることはない。
 それがどんなに惨めで恐怖を覚える構図かは、経験したものでなくては分からないはずだ。しかも常に身体には布切れ一枚もなく、すべてを剥きだしにされ、動物よりも浅ましい姿を強いられている。
 そして、それは夢の光景だけではなく、ロイが現実に味わった屈辱でもある。
 自分の意思で何も行えず、ただただおもちゃ同然に扱われ、こちらに感情や痛みなどないかのように思っている連中に囲まれ、見下ろされているのは、恐怖であり、地獄そのものだった。
 しかも、夢の中で、ジムの身体が徐々に腐ってくる時間経過を伴ったリアルさが、目が醒めてもなお、その世界で、故郷の夢を見ているかのようだった。
 自分の髪が伸びており、伸ばしたこともないのに顔に被さってくる感覚に、捕らえられてから長い時間がたったことをロイに教えていた。
 あちらの世界とこちらの世界を行ったりきたりして、どちらが現実なのかすら、分からないときすらある。
 その夢を怖がって、なかなか寝付けず、眠っても飛び起きて、睡眠が不足し始めているのが分かった。

 シャワーを浴びてベッドに入ると、ロイは膝を抱えて項垂れた。
 睡眠不足でこなせるほど、訓練は簡単なものではない。
 入院していたあの時期、病院の一室で、傷ついた身体が治癒して行く間、ロイは天井を眺め続けていた。
 眠れない夜を、薄暗い非常灯の明かりの下で、ロイは黙って天井を見詰めていた。それしかすることがなかった。当時は目を閉じただけで、頻繁に悪夢が襲って来た。それは形のない、嫌悪感の塊をイメージ化しただけのものだったが、恐怖に代わりはなかった。
 入院中に病室でがっしりと手を握っていてくれた、暖かい大きな温もりが、ロイを救ったことは分かっていた。
 その温もりがある間、ロイは穏やかな睡魔に引き込まれた。やがてそれがジム・ホーナーの手だったと分かり、ジムがずっと自分を見守っていたことを知った。
 ロイは時々夢魔に追われながら、ジムの手を探し求める時もあった。
 その手がないと眠れない、そんな気分になる自分をあざ笑って、泣いて朝を迎えたこともあった。
 本当は、ジムに縋ってしまいたかった。
 あれほど心配してくれているのだ。相談して、恥ずかしくてもそばにいて、手を握ってくれと頼みたかった。
 ジムが心配そうな顔を見せるたび、今夜一緒に食事をしないか? 夜少し、一緒に話をしないか? できればこの部屋に泊まってくれないか? ――そう言いそうになる自分を抑えるのがやっとの時もある。
 だが、同時にジムは唯一の悲惨な目撃者だ。それもまた、ロイには耐えられない。それに苦しんでいる姿を慰められるのが惨めだった。
 夢の中でジムが死んでいるのは、ジムを頼ってはいけないと、自分を戒めているからなのだろうかと、ロイは考えていた。
 人に頼ることなく、自分で起き上がれと。
 いつまでもジムに縋るわけにはいかない……。
 そうやってこれまで生きてきたのだ。ロイは、父が亡くなって以来、誰かに頼ったりしたことはない。悩みも苦しみも、ひとりで乗り越えてきた。それが自分だと思ってもいる。いつまでも哀れな被害者であるかのように、それに悩まされているなどというのは、許せなかった。
 ちゃんと自分で立ち上がって、生きていかなければならないのは、誰よりも分かっていた。
 分かっていて、それがひどく困難なことになりつつあるのを、漠然と感じ始めてもいた――。


 基地の中にある医務室のカウンセリング専用の部屋に、週の半分はリュウタロウ・ナカニシが来ており、残り半分は個人クリニックにいるという。
 どちらでもかまわないから、週一回はカウンセリングを受けるよう言われていたものの、ロイはもう医者を頼る気にはならなかったため、医師が勝手に組んでいる予約をキャンセルし続けていた。
 ある日、龍太郎はロイを勤務中に呼び出し、そのことを叱責した。
「カウンセリングは軍が指定しているものです。特に任務で負傷などを負った場合は、私か交代のメジャーズ医師かが本人の意思に関係なく、対処するよう言われています。事情を知らないメジャーズよりも、私のほうがいいと思ってお呼びしました」
「申し訳ありません」
 ロイは素直に謝った。
 龍太郎は最近の食欲や睡眠の具合を聞いた。
 最近よく眠れないことを、ロイは仕方なく打ち明けた。
 どんな夢なのかを聞かれたが、話す気にはならなかった。
「催眠療法というのがあるんですが」
 龍太郎のことばに、ロイは露骨に嫌な顔をした。
「薬で眠るのもつらいなら、それを試してみるのもいいかと思うんですが……」
「いえ……」
 ロイは断った。
 催眠などかけられて、自分が知らないうちに、心を覗かれたり弄られたりすることなど、耐えられない。
 龍太郎は厳しい顔をしていた。
「大尉、ご自分の身体チェックをしていますか? ぱっと見ても久しぶりにお会いしたあなたは、健康な人間には見えませんよ」
「訓練はこなせています。大丈夫です」
 カウンセリングを受けないのならば、海軍病院へ出かけて行って、もう一度検査を受けたほうがいいと勧めた。
 処方してくれた睡眠導入剤を受け取り、ロイは義務を果たしたような気持ちで訓練に戻った。
 去っていく制服の後ろ姿を見つめながら、龍太郎は眉をひそめた。
 フォードは、完全に医者を見限っている。おそらく龍太郎だけではなく、病院と名のつく場所へは行かないつもりだろう。特にトラウマを詮索しようとする場所には。
 本人が苦しんでいないのならば、カウンセリングの必要はない。
 それが今後必要かどうかの判断を、退院後見ていくつもりだったのに、ロイはそれを受けようとすらしない。
 それが、かえって「必要」と判断する材料に思えた。
 ロイ・フォードという男は、短い間ではあったが、龍太郎の見たところ、極めて優等生な真面目な青年に思えた。ルールを破るようなことはしないし、愛想はなくても人に不快な思いをさせることも避けるタイプに思える。
 それなのに、カウンセリングをキャンセルし続けた。それこそ、軍の規定であるにもかかわらず。
 それは、彼という男に似合っていない行動に思える。
 そして、今ひとつ健全とは言いがたい顔色――。
「……失敗したな」
 龍太郎は思わず呟いた。
 仕方のないことだったとはいえ、ハルトマンに任せてしまったことが悔やまれる。ロイに今一番必要なのは、すべてをぶちまけて心を浄化することなのに。
 龍太郎は、信用されていない。
 もちろん、ハルトマンに対しても同じなのだろう。残り週の半分を担当している、もうひとりの医師だって同じなはずだ。
「無力だな」
 そういう患者をこそ、救いたいと思って外科を辞めた龍太郎は、一番気がかりな人間の信頼を得られなかったことが無念でならなかった。
 龍太郎は、カルテをしまってため息をついた。


 食事を作るのは大儀だったが、ロイはキッチンに立った。
 ちゃんと作って食べなければならないと、野菜を切り、具材を鍋に入れた。シチューを作りだめしておくための、大量のソースがぐつぐつと煮えている。
 ロイは、キッチンでよろめいた。
 作りかけていた鍋のもち手に腕が当たり、ひどい音を立てて鍋が床に落ちた。煮立ったシチューがぶちまけられ、跳ねた熱いしぶきが足にかかった。
 壁に手で身体を支えたまま、呆然として、ロイは床を見た。ずっと睡眠不足のまま身体を酷使し続けた、そのツケが来たように身体が思うように動かなかったのだ。
 軽いやけどをしたのか、足がひりひりしたが、気にならなかった。
「……なんで…」
 ロイは顔を覆い、膝をつくと、床に突っ伏した。
 ――いつからこんなふうになってしまったんだろう。
 順調に回復していると思っていたのに。
 そう思うと、弱い自分が情けなかった。
「……俺がなにをした…」
 ロイはひとり呟いた。「どうしてここまで苛めなくてはならない……」
 誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
 それはあの国の残忍な男たちなのか、それとも神への言葉なのか、おそらくどっちでもあるのだろう。 
 ロイは、黙ってそこに突っ伏していたが、しばらくしてようやく立ち上がると、こぼしたシチューを片付け、掃除をしてから棚に入っていたビーンズの缶詰を出して、無理やり口に押し込んだ。
 何か食べなければいけない、という強迫観念だけで胃に治める食事は何の味もしなかった。
 スプーンを持つ手が震え、噛んだビーンズが容易に喉をとおらない。
 それでも、ロイはビーンズを乗せたスプーンをまた、口に運んだ。
 食べて体力を維持する。
 サバイバル訓練の時は、ジャングルで、蛇でも蛙でもなんでも食べないと生きていけない。食料を最初から携帯せずに行くからだ。躊躇せずにそれを食べてきた。
 頭を通さず、舌で味わわず、胃に通していくのには慣れている。
 最低限の、人間の生きる術は食と睡眠だ。
 これがなくなれば、死ぬしかない。
 食べることと眠ること――。普通に人間が意識なく、行えること。
 それがもはや、「戦い」という名に変わってしまったことに、ロイはうすうす気づきはじめていた。

 その夜、ロイはふたたび檻の中で目をさました。
 身体の中に男の存在を感じ、苦痛の声を漏らすと、まわりに立っている男たちが嗤いだした。
 身体が痺れるように痙攣をし、呼吸ができないほどの痛みに喘いだ。
 ロイは呻き、身を捩った。
「も……う、いい加減にしてくれ……」
 髪が目にかぶさり、頬にもそれが見えた。ずいぶん長いことここに囚われていることを思い出した。
 女の存在がないこんな場所で、男たちの性欲の処理にロイは生かされていることを知っていた。それだけではなく、娯楽の代わりにもなっていることも。
 これから長い間、慰み者として死ぬまでここで犬のように飼いつづけられるのだ。
 手を伸ばすと白い骨を掴んでいた。
 それがジムの骨だと分かり、ロイは悲鳴を上げ、それと共に責められる、抉られるような痛みに身体を仰け反らせ、骨を胸に抱きしめた。

 ベッドサイドのテーブルに置いていた、スタンドと電話機とを道連れに、ロイの身体がベッドから激しい音をたてて落ちた。
 衝撃でついた灯りに照らされた、見慣れた自分の部屋にいることは分かったが、怖くてたまらなかった。
 まだ、そのへんに悪魔のような男たちがいるような気がして、暗闇に目を凝らす。
 激しい息が、肩を上下させていた。
 掴んでいたのは、白い受話器だった。
「ジム……」
 ロイは、その名を声に出した。「手を…貸してくれ、ジム……」
 そう言うと、ロイは一緒に落ちた枕の端に歯を当て、苦しさに呻いた。激しい吐き気が起きているのがわかった。
 受話器が外れたことを知らせる耳障りな音が、受話器から漏れ出し、ロイは目を開けた。嗚咽を漏らしながら、ロイはその場に倒れたまま、夢だったことが分かっても立ち上がれなかった。
 唇がわなわなと震えていた。
 握りしめていた、不快な音をたてる受話器を戻すと、電話機に貼られたシールが目に入った。
【ホーナー】と、下手な字で書いてあるラベルが短縮1番を示している。
「なにかあったら、夜中でも呼んで下さい」
 ジムの照れたような顔が浮かんだ。
「おまえは骨になって、もうどこにもいない……」
 ロイはじっとその電話のラベルを見つめた。
 嗚咽はまだ止まらなかった。
「どこにもいないくせに……」


 ロイが空っぽになった身体の前面を、自分の手で開いて見せているという、ひどく恐ろしい夢を見て、ジムは飛び起きた。
 じっとりと全身が濡れている。
 ジムは今でも夢を見る。
 ロイが、押さえ込まれて悲惨な目に遭っている構図だ。
 見たままが再現されていることがほとんどだが、今日の夢は気味が悪かった。
 ジムはキッチンに行って、冷蔵庫から水を出し、一口飲んで、ボトルを持ったまま寝室へ戻った。
 最近ロイがひどくよそよそしく感じられる。
 あの日、ついキスをして、ベッドで一緒に眠ったときは少し気持ちが繋がったような気がしたものの、気遣えば気遣うほど、ロイは離れていく気がする。
 どうすればいいんだ、とジムはベッドに腰かけて頭を抱えた。
 そばにいて、ただ黙って見ていてやりたいと思う。つらいときにはいつでも抱きしめてやりたいと。
 だが、冷静に考えれば彼は上官であって、自分の部下ではない。ジムよりもはるかに頭もよく、はっきり言えばかわいげのあるタイプの人間ではない。よい意味で言えば自尊心が高いのだろうが、それは悪い意味にも使えそうだな、とジムは思った。
 これがジムの部下の兵士たちならば、有無を言わさず共に起居して、一日中でも面倒を見てやれるのに、ロイにはそう伝えることもできない雰囲気がある。
 いや……自尊心が高いというのは、間違っていると思い直す。いい意味の部分はともかく、ロイには悪い意味のそんなものは感じられない。むしろ、それが意外に思えたほどだ。
 自立心が強いのだ。的確なことばで言うならそれの方が近い。
 簡単には人に頼らない。
 頼ることをよしとしていない。
 けれども、ジムにはそれがロイの無表情を装う顔と同じように、彼の本心には思えないのだ。ロイのよそよそしさを見せつけられるたびに、ジムにはそれがロイの悲鳴に感じられる。
 ――考えすぎなのだろう。
 ロイのことに関して、ジムは冷静ではいられないなにかがある。トラウマと言ってもいい。放っておけない悲痛なものを抱えているはずだと思うのは、ジムのお節介焼きの性分なのかもしれないが。
 電話を見つめて、ジムは受話器を上げてみる。自分の短縮1番にも、実はロイの電話番号を入れている。
 短縮と1のボタンさえ押せば、すぐに繋がるのだ。
 深夜にかければ、寝ているところを起こして迷惑だろうなと、ジムは受話器を置いた。
 ――眠れているのだろうか?
 なぜ、こんなにあの人が気になるのだろうか。
 なぜ、これほどしつこくジムに悪夢を見せるのだろうか。
「……馬鹿だな、俺は……」
 ごろん、とベッドに横になって、ジムはじっと天井を見つめていた。

 翌日、午前中、仕官だけのミーティングがあり、会議室に集められた。
 ミーティング室の席につこうとしたとき、先に来ていたビリーがまじまじと顔をみているのに気がついた。他にはまだ、誰も来ていない。
「あんた、飯くってんのか? 寝不足か?」
 ビリーがそう言ってきたが、ロイは穏やかな顔で頭を振った。
「ゆうべちょっと遅くまで本を読んでいたんだ。大丈夫だ」
 起きてからずっと、激しく頭痛がして、朝からもう何錠も痛み止めを飲んでいるが、一向に効いて来る気配がなかった。
 ビリーはじろりとロイを横目で睨み、やたらと握っていたボールペンの先を机に打ちつけて、コツコツと音をさせていた。
 耳障りな音に、ロイは眉間の皺をもんだ。
 神経が苛立っている。
 コツ、コツ、コツ……。
 その音には聞き覚えがあった。あの時も、男のひとりがそうやってボールペンを弄んでいた。
 コツコツ言わせながら、そいつは自分の舌でそれを舐め、薄ら笑いを浮かべて……。

 部屋の中が、一変していた。
 跫音をさせて、入ってくる男たちの気配がする。
 後ろに回られる。
 目を見開いたとき、ビリーがロイの膝を掴んだ。
 はっと、ロイは隣に目をやった。
「水、いるか? 真っ青だぞ」
 人の気配は、当然で、制服を着た将校の面々が室内に入ってきて、ロイの後ろを通っただけだったのだ。
「……いや……ありがとう」
 ロイは、深く息を吐いた。簡素な会議室の中には、すでに数名が着座していた。
「大丈夫だよ……でも、頼むからそのボールペンで遊ぶのをやめてくれるか?」
 ビリーは唇をへの字に曲げたが、あっさりとそれをテーブルに置いた。
「すまない」
「何度も謝るな」
 ビリーはなぜだか、不機嫌そうに呟いた。

 午後から野戦訓練が始まった。
 敵味方に分かれて、ペンキ弾を撃ち合うものだが、野原を駆け巡り、林に忍んで一時も気が抜けない。
 たかが訓練ではあるが、ペンキ弾を浴びることは、実戦で死ぬのと同じことであるから、全員が集中していた。
 敵のリーダーを務めるカーターと、あらかじめ行動範囲を打ち合わせ、地図に印をつけて互いに姿を消した。
 ジムはロイと同じ班におり、大尉が出す命令どおりに隊員たちが動くよう目を光らせている。カーターの率いるチームはすでにあとかたもなく潜んでいて、どこにいるのか分からない。あちらも同じである。まずお互いを見つけなくてはならない。
「この崖のほうへ行こう」
 ひときわ高くなった、茂みの多い崖のほうへチームが移動して行くと、地図を見ながらロイが合図をする。指示のまま、ジャックが言われた方へ進んでいく。
 他の隊員の持ち場を指示しようとした時、ジャックの叫び声がして、茂みの葉ずれの音が響いた。
「落ちたぞ!」
 ポールが怒鳴った。
 途端に、敵兵に囲まれた全員がペンキ弾を浴び、集中攻撃によって次々に衣服を朱に染められた。
 そこにいた全員が、死亡した――はずだったが、誰も倒れる真似すらしなかった。
「ま、待ってください、少佐」
 ポールが降参の合図を送り、カーターが姿を現した。「ジャックが崖から落ちたようなんです」
「なんだと?」
 カーターはずかずかと歩み寄り、全員が覗き込んでいる草むらから崖下を見下ろした。
 すでにロイはジムと共に崖を滑り降り、途中の出っ張りに引っかかって蹲っているジャックに手を貸していた。
 上からたらしたロープを引っ張りあげると、三人が上がってきた。
 ジャックは落ちる時に上着がまくれ上がり、身体の前面に酷い擦り傷が出来ていた。ジムがシャツを開き、応急処置を始めた。
 ロイは一緒に覗き込みながら、息を飲んでいた。ジャックの掠り傷は全体的には大したことはなかったが、一箇所、折れた小さな枝が刺さっており、ジムがそれを抜くとぬらぬらと血があふれ出てきた。
「救護班を呼んだ。すぐに来るだろう」
 カーターが、ジャックに声をかけた。
「しかし、骨が折れずによかった。でっぱりがなかったら死んでたな、ジャック」
 ジムが声をかけると、ジャックは微笑んだ。
「死にゃしませんよ。このあたりは木が多いから。任務を思えば大したことじゃない」
 カーターはロイの腕をとり、みんなから離れた場所まで歩いていった。
「先日の雨で、地盤が緩んでいるから、あそこは立ち入り禁止だと打ち合わせをしたな」
 ロイは息を飲み、愕然とした目を、カーターに向けた。確かに聞いた覚えがある。だが、失念していたのだ。
「君の指示か?」
 ロイがそうです、と答えると、カーターはため息をついた。
「大尉、言おうと思っていたんだが、君は最近集中できてないだろ?」
 ロイは返事ができなかった。
「今日の顔色は悪すぎる。具合が悪いんじゃないのか?」
「……いえ…。申し訳ありません」
「休みを取ったほうがいいんなら、遠慮をするな。わかったな」
 カーターは肩を叩くと、隊員たちを呼集した。
 ジャックのそばに行って、侘びを言わなければ、と思って振り向いたロイは、整列する全員の後姿を見ながら、反対に後じさった。
 走り出し、草むらに身を埋めると激しい吐き気を堪えた。
 ジャックの血が見えた後から、腐臭が漂っているのが分かっていた。
 話をしていたカーターの顔さえ、おかしな具合に歪んで見えた。
 ロイは、立ち上がるとふらふらと一人で草原を歩き出した。
 どこかに隠れなければ、これ以上我慢ができないほど胸がむかつき、身体が小刻みに震えているのが分かる。無断で立ち去ることでまた問題がおきるだろうが、かまう余裕がなかった。
 野原にはあちこちに廃墟のようなコンクリートの壁が点在している。
 訓練のためにわざと建てられてこれらは、今日の訓練の使用場所からは離れていた。
 力尽きたようにその壁にもたれ、そのまま蹲ると、ロイは激しく嘔吐した。
 頭の中が割れるように揺れている。
 身体中に痛みが走った。
 いきなり、後ろから身体に触れる手の気配を感じ、ロイは恐怖の声を上げた。
 ロイは、そばに来た人物から逃れるように、二、三歩這って進んだ。
「大尉!」
 その声に振り向くと、恐ろしい顔をした黒い影に見え、ロイはおののいた。それなのに、また吐き気が全身を駆け巡る。
「やめてくれ……、も、もう……」
 ロイはえずき、地面に蹲るように背を丸めた。

「ホーナーですよ、どうしたんです?」
 ジムはロイの背中をさすり、吐こうとしても何も出ずに苦しんでいる上官の顔を覗き込んだ。
 ロイはなおも怖がっているように、身を強ばらせる。
「ロイ!」
 ジムが大きな声で名前を呼び、強引にその顔を自分に向けた。
「俺だ、ジムだ」
 怯えたような目をしていたロイが、やっと相手を認識したかのように頷いた。肩で激しく息をし、身体を震わせている。ジムが更に背中をさすってやると、ロイは唸るように言った。
「さ……わらないでくれ、ジム」
「頼む、触れ…られると気持ちが悪……い」
 ジムは手をどけて、しゃがんだ姿勢のままロイをじっと見た。
 寝ているときの悪夢なら、まだ理解できる。
 ただの嘔吐じゃない。
 こんな明るい陽射しの中で、大尉は自分を恐れるように逃げようとした……。ジムは呆然と考えた。
 ロイは震える腕を伸ばし、ジムの腕を掴んできた。その手の力が、苦痛の具合を察せられるほどに強く、ジムは思わず腕の痛みに顔をしかめたが、黙ってそのまま耐えた。
 うめき声を出さないようにしているのか、硬直する身体をかがめたまま、手だけが激しくジムの腕を掴み続けている。
「……真っ青な顔をして走り出すのが目に入ったから、気になって……」
 ジムが震える声で言った。「医者には見てもらったんですか? 大尉」
 ロイは首をふった。ジムは背をさすることも出来ず、ただそばにしゃがみこんだまま、腕だけをロイに掴まれているうちに、涙を流し始めた。
「……あの時のことが…原因ですね?」
「う……」
 ロイの喉から、嗚咽のような声が漏れた。
 ジムはぼろぼろと涙をこぼし、項垂れた。
「俺が……ついています。大尉、ひとりで戦っちゃいけない。いいですね?」
 ジムはロイに語りかけた。「俺がついています……」 
 ロイは返事をせず、黙ってジムにしがみついたままだった。

 ジャックが横たわった医務室に、ロイが現れたとき、医務官は彼も怪我をしたのかと聞いてきた。それほどに、ジャックの上官の顔色は悪かった。
「ジャック。俺のミスなんだ。申し訳ないことをした……」
 ロイは泣きそうな顔でジャックに謝った。
「いいんですよ、大尉。大した怪我じゃない。三日ほど休みをもらえるんで、死ぬほど本が読めますよ」
 ジャックはそう言って笑った。
 ロイはジャックの伸ばした手をとり、「ほんとうにすまない」と言うと、肩を叩いて部屋を出て行った。
「彼のほうが参っているようだね。かなり」
 医務官がジャックに言った。
「責任感の強い人だから」
 ジャックは心配そうに、ロイが出て行ったドアに目をやってため息をついた。


 カーターは、ロイとジムが訓練途中で姿を消したことを何も言わなかった。だが、ロイは上官にも侘びをいれ、隊を辞める旨を伝えた。
 机の上に、書いてきた書類を置く。
 辞職願だった。
「……どういうことだ?」
 カーターはロイが持ってきた用紙をつまみ、ロイに厳しい視線を走らせた。「休みをとれとはいったが、辞表を持ってこいとは言わなかったぞ」
「……おっしゃった通りです。身体が戻っていません。的確なリーダーシップなどとれないことが……今日やっと……。それがみんなに迷惑をかけると分かりました」
 カーターはいつもの穏やかな顔を向け、ロイに言った。
「なかなか強情な男だな、君は。私も迂闊だった。身体が戻ってないというのはどういうことだ? 調子がよさそうに見えていたのに」
「ここ最近、急に眠れなくなってしまったんです」
「医者には行ったのか? ハルトマンはなんと言っている?」
 ロイは口を噤んだ。
「ナカニシのところにも、ほとんど行っていなかったみたいだな。ロイ、まず病院に行け。辞職願はそれを見てから、受け取るかどうか考える。診断書と一緒に持ってきなさい」
「……はい」
「アイアイサーと言え、大尉。必ず行くんだ」
「それは……命令ですか?」
「命令だ」
 ロイは俯いて「アイアイサー」と、返事をした。このことばを吐いた以上、逆らうことは許されない。また、上官がそう望む以上、それ以外のことばを返すことは立場上できはしないのだ。
 回り右をして帰ろうとすると、「ロイ」と呼び止められた。
 ロイが怪訝な表情で振り返った。
「退院して間もなくのころは私もどうかと思っていたが、訓練はちゃんとこなせている。私は今更、辞めてほしくはないんだ」
「しかし……。今日のようなことがまたあれば……」
「あの程度のミスは、ありがちな範囲だ。君が新しい隊長候補なのは、まだ動いてないんだ、大尉」
「……無理です、少佐…」
食いしばった歯の間から、絞るようにロイが声を漏した。
「隊長など、務まりません……。それどころか、今は仕事すら自信がなくなっています」
「珍しく弱気だな、大尉。そうは言うが、隊長になるのだって、まだ先の話だ」
「少佐……」
 カーターは、眉根を寄せてため息をついた。
「いいか。とにかくまず身体を落ち着かせることだ。いきなり無理をして身体を鍛えたのも負担がかかってるんだ。ただの怪我や病気じゃない。こういうことは、早まると後悔する。ゆっくり考えるんだ。明日、君は当直だろう? そのときにまた話をしよう。いいか?」
 ロイは言葉を詰まらせ、敬意を込めて気をつけの姿勢をとると、部屋を出た。

 頬を叩かれ、目を開けると、また檻の中に戻っていた。
「故郷の夢でも見てたか?」
 男がまるでロイの夢を知っているかのように、顔を覗き込んでくる。
「諦めるんだな。お前は俺たちのものだ」
 ロイは激しく怒鳴った。
「……もう嫌だ! 俺を解放しろ! どれだけ人を貶めれば気がすむんだ!」
 激しく腹部を殴られた痛みに、ロイは呻いて身体を丸めた。
 周りを男たちがにやにやと取り囲むのが、暗闇の中でも分かった。もう立ち上がることなど、二度とないのだ。足が萎え、力が入らないのが分った。自らの意思で動くことなど決してできない。
 見上げると、その中に、胸から血を流したジャックがいることに戦慄した。
「……な…ぜ…」
 ロイが叫ぶと、長い鞭の太く長い、堅いもち手の部分が、口に突き入ってきた。
 激しく咳込み、それを吐き出すと足を押さえられ、身体のあちこちに手が這わされる。いつの間にか巻かれた縄が手首に食い込み、身動きすら出来なかった。
 ジャックの手に、その鞭が握られているのを見て、息が止まった。
 這わせられ、強引に開かれたそこに、硬いものが押し当てられた。
 自分をさんざん打ち据えた武器を、自分の中に挿れようとしている……。
 ロイは恐怖の声を漏らした。




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評