[太陽の光のおまえ] of [硝子の破片]


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第十一章 太陽の光のおまえ

 朝日を浴びると、元気が出る気がした。
 光はロイの顔にも髪にも降り注ぎ、ここが自分が住んでいる場所であることを教えてくれる。
 いつかジムが言った、「太陽の光はエネルギーを充電してくれる」ということばを思い出す。
 昨日の、調査室での心無い言葉の数々と、それによって浮上してきた記憶が、あんな夢を見させたのだと思った。ことに、長いこと囚われていた兵士の話が、昨日の夢に反映していたのは間違いがなかった。
 ペイジという男が斬りつけた、棘を含んだ刃がロイの記憶を引き裂いて、無理矢理露出させられたような気がした。
 車に乗った時、ロイはハンドルを、シートを計器を撫でてみた。
 空を見上げて、空気の匂いを嗅いだ。

「大尉、おはようございます!」
 駐車場へジムが駆け下りてくる。
「おはよう、ジム」
 ジムは自分の車へ歩きかけ、思い直したようにロイのジープのそばへ来た。
「ご一緒しても?」
 ああ、とロイは微笑んだ。どっかりと助手席に乗り込んでくる男の、発散するエネルギーと、ジムの太陽そのもののような懐かしい匂いがした。
 懐かしいはずはないのに、とロイはちょっと眉をひそめた。昨日だって会ったのだ。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
 ロイは車をスタートさせた。
 走りだしてすぐに、ジムが大きな手の平をロイの額に当てた。
「熱がありますよ。運転代わりましょうか?」
「少し、風邪気味なんだ。大丈夫だよ」
 微熱があるのは自覚していたが、顔が赤っぽいわけでもないはずで、ロイはジムの勘と観察眼に感心してしまう。だが、そのおせっかいを今日は厭わしいとは思わなかった。
「休んだ方が……」
 ロイは黙ってハンドルを切った。
 ジムはよけいな口出しをしたらしい、と口を閉じて前を見た。
 だが、ジムのその気遣いは間違っていた。額に触れた手の温かさを、ロイは反芻するように噛みしめていたのだ。
 ジムは死んでいない――。
 そのことに、なによりも安心していた。
 ジムに、ペイジがどんな質問をしたのか聞きたいと思ったが、そんなことは無意味だと考え直した。昨日あったことを、夢の内容までジムに聞いて欲しい気がした。
 ペイジと交わした内容、そのあとの幻覚のような不快なイメージ。そして、久しぶりに見た、これまでよりも内容が露骨になった、悪夢のことを。
 だが、ロイはそれを言う代わりに、今一番感じていることばを口にした。
「おまえの手は温かいな」
 手だけではない。
 おまえの全身が、まるで太陽の光だな、と言いたかったのだが、そんな大袈裟な台詞はロイの口からは出てこない。
 ジムはなんとなく、ロイの顔を見た。
「俺の手が温かいと感じるなら、大した熱ではないんでしょうね」
 うん、とロイは頷き、「でも、まだまだだな。ちょっとしたことですぐに熱がでるんだ。それは本当だよ、ジム」と、自嘲した。
 これまで、ただ大丈夫だ、と言い張っていたロイの意外にも素直なことばに、ジムは目を細めた。
「まだまだなのが、普通ですよ」
「うん――」
 だが、普通では困るのだ、とロイは思ってもいた。 

 輸送機からの空中降下の訓練のために、チームの全員が空母に乗り込んでいた。
 SEALは海(Sea)、空(air)、陸(land)の略であり、彼ら海軍特殊部隊は、海だけでなく、全ての場所での活動を強いられるのだ。
 訓練は十日間の予定で、居住区に各部屋を割り当てられた。
 狭い船内のベッドは各部屋二段ずつ四名だったが、将校であるロイとカーターは同室の二人部屋だ。
 起居しにくい上段をロイは選んで、毎日きちんと寝具を畳み、夜には皺一つないようシーツを広げた。
「ビールでも飲むか?」
 先にシャワーを浴びてくつろいでいたカーターが、シャワーから戻ったロイにビンを投げてよこした。「新鮮なライムを、コック長からもらってきた」
 切ったライムをロイに差し出し、カーターは自分のにも入れると、気持ちよさそうに喉に流し込んだ。
「来月になったら二名ほど、新しい隊員が入ってくるぞ。これから少しずつ増えていく予定だ。新入りの儀式をやる暇がないくらい、忙しくないといいけどな」
「ばかげた儀式だけど、隙を見てでもやりたがるでしょう」
 ロイがビールを手に持ったまま、面白くもなさそうに言うと、カーターは笑い出した。
「君の儀式に参加できなくて残念だったな。私は。剃刀担当になりたかったのに」
 ロイはほんの少しだけ唇をつけたビールから唇を離し、思わずカーターをしげしげと見た。
「少佐がそういうことを、おっしゃる人だとは思いませんでした」
「そうか? 私はいつもこんなふうだよ。私がいたところでは、素っ裸にされて、匍匐前進を全種類やらされたな。たまらなかったよ。三日ほど寝込むかと思ったくらい、ショックだった」
 ロイは眉をかすかに顰めた。
「どこに行っても剥かれるわけですね」
「こういう儀式を上品にしたって、つまらないんだろう。恥をかかせてこそってもんだ」
 カーターは笑った。「この船でもあるぞ。赤道を渡るときにな。初めて赤道を越えるものがターゲットだ。今回は、赤道は越えないから、助かった」
「ばかげてる……」
「まあ、そんなもんだ。男が大勢、暇を持て余してるんだ。最近は参加したがる女性乗員だっているらしいぞ」
 ロイは呆れたように口をあけた。
「ジェンダーフリーとか、そういうことの主張でもあるんだろう。けどそれでセクハラ問題になったこともあるらしいし。男も女も……まあ、いろいろだ。けど、そういう儀式ってのは確かにおもしろいな」
「おもしろい……」
 カーターは肩を叩き、新たなビールを取るために、冷蔵庫を開けた。
「ばかげたことでも必要があるから、残ってるのさ。知っていたか? やられた新入りは次の新入りに剃刀を当てる権利がある。次は君の番だ。ほんとならビリーの担当だったが、君が不在だったからな」
 ロイは頭を仰け反らせて、額に手を置いた。
「少なくとも、あいつにそんなことをすることにならなくて、幸運だったわけですね」
「そう。だが免れないぞ。きっと、次は君に剃刀が渡される」
「……それも強制ですか?」
「ほんとに堅い男なんだな、君は」
 カーターは、この男独特の、陽気な笑い声を上げた。
 カーターはロイを見て笑っていた顔を引っ込め、急にまじめな顔になった。
「……で、調書をとられたって?」
 ロイははっとして身体を起こし、カーターの視線を避けるように部屋の壁に顔を向けた。
「……はい。あまり……覚えていなかったので、嫌みを言われましたが」
「そうか。実戦にも出ず、頭ばかりの連中はそんなもんだ。大丈夫だったか?」
 ロイが怪訝な顔を向けたので、カーターは少しうろたえたように笑った。
「すまん。嫌な気分になっただろうと、思ったんで……」
「それはもちろんそうです。でも、隠れるわけにもいかない。この仕事を続けるなら、越えないといけないものです」
「そうだな」
 カーターは頷いた。「君が気丈な男で安心した」

 だが、カーターは夜中に起こされた。
 苦しげな呻き声がカーターの夢に入ってきて、何かに引きずられそうになって目を覚ました。
 目が覚めても、つらそうな声は続いていた。
 ベッドの上段からだと気がつき、そっと立ち上がって覗くと、険しい顔で眠っているロイの顔が、薄暗い常夜灯の中に浮かび上がっていた。
「大尉」と、声をかけてみた。
「……少佐…救出……」
「救出?」
 意味を捉えかね、カーターは一瞬考えた。
「地下に……、地下の牢に、いる……救出を…」
 その言葉で、ロイが今、あの時の現場の夢を見ているのかもしれないと思いついた。
 肩を揺すると、ロイは跳ね起きた。
「魘されてたぞ」
 カーターが声をかけると、「すみません」と言って、また身体を毛布にもぐらせた。
 カーターはベッドに戻ったが、すっかり頭が冴えてしまっていた。
 まだ、時々あの時の夢を見ているのだろうか? と思ったが、それを聞くことはできなかった。 
 あの日――。
 捕らえられた彼らの所在はわからなかった。
 ジムのインカムは完全に通信不能で、ロイのものから微かに反応があった。
 踏みつぶされでもしたのか、ガーガーとノイズばかりで、駄目だと思っていた機械から、遠くに聞こえる悲鳴が入った。
 微かではあったが、それが断末魔の声に思えて、あの日カーターは背筋が凍るような気分になったのだ。
 本国からの救出の時間が迫り、もうだめだと思った時、インカムにジムの声がした。
「地下にいる。救出を頼む。ボス、中庭の奥の建物のない地面の下だ。救出を頼む」
 掠れ、ノイズまみれの声に問いかけても、こちらの声は届かないようで、ジムは何度もそう叫び続け、やがてノイズすらも消えた――。
 ――地下にいる、少佐、救出を……。
 意識のなかったはずのロイは、ジムの声に合わせて自分に救出を求めていたのかもしれない。
 未だにショックな出来事を夢に見ていても、不思議ではない。
 暴力だけでも耐えられないのに、男たちからのレイプなのだ。
 カーターには、どんな痛みと恐怖だったのかなど、想像もつかないが、自分ならとうに耐えられなくて、どうにかなっているのではないかという気がする。
 それでもロイはきちんと仕事に戻ってきた。それは、カーターには考えられないほどの精神力に思えた。
 この男は強い。
 そのうち時間が解決していくだろう。
 目覚しい回復をみせ、すっかり体力も戻ってきたことを考えれば、多少の悪夢に負けることもないに違いない。
 再び眠りについたカーターの夢の中に、あの時血まみれで横たわっていたロイの姿が蘇り、ひどく寝苦しかった。

 ふと、目を開けるとフットランプのみの薄暗い空間に、なにかが下がっているのが見えた。
 ロイの足が、二階から垂れているのだ。
 起きて座っているのだろう。
 声をかけようかと思ったときに、足は引っ込んだ。
 もぞもぞと、布のこすれる音がする。
 眠れないのだろうか、と気にはなったが、あまり顔を突っ込んでもいけないのかもしれないと、カーターは目を閉じた。
「やめてくれ……」
 小さなつぶやきが聞こえた。
 今座っていたのだから、寝言ではないはずだが、明らかに誰かに語りかけているような言葉に、カーターは耳を尖らせた。
 次の瞬間、一息に、はしごに足をかけることもなく、ロイは二階から下りてきた。
 そのまま、ドアを開けて外へ飛び出した。
 カーターは跳ね起き、自分もあとを追った。下着だけに靴をつっかけただけの姿だったが、そんなことにかまう余裕はなかった。
 ロイは裸足のはずだ。
 トイレかと思ったが、ロイは通路を出たすぐの、海側の手すりにもたれかかって立っていた。
「……大丈夫か?」
 はっと頭が上がり、「少し酔ったみたいで」という答えが返ってきた。
 そんな馬鹿な、とカーターは思った。
 時化てもない、こんな大きな船に乗って寝ていたというのに、酔ったりすることなど、初めて船に乗った者でも有り得ない。訓練学校を出た兵士なら、そんなことはクリア済みのはずだ。
「吐いたのか?」
 いいえ、とロイは首を振った。
「起こしてしまって、申し訳ありませんでした」
 ロイが額を押さえながら、先に通路を入って居室へ戻るのを、カーターは黙って見送った。
「……少佐」
 居室への廊下の入り口からの、震えたような声に、カーターは喉の詰まったような返事をした。
「なんだ?」
「戻りましょう」
 ああ、と言いながらカーターはロイに追いついた。
 不意に、子供の頃、小さい妹に深夜トイレにつきあってやった光景が甦った。
 カーターがついでに自分も用を足そうと部屋へうながしたとき、妹は廊下に縮こまるようにして立っていた。
「おにいちゃん、一緒に部屋に戻ろう」
「先に戻ってろよ」
「廊下が恐いの」

 まさかこの男が、妹のように誰もいない廊下が恐くて、自分を待っていたわけでもあるまい、とカーターは他愛のない過去の記憶を振り払った。
 なんでこんなことを思い出したのか、自分でもわからなかった。ロイの声の調子のせいだろうが、なにかに怯えたような声だと思ったのは、勘違いだったようだ。
 ロイは、カーターをやり過ごし、一歩退いてついてくる。
 その気配は、いつもとなんら変わりはない。
 ちらっと振り返って様子を見てみたが、ロイは俯き加減で、前髪に表情を隠している。
「……いい夜だな。海の上の空気はうまい」
「そうですね。潮風は好きです」
 穏やかな声に安心して、カーターはほっと息をついた。 

 チームが基地に戻ってからも、忙しいことに変わりはなかった。
 だが、足を地面につけ、決まった時間に家に帰れる時間を持てるのは、隊員たちにとって、安らぎでもあった。
 少しまとめて休みがもらえ、所帯持ちの者は子供をつれてピクニックや遊園地に足を伸ばし、仲間で集まってバーベキューを楽しみ、独身男は浴びるほど酒を飲んで、ガールハントにいそしむこともできる。
 だが、ロイはスケジュールを詰めるように、各特殊技術の資格獲得のために忙しく動き回っていた。
 くだらないことに振り回されたり、考えたりしないためにもそれはいいアイデアに思えたし、なるべく早く必要な資格は確保してしまいたかったのもある。
 深夜まで難しい勉強に酷使された脳みそは、悪夢に悩むことなく、短い睡眠をロイに与えてくれた。短めでも、深く安定した睡眠が、ロイを安定させていた。

 ある日の夕方、ビリーとポールがロッカールームで、ロイに酒でも飲まないかと誘った。
 たまたま講習がなく、ロイは気軽に応じた。ポールがジムにも声をかけた。
 酒は本来強いほうで、悪酔いなどはしたことがない。
 たまには酒の勢いで眠るのも、悪くはない気がした。
 資格取得の勉強に疲れた頭を、少し休ませる必要はあるだろう。 
 酒場では、いつものように二、三杯のビールに呑まれて、ビリーが一人でしゃべり、ポールがロイとジムに肩をすくめて見せた。
「まあ、ほっとけばすぐに潰れますから」
 ポールがすまして言うのがおかしくて、ロイは声をたてて笑った。
「ははあ、大尉のそんな笑い方、初めて見ましたよ」
 ポールが大袈裟に驚いたような顔をするので、ロイは苦笑した。
「俺はよっぽど、愛想が悪いんだな。反省するよ」
 ジムが受けて、ロイの脇腹をつついて笑った。
「自覚するのは大切なことです」
 彼らとこうして過ごすことが愉しく、今、一緒にいられることが嬉しかった。
 女性が二人、カウンターに座ってにこやかな笑みをよこしている。
 ビリーがさっそく、べろべろになりながらそばに寄って行き、二人を連れてロイたちのテーブルに引っ張ってきた。
「貴方たち、みんなハンサムね」
 ブルネットの、妖艶な女性がロイにしなだれかかり、ロイは困ったような顔をしてジムを見た。
 ジムはそんなロイを面白そうに眺め、ビリーとポールはもう片方のショートヘアの女性の相手をしていた。どちらもかなりな美人である。
 ビリーがしきりに冗談をとばして、笑わせていた。
「ねえ、このあと海を見に行きたいわ」
 手を腕にかけられ、しきりにモーションをかけてくる女性に、ロイはどう対処したらいいのか困った。
「……すまない。一緒には行けない」と、ロイが言うと、女性は顔を覗き込み、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
 ジムが笑い出し、「この人には五人も子供がいて、怖い奥さんがいるんだ」と言うと、女性はもう一人を促し、カウンターに戻っていった。
 女性の姿が消えた途端、ビリーはテーブルに顔を突っ伏した。
「俺には五人も子供がいるのか」
 ロイが、おかしそうにジムに言った。
「もっと上手にかわす方法を覚えなきゃ」
 ジムが笑い出すと、ポールが不思議な生き物を見るように、ロイを見た。
「あんないい女相手に、チャンスだったのに。芯からお堅いんだな、大尉は。そんなじゃ結婚なんかできませんよ」
 実際に二人の子供を抱えたポールは、余裕の表情だった。
「結婚……」
 ロイを押しのけるように、ジムが自分を指差した。
「大尉の前に、まず俺だ。四つも年長なんだからな。けど付き合うなら、もっとすれてないのがいいな、俺は」
 ジムとポールは、好みの女の話題に移った。
 ジムのタイプの女性の話を、ロイは興味深げに聞いていた。清らかな、初心な女のほうがいいというジムに、ポールは言った。
「チーフのガールフレンドって、いつも、そういう感じでしたもんね。なんでか長続きしないけど」
「仕事が悪いんだ。何度デート中に呼び出されて、おじゃんになったことか」
 ポールは笑い、「まあ、それでもいいって子もいますから。うちみたいに」と、さりげなく自慢した。ポールの奥さんは、美人で愛想も面倒見もいいと、隊員たちに評判の賢妻だ。
「寂しがったりしないか? 留守が多くて」
 ジムの質問に、ポールは鼻の下を伸ばした。
「彼女は多趣味でね。子供を育てることと、趣味をこなすのに俺はむしろ邪魔なんじゃないかな。庭が年中花だらけで、菓子とパンを焼いて、しょっちゅう女性たちとつるんでる。ちょうどいいですよ。いつ会っても新鮮で」
「毎回ハニームーンみたいな気分になってるわけだな。できた嫁さんだ」
「大尉はどんな女が好みです?」
 いきなりふられて、ロイは言葉に詰まった。
 そんなことはあまり意識して考えたことがなかった。これまで誰かを特別な想いで見たこともなかったのだ。
「いや……俺は、どうかな。よくわからない」
「お堅いんじゃなくて、初心なんだな? もしかして」
 ポールが弱点を見つけたガキ大将のような目を向けると、ジムがその頭を小突いた。
「あんまり大尉を苛めるな。仕事しか頭にないんだから。この人は」
「大尉には……そうだな、温かくて気持ちの大きい、引っ張ってくれる人がいいかもしれない」
 ポールの分析に、ジムは笑いだした。
「大尉を引っ張るほどの女性って、どんな豪傑だ?」
「仕事と恋愛は違いますよ。大尉みたいなタイプは、恋愛においては意外にリードされる方がいいのかもしれないと俺は思いますけどね」
 ロイは、苦笑しながら聞いていたが、よくはわからなかった。女性にリードされるという具体的なイメージすら湧かない。
「包みこんでくれるような、温かい、それでいて頼れる女を捜すといいですよ」
「そんな女性がいるのかな?」
「肝っ玉お袋みたいだな、まるで」
 ジムはげらげら笑いながら、酔いつぶれ、眠ってしまったビリーを見て、その頭をつついた。
「ほんとにこいつは幸せなやつだな。一人で騒いであっという間に寝やがって」
 飲み物を運んできたウエイトレスが口を挟んだ。
「大丈夫、彼はしばらく寝たら、すぐに蘇るのよ。女の子の声が聞こえだしたりすると、てきめんよ」
 三人はまた笑い転げた。

 しばらく飲み続け、やがてポールが鳴り出した携帯を確認すると、帰ると言い出した。
「女房の相手もしなきゃいけないんで。今夜は教会で式を挙げたばかりの新郎のように、振る舞ってあげないと」
 ポールは幸せそうに、微笑んだ。
 さっきの女性たちも引き上げるのか、ドア口に立っていた。ふたりとも、ちらっとこちらを見たが、肩をすくめて出て行った。
「じゃあ、俺はお先に」
 穏やかな笑顔で挨拶をして、ポールは店を出ながら振り返った。
「久しぶりに大尉と飲めて楽しかった」
 ポールの言葉に、ロイは「ああ、俺もだ、ポール」と片手をあげた。
「どうする? もう一軒行きますか?」
 ジムが愉しそうに言うので、ロイは頷いた。せっかくの楽しい余韻をまだ、終わらせたくはない気がした。
「……なんか、酔ってます?」
 ジムが珍しいものを見たという顔をして、覗き込んだ。
「少し、弱くなったかな。酒も鍛えなおさなきゃ駄目だな」
 ロイが言うと、ジムが笑って頷いた。
 店を出てしばらく歩いていると、後ろから走ってくる足音がした。振り返るとビリーが血相を変えて追いすがってきた。
「てめーら、自分たちばっか楽しもうったって、そうはいかないぜ」
 ロイは苦笑し、ひとくさり文句を言い続けるビリーの相手をした。
「そう思うなら、もっと酒を鍛えろ」
 ジムが言うと、ビリーが口を尖らせた。
「鍛えたって、駄目なんだな。こればっかりは。大尉やおまえみたいに異次元の胃袋に流れていかねえ」
「おまえは直通でアルコールが脳みそに吸収されるんだな、きっと」
 ロイは笑って、ビリーの巻き毛をつつく真似をした。 
 その時――。
 横の路地から、人の叫び声が響いてきた。


 女性がくぐもった悲鳴を上げている。
 三人が路地を覗き込むと、嫌がる女性二人を三人の男が無理やりどこかへ連れて行こうとしているのが見えた。
 さっき、ロイやジムが相手をした、女性たちだった。
 ジムが路地に向かって走り出し、ロイもビリーと一緒に咄嗟にあとを追った。ジムが後ろから羽交い絞めにして、女を掴んでいた男を振りのけた。
 殴りかかってくる相手に、ジムの拳が鈍い音を立てて当たる。後ろからもう一人がジムにしがみつき、取っ組み合いになった。
 ビリーは巨体の男に組み付かれ、苦戦しはじめた。
 かなり喧嘩なれしたゴロツキだった。
 ロイは、ジムを手助けしようと駆け寄る途中で、横から飛び掛ってきた男の勢いに押されて後ろに倒れこんだ。まだ仲間がいたのに気付かなかったのだ。
 ゴミ箱に背中が当たり、痛みが走ったが、拳を振り上げる男の腕をつかみ、もう片方の手で殴った。
 怒りに燃えた、敵対心むき出しの男の顔が、いびつに歪んで見え、はっとしたが、そのまま揉み合いになった。
 一瞬、別の影に気付かなかった。
 頭部目掛けて振り下ろされようとした別の男の足を受け止めそこね、側頭部に激しい痛みが走った。
 ぼうっとなったロイの身体を、正面の男は、腕を掴まれたまま蹴り上げた。
 もう一人に胸倉を掴まれ、激しいパンチを顎に食らった。
「この野郎……!」
 男が胸倉を掴んだまま、のしかかってきた。
 ロイの恐怖に見開かれた目を見ると、男は小馬鹿にしたように、にやりと笑った。
「なんだ、美人じゃないか。おまえオカマか?」
 酒臭い息を吹きかけられても、ロイは身体を動かすことが出来なかった。
「お仲間をやっちまったら、逃げた女たちの代わりにしてやる」
 男はそう言うと、ロイのシャツの襟首に手を引っ掛け、思い切り引きおろした。
「あ…っ」
 声が喉から漏れ、ボタンが弾けた。
 白い身体の前面が現れたのを見て、もう一人の男が面白そうに含み笑いを漏らした。
「こりゃ、さっきの女よりずっといいぜ。俺は刑務所でこの味を覚えたんだ」
 薄汚い手で腹部を撫でられる感触に、ロイは全身に粟を立てた。
 二人がかりでめちゃくちゃに服を裂き、ベルトに手をかけた。
 次の瞬間、男の身体はロイの前から空中に持ち上げられるようにして、姿を消した。
 ジムが激しいパンチを食らわし、男はその場で伸びた。もう一人が振り返りざま、ビリーの蹴りを顔面で受け、その場で失神した。
「大尉……!」
 ジムが戻ってきて手を伸ばすと、ロイは震えながら身体を縮めた。
「やめてくれ…、やめ……」
 ロイは目をきつく閉じ、そう呟いていた。
「……おい、大尉…?」
 ビリーはジムのそばにしゃがみこみ、信じられないものでも見ているような顔をした。
 ジムはロイを抱きしめた。
「いや……はな……せ、触れる……な!」
 離せと身を捩るのを、ジムは離さなかった。
「すまん。こんなところを歩くんじゃなかった」
 しばらく抱きしめたまま頭の上に唇をつけ、ジムは全身で安心させることに集中した。もがいていた身体は、力が抜けたように大人しくなった。
 ビリーが洒落たブランドのコートを脱いで、ロイの肩にかけると、ジムの顔を見た。
「どうなってんだよ?」
「――帰ろう」
 ジムの言葉に、ビリーはタクシーを拾ってきた。
 暴れるのをやめた、呆けたような身体を立たせると、ジムは後部座席にロイを座らせ、自分も側に入った。ビリーは助手席に乗り、振り向いてじっと見ている。
「大尉、ロイ、しっかりするんだ」
 ロイは目を閉じたまま、動かなかった。
 頭から血が流れて目に垂れてくるのを、ハンカチで押さえながら、ジムはロイの名を、何度も呼びかけた。
 ビリーは黙ったまま、車のフロントグラスを見つめていた。
 ジムの、低い真摯な呼びかける声が、ただごとではない気配を伝えている。
 車を降りたときは、ロイは意識がなくなったように、立てなくなっていた。
 ジムはロイを横抱きに抱えあげた。
 医者を呼ぶか? というビリーに首を振り、エレベーターのないアパートを四階まで上り、ジムはロイのポケットの鍵でビリーにドアを開けさせた。
 ベッドにロイを下ろしたジムは、靴を脱がせ、破けてずたずたになったシャツの前を広げた。
 わき腹に蹴られた跡がついており、ジムはそれを触診してみた。
 額の脇から血は止まっていたが、顎も赤く腫れ上がっていた。
 バスルームへ行ってタオルを濡らし、顔を拭いてやる。
 ロイは目を閉じ、荒い息をしていた。
「目を開けて」
 ジムが声をかけても、ロイはきつく目を閉じ、何かを呟いていたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「……いったいどういうことだ? 曹長、大尉のこの姿はなんなんだ?」
「質問はあとにしてくれ、ビリー。すまんが珈琲を淹れてくれないか? キッチンのカウンターの上にある」
 ビリーにこの姿をあまり見せたくない気持ちが走り、つい出た言葉だった。
「珈琲だって? 暢気だな」
 だが、ジムの気持ちが伝わったのか、ビリーはしぶしぶカウンターに歩いて行った。間もなく、粉を轢く音がして、香ばしい薫りがベッドルームまで漂ってきた。
「着替えなきゃ……」
 ジムがぼろぼろになった服に手をかけると、ロイの唇から小さな悲鳴じみた声が漏れた。何かに抗うように手を前に出し、身を捩っている。
 ジムはベッドに飛び乗り、頬を軽く叩いた。だがそんなことには気づかないほど、ロイは錯乱していた。
「さわる…な、……いやだ、さわるな……」
 涙を流しながら、シーツを掴み、逃げようとずりあがり、ジムが身体を羽交い絞めにすると、更に呻いた。
 ビリーがベッドに駆け寄り、横から押さえ込む。
「ジム、ジム、……、ジム…死ぬな、たすけ…俺をたすけて……」
 ジムはそんなロイの身体を懸命に押さえ込み、落ち着け、落ち着け、と声をかけ続けた。
 激しい息に胸を上下させていたロイは、引きつったような声を上げ、そのまま脱力した。
 気を失ったのだと分かったが、ジムは愕然としたままロイを押さえつけていた。
 ジム自身がぜいぜいと肩を上下させていた。
 ビリーは額の汗を拭きながら、珈琲を淹れにキッチンに戻った。

 さっきのショックのせいで、幻覚が来たのだろうと、ジムは察していた。
 ジム、死ぬな、という言葉は、さっきの状況には合わない。だとすれば、ロイの今の様子は嬲られていたときの再現に違いないと思った。
 常にそれを意識しているためか、ジムはどうしても発想がそこに繋がってしまう。
 ロイが自分の名を呼んだことで、ずっと自分に救いを求め続けていたのではないかと、ジムは勝手に解釈した。 
 ロイはあの牢の中にいたときから、心の中でジムに助けを求めていたのかもしれない。
 上掛けをかけてやり、しばらくその顔を眺めていたが、ビリーに呼ばれてリビングへ出て行った。
 珈琲の薫りに、強張っていたジムの心が、ほんの少し緩んだ気がした。
「……前にな、新入りの儀式があったんだ。大尉のな」
 珈琲を片手にソファに座ったジムが、床に胡坐をかいたビリーに語りかけた。
「あれはすごかった。十一人いたのに。一人も大尉に触れることができなかった。指一本な」
 しゃべりながらも、ロイのケンカの仕方が思い出された。
 チームの全員をぶん殴った時の、鮮やかな身体のきれを、目の覚めるような思いで見てから、まだ半年程度しかたってはいない。
 チンピラに押さえ込まれて蹴られた時、ロイの目にはおそらくチンピラではなく、他のものが見えていたのに違いない、とジムは思った。意識がどこかへ行ってしまうほどの恐怖を、あの場面が思い出させたのだ。
「聞いた。顔に似合わず強いってのは知ってた。空手の教官が試合してのびちまったからな。俺みたいな我流と違って基礎が入ってる。なのになんであいつ、たった二人にやられたんだ……。まるで反撃してなかったように見えた。……ジム、これは後遺症か? その……捕虜になったときの」
 ジムは考え込むような、戸惑った目を伏せた。
「鞭のあとを見たぜ」
 ビリーの言葉に、ジムは顔を上げた。
「……嬲りやがったのか? 俺はうぶな大尉と違ってそっちのほうは詳しいんだ。どう見たってあれは……」
 黙っているジムに、ビリーが鼻を鳴らした。
「知ってるか? 俺の一番嫌いなことは、のけもんにされることだ。お前の出方次第じゃ味方にも敵にもなるぜ。扱いを間違えるなよな」
「……ビリー」
 ジムが苦しそうに唸った。「……確かに…ただ殴られたり蹴られたりしたわけじゃない。けど…こんなに順調に回復してたのに……。心は…まだ傷ついたままだったんだろうか?」
「大勢でやったのか?」
 ジムは首を振った。
「聞かないでくれ、ビリー。思い出したくも考えたくもない。だが、やつらは殺そうとしたんだ。……嬲り殺すつもりで…」顔を覆った手の間から嗚咽が漏れた。「さっきの姿を見たか? 我を忘れるほど、怯えてた……。どれほどのものだったか、想像がつくだろう?」
「今日のあいつら、手強かったな」
 ビリーが言った。「俺はやられるかもと思ったぜ。すげえ力のあるやつだった」
「ああ、俺も苦戦したな。ただのチンピラじゃなかった」
「あのまま二人ともやられてたら……」
 ビリーが何を言いたいのかが分かって、ジムは眉を顰めた。
「……やつら、本気だったと思うか?」
「本気さ。あいつらにとって、男でも女でも関係ないんだ。……未遂であんなだ。ほんとにやられてたら……死んでたな。ショックで」
「かもしれん。想像したくもないな。――さあ、俺も疲れた。帰る気がないのか?」
 ジムが言うと、ビリーは挑むような目を向けた。
「俺を敵に回すなと言ったろう?」
 ジムは苦笑し、頭を振った。
「狭いから寝るところがないんだ。まあいいか。お前にソファを譲るよ」
「お前は?」
「床で寝るさ。俺の家と違って、ふかふかのラグが敷いてある。野営のことを思えば天国みたいなもんだろ」
 ビリーはジムの肩を叩き、クローゼットから勝手に毛布を出してソファに寝転んだ。
 確かに敵に回すとうるさい男だが、味方につけておけばロイのためにもいいだろうと、ジムはため息をついた。あの姿を見られては、ごまかしようもなかった。
 ジムは伸びをして床に足を投げ出すと、ベッドにもたれかかった。
 眠っているロイの顔に目を移す。眉をよせ、眉間に険しい皺が立っていた。
「…ん……」
 苦しげな声が漏れた。ジムは思わず額に手を乗せた。
 タオルが温くなっているのに気がつき、新しく冷たい水で濡らしなおし、そっと額にかけてやると、少し表情が戻った。
「ジム、死ぬな、俺をたすけて……」という、さっきのせっぱ詰まった叫び声が耳に蘇った。
 安心するのは早かったのかもしれない。いや、これまでは確かに問題なかったのかもしれなかった。
 だが……。
 ジムはまたベッドにもたれかかり、目を閉じると、いつの間にか眠っていた。

 ジムが目を開けると、明かりがついたままの室内にロイの姿がなかった。
 飛び起きてあたりをうかがうと、真っ暗なバスルームに人の気配がした。
 ジムが飛び込むと、ロイが蹲っていた。
「ロイ?」
 ジムは、ロイの前にひざまづいた。
 膝になにかが当たる感覚に下を見ると、睡眠導入剤の空のビンが転がっているのが目に入った。
 ジムは有無を言わせず、ロイの口をこじ開け、指を喉に突っ込んだ。喉の奥が反応して胃の中身を便器にぶちまけた。
 たくさんの白い錠剤が、音をたててピンク色の便器に当たって転がり落ちた。
「なにをしてるんだ、馬鹿野郎!」
 ジムは思わず大声を上げ、ロイの頬をぶった。
「ロイ、しっかりするんだ! 目を覚ませ!」
 ビリーが驚いて、バスルームの戸口に突っ立っているのが見えた。
「水! 水だ!」
 ジムの声に、ビリーはすぐにグラスに水を汲んできた。
 受け取りながら、「もっとだ」と、叫んで無理やりロイに飲ませた。何度もその水を戻させて、残った錠剤を吐かせた。
「……あんたが死んだら、俺も死ぬぞ!」
 ジムが怒鳴るように言うと、ロイは息をきらして目をそらした。
「眠れない……だけだ」
「ロイ?」
「死ぬつもり……なんて、ない……」
 気弱な声でロイが言った。「いずれ忘れると…思っていたのに……眠れない……んだ」
「ロイ、だからって……これは飲みすぎだ!」
「ほっといてくれ!」ロイが叫んだ。「おかしくなりそうだ!……いったい俺はどうしたんだ?」
 頭をがっくりと落すと、いきなり気力が抜けたような声になった。
「薬……ぜんぶ飲んだ……のか? 俺は……」
 ジムは何も言えずに手を伸ばしたが、ロイはその手を弾いた。
「……治ってなどいなかった。俺はもう、もう……」
 ロイは転がった空の瓶を手に取り、じっと考え込んだように黙っていた。
「これを飲まなきゃと思ったんだ。眠ろうと……。全部飲んだなんて、思わなかった……」
「すまん、大尉……すまなかった…」
 ジムは首を振った。涙があとからあとから溢れ出て止まず、それは嗚咽となって、ジムの身体を震わせた。
「なんで、お前が泣くんだ…。お前のせいじゃないのに……」
「死なないでくれ…。頼むから…。たのむから……ロイ…!」
 ロイはジムに肩を抱かれたまま、項垂れていたが、やがて呟くように言った。
「言ったろう? 死のうと思ったわけじゃない。……すまないが、シャワーを…浴びたい」
「シャワー?」
「汚れてる……。さっき…汚れた手で……触れられた」
 ジムはドアのほうを見たが、ビリーの姿はなかった。
 ロイはそのまま、バスタブに入り、ビニールのカーテンを閉めた。下着とパジャマがカーテンの上にかけられると、すぐに水音がしてきた。
 ジムは洗面所の薬棚を開け、頭痛薬や剃刀などを手にとって、ドアの外に出た。死ぬつもりはなかったと言っていたとはいえ、危険なものを目に触れさせたくなかったのだ。
 ビリーがドアのすぐ横に、膝を立てて座り込んでいた。
「……見てられねえよ」
「ああ。ショックで混乱したんだろう。さっぱりしたら正気に戻るさ」
 ビリーは立ち上がった。
「……あいつの面子を保ってやるか。俺はいなかったことにする」
「うん。その方がいいだろう」
 ビリーは立ち上がると、そのままドアの方へ向かったが、ジムはさっきのビリーと反対側の壁の前に座り込んで、膝に頭を乗せたまま、壁を見つめた。
 玄関のドアが閉まる音がした。
 悪いやつじゃないんだな、とジムは思いながらその音を聞いた。
 ジムが見張るようにバスルームの前に陣取っていると、ドアが開き、少しすっきりしたような顔でバスローブ姿のロイが出てきた。
「大丈夫か?」と、声をかけると「取り乱してすまなかった」と言いながら、ベッドルームに戻っていった。
 箪笥から下着を出して身につけ、けだるげな様子でベッドに乗る。
 冷蔵庫から出したイオン水を差し出すと、ロイは飢えたようにそれを喉に飲み下した。
 ジムはベッドを覗き込むようにしてロイを見つめた。
「大尉、もう二度とこんなことはしないと約束してくれ。たとえ無意識でも。そのときは、俺も一緒にいくからな。絶対にお供しますよ」
 ロイは冷たい目をして、うんざりしたような顔をした。
「もうしない。……でも、お前が俺につきあう理由はないだろう?」 
「あんたには関係なくても、俺はあんたが好きだよ。一生つきあっていける友人になりたいとずっと思ってた。嫌だと言われても俺はそうする。死ぬなら一緒に死ぬ」
「そんな……脅すようなことを言うな、ジム……」
「脅しでもなんでもいい。俺はそうする。絶対するからな!」
 ロイは、項垂れてベッドに顔を埋めた。
「馬鹿だ、お前は……」
「知らなかったんですか? 俺は馬鹿なんです」
 ジムは、顔を真正面に向け、ロイの瞳に焦点を据えた。
 恐ろしいほどの真剣な表情だった。
「……俺があの時どんな想いで見ていたかなんて、あんたは知らないだろう。あんたが苦しいのは当然だ。だが、見ていた俺も苦しいんだ。あんただけをひとりで苦しめたりしない。俺は……」
「……やめてくれ!」
 ジムの言葉に、ロイは顔を覆った。
 覆った手と顔の隙間から涙が零れはじめた。
「俺は知っているぞ。あんたは、どんな目に遭っても、一言も弱い言葉は吐かなかった。許しを請いもしなかった。殺されるかもしれないことを承知で、あんたは逃れるための言葉を一切口にしなかった」
 そうだ。
 口にしなかった。
 なにも。
 それどころか、最後の最後まで誇りを捨てなかった。だからこそ、それがますます連中を煽った――。
「……ちがう。していたんだ。心の中で……。跪いて、何でもするからもうやめてくれと、慈悲を請い続けていたんだ…俺の身体は……、腐っている。体液と血にまみれている。身体の隅々まで…、穢れているんだ……」
「……あんたにキスしたいよ、ロイ」                     
 ロイはきょとんとした顔でジムを見た。
「何を言っているのか、わからない」
「穢れているなんて、言わないでくれ。あんたは綺麗だ」
 ジムは思い切って、ロイの額にそっと自分のそれを触れさせた。びくっと身体が揺れた。ジムはもう一度、今度は頬にキスをした。
 軽い、ほんの触れる程度のタッチだった。
「……ばかなことはやめろ……汚いんだ…。誰にも触れられたくない…」
 ロイは目を閉じ、やがて首を振った。
「おかしいぞ、お前……」
「ああ、ちょっと俺は今おかしいかもしれない。確かににばかなことだな」
 ジムが言うと、ロイは毛布を引っ張ってベッドに乗り込んで、そのまま横になった。ベッドはダブル程度の広さはあるとはいえ、大きな図体の男が二人はいれば狭い。それでも、ジムは一瞬でもそばを離れる気になれなかった。
 ロイはジムの視線を避けるように背を向けている。
「ジム……」
 背を向けたまま、ロイが小さな声で言った。「お前が死んでいたんだ」
「うん? 俺が? どこでです?」
「それが一番怖かったのかもしれん……」
 ジムはなんだか分からないまま、「俺は生きてるぞ。忘れないでくれ」と、答えた。
 そういえば、「ジム、死ぬな」と言っていた。
 ロイは夢の中で自分が死んだ夢を見ていたんだろうか、とジムは思った。何度も意識を失っていた姿を見て、ロイはあの時ジムが死んだと、何度も思ったのかもしれなかった。
 ロイは頷き、シーツに乗せていた手をぎゅっと握った。
 ジムはロイの細く長い指と、手の平を大きな手の中に収めた。
「覚えているか? 病院で毎日こうして、あんたの手を握ってた」と囁くように言った。意外にもロイは手を離そうとはせず、素直に頷いた。
「あの時は穏やかに眠っていたように見えたんで、つい手を離すことができなくて、看護師に見られてずいぶん照れくさい思いをした」
「……ん」
 ロイはそう言って、握られている自分の手を見た。「この温もりを、覚えている……」
「馬鹿なことのついでに、このまま少し握っていてもいいか?」
 ロイは答えなかったが、振りほどこうとはしなかった。
 ジムはスタンドの明かりを最小に絞ったが、全部は消さなかった。
 なにかあったときに咄嗟に見えないのが怖いからだ。
「おまえ……まるで太陽……みたいに……」
 多少の薬が残ってしまっているのか、呂律がもつれたことばで、ロイは呟いた。
「太陽? ――なんです?」
 ジムは片腕で身体を支えて、ロイの顔を覗き込んだ。
「太陽……ひかり……」
 ロイはすぐに、浅いながらも、規則正しい呼吸を始めた。
「ずっと握っていてやる……」
 ジムは、その寝顔を見ながら呟いた。

 トイレに行きたくて目が覚めたジムは、ロイがぐっすり眠っていることに安心した。
 時計を見ると、もう八時近かった。
 夕べ寝たのが一時くらいだったことを思えば、けっこう眠ったわけだ、とジムは思った。
 そっと息を窺うが、ロイの寝息は安定していた。
 ジムの手を逆にロイが握っており、顔も穏やかな表情を浮かべている。
 もう少し寝かせてやりたい、と思ったジムはトイレに行くことを我慢した。
 黙って横になったまま、ロイの顔を眺めていると、ジムはおかしな気分になってきた。
 小さな華奢な顔だ。
 今握られている手と同じくらい、それは繊細に見えた。
 同じ男として生まれてきて、なぜこんな罪作りなまでに美しい造作をしているのかと思うと、なまじ綺麗なのも考えものだと思う。
 ロイには性などないかのようだ。
 鍛えている時でさえ、あの歓迎儀式で裸に剥かれたときのロイは、仲間の男たちを妙な気分にさせた。もともとの骨格が細いほうなのか、体脂肪の低そうな、それでいて筋肉質とも違う、ほどよく肉がうっすらと乗っている、するっとした人形のような綺麗な身体だった。
 ましてや今の身体は、肉が戻り切らなくて、気の毒なほど細い。身体に合わせて購入しているはずの下着のシャツでさえ、緩んで皺が目立つ。
 ジムはそっと顔を覗き込むと、思わず唇に唇を触れていた。                                 
 ロイの瞼がぽっかりと開き、青緑の瞳が、まるで夏の草につく雫のような柔らかな光を朝日にきらめかせた。
 ジムはぎょっとして、思わず仰け反った。
「……おはよう」
 ジムが仰け反ったまま、あわてて微笑むと、ロイは眩しそうに瞬きをし、「おはよう」と言った。
「眠れたみたいですね?」
 ジムが言うと、頷いた。
「なんだか……楽しい夢を見ていた」
 ロイの言葉に、ジムは跳ね起きた。
「そうか、よかった。じゃあ、ちょっとトイレに行ってもいいかな?」
 自分がジムの手を握り締めているのに気がつき、ロイはあわててそれを離すと、頬を赤らめた。
 ジムは、目覚めたロイの顔が普通だったことに安心していた。
 ジムがトイレから出てくると、カシャカシャという音が聞こえ、キッチンに人影があることに、初めて気がついた。
 ビリーが大きなボールを手に持って、ジムを見ないまま泡立て器でなにかを混ぜている。
「ゆんべ、鍵かけないで帰ったまんまだったからな。勝手に入って勝手に飯作ってるんだ」
 なぜか怒ったようなビリーに、ジムがキッチンの中に入って肩を抱いた。
「お前、いいやつだな。知らなかったよ」
 ビリーは混ぜていた卵の入ったボールを置き、腕組みをしてジムを睨んだ。
「あんな狭いベッドで手を握り合って一緒にねんねしやがって。まるで美女と野獣だぜ」
 ジムは頬を赤らめた。
「仕方ないだろう? 夕べあんなだったんだから。あれはたんに落ち着かせるために……」
「おまえら、できてるわけじゃないんだな?」
「ば、馬鹿なことを言うな」
 小声で言うと、ビリーはじろりとジムを睨みつけた。
「どうだかな。俺はどっちもOKだぜ。野郎だろうと、女だろうと好きならかまわない。おまえは違うって言うのか?」
「ち、ちがう。俺も違うが、あの大尉がそんなわけないだろう?」
 ふうん、ともう一度ジムを人睨みし、ビリーはボールをジムに押し付けた。
「バトンタッチ! 今度は俺が落ち着かせる」
「馬鹿。もう戻ってるよ。よけいなこと、言うなよ」
 ビリーは、指を銃の形にして、バンとジムを撃った。うっと、ジムが腹を押さえた。
「つきあいいじゃん、おまえ」
「うちの姉のガキどもが、反応しないと怒るんだ。映画用の馬みたいに、くせになっちまってる」
 なおも、ビリーはバンバンと、口で発射音をさせながらジムを撃ち続けた。
 うう、とジムは倒れかけて、笑いながら起き上がった。
「だから、癖になってるって言ってるだろうが。いつまでもやらすな」
 ぽん、と肩を叩きながらビリーが笑って、キッチンを出た。
「んじゃ、おはようのキスしてくるぜ。俺はおまえと違って、大尉は守備範囲だ」
「ビリー!」
「冗談だよ!」
 肩を怒らせてベッドルームに向かうビリーを眺めて、ジムは苦笑しながらフライパンに卵を流し込んだ。

「オハヨウゴザイマス、大尉殿」
 ビリーが敬礼をして、ベッドに飛び乗った。
 ロイの身体にかぶさるように両手両足を踏ん張り、真上からロイを見下ろすと、にんまりと笑う。
「ビリー? ……どいてくれ、そんなところから見られると目眩がする……」
 ビリーははっとして、身体を起こした。
「今日はな、朝食のサービスに来た。俺は早起きなんだ」
 それからごろりとロイの横に寝そべった。「まあ、いまジムが続きをやってるから。それまでお話でもしようぜ」
「ゆうべ、ここにいたのか?」
 ロイがだるそうに言う。
「今来たって言ったろう?」
 ロイは微かに眉を顰め、ビリーの顔を見た。
「……ビリー」
「しつけえな!」
 ビリーはロイの手を握った。「ほんとうに嫌なやつだ。俺はあんたが大嫌いだよ!」
「何度も聞いたな。嫌いなのになんで手を握ってる?」
「俺は握りたいときは、握るんだ。意味なんかねえ」
 ビリーはそのまま手を振り回した。
 ロイは諦めたように、されるままになっていた。
「前にあんたを好きだなんて言ったのはうそだ。あんたのそのサイボーグみたいに取り澄ました顔を見てると、俺ははらわたが煮えくり返るんだ」
 滅茶苦茶な理屈に、ロイが思わず苦笑した。
「嫌われるのはつらいな……おまえに好かれるためには、どうすればいい?」
 ビリーはいきなり涙を溢れさせた。
「……ビリー?」
 ロイは驚いたように身体を起こした。「おまえのことがよく分からない。どうしてそう感情がころころ変わるんだ?」
「ちくしょう、俺は怒ると涙が出るんだ!」
 ビリーは腕で顔を拭うと、仰向けになった。
「キスしてくれたら、泣きやむ」
 ロイは、ぽかんとした顔で、ビリーの顔を見つめた。
「早くしないと、大声で泣くぞ」
 ぺしっと、ロイがビリーの額を叩いた。
「なにすんだ!」
 ビリーが額を抑えて、睨んだ。
 ロイは笑った。
「おまえに、キスなんかしない。してほしかったら、俺を好きだと言い直せ」
「……かっわいくねえ」

「朝食ができたぞ」
 ジムがベッドルームを覗き込み、ビリーの顔を見て目を丸くした。
「どうした?」
「怒っているらしい」
 ロイが言うと、ビリーが跳ね起きた。
「そう。まず俺の朝食を食え! なんだったら毎日でも作りにきてやるぜ!」
「お前のじゃなくて、結局作ったのは俺だ」
 ジムが憮然と言い、そのやりとりに、ロイは微笑を浮かべた。
「ありがとう。ふたりとも。食事をしよう」
 起き上がってリビングへ行く、その後ろ姿から、ビリーはジムの顔に目を移した。
 ジムが黙って頷いた。
 お互いに笑っているのか、顰めているのかよく分からない表情だった。

 ビリーはひとりで騒いで朝食が終わると、さっさと帰って行った。
「何をしにきたんだ、あいつは……」
 ジムが行儀悪く食べ散らかした皿を片付けながらぶつくさ言った。
「夕べは……」
 ジムがそのまま流し台で皿を洗い始めると、ロイはキッチンのカウンターの椅子に腰掛け、その様子を見ながら言った。
「……かなり、酷かったのかな?」
 ロイの言葉に、洗っている皿を持ったままジムが振り返った。
「なんです?」
「昨日……。酷く取り乱してしまった…。だからビリーが様子を見に来たんだろう?」
 ジムは水を止め、カウンター越しに顔を覗き込んだ。
「誰だって、ぎょっとなっちまうことはある。まだ、退院して四ヶ月もたってないじゃないですか。たまに夢を見ることだってあっても不思議じゃないし、昨日みたいなことでショックを受けたってそんなに落ち込むことはない」
「俺は……死のうとした…?」
「大尉」ジムは手を伸ばして、頭をぽんぽんとたたいた。「考え込んじゃいけない。もう忘れることが大事です。そんなつもりはなかったんでしょ? ちょっとパニクっただけです」
「……そうだな」
 ロイはジムに微笑んでみせ、「すまない」と言った。
「でも、これからもし、何かあったら、短縮1番を。いいですね? ちっとも電話がないと、俺が淋しいんですよ」
 ジムが慌てて付け足した。「まさか、解除してしまったわけじゃ…」
 ロイは笑った。
「いや、シールも貼ったままだ。ありがとう、ジム」 




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評