[ビリーお兄ちゃん] of [硝子の破片]


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第二十八章 ビリーお兄ちゃん

 なんだよ、とビリーは担いだ男の軽さに、眉をひそめながら足を速めた。
 ずっと病欠で、実家に戻ったと聞かされていたのに、いったいどういうことだ、とビリーはカーターやジムの顔を思い浮かべ、頭の中のその連中を罵った。
 家の中に運び込んだロイの濡れた服を脱がせ、毛布にくるむと、キャシィがそれを一度開いて、乾いたタオルで身体を拭いた。
 ソファに寝かせられたロイは、意識があるのかないのか、目を閉じてぐったりしている
 看護師の女性には、男の裸など、羞恥の対象ではないらしいな、とビリーはなんとなく眺めていた。脱がせたジーンズがなんでこんなにばかでかいの? とキャシィが呟いたが、それも含めて、とにかくすべてが奇妙だった。 
 脈をとり、体温計を口に入れてからキャシィはビリーに聞いた。
「あなた、大丈夫?」
 自覚はなかったものの、ビリーの形相が変わってしまっている。
「……ん」
 不機嫌そうな声で頷く男に背を向けて、キャシィはロイの額をタオルで拭いながら、救急箱を持ってくるように言った。
「額に打ち身があるわ。少し切れてる。転んだのかしら?」
「……さっきの男がやったんじゃないか? 殴られてるのか?」
「どうかな。でも直接殴られたわけじゃないわ。泥がついてるから、どっちにしても地面で打ったのよ。消毒しておくわ」

「ロイ、いい子で。おかあさんを頼むな」
 おとうさんの出かけた朝――。
 整えた口髭が、頬に当たる感触。その下から柔らかな唇が触れた。
 そして帰ってきたおとうさんは、作り物の人形のようだった。その唇は、もう柔らかくも温かくもなかった。触れた髭だけが、おとうさんがまだ生きているようにいつもと同じに感じられた。
 その姿が、ロイの姿に変わり、けれどもロイはそのそばに立っている。
 これは自分ではなく、ロイに似た男だ、となぜだかロイにはわかっていた。そんな姿を見たわけでもないのに。
 母が取り乱して泣き崩れていた。
 すでに遺体はなく、場面が変わっている。ロイはおとなになっていた。
「あなたは、大学を出て、研究所へ行ったんじゃなかったの?」
 卒業後、士官学校へ入ったことがばれて、母はロイを呼び戻した。すでに士官学校も卒業しており、ロイはそのままSEALSの訓練学校へ進むことを決めていた。
「僕は、特殊部隊に志願したんです、おかあさん」
「……どうして? あんな危険なチームに入る理由はなに? 私は、私は絶対に許さない!」
「でも、もう決めたんです」
「ロイ、お願い。海軍を辞めて、他のところにして。そういって大学へ行ったんじゃなかったの? 大事な人を失うのは、もう、たくさん」
「おとうさんは、僕が海軍に入るのを望んでおられた」
「ロイ、あなたが私に逆らうなんて……。しかもよりによって、SEALSだなんて」
「テリーがSEALだったから、ですか?」
  母は、青ざめた。
「なぜあなたがそれを……」
 白い磁器のような肌が、透明なまでに血の気を失っていく。
 ときどき、僕のことをそう呼んでいたでしょう? ――とはロイは言わなかった。
 ロイは、家を出た。心弱い母を残して。
 母が好きだった男と同じ仕事。大切に、遠慮しながら母を見守り続けたロイは、それが母にとってどれほどつらいか承知していた。それが、ロイの母への気持ちの本音なのかもしれなかった。あてつけのように、この仕事を選んだことが。
 いい子で、いい子でいた。母の望むままに、逆らわず。海軍のエリートになるための、軍の最高学府へ行くこともせず、彼女の希望でもあった一般の大学に進んだ。
 だが、そこから先は、ロイの人生だ。あてつけなのか、実父の影響なのか、なんなのかわからないが、ロイは士官学校を出たあと、海軍でもっとも厳しい世界に進むことを決めた。
 懐かしい家。
 最後に父を待つために住んだ家――。
 歩いて行く先に、白い墓標が見えた。
 その先を、ジムとデインが歩いていく後ろ姿が見える。
 戦いに疲れ、血塗られた姿で。
 すうっと、陽炎がふたりの周りに立ちのぼる。黒い戦闘服の姿が消えていく。
 ロイは、その陽炎に手を差しのべた。
 置いて行かれる――。
 おかあさんが、恐れていたことが、今ロイには分かる。おとうさんのように、ふたりが消えていく。
 自分のそばから、大事な人が消えていく――。
「……行かないで……!」

「いやだ、……ジム……」
 泣きながら目を開けたロイを見て、キャシィはにっこり微笑んだ。
「素敵な瞳だわ。よかった。気がついたのね」
 ロイは、目の前の美しい女性をじっと見つめ、「おかあさん?」と聞いた。
「いいえ」
 キャシィはロイの前髪の下の、絆創膏に指を這わせた。「私はあなたのママじゃないわ」
 ビリーがつかつかと近寄り、突っ立ったままロイを見下ろした。
「……大尉、あんたどうしたんだ? なにがあった? さっきの男はなんだ? なんであんなやつと一緒にいたんだ? 今までいったいどこに……」
 キャシィは、立ち上がってビリーの唇を手で塞いだ。
「よしなさいよ。いきなり質問攻めしないで。まだぼんやりしてるみたいだから、なにか飲み物でも飲ませて、しばらくそっとしてあげて」
 ビリーは憮然と突っ立ったまま、開けた瞳を動かそうともしないロイを見つめた。
 キャシィは勝手にキッチンに入り、カップにミルクを注いで電子レンジに入れた。
 彼女がリビングから伺うと、ビリーはまださっきの場所に突っ立ったままだった。
 キャシィは、ビリーの肩に手をかけ、頬にキスをした。
「もう大丈夫よ、あとは風邪を引かせないように、ミルクを飲ませて。できればお風呂で温めた方がいいかも。汚れてるし。もし、急に高熱が出たり、意識を無くしたり、吐いたりしたら、迷わず911に電話をするのよ」
「帰るのか?」
「だって、あなた怖いんだもの。遊ぶ気分じゃないでしょ?」
 ビリーは、一度自分の顔を手の平で拭い、「助かったよ、ありがとう」と呟いた。どうやら、平常心を失っていたらしいと、やっと気づいた。
「ごめんな。確かに今夜はもう、、無理そうだ。けど、あんた、いい女だな」
 彼女は微笑んで玄関のドアを開けた。
「ナイチンゲールは、いい女に見えるものよ。早まらないで」

 言われたとおり、ビリーは朦朧としているロイの頭を支えて、温かいミルクのカップを傾けた。
「ぼうっとしてんじゃねえ。ほら、これでも飲め」
「……んー」
 ロイが、頭を捻った。唇から外れたミルクが、たらりとこぼれ落ちる。
「大尉、んーじゃねえ。零れただろうが」
「いや……きらい……」
「……きらい? ミルクがか?」
「ミルク、臭い、ロイ、きらい」
 目を閉じて、ロイは顔を背けた。
 ビリーは手に持ったカップが傾いて、中身が零れるのにも気づかずに、ロイの顔を見つめた。
「……大尉? おい、ロイ、ちょっとこっち見ろよ」
「いやだ、いや……ぶたないで」
「……ぶつ? あんたなに言ってるんだ、俺がわかってんのか?」
 ロイはますます身を縮ませて、ビリーから逃れる気配を見せた。
「いや…いやなことしないで! ジム、ジムたすけて……」
 大声を出したことに気づき、ソファにしがみつくようにしているロイに、ビリーはそっと手を触れた。
「まさか、頭どうかしちまったのかよ? 俺はビリーだぞ」
「ビ……り……?」
「ああ、ビリーだ。ロジャだよ。ロージャ!」
 ロージャ、と呟いて、ロイは顔をビリーに向けた。
 その、怯えた顔に、一瞬ビリーはまた過去の嫌な記憶に触れた気がして、眉をひそめたが、それがぐずっと歪むのを見ると、はっと現実に返った。
「………ロージャ…ビリー……」
「ああ、ビリーだ」
「チーム……のビリー……こわくない……ひと?」
「恐くないに決まってるだろが」
「こわいひと、どこ?」
「さっきのやつなら、追っ払ったぜ」
 ロイは、ビリーにしがみついて、泣きだした。
 その、子供のような無防備な泣き声に、ビリーは顔を強ばらせた。


 龍太郎は、空っぽの家の中で立ちつくしていた。
 電気がつかないからと、車から持ってきた懐中電灯で、家の隅々まで探したが、ロイの姿はなかった。
 雷に怯えたのではと、ベッドの下まで覗き、すっかり捜索する場所を無くしてしまっていた。
 ジュースのパックが床に落ち、リビングのラグを濡らしているのが、気になった。
「ロイ!」
 叫んでも、なんの返事もない。
 時計を確認すると、待っていて欲しいと言った一時間はとうに過ぎ、すでに三時間以上もたっていた。警察の事故処理が終わるまで、横転したトラックやそれにつっこんだ車が除去されずに、これまで待たされたのだ。
 雨はすでに雪模様に変わっており、龍太郎は、外の周囲をまた巡った。
 家の中で、電気が瞬き、ぱっと周囲が明るくなった。
 電線が回復したらしいと家に戻ると、玄関の入り口に大きな泥の足跡がついているのに気がついた。
 どう見ても、ロイの靴跡とは思えない。ロイは今、革靴など履かずに、スニーカーだからだ。
 龍太郎は、携帯を取り出して基地に連絡を入れた。
 だが、隔離されている連中への連絡は取り次がれなかった。もちろん、個人の携帯は切られている。
 バーク大佐への伝言を頼み、龍太郎は携帯を閉じた。警察へ行くべきだろうか。
 この足跡は、いったい誰なんだろう、と龍太郎は考えた。
 この男に連れられて、合意の上でどこかへ行ったのだとしたら――。だが、カーターは電話でそんなことは言っていなかった。龍太郎にわざわざ電話をかけてきたのに、違う人物にロイを任せるはずがない。
 あの三人の男と龍太郎以外に、ロイの今の状態を知るものなどいるはずがないのだ。
 彼らに連絡が取れない以上、龍太郎は他に方法が思いつかなかった。
 携帯を開いて、龍太郎はボタンを押した。
「もしもし、警察? 行方不明者の捜索を」

「みんな、いっちゃったの」
 まだ、嗚咽を続ける声が幼く言った。
 行っちゃったの……と、憮然とした顔で、オウム返しにビリーはロイの口まねをした。
「ベルがなったの。ジムもデインも、くろいののふくきた」
「そうか。呼び出しがあったんだな」
 まだビリーのポケットベルは鳴っていない。今のところ休暇を持続させてくれるつもりらしい、とビリーはほっとした。今回の休暇は正規なものではあるが、ビリーが念のために実家の親父が危篤なので西海岸へ帰ると、嘘の申請をしたおかげかもしれない。正規であろうとなかろうと、呼び出されることは珍しいことではない。
 ビリーは、ソファに肘をつき、頭を腕で支えたまま、ロイの様子を観察していた。ぼんやりしていたらしい顔が、だんだんはっきりと覚醒したようだった。
 少し熱はあるようだが、解熱剤を飲ませたおかげか、ロイは話ができるようになってきた。
 キャシィの言った、911の数字が頭を過ぎる。さっきおでこを打ったせいで、おかしくなったのかもしれないと思ったのだ。
 左手をずっと拳にしているので、「何を持ってる?」と聞くと、小さな小さなヘリの胴体が出てきた。プロペラも車輪もないが、確かにヘリコプターのプラモだ。
「なんだこりゃ?」
「ロイのヘリコプター」と言って、また握りしめた。
「墜落して、再起不能のヘリか?」
「ロイがとばすの。ジムがいいって」
 ――ということは、あの車に乗る以前からこいつを握っていたというわけか、とビリーは判断した。どうりで、見舞い先を聞いても教えもしてくれないはずだ、とビリーは唸った。ジムとカーターのやつら、俺をのけ者にしやがって、と無性に腹が立ってきた。
 ロイの身体が震えているので、ビリーはその肩に手をかけた。
「ぞくぞくすんのか? 寒い?」
「……さむい」
 ビリーは覆うように、ロイを抱きしめた。
「こうすりゃ、温かいだろう?」
「うん」
 擦りつけてくる金色の柔らかな髪が、鼻先をくすぐる。どう見てもロイだが、絶対にビリーの知っているロイではない。
「でも……キス……したらだめ」
「キス……って。誰かにそんなこと、されたのか?」
 ロイは、こくんと喉を鳴らした。じっと胸元に額をつけたままだ。
「誰がした? ジムか? カーターか?」
「……こわい…。ロイ、しらない……ひと」
「さっきのやつか?」
 ぎゅうっと、力を込めて身体が押しつけられた。
「こわい……こわいひと…ロイを……いじめる」
 ビリーは、ロイの顔を上げさせ、もう一度じっと見つめた。知性の光で冷たく輝くようだった青緑色の瞳は、驚くほど澄んだ無垢な光を湛え、ひどく怯えていた。
「わかったよ、もう聞かねえから。……俺のことは分かるんだな?」
「チームのビリー……」
 ああ、そうだとビリーはため息をついた。「で、おまえ、いくつなんだ?」
 ビリーのいいところは、こういう柔軟さである。
 カーターほどのこだわりも、ジムのようなショックも受けず、ほんの僅かの時間に、ビリーはロイが幼児になってしまったらしいことを受け入れてしまっていた。                          
 いくつ、と聞かれてロイは首をかしげた。
 長い指を出し、三本にしたり、四本にしたりして見つめていたが、「しらない」と、恥ずかしそうに答えた。
「でも、片手で数えられる程度なわけだ? それっくらいのガキなんだな? 今」
「ロイは、おとななんだよ。だって、デインとおなじそーこーなんだ」
「なんだ? そーこーって」
「フォード……たいいだからって、デインが。たってなさいって」
「――将校ってことか?」
 ビリーは吹き出し、げらげらと笑って床にひっくり返った。「おまえ、かわいいじゃねえか」
 かわいすぎる。あの知性と理性の塊みたいなロイ・フォードが、そーこーだと!
 だが、涙を拭って笑い続けながら、傍らに目をやると、ロイがなんともいいようのない不機嫌そうな、寂しそうな表情で睨んでいた。
「ロイ……へん?」
「ごめんな。ごめん、笑って悪かった」
 ビリーは思わず、その頭を撫でた。
 ロイの腹が、きゅうと鳴った。
「……腹、減ってる?」
 ロイは首を振ったが、ビリーが触れてみると腹部がぺたんこになっている。
「サンドイッチでも食うか? 作ってやるからさっきのミルクだけでも飲んでろ」
 いや、とロイは顔を背けた。
「はちみつ……」
 はあん、とビリーは首をかしげ、「蜂蜜、蜂蜜ね」と呟きながら、待ってろとキッチンへ行ってグラスを持って戻ってきた。
「蜂蜜なんかないから、チョコを混ぜてきた」
 頭を上げさせ、少しずつグラスを傾けながら飲ませると、ロイは素直に飲み込んだ。
「チョコミルクだからな。まずかないだろ?」
「チョコミルク」
 舌を出して、ロイは微笑んだ。
「サンドイッチの中身はなにがいい?」
「ジャム。あかいののイチゴ」
 あかいののイチゴね、とビリーはまた口まねをした。
「ピーナッツバターしかないな。それでもいいか?」
 好きではないのか、浮かない顔で頭を縦に振った。
「嫌いなら嫌いって言えよ。ガキなんだろ? ――じゃあチョコサンドにしてやるから。今ミルクにいれたやつ。それならいいか?」
 ロイは、嬉しそうに「チョコサンド」と言った。
「風呂、入れそうか? 食うまえに少しあったまったほうがいいな」
 ロイは頷いたが、戸惑ったように動かなかった。
 ビリーはさっさと立ち上がり、先に風呂場へ向かって、湯の栓を捻った。
「歯ブラシの予備はある。洗面台の鏡の中だ。歯も磨いて、上がったら俺の下着とパジャマを貸してやる。ヘリは置いて来いよ」
 リビングを覗くと、ロイは、心細げに、ビリーの方を見ている。
「下着はちゃんと、新品だから安心しろ」
 やがて、そろりと足を下ろし、毛布を巻いたまま、ビリーのそばまで来ると黙って立った。それを追い立てるように毛布を剥ぎ、洗濯機に放り込むと湯の中に入れた。
「泡、ぶくぶくして」
「手、だしな」
 ロイの手の平に、オレンジ色の硝子のような粒がざらざらと乗せられた。
「ドイツ製の高級岩塩だ。芯から温まるんだぜ。そいつをお湯に浸けてみろ」
 岩塩につけられた色が、手の平に流れ出てくる。
 舐めてみろ、と言われるままに舐めたロイは、しょっぱさに塩を全部湯に流してしまった。
 ほらよ、とスポンジを湯に放り込み、バスタブの棚を指さしてシャボンの瓶を示した。
「ぬくもったら、ちゃんと洗って出てこい。泥だらけなんだから」
 ビリーはキッチンへ行くと、袖をめくってパンを切り、チョコデップを塗りたくって皿に並べた。
 そのまま待てど暮らせど、ロイは風呂から出てこない。耳を澄ましても、水音ひとつしないのに不信感を抱いて覗くと、じっとバスタブの中に俯いて泣きべそをかいていた。
「おまえ、朝まで入ってるつもりか? さっさと……」
 ロイはじっとビリーを見つめている。
「ビリー、いっしょ、はいって」
「ああ? まさか、身体洗えない……ってわけじゃ……」
 まじかよ、とビリーは本気で頭を抱えた。「本当はさっきの美人のお姉ちゃんと入る予定だったってのに、なんでおまえなんかと……」
 ビリーはぶつぶつ言いながらも、しぶしぶと服を脱いだ。
 足を縮めるようにして向かい合って浴槽に入ると、ロイはほっとしたようにくっついてきた。
「くっつくんじゃねえ。裸なんだぞ、いたずらされたいのか?」
「くすぐる?」
「く……すぐる?」
 あまりにも真っ直ぐに見つめられて、ビリーは間の抜けた顔をすると、ロイの喉元で指をこちょこちょと動かした。
 ロイは首をすくめてけたけたと笑い、「いやだよぉ」と首を手で庇った。そのあまりの可愛らしい仕草に、ビリーは思わず脇腹や腹を目がけて指を這わせ、ロイはお湯をばしゃばしゃと撥ねさせて、笑いながら逃げまどった。
「おもしろいけど……」
 ビリーは顔にかかったお湯を手で拭って、呟いた。「なんか、哀しくなってきた、俺」
 スポンジを取って、「ほんとに俺に洗って欲しいのか?」と確認すると、まだくすくす笑っている顔にお湯をかけた。
 黙って洗われるのを待っている風なので、ビリーはシャボンをつけてそっと肩からスポンジを這わせた。押さえている方の手が、骨の浮いた身体に当たるのが気になって、ビリーの手つきはわざと乱暴になった。
「いや、いたい」
「じっとしてろ! こんなこと、今まで誰にもしてやったことねえんだ」
 顔までスポンジでごしごし擦られて、ロイは眉間に皺を寄せた。
「おちんちんも、俺が洗うのか?」
 ロイは自分のそれをじっと見下ろし、「うん」と頷いた。
 そりゃそうだろうな、とビリーは思った。そこを恥ずかしがって自分で洗えるくらいなら、全身洗えるはずだ。へいへい、とビリーはスポンジを動かしながらも、そんなことも恥ずかしいなどと思わないほど幼いのかと、改めて思った。
 スポンジを絞り、その手の甲で、思わず自分の目元を拭う。
「……ロイ、あんた……なんだってこんな……」
「ビリー、かなしい?」
「悲しいって、段階か。俺は情けなくて泣いてるんだ」
 ロイは、ビリーの首に腕を巻き付け、身体をくっつけた。
 ビリーは思わずその薄くなった身体を抱きしめた。

 モダンなパイプ式の広いベッドに、ロイを寝せると、ビリーも隣に寝ころんで、毛布と羽毛の布団を引っ張り上げた。
「とりあえず今夜は寝ような。いろいろ考えるのは明日だ」
 ロイはもじもじとビリーを伺っていたが、小さな声で「おしっこ」と言った。
「ああ、してこい。おねしょしたら困るもんなあ」
 ビリーは自分の発想にふぐっと笑いかけたが、ロイに手を引っ張られて顔を上げた。
「ビリー」
「……しっこもひとりでできないのか? バスルームはすぐそこだろうが」
「いや」
 うそだろう? とビリーは笑いを引っ込めた。
「ビリー、もうもれちゃう」
「だったら、風呂から上がったときにそう言え!」
 目をまん丸にしながら、ビリーは手を引っ張られて立ち上がった。
 どうせ見るなら、もっとセクシーなムードで見たかったぜ、と心で呟いたが、そんな冗談すら今のロイに言うことはできなかった。

 ビリーが夜中に目を覚ますと、熱い手が、自分の手を握りしめているのに気づいた。
 その手の温度に熱のあることを知って、びっしょりと汗をかいた身体を拭いて着替えさせた。
 枕元のスタンドの薄明かりの中で、ビリーはロイの身体をまじまじと見つめた。
 もちろん、さっき風呂場でも見たが、ベッドに横たわった白い皮膚に、目を奪われたのだ。
 薄そうな皮膚に這う傷跡を指先で撫で、浮いた肋骨を辿っているうちに、ビリーは妙な気分に囚われてきた。すっかりやせ衰えているとはいえ、口を開かずただ眠っている顔は、確かにビリーのよく知っている男だ。
「……びっくりするほど、色っぽい身体なんだな。も少し肉が欲しいけど」
 ビリーは、指先をそっと下腹部にも這わせていった。
 形のいい、身体と同じ色のものに触れ、身体は大人なんだから、貯まらないんだろうか、などとよけいな心配をしながらも、ビリーはそこに指を滑らせた。そもそも、子供になってなくたって、この男が誰かとセックスしているイメージなど湧かない。普段、どうやって処理してるんだ、とよけないことまで考える。
「……いや、こわい……」
 はっとして、ビリーは手を止めた。寝言だったらしいと急いで身体を起こしてシャツを着せ、上掛けを被せた。鞭で打たれて、複数の男にレイプされた、ということがにわかに甦ってきたのだ。
 行方不明だったときに戻った姿を見て、こいつはもう駄目かもしれないと内心怯えた気分になってはいたが、カーターから順調に回復していると聞かされていた。
 たどたどしい、幼いしゃべり方と、子犬のような瞳を思い浮かべた。
 人間が、いろんな精神的な重圧で壊れてしまうことは、知ってはいた。
 いたが、現実に見たことがあるわけではない。
 それも、よりによってビリーが内心適わないと、認めている男なのだ。錯乱した姿を見たことがあるものの、あれはまだ理解の範囲内でもあった。いくら経験豊富な自分だって、同じような目に遭えば、あれくらい取り乱してしまうかもしれないだろうことは、予想がつく。慣れているからと、レイプが平気な人間などいないだろう。ましてや、おそらく男に犯されるなど夢にも思わなかったはずの、潔癖を絵に描いたような人間だ。
 だが、まさかこんなふうな壊れ方をするとは、考えもつかなかった。
 それほど、受けた傷が大きかったということなのかと、ビリーはまた目尻を拭った。
 うっとおしく抱きついてくる身体を、さらに抱き寄せて、ビリーは仕方なく目を閉じた。
 車にロイを乗せていた男は何者なんだろうと、ビリーは考えた。
 コートの襟を立、顔を半分以上も隠すような、不審な男だった。
 本当に通りで拾ったにしても、ロイを連れて行ってどうするつもりだったのかと思うと、背筋が毛羽立つような不快感が襲った。
 頭から血を流して朦朧としている、幼児みたいな脳みその男を。
 おそらく車に乗せてから、具合が悪くなったのだろう。
 もし、あいつがあそこに車を止めなければ、今頃ロイは――。
 キャシィがおせっかいをしなければ――。
 あのまま通り過ぎなくてよかった、とキャシィに死ぬほど感謝の言葉を呟いた。

 朝から、ビリーは、閉口していた。
 大人しくテレビの前に座っているロイを見つめながら、ビリーはため息をついた。
 五日間の正規の休暇の残り三日が、台無しになってしまう予感にビリーは心底がっくりきていたのだ。基地に連絡を入れてみたが、まだ誰にも連絡はとれないようだった。
 下手すれば、ビリーの休暇すら停止されて呼び出されかねない。そうなる前に遊び倒したかった。
 キャシィは、今夜はもう病院の勤務で会えない。
 まだ恋人ではないが、悪くはないと思いつつ、会えないなら他を当たりたい気もした。
 だが――。
 こんなお荷物を部屋に置いたまま、夜出かけるのはさすがに躊躇われる。
 だからといって、誰かを連れ込んでもムードもへったくれもない。
 ビリーに弟や妹はいない。兄だけで、ビリーはさんざんやりたい放題に育ってきたやんちゃ坊主だった。だから、小さい子供の扱いなど分からない。
 ましてや、顔は苦手な男の顔なのだ。
 しかもこいつは、片時もビリーのそばから離れようとしない。よほど昨日のことが怖かったのか、トイレにさえついてこようとするのだ。見るのはいいが、見られてると出るものも出ない。
 夕べはキャシィに感謝したが、今はちょっと恨めしくさえ思えた。
 だが、あまりにも哀れな姿のロイを見ていると、ほうってもおけなかった。誰にどう委ねたらいいのかすら、検討もつかない。
 つかない以上、自分が面倒を見るしかなかった。
「買い物に行かないと、食料がないんだ。少し留守番してろ」
 ビリーが上着を取って玄関に向かうと、ロイが縋るように裾を引っ張ってついてきた。
「ロイも行く」
「駄目だ。まだ熱があんだろ。ここでひとりでテレビでも見てろ。すぐ戻るから」
 ロイは顔を歪ませ、涙を零した。
「ひとり……いや……こわい」
 しょうがねえなあ、とビリーは自分のダウンジャケットを着せ、外に出た。
 着ているセーターからズボンまで、全部ビリーので間に合わせている。ロイはビリーより少し背が高い。ちょっとズボンの裾が短いのが勘に触ったが、履いてきた泥のついた靴がスニーカーなのに胸が痛んだ。
「似合わねえな、その格好にその靴が。俺様の美意識に反する」
 だが、ぼさぼさともつれた頭と、真抜けたような顔を見て、まいいか、とドアを開けた。
 ロイは、ビリーにくっつくようにしてついてきた。くしゅんとくしゃみをするので、自分が引っかけてきた襟巻きをぐるぐると巻いてやった。
 仕方ないから一番手近のコンビニで我慢しよう。パンとハムとチーズくらいなら手に入る。野菜は、コールスローで我慢するしかない。
 雨のあと凍った地面を歩く足下さえ、覚束ないように見える。
 ビリーはロイの冷たい指先を握った。
 嬉しそうに、微笑みを浮かべた顔を見て、ビリーもつられて笑ってしまう。真っ昼間、大の男が手を繋いで歩いている姿を、人々が怪訝な顔でちらりと見ていくのに気づくと、笑いが引っ込んだ。端から見れば、妙齢のハンサムな男がふたり、いちゃいちゃして歩いているだけなのだ。これまで、男の恋人もいるにはいたが、さすがのビリーも真っ昼間に人の多い通りで、手を繋いで歩くようなことはしたことがない。
「こいつは、大人に見えるが頭は幼児だ」と、ひとりひとりの胸ぐらを掴みたくなったが、我慢した。
 コンビニで手早く食パンやジュースなどの食材を手に取ると、ビリーはレジに立った。
 ロイはビリーの裾を掴んで、珍しそうに店内を見ていたが、レジにはついてこなかった。
 ふと見ると、ロイが棚の前で一心になにかを見ている。
「なんだ? なにか欲しいものがあるのか?」
 ううん、とロイは首を振った。
「じゃあ、どれを見ていた?」
 ロイが指さしたのは、パンの缶詰だった。
「パンはもう買ったからいらねえよ」
 軍で支給されて、僻地で食べるのと同じような代物を家でまで食べるつもりはない。
 うん、とロイは頷いてビリーのそばに立つと、コートの裾を掴んだ。
「テレビで、ふあってなったんだ。パンがふくらむんだよ」
「コマーシャルで?」
「うん。ピンクのうさぎが、パンをやいた。しろい、しろいのの、おさとうをかけるの」
「お兄さん、可愛らしいねえ」
 コンビニの親父が、ロイに棒付きのあめ玉をひとつ差しだした。
 同情されたらしい。
 ビリーは眉間の皺を揉んで、ため息をつく。だが、ロイはじっとあめ玉を見つめるばかりで、受け取ろうとしない。
「おじさんがくれるってさ。有り難うと言いな」
「ありがとう」
 ロイは丁寧に礼を言い、受け取って、ポケットに大切そうにしまった。
「行儀のいいお兄さんだねえ」
「ああ、行儀だけは人一倍、いいんだよ。たぶん生まれたときから、はじめましてとか言って出てきたんだぜ」
 親父はくすくす笑っている。
「綺麗な顔しているのに、気の毒にね」
 ビリーは、また缶詰の棚に目をやっているロイに気づいた。
「あれ、取って来いよ。缶詰。ふあっと膨らまして食おうぜ」
 ロイは、じっとビリーを見た。
「買うんだよ。取って来い」
 嬉しそうに頷いて、ロイは棚の前に立ち、また考え込んでいるようだった。おとなのように、棚から距離を置かず、顔をくっつけてすがるように立っているのが奇妙に映った。
「今度はなんなんだ?」
「おさとうののどっち?」
 指先に、シナモンとマーブルの缶が並んでいる。アイシングはシナモンのパンについているようだが、マーブルパンにはチョコがついているらしい。
「こっち。で、こっちはチョコレート、黒いのがかかってるだろ? おまえ、チョコ好きじゃないか」
 くろいのの、チョコレイト、とロイは見比べた。
「ピンクのうさぎ、しろいののかけた」
「じゃ、白いのにしろ」
「ロイ、チョコレイトすき」
「男が迷うな、そんなことで」
 ビリーは両方掴むと、レジに持っていって、ついでにレジの前に陳列されたクッキーの袋とチョコバーも放った。
「しろいののおさとう、くろいののチョコレイト」
 ロイは楽しそうに、パンの入った袋を持って歩き出した。
「半分、俺にも食わせろよ」
「はんぶんっこ、ビリーと」
「はんぶんこ、ロイと――はあ、やっぱ信じられねえ……」
 ビリーは苦笑しながら、ロイの手を握ろうとして、掴み損ねた。
 ロイが、いきなりしゃがんだのだ。
 持っていた缶の入った紙袋がことん、と落ちて転がった。
「……どうした?」
「あたま……いたい」
「痛くても我慢して歩け。車じゃないんだ。大した距離じゃないんだから」
「いたいいたい……」
 声が潤みはじめた。
「おまえ、ほんとにあいつと同じ人間か? 間反対に根性ねえなあ」
 ここで泣きだされても困る、とビリーはしゃがんでロイを背負い、落ちていた缶の紙袋に手を伸ばした。
「はい」
 通りがかりの少女が、母親の手を離して袋を拾って渡してくれた。少女と言ってもほんの幼児だが、賢そうな顔で、ロイをしげしげと見ている。
「ありがとな」
「ビリー、ロイのヘリ……」
 見ると少女が小さな手の平に乗せている。
「これは、あたしがひろったの」
「今、この兄ちゃんが、袋と一緒に落としたんだ。返してくれないか?」
「ちがうもん、これは一緒に落ちてたんじゃないもん。あたしのだもん」
「いや、ロイの……」
 ロイがビリーの肩越しに長い手を差しだして、泣き声を上げた。
 母親に窘められて、少女はしぶしぶヘリをロイに返した。
「大きいくせに、おかしいお兄ちゃんね。ベスはそんなことで泣かないもん」
「すみません」
 母親が少女の手を引いて、歩き去ろうとした。
「お兄ちゃんに見えるけど、きっとベスと同じくらいなのよ。だからいじわるしちゃ駄目なのよ」
「あの、その子はいくつなんですか?」
 ビリーが聞くと、母親は「みっつです」と答えた。
 少女は振り返り、駆けよってきてロイの足をぽんぽんと叩いた。
「……いじわるしてごめんね、お兄ちゃん。もう泣かないでね」
「うん」
 ロイが鼻をすすった。
 ビリーはよいしょ、と担ぎなおして、走り去っていく女の子を見つめながらため息をついた。
「このことだけは、忘れてやるよ。おまえにもまだ、少しは名誉ってもんがあるだろうからな」 

 缶を剥いて、電子レンジに入れた膨らむパンを見て、ロイは電子レンジの前から離れなかった。
「そんなにくっついて見てると、電磁波で脳みそやられるぞ」
 ビリーはハムを皿に移しながら、くすっと笑った。「ま、いいか。それで刺激を受けて元にもどったりしてな」
 痛み止めを飲ませたせいか、ロイはすっかり頭痛が治まったらしく、機嫌がいい。
 シナモンとチョコを半分づつに切って、たっぷりとアイシングとチョコデップをかけてやると、口の周りを白黒に汚して食べている。
「……後々のために、その顔、写真に撮っといてやろうか? どんなに偉そうにしてても、俺にかしづくこと間違いなしだ」
 ビリーはまだら髭の口元を拭いてやりながら、笑った。「そんなの正気になってから見たら、自分で自分を撃ちかねないな。ひでえざまだぞ、おまえ」
 ふたりでごろごろと、テレビを見ながら、もらった棒付きキャンディをテーブルに乗せているので剥いてやると、ロイはじっと眺めた。
「おかあさん、だめって」
「駄目って、なんだ?」
「くろいののばいきん、はにいじわるする」
「ふうん。だったら俺が食うか」
 ビリーがキャンディを口に咥えると、ロイは黙って見ていたが、諦めたようにテレビに目を移した。その唇に、キャンディを咥えさせ、「食べたら歯を磨けばいいんだ」と言うとロイは、珍しそうにそれを手にとってしげしげと眺めてから、「ビリー、くろいののばいきん、どこ?」とべたつく表面を指でなぞった。
「そん中にいるだろ? 黒くて角がはえたやつ。槍持って見てないか?」
「ロイ、いらない」
「チョコの中にもいるんだぞ、白い砂糖の中にも。うごうご口の中で動いてないか?」
 ロイは青ざめ、べそをかいた。
「もう、たべない」
「だからさあ、歯を磨けばいいんだって」
 仕方なく立ち上がり、ビリーは洗面所へ連れて行って、歯ブラシを握らせた。それからげらげら笑いだした。
「ほんっとに、なんつーか、だな、おまえ」
「なんつーか」
 歯ブラシを当てながら、ロイも真似をして笑った。

 夕食はデリバリーのピザですませることにした。
 大型スーパーまでロイを連れて、買い物に行く気力が湧かなかったからだ。
 メニューを見せて、どのピザがいいか聞くと、見もせずに「アンチョビ」と答えた。
「アンチョビのピザ、マイキーすきだよ。ロイもすき。ジム、つくってくれた」
「誰だよ、マイキーって」
「ミケランジェロ。きいろいののはちまきのマイキー」
「ああ、あの亀のやつか? タートルズだろ? 俺ぁ好きだったよ。皮肉屋のラファエロがな。まだ再放送やってんのか」
「つよいの。にんだ」
「俺たちだって強いぞ。にんだじゃないけど、似たようなもんだ」
「ちがう、にんじゃ」
「おまえに合わせてやったんだろ! ――シールズはわかってるよな?」
 ロイは、弾ませていた表情に戸惑いを見せた。
「……なにも覚えてないのか? おまえ、リーダーのレオみたいだったろうが」
 ロイは俯いた。
「ロイ、マイキーがすき」
 マイキーね、とビリーはずっこけ担当の亀を思い浮かべた。
「だったら、行ってみるか?」
「どこ?」
「遊園地さ。にんじゃごっこだ。ま、今夜は早めに寝て、明日頭も痛まなくて、熱が引いたらだけど。そんときゃあさって……」
 言いかけて、ビリーは頭を抱えた。
「……ほんとに休暇が終わっちまう……」




硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評