[二人の記憶] of [僕が彼を憎んだわけ]

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二人の記憶

 その少し前――

 ビーチハウスのリビングで、ロイはクリスティーンが落としたバスローブを目で追い、それからはっと視線を逸らした。逸らしてもその白い裸体は目の前にあり、嫌でも見て、と主張している。
「ロイ、こっち見て」
 ロイはおそるおそる視線を向けた。
 白い痩せた身体。胸元にはうっすらと膨らみがあったが、それはとても乳房と呼べるものではなく、なのに締まった細いウエストとすんなりと伸びた下肢があった。その足は白い棒のように細く、女性の持っている丸みには欠けていた。そして、その中間に控えめながらも存在感を見せているものをロイは凝視した。
「そういう薬を使ったんだ。ホルモンの作用を変えるような。でも、薬が切れたらすぐ元に戻る程度のもので、女性になったわけじゃない」
「分かったから……とりあえず、ローブを着てくれませんか?」
 そうだね、とクリスティーンは両膝を揃えてしゃがみ、ローブを羽織った。それだけの仕草を見ていると、まったくの女性に見える。
「こんなふうにしちゃったけど、女性になりたいって、思ったことはないんだよ、ロイ」
 意識してそうしていたのか、今はクリスティーンの口調は少し男性的になり、声もいくぶんロイの知っているライアンの声に近くなった。
 母の声質に似ているとさえ思ったあの声は、その身体を少し柔らかなものに変えた薬によって声帯をも変化させられ、上乗せするように高めの音を出そうとしての結果だったのだろう。
 そう思うと少し複雑な心境でもあったが、ライアンがすっかり変化してしまっていなくてほっとしてもいた。
 ワインのグラスとできあがったオートミールのボウルを持って、ふたりはリビングに戻った。
「女性になりたいわけじゃないのに、どうしてそんな格好を? ましてや薬まで使って」
 ああ、そうだねえとクリスティーン――いや、ライアンは首を仰け反らせた。
「ほんとは髭を生やしたかったんだ。無精髭ってやつ。でも、毛深くないんだよね。ちっともかっこいい髭にならなくて、がっかりしてやめた。で、次は太っただらしない感じの男になろうと思ったんだけど、ベジタリアンだからさ、それも無理。だからって、これ以上痩せるのも無理」
「だから女性に?」
 見た目だけでも、違う人間になりたかったんだよね、とクリスティーンは呟いた。

 まだ、大学に入って一年目の頃だ。

 ロイは海洋学を専攻するために、大学の寮に入った。
 クリスマス休暇には実家に戻って母と共に、伯父や従兄弟達とパーティーを愉しんだが、夏に入る前に母はまた入院した。
 夏の休暇の始め、その見舞いを終えると、すぐに大学の寮に戻った。学校は海辺にあり、広大な敷地の端には海洋研究所と称される建物があり、実績のある教授がそこの責任者をしていた。
 まだ彼の生徒ではなかったが、幾度か研究所近くの海辺で研究用に飼育されているイルカを見に行っていたことから、教授が声をかけてきた。
 ロイは気に入られたらしく、一夏、海を囲った天然のプールに飼育しているイルカの世話を頼まれることになった。
 ちょうど人手が足りず、助手を探していただけのことかもしれないが、ロイは嬉しかった。ついでに言えば、卒業する頃には本格的に彼の助手として、海洋学研究所へ入れと誘ってくれたのもこの教授だ。
 これから海軍士官学校へ行きます、と答えた時の教授の驚いた顔は、一生忘れられない。
 毎日、ロイはイルカと共に泳ぎ、波に戯れる暢気な暮らしを楽しんだ。

 その朝、イルカのプールを見下ろすごつごつとした岩に、人が座っているのに気づいた。
 ロイとそう変わらない年齢と推測されたし、ここの敷地は部外者は立ち入り禁止だから、同じ大学の学生だろうとロイは考えた。幾人かは帰省せずに残っている者がいる。ただ、ロイの学部――少なくとも同学年では見たことのない顔に思えた。
 イルカに餌を与え終え、バケツを洗うために陸に上がったとき、声をかけられた。
「イルカみたいに泳ぐんだね」
 振り返ったロイの前に、岩に座ったままの金色の肩までの巻き毛が映った。声をかけたくせに後ろを向いて海を見ているらしく、それ以上の言葉はなかった。
「イルカ、好きなんですか?」
「いや、特には……」
 風に飛ぶような、気力のない声に戸惑い、ロイはこのまま屋内に入っていいものかどうか、逡巡した。それ以上会話はなさそうだと、ロイはバケツを持ち直した。
 ランチをとり、研究室で日報を書いている間も窓からさっきの男が座っているのが見えたが、放っておくことにした。
 再びイルカのプールに向かった時も、まだそこにいた。
 そうなってくると、気になった。さっきの話し方もそうだが、うなだれた座り方が、不安を呼んだ。まさかあのまま海に飛び込んだりはしないだろうが――
 ランチをとっている様子もなく、夕方まで彼はそこに座っていた。
 さすがにロイは、その岩のそばまで行って、彼の鼻先でミネラルウォーターの瓶を振った。
「飲まず食わずでしょう?」
 ああ、と彼はキャップを開け、こくこくと半分ほども流し込んだ。

「ありがとう。言われてみたら喉が渇いていた」
「言われてみたら、お腹も空いているのでは?」
「よく考えたら、なによりトイレが先かも」
 彼は笑い、ようやく立ち上がったが、しびれたのか体力が消耗しているのか、よろよろと足取りは覚束なかった。
「つかまりますか?」
 すまない、と彼はロイに縋るようにして寮の食堂まで歩いた。トイレには寄らず、出すほどの水分もとっていなかったのかもしれないと、ロイは不安になった。
 普段なら、夏休みでもまかないのおばさんが常駐している食堂は、今日はもうランチで店じまいしたらしく、誰の姿もなかった。さすがに寮に居残っている人間が僅かになったためで、秋まで無人の食堂は使いたい人間が勝手に使っていいことになっていた。
「外へ食べに行きますか?」
 ああ、あれがあればいいと彼は勝手知ったるように、戸棚を開けた。そして大判のオートミールの箱をとりだし、鍋に入れて火をかけた。
「コストコに行ったとき、たくさん買ってきて、まかないのおばさんに分けてあげたんだ」
 ロイも嫌いではないが、朝食ならともかくオートミールか、と思いはしたが、なんだか自分だけ食事に出掛けるわけにもいかず、黙ってテーブルのひとつに腰掛けた。
 塩だけで食べる、というエピソードはここで披露されたものだ。もちろん、ロイはフレッシュミルクをかけたが、塩で美味しいから、とスプーンを差し出され、おかしくなった。
 なんだって、こんな誰もいない学食で見知らぬ男と夕食にオートミールなんか食べているんだろうと思ったら、思わず笑いがこぼれた。
「君、ぼくが死ぬんじゃないかって、一日中見張っていたんだろう?」
 笑いを引っ込め、ロイはどう答えていいのか分からず、彼を見つめた。
 あたり、と言って、ライアンだと手を差しだした。この学校の学部は違うが2年だという。ロイより一年上だ。
「ロイ・フォードです」
 イルカ君だね、とライアンは笑った。「ぼくはカナヅチだから、羨ましいよ」
「ほんとにあたり、なんですか?」
 ううん、冗談、とライアンは首を振った。
 その日から、一週間ほどライアンは、ロイとイルカを眺めて岩に座り続けた。
 ふたりでじっくり話をした覚えはない。ロイはそれほど闊達に他人としゃべる質ではないし、ライアンもまた、多くを話すタイプではなかったのか、それとも彼が抱えているなんらかの苦悩がそうさせるのか、とにかく何となく学食で夕食を一緒に作り、それを食べたらそれぞれの部屋に戻るだけの毎日だった。
 自殺したかったかどうかも、実際にはどうだったのか分からない。
 あたり、と言ったのが、本当に冗談だったのかどうか、だからどうしたらいいのかすら、ロイには見当もつかなかったし、学食で夕食をとるライアンを見ていると、それは杞憂ではないかとも思えた。
 彼の持つ雰囲気はきわめてまともで、優等生の匂いすら漂い、きちんと生きてきた者だけが持っているものだったからだ。そんな人間でも、落ち込むことはあるだろう。
 悩みがあるらしいのは察せられたが、互いにそんな話題は持ち出さなかった。

「君は、ガールフレンドはいないの? 夏休みなのに、相手をしてくれるのはイルカだけ?」
 一度だけライアンはそう聞いてきた。
ただの食事の合間の場つなぎだったのだろう。返事を期待しているふうでもなく、いません、と答えるロイにそう、と返事をしただけだった。話し下手のふたりの間には、いくばくかの間があったが、やがてライアンがつづけた。
「ボーイフレンドも?」
「友だちはもちろんいます」
「じゃなくて、男性の恋人ってことだよ」
 まさか、とロイは笑った。
「兄弟は?」
 それもいませんと答えると、ライアンはまたそう、と返した。
「ぼくもひとりだ。――弟なんかいない」
 おかしな言い回しだとロイは思った。それはまるで「いる」のに否定しているように聞こえる。正真正銘一人っ子のロイが、こんな風に答えることはまずない。
「俺も妹も弟もいませんけど……」
 ロイは言葉を濁した。つっこんで違和感を正したかったが、寂しげな眼差しに、躊躇ったのだ。
「妹がほしいと思ったことはないな。弟がいいとずっと思ってた。そしたら一日中抱いて、手を引いて面倒を見て……」
 どこか遠い目をしているライアンの話を、ロイは黙って聞いた。もしかしたら彼の苦悩を今、語り出すのかもしれないと、心なしか緊張すらした。
 だが、ライアンは喉元でくくっと笑って「ばかみたいだな」と話を終えた。一週間の間で、一番印象に残っているのはこの笑い方だ。イルカにからかわれているロイを見て、ライアンはそうやって笑っていたことが、何度かあったからだ。
 ロイもうんと小さい頃は兄弟が欲しいと思ったことはあったが、すぐに諦めた。そんな悠長な希望を持てる子ども時代ではなかったといえば大袈裟かもしれないが、父と母との間で自分の位置を保つことに必死で、その上に弟や妹を抱える自分など想像もできなくなっていたからだ。代わりに従兄弟たちがいたし、同じ家に住まわないながらも血縁の彼らの存在は気楽だった。
「ね、誰かが君を抱きたいって言ったら、君はどうする? すごく愛しているけど、許されない相手だったら」
「抱きたい――て? 女性が?」
「ああ、いや、そうか君は……でも……」ライアンはロイを真っ直ぐに見つめた。「ぼくが、明日死ぬって言ったら?」
「話が見えません」
「今夜、君をぼくが抱きたい。でないとぼくは寂しさのあまり、本気で自殺に走る……って言ったら? 逆でもいい。君がぼくを抱いてくれても」
 がたん、とロイは立ち上がった。
「お好きにどうぞ。俺にあなたの命をかけるほどの価値は、ないはずです」
 ライアンはなにも言わなかった。
 食べかけていた食事を切り上げ、それをゴミ箱に捨ててから、ロイは食堂を出た。
 どうしろというんだろう、とロイは思った。いきなりおかしなことを言いだして。
 ゲイの男の新手の軟派術だったのだろうか? そんなことに一週間もつきあったのかと思うと、自分のお人好し加減にうんざりした。たとえ今のが本気だったとしても、彼の命を救うために、抱いたり抱かれたりを自分がするいわれはない。
「嘘だよ」
 食堂のドアを出るとき、ライアンの声が背中に聞こえたが、足を止めなかった。
「死んだりしない。君を嫌な気分にさせるつもりはなかったんだ。ごめん」
 呟くような声は、ひどく悲しげな余韻を残してロイの耳に残った。

 翌日、ライアンは海に来なかった。
 それはそれで気になったが、どうすることもできなかった。
 最初会ったときに、自殺でもするんじゃないかと感じたことが嫌でも思い出され、夕べ冷たく言いすぎたかと少し後悔もした。だが、だったらどうすれば良かったのかなど分からない。
 一日中辺りに気を配っていたが、夕方、学食へ行った頃には考えあぐねて、くたくたになっていた。
 ライアンはやはり、そこにもいなかった。
 がらんとした食堂のテーブルに、白い紙が一枚残っていた。ライアンのメモらしかった。
『なんだかぼくが彼にしてきたことが、分かった気がした。君はぼくがどんな人間かを教えてくれた。もう会わないけど、死なないから。だから気遣いは無用だ』
 意味は不明だった。
 ゲイ同士のカップルの諍いで、落ち込んでいただけだとも解釈できた。振られたのかもしれない。けれども自分が彼になにかをした覚えはなかった。影響を与えるほどの関係はなかった。
 いなくなったが、死なないのならそれでいい。わざわざ置き手紙をしたのは、ロイが気にかけていたらいけないという彼の気遣いなのだろう。同じ大学とはいえ、広い学内で専攻も違えば、もう会うこともないかもしれない。
 そうして、予想通り、以後二度とライアンの姿は見かけなかった。

 ビーチハウス――

 海鳴りの音がするリビングで、ライアンはまたくくっと笑った。
「君はほんとに海が好きなんだ。よくこんな波の音がするような家に住んでられるね」
「ずっと海べたで育ったので、気になりません」
「君、あのまま大人になったんだね。あの頃とあんまり変わってない」
「あなたは変わったんですか?」
 見れば分かるでしょ? と、ライアンは女性の仕草と声で答えた。
「ぼくはぼくが嫌いだったから。ぼくでなくなりたかった。女性に化けてよかったのは、名前を変えることに迷う暇がなかったことかな。ぼくをいつも自分が与えたセカンドネームで呼ぶ祖父がいてね。クリストファー……祖父が愛してくれた名前を女性名に変えた。彼はぼくをかわいがってくれたけど、好きになれない祖父だったから」
 ライアンは、少し遠い目をして窓の外を見た。
「それに、化粧ができるっていうのはいいよね。素顔なんてどこにもなくなる。生えない髭を生やすよりバリエーションも豊かだし」
 そうですか、とロイは言うしかなかった。ロイ自身が自分を嫌いだと思ったことは数知れない。だが、自分を捨てて、なにかになりたいと思ったことはなかった。
「なにがあったのか、聞いてくれるって言ったよね?」
 ロイの喉から、詰まったような苦い笑いが漏れた。「なんだか……聞きたくなくなってきた」
「じゃ、君が逃げないうちに本題を言わなきゃ」





















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