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無様な一日

  ロイ・フォードのその朝は、なんだか気乗りのしないスタートだった。
 ベッドから起き上がりかけて、枕元の電話機を落とし、ふかふかのラグの際に落ちたそれはあっけないほど簡単にプラスチックにひびが入った。舌打ちをしながら拾おうとした緩慢な動きのせいか、サイドテーブルに手をついた拍子に、置いてあったハードカバーに指先があたり、夕べ飲み残した水のグラスが倒れて残っていたそれが本を濡らした……。

 今日があいつの誕生日だからってわけでもないだろうが、なんだかそれにたたられているかのように、その日ロイは一日なんだからしくもなく、歯磨きの代わりに洗顔チューブを搾ってみたり、サラダオイルの代わりに皿洗い用の洗剤をフライパンに入れて、卵を泡だらけにしてみたりと、笑うに笑えないことばかりを繰り返していた。
 そもそも休みだというのにジムがいない。いつもなら夕べから泊まり込んで、なんだかんだとくっついて離れない男が、一昨日から出張でフロリダへ出掛けていた。
 海軍特殊部隊に所属する曹長であるジム・ホーナーは、隊長のロイ以上にチームにかかわる存在であるため、あまり単独で出張などないのだが、今回はぜひにと求められて訓練学校へ講義をするために出掛けたのだ。
 まあ、そのせいでもあるまいが、今日の自分の滑稽さは度を超しているような気がする。普通の人間ならばたまにはあっても、ロイという男には、ミスという言葉は似合わないと周りの人間は言うだろう。
 操り人形のように、ぎくしゃくとおかしな動きをしているわけでもあるまいに、それがジムの不在のせいであるとは思いたくはなく、ましてやあの男のバースデーだからだなどと理屈に合わない難癖をつけるわけにもいくまい。

 さえない半日を過ごし、そろそろ出掛けないといけない時間が迫ってきていた。
 チームの№2であるビリーことロジャ・ウイリアムズの誕生日パーティーがあり――それにかこつけて飲みたい連中が集まっている。場所はロイのビーチハウスから歩いて15分程度のいつものバーだ。
 今日一日のドジな汚れを洗い落とすように、ロイは丁寧にシャワーを浴び、髪を念入りにセットして気分を変えることにした。
 さあ、行くか。
 鏡の中のロイは、いつもの自分に見えた。ランチを作る際に、有り得ないことに包丁でかすったためにちょっぴり血を出した人差し指にバンドエイドを貼り直し、ため息をつく。まあ、こんな日もあるだろう。ジムと、一緒に行った同じ曹長(階級は下だが)であるポールは、飛行機で戻ってそのままバーに直行するはずだから、パーティーが終わったら明日の日曜には嫌でもジムの相手をさせられるのは分かっている。
 たった数日顔を合わせないだけなのに、早くも帰宅後のことが待ち遠しい気にすらなっているなんて、とロイは鏡の中で苦笑した。
 なんだってかまわない。バーの帰り、ほろ酔い加減のジムに今日の自分の無様な有様を話してやれば、きっと目を丸くしつつも大喜びをするだろう。
 
 いつものように玄関を使わず、テラス側のドアから出て、気分直しに海風に吹かれることにした。
 まだ泳ぐには早い。すっかり夏らしい日差しに温められていた砂浜も、夕方の風に吹き飛ばされ、せっかく整えた髪が乱れるのを感じながらも、ロイは波打ち際まで出て、寄せる泡混じりの波を楽しみながら歩き出した。
 行き先に女性が立っていた。
 後ろ姿をこちらに見せ、長い黒髪をなびかせて立っている。波に足を洗われながら、ロイよりもさらに海に近く。
自殺者ってわけでもないだろう。他にも遠くではあるが、数人浜で遊んでいる人もいるし、まだ夕日が沈みきってもいない。
 ちらりとそんなことを考えたのは、彼女が身じろぎもせずにそこにたたずんでいたからかもしれない。すらりと背が高く、モデルかなにかのように洒落た服を着こなした痩せた背中の向こうに、白いものが浮かんでいるのが見えた。
 どうやら風に帽子を攫われてしまったらしいな、と思いながらもロイは彼女の後ろを通すぎた。

「恥しらず」
 後ろで声がした。耳に擦るような柔らかなアルトの声。「見なかったことにするんだ?」
 数歩足を進めながら、ロイは辺りに目を配った。女性の他には誰もいない。厳密に言えば自分以外は――。振り返ってみたのは、その言葉が自分に向けられているというよりも、単に気づかなかっただけで、誰かがいたんだろうか? と思ったからだ。観察力までどこかへ行ってしまったのか、と一瞬不安もよぎった。大袈裟からもしれないが。
 まっすぐに身体ごとこちらを睨むような視線に、思わず足が止まった。
 それでもロイは、顔は固定したままちらりと砂浜に目を走らせた。
 ……どうやら、まぎれもなく自分に向かって話しているのだとやっと気づき、片方の眉を上げた。
「……失礼ですが、俺に話してるんですか?」
「大事な帽子なの。妙齢の美女が困っているのに、見ないふりするなんて恥知らずでしょ?」
 
 帽子がいかに大事だとはいえ、それは難癖というものだろうとロイは頭では思いつつも口に出すのは躊躇われた。この女性を知らないし、怒りをぶつけられるような覚えはないが、まともに応答していいものかどうか、迷うだけの状況には違いない。
帽子は引く波にどんどん遠くへ離れていくようすを見せてはいるが、傍目には数メートルのところにあるように見える。だがこの浜は遠浅とはいいがたく、あちこちに深みがあることを考えれば、濡れるのはボトムだけではないだろう。それは今、ここで泳げというのと同義語だ。まだ夏ともいえない季節の――見知らぬ人の帽子のために?
「お気の毒です。」
 返事のしようがなく、おざなりな言葉を吐いたせいか、女性は風に髪を嬲られながらつんと顎を海側に向けて視線を逸らした。
「泳げないの。海は綺麗だけど、水が怖いの。だから、落ちた時にすぐに拾えなかった」
 ついさっきとは打って変わった寂しげな横顔を見せ、女性は今度は俯き加減に呟いた。
「……浜が広いわりに、ここは深いんです。波も荒くて、だから拾いに行かなくて正解だったと思いますよ」
 ではなく、彼女はロイに「とってきて」と暗に言っているのは百も承知だが――
「申し訳ないが、これから友人のパーティーに行くので海に入るわけにはいかない」
 そう。時間厳守のパーティーではないにしろ、遅刻はしたくない――
「だからあなたももう諦めて……」
 俺はなんだって見知らぬ女性相手に、必死でいい訳までしているんだ、と不意に気づいた。恥知らず、とまで言われて慰めもあるまいに。
 そういうことなので――
 踵を返して背を向けたものの、水音は嫌でも耳に飛び込んできた。――入ったな、とロイは心の中で舌打ちした。泳げないと言ったくせに。
 眉間に皺がより、歩く速度が遅くなる。
「……あっ」という声とともに、派手な水音がした。
 次の瞬間には、波をかきわけて白っぽい布の塊を掴むために腕を伸ばし、腰までしかない海で溺れそうにパニックになりかけている彼女をがっしりと抱き留めた。
 そのまま引きずるようにして浜に上がり、げほげほと水を吐き出している女性のそばに黙って立ったまま海を伺った。
 下着の中まで塩水に浸かってしまった今、パーティーへの遅刻は確定した。帽子はまだ波に上手に乗って、沖のほうへ行ったかと思うとこちらへ戻るように見える。あれならまだ、足が届く範囲だ――くそっ、と自分を罵りながらも、ロイはざぶざぶと飛沫を上げて海へ戻り、大波に乗ってきた帽子のつばを掴んだ。

 浜へ戻ると女性が長いドレスの裾を絞りながら立っていた。
「うそみたい。ほんとに取ってきてくれるとは思ってもいなかった」
 ロイの眉は今や、両方が吊り上がった。
「……恥知らず、と言ったでしょう?」
 苛立ちを感じたはずなのに、あろうことか女性はくすりと笑った。
「クリスティーンよ」
 彼女は帽子を受け取ってから有り難う、と微笑んだ。
「……この辺りの人ではないんでしょう? ホテルは近いんですか?」
「ホテルはまだ……」彼女は口ごもるようにして肩をすくめた。「だって来るつもりもなかったのよ、こんなところ」
 ロイはため息をついた。そもそも、今日は無様に始まった一日だったのだ。この女性に出会ったことが、その集大成であったと言われても今さら驚くことでもないのかもしれない。
「……よかったら……」ロイはいったん口を閉じ、思い切ってつづけた。「家へ来ますか?ほんのすぐそこに見えるオレンジの屋根の家だ。濡れた服を乾かして、シャワーも浴びないと」
「服を乾かしている間、ハダカでいられる部屋はあるのかしら?」
「お望みなら部屋を提供します」生真面目な口調でロイは言った。「でも、よければ俺のバスローブをお貸しすることもできますけど」
 いくわ、と彼女は先に立って歩き出した。
 ぐっしょりと濡れた髪が、背中に貼りついている。その下の薄い生地のドレスもまた背中に貼りついて、小さめのヒップを象って裾は皺になって足下にまつわりついていた。
 今日何度目かのため息が思わず口から漏れる。
 厄日だ。
 遅刻をすると連絡をするために携帯を取り出しかけて、ポケットに手を入れたが空だった。どうやら海に落としたらしい。
 ……厄日だ。
 新品のバスローブの予備があっただろうか、と頭の中でチェックしながら、ロイは彼女の後につづいた。

「なんだなんだ、遅いなみんな」
 今日は主賓とばかりにテーブル席にふんぞりかえっていたビリーが口をとがらせた。
 向かいに座っていたレクスターが肩をすくめる。
「ホーナー曹長とポールは飛行機が遅れてんのかも。でも、フォード少佐が遅刻なんて珍しいね」
「呼び出しじゃないの?」
 ジャーナリストであるルネは、この店にはあまり似合わないゴージャスな雰囲気を漂わせ、すましてトニックのグラスを口につけた。
「あり得る」しかつめらしい表情を作ったアフリカ系のリックがカウンターにもたれて頷いた。彼はもう2杯目のビールを手に持っており、要するに乾杯の前にそれぞれ勝手に始めていた。
「俺たち抜きで本部から呼び出されること、あるみたいだし。まあ少佐がいないからってパーティーが開けないわけでもないだろう?」
 リックの言葉にビリーはまあなと頷き、不満げな顔をドアに向けた。同じタイミングでドアが開き、大きな図体の影が入ってきたのが見えた。
「お、俺様のために現れやがったぜ」
 空の旅に疲れた様子も見せず、ジム・ホーナーが片手を上げて微笑んだ。後ろから髭面のポールが「始めてるのか?」と顔を覗かせた。
 それまで散らばって玉突きに興じていた連中も集まり、ビリーが座っていたテーブルの周りはあっという間に賑やかになった。やっとパーティーの乾杯をビリー自ら叫びかけたとき、「まて」とジムが遮った。
「フォード少佐はどうした?」
「来ねえ。俺様の誕生日だってのに、遅刻だ」
「電話は?」
「レクが携帯にかけてみたけど、繋がらない」
 ジムは太い眉を寄せて自分の携帯を操った。耳に押し当ててふと辺りを見回して、みんながグラスを空に掲げたまま固まっているのを見て、先にやれと手を振った。
「くわんぱーい!」
 一斉に打ち鳴らされるグラスの音と歓声に紛れながらも、ジムは携帯が音信不通の知らせをしているのを聞いて思わず立ち上がった。電話が通じないなら家まで様子を見に行くべきではないか、と思ったのだ。
 そしてまさにその瞬間を狙ったように、携帯が鳴り出した。

 表示はロイの自宅からになっていた。

















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