「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」

イラク戦争で思い出すこの言葉

 

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【前書き】

【本文】

 

【エッセイ】

暴支膺懲(ぼうしようちょう)

鉄道の線路を持ち去った日本軍

外交戦で勝てない日本

悲運の熱血政治家 汪兆銘

中国の作家の思い出

知っておきたい日本の歴史

 

 

 

 

 

 

 

 

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「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という言う字にあの時代を思い起こすのは、大正生まれ以前の人たちでしょう。昭和12年頃からしきりに新聞・ラジオで使われた言葉です。

 戦前、日本人は中国を“支那”とよびました。新聞・ラジオも「中華民国」という正式国名を呼ぶことは少なく、大抵、“支那”と言いました。侮辱的な呼称であると言って中国の人は嫌いましたが、日本人は意に介しませんでした。(今でもマスコミの前で故意に“支那”と呼んで一人で溜飲を下げているおかしな知事さんもいます)

 “暴支膺懲”とは、暴虐な“支那”を懲らしめるという意味であり、戦争を起す理由に使われました。

 しかし、戦争を仕掛けなければならないほど暴虐な事態があったわけではありません。

 「通州事件」という騒乱で日本人数百名が殺される事件が起きましたが、暴動を起したのは正規軍ではありませんでした。

 昭和12年7月7日、北京市外の盧溝橋で演習中の日本の駐屯軍と中国軍の衝突が起き、双方責任のなすり合いとなり、日本は居留民保護に必要であると称して、大部隊を北京周辺に送り込み、戦火を拡大させました。

 天皇は局地解決をのぞまれたのですが、宣戦なしの戦争は‘事変’という名称で拡大していきました。

 同年8月9日、上海駐屯海軍陸戦隊の大山大尉が私服で外出中、殺害されたのを機に、海軍も上海で戦争を始め、8月15日には長崎県大村基地より海軍長距離爆撃隊が首都南京を爆撃したのです。

 これはいずれも、天皇と首相をツンボ桟敷に置いた軍の暴走でした。そして戦争目的は「暴支膺懲」ということになったのです。マスコミもアジアの平和のために膺懲の剣を振るうと書きたて、戦果を誇りました。

 国民はこのキャッチフレーズに騙されて、正義の戦いに命をかける気運が漲ったのです。

「東洋平和の為ならば何で命が惜しかろう」……当時歌われた軍歌の一節です。