Calstar Christian Church  P. O. Box 59067 San Jose, CA 95159 USA  Tel. (408)296-2480

Abraham M. Ishihara, Pastor  abeishihara@yahoo.co.jp  http://www.calstarchristianchurch.org

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                                           2004 年 4 月 9日 主の受難日に

 

榊山清志・仁子 先生

 

 今日は、主の受難日、イエス・キリストの十字架のお苦しみをしのびつつ、この手紙を認めて(タイプして)います。実は、もうずいぶん長いお付

き合いである先生方ではありますが、残念なニュースを聞かされました。信じたくはありませんでしたが、何人かの方々の証言から、あるいは周

りの状況から、私も信ぜざるを得ないのです。

 これまでの、HCCの果敢な伝道と、この二十年そこいらの先生方の活動で、お城のある町で伝道をしようという先生方のビジョンが、浜松にお

いてここまで成長したことは、ただただ主を崇めるものですが、ここまでに至った中で、先生方がこれまでになさってきたいくつかの、勇み足という

には度を越えたやり方に対して、速やかに悔い改め、謝罪し、該当する方々との関係を回復なさるように、友人として衷心より御忠告申し上げま

す。

 

とりあえず何が一番問題か?

1.     暴力 

 確かに聖書は、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる(箴言13:24)」と言いますが、旧約の教え

は新約で、イエス様によって更新されているのです。イエス様が捕らえられた時、ペテロが兵隊に剣で切りつけた時ですら、「剣をもとに納めなさ

い。剣を取る者はみな剣で滅びます(マタイ26:52)」と言われました。

今日、世間の人々がどれほど暴力に対して敏感になっているか、ご存知ないのでしょうか? 学校などでも先生が教育的配慮だとしても、ちょ

っとでも体罰を加えればたちまち訴えられます。伝えられているような暴力沙汰があって、HCCでこれまでよく榊山先生が訴えられなったもの

だと思います。これはまだ主の憐れみでしょうか。しかし、いつまでもこういう状況が続くようには思いません。事実、アメリカに住む私にまでそう

いう話が伝わってきているからです。雑誌『ハーザー』の記事や、ウィリアム・ウッド先生の『教会がカルト化するとき』とか、パスカル・ズイービー

先生らの『信仰という名の虐待』を読む時、私は決してこれらの幾つかがHCCの浜松教会で、榊山先生によってなされてきたことだとは信じら

れませんでした。またそれらの本の矛先の一つが、HCC浜松の榊山先生に向けられているとも思いませんでした。しかし今、それらの本を書

いた方々からの情報からも、HCC浜松もそれらの問題教会の一つであることを知って驚いています。

前から、HCCでは塾生のかなり有力な人達が抜けていくのを見て、不思議に思っていましたが、今回、弟さんの*先生、さらに本当に初期の

開拓時代からの仲間であった大木先生、三島の鈴*先生、春**の池*先生までが抜けたことを知って、驚きを禁じえません。

 私は何度かお邪魔しておりますし、アメリカにも来て下さった人たちがいますので、HCCには、何人も知っている人がいます。それらの人達が、

そういう被害にあっていたのかと思うと、本当に涙が出てまいります。私も牧師ですから、牧師として信徒を指導することはありましょう。しかし、そ

の指導に暴力を使うというのは断じてしませんし、他の牧師がすることにも同意できません。

 実は、これまでうわさとしては、多少聞いたことがありました。しかし、パウロは「長老に対する訴えは、二人か三人の証人がなければ、受理して

はいけません(1テモテ5:19)」と言っていますから、私は最初は取り上げませんでした。しかし最近聞いた話では、暴力的被害に遭った人達がか

なりいるようですし、私が聞いたそれらの証言も、実際の被害者からですから、信頼できるものだと判断せざるをえないのです。もはや先生方の

立場を弁護できないのです。

 それでも榊山先生が、「殴られて鼓膜が破れた人がいる」「頭を叩かれ、今も頭蓋骨に問題がある人がいる」「肋骨を折った人がいる」「罰として

のお灸で大やけどをした人がいる」「罰としてコタツの足で殴られ臀部がミミズ腫れになった人がいる」「妊婦に無理して奉仕することを強要した」「

そればかりか、流産してしまった」「いやがっても、人の髪を刈った」などというような常軌を逸した、先生自身のなさった暴力の話は、すべて悪い

噂であると言い切れるなら、私は先生方を疑ったことを恥じますし、疑ったことを心からお詫び申し上げます。

 しかし、先生方は 「それはウソである。誰かが流した悪い噂である」とは言えないでしょう?

 恐らく、もうすでに日本にいる何人かの先生方が、お二人にコンタクトを取られているでしょうし、彼らからそれらの行為の間違いについては、何

度も聞かされておられることでしょうから、繰り返してくどくどとは申しません。

 子供までそうした暴力の被害に遭っているという報告を聞いては、本当に胸を痛めております。

 早急に悔い改め、被害者に詫びて誠意を尽くして、あらゆる可能な救済処置を講ずることをお勧めします。

 

2.セクシャル・ハラスメント

 これはHCCが旧イエス福音教団の教会であって、今はどうであれ、以前はミスター・アキチカを師と仰いでこられた榊山師にあっては、断じてあ

ってはならないことでした。被害者からの話を聞いて、「あの性の問題については厳しい榊山先生が!」と唖然としました。しかし密室での行為で

あり、第三者には証明できないことでありましょう。もし仮に裁判にでもなれば先生方の側の勝ちの可能性は十分あります。しかし訴える側が本

気で裁判にすれば、先生方は証言する前に宣誓をせねばならなくなり、主イエス様の聖霊さまが聞いておられる前で、すでに複数の人の前で「愚

かなことをした」と認めたことがおありの先生が、「絶対にそんなことは言っていない」と証言できますか?仁子先生も同じです。

 勿論、そこでも二人で口裏を合わせて「言っていない」と証言して、先生方側が勝つ可能性は十分にあります。しかし訴える側は、先生方の宣

誓のあと、先生方から「言っていない」という証言を引き出すだけでも、充分に勝利になるのです。イエス様の聖霊さまを信じておられるお二人に

はすでにお分かりになるでしょう? 聖霊さまは生きておられます。ウソはつけないのです。ウソをつけば、それから聖霊さまを欺いたとして、一生

苦しむことになるからです。そういう状況は、私にとっては、考えるだけでも恐ろしいことです。アナニヤとサッピラになるべきではありません。

 

 先日、3月19日の新聞には、次のような記事があります。

 

 和田勉氏に200万賠償命令 女子大生に性的行為強要

 元NHKディレクターで演出家の和田勉氏(73)にわいせつな行為を強要されたとして、23歳の女性が和田氏に550万円の損害賠償を求めた

訴訟の判決で、東京地裁は19日、200万円の支払いを命じた。

 深見敏正裁判長は「女性は当時大学生で、和田氏は自分が就職を希望するマスコミに影響力があると考え、心理的に抵抗できなかった。それ

を和田氏は容易に認識できた」と不法行為を認めた。

 さらに、その後女性が謝罪を要求した際、和田氏が回答文書の中で「あなたたちのアタマの中身はとても変わっている」などと記したと指摘。「

社会通念上許される範囲を超えているのは明らか」とした。

 女性は、都内の大学生だった2002年11月、所属ゼミで和田氏から講義を受けた後、ホテルに連れ出され、服を脱ぐよう命じられるなどわい

せつな行為を強要されたとして、訴えを起こした。

 

 HCCでの被害者はこの上の記事のように、牧師である榊山先生にはほとんど抵抗が出来なかったでありましょう。これについても、先生方が

訴えられなかったのは、憐れみとしかいいようがありません。

 この被害者にも、心から謝罪なさったほうがよいと思います。

 

以上の二点は、どんな教育的理由にせよ、今後は絶対にあってはならないことだと信じます。

 

 この手紙を読んで、先生方の対応は少なくとも二つ考えられます。一つは、「石原先生の言う通りだ。仁子よ、悪かった。赦してくれ。これまで問

題になった兄弟姉妹に謝ろう」「あなた、私も一緒になって、注意も払わなかったから悪かったわ。そうしましょう」と言われるなら、本当に感謝で

す。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし

聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためで

す(マタイ18:15-16)」とあるからです。

 しかし、聞き及んでいるように、「出て行く人は悪い人、真理はいつもこちらにある。誰かが悪い噂を流している」と開き直って、私の忠告を無視

し、今後私との交わりを拒否なさることも考えられます。 

 ですから最後になるかも知れないので、私はこれまでの先生方とのお交わりの中で、問題だと感じたことを、今後の参考のために書き記します。

 

1.私の理解では、塾生とは将来伝道者になる人だったでしょう? 彼らは朝だけこの世で働き、貧しい中を、午後収入になる世の中の仕事をさ

さげて、伝道者になるため、訓練を受けに来ているのに、勉強らしい勉強はなしで、ほとんど作業ばかりの毎日で、本当に伝道者としての訓練が

出来るのでしょうか?

 

2.     今回、城*君がトリニティーに行ったことはよいことですが、他の献身者たちにも、そういう教育を施すべきではないでしょうか? 元来、旧イ

エス福音教団の伝統は、神学校に対して、非常に過少評価しかしてこなかったように思います。 

 我々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドも昔はそうでした。ミスターも旧アッセンブリーの影響を受けた方で、教理が少し弱かったですね。つまりワ

ンネスの影響を受けておられたということです。ですから洗礼の際に、皆さん方は「イエスの名」による洗礼を授けられましたね。今はイエス福音

教団から離れて変わりましたか?我々米国アッセンブリーも、教団が出来た20世紀前半には、この「イエスの名による」と主張する牧師達がたく

さんいて、彼らは教団を出て行きました。日本では、最初の指導者弓山喜代馬先生が正統的な人で、決してそういう流れにはなりませんでした。

 しかし、この流れの人々は、「聖書一書の人」とか、「聖書一冊で充分」とか、「学者の書いたものなどに頼ると霊が落ちる」などと言う人達が多

かったようです。 

 バーナード・ラムという学者が書いた「聖書解釈学概論」(多分、先生方はお読みになっていないでしょうから、是非お求めになって読まれたらよ

いと思います。これは今でも日本語で出ていると思います。)という本で、ラム先生は、次のように書いています。しかし、先生を含めて、HCCの

塾生が直ちにこういう本にお当りになるということは考えにくいので、少し長いのですが、ポイントのところ全体を引用して差しあげます。 

 他の助けを借りなくても聖書を十分に理解することが出来るということが、信仰深い人々によって、しばしば主張される。そうした人々は、彼らの

聖書解釈に次のような前置きをつける。「みなさん、わたしは人間の書物を読んだり、人間が書いた註解書を参照したりしません。聖書が自らの

べていることを知るために、わたしはただちに聖書のもとにまいります」 この言葉は、非常に霊的に聞こえ、しばしば聴衆の「アーメン」を得るで

あろう。しかしこれは、賢明な道であろうか? 教会の敬虔な学識を無視するだけの権利や学識を有する人が、果たしているだろうか? そんな

人がいるとは思えない。

 第一に、単なる人間の書物を無視し、聖書そのものに直行するという主張は、信仰深く霊的に聞こえるが、その実、とんだうぬぼれが隠されて

いる。それはカルヴァン、アルフォード、ランゲ、エリコット、モールのようなたゆまない敬虔な聖別された学識を度外視して、だれでも聖書を適切

に理解しうるというずるい主張である。敬虔な解釈者の学問的著作を全く無視するような主張と著しく対照的なのは、『小預言書』の著者ヘンダー

スンのような人である。彼は、聖書を理解するために、必要な語学力を身につけ、知的能力を惜しみなく用い、それから聖書解釈の助けになるあ

らゆる文献に忍耐強く、徹底的に目を通した。彼は聖書を理解するために、全身全霊を捧げた。これこそ、真に崇高な献身である。

 第二に、以上のような主張は、相変わらず、御霊の霊感と、御霊の照明を混同している。御霊の作用は、新しい真理を伝達することでも、未知

の事柄を教えることでもなく、聖書に啓示されていることに、照明を当てることなのである。イザヤ書から、次のような一群の言葉を選び出し、学

者たちの敬虔な学識を無視してよいと主張する人に、ただ熱心に祈ることによって、それらの言葉の意義を説明できるかどうか尋ねてみるがよ

い。すなわち、ツロ、シドン、キッテム、シホル、モアブ、マヘル・シャラル・ハシ・バス、 カルノ、カルケミシ、ハマテ、アイアテ、ミグロン、ミクマシ、

ゲバ、アナトテ、ライシ、ノブ、ガリム。その人は、これらの言葉にあてうる唯一のひかりは、註解書あるは、聖書辞典によるほかない、ということ

を知るであろう。

         日本語・バーナード・ラム 『聖書解釈学』聖書図書刊行会1971 P47-48

 

 また、ラム先生は、次のように『神学軽視派』の人達を皮肉って言います。 

 神の御霊は、どんなに教えを受ける備えの出来た、従順な信仰深いクリスチャンの心にも、聖書そのものに含まれていないような聖書の教

や意味を伝えることはない。 同書 P. 42-43 

 誰もが、同じ学力があるとは思いませんが、献身者は、聖書に向かう方法として、必ずその力に応じて、学問的な方向にも行かわざるをえませ

ん。ほとんどが作業ばかりのHCCの伝道者育成の方法は、問題があるように思われます。HCCでは、塾生のどれくらいが、普通の信徒でも持

っていそうな、標準的註解書、聖書辞典、組織神学などの教理の書、教会史の本などを持っているでしょうか? 

 

3.     そういう神学無視、教理無視の態度が、これは先のミスターにも現れたことですが、聖書の教理ではないことが行われる素地になっているよう

に思われます。確かにミスターは愛と情熱のある優れた指導者であったかもしれませんが、間違いは間違いです。例えば、旧イエス福音の伝統

でしょうか?「不品行をした人は直ちに除名」というルールが、HCCでもありますね。確かに不品行はまずいです。しかし有無をも言わせず、ただ

ちに除名というのは、決して新約的だとは思われません。ミスターの時代は、「夫婦喧嘩をしても除名」と聞きました。これはどういう聖書の読み方

から導き出される教理でしょうか? それから、献身者は献身者以外とは結婚できないというルールはどうでしょう? 聖書的にどこからそういう

ルールになるのでしょう? また献身者が、献身者以外の人と結婚すると、ほとんど教会にいられなくなるというのも、おかしなルールに思われま

す。

 これはわたし達の教会でも、それを聞いたとき、みんなが「エーーー」と驚きましたが、それがたとえ献身者であるにせよ、結婚相手が榊山師

によって決められるというのは、どういう聖書的根拠から来るのでしょう? あるいは誰かが誰かを好きになった場合、この時代、ほとんどその

意志も伝えられないなんて、時代錯誤だとは思いませんか? 「教会の内部がめちゃくちゃになる」という理由で、それが禁止されているのなら

、むしろそういう場合でも、めちゃくちゃにならないように舵取りするのが、牧師の勤めだとはお思いになりませんか?

 男女交際とか、こういう問題に対して、仮に塾生になる前に、そういう約束事があったとしても、この牧師が決める結婚相手制度、牧師がOK

と言わないと結婚できないルールは、早晩崩れるでしょう。 

 

4.     いつか先生はわたしに「わたしの務めは、開拓に出ている人達の教会を、一人立ち出来るようにしてあげることだ」と言われましたが、現在で

も月に一度、全国から最終日曜に集めておられるとすれば、これについては、参加、不参加の自由はあるのですか? わたしも団体の中でやっ

ていますから、遠くに住んでいて、本部に集まることは、かなり重荷に感じたことがあるので分かるのですが、あれが自由参加なら、問題はありま

せんが、参加が義務づけられているということはありませんか? 義務であっても交通費などが支給されるならまだ多少はうなずけますが、自腹

を切って参加が義務づけられているとすると、これは開拓教会の自立に、かなり重荷になるでしょう。HCC浜松以外の教会が、自立することは、

かなり厳しいでしょう。HCC浜松本部教会は肥りますが、外の教会はなかなか自立できませんね。あれだけ沢山の不動産を買うお金を、よその

教会の土地・建物を買うために用いたら、それらの教会は、自立するのも早いだろうにと思います。HCC浜松以外で、(ピッツバーグや、あとで

加わった名古屋教会は例外)自分達の会堂をもっている教会がありますか?教会は個人のものではありません。全国のあちこちにHCCの教会

が出来てもよいではありませんか?

 

5.       全国の諸教会の献金の一割が、本部HCC浜松に来るシステムになっているようですが、「クリスチャン情報ブック」にもあるように、HCCが本

部でその他の教会が、その傘下の教会であるという図式なら、本部HCCと傘下HCCの関係は、どういう関係でしょうか?もし、対等に彼らもや

がては自立をしていく教会であるなら、それらの教会に派遣されている伝道者に、この一割上納金に対する意見を言うチャンス、(例えば、きつす

ぎるから少し下げて欲しいとか)はありますか? おそらく、イエス福音教団時代は、HCC浜松は東京の教団本部に負担金を納めておられたでし

ょう?しかし榊山先生は、同時にそれに対して意見を言う権利も持っておられましたね。そして彼らとは、一緒にやっていけないと判断なさったの

で、イエス福音教団を出られたのでしょう? わたしのポイントは、HCC浜松の本部以外の教会の牧師達は、HCC本部に対して、かつて榊山先

生がイエス福音教団の本部に対して、意見を述べたりする権利を有しているかどうかという意味です。民主主義は絶対だとは思いませんが、封

建主義よりはましな制度でしょう。現在のHCCのシステムでは、本部HCCだけが、肥え太って、地方は搾り取られているという感じがします。お

そらく毎月のHCC聖会に出る出ないの自由、HCC運営に関して意見を言う自由、などはほとんどないように思われます。彼らは榊山先生が怖い

からです。つまり参加・不参加の自由、発言する自由などということは、HCCを出てから以外にはないように思われます。そういう不公平さ、非民

主的なあり方も、最近のいくつかの教会の脱退の原因のひとつになったのではありませんか?

 

6.       作業の種類、 私も日本の神学校時代には、HCCの塾生ほどではありませんが、よく作業をしました。それにしても週に一度位です。しかし

現在のHCCの塾生の作業は、量が多すぎるということと、きつ過ぎるという点で常軌を逸していると思います。私自身も以前、榊山先生から頼ま

れて、アメリカから作業に使う道具を買って持って行ったことがあるので多少責任は感じていますが、HCCのかなりの作業は、本来はプロフェッ

ショナルに頼むべき作業であって、将来伝道者になる人達のする作業ではありません。我々は終戦後に生きているのではなく、21世紀に生きて

いるのです。伝道者は、み言葉に仕えるために献身したのでしょう?私はしばしば真っ黒になって働く塾生の皆さんを見て、献身的だなあと思うと

同時に、哀れだなあ思ったことがあります。ことに、枕木を小さく切る作業の時は、皆さん真っ黒になって仕事をしておられました。塾生というには

、人間の尊厳が傷つけられているとさえ思いました。榊山先生は、HCCが建設会社顔負けの重機の数々を持っていることに悪乗りしてか、教会

外のよその仕事も請け負って、儲かったら教会会計に入れるということを言っておられましたが、実際にそういう教会外の仕事を請け負ってやっ

たことがあるのですか? もしそうならそれは、塾生にとっては、本末転倒ではありませんか?塾生達はみ言葉に仕える人になるために、献身し

ているのではありませんか?それから、よくそういう危険な作業を彼らにさせられるものだと思います。私など、教会の庭の木の枝払いですら信

徒にはさせません。もし落ちてケガでもしたら、大変なことになるからです。実際に浜名湖チャペルでは、作業中に事故で亡くなった方がおられる

ということを聞きましたが、事実であるなら、これは一大問題です。私の考えでは、浜松HCCくらいの規模の教会になれば、毎週の教会の掃除で

すら、塾生ではなく専門の保全要員を雇わねばならないかも知れません。今後、体育館建設、墓地の造成など作業は続くでしょうが、専門家を雇

われることをお勧めします。伝道者には、伝道者としての訓練を受けさせてやって下さい。彼らがそれでも、そういう作業をやりたいと言えば、今

後は伝道者として扱うことをせず、きちんと給料を払って、教会の保全要員・作業員として扱うべきでしょう。勿論、労災などの保険をかけ、それ

に見合った給料を出すべきでしょう。伝道者は能力に応じてみ言葉を、学ぶ必要があります。そしてそれを伝えるのを仕事とするのです。それよ

りも作業の方がいいという塾生は、そちらの方面に召されているのでしょう。

 

7.       早天祈祷会、 現在は4時半頃から行われていると聞いていますが、早天祈祷会をしてから、それぞれ世の中の仕事に行き、お昼から集まっ

て、それから奉仕(作業)をして、何時頃お休みになるのか分かりませんが、相当ハードなスケジュールに感じます。私がお伺いする木曜夜は、

12時頃まで皆さん教会においでになりますね。そして金曜朝は、早天がお休みとか。しかし、このスケジュールでは、体がまいってしまうと思われ

ませんか。勿論人それぞれですから、それが出来る人はいいですが、出来ない人もいるでしょう。それが早天に遅れたとか、休んだということで

体罰になったと聞きます。HCCでは、早天に出ることは、義務ですか? パウロは、「すべて信仰によらないことは、罪である」(ローマ14:23) と言

います。「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである(ゼカリヤ4:6)」ともあります。私は伝道者になるための神学校をいくつか知っ

ていますが、「早天に出なかったから、罰がある」とか、「早天をしない者は伝道者になれない」というルールは聞いたことがありません。城*君は

、毎朝一人ででも、朝4時半からトリニティーのチャペルで早天をしていると思いますか?早天をすることは素晴らしいことだと信じていますが、そ

れに出るか出ないかは、その人の信仰によります。それに出ないからといって、圧倒的な権勢によって、あるいは人間的な能力によって、それを

させようとしても、うまくいかないでしょう。おそらく今、早天出席のルールを自由参加にしたら、HCCの塾生訓練機能はほとんど壊れるでしょうね

。しかしそこまで、HCCの伝道者育成の方法は間違っているのではないかということを指摘したいと思います。勿論、木曜のゴスペル・アワーの

後の集会も、非人道的な感じさえします。あれだけ働かせておいて、更に夜中の12時近くまで拘束なさるのは、考えものだと思います。榊山先生

や、喜んでそれが出来る人がなさるのは自由ですが、自由参加にすべきでしょう。弱い人もいるからです。

 

8.       会計、 何年か前、榊山先生がアメリカに来られた時、「会計報告を見せて下さい、と言った信徒がいたので叱ってやった」ということを言って

おられましたが、HCCでは、会計はほとんど信徒の目には触れさせないと聞きますが、公正になされているのでしょうか? どうしてそれを疑うか

と申しますと私は留学生を扱っていますから、留学がお金がかかるということを知っています。現在二人の息子さんを留学に出しておられますが

、こういう家庭は、日本では超お金持ちの家庭です。先生方が、それだけ収入を得ておられるとするなら、他の伝道者に対して、それだけ見合っ

た給料を出しておられるかどうかということ。もし教会会計から出しておられるなら、(城*君は、将来の伝道者になるという点で、教会会計から

出すことは可能ではありますが)それなら、教会会計から出すということを、しかるべき手続きを経て出しているのかどうかということ。またそういう

風にして、教会会計から出しているのなら、そのお金の会計はいつでも、教会員には明らかにする必要があります。トリニティーに丸抱えで留学

するについては、相当なお金がかかるはずです。そうして、城*君、使*君の留学費用を、教会会計から出しているなら、本当に献身して教会に

仕えている塾生にも、その特権はあるべきだと考えますが、どうでしょう?仮に、その人たちの留学までは無理としても、今、滝*先生の教会で

やっているような、リバイバル聖書学校的に、講師を招いて集中講義を受けるというような方法ででも、塾生にはフォーマルな聖書の学びをさせ

るべきでしょう。そして、しかるべき年限を経たら、伝道者として遣わすべきでしょう。ある方などは、「肉が強い」という理由で、いつまでたっても、

浜松で作業がほとんどの使われ方をしておりましたね。

 それぞれの教会には、それぞれの会計報告の仕方があるでしょうが、教会のお金を使う時、私もかなり思い切って使いますが、自分と自分

の家族のためには、なるべく有利にならないように心がけています。そしてどう使ったかは、信徒にはいつでも帳簿をみせられますし、私たちの

教会では、各四半期毎に、全信徒に会計報告が資料として渡されます。

 

9.       救われる人が出るか出ないかは、聖霊さまの働きです。人が救われないかといって、塾生の責任に したり、ノルマが達成できないとしても、

それで罰になるなどということは、ナンセンスです。

 

  これまで、今ではものすごい量になったHCCの不動産などの管理は、ほとんど無償で働く塾生の働きなくして出来るものではありません。これ

まで私が書いてきたようなことが行われるなら(残念ですが、先生方がそうなさるようには思えませんが)これらの管理が大変になるでしょう。しか

し無理強いをすればやがてどこかでほころびが出るものです。体罰だけでなく、言葉の暴力(「あなたがこうなったのは、私の言うことに従わなか

ったからだ」というような類のもの)も使って、信徒を縛り上げ成長出来たとしても、そういう成長には無理があります。

 

   この1-9 までに書いたことは、榊山先生がどうしても、そのやり方を貫くといわれるなら、私はよその団体の教会のことであり、これ以上言う

ことは、越権行為だと思って、目をつむるでしょう。しかし塾生や、信徒の皆さんは気の毒だとは思います。ろくに伝道者として教育も受けることが

出来ず、まるで榊山先生の言われるままだからです。結婚相手まで自分で決められない、いつになったら伝道者と認定されるのかも分からない

、それも全く榊山先生の胸先三寸だからです。

しかし、榊山先生の暴力とセクシャル・ハラスメントには、目をつぶることは出来ません。現在私が、問うているのは、その暴力、セクシャル・ハ

ラスメントであり、それらが行われたことに対する先生方の牧師としての責任です。

 

  私はキリストの教会の名誉が傷つくのを喜んでいるわけではありません。これまで榊山先生ご夫妻、HCC教会とは幸いな交わりを持たせても

らいましたし、祈り支援もいただきました。しかし、そういうお交わりであったゆえに、この一件は看過できないのです。

  私は、HCCのメンバーの人達は、潔白で清純な人達で、牧師に対して憐れみの心のある人達だと信じます。榊山先生ご夫妻が、悔い改め、

謝罪し、今後の行き方を修正すれば、赦してくれるでしょうし、受け入れてもくれるでしょう。

  しかし、頑なに自分達の立場を弁護し、その座にしがみつこうとなさるなら、もっと広範な人々に、HCCのことは知れるでしょうし、もっと多くの

塾生や、教会が出て行くことになるでしょう。あれだけ仲の良かったT・K先生と袂を分かった時も、不思議に思いました。毛○先生、羽○明先生

ですら、今後はわかりません。竹*先生でも、今、一緒にやっていてくれる、K先生、S先生、N先生ですら、先生のマインド・コントロールが解ける

と、直ちに先生から去って行きます。それはなだれ現象のような感じになるかもしれません。

   榊山先生ご夫妻、どうぞ目を覚ましてください。HCCの将来は、先生方にかかっています。主イエスさまは、悔い改める遜った魂には、どこまで

も寛容です。ミスターの口癖の一つ『謙遜』、あれは真理です。どうぞ、良く祈って、勇気を持って悔い改め、謝罪し、保障し、HCCを健全な方向に持

っていって下さい。 私は今でも、先生方を友人だと思っています、教えられたことも多くありましたし、祈って献げていただいたことにも感謝していま

す。しかし、そんな関係であるが故に、私は榊山先生方に申し上げねばなりません。先生方が、悔い改め、暴力を振るった方々に謝罪し、今でもそ

れが元で病気の方には、しかるべき保障なり、和解の方向に向かわれるなら、それは、イエス様が一番喜ばれる方向です。

  是非、榊山先生ご夫妻が、そういう方向に向かわれることを祈っております。先生方が、そういう方向に進まれるなら、私は協力を惜しみませ

んし、それでも尚、先生方を糾弾する人達がいるなら、日本に行ってでも、皆さんに榊山先生ご夫妻を弁護してあげてもいいです。

 

私の願いが、届くようにと祈りながら。

 

 

                                            Abraham M. Ishihara, your friend

 

 

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