私たちが訴訟を始めるようになり、プロテスタントキリスト教界内において大まかに三通りの反応がありました。ひとつは私たちの趣旨に賛成して応援して支えて下さる方、次にどちらともなく遠巻きに見ている方、そして「クリスチャンが裁判を起こすなんておだやかじゃない。」「証にならない」と訴訟に対して難色を示す方です。このうち、どちらともなく遠巻きに見ている方、訴訟に対して難色を示す方にも共通の聖書理解があると推測されます。それは「赦しなさい。」という聖書の教えについてです。しかし、明らかに兄弟が悪いことをしているのに、目をつぶったまま何もしないでいることが聖書のいう「赦しなさい。」ということでしょうか?

 

< 「赦しなさい」という人は多いが、「償いなさい」という人は少ないようです。私の所には全国から被害相談が寄せられてきます。彼らは被害を受け、身近な 人々から「赦しなさい」と強制され、二次被害に合っています。場合によっては「赦しなさい」が口封じの言葉として用いられている件も多くあります。被害者 は赦せない自分を責めて苦しんでいます。聖書の中には償いについても書いてありますから、償いを請求することを悪いことだと思わないでください。

 T、自発的な償い

 加害者が被害者に対して自発的に損害賠償する場合、現物にその代価の20%を増し加えるように教えています。(レビ記6:2、民数記5:67

U、強制的な償い

1、加害者が現物未処理の場合は、現物の2倍をもって償います。(出エジプト22:4

2、加害者が現物を処分していた場合は、現物の4倍をもって償います。(出エジプト22:1 >

(村上 密牧師ブログより引用)

 また聖書には教会内で起こった問題を正しく裁くように、またその手順をも教えています。(マタイ1815~17)しかし、その最終段階である教会のトップが独裁者であり、加害者の側であるとき、私たちはその訴えをどこにもっていくべきでしょうか?私たちは、榊山清志氏(以下榊山氏)に関わりを持っていると思われる牧師たちに被害の事実を訴えました。しかし、私たちの被害を理解し、榊山氏に忠告してくれた牧師はわずかでした。その忠告もむなしく、榊山氏はその牧師と交流を断つだけで、被害者への態度を改めることはありませんでした。

パウロはユダヤ人たちに殺されようとしたとき、その暴動を鎮圧しようとしたローマ兵に、自分がローマ市民であることを訴え、ユダヤ人たちに弁明する機会を求めました。また捕らえられて鞭打たれようとするときに、ローマ市民権を行使して裁判を開くように求めました。(使徒22章)パウロがすぐに世の裁判に訴え出る人たちを非難しているのは(コリントT61〜)教会で裁けるような小さな問題でさえすぐに世の裁判に訴え出るために、教会内を正しく裁ける賢い人はあなた方の中にはいないのですか、と責めているのです。決して裁判すること自体を否定している箇所ではありません。私たちが悲しむべきことは、キリスト教界内に、この「賢い人」がいないことではないでしょうか。そして加えて言えば、ゆうきの会の問題が決して「小さな問題」ではないことです。

 <被害者のみなさんへ、あなたは償いを請求する権利が聖書的にあります。もし、加害者が聖書に訴えても支払わないならば、この世の法に訴えて請求する権利 を国民としてもっています。パウロはローマ市民でしたからローマの法に訴えたではありませんか。あなたも与えられた国民の権利を行使してください。>

(村上 密牧師ブログより引用)

 この裁判を通して、密室である教会内で起こった問題を処理するためにはどうしたらよいのか、キリスト教界全体で考える必要があるのではないかと思います。