ヴィヴィアン・リー バイオグラフィー
  
[1913][1920][1926][1929][1931][1932][1933][1934 探しだされるもの][1935 田舎紳士 紳士たちの協定 見つめて笑え]
[1936 無敵艦隊 間謀 茶碗の中の嵐 最初の者と最後の者 21日間 響け凱歌][1937 セント・マーティンの小径][1938]
[1939 Guide Dogs for Blind 風と共に去りぬ][1940 哀愁][1941 美女ありき][1943][1944 シーザーとクレオパトラ][1945][1947 アンナ・カレニナ][1948]
[1950 欲望という名の電車][1952][1953][1954 愛情は深い海の如く][1956][1957][1958][1959][1960][1961 ローマの哀愁][1963][1965 愚か者の船]
[1966][1967][1968][2013][追記]
(1913.11.5 -1967.7.7)(インド、ダージリン(別荘)生まれ)Vivien Leigh

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1913

11月5日夜、カンチェンジュンガとエヴェレストの雪に覆われた頂きに太陽が沈み、ダージリン(その頃イギリスの統治下)の街に灯りがつき始めたとき生れた。
父アーネスト・リチャード・ハートレイ(ロンドンの株式市場で名を知られた金融業者でフランス系のイギリス人)が、夏のさかりに避暑のために借りたダージリンの別荘だった。
本名ヴィヴィアン・メアリー・ハー トレイ(Vivian Mary Hartley)。母ガートルー ド(アイルランド系のカソリック教徒(インド、ダージリン生まれという説も))
当時、父は交換仲買人としてカルカッタに仕事の本拠を置いていた。
ヴィヴィアンは一人娘で、学齢に達するまでエベレストをふり仰ぐダージリンの家で育った。

生活は豊かで、父はアマチュア劇団の俳優経験があり、母は音楽を愛して、3才のヴィヴィアンを児童コンサートに出場させたりした。

読書の習慣も早くからつき、6才の頃にはすでにギリシャ神話を暗誦したという。

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1920

9月、ロンドン校外ローハンプトン、セイクリッド・ハード修道院寄宿学校へ入学(6才10ヶ月(5才説も)、この学校に入学を許される最も年少の子だった)
教育を受けるのは故国にかぎるということだった。

ヴィヴィアンが入学して間もないころ、もっとも美しい娘の投票が行われた。
ヴィヴィアンが1位、モーリン・オサリヴァン(将来の映画スター)が2位だった。

学校の演劇発表会で『真夏の夜の夢』の妖精パックの役を与えられた。
この役が大変気に入って、将来、女優になろうと決心したという。

寄宿学校では、英語、算数、歴史、フランス語、と宗教教育があった。
ヴィヴィアンはどの学科にも熱心で、学期末にはいつも表彰された。
それに、バレエ、パントマイム、ピアノ、バイオリン、チェロなどのレッスンを受け、オーケストラに入っていた。

8才の夏、両親と一緒にシェークスピア劇『ハムレット』を見てオフェリアに魅せられ、「舞台女優になりたい」と思い始めた。

ヴィヴィアンの日常の生活はきわめてきちんとしていた。ヴィヴィアンの部屋はいつも整頓されていて、ノートや書類はきちんと片付けてあった。
ヴィヴィアンは属しているどのグループでもリーダーで、優れた組織力を持っていた。
しかし、院長は二人のヴィヴィアンがいると考えていた。もう一人のヴィヴィアンはしばしば姿をくらませて、湖のほとりに独りでいることがあった。
うちに秘めた感情は独りだけになるまで心の中に固くしまわれていた。

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1926

両親と共に長期ヨーロッパ旅行をして見聞を広め、各地の語学校でフランス語、イタリア語、ドイツ語を学ぶ。
14才でイタリアのサン・レモ、その後パリ、ドイツのババリアで、上流家庭の子女専門の教育と躾を受ける。

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1929

パリ、オートゥイユ近郊の私立学校へ入学。

演劇の勉強をする。
小学生の頃から演劇に憧れていたヴィヴィアンは、コメディ・フランセーズの女優アントワーヌ女史につき、ラシーヌの戯曲をテキストに基礎的演技を学んだ。

ヴィヴィアンはローレンス・オリヴィエを『伝記』の リチャード・カートの役で初めて見た。
この時のことをヴィヴィアンは「彼の才能に魅せられただけでなく、いままで経験したことのなかった性的欲望を彼によって惹き起された」と語っている。

ヴィヴィアンはワグナーのドラマチックなオペラが特に好きだった。

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1931

復活祭の日、ヴィヴィアンは18才で学業を終了した。

D・H・ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」が出版され、ヴィヴィアンはむさぼるように読了。
ヴィヴィアンの美貌は益々輝きを増し、ロマンチックな女性になった。
女優志望の意志も固くなったが、両親はそれを危惧して結婚することを薦めた。
しかし、ヴィヴィアンがまったく関心を示さぬため、父は1年間限りの条件で、ロンドン王立演劇学校(RADA)へ入ることを認める。

ヴィヴィアンはこの頃、レスリー・ハワードのファンだった。

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1932

父との約束で結婚を決意。
女友達から紹介された青年弁護士ハーバート・リー・ホルマンのプロポーズを受け入れ、知り合って半年後の12月20日、ロンドン、セント・ジェームズ寺院で結婚式を挙げる。(ヴィヴィアンは19才であった)

因習の強いイギリスの旧家で主婦として暮らすことになる。
しかし演劇への情熱は抑え難く、3ヶ月後には夫の許しを得て再び王立演劇学校へ通う。

間もなく試演会の舞台に立ったが、このとき妊娠していることが分かりやむなく家庭へ戻った。

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1933

10月12日、女児スザンヌを出産。(スザンヌには後に3人子供が生まれる)

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1934

映画『探しだされるもの』Things Are Looking upに端役で映画デビー。

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1935

ヴィヴィアン・リーの芸名が決まる。(夫の名をひとつとり、自分の名の綴りを一字かえている)

『田舎紳士』The Village Squir(ヒロインのタイピスト)『紳士たちの協定』Gentlemen's Agreement『見つめて笑え』Looking up and Laughと 3本の映画に出演した。
『探しだされるもの』の端役で映画デビーして、続いて3本の映画に出演し、『緑の飾り帯』で初舞台。
初舞台『緑の飾り帯』(若妻ジュスタ役)の演技が高く評価された。
タイムズ紙の批評家が「緻密でしかも軽妙である」と認める。
『緑の飾り帯』の演技がウエストエンドの一流プロデューサー、シドニー・キャロルの目にとまり、その年5月、アンバサダース劇場で華やかに幕を開けた『美徳の仮面』に主演するという異例の幸運をつかむ。
キャロルは、ヴィヴィアンを見て、その個性的魅力を賞揚し「彼女の清らかな美しさは、無垢な若さと、天性の気品、知性に裏づけられた価値がある。キャリアの不足など、その美点の前では取るに足りない」とまで言っている。彼はロンドン演劇界でも、新人をスターに育てる手腕をうたわれた存在で、ヴィヴィアンの成功には確信を持っていた。(草鹿宏著『永遠のスカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー物語』 参考)

アンバサダース劇場の『美徳の仮面』の主役を演ずる。
アン・エドワーズ著に“5月15日、客席が暗くなって、幕が上がった。ヴィヴィアンが最初に登場した瞬間から、アレキサンダー・コルダも他の観客たちも心を奪われた。ヴィヴィアンの身にそなわった魅力が魔法のように観客をつつんだ。
舞台で何が起っていようと、観客は彼女から目を離すことができなかった。ライトと衣装が彼女の古典的な長い頸と象牙のように白い肌と完璧な顔をきわ立たせて、静止しているときはフィレンツェ派の絵画のように見えた”と記されている。
オリヴィエは「私がこの想像を絶するほどの驚くべき美 の所有者を初めて目にした」のが、この時だったと語っている。
そして、ヴィヴィアンのことを「魔法のようなその容貌は別にしても、彼女は美しい姿態をもっていた、その首はほとんど頭を支えきれないのではないかと思われるほどか弱く見え、それをのせているのは驚きの感覚をもって、素晴らしい技巧を殆ど 偶然のようなものをもってであった。
彼女はほかにもまだなにかをもっていた、私がかって出会ったこともないほどの人の心をかき乱すような魅力を。彼女の熱烈な賛美者たちの軍団を奴隷と化さしめたのも、その不思議な感動的な威厳の火花のせいだったかもしれない」と語っている。
新聞の見出しはヴィヴィアン・リー、新作の舞台で光る。若い女優、激賞をうける。この女優は大きな発見。新スター、ロンドンを征服」だった。

ギルガットの演出で、オックスフォード大学演劇協会が上演した『リチャード三世』(王妃役)、ヒズ・マジェスティ劇場の『陽気な偽善者』、リージェント・パーク野外公演の『ヘンリー八世』舞台女優としての実績を積み上げて行った。

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1936

ロンドン・フィルムでウイリアム・K・ハワード 監督『無敵艦隊』Fire Over England[写真1]に出演契約。
ローレンス・オリヴィエ(オールド・ヴィック座の新鋭として活躍していた)と初共演する。

バーチェット・グリーンにあるオリヴィエ邸に招待される。
3ケ月の撮影期間中、オリヴィエから多くのものを学んだヴィヴィアンは、激しい恋におちる。
エドワーズ著はヴィヴィアンはいつも生き生きとして いて、何をしでかすか、予想がつかなかった。
彼女はユーモアにとみ、大胆で、情熱的で、同時に思慮深く、情愛が深く、思いやりがあった。
彼女はオリヴィエに、彼が彼女の世界のすべてで、彼女はオリヴィエのために生きているのだ、と感じさせた。
それでいて、彼が知っている誰よりも知性的で、彼よりはるかに本を読んでいた。
そして、世界で最も美しい女の一人であることは間違いがなかった”と。

ヴィヴィアンはこの頃、ショーとシェークスピア、伝記 と美術史、ローレンス、ルイス、ジョイスをむさぼり読んだ。
そして、アメリカのベストセラー『風と共に去りぬ』に心を奪われ、スカーレット・オハラに惹きつけられた。

ヴィクター・サヴィル監督スパイ映画『間謀』Dark Journey(コンラート・ファイト共演)

『茶碗の中の嵐』Storm in a Teacupに主演。

『最初の者と最後の者』では、オリヴィエと再度共演した。

デンマークのクロンボルグ城で『ハムレット』[写真1]が上演され、オリヴィエはヴィヴィアンをオフェリアに強く推して、大成功をおさめる。

大舞台の観客は、オリヴィエの完璧な演技と、ヴィヴィアンのみずみずしい美しさに恍惚となった。そして一座の者すべてが、ふたりの愛が舞台を成功に導いたことを認めたのである。
二人の愛は決定的となり、ヴィヴィアンとオリヴィエは、決断を迫られていた。もはやふたりが離れて暮らすことは出来なかった。ヴィヴィアンは夫のリー・ホルマンに、オリヴィエは妻のジル・エスモンドに、真実を打ち明けねばならなかった。
ヴィヴィアンの娘スザンヌは、まもなく4才で、オリヴィエの妻は数週間前に男の子を出産していた。何の憎しみもなしに、ふたりはその家庭を捨てる決意をする。
「ロー レンスへの愛は動かしがたいものだったのに、私は深い悲しみに身を裂かれるようでした。この私と結婚しなかったら、ホルマンが傷つくこともなかったでしょ う。彼は寛大な夫でした。妻である私が望むままに、女優を続けることを許し、自分の感情を抑えていたのです。彼の優しさは、一層、私を苦しめました。ほん とうは彼が何を欲しているか、その心にどんな葛藤があるかを知っていたからです。私は罪の意識にまみれました。けれども、ふたりが全く違う世界に属する人 間だということは、どうにもならない現実でした。
夫も不幸 な予感を抱いていたのです。私たちが『ハムレット』の上演でデンマークへ旅立ったときから、彼は破滅の淵をのぞき込んでいたのかもしれません。私がローレ ンスへの愛を告白したとき、彼は無言でこみあげる感情に耐え、私を責めようとはしませんでした。そのときの沈黙が、どれほど重く、どれほど悲痛なもので あったか。私は神の裁きを受ける小羊でした。道に迷い、風雨にさらされ、永劫に消えぬ苦しみを背負ってもなお、私とローレンスには絶ちがたい愛がありまし た。
最後の朝 の光景が、まぶたのうらにやきついています。私たちはふだんと変わりない、簡単な朝食をとりました。窓から食堂にうすら日が差し込み、庭木の梢がさわさわ と風に揺れて、秋の気配を感じさせていました。うつろなほど静かな朝でした。でもスザンヌは、いつもと違う何かを感じたのでしょうか。壊れたお人形のこと や、道で見た捨て犬のことをしきりに話したがって、私と夫にかわるがわる質問するのです。私は肉親の絆を恐れました。
その日、夫が法律事務所から帰宅する前に、私は身ひとつで家を出ました。あらかじめ母には事情を打ち明け、スザンヌを預ってもらったのです。周囲のどんな静止も反対も、覚悟の上でした。私には真実の愛だけが必要だったのです(草鹿宏著『永遠のスカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー物語』より 抜粋)

ヴィヴィアンはロンドンへ帰るとスザンヌを母に預けて夫と別居し、オリヴィエも女優の妻ジル・エスモンドと別居し、ヴィヴィアンとベネチアへかりそめの新婚旅行に立った。

ベイジル・ディーン監督『21日間』21Days[写真1]

MGMがイギリスのマイケル・バルコン・プロで撮ったジャック・コンウエー監督の学生劇『響け凱歌』A Yank at Oxford(ロバート・テイラー、モーリン・オザリバン共演)に出演(浮気な人妻役)

暮れにはタイロン・ガスリー演出『真夏の 夜の夢』(タイタニア役)で舞台に立ち魅惑的に演じる。

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1937

ティム・ホイーラン監督『セント・マーティンの小径』St. Martin's Lane(The Sidewalks of London)[写真1][写真2][写真3]でチャールズ・ロートンと共演。

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1938

オリヴィエは自分のエージェントをしているマイ ロン・セルズニック(『風 と共に去りぬ』のプロデューサー、デビッド・O・セルズニックの兄)ヴィヴィアンを紹介した。一目でヴィヴィアンの高貴な美しさに魅せられた。

12月11日夜、『風と共に去りぬ』は ヒロイン未定のままアトランタ炎上のスペクタクル・シーンの撮影を開始。
マイロンの薦めでオープン・セットを見学に行ったヴィヴィアンは、そこでデビッ ド・O・セルズニックプロデューサーの目にとまり、スカーレット・オハラの大役を射止めた。
デビッドは「マイロンがヴィヴィアンを私に紹介したとき、焔が彼女の顔を照らした。私は一目見て、彼女がぴったりであることを知った。
少なくとも、彼女は私が考えていたスカーレット・オハラそのままで あった。
私はあの時の第一印象を永久に忘れることができないだろう」と語っている。

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1939

1月26日『風と共に去りぬ』Gone with the Wind[写真1][写真2][写真3](スカーレット・オハラ役)(監督は、ジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミング、サム・ウッドと複数変わる)クランク・イン。






6月末に撮影終了。
ほとんど無名のイギリス女優に大役を奪われた(1400人のスカーレット候補女優の溜息と嫉妬をうけた)ことで、撮影中は多くの抵抗や反対もあったが、ヴィヴィアンは心身共に疲れ果てるまで『風と共に去りぬ』に没頭した。

12月15日、ジョージア州アトランタで盛大なワールド・プレミアが開かれ、ヴィヴィアンの美しさと演技力は最高の賛辞を浴びる

映画は公開と同時に大センセーションを巻き起こした。
ニューヨーク・タイムズはヴィヴィアン・リーのスカーレットは才能を必要としないほど美しく、そして、あれほど美しい必要がないほど才能がめだち、これほど役にぴったり合った女優はいなかった」

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1940

3月、『風と共に去りぬ』ヴィヴィアンの主演女優賞[写真1][写真2][写真3][写真4][写真5][写真6]はじめ、アカデミー賞10部門独占の栄誉に輝く。

つづいてMGMはマーヴィン・ルロイ監督『哀愁』Waterloo Bridge[写真5][写真8][写真9](ロバート・テイラー共演)のヒロイン(マイラ)ヴィヴィアンを起用。
美男美女の共演で大ヒットして、“恋愛映画の最高傑作”と言われる。



5月、サンフランシスコで『ロミオとジュリエット』がローレンス・オリヴィエとの共演で実現。
ブロードウエイでも上演された。
“サンフランシスコの新聞の劇評はまちまちであった。オリヴィエの演技に疑問を投げかけた批評家もいた。しかし、ヴィヴィアンがすばらしいという点ではすべての批評家が一致していた。サンフランシスコの興行が終わって、一座はシカゴに移った。
「……永らく待たれていた『ロミオとジュリエット』は」と、あるシカゴの新聞は書いた。「ミス・リーとローレンス・オリヴィエが薄幸の恋人たちに扮して上演され、ミス・リーにとって、スカーレット・オハラさえ小さく見せるほどの記念すべき作品になった。ア メリカ劇壇は多くのすばらしいロミオを持っているので、オリヴィエの演技がミス・リーの演技ほど目立たなかったのかもしれない。彼女はこれに反して、理想 にはほど遠い多くのジュリエットーひからびていたり、弁舌をふるいすぎたり、中年だったり、肥満しすぎていたりしたジュリエットと比較されたという利点を 持っていた。観客は、陽気で、明るく、恋に胸の炎を燃やし、劇が進むに連れて恐怖に駆られてゆくジュリエットの一挙手一投足に、青春の息吹を感じさせられた。この英国娘は、たしかに久しぶりの掘り出しものである”(アン・エドワーズ著『ヴィヴィア ン・リー』より 抜粋)

8月28日、ロンドンの法律事務所からヴィヴィアンの夫と、オリヴィエの妻が離婚に同意した旨の連絡が入った。

8月30日、ハリウッド郊外サンタバーバラで、慎ましく結婚。
立会いは地方判事とロナルド・コールマン夫妻、キャサリン・ヘプバーンなど数人だけだった。

翌日未明、コールマン所有のヨットでカタリナ島へ向け出航。
船上で結婚披露パーティーを開き、ハネムーンを続けた。

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1941

イギリスに戻り、まるで二人の恋をダブル・イメージとしてつづったかのごとき作品のアレクサンダー・コルダ監督『美女ありき』Lady Hamilton[写真1][写真4](エマ・ハミルトン役)にオリヴィエと共演。


第2次世界大戦の独軍爆撃下にあったロンドンの家から、郊外の家へ移り住む。
好きな読書を楽しむ日を送る。

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1943

オリヴィエの薦めで9月マンチェスター初日のバーナード・ショウ原作『医師のジレンマ』(ジェニファー・デュベダ役)をやり、大成功し約13ヶ月間巡演する。

英軍慰問の芝居や、詩の朗読もする。

エドワーズ著でオリヴィエとヴィヴィアンは黄金のカップルだった。彼らには青春の美しさがあって、戦争に明け暮れる年の希望であった。
オリヴィエとヴィヴィアンが世界で最も美しい二人のように鮮烈に 輝いて見えた
すべての人々が彼らについて読みたがり、彼らの写真を新聞で見たがり、彼らに会いたがり、彼らの友人、知人のグループの一人になりたがっ た。
ヴィヴィアンは華やかな空気を保ち続けていた。彼女は夢であり、過去からの幻影であったと記してある。

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1944

ガブリエル・パスカル監督『シーザーとクレオパトラ』Caesar and Cleopatra[写真1](クロード・レインズ共演)の映画出演。

ヴィヴィアンのクレオパトラはスカーレットの美しさをもしのぐばかり”と評される。
だが撮影が終わると同時にヴィヴィアンは倒れ、病院で妊娠を知ったが、6週間後に流産し、ショックを受ける。

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1945

5月、ソーントン・ワイルダーの『危機をのがれて』(サビーナ役)の公演。

オリヴィエは「この作品でヴィヴィアンがサビーナ役を演じ、輝かしい成功を収めたことで、私の喜びは頂点に達した。
批評家の偏見にもかかわらず、彼女はもう舞台女優としてもっとも輝かしいスターの地位を確立していた」と語っている。

第2次世界大戦終結。
オリヴィエが初めてヴィヴィアンの喀血を見る。
翌年にかけロンドン校外サナトリウムで肺結核の療養生活を送った。
躁鬱症状があらわれる。

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1947

年初に健康を取り戻す。

ウエストエンドの舞台『ミスター人類』に出演。

5月、クランクインのトルストイ原作ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『アンナ・カレニナ』Anna Karenina [写真1](アンナ・カレニナ役)(ラルフ・リチャードソン共演)に主演。

ヴィヴィアンはトルストイを尊敬していた。

7月8日、オリヴィエは演劇、映画に尽くした功績によりジョージ五世から「卿」の称号を与えられ、ヴィヴィアンも「レディ・オリヴィエ」と呼ばれる名誉に浴した。

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1948

ロンドンでテネシー・ウイリアムズ原作『欲望という名の電車』(ブランチ・デュポワ役)を8ヶ月上演、オリヴィエの演出で衝撃的大ヒットをおさめる。

オリヴィエは最高潮にあるヴィヴィアン、彼女の主演と私の演出の組み合わせはすでに人気を呼ぶことが証明されていたと語っている。

翌年にかけて『マクベス』『悪口学校』『リチャード三世』(レディ・アン役)『アンチゴーヌ』(アンチゴーヌ役)などの舞台をエネルギッシュに消化した。
そして、この頃をオリヴィエはヴィヴィアンと私はともに背負いきれないぐらいの仕事を抱えていた」とも語っている。

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1950

アメリカWBでエリア・カザン監督『欲望という名の電車』A Streetcar Named Desire[写真1](ブランチ・デュポワ役)を、マーロン・ブランド共演で映画化。

ヴィヴィアンの演技は絶賛され、翌年春、2度目のアカデミー賞を はじめ数多くの主演女優賞を受賞する

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1952

年初からブロードウエイで、オリヴィエと『アントニーとクレオパトラ』

『シーザーとクレオパトラ』[写真1]を16週間上演。

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1953

パラマント『巨像の道』のセイロ ン島ロケに旅立ったが、共演を予定されていたオリヴィエが他の仕事で降りたため、異常な孤独感に苛まれる。
不眠が続き強度の神経衰弱と診断されたヴィヴィアンは、力尽きて倒れ錯乱状態となる。
急遽エリザベス・テイラーが代役に決定。(ロング(遠景)の女主人公はヴィヴィアンである)
英国へ帰りサリー州ネーザン病院に入院したが、夏を過ぎて奇跡的に再起。
この時の状況を草鹿宏著は『巨像の道』のヒロインは、急遽エリザベス・テイラーに振り替えられた。もはや事実をひた隠すことは出来ない。
ヴィヴィアン・リーは精神障害を引き起こし、再起は絶望的というニュースがたちまちにして広まった。
だがヴィヴィアンは何も知らず、昏々と眠っている。病室で鎮静剤が注射され、彼女は担架に身を横たえて寝台車に乗った。
『風と共に去りぬ』『欲望という名の電車』と再度のオスカーを受賞した大女優が、今は身も心もずたずたに引き裂かれ、見送る人もなく、ひそかにハリウッドを逃れて行く。
その時ヴィヴィアンの未来に、だれが再起を予想することができたろう。
担架にはオリヴィエが付き添い、ニューヨークへ向かう 飛行機に運び込んだ。
その機内でようやく意識がよみがえってヴィヴィアンは、あどけない子供が見知らぬ世界で目を覚ましたような戸惑いと驚きでオリヴィエ(呼び名ラリー)を見た。
「ラリー……、私、どうしたの?どこへ行くの?」
「迎えに来たのだよ、君を。心配はいらない、ロンドンへ帰るのだ」
オリヴィエは静かに言った。
ヴィヴィアンは涙をためていた。
何か言おうとしたが声にはならなかった。
ニューヨークから乗りついだ飛行機には、たまたまロンドンへ行くダニー・ケイが乗り合わせた。夫婦にとって、彼は親しい友人のひとりだった。
ヴィヴィアンは機内で何度か軽い発作に襲われたが、オリヴィエが幼女をあやすようにし、ケイもそれを手伝った。
到着したロンドン空港には病院からさし回しの車が待機していた。
「それから三週間あまり、私は世の中からまったく隔絶されて、精神を安定させるための薬物療法を受けていました…」
ヴィヴィアンは当時の模様を語っている。
「空港から私が運ばれたのは、サリー州のネーザンという病院で、ほとんど窓から庭を見ることさえなく、ローレンスが病院からイタリアへ行った後、私は自分が生きていることの意味を、少しずつ考え直しました。
ラリーは私の誇りでした。
彼は私に、女優として、妻としての幸福を与えてくれたこの世でただひとりの人でした。
彼とともに生活し、舞台に立つことが私の生きがいのすべてだったのです
けれど私は力弱く、彼はあまりに偉大でした。
私はもう一度、生きられるだろうか? 今ここでくじければ、永遠に彼を失ってしまう。
悩み、苦しんだ日々、私は繰り返し『ハムレット』の夢を見ました。
幼いころ、両親に連れられて初めて『ハムレット』の舞台を見たときの興奮。
そしてラリーと初めて クロンボルグ城で共演した『ハムレット』の感動。
それを忘れることはできませんでした。
夏が過ぎたころ、医師も驚くような奇跡が私の上に起っていました
再起不能の噂などまったく知らず、私は死の恐怖を乗り越えて、また舞台に立つ希望を取り戻したのです

その秋、不屈の誇りと執念で回復したヴィヴィアンは、オリヴィエとともにカムバックの意思を明らかにした。
まことに不死身というべきか、彼女の生命力は希有のものであった。

やがてヴィヴィアンは、ロンドンのフェニックス劇場で、オリヴィエが演出する『眠れる王子』の舞台に復活した。
その公演中、彼女は満40才の誕生日を迎えたのである。”と記している。

オリヴィエ演出『眠れる王子』の舞台に立つ。
マンチェスターで初日をあけ、ヴィヴィアンの楽屋には大きな花篭がいくつも届けられた。
オリヴィエ夫妻は温かく迎えられ、特にヴィヴィアンは観客総立ちの拍手をうけた
連日満員でフィーニックス劇場で35週間上演された

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1954

秋、ロンドン、フィルムで『愛情は深い海の如く』The Deep Blue Sea[写 真1][写 真2][写 真3][写 真4](貴婦人ヘスター役)(アナトール・リトヴァーク監督)(ケネス・モア共演ヴェネチア映画祭主演男優賞受賞)がクランク・イン。(イギリス、最初のシネマスコープ映画)

翌年完成後、『十二夜』(ヴァイオラ役)『リ ア王』『マクベス』(レディ・マクベス役)などシェークスピア劇に連続出演する。
川喜多かしこ著によると“世界の悪婦伝の立役者であるレディ・マクベスを、あの可憐なヴィヴィアンがどう演じるかは、英国劇界の興味の中心であった。従来のレディ・マクベスの型には余りに遠い彼女だからである。
ヴィヴィアンは、物静かな、美しい女性として舞台に現れた。
夫の愛と信頼を全身に受け、国王の信任も厚いレディ・マクベスが、その美しい頭に、恐ろし い野望を秘めている
これが彼女の表現した新しいレディ・マクベスである。
ヴィヴィアンは一見不利な自分の体格を逆用して、かえって現代人の共感を呼ぶ著しい効果を上げたのであった。
彼女の演じたレディ・マクベスの夢遊の場は、忘れ難い恐ろしさと美しさとに満ちていた。
犯した罪の呵責に悶える良心を押えに 押えている精神力が、夜の眠りと共にゆるんで、何度洗っても落ちぬ罪の血痕を、そのかぼそい手から、こすり落そうとするのである。
それは悪婦のうちにある 愚かな女性の哀れさを感じさせる演技だったと記されている。

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1956

妊娠。出産は12月の予定だった。
ヴィヴィアン は医師の許しを得て、8月まで『南海の泡』(ノエル・カワード原作)(レディ・アレキサンドラ・ショッ ター役)の舞台に立った。
川喜多かしこ著によると“総督夫人役のヴィヴィアンは 好みのよい服を美しく着こなして、モリエール風の軽妙な味を出していた”と記されている。
杉村春子は1985年6月1日に森繁久彌とのビッグ対談「舞台は人生 人生は舞台」で、30年程前にロンドンで観たこの舞台のことを語っている。
「文学座が始まった頃には言葉をとても大切にして、先生方がそうでしたから。
だから人の台詞を聞き、それに応える。
毎日毎日、同じことを書いてある言葉を覚えていたって、その人の色んなことって違うんだから。
それに対して返事も違ってくるわけでしょう、多少は。
だから聞いて言わなくちゃならないってこと、長いこと言われてやってきたんですよ、私たちは。
ところがある時期から、そういう会話というふうってなことを考えない時期が始まったんですね。
あの、全部自分の主張を話すんです。芝居でさ。
だから相手が何言っていようと、こっちが言ったらこっちが言い、会話にならなくなっちゃった。
私がね。あのう、そうですね30年ぐらい前にロンドンで、あのう、ヴィヴィアン・リーの芝居を観たことがあるんですよ。
そん時に丁度、あの、日本でね。
戦後の色んなこの鎖国時代みたいで外国の芝居が入ってこないし、新しい芝居ものは不条理向きとかいっぱい入ってきましたね。
それで私たちはいらないもののように言われた時があるのですよ、ある時期」と杉村。
「そうですね。ヌーベルバーグの時代なんかが正にそうですね」と森繁。
「そうです。自分だって混乱しちゃったってどうしていいのか判らない。
新しいものやるには新しい演技。新しい考え方も全てそういうのがいる。古いのはいらない。
そうはっきりいったわけじゃないけど解りますよね、あなた。
で、その時に丁度、私、生まれて初めて外国に行って外国の芝居を観る機会があったのです。
まだ日本からあまり外国に出られない時分に。
2ヶ月半ばかりずうっと、まあ、共産圏も通ったし、それからヨーロッパでも芝居を観てきました。
その時にね、向こうでもやっぱり新しい波ってのは随分があるわけです。
だけどもねっ、ある種の伝統を持ったものはね、それはそれでやっているわけですよ。
ヴィヴィアン・リーの芝居が伝統あるかどうかってことは別にしてもね。
あのう、あれはね、あの、う〜ん、ノエル・カワードの新作をやっていたんです。
本当に新しい芝居。
それで大使館の人たちと一緒に行ったのですけど、それでも意味がよく解らない。
まだ本も読んでいないからとおっしゃって。
そいで一杯ですね、お客さん。
ヴィヴィアン・リーが出るってえので。
なんか南の島の提督がどうかしての話です。
南の島の植民地だかなんですかね。
それで今度こういうふうに座ってね、その提督とヴィヴィアン・リーとが。
それでね、長いこと解らないから私たちは本当に、どのくらい聞いたか判らないくらい長いこと二人で話しているんです。
座ったままで」と杉村。
「うん」と森繁が頷き。
「それをお客様は面白がって笑っているわけです。
だから私…。
すぐ、ほら日本ではね。
そのう、お客様が退屈、私たちが未熟でしょ。
だから、じいっと腰掛けて喋らせるってことはあまりしないわけですよ、演出家も何も。
すぐ立ってこっち動いたりね。
それから、あのう、会話を聞かせるってことは二の次にしちゃって動いてちょっと人を誤魔化してねぇ(笑)
そのお時間を持ってゆこうと思うのかしらね。
立ったり座ったり立ったり、色々動かすわけです。
そんなことなし、二人でこう喋っている。
私こういう芝居がしたいと思ったんです、そん時に。
そういう芝居がちゃんとあるんだから。
それがあって、新しい波があって、それで一番良いのじゃないですかね。
それを全部否定しちゃいけないということでね。
私、人がなんと言おうと自分がこう思っていることを勉強してゆこうと、そん時にそう思った。
それからずうっと今日までそう思ってきているのですよ。
根が、大根をしっかりしておかなければ、どういうものが出てきたってと思うんですよ」と杉村が、ヴィヴィアン・リーと相手役が新作を座ったままで長々と話して観客を楽しませていたような芝居をしたいと思い続けてきていたと熱ぽっく語っていた。(1985.6.1杉村春子と森繁久彌のビッグ対談「舞台は人生 人生は舞台」NHKBS2より)

そのように役者にも影響を与えているヴィヴィアン・リーの舞台だったが打ち上げ直後に突然倒れ、またも流産。
このショックがのちに悲劇の引き金となる。
草鹿宏著では“妊娠4ヶ月を過ぎたヴィヴィアンは、医師の許可を得てその夏『南海の泡』の舞台に立ったが、難航(オリヴィエがハリウッド映画『王子と踊子』を 監督・主演で撮ることになったが、共演のマリリン・モンローの度重なるトラブルに疲れ果てて仕事を引き受けたことを後悔していた)するオリ ヴィエの仕事を気遣って、いろいろと心をくだいた。
だがヴィヴィアンは自分の心身の疲労にまだ気づかなかった。
彼女の舞台は8月13日の金曜日で終わり、そのあとで打ち上げパーティーがあった。
翌日から出産のための休暇に入るはずだった。
2日後の日曜日、オリヴィエは撮影の遅れを取り戻そうと、家を留守にしていた。
ヴィヴィアンが突然倒れたのは、その日の夕方である。
ふたりの医師が駆けつけたときは、すでに手遅れだった。
ヴィヴィアンは流産し、悲しみに打ちひしがれて、青ざめた顔を両手でおおっていた
二度までも彼女はオリヴィエの子を産むことができなかった。
深い悲哀と絶望が、嗚咽の波になって襲った
「医師も予測し得ない不幸だったが、私たちは失ったものの大きな価値に気づいたと、オリヴィエは言った。
そして、「私は自分を責めようと思う。医師にもヴィヴィアンにも落ち度はなかった。これは運命なのだ、何も聞かずに彼女をいたわってほしい」数日の間、彼はヴィヴィアンの部屋にこもり、訪れる見舞い客とも会わなかった。
白衣のハウスキーパーが受け取る花の香りが、部屋に満ちあふれた。
ベッドの下にひっそりと、シャム猫がうずくまっている。
「オリヴィエ 卿と夫人は、大そう落胆なさっています」と、ハウスキーパーは訪れる人たちに告げた。”と記されている。

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1957

オリヴィエと共に『タイタス・アンドロニクス』(ラヴィニア役)のヨーロッパ巡演、パリ公演でレジオン・ドヌール勲章を贈られる

歴史あるロンドンのセント・ジェームス劇場が区画整理で取り壊されることになったとき、ヴィヴィアンは抗議運動の先頭に立った。

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1958

不眠と躁鬱症状が再発、断続的に錯乱を繰り返す。
数ヶ月後にヴィヴィアンが平静を取り戻したとき、主治医はオリヴィエの希望を受け入れて、夫婦が暫く別居することもやむを得ないと判断した。
「破局」のニュースが流れると、ヴィヴィアンはインタビュアーに「これを最終的なものとは考えないで欲しい」と苦しげに答えた。

ヴィヴィアンは再起を仕事にかけ、ロンドンで『ルルを求めて』の舞台に立つ。

12月、父が死去。
オリヴィエと別居のまま年を越す。

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1959

5月、渡米して『天使たちの決闘』(ジロドゥ戯曲)(パオラ役)を上演中、新聞記者から「ロンドンで『芸人』に共演しているオリヴィエと新人女優ジョーン・ブローライトが、結婚を噂されている」と聞かされる。
ヴィヴィアンは最後の希望を持ちながらも、毎日楽屋入り前に神経科のショック療法を受けた。

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1960

オリヴィエとの話合いも空しく、彼の愛が自分から去ったことを知ったヴィヴィアンは、ついに離婚に同意。
ノットレイの邸宅を売って、ロンドンのイートン区に一人暮らしのアパートを借りた。

12月6日、ロンドンの法廷で離婚成立。
20年間の結婚生活にピリオドを打つ。
このときヴィヴィアン「もう一度人生をやり直すことが許されても、私は女優になり、オリヴィエと結婚したい」と涙ながらに語った。

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1961

3月、オリヴィエはブローライトと結婚。
ヴィ ヴィアンはジャマイカ島に住む知人宅に身を寄せたが、このときオールドヴィック座の俳優ジョン・メリヴェール(ジャック・メリベールの表記も)が同行した。
メリヴェールはかって、『ロミオとジュリエット』に出たこともあり、離婚後のヴィヴィアンにとって心の支えになっていた。
 
ヴィヴィアンより7才年下のメリヴェールが亡くなる前(1990年70才くらい)のインタビュー。(録音した10本のテープの中から伝記作家ヒューゴ・ビッカーズが公表)
“ビビアンはオリビエのことを
“ろくでなし野郎”と言うこともあったんだ
ある日 私は鳥に言葉を教えようと
近づいていった
「天国なんて くそくらえ」と
私はその鳥に繰り返し教えたんだ
5回も繰り返さないうちに
その鳥は「天国なんて くそくらえ」と返した
その時 ビビアンがそばにいたんだ
これが私たちを結びつけた
ビビアンは私のことを面白いと思ってくれた
彼女は笑うことが大好きだったんだ
そして 私は彼女を笑わすことができた”
伝記作家ヒューゴ・ビッカーズ。
“ジャック(ジョン・メリヴェール)がビビアンと過ごしたのは
7年間だったかな
彼にとって特別な時間だったと思うよ”
メリヴェールの義妹サリー・ハーディー。
“ビビアンにとって幸運だったのはー
ジャック(ジョン・メリヴェール)が俳優という職業を
知り尽くしていたことよ
ジャックの両親は俳優で
義母も女優だった
だから 女優というものをわかっていたの”
サリーはヴィヴィアンがメリヴェールに宛てた手紙も公表した。
“私はあなたにA「あなたを愛してること」
B「あなたがいなくてさびしいこと」を
書いて置かなければ眠れません
私は今 心臓をドキドキさせて
あなたの所へ向かっています
この手紙を書くのは ペンを走らせていると
あなたに近づいていると感じられるからです
あと5時間で じかにあなたと会って
話をすることができるのです
あなたに会いたくて 胸が痛みます”
サリーはメリヴェールの婚約者であったが、メリヴェールはヴィヴィアンの元へいったという。(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より)
メリヴェールのインタビュー。
“私は彼女を元気づける召し使いのようだった
ある日 ビビアンが
「田舎に家が欲しい」と言ったんだ
それで 私は彼女と長い時間 車で走った
確か4月だったと思う
私たちは車を止めて ある家を見た
その家には水辺もあった
家を見て ビビアンは吐息をもらしたんだ
その瞬間「この家を買うだろうな」と思ったよ
それで ティーカレージ荘を買ったんだ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」伝記作家ヒューゴ・ビッカーズ保存テープより 抜粋)
このティーカレージ荘でメリヴェールとの歳月(7年間)を過ごしたという。
ヴィヴィアンが死ぬまでオリビエの写真を飾っていたことをメリヴェールはどう思っていたのかという問いにサリー。
“ジャック(ジョン・メリヴェール)はそんな彼女の気持ちを
理解してあげていたのよ
そんなことわかる人は
ほとんどいないと思うわ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
ティーカレージ荘の隣人でヴィヴィアンと親しくしていたアン・プレス(当時13才)
“ジャック(ジョン・メリヴェール)はビビアンに
何でもしてあげていたわ
でも いつも彼がなんとなくさびしそうでー
ふたりは対等な関係ではないと
幼い私にもなんとなく感じられたわ
ジャックはいつも彼女の一歩後ろにいたわね
ジャックはそれを受け入れていたし
そうしなければいけなかったのよ
そうしないとふたりの関係は
機能しなかったでしょうから”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
メリヴェールのインタビュー。
彼女は自分がどんな気持ちか隠さなかった
それが とてもかわいらしいんだ
よく散歩をして眠っていたよ
スカーレットみたいなところもあったんだ
私は心の底から決めたんだ
“彼女のために生きよう”とね”
“私はすごく幸運だったと思うよ
ビビアンの愛を得ることができたし
自分も彼女を愛したんだ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」伝記作家ヒューゴ・ビッカーズ保存テープより 抜粋)

秋、ヴィヴィアンの心情を重ねたような作品のホセ・キンテーロ監督『ローマの哀愁』The Roman Spring of Mrs.Stone[写 真1][写 真2][写 真3](キャレン・ストーン役)に主演(ウォーレン・ビーティー共演)
イタリアで撮影。

暮れにオリヴィエの子が生れた頃、ヴィヴィアンは メリヴェールと共にオーストラリア巡業に旅立った。

オリビエがメリヴェールに宛てた手紙を伝記作家ヒューゴ・ビッカーズが公表した。
“君に心からの感謝するよ ありがとう
あの生活から解放された私がー
新しい出会いに 手を伸ばせると感じるよ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)

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1963

3月、ブロードウエイ・ミュージカル『トヴァリッチ』Tovarich(ジャン・ピエール・オーモン共演)の舞台に立ち、年齢的限界に挑戦して白いエプロンをかけてチャールストンを踊る陽気な小間使いを演じた。
大好評で9月にも再演されたが、28日夜突然倒れ、代役にエバ・ガボールが決まった。

ヴィヴィアンは肺結核と神経症の発作に苦しみ、ロンドンで1年間の闘病生活を送る。
エドワード著によると、
ヴィヴィアンはノエル・カワードや、ディーツ夫妻のような親しい友だちの前では自分をおさえることができるようであったが、ジャック(ジョン・メリヴェール)と二人だけのときや劇場の楽屋にいるときにはしばしば自制心を失った。
ある夜、家を出る前、彼 女の躁症状が酷くなった。テッド・テンリーが居合わせて、ジャックを助けて彼女をとりおさえようとしたが、彼女はからだをドアにぶつけ、部屋の中をめちゃ めちゃにして、ほとんど一時間近く、トラのように暴れた。おそろしいヤマネコの性格がうかび出ていた。やっととりおさえられたとき、彼女はすすり泣きをし ながらジャックにしがみつき、さいごにはめちゃめちゃになった部屋の中をこわごわ見まわして、仔ネコのようにからだをまるくした。10月7日、彼女がほん とうに正気を失いつつあるのではないかとジャックが心配しているなかでヴィヴィアンは最後の大公妃を演じた。ジャックとトルーディは彼女を睡眠剤で眠らせてロンドンにつれて帰り、コナチー医師の手にゆだねた。彼女はいつもより時間をかけた処置をうけた後、ジャックとバンブルと一緒にティカレージ荘にもどった”
と、あった。

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1965

3月にスタンリー・クレイマーから「『愚か者の船』に出演する気はないだろうか」といってきた。
その時のことをヴィヴィアンはシンディ・ディーツに手紙を書いていた。
「……明日、スタンリー・クレイマーに、彼がこの夏に製作する映画のことで会いますー興味のある作品であるとよいと思っています」
1週間後、
「クレイマーに会って、大いに興味がわき、おもしろい映画ができそうな気がしています。第一稿を1週間後にうけとります。それまでに原作を読まなければなりません。700ページです!」
4月27日、
「…… あなた方が途中で立ちよるようにといってくださるのはとても嬉しいのですが、おそらくひまがないでしょう。出発前に片づけなければならないことがたくさん あります。こんどの映画は興味のある作品になると思いますし、私の役は少々書きたりないところがあるのですが、やりがいのある挑戦的な役なので、ひきうけ ることにしたのです。クレイマーは、一緒に仕事をしたくなるきわめて小数の監督の一人であり、プロデューサーの一人です。……ジャックは『ミェリー、ミェ リー』をウィンザーで撮影していて、順調です。……ホセ(キンテーロ)が突然ロンドンにやってきて、すぐ立ち去りました。ジョージ(キューカー)が 来て、私たちを訪ねてくれました。ラリーは『オセロ』ですばらしい成功をおさめています。私たちは明晩見るつもりです。今日、ラッパスイセンとスイセンと ワスレナグサとチューリップを摘みながら、あなたが一緒だったら、どんなによかったろうと思いました。太陽が輝いていて、すべてがあなたに見てもらうのを 待っているように美しいのです。おしあわせで。ヴィヴィアン」(エドワード著より 抜粋)

再起不能と思われたヴィヴィアンは復活し、『愚か者の船』Ship of Fools[写真1](スタンリー・クレーマー監督)(メアリー役)に出演のため渡米。
多くのスターたちがヴィヴィアンの演技を見ようと毎日スタジオへ押しかけた
草鹿宏著に、
“メアリー役は再起のヴィヴィアンにとって、いささか残酷なキャラクターのようにも思われるが、あえてそれを選んだ勇気と、強い意志に、周囲は胸を打たれた。彼女は演技派のシモーヌ・シニョレ(伯爵夫人)を圧倒し、多くの批評家から「メアリーの演技で3度目のアカデミー賞を獲得するのではないか?」と予想されたほどであった。
また、ヴィヴィアンが、
「孤独は恐ろしいものです。現実から逃避した生き方をすれば、それを忘れることもできるでしょうが、自分を偽れない人間もいます。私が演じた多くは、内に情熱を秘めながら超然と、孤独な人生を送る女たちでした。『愚か者の船』のメアリーも、そのひとりです」
と、語ったことが記されている。
エドワード著には、
“クレイマーは、彼女の症状に気がついていた。彼女と契約する前から、病気について知っていたのだった。彼は口をきわめてヴィヴィアンを賞讃していて、いまでもこう語っている。「彼女の勇気はすばらしいもので、病気のために問題が起ったということはほとんどありませんでした。ヴィヴィアンの勇気ある態度は、どんなに強調しても強調しすぎるということはありません。ふつうの人間だったらとうてい仕事をしようなどと考えないような状態のときでも、彼女は私が一緒に仕事をした俳優たちの中で最も勤勉で、最もプロの精神に徹していた一人です」

 『イワーノフ』(ジョン・ギールグッド共演)の舞台にも立った。

娘スザンヌ(スーザンとの表記も)が時折3人の子供を連れて訪れるようになっていたという。
幼いまま置き去りしてきたスザンヌにヴィヴィアンは“私のことを おばあちゃんと呼んで”という手紙を送っていた。(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より)
その時のことを前夫リーの親戚ドーン・ウィルソン。
“ビビアンはいいおばあちゃんになろうと
すごく努力したのよ
ビビアンが孫たちのために
サラダを作ろうとしたの
でも 私たちは彼女に「赤ちゃんに生野菜は
あまりよくないのよ」と言ったわ”
(ヴィヴィアンの孫たちが)目の前にあったスプーンを
振り回したの
それを見た彼女が「スーザン 子供って
いつもこんなに汚すものなの?」と聞いてたわ
とにかくなんとか おばあちゃんになろうと
一生懸命だったのよ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
ティーカレージ荘に一度だけオリビエがヴィヴィアンを訪ねてきた時の事をオリビエの姪ルイーズ・オリビエ。
“ビビアンは「長い間 会っていないから
再会が楽しみ」と言っていたわ
その日が近づくと 彼女は神経質になって
家をきれいにしていたわ
彼女はいつも以上に
服装に気を使っていたの
明るい色のロングスリーブと
コットンシャツを着ていたわ
ローストビーフやプディングを
作っていたの
でも オリビエが来ると
ビビアンは緊張して二階にいたままだった
オリビエが上に向かって
「降りて来ないのか」
って叫んだの

「来ないならそっちに行って捕まえるぞ」って
ただ オリビエはランチをとると
すぐ帰ってしまって それで終わりよ
その時 オリビエがビビアンのことを
美しいとほめていたのを覚えているわ
ただ 彼女が悲しんでいたのは
確かだと思うの
旧友に別れを告げるのと同じよ
でも ビビアンはそれ以上のことは
私に話さなかったわ
一方で ビビアンは
ジャック(ジョン・メリヴェール)のことも慕っていたのだと思うわ
ちょうどその時
彼が戻ってきたわ
ビビアンは郷愁に浸って
さびしそうにはしてたけどー
今の自分を受け入れているように見えたわ”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)

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1966

『愚か者の船』の演技によって、フィルム・デーリー紙の助演女優賞フランス映画アカデミーからその年度の最高女優賞と、ニューヨーク映画批評家賞受賞

モーリス・ドリュオン原作『伯爵夫人』の舞台で77才の老け役を演じたが、意欲に反して不評。
メリヴェールとの結婚が噂になる。

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1967

生前ヴィヴィアンがメリヴェールに宛てた手紙。(4月8日)
“私のエンジェルへ
私たちのこれまで一緒に過ごしてきた日々と
私たちの明日に乾杯
何が起ころうと
愛する人よ
私たちは一緒に 生きて行きましょう”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より)

夏に、エドワード・アルビーの舞台劇『微妙なバランス』が予定され、6月末まで稽古を続ける。
しかし肺結核が急激に悪化し、医師は安静の必要を告げた。
ヴィヴィアンは睡眠薬なしで眠れず、病院へも入らぬまま衰弱を早めた。

7月7日の午前中、ヴィヴィアンはハウスキーパーに1 泊の休暇を与え、終日『微妙なバランス』の台詞を復習する。
夜更けて医師に止められていた睡眠薬を飲んだ。

7月8日朝、ジョン・メリヴェール(ジャック・メリベールの表記も)がアパートを訪れたが返事がなく、合鍵で部屋へ入ると、ヴィヴィアンはベッドに突っ伏して死んでいた。
少量の喀血が気管内で凝固したための窒息死であった。

※1990年のジョン・メリヴェール(ジャック・メリベールの表記も)のインタビュー。
ヴィヴィアンとメリヴェールは舞台の仕事がある時にはロンドンのアパートに滞在していたという。
“私には仕事が入っていた
土曜日に電話で彼女と話したんだ
「とても眠い」と言っていたよ
でも「私は大丈夫よ」と言っていた
私は家に着いてー
ビビアンの寝室をのぞいてみた
彼女は眠っていたよ
ネコと一緒にね
私はそれを見てキッチンに行った
自分のスープを作るためにね
食事を済ませてから寝室へと戻ったんだ
彼女が床に倒れていた
私は急いで抱え起こしたよ
そして 彼女は死んだと悟った
今でも自分を責め続けているよ
もっと何かできたんじゃないかって
その時 オリビエは入院中だった
でも 連絡すると
「すぐに駆けつける」と言ってくれた
彼は病院からやってきて
ずっとビビアンの側にいたんだ
一晩中 彼女のそばにいた”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」伝記作家ヒューゴ・ビッカーズ保存テープより 抜粋)

その夜、ウエストエンドの劇場街は照明を消して、ヴィヴィアンの死を哀悼した

12日、セント・メアリー・ローマ・カトリック教会で 鎮魂のミサがあり、火葬(ヴィヴィアンの遺言)にされた灰はティッケリッジ・ミルの湖水に撒かれた。

8月15日、野に立つ聖マーチン教会で葬儀が行われ、そぼ降る雨の中に千人の会葬者が長い列をつくった。そこには悲哀の色濃いオリヴィエの姿も見えた。
彼女を愛した三人の男、ホルマン、オリヴィエ、メリヴェールが、それぞれの思い出を胸に抱いて参列していた
弔辞はジョン・クレメンツ、エムリン・ウィリアムズ、レイチェル・ケンプスン、レディ・レッドグ レイヴによって捧げられた。
最後のたむけを行ったのはギールグッドだった。「彼女は永遠に忘れられないでしょう。彼女の魔力をそなえたような素質は彼女だけのものだからです。たぐいまれな美女、生れついてのスター、完璧な域に達した映画女優、劇壇における芸域の広い力強い個性
『危機をのがれて』のサビーナの喜劇的タッチから『欲望という名の電車』のブランチ・デュポワの写実的な苦悩表現、レディ・マクベスとクレオパトラの大役を技倆まで、広い範囲にわたる演技のはばを持っていました。
『タイタス・アンドロニクス』のように短い出演場面しかないときも、最も美しい絵画的効果を工夫していました。長い灰色のロープをまとって、すべるように舞台を横切っていったあの不気味な美しさを誰が忘れることができるでしょう……」
しかし、ハリウッドでは、ヴィヴィアンの思い出はいっそう鮮やかで、輝かしいものだった
ハリウッドにいる友人たちにとっては、彼女はいつまでもスカーレット・オハラだったろう(アン・エドワーズ著『ヴィヴィア ン・リー』より 参考)

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1968

“3月17日、オールダス・ハックスレー、サマ セット・モーム、コール・ポーターに栄誉を与えたことのある南カリフォルニア大学図書館友の会が、女優としての最初の栄誉をヴィヴィアン・リーに与えた
アカデミー賞授賞式にも、これほど多くのスターにいろどられた観衆が集ったことはなかった
大学の大ホールには3枚の大きなヴィヴィアンの写真が飾られた。
2枚が燃えるようなスカーレット・オハラで、1枚は最後の映画『愚か者の船』の彼女だった。
どこを見ても、ヴィヴィアンがあのみどりの瞳を輝かせ、彼女だけのものであるあの魅惑的なチェシャー・キャット・スマイルを見せていた
この夜、讃美歌もお祈りもなかった。“よき劇場”の感覚がみちみちた夜で、これはヴィヴィアンも喜んだであろう。
話をしたのはグラディス・クーパー、グリア・ガースンジョージ・キューカー、チェスター・アースキ ン、ジョゼフ・コットン、ウィルフリド・ハイド=ホワイト、ジュディス・アンダースン、ウォルター・マソー、ロッド・スタイガー、クレア・ブルーム、スタ ンリー・クレイマーなどで語られたのはたいてい逸話だった。
それから、明りが暗くなり、『無敵艦隊』の19才の美しいヴィヴィアンが若くハンサムなオリヴィエとスクリーンにうつり、『セント・マーティンの小径』のチャールズ・ロートンと歌って、踊り、『愚か者の船』で リー・マーヴィンと争うヴィヴィアンがうつった。
ちょっとのあいだ、場内が明るくなった。「そして、ここで」と、チェスター・アースキンがアナウンスし た。ヴィヴィアン『風と共に去りぬ』のために撮った最初のスクリーン・テストを」場内が暗くなった。
雑音がひびき、“ミス・ヴィヴィアン・リー テスト スカーレット・オハラ” とチョークで記した板がうつった。ライトは暗く、色彩はぼやけていた。彼女はそこで、マミーにコルセットを締められて呼吸をとめながら、彼女の未来のすべてを見せていた。
なぜ彼女が選ばれてスカーレット・オハラを演じたかを疑うものはいなかった。ヴィヴィアンはただ一人しかいなかっ た。彼女は生命をつかみとり、それを彼女自身のうちにたたえて、それが彼女を負けることを知らぬように見せたのだった
明りがついた。
観衆は立ち上って、いつまでも喝采をつづけていたが、やがて、大きなポスターから彼らを眩惑しているヴィヴィアンを見上げながら、ホールを出ていった。”(アン・エドワーズ著『ヴィヴィア ン・リー』より 抜粋)

最後に草鹿宏著を記す。
“これほどまでに美しく開花し、痛ましく滅びた女優が、かってこの世に存在したろうか?苦難と、華麗が織り成したヴィヴィアンの一生は、ひとりの高貴な女が、捨て身で生きた歴史でもあった。ヴィヴィア ン・リーよ、安らかに眠れ―”

 [追記]
ヴィヴィアンにとっての愛の意味を問われた友人トレーダー・フォルクナー。
人生そのものさ
リーとオリビエ そしてジャック(ジョン・メリヴェール)
一本の木が成長していくのと同じさ
2歳 20歳 40歳…
同じ木だが 成長するにつれ変わっていく
まず一人目の夫 リー・ホフマンを愛した
若い娘の最初の結婚で
子供がいて輝かしい幸せだった
そして劇場に行って
彼女はあのすばらしい男に出会った
それからジャック・メリベール 最後の愛だ
傷つきやすい彼女に優しい愛だった
愛情深い伴侶だね
いつもそばにいる友のようで
夜 手を伸ばせば触れられる
ビビアンは3つの愛を
経験することができたんだ(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
オリビエの息子タークイン・オリビエ。
“私たちはよく 夜に長い話をしたよ
結婚の意味について
最初の夫であるリーは
“生き方”を教えてくれた
オリビエは “人を愛すること”を教えてくれた
ジャック(ジョン・メリヴェール)は“孤独と向き合うこと”を
教えてくれたと彼女は言ったよ
そこにすべてがあると思った(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
友人トレーダー。
“私の妻がビビアンに「あなたは幸せなの?」
尋ねたことがあるんだ
彼女は「穏やかで安らかだわ
それを幸せとは言わないけれどー
私はみじめではないわ
ジャック(ジョン・メリヴェール)といるとすごくほっとするの
私がひどく恐れて
苦しいと思ったのはー
孤独かもしれないということに
向き合うことよ」と”
「ジャックがいるから不安はないわ
心地よく過ごせてる 私はとっても幸運
今は人生の秋なの ジャックといると
ほっとする とても感謝してる」と言っていた”(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)
オリビエの息子タークイン。
父は死ぬまでビビアンを愛していたよ
あれは父が
80歳を過ぎた頃のことだった
新しい妻と暮らしていたが
週末 彼女はちょうどいなかった
オリビエはビビアンの「ローマの哀愁」を
テレビで見ていた
彼は何時間も涙を流していた
父は言った
「どうしてうまくいかなかったんだろう
彼女は美しい女優だった
声も容姿も美しかったのに」とね
痛ましかったよ とても動揺していた
ビビアンは父が人生で
愛した人だったことは間違いないんだ
ヴィヴィアンの人生は幸せだったか、悲劇的だったかの問いに、
力いっぱい生きたと思う
父もそうだ
幸せかどうかというよりもー
幸せという言葉は牛になったみたいで
いつも正しくない気がする
何もせずにのんびりと
草を食んでいるような
彼女は 激しく活発で極端で
痛みを伴っていて 悲しみも失敗もあって
成功もして とにかく生きた
人生を存分に生きた
多くの人ができることじゃない
とタークイン。
タークインはヴィヴィアンの遺言で灰が撒かれたティーカレージ荘の水辺を見ながら話した。
穏やかな日には
彼女はよくここに座って池を眺めていたよ
昼でも夜でも
ここはあまりにもきれいだから
彼女の望み通りにここにまいた
ここはビビアンが愛した
場所だったからね
彼女が亡くなって悲しんだのは
父だけでなくー
友人たちや世界中の人が
悲しんだはずだよ
彼女ほど 皆に愛された人はいなかったからね(NHKhi 2010.11.29放送「永遠のヒロイン その愛と素顔 〜ビビアン・リーを探して〜」より 抜粋)


2013

11月5日

 祝 ヴィヴィアン・リー生誕100周年!

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『風と共に去りぬ』(1939)『哀愁』(1940)『美女ありき』(1941)『欲望という名の電車』(1950)の独自の解釈、ヴィヴィアン・リーについてを載せています。

『風と共に去りぬ』公開前後のシネマトーク『風と共に去りぬ』コスチュームのシネマトーク『風と共に去りぬ』出版前後のシネマトーク『風と共に去りぬ』ミュージックのシネマトーク『アンナ・カレニナ』のシネマトーク『愚か者の船』のシネマトークも載せています。

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参考文献
ヴィヴィアン・リー
『風と共に去りぬ』
『哀愁』
『美女ありき』
『欲望という名の電車』
シネマトーク『風と共に去りぬ』公開前後
シネマトーク『風と共に去りぬ』コスチューム
シネマトーク『風と共に去りぬ』出版前後
シネマトーク『風と共に去りぬ』ミュージック
シネマトーク『アンナ・カレニナ』
シネマトーク『愚か者の船』
ヴィヴィアン・リー写真館
サイトマップ
ヴィヴィアンありき
〜ヴィヴィアン・リーに魅せられて〜
映画ありき
〜クラシック映画に魅せられて〜


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