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春日源五郎の人生を1分で読む!
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春日源五郎奉公故立身之事
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信玄・浮気の釈明をする
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武田信玄の女たち
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『甲陽軍鑑』 の記述の信憑性?
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春日・香坂・高坂…
 ・この人はダレ?
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牡丹と芍薬
 ・武田二十四将図の中の高坂弾正
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春日源五郎関連・おすすめの本
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参考書籍
  
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武田信玄の寵臣にして一代で
武田家四名臣の一人
にまで上った
春日源五郎(高坂昌信)を紹介する巻物です。
 「春日源五郎ってダレ??」 という方も
 「あ〜、甲斐武田の、あの…」 という方も
しばしの間お付き合いください。

 





    ※ 春日源五郎の人生を1分で読む!※

 春日源五郎 虎綱 (高坂昌信)  1527−1578

 始め春日源助、源五郎。元服して春日虎綱。
 武田家四名臣の一人。春日弾正忠虎綱。高坂弾正忠昌信。
 本名の春日姓で出仕し、改名して一時(香坂)高坂姓、後日また春日の姓も名乗っているため春日と高坂名が混在しています。 
 甲斐、石和の農家春日家に生まれ16歳で武田信玄の奥近習となり、使い番、侍大将を経て川中島の合戦時には信濃海津城の城代。
 地下人(農民)出身でありながら譜代の家臣を抜いて一代で9千貫を領する重臣にまで取り立てられた武田家家臣中一の出世頭です。

 春日源五郎は初め信玄の近習として仕え、格別に寵愛されました。 信玄が近習の弥七郎に手を付けたとして源五郎が腹を立てたのに対し、
 「弥七郎には言い寄ったが腹痛持ちなので断られた。今までも弥七郎を伽に寝させたことは無い。これからも無い。そのように疑わないでくれ」 となだめたり言い訳している信玄の誓詞が現存しています。

 永禄4年の川中島合戦では、海津城の城代として上杉謙信の出陣を甲府の信玄へ知らせ、城の守りを固めて攻撃に備え、戦闘時には本隊から離れ妻女山を迂回する別動隊として働きました。 一時敗戦の色が見えた信玄を危機一髪で助け、合戦後は戦場に倒れている屍を敵味方の区別無く手厚く葬り、上杉方の遺品も回収して越後へ届けたといいます。
 上洛途中で信玄が亡くなり、その後家督を継いだ武田勝頼を重臣として支えましたが、勝頼主従とはそりが合わず疎まれることもありました。 長篠、設楽原の対信長、家康戦には参戦しませんでしたが、大敗を喫し逃げ戻った勝頼を迎え出て、用意した武具や服に着替えさせて敗戦の惨めさを領民へ見せないように配慮しています。 川中島の戦後処理といい温厚で気配りの良い人柄が偲ばれるエピソードです。


春日源五郎
(C) 座乱読後乱駄夢人名事典 F様

 信玄の死は信玄の遺言によって3年間隠されていました。(実際にはすぐに広く知られましたが…) 信玄の死から3年後に甲斐の恵林寺でとりおこなわれた葬儀に、高坂昌信は「とりわけ往年の因み浅からず」 として「しきりに悃望し(ひたすら願って)」 髪を切り、墨染めの出家姿で信玄の遺骸を納めた棺の壷を開く役目をしています。

 『甲陽軍鑑』 に挙げられる戦国三弾正の一人「逃げ弾正」としても有名です。 
 「逃げ弾正」は臆病という意味ではなく、有能であった為に殿(しんがり)を務めることが多かったせいだとか。または女性に非常にもてて逃げ回ることが多かったためとか、その他にも説はあり確定できません。  
 高坂昌信はこの『甲陽軍鑑』 の作者といわれています。 有名な為に後世になって名前を借りられただけとも、いや高坂の日記が元だろうとも、諸説あって真偽は未だ不明ですが、彼の日記や書き溜めた文書類などを元ネタにして脚色された可能性は大いにあり、軍鑑に春日虎綱が何らかの形で関わっていただろうと考えられます。
 この『甲陽軍鑑』 は年代や地名などの記述に間違いが多いため史料としての信憑性を疑われますが当時の貴重な資料であることは間違いありません。

 信玄以来の宿老である春日虎綱や内藤昌豊(昌秀)を疎ましく思い遠ざけていた武田勝頼は、やがて信長に敗れて自害し武田家は滅亡しますが、春日虎綱はそれ以前の天正6年に武田家の行く末を案じつつ52歳で病死しています。 

 当サイト内 「世界史を彩る美男美女・日本史編」 高坂昌信 も合わせてご覧ください。







 ※ 
春日源五郎奉公故立身之事 ※


 知将としても知られる
春日源五郎ですが、『甲陽軍鑑』 の中に奉公してからの立身を一人称で語る段があります。 そこには
 「昔は同僚にバカにされ悪口を言われながらも、とにかくお屋形様のことだけをひたすら大事に思いご奉公をしてきたら
武田家第一の強敵上杉の押さえに抜擢され、高坂弾正と呼ばれるようになり、こ〜んなに出世できました♪」
 というような春日源五郎の言葉があります。(いえ、こんな表現はもちろん使ってないですけどね…。以下高坂昌信の名で続けます)

 
「それがしは高坂弾正と申し、信玄公ご家来のうち一番の臆病者なり。子供の戯れ言に保科弾正槍弾正、高坂弾正逃げ弾正と揶揄され」
 「せいぜい出世しても二十人衆くらいだろうと考えていたら30日で近習に取り立てられ、あっという間に信玄公のお側に奉公することになった」
 
と、謙遜しているようにも取れる文中から、自信たっぷりな余裕が垣間見えてきます。 
 
出自が武士ではなく農民であることやスタートが信玄の寵童であったこと、異例のスピード出世だったことなどから、嫉妬やからかいに悩まされたことは容易に想像できます。 が、しかしそこは一筋縄ではいかぬ彼のことですから、逆境をもパワーにして頑張ったのでしょう。


 高坂昌信は深慮遠謀の人といわれ、無理な戦いは避ける慎重派でした。 信玄晩年の「三方が原の戦い」でも、勝ちに乗じて徳川潰しに深入りすることを避けるよう進言したり、信玄が亡くなった時も家臣の動揺を抑える役目を果たしたといいます。
 ある時、同じ武田の土屋昌次が家臣の扱いに苦労し、高坂昌信に相談したといいます。
 「家臣たちに、寝転んでおしゃべりをしている暇があったら武道に励め、と注意すると気が荒くなり喧嘩ばかりするようになる。 かといって粗暴な振る舞いを慎み、喧嘩などするなと諌めると武道をおろそかにする。 困ったものだ。どうしたらよいのか」 
 この問いに高坂昌信は
 「武士の行いは各々が帯びている刀のごとくせよ、と命じられればよし」 と答えたそうです。次いで
 「刀はよく研ぎそのうえで鞘に入れて腰に帯びる。鞘に入れなければ腰に帯びることはできない。よく研いだとしても刃が無ければ役には立たない。良い刃があり、良く研いであり、良き鞘に入り、いざという時にすぐに抜けてこその刀ではないか。喧嘩を好む武士は抜き身の刀のようなもの、また武をおろそかにする者は刃のない刀のようなもの。いずれも役には立たぬ」 と答えたそうです。 
 土屋昌次がこの言葉を家臣に伝えたところ、家臣たちは武道に励みつつも喧嘩などの争いごとは消えたといいます。 なんだか信玄公の分身のような言葉ではありますが、高坂が自分自身を「良い刃が付いて良く研いであり、良き鞘に入っている、いつでも使える良き刀である」 と見ている自負が伝わってくる話です。







 
※ 信玄・浮気の釈明状 ※

      (東京大学史料編纂所蔵、武田信玄の書状より)
 

 お屋形さまからの愛の手紙! 訳文
 一、弥七郎に度々言い寄ったが腹痛という理由で思い通りになりませんでした。これについては偽りありません。

 一、弥七郎を伽に寝させたことはありません。以前にもありませんでした。ましてや昼夜続けて弥七郎とそのようなことはいたしておりません。特に今夜はそのようなことはできません。

 一、とりわけ、あなたと深い仲になりたいと色々手を尽くすと、かえってお疑いになるので、どうしてよいか迷います。

 この条々に偽りがありましたら当国の一二三大明神、富士、白山、特に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙ります。このようなわけで以上の通りです。本来ならば牛王宝印を押した起請紙に書くべきところですが、庚申待ちの為に人が多いので白紙に書いておき、明日(牛王宝印を押した起請紙)に重ねて書いて差し上げましょう。
 (天文十五年) 
    七月五日             晴信 (花押)
          (春日) 源助殿

 

 つまり 「弥七郎に夜伽させたくて言い寄ったんだけどね…。 でもやってないんだってば! 信じて〜」 ってことですね……。 
 この文面には「偽りであったら八万大菩薩、諏訪大明神の罰を受ける」 と書きながら 「誓詞は牛王宝印を捺印した紙に書くべきだが庚申待ちで人目が多いので白紙に書いた」 と神仏の祟りを受けないように抜け道を作って言い訳をしてます。
  天文15年(1546)7月というと晴信24歳。春日源五郎(源助)は仕官して3年目の19歳。 近習の源助に対し敬語を使ってなだめている様子が信玄の人間性を示しているようで、現存する武将の手紙の中で特筆すべき面白さではないでしょうか。

 ※
庚申待ち 陰陽道の流れを汲む信仰で、庚申の日の夜は飲み食いしながら一晩中起きていた。



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 晴信のこの文を始めてみた時、誰でも「アレッ? 源助、強い!」 と思うのではないでしょうか。大勢いる女性に比べて男は源助一人か、いても数は少ないな、と…。
 この状況、明らかに晴信に対して源助がむくれています。  それに対し、恋文は目下の者であっても丁寧に語りかけるという習慣が当時あったとしても晴信はずいぶん下手に出ています。 といってもご主君ですから源助も限度は心得ていてそれほど偉そうな態度に出たとは思えませんが、けっこうしっかり怒って晴信を振っているようです。

 この時点で晴信には正室始め両手に余る女性がいた筈です。 たとえば三条夫人、諏訪夫人たちの確執や嫉妬なども沢山あったでしょう。 しかし晴信がその日どこのお部屋へ渡るのか(女たちにそのチェック機能があったのかどうかは不明ですが…)、いちいち手紙で言い訳したりなだめていたりしたとはあまり考えられません。
 その点、我々がこの手紙で知る限りでは相手も「腹下しの弥七郎(ゴメンネ)」 という一人に限定されているわけですから、その辺が要チェックの注目点ですね。 源助が何を考えて、この恋文を(後世に残ってしまうほど)大事に保管していたのか、その心情も想像するとなかなか面白いではありませんか?







 ※ 武田信玄の女たちって!? ※

 武田信玄ってお方は他の武将に比べても側室が多いようです。
 晴信の親父様信虎も文献で分かっているだけで男女15人と子沢山ですが、晴信もその点は親父様に負けないくらい側室が多いので、したがって子供の数もけっこう多いのです。信虎も晴信も子供たちや兄弟姉妹を遠慮会釈無く、将棋の駒のように操り戦略の道具として扱っています。 そして、そこから諏訪頼重の妻となり、悲しみの中で16歳の生涯を閉じた晴信の妹や自決した長男義信など、数多くの悲劇も生まれています。

 さて、武田信玄を囲む女たちでは、正室三条夫人の他、側室で名前が分かっているのは油川夫人、禰津夫人、諏訪夫人の3人ですが、系図に出てくる中に母親の名前不詳の娘たちがいるので、この4人を生母としない子供たちがいたと考えられます。 寵愛した女性の数ははっきりしないながらおよそ2〜30人以上はいただろうといわれているようです。

 晴信は13歳の時に上杉朝興の娘を初めて妻を迎えました。 この女性は晴信の同い年とも2歳上ともいいますが、可哀想なことに結婚した翌年に妊娠したまま亡くなってしまいます。
 次に16歳で妻に迎えたのが京の公家三条公頼の娘で三条夫人と称されることになる才色兼備の女性でした。
 小説では嫉妬深いだのヒステリックだのと様々に色付けされている三条夫人ですが、そういう事実はありませんし、また晴信も彼女を粗略に扱ったことはありません。 これは女性として別格というよりも、正室の三条夫人は天下を狙う晴信にとって好きとか嫌いとかいった次元の存在ではなかったのです。
 壮年から晩年にかけての信玄の時代は、その強大さに周辺国から富が集まってくる、いわば甲斐の国バブル景気といってもいい時代になっていました。 しかし、強力な甲州軍団を誇る晴信にしても、武力ばかりではなく京風の教養を武田家へ取り入れ、都で侮られない文化人にならなければという思いがあったのです。彼女の父の三条公頼は足利将軍家と親交が深く、姉は細川晴元の、妹は本願寺の顕如の正室となっていますので、その点も天下覇権のための大事な人脈でした。 母としての三条夫人は信玄の野望のために長男義信を失い、悲嘆の中50歳で病死しています。

 政略結婚した正妻と違って、晴信の好みで選んで召し上げたと思われる側室の油川夫人、禰津夫人、諏訪夫人も共に美形であったといいます。 それぞれ「甲州一の美女」 とか「信濃きっての美女」 とかいうキャッチコピー(?)が残っているところを見ると、晴信は美形好みだったのでしょう。


 三条夫人  
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※疑問視される 『甲陽軍鑑』 の記述の信憑性

 『甲陽軍鑑』 はその記述内容の不確かさ、特に日時、人名、地名の間違いなどから一級の史料たりえないというのが定説になっているようです。  
 『甲陽軍鑑』は元々春日虎綱の書き溜めた日記や晩年に思い出しながら書いた文書類などを、虎綱の死後に受け継いだ春日家の一族がまとめた物ではないだろうかと考えますが、虎綱の文書を書物にするにあたり、春日家の立場から見てまずい部分や気に入らない人間は脚色された可能性は大いにあるでしょう。 そして出来上がった初代の『甲陽軍鑑』 が書き継がれ、数多く複写されていくに従い、伝言ゲームのように細部が変わっていったことは考えられます。
 
最近、『甲陽軍鑑』には当時の甲州でしか使われていない独特の表現などもあり、史実としての重要性が見直しされてきているといいますが、それでは信憑性がある史料というのは何かというと、当時家臣に下された感状とか起請文、寺社に残る寄進帳、覚書など、あるいは日記の類です。 しかしその中にも「真正文書と偽文書」は混在している訳ですし、また日記などは誰かに見られた場合を想定したウソや、書き手の願望や創作や妄想などが入っている可能性があります。

 
日時や行動の細部などは、常に詳細なメモを取っていない限りとても憶えきれるものではありません。何年も経った後に思い出しながら書いたものならば日時がある程度間違っていたり思い違いがある可能性は高くなります。 大筋が合っているのならば感状とか起請文と同じような日付の一致が見られなくても「史実としてあったこと」 としていいのではないでしょうか。 まして、合戦で敵方の数がせいぜい数百のところを数千騎といったりする、数字に関して非常にアバウトな時代のことですから、日時、数字の違いという理由で単なる創作物語扱いするのはちょっと見当違いではないだろうかと考えます。

 いずれにしても歴史学者でも歴史家でもない私のいうことなので読み流していただいていいのですが、ドラマティックな物語として 『甲陽軍鑑』 のネタは私は大いに好きですし、また武田信玄のドラマや小説にしてもこの本の元ネタを抜きにしてはなにも話が出来上がらないまでに浸透しているのも確かです。 信玄と嫡子義信の争いについても経過を語っているのは『甲陽軍鑑』 のみ。 この書を否定する見解を持っている専門家ですら『甲陽軍鑑』 から事例を引用しているのです。 つまり細部は否定しながらも大筋では肯定しないことには、武田信玄の話が根底から全く違ってきてしまうことになります。

  


追記: タイトル・真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した「甲陽軍鑑」
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200704040177.html 

 研究者たちから際物扱いされてきた「甲陽軍鑑」についてasahi,comにとてもタイムリーな記事がありましたのでご紹介しておきます。(2007年4月7日)

 明治時代に当時歴史学の権威であった田中義成・東京帝大教授が史書の価値はないと断定したばかりに、その後「偽書」「虚構」として扱われるようになった軍鑑の見直しがされているというものです。 
 それまで学者は「甲陽軍鑑」を研究しているというだけで学会から抹殺されかねない状態で、一般の歴史好きでさえ書いてある内容を例に出すと「そんなものは参考にならん」 と鼻であしらわれる様な状態だったそうです。  まだ「確実性の高い別の史料の裏づけがなければ、参考資料にとどめるべき」 という段階ではあるものの、ろくに研究もされないまま、ただ古い権威の決めた枠から抜け出せずに虚構扱いされてきた「甲陽軍鑑」に検証の陽が当たるというわけです。






 
 ※ 
春日・香坂・高坂… ※

 春日虎綱の名乗りについては、春日源助、源五郎、元服して春日虎綱となり、最後まで殆どこの名前で通しているようです。
 川中島の攻略時に海津城の城代となった頃も春日弾正虎綱と名乗っています。 知られている一番有名な名前は『
甲陽軍鑑』の影響で高坂弾正忠昌信かもしれませんが、これは断絶した信濃の香坂家の姓を信玄から貰ったものといわれています。

 もともと高坂昌信という名前は『甲陽軍鑑』 にだけ見られる名前で、実際に春日弾正虎綱が香坂弾正または高坂弾正と名乗ったことはなかったのではないかといわれていました。 しかしその後いくつかの書状の中に「高坂」「香坂」の名が見られたことから、一時期ではあっても「高坂」を名乗っていたことは間違いないと見られているようです。
 昌信という名乗りは『甲陽軍鑑』 以外には見当たりませんが、「信玄」と同じように、出家して付けた号ではないかという説を見ました。 その説では、読みは「まさのぶ」ではなく「しょうしん」ではないかと提唱しています。 春日虎綱が出家したのは信玄の没後3年経ってからで、それから2年しか虎綱は生きていませんから、なるほどそういうことも考えられるかもしれないとは(チラッと)思いました。

 春日虎綱の亡くなる年のこと。 信玄は亡くなってすでに5年経ち、謙信もこの年の3月に亡くなり、武田勝頼の没落が見え始めた天正6年5月に、胸の病の為死期が近づいてきた虎綱が最後に出した書状の署名では再び「香坂」姓を使っていると最近読んだ近衛龍春の「武田二十四将」に書いてありました。
 これが本当なら、懐かしくもあり苦しくもあっただろう若き日の、華々しい川中島の対上杉戦の時代にお屋形様から頂いた名前を思い出し使ったのかもしれません。








 
※ この人はダレ? ※

 長谷川信春筆 高野山成慶院蔵 

 この人はダレって…? 
 武田信玄でしょう。 と殆どの方は答えるでしょう。
 私も信玄といえばこの顔がまず思い浮かびます。 ところが近年、この肖像画は信玄ではないかもしれないという説の方に傾いてきたといいます。 
 伝頼朝像に続いてこれもかい! といったところです。じゃ、誰なんだ?となると、どうやら能登畠山氏の誰か、らしいとか。
 肖像画から受ける印象もその人物を考える時の大きな要因になっていますから、信玄といったらこの丸顔のでっぷりおじさんで、この人が「人は石垣、人は堀」 「喧嘩両成敗じゃ!」 なんて言っているイメージなわけです。 一度染みこんだ固定観念はなかなか払拭できないものですね。
 でも私はこの丸いおじさんがけっこう好きなのです。座り方も膝がくっついていてなんだか可愛らしいではないですか。 武田信玄の肖像画で一番信憑性が高いのは下の高野山持明院の武田晴信像だそうです。 こちらは凛々しいです。

 作者不明 高野山持明院蔵

 ついでに春日虎綱の肖像画も。
 (ついでって…、ここは春日虎綱のページでは?)
 厳密に言えば信憑性がある春日虎綱の肖像画は存在しません。 高坂弾正が描かれた武田二十四将図という絵は何枚もありますが、時代が下がってから描かれたイメージ画なので、本人に顔が似ているということはありえないでしょう。でもこの絵はなかなかかっこいい。

 松本楓湖筆 信玄公宝物館 






※ 牡丹と芍薬 ※

 上記「春日源五郎奉公故立身之事」の章にも書きましたが、『甲陽軍鑑』 品第五の中で源五郎は出仕したばかりの若い頃を振り返り、周りの人からバカにされたり悪口を言われながらも、とにかくお屋形様のことだけをひたすら大事に思いご奉公をしたと語っています。
 そして、ある大鼓(おおつづみ)の名人猿楽師の修行話にからめて、奉公人(つまり自分)を牡丹や芍薬の花にたとえ、主君信玄を花を育てる名手と讃えているのです。

 《 たとえば庭に牡丹や芍薬を植えるとしよう。 寒い冬に放っておくと小さくて色つやの悪い花しか咲かないものだ。 かといって肥料が多すぎれば倒れやすい。 冬には大事に保護をし、春に心して育てていると、花の季節になれば大輪の見事な花が咲き誇る。
 人は主君の愛情と注目で拙い者でも才能を発揮できるのだ。 私のように何の取りえもない者がかような出世をしえたのも、ひとえに主君のご威光と寵愛のたまものである 》

 それにしても、たとえるのが牡丹と芍薬……!
 美女のたとえに「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」 という言葉があります。 これは江戸時代にできた歌だそうですから戦国時代に生きた源五郎は知らなかったとしても、牡丹は中国では古くから美人をたとえる花で、それを知らない源五郎ではなかったでしょう。 …と思いますが…どうなんだろう? 自分を牡丹になぞらえる男というのも……面白すぎる。

     

 武田信玄と春日源五郎が碁の対局をした碁譜(記録)、といわれるものが残っています。 この対局は永禄9年(1566)ということなので、信玄は44歳、源五郎は39歳のころになります。
 二人共に歳を経て中年になり、仲良く向かい合って碁を打っている光景を想像するとなにかほのぼのしたものを感じてしまいます。

(信玄vs源五郎の対局棋譜 166で終局)


 しかしこの翌年(1567)には廃嫡された信玄の長男太郎義信が幽閉されていた東光寺内で自刃し、さらにその6年後には信玄が上洛途中で没しています。 
 死期が迫った時、覚悟をした信玄は周りに家臣を集め遺言を残していますが、その話の中で、駿河出陣の前(およそ6年前)に膈(かく)という病に冒されたと話したということです。 
 信玄自身はわりと若い頃から病身だったそうですが、その昔追放した父親の信虎が長寿で相変わらずの横暴ぶりを発揮していたこともあって、自分がそれほど早く亡くなるとはあまり考えていなかった可能性もあります。



武田信玄
(C) 座乱読後乱駄夢人名事典 F様

 もし、わずか6年後に自分自身が亡くなると知っていたら義信を追い詰めて殺すようなことをしただろうか、次代の武田家のことを考えて義信を生かし、もっと違う布石をしたのではないだろうか、それとも義信が亡くなるときにはすでに己の死期も悟っていたのだろうか? などなど、考えると様々なケースが頭をよぎります。
 武田信玄は天正元年(1573)に、春日弾正忠虎綱は天正6年(1578) に、同じ52歳で亡くなりました。







※ 武田二十四将図の中の高坂弾正 ※


    

鎖帷子を着て座る 。 他の武将に比べて行儀が良い座り方!


            

こ これは…。そうです、 が変なおじさん…にしか見えないという噂も…




山本勘助
二十四将図の山本勘助








 ※春日源五郎に興味がある方におすすめの本


信濃戦雲録 第1部 野望 第2部 覇者 井沢元彦 祥伝社
高坂弾正  近衛龍春 PHP文庫
武田信玄  斉藤吉見  信濃路出版
武田信玄(上・中・下)  津本陽 講談社
武田信玄 全4巻   新田次郎 文春文庫 
風林火山        井上靖 新潮文庫




     


 
◎信濃戦雲録 第1部 野望 第2部 覇者井沢元彦 祥伝社


 フィクションの歴史長編小説で春日源五郎(後の高坂昌信)が準主役レベルでたくさん出てきます。
 祥伝社発行でタイトルが「信濃戦雲録」という、いかにも中高年向けのような感じの本なので眼にとまらない様な気もしますが、内容はとても面白いですし長編のわりに読みやすく、特に春日源五郎に興味をお持ちになっている方、歴史や戦国時代が好きな方ならきっと楽しめると思います。
 信玄に裏切られ滅ぼされる諏訪頼重の若い家臣望月誠之助が、信玄を生涯の敵として狙いながら成長していく過程で様々な武将に仕えていきますが、その誠之助の生涯のライバルになるのが同じ年頃の春日源五郎。 源五郎を軍師に鍛えるのが今年の大河ドラマの主役山本勘介、というような話です。

 第1部「野望」 では武田家の軍師山本勘介がメインの話で、信玄の若き近習源五郎が新参の軍師山本勘助に対して「なんてもったいぶったヤナ奴なんだ」 という感想しか持たないところから、やがて勘助を師と仰ぎ、自らも知将として成長していく過程が描かれています。 
 第2部「覇者」 では西へ向かった望月誠之助が新たに仕えた主君織田信長がメインの話に移って行きますが、信玄、謙信を恐れ画策する信長の配下に組み込まれた誠之助も活躍します。 そして侍大将から海津城代にまで出世し、軍師としても大役を負うようになった源五郎も様々な場面に出てきてはその成長ぶりを見せてくれます。
 やがて時が流れ、長い人生の果てに巡り会う誠之助と高坂の再開シーンも感動を誘われます。 どのような展開になるかは読んでのお楽しみということで、本屋さんで見かけたらぜひお手にとって見てください。 後書きに第3部も書く予定ありと書いてあるものの、その後何年も過ぎてしまいました。 井沢さんにはぜひ続きを書いていただくようお願いしたいと思います。

     


 ◎高坂弾正  近衛龍春 PHP文庫

 武田信玄を取り上げた歴史書、評伝、小説などは数え切れないくらいありますが、春日虎綱はその中で家臣団の一人として紹介される程度の取り上げられ方がほとんどで、メインに据えた本はあまりないようです。 その数少ない本が上記の2冊だったのですが、それでも名前がタイトルにまではなっていませんでした。 
 そんな中、2006年12月に小説「高坂弾正・謙信の前に立ちはだかった凛々しき智将」 が発行されました。 
 「謙信の前に立ちはだかった凛々しき智将」 というのは素敵な副題です。


     



 
◎武田信玄 斉藤吉見 信濃路出版

 以前中古でたまたま手に入れたかなり古い本(1988年発行)で、作者は経済関係の小説なども書いている男性作家です。 そんなことで男性作家の描くところのお堅い時代小説かと思いながら読み始めたら、これが意外にも主人公は信玄ではなく高坂弾正昌信(春日源助)。  しかもこの本の源助はかなりやりたい放題、愛されてる強みでお屋形様を振り回しています。 しかしいざという時の源助は武田家の為、お屋形様のため冷血人間にもなり、苦い感情を抑えクールに事を行う戦国の武将でもあります。 源助は山本勘助とはここでも仲良しさん。  そして後日『甲陽軍鑑』 として世に出ることになる日記を虚実織り交ぜて書いています。 
 例のお手紙の「腹下しの弥七郎」 が出てきてセリフを話す小説は、もしかしたらこの本だけではないでしょうか?!

 マイナーな絶版本で手に入れにくいと思いますので、以下、ネタばれ を書いてみます。 ネタばらしがおいやな方はご覧にならないようご注意ください。

 そもそも、初めての出会いで、膝をついて下を向いている源助のうなじを見ただけでその気になってしまった晴信。 早速、その時源助の主であった細作(スパイ) の頭から源助を譲ってもらい、近習として召抱え、 「衣服を脱ぎ捨てた源助の火影姿に酔いしれ」 たりします。 
 それまでの源助は、幼い頃人さらいにあって売り飛ばされ、一人京からボロボロになって故郷石和に戻り、家の土地争いに負けて武田家の細作八郎太の元で小者をしていたのです。

 晴信の近習として従ううち、ただの美少年ではない才能を見せるようになった源助に晴信の寵愛は深まります。 
 やがて諏訪での戦いも終わり、躑躅ヶ崎の館に戻ったら源助と酒でも飲みかわしながら、疲れた体を彼の肩に伏せて堪能するつもりだった晴信に対し、弥七郎との浮気を疑う源助は冷たく突き放します。 そこで困り果てた晴信が例のゴメンネ誓詞を書いて差し出すとようやく機嫌を直しかける源助ですが、それではいざ、と手を伸ばしてさわろうとすると邪魔が入ってしまったり(なんじゃそりゃ…!)、ちょっと拗ねてる源助には
 「こういう夜はご正室を訪問する方がよいのでは…」 
 なんてイジワルをいわれてしまいます。

 諏訪頼重の娘、諏訪御寮人を側室にしようとする晴信に、板垣、甘利ら重臣は
 「敵の女を側室にするなど好ましからず」 
 とこぞって反対しますが、源助一人は涼しい顔で
 「諏訪姫に武田の血を継ぐ子供が生まれるのはめでたいこと」 
 と諏訪御寮人・側室計画に賛成します。 
 というのもこの源助、近習や美少年の恋敵は許さないけれど、正室だろうが側室だろうが女に関しては全く目じゃない様子。 晴信がどんな女性を側に置こうが何の関心もないのです。 もっと子供を増やせとばかりに晴信を女のところへ通わせようとまでしています。
 「またしても予に女を押し付けるのか」
 「美少年を側に置くとお前が怒るから、近習はブサイクばかりだ」
とこぼす晴信には笑いを誘われます。

 雑兵がわれを忘れてじっと見とれるほどの若く美しい武将昌信(源助)も、やがて使い番、侍大将、そして海津城の城代と出世し信玄の元から離れていきます。 いつの間にか妻を娶り、息子も産まれています。 でもお屋形さまの愛は最後まで変わりません。 
 昌信の息子昌澄と山本勘助が同席しているところで
 「その方の不機嫌な顔を見ていると弥七郎の一件を思い出すじゃないか。あの誓詞はまだ持ってるかい?」 みたいなことをいって昌信をうろたえさせてくれます。
 最晩年の死期が迫った頃に
 「あの誓詞はまだ持ってるか?」
 「宝物でございます」
 ……この期に及んで、という時期にそんな会話もしています。

 BL小説ではないのです。 たしかに武田信玄と高坂昌信の生涯を描いた時代小説に違いないのですが、二人の関係にかなり踏み込んだ話になっております。
 やはり晩年の高坂昌信は孤独で悲しいですが、仲良し・山本勘助が川中島で討ち死にするという設定ではなく、信長の密命を受け信玄の命を狙う仕事人のような、ちょっとひねった人物像になっているのも面白い話でした。  (史実的にはけっこう無理な箇所もありますが…)どこかで見かけたら即ゲットなさることをお勧めします。


     



武田信玄(上・中・下)  津本陽 講談社
武田信玄 全4巻   新田次郎 文春文庫
風林火山        井上靖 新潮文庫

津本陽の「武田信玄」全3巻
 読み始めは一見まるで注釈付きの年表を読んでいるような味気ないものに感じてしまいましたが、馴れてくるとそっけない表現の中にも味わい深いものがあって面白く読めます。文中に出典が書かれているのも参考になりました。
 武田、上杉の方言の使い方も自然な感じで、そんな風に話していたのだろうと思えるところも楽しめます。
 小説としての盛り上がりはどうなのかわかりませんが、創作で話を作り過ぎない公平な見解を持っているのが私は好感を持てました。 そういえばこの本には軍師としての山本勘助は出てきませんでした。
 
 それに比べると新田次郎の「武田信玄−全4巻」は、小説としては面白いのですが作者の創作で三条夫人の描写が傲慢で嫉妬深く醜い、などとてもひどいものになっています。 諏訪御寮人(この本では湖衣姫)をよく描こうとするあまりか、三条夫人を必要以上に貶め、罵るような表現を多用しているところなどは作者の性格まで疑ってしまいます。
 ただ、この小説の前半では駒井高白斎の存在が大きく取り上げられているのは珍しいので一読の価値はあるかもしれません。

 井上靖の「風林火山」は大河ドラマの原作ということで読んでみました。 一年間のドラマの原作としてはとても薄い本です。
 この本では軍師山本勘助が諏訪御寮人(由布姫という名前)に忠誠を尽くすというようなとてもドラマチックな物語になっていました。 
 この小説の高坂弾正は驚くほど合戦上手だけれど「小柄で、すこぶる風采があがらず…」 「無口でめったに口を開かず」 「合戦さえあてがっておけば充分満足している」 という一見は冴えない武将です。 井上靖も当然高坂弾正の様々なエピソードは承知の上で、あえてその辺りを全てカットしたのでしょう。 高坂ファンとしてはちょっと複雑ですがこういう設定も話としてはありかもしれないと思いました。

     



 

 参考にした書籍と高坂弾正が登場する小説など

 戦国逸話事典  新人物往来社
 武田信玄  笹本正治 ミネルヴァ書房
 武田信玄のすべて 磯貝正義 新人物往来社
 別冊歴史読本 戦国史シリーズ5 新人物往来社
 山本勘助  上野春朗  新人物往来社
甲陽軍鑑 上・中・下 腰原 哲朗訳 教育社新書
 上杉謙信 ハ尋舜右 成美堂出版
 武田信玄(上・中・下)  津本陽 講談社
武神の階 津本陽 角川文庫
山本勘助  石川能弘 PHP文庫
武田信玄(全4巻) 新田次郎 文春文庫
武田信玄 斉藤吉見 信濃路出版
 信濃戦雲録、野望・覇者 井沢元彦 祥伝社
風林火山 井上靖 新潮文庫 
密謀 上・下 藤沢周平 新潮文庫
北の王国 童門冬二 学陽書房
武田信玄 童門冬二 学陽書房
 高坂弾正  近衛龍春 PHP文庫
武田家臣団 近衛龍春 学研M文庫
夜叉王 金子ユキ 講談社
天地人 火坂 雅志 日本放送出版協会

 この他、戦国関係書籍、小説、マンガなど色々…











 


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 ここまでお読みいただきましてありがとうございます。

 春日源五郎は本当に美形だったかというと、それをはっきりと示す直接的な表現は史料に見当たらないようです。 ただ春日源五郎が訪れると邸内の女たちが見惚れて浮き足立つという話があったり、美人好きな武田信玄からの情熱的な「愛のお手紙!」 があったり、まあ間違いなく美しい人だったでしょう。 
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 素敵な挿絵を付けてくださいました「座・乱読 ランドック」 のFさまに多大なる感謝を捧げます。

                  2007年3月7日   管理人ユメリア











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