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報道履歴 2011 東日本大震災 

The most powerful earthquake and tsunami to hit Japan. 

 

  

 北海道  青森県  岩手県

 

In this March 22, 2011 photo, Manami Kon takes a break after writing a letter for her mother who's still missing after the March 11 earthquake and tsunami at the devastated city of Miyako, northeastern Japan. The 4-year-old Manami, using Japanese "hiragana" characters she just learned, wrote, "Dear Mommy. I hope you're alive. Are you okay?" It took about an hour for her to finish it. Twenty days after the disaster that hit Japan's northeastern coast, her parents and a sister were still unaccounted for. (AP Photo/Yomiuri Shimbun, Norikazu Tateishi)
 

 

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北海道

 

大津波警報、走る恐怖…日胆管内で漁船・車両流される

2011年3月12日(土)朝刊 室蘭

 

東北・関東大地震により、本道沿岸にも津波が押し寄せ、胆振・日高管内でも浦河漁港で乗用車など車両10台以上、係留していた漁船2隻が流される被害が発生した。また、日高管内では8235世帯、胆振管内でも8798世帯に避難勧告・指示が発令、午後9時30分現在、行政機関が開設した避難所に4600人余りが避難し不安な時間を過ごしている。このほか、JRの列車が運行を見合わせたほか一部国道が通行止めになるなど、市民生活に大きな影響を及ぼしている。

 

 室蘭地方気象台によると、午後4時40分現在、道内の最大震度は4で、苫小牧、厚真、むかわ、新ひだか、新冠、浦河、様似で記録。室蘭市内は山手町で震度2、寿町で3。 また、地震に伴う津波も繰り返し海岸線に到達。各地の最大波は、浦河が午後3時47分に2・1メートル、えりも町庶野で同3時44分に3・5メートル、苫小牧東港で同4時17分に2・5メートル、白老港は同4時1分に1・8メートル、室蘭港は同8時6分に1・0メートルに達した。

 


 

 港「間一髪だった」 東日本大地震

2011年03月12日 朝日 北海道

 

 

防潮堤を超えた津波が魚箱などを押し流した=11日午後3時57分、根室市の花咲港(根室市提供)

午後3時57分に、2・8メートルの津波に襲われた根室市の花咲港は、防潮堤を越えた波が道路にあふれた。道路には魚箱などが散乱、波は家の中にも流れ込んだ。「津波が来たのは防潮堤を閉め終わってほぼ10分後。声をかけたり、体の不自由な人を車に乗せたりした後で、まさに間一髪だった」と、近くの赤川宏司さん(55)が避難所となった花咲港会館で語った。 同館では、夜になっても約40人が不安そうな表情でテレビニュースを見守った。大津波警報が出てすぐに避難した女性(67)は「こわい。いつまた大きな津波が来るか。今日はここで夜を明かすことになりそう」と話した。 午後3時34分に2メートルの津波を観測した釧路市。市中心部を流れる釧路川の水位はみるみる上昇し、幣舞橋付近では波が市街地に流れ込んだ。避難しようとした遊漁船が津波に押し戻されて幣舞橋に衝突、船体が壊れた。 3・5メートルの津波が観測されたえりも町のえりも港では岸壁の車3台と、数隻の漁船が流された。海岸部では男性が津波にさらわれ、周囲の人に助けられたという。襟裳岬近くで昆布加工場を営む藤田靖さん(43)は「海を見ると、潮がひいていき、今まで見たことがない海底の岩が顔をのぞかせていた」と驚いていた。 浦河町では停車していた車20台以上が海に流され、十勝地方の豊頃町では乗用車と工事車両が流され、漁船16〜18隻が船揚場で横転したり、道道に打ち上げられるなどの被害が出た。浜中町役場によると、同町霧多布港で漁船7隻が係留場所から流され、散布漁港で漁船2隻が転覆したとの情報があるという。

 

 

 広尾町の町児童福祉会館には家族連れら約30人が避難。町内会長の漁業本間信夫さん(76)は「津波の怖さは昔からよく知っている。トラックで町内を回り、クラクションを鳴らしてみんなに逃げるよう警告した。早く収まってほしい」と話した。 函館では、JR函館駅前が冠水し、赤れんが倉庫群がある函館港のベイエリア周辺が浸水した。同港に面したホテル「ラビスタ函館ベイ」は、午後4時20分ごろからロビーが浸水。ホテル側はいったんは2階に誘導した客を、さらに4、5階に誘導した。午後6時45分ごろには津波の第二波が押し寄せ、一時は白波が立つほどの勢い。青森県八戸市の主婦(36)は、同市内に残る夫(34)と地震直後に連絡を取ろうとしたが、無事とのメールが来たのは約1時間後。「自宅が海の前なので函館に来なかったらどうなっていたか。まだ八戸の被害がよく分からず、とても心配」 苫小牧港東港では午後4時17分ごろ、2・5メートルの津波を観測。苫小牧漁協前に津波が押し寄せる状況を見ていたお年寄りは「あっという間に波が押し寄せた」と顔をこわばらせた。 避難所となった苫小牧東中には約120人が避難。同市旭町の井脇富雄さん(75)は歩けない飼い犬を抱えて来た。「置いてこられないから。いつになったら家に帰れるだろう」。長女で看護師の由紀恵さん(46)は「消防車がサイレンを鳴らして避難をアナウンスしていたので、貴重品と身の回りのものだけ持って避難しにきた」と話した。 一時、航空機の離着陸がストップした新千歳空港。仙台便が出るゲート前に置かれたテレビの前には50人ほどが集まり、携帯電話で「大丈夫か」などと安否の確認をする客が相次いだ。津波が街に押し寄せる映像に、言葉を失ったままの人たち。仙台から祖母の告別式で帯広を訪れていた主婦(35)は友人にまったく連絡が取れず、「どうしよう……」と下を向いた。

 

  

 津波で冠水した函館市のベイエリア=11日午後5時48分、函館市、中沢滋人撮影

 


東北沖大地震:函館で男性水死 北海道初の死者

毎日新聞 2011年3月12日 東京夕刊

 

 北海道警に入った連絡によると、12日午前7時ごろ、北海道函館市若松町のアパートの一室で、住民と見られる60歳代の男性が倒れているのを探していた警察官が発見。間もなく死亡が確認された。水死と見られる。道警によると、この部屋には床上45センチ程度まで浸水した形跡があり、男性の体がぬれていた。地震発生直後の11日午後、近所の住民が男性に避難するよう求めたが、避難しなかったという。【吉井理記】

 


 

 カキ・ホタテ 「壊滅」 

2011年03月14日 朝日

 

津波警報がようやく解除され、海に出た漁業者を待ち受けていたのは、手塩にかけて育ててきたカキやホタテなどの「壊滅的」ともいえる被害だった。 「カキえもん」などのブランドで知られる厚岸カキの産地、厚岸町の厚岸湖。13日、長さ100メートルある養殖施設約3千個が、湖内のあちこちに寄せ集められたように浮いていた。施設は、カキをつるした100本ほどのロープがぶら下がる型と、カキをカゴに入れて育てる型があり、もともとは等間隔に並んでいた。 だが、被害状況を調べた厚岸漁協によると、津波に押し流されたロープやカゴが絡まり合って、約60カ所でダンゴ状態に。大部分のカキが湖底に落ちたり、カゴの中でぶつかって死んだりして出荷できない状態。流出したものもかなりの数に上るという。 同町の養殖家の男性(48)の施設も約2キロ流され、他の施設とごちゃごちゃになっていた。「厚岸のカキは全滅でないか。もう何したって終わりだ」と声を落とした。 厚岸のカキは3年もので、全滅すれば回復には数年かかる。加えて、稚貝の大部分を被災地・宮城県産に頼ってきた。町でも稚貝の養殖に取り組んでいるが、全養殖家には到底行き渡らない。年5億円の出荷量があるだけに、同漁協の佐藤広彦参事補は「(回復まで)早くて5年かかる。何十年もかけて産地になったが、一瞬で失った」。 仙鳳趾(せんぽうし)産カキで知られる釧路町でも、施設21基が壊れていることが判明。町によると現時点での漁業被害額は7500万円超。浜中町ではウニの養殖施設が湾外に流出するなどの被害があった。 「このままだと来冬、出荷できない」と懸念するのは、道内最大のカキ産地・サロマ湖沿岸の湧別漁協の工藤輝之・かき部会長(49)。津波被害はなかったが稚貝はすべて宮城県産。仕入れ先とは連絡が取れない。同漁協のカキは1年もの。稚貝を広島県などから取り寄せられないか検討を始めたが、海に入れる4月を前に、「時間がない」。 ホタテの養殖の盛んな噴火湾でも被害が出ている。ホタテ出荷量が年26億円に上る八雲町の八雲町漁協によると、ホタテをつるす養殖施設のロープが津波で絡まり合って、生育に大きな影響が出るという。中間生育している稚貝にも被害が出ており、同漁協の小川勝志専務理事は「ほぼ全域で壊滅的打撃。施設を新たにつくれば億単位の資金がいる。これからどうやって生活したらいいのか」と訴える。 長万部町の長万部漁協でもほぼ同じ状態だ。同漁協は「ホタテを洗う機械も津波で水没した。どこから手を付けていいのか」。 道によると13日午後3時現在、渡島、胆振、釧路、根室の4管内で、ホタテ、コンブ、カキ、ウニ、クロソイを養殖する15漁協で被害を確認している。

 

 


 

 登別・洞爺湖、観光客に影響…ホテル等キャンセル続く

2011年3月14日(月)朝刊 室蘭民報

 

 東日本大震災の影響で登別市、洞爺湖町の観光産業に不安が広がっている。両温泉街のホテルや旅館、テーマパークへの予約キャンセルが相次ぎ、合わせて千数百人を数えている。外出する人が減ったため、スキー場への影響もある。被害が太平洋側を中心に広範囲に及び、空路の欠航など客足回復は難しい状況で、観光関係者は「どうしたらいいのか」と頭を抱えている。  登別観光協会は震災後、宿泊施設のキャンセル状況の把握に乗り出し、被害額を取りまとめている。同協会の猪股啓介事務局長は「観光は『平和産業』なので、これから多方面で影響が出てくるだろう」と予想する。 登別温泉旅館組合によると、地震が発生した11日から1週間の12ホテル・旅館の宿泊キャンセルは、300〜1000人規模となる見込み。旅館関係者は「食材の確保などに支障が出ている」と話していた。 被害は宿泊業だけでなく、飲食店など商店街にも影響しており、老舗土産店の店主は「いつまで続くのか」と眉を曇らせた。春の行楽シーズンを前にレジャーを控えるムードが出ており、他店からも心配する声が多く上がっていた。

 

 市内のテーマパークへの影響も出ている。のぼりべつクマ牧場は、修学旅行生約300人が入場を中止する連絡があった。登別伊達時代村は、韓国の団体客約60人が飛行機の欠航で急きょ、来村を取りやめた。登別マリンパークニクスは団体客のキャンセルはないが、イベントの継続など今後の対策を協議している。 カルルス温泉サンライバスキー場は、今シーズン最後の修学旅行生(沖縄・興南高校)約100人の利用が中止となった。地震後の週末は個人客も落ち込み「ラスト1カ月の集客を見込んでいたが、厳しい状況」(担当者)と肩を落とす。 洞爺湖町の洞爺湖温泉でも地震発生の11日以降、宿泊施設にキャンセルが出ており、洞爺湖温泉観光協会によると、少なくとも300人分の予約が取り消しになった。中には自衛隊の団体もあり、災害派遣要請による影響と思われる。一方、函館市に宿泊予定だったが津波の被害により洞爺湖温泉に変更した団体客も、一部あったという。 団体旅行などのキャンセルが続けば「早急に何らかの手を打たないといけない」(観光関係者)状況で、登別、洞爺湖の地域経済にマイナスの影響が出るのは避けられない情勢だ。(粟田純樹、菅原啓)

 


ホタテ出荷減長期化 震災で養殖施設被害、稚貝が流失 噴火湾

03/23 16:30 北海道

 

国内有数の養殖ホタテ産地・噴火湾に、東日本大震災の影響が広がっている。津波で壊れた養殖施設の復旧に手間取る一方、育成中の稚貝が流失するなどして、今後の出荷が落ち込むのは避けられそうにない。地元のホタテ加工業者にも、影響はじわじわと広がりそうだ。(八雲支局 渡部淳、報道本部 尾崎良)  噴火湾は国内ホタテ生産の3割ほどのシェアを持つ一大産地。冷凍した貝柱などは、首都圏のほか米国や中国へも輸出している。今回の震災では津波による深刻なダメージを受け、被害額は161億円と道内全体の漁業被害の半分を占めた。  ホタテ貝はロープから延びたテグス糸に結びつけ、海中に沈める「耳づり」と呼ばれる手法で養殖する。しかし、震災ではこれから成長する小さな稚貝から出荷前の成貝まで、多くの貝が流失した。 「ほとんど水揚げはない」。噴火湾の中でも被害が集中した渡島管内八雲町でホタテ養殖歴40年の男性漁業者(70)は声を落とす。

 


登別・洞爺湖で計3万人キャンセル 温泉や観光地に打撃

2011年3月28日 朝日

 

 東日本大震災は、道内の温泉地や観光地にも深刻な打撃を与えている。温泉地では福島県の原発事故が大きく影響して外国人客の宿泊キャンセルが相次いでおり、登別温泉(登別市)では約2万人、洞爺湖温泉(洞爺湖町)でも約1万人の予約を失い、苦境に立たされている。  登別観光協会によると、登別、カルルス両温泉にある20のホテル・旅館のキャンセルは、20日現在の集計で2万194人、金額で約1億9600万円に上っている。  台湾や韓国など海外からの宿泊客は「全滅に近い」(同協会)。国内の旅行自粛ムードも加わり、道内客に多少の動きはあるものの、ホテル側からは「海外客と道外客は(回復の)めどが立たない」という声が出ている。同協会は、今の状況が続けば、4〜6月の宿泊客は前年同期より9万5千〜9万8千人、約4割減少するとの見通しを示している。  洞爺湖温泉も状況は同じ。同温泉観光協会や町によると、24日現在で1万人近い宿泊キャンセルがあり、このままでは4〜6月で前年同期より約5万人減少する見込み。  27日に登別市であった観光地政策要望会ではホテル、旅館だけではなく、商店街や飲食店などへの影響も避けられないとして、金融支援などを求める声が相次いだ。  一方で、両温泉地とも1千人規模で被災者をホテルなどに受け入れる準備を進めている。関係者は「厳しい中だが、もっとつらい思いをしている被災者を少しでも多く受け入れたい」と話す。  函館でも、外国人観光客の姿が消えた。函館山ロープウェイは、地震前は1日2千人以上、昨年同期は多い日に5千人以上が利用したが、地震後は千人を切る日が続く。「ツアーの外国人はほとんどいない」と広報担当者。五稜郭タワーも展望台利用者は3分の1になった。

 

 大沼国定公園も、例年この時期は中国、韓国の観光客に加え、卒業旅行の大学生らでにぎわうが、「ほとんど誰も歩いていない」(大沼観光協会)という状況。同協会は4月に予定している湖水開きなどの行事中止も検討中だ。  函館駅前のホテルでは、宿泊予約のほかに宴会や講演会の会場予約が30件ほどキャンセルになった。3月末は歓送迎会シーズンだが、ホテルの担当者は「こういう時期だけに自粛しているのでは。講師を函館に呼ぶのが難しくなった例もあるようだ」と話す。ベイエリアのホテルでも数百件のキャンセルが出ている。  客船の函館寄港のキャンセルも出ている。市によると、5月に寄港予定だった客船「ふじ丸」が入港を中止。今年は海外も含め11隻が寄港予定だったが「地震、原発事故で今後も影響が出そう」(市港湾課)という。

 


「鶴雅」2ホテル 約3週間の休業 大震災余波、キャンセル相次ぎ

(03/30 10:08)北海道

 

 【釧路】道東や道央で8軒のホテル・旅館を経営する鶴雅グループ(大西雅之社長)は、釧路市・阿寒湖温泉の「阿寒の森・鶴雅リゾート花ゆう香」を4月3〜27日、北見市常呂町の「サロマ湖鶴雅リゾート」を同4〜27日の間、休業することを決めた。  東日本大震災に伴う宿泊キャンセルで稼働率が低下したためで、近隣のグループホテルに宿泊客を一時集約し、4月末からの大型連休前に再開。休業中は設備の改修・点検などを行い、従業員は自宅待機とする。  4月1日に予定していた入社式も6月1日に延期。入社予定の30人は4月1日から雇用するが、調理師などを除く23人は自宅待機とする。待機期間中も給与は支払う。


 

 被災者受け入れ3千人可能 登別温泉、洞爺湖温泉

(03/30 12:13)

 【登別温泉、洞爺湖温泉】東日本大震災の被災者受け入れ方針を明らかにしている登別温泉旅館組合は29日、登別温泉での受け入れ可能人数を1831人とし、取りまとめを行っている道に報告した。とうや湖温泉旅館組合は千人、カルルス温泉の旅館も128人の受け入れが可能としている。  登別観光協会によると、登別温泉では14宿泊施設のうち10施設が、5〜100室を提供し計470室を確保する。また、温泉街にある登別厚生年金病院が、被災者の病気やけがの治療にあたる予定。登別温泉旅館組合の岩井重憲組合長は「被災者ができる限り安心して暮らせる態勢を整えている」としている。  受け入れは4月1日〜5月10日を予定。1人1泊3食付き5千円で部屋を提供し、国が宿泊施設に全額支払う。道は道内全体の受け入れ人数がまとまり次第、被災した自治体に情報提供し希望を受け付ける。(井上雄一)

 


地震直後に水がひき、そして大波 支笏湖でも津波現象

(2011年 3/31)苫小牧

 

 東日本大震災の発生直後に、支笏湖でも津波のような波と水位の変化があったことが分かった。湖畔住民は「1968年の十勝沖地震以来」と話している。 支笏湖漁業協同組合によると、地震が発生した11日午後2時46分、築港内で作業をしていた漁協職員の平井義文さん(68)らが、大きな横揺れの直後に港内の水が一斉に引き始めたのを目撃した。その後、大きな波となって護岸を打ったという。3時20分の大きな余震でも、水位が大きく下がった後に波が押し寄せた。 2度目に水が最も引いた時、撮影した港内の鉄パイプの水跡は、水面から約40センチもあった。 被害はなかったものの、「泥が渦巻くように上がって水が引いていく様子には驚いた。まるで津波だった」と平井さん。 国土交通省のテレメーター水位でも顕著な変化が出ていた。11日午後3時の水位が、午後2時に比べて8センチ上昇し、5時まで高い状態が続いた。 67年から支笏湖で仕事をしている漁協の海沼寛さん(62)は「地震で引き波があって、水位が大きく変化したのは68年5月の十勝沖地震(マグニチュード7.9)以来だ。驚いた」と話している。

 

 


 

 震災で客激減、北海道の大手業者が2ホテル休館

2011年4月18日21時24分  読売新聞

 

北海道の観光ホテル大手カラカミ観光(札幌市南区)は18日、道内にあるグループの2ホテルを、1年程度、休館にすると発表した。 対象となるのは、洞爺湖温泉にある「洞爺パークホテル天翔」(280室)と、阿寒湖温泉にある「ホテルエメラルド」(206室)。同社では、休館の理由として東日本大震災の影響で観光客が激減したことを挙げている。東京都や群馬県などでは大震災の影響で一時休業したホテルが出ているが、道内の観光業者から成る「北海道観光振興機構」によると、道内の観光ホテルが震災の影響で長期休業するのは初めてという。 同社は全国で14の観光ホテルを運営している。震災後、道内で運営する5ホテルで約1万5000人のキャンセルがあり、宿泊客の約2割を占める外国人観光客はほぼゼロになった。本州からの宿泊客や外国人観光客の予約回復が見込めないため、洞爺パークホテル天翔を5月から、ホテルエメラルドを7月から、休館することとした。

 


《防災を問う 津波》特養避難 生きた訓練 様似町

2011年04月19日 朝日

 

軽トラックが岸壁から次々と流され、コンテナがいくつも浮いていた。一時避難した高台から、津波にのみ込まれる様似漁港の様子がはっきりと見えた――。 「施設の被害も相当だろう」。様似町の特別養護老人ホーム「様似ソビラ荘」の木原秀明施設長(60)はそう思った。ソビラ荘は三方を海に囲まれ、港から約150メートルの場所にある。 3月11日午後2時46分。木原さんは外出先で揺れを感じた。急いでソビラ荘へ戻ると、職員たちはすでに避難誘導を始めていた。テレビで津波警報の発令を確認し、午後3時に改めて全館に避難を指示した。 入所者は60人で、大半が80代後半。自力で歩ける人はほとんどいない。施設は平屋建てで、津波を避けるには外へ逃げるしかない。 ソビラ荘は翼を広げた鳥のような形。端から端まで約80メートルある。職員約20人は両翼に散り、お年寄りを手早く車いすに乗せては、マイクロバスなど車7台に次々と分乗させた。 全員の避難が完了したのは午後3時25分。その十数分後、津波の第1波が一帯を襲った。町の避難勧告は午後3時15分、避難指示は同3時半。木原さんは「勧告を待っていたら、間に合わなかった」と振り返る。

 

 

 「津波警報が出たら速やかに自主避難を始める」。ソビラ荘では以前から決めていた。昨年10月には、津波を想定した本格的な避難訓練を初めて実施。入所者を実際に車に乗せて避難した。心構えや訓練の経験が、今回は生かされた。 木原さんは「健常者とはわけが違う。避難には時間が必要で、早めの行動が一番大事だ」と痛感する。 ソビラ荘は胸の高さまで津波が押し寄せ、施設内も水浸しになった。ボイラーの故障で暖房がきかず、お湯も出なくなった。復旧には1カ月近くもかかった。 その間、入所者23人は町保健福祉センターの広間で暮らした。個人の空間を守るため、こまめに間仕切りしたが、介護福祉士の宮村大理(だい・すけ)さん(24)は「おむつ交換や排泄(はいせつ)時のプライバシーが確保しにくい。生活が百八十度変わり、お年寄りの負担は大きい」と話す。 残る約半数の入所者は日高、十勝の6施設が一時的に受け入れた。ソビラ荘の職員が毎週訪れ、一人ひとりと面談してきた。「早く帰りたいよ」。なじみの職員の顔を見ると、抱きつく人も少なくなかった。 16日、町保健福祉センターの23人がソビラ荘へ戻った。1カ月ぶりの「我が家」に、涙を流して喜ぶ人もいた。他の施設にいる入所者たちも、20日までに全員が戻れそうだ。 震災前の生活を、ようやく取り戻せる。一人のけが人も出さず、避難も成功した。それでも、木原さんは「夜中の地震なら、こうはうまくいかなかった」と厳しい表情だ。 昼間は職員約20人が勤務しているが、深夜は4人しかいない。職員の多くは約5分で駆けつけられるが、施設は海に囲まれ、避難は一分一秒を争う。

 

 ソビラ荘は1989年、町の全額補助で建てられた。埋め立ての町有地で、海面からの高さはわずか2〜3メートル。町総務課によると、当初は高台の私有地も候補に挙がったが、費用が安く済む現在の町有地に落ち着いた。同課は「移転するにも、土地の確保は容易ではない」と話す。 ソビラ荘から海を見渡し、木原さんは話した。「この場所で果たしていいのか。震災を機に話し合う時期だ」(諸星晃一)

 翼を広げた鳥の形をしているのが様似ソビラ荘(右端)。津波は様似漁港(左端)から押し寄せた=様似町

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青森県

 

停電の中で営業を続けるコンビニは、食料や水を求める市民で大混雑=11日午後6時11分、青森市青葉2丁目  東奥

 


 

東通村でも漁港に被害

東奥日報 - ‎2011年3月12日‎

東通村では、津軽海峡、太平洋沿岸の漁港数カ所で津波の被害が確認された。 津軽海峡に面した野牛漁港では、漁港周辺に止めてあった車30台以上が陸側に押し流された。 尻屋漁港では2隻の漁船が転覆。漁港内には4.9トンの漁船が浮かび上がり、クレーンで立て直す作業を12日 ...

 


 

東日本大震災 青森で2人死亡確認

2011.3.13 01:51

 青森県警によると、八戸市の舘鼻漁港付近の車の中から同市の職業不詳、荒木田トミ子さん(67)と三沢漁港付近の車の中から三沢市の職業不詳、高橋国雄さん(78)の遺体が見つかった。行方不明者は3人、けが人は80人で、このうち八戸市の6人が重傷という。 県によると、12日午前7時現在で40市町村の約1万9千人が避難生活を送っている。

 

 


 十和田湖観光 キャンセル相次ぐ

東奥日報 - ‎2011年3月17日‎

十和田湖観光を支える遊覧船やホテルに、東日本大震災が発生した11日以降、予約キャンセルなどが相次いでいる。東北新幹線全線開業後の冬の観光イベント「十和田湖冬物語」の来場者数が約28万人と過去最高を記録。いよいよ春の観光シーズン到来というタイミングに起きた ...


 

はやぶさ効果の春のはずが…景勝地も被災 観光業に痛手

2011年3月27日 朝日

 

大震災が県内の観光業界に暗い影を落としている。旅館では宿泊予約のキャンセルが相次ぎ、海岸沿いの景勝地も津波にやられた。昨年12月に東北新幹線が全線開業し、新型車両の「はやぶさ」が走り出して6日後に起きた天変地異。この春は観光客が押し寄せるまたとない「好機」になるはずだっただけに、関係者の落胆は大きい。早ければ4月に全線再開という東北新幹線が頼みの綱だ。

 

 棟方志功ゆかりの宿として知られる青森市・浅虫温泉の椿(つばき)館。135人収容のこの宿も、今は数えるほどしか客がいない。大地震が襲った11日以降、ほぼすべての予約客がキャンセルをした。  震災直後から、ファクスから「キャンセル」と書かれた紙が次々と吐き出された。その連なりは毎日数メートルに及ぶ。  東北新幹線が新青森駅まで延びた昨年12月以来、宿泊客数は伸び続け、3月は前年同月比で7割増の2500人を見込んでいた。「立ち尽くすしかない。新幹線の全線開業でやっと春が来たと思っていたのに」。浅虫温泉旅館組合長も務める蝦名幸一社長は悔しそうに話す。  風間浦村の下風呂温泉では「ゆかい村海鮮鮟鱇(あんこう)まつり」が31日まで開催中だ。「アンコウでまちおこしを」と取り組む2年目の冬だが、温泉街は閑散としている。 新幹線の不通やガソリン不足が響いている。「まるほん旅館」は地震発生の翌日からキャンセルのファクスが入り始め、3月中の宿泊予約はほとんどが取り消された。  岩手や宮城方面からの常連客も多いが、連絡が取れない人がいるという。同旅館の長谷津恵さん(77)は「無事でいてほしい。すっかり寂しくなったが、被災地を思えば多くは言えない」という。  県内の旅館組合に15日までに聞き取りをした県観光企画課によると、黄金週間が始まる4月後半以降もキャンセルが相次いでいるという。県の担当者は「交通インフラがやられたうえ、自粛ムードもあるのでは」と話す。  例年200万人以上が押し寄せる「弘前さくらまつり」の期間中も弘前市内のホテルで外国人観光客によるキャンセルが相当出ているという。  観光地やイベントにも影響が出ている。  津波が襲った八戸市では、ウミネコの繁殖地として知られる蕪(かぶ)島の駐車場や公衆トイレが壊れた。今、蕪嶋神社を訪れる参拝客は例年の土・日曜の10分の1以下という。国の名勝、種差海岸も津波に飲まれ、種差海岸遊歩道(5.2キロ)の一部で土砂がえぐれ、案内板が壊れるなどの被害が出た。  市観光課が被害の実態調査をしているが、草花が咲く春の観光シーズンに復旧できるか見通しは立っていない。  約60店が生鮮食品などを扱う「八食センター」(八戸市河原木)も客足が減り、震災以後はいつもの3〜4割になった。事務局は「ガソリンが出回るようになれば、来場者は増えるはず」と期待する。  弘前城築城400年祭の今年、70以上のイベントを組んだ弘前市では、今月予定されていた事業が中止や延期に。同市の400年祭推進室は「被災地に思いを寄せ、『元気になるように』という視点でイベントの内容を立て直すことも考えている」と言う。  400年祭以外にも、同市は集客効果の大きい桜、ねぷた、菊と紅葉、雪灯籠(どうろう)の4大祭りがあるが、今年は被災地に配慮して単に娯楽一辺倒ではなく、入園料の一部を義援金に充てることなどを考えたいという。  そのうえで担当者は「新幹線開通後の伸びをなんとか回復したい」と話す。  横浜町でも5月15日に予定している「第21回菜の花フェスティバルinよこはま」のうち、メーンイベントの「菜の花マラソン大会」の中止を決めた。

 

 

東日本大震災 予約のキャンセル相次ぐ 青森市の浅虫温泉

毎日新聞 3月27日(日)20時2分配信

 

「このままでは県内の観光業界は全滅だ」。青森市の浅虫温泉で椿館を経営する蝦名(えびな)幸一さん(71)は宿泊台帳を開いた。予約客の名前には多くの横線。キャンセルが相次いだのだ。浅虫温泉は市中心部から車で約30分。陸奥湾に面し、かつては「青森の奥座敷」「東北の熱海」と呼ばれてにぎわった。だが団体旅行が廃れて客足は遠のき、温泉街は寂れる一方。昨年12月の東北新幹線新青森駅開業は、待ちに待った復活への足がかりだった。 蝦名さんが組合長の浅虫温泉旅館組合(14軒加盟)では、新幹線開業後の利用客は平年の20〜30%増となった。3月に入り最高時速300キロの新型車両「はやぶさ」が走り、青森観光が脚光を浴びた。椿館の予約は昨年の70%増になった。「何十年も待ったかいがあった。あの時は本当にそう思った」。4月には新たに従業員を募集する予定だった。 大震災が温泉街の希望をも奪った。朝起きると、ファクスがロール紙を10メートルも吐き出していた。予約取り消しの連絡ばかり。「50年近く旅館をやってきたが初めて。気持ちが一気になえました」 雇用情勢が低迷する青森県は新幹線開通を好機とし、新年度予算にも多くの関連経費を盛り込んだ。弘前の桜、青森のねぶた祭、紅葉の奥入瀬渓流などの観光資源。JR6社などと大型企画「青森デスティネーションキャンペーン(DC)」を大型連休前から始め、観光客誘致に弾みを付けたい考えだった。 だが新幹線の全線復旧には1カ月ほどはかかる見通しだ。更に「被災地域への配慮も必要」(県観光局)と、時期だけでなくDCの内容そのものの見直しも必至となっている。 県旅館ホテル生活衛生同業組合によると、震災後の予約取り消しは3万人を超す。食材の仕入れや燃料の確保が難しく、朝食バイキングを取りやめたり、館内に客が少ない時間帯は暖房を止めたりするホテルもある。 浅虫では組合員の半数が休業。従業員を自宅待機にする宿もあり、雇用にも影響を与えかねない。「家族や従業員にけがはなく、建物も無事。でも肝心の客足はぱったり途絶えた。業界にとっても大災害となった」と蝦名さん。国や県などの支援が必要だと訴える。 青森県によると、震災の被害総額は100億円を超す。津波で八戸市など沿岸部の港湾施設や漁港関連施設の被害が大きい。東北新幹線は22日、新青森−盛岡間で復旧、上下10本を運行している。東北道も同日、一般車両が通行できるようになった。【矢澤秀範】

 


原発増設首相「見直し」発言 4基建設計画の下北、困惑

2011年04月02日土曜日 河北

 

 福島第1原発事故を踏まえ、菅直人首相が原発を現状より14基以上増やすとした政府のエネルギー基本計画の見直しを表明したことで、原発4基の建設計画が進む青森県の東通村と大間町の関係者に波紋が広がっている。増設が白紙となれば立地に伴う交付金や税収などが見込めなくなり、自治体財政や地域経済に大きく影響するためだ。

 東通村では東北電力の東通原発1号機が既に稼働、現在は定期検査に入っている。東京電力が1月に着工した東通原発1号機は、福島の原発事故を受けて工事を中断。東北電と東電はそれぞれ東通原発2号機の建設も計画している。大間町では電源開発の大間原発が2014年11月の運転開始を目指している。 東通村の越善靖夫村長は1日、基本計画の再検討について「村に報告もなく、政府内で決まった話ではないと認識している」と困惑気味に語った。「国は原発事故を一日も早く収束させ、安全対策に万全を期した上で工事計画の再開をお願いしたい」と述べた。 東電東通1号機の工事に携わるむつ市の土木工事会社の経営者は「あまりに急な話。建設が白紙なら、経営のめどが立たなくなる。首をくくれと言うのか」と憤った。 基本計画の再検討について東電は「申し上げる状況にない」とし、電源開発は「内容が分からずコメントできない」と言う。ある原子力事業関係者は「エネルギー政策の議論がないまま、軽々しく口にされても混乱が広がるだけ」と批判する。 一方で深刻な原発事故を受け、慎重な対応を求める意見もある。大間原発が立地する大間町奥戸向町町内会の野崎信行会長は「原発建設に反対ではないが、福島の事故を考えると安全性の再検討は賛成だ。国も事業者も慎重に計画を進めるべきだ」と話している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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被害情報

 1.人的被害(3名)

 ●けが人 1名 死亡2名

2.家屋被害(51棟)
 

●全壊 17棟、半壊 1棟 一部損壊 6棟

●床上浸水 15棟、床下浸水 12棟

 

 

   

津波に流された建物や燃料タンクなどが一面に散乱する三沢漁港付近=12日午後2時  東奥

津波で壊滅した三沢市漁協事務所。職員らががれきの中から書類を探し出し、外に運んだ=13日午前11時40分ごろ  東奥

 

津波で三沢漁港が壊滅的被害

日テレNEWS24 - ‎2011年3月17日‎

 

三沢漁港は地震による津波で壊滅的な被害を受けた。33隻の漁船が港内に沈んだり流されるなどしたが半数は引き揚げられていない。ダイバーが海中捜索するなどの復旧作業を続けている。三沢漁協は漁船引きあげのため県にサルベージ船の派遣を要請している。

 


日本大震災:荒木田さん、亡き妻を思い/高橋さん、津波熟知のはず… /青森

毎日新聞 2011年3月14日 地方版

 

 「海のプロ」が想像をはるかに超える津波にのまれた。東日本大震災で死亡した県内の3人のうち、2人は漁業者だった。沖合に船で避難した夫が気になり、自宅から港に引き返した妻。引き波にさらわれ、逃げ切れなかったベテラン漁師。大波は高さ約4メートルに達していたとみられる。【山本佳孝、鳴海崇】

 

 ◇「一緒で幸せだった」 八戸・荒木田さん、亡き妻を思い

 「幸せだったなあ」。八戸市小中野3の荒木田トミ子さん(67)の夫晨満(のぶみつ)さん(71)は声を振り絞った。「朝から晩までいつもずっと一緒だった。今はありがとうと言いたい」。45年間連れ添った妻への思いがあふれた。 2人は5年前から、自宅近くにある館鼻漁港の小屋で、漁師の傍らで釣り船屋を切り盛りしてきた。10年来の友人という八戸市の無職男性(72)は、トミ子さんはとても気さくな人だったと話す。「小屋に行けば必ずコーヒーを出してくれたり、釣った魚を分けてくれたりした。笑顔を絶やさない、世話好きで明るい人だった」 2人は地震当時、小屋で帰り支度をしていた。晨満さんは津波で船が壊れることを避けようと、午後3時半ごろに沖へ。トミ子さんは車で5分ほどの自宅へ避難した。 午後4時ごろ、晨満さんの携帯電話が鳴った。「今、小屋にいるよ」。トミ子さんの思わぬ言葉に晨満さんは声を荒らげた。「そこにいないで早く逃げろ。家でラジオを聞け」 12日朝、晨満さんは船上で、仲間からトミ子さんの死を伝えられた。「心配になって来てくれたのかな。これまで津波が来ても大丈夫だったから、油断していたのかもしれない」と悔やんだ。

 

 ◇三沢・高橋さん、津波熟知のはず… 漁師仲間、絶句

 三沢市深谷1の高橋国雄さん(78)は、13日に三沢漁港で予定されていた「三沢ほっきまつり」に備え、小屋で貝の殻をむいていた。震度5強の揺れで、市漁業協同組合の漁船約70隻のうち半分は沖合へ避難したが、高橋さんは遅れた。 漁師歴50年のベテランで仲間は「長老」「生き字引」と語る。後輩には言葉で強く指導するのではなく、背中で漁のノウハウを教えた。津波の経験もあり、逃げるタイミングも熟知していたという。 いったん引いた小さな津波に合わせ、軽トラックに乗って岸壁から十数メートルの場所にある倉庫に向かった。仲間は「早く戻れ」と叫びながら逃げた。間もなく陸側から大きな引き波が押し寄せ、高橋さんのトラックをのみ込んでいった。 被災後の三沢漁港は、大型トラックが横転し、投網が何重にも絡まっていた。倒れた軽油タンクや船から漏れた油が交じり、黒ずむ周辺の砂。倉庫は流されて形がなくなった。かろうじて残った建物の壁には、高さ約4メートルの場所に波の跡が残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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避難勧告が解除され、倒壊した家屋の撤去作業が始まった

おいらせ町川口地区=13日午後1時50分ごろ

  

 

ただ借金だけ残った−おいらせ町ルポ

2011年03月22日 朝日

 

ひしゃげたビニールハウスを片付ける橋本一雄さん=おいらせ町東下川原 

 

太平洋に面したおいらせ町にも11日、南北約7キロの海岸線に津波が到達した。高さ7メートルの防潮堤も乗り越えた津波は、収穫期を控えたイチゴや脱サラ後の夢をかけて育てた豚を次々とのみ込んだ。全壊21棟、半壊6棟など被災した住宅も109棟(18日現在)に上る。住宅以外の建物についてはまだ調査中という。深刻な被害を受けた同町を歩いた。(熊田志保) 

 八戸市との境、奥入瀬川の河口に位置する同町東下川原地区。海岸近くの畑は海水をかぶり、建物のがれきが散乱していた。 20日の昼間、イチゴ農家の橋本一雄さん(58)がひしゃげたビニールハウスの解体をしていた。ハウス四つが全壊し、植えていたイチゴの苗は海水をかぶった。来年用の苗も失った。「あきらめるしかなかべ」 橋本さんは11日の地震直後、高台に避難して海の方を見た。「もりもりっと白波が一気に向かってきた」。第2波、第3波は海岸線にある7メートルの防潮堤を乗り越え、一帯をのみ込んだ。 地震から10日がたっても畑を踏むと、海水がしみ出る。海水をかぶった畑は元通りになるまで最低3年はかかるという。今も農協からの借金が百万円単位である。そこに被害が追い打ちをかける。「ただ借金だけが残った」 

 

町北部の二川目地区の海岸から約700メートル内陸の養豚場では、経営者の岩崎徹男さん(64)が20日、津波で壊れた豚舎を片付けていた。2150頭のうち1500頭を溺死(でき・し)などで失った。 地震後、4日かけて死骸を1匹ずつ、大人4人がかりで小屋から引き出して処分場に運んだ。生き残った豚の飼育もあきらめ、別の農家に引き取ってもらえなかった100頭は殺処分。「大事も大事な豚。かわいそうだった。でもえさも水もなく飼えない」 同地区は住宅も10棟流された。海岸沿いに設けた防潮堤は岩崎さんの農場から500メートルほど南で途切れ、その切れ目から津波が押し寄せた。砂浜も数十メートルにわたって大きくえぐられている。 「なんで堤防をあそこで止めたのか。1933(昭和8)年の津波でもこの辺は被害が出たと聞いているのに。でも、後の祭りですよ」 脱サラして始めた農業。息子2人が戻ってきて収益も上っていた矢先だった。5棟に広げた豚舎は4棟を失った。「再建といっても個人でできる範囲を超えている。35年かけて積み上げたものを35秒で失った」 同地区の住民会館に設けられた避難所には、竹内のぶさん(75)が息子の敏彦さん(48)と身を寄せていた。木造平屋の家が全壊したというのぶさんは、これからの生活について問われると、こう答えた。「何もなす。思いつかねえなす」

「ここではもう農場はできない」と話す養豚農家の岩崎徹男さん=おいらせ町二川目

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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237,212人 (推計人口、2010年12月1日)

津波6・2メートル 気象庁 4.5

1600棟が床上浸水、100

 

八戸港に停泊している漁船に襲いかかる津波=11日午後4時48分、八戸市湊町の館鼻公園から

津波で道路付近まで押し流された漁船が横たわる館鼻岸壁=13日午後4時35分ごろ、八戸市新湊3丁目付近

 

八戸港の津波の高さは8m超

3月17日 17時59分  NHK

今回の大津波で、防波堤などに大きな被害が出た青森県八戸港では、津波の高さが高いところで8メートルを超えていたことが専門家の調査で分かりました。一方で、岸壁などの安全性が確認され、八戸港では緊急物資の輸送が可能と判断されました。

 

調査を行ったのは、国土交通省が港の復旧や物資輸送の再開に向けて派遣した港湾空港技術研究所などの調査団8人です。八戸港では、長さ3500メートルの大型の防波堤が破壊されたほか、漁船やコンテナ、車などが流されて沿岸の住宅にも大きな被害が出ました。調査団が港に押し寄せた津波の高さを調査した結果、まず、コンテナヤード付近では倉庫の壁の痕跡から高さ6メートルを超えていたことが分かり、壊れた防波堤の外側の高いところでは8メートルを超えていたことが分かりました。津波の発生当時、八戸港では検潮所の観測データが高さ2.7メートルで途絶え、実際の津波の高さが分かっていませんでした。また、壊れた防波堤はコンクリート製の「ケーソン」という箱を並べて作られ、1平方メートル当たり1000トンから1200トンの波の力に耐えるように設計されていましたが、今回の津波で「ケーソン」の半分近くが流されていたということです。港湾空港技術研究所の富田孝史上席研究員は、「通常、津波の威力は防波堤で小さくなるが、今回のように非常に大きな津波は防波堤などの構造物で押さえることは困難だ」と話しています。今回の調査で、八戸港では、一部の岸壁と航路の安全性が確認され、緊急物資を運ぶ船の接岸が可能だと判断されました。

 


 

東日本大震災:八戸の津波8.4メートル 建物痕跡で確認−−国交省調査 /青森

毎日新聞 2011年3月21日 地方版

 

 東日本大震災で、八戸市を襲った津波の高さが8メートルを超えていたことが国土交通省の専門家チームの調査でわかった。 東北地方整備局八戸港湾空港整備事務所によると、同省の緊急災害対策派遣隊のメンバー8人が17、18の両日、防波堤や港湾の被害状況、津波の最大水位などを調査した。この結果、八戸市河原木の三菱製紙八戸工場内で、建物に残った痕跡を調べたところ、8・4メートルの津波と確認された。階上町大蛇地区では8・5メートルと推定。八太郎2号ふ頭コンテナヤードで6メートル超、水産会館(白銀町)で5メートル超だった。【松沢康】

 

 


 

八戸港北防波堤、津波で一部損壊   

2011年3月14日 東奥日報

  

八戸港の八太郎北防波堤は数カ所が津波を受け破損した=12日午前11時58分、本社チャーター機から

 

 東日本大震災による津波で、八戸港にある東北有数の規模の「八太郎北防波堤」の一部が倒壊した。13日の本紙取材に、国土交通省八戸港湾・空港整備事務所の担当者は「極めて強い力が加わったことがうかがえる」と答え、今回の津波の威力に驚きを隠せないでいる。 北東北最大の八戸港は複数の防波堤が整備されているが、県地方港湾審議会副会長を務める八戸工業大学大学院の佐々木幹夫教授は「港内の防波堤が大規模に壊れるのは、1960年のチリ地震津波の時以来ではないか」と話している。 北防波堤は、八太郎4号ふ頭から八戸港の中央部に延びる。全長3494メートル。同事務所によると、コンクリート製ケーソンの東側部分など数カ所で計千メートルにわたり、陸側に倒れたという。佐々木教授は破損部分について「波が集中しやすい場所。今後は、もっと高い波が来ても倒れない構造にするなどの対策が必要では」と指摘している。 同事務所は今後、破損による航路への影響の有無などを詳しく調べる方針。北防波堤は1965年度に着工し、98年度に完成した。総事業費は184億7千万円。

 

 


 

 八戸・種差海岸 第3波の様子撮影

2011年03月22日 朝日

 

11日の津波が国の名勝・種差海岸の天然芝生地に押し寄せた様子を、近くに住む種差観光協会の柳沢卓美会長(62)が写真にとらえていた。午後4時40分ごろに押し寄せた第3波は海水面から5メートルの高さの台地に立つ公衆トイレを洗い、あっという間に壁面の約1メートルの高さにまで達したという。 柳沢さんが生まれて以来、ずっと住んでいる天然芝生脇の自宅は海面から10メートルほどの高台にあり、1960年のチリ地震や68年の十勝沖地震でも津波が自宅近くにまで及ぶことはなかったという。 しかし、今回は第2波の引き潮が異常に早く、見たことのない海底がのぞき、流れてきた漁船が砂浜に取り残されていた。 「これは来るぞ。早く避難しろ」と、外で見守っていた近くの住民らに声をかけたあと、しばらくして第3波が押し寄せたという。「これほどの津波は想像したこともなかった。高さ6メートルぐらいはあったと思う」と話した。(川上眞)

 

11日午後4時38分の八戸市の種差海岸の天然芝生地=同市鮫町、柳沢卓美さん撮影

 


東日本大震災:「訓練が生きた!」 八戸・市川地区、奇跡的に犠牲者はゼロ /青森

毎日新聞 2011年3月25日 地方版

 

 東日本大震災による大津波は八戸市の市川地区で市の想定を超え、避難所の小学校にまで押し寄せていた。全壊家屋は146棟で、市内の7割近くに及ぶ被害。だが死者はなく、町内会では「避難訓練や日ごろの町内会の活動が生きた」胸をなで下ろす。一方で大津波警報に気付かなかった住民や「ここまでは来ない」と逃げない人もいた。【鈴木久美】

 

 

 海岸沿いに住宅街やイチゴ畑が広がる静かな市川地区。原形を残した家も中は泥だらけで、地面から浮き上がったり、天井付近まで浸水したりした住宅もあった。 「昨夏の避難訓練と日ごろの民生委員らの活動が生きた」と、市川地域連合町内会の会長、音喜多市助さん(63)。地区では市や自衛隊、消防などと数百人規模の避難訓練を初めて行った。1人暮らしの高齢者は民生委員や町内会で誘導し、沿岸から約1キロの多賀小学校まで避難した。 市防災危機管理課は「毎年1回の総合防災訓練。市川地区はたまたま昨年だった」と話す。音喜多さんは「半年しかたっていなかったので、住民は地震が来たら多賀小へ逃げる行動が身についていた」と語る。 市川町橋向の民生委員、市川まゆみさん(57)は担当地域が床上浸水の被害に遭い、今も多くが自宅に戻れないという。「訓練通り、お年寄りを車で避難所に運んだ。ただ、『ここまで津波が来たことはない』と、自宅を離れない高齢者もいた」と語る。 八戸市には津波の高さを予測した防災マップがある。市川地区ではこの想定より水が押し寄せて、数百人が逃げた多賀小も襲った。前田英規校長は「水は校舎近くの川をさかのぼり、土手を超えて校庭まであふれた」と、当時の状況を鮮明に語る。 床上浸水は何とか免れたが、避難者は1階の体育館から2階の教室に逃れた。自衛隊が深夜までかけ、数回に分けて八戸航空基地に移した。 前田校長は「町内会や市の職員が手伝ってくれて大きな混乱はなかった」と言う。校庭は土砂が流れ込んで当面使えない状態だ。児童の4分の1に当たる35人が被災。10人以上が避難所で暮らす。 橋向には海沿いに防災無線が並ぶ。しかしスピーカーの音が聞き取りづらく、風向きによっては聞こえないと住民の間で評判が悪かった。 海岸から約500メートルのイチゴ農家の女性(55)は地震後も家の中でパック詰め作業をしていた。仕事から帰った息子が「近くで車が浮いている」と話し、急いで逃げた。外に出ると、近所の人がまだ何人も残っていた。 自宅は浸水を免れたが「防災無線や消防の呼びかけがあった記憶はない。知らないうちに津波が来たと思うと恐ろしい」。別の女性は「無線が何を言ってるかよく分からず、県外からの息子の電話で警報を知った」と話した。 音喜多さんは「以前から無線を改善してほしいと訴えてきた。今後は数を増やすなどして、広い範囲に聞こえるようしてほしい」と強調する。 市は市内の防災無線すべてを来年度から更新する。市防災危機管理課は「聞こえづらい無線があったのは事実。そのために更新する矢先だった」と説明している。 八戸市の防災マップは、マグニチュード(M)8・6の明治三陸地震(1896年)などを想定した県の予測図を基にしている。今回の地震はM9で、この想定を超えていた。 津波の後に市が調べると、市川町の五戸川以南で想定より300〜400メートル内陸側に達していた。市防災危機管理課は「津波避難計画を見直す際には多賀小を外すしかない」としている。【植松晃一】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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3月18日(8時現在)

被害等  沿岸部に家屋等の倒壊、流失が出ています。

人的被害は、現在のところ報告されていません。

堤防を越え道路や周辺を飲み込んだ津波=11日午後4時35分ごろ、階上町の大蛇小付近

 

海岸沿いの道路まで押し流された建物=12日午後0時20分、階上町追越漁港付近  

 

 

津波被害、海辺の建物無惨/階上

2011年3月15日 東奥日報

 

土台だけが残った集会所や1階部分が崩れ落ちた2階建て住居、外壁が抜けて内部がむき出しになった水産加工施設、横倒しになった自販機…。階上町大蛇地区では、地震発生から3日が経過した14日午後、がれきなどを撤去する重機の音が響いた。 大蛇漁港に程近い海辺に建っていた数軒の民家や商店などは全て津波にのみ込まれ、無残な姿をさらしている。 「津波が来るのを高台で見ていたが、沿岸の建物はあっという間にのみ込まれて崩れてしまった。これまで何度も津波を見てきたが、こんなに大きいのは見たことがない」 撤去作業を見守っていた近所の男性(70)が、今も信じられないといった様子で大津波の襲来を振り返った。 男性によると、大蛇漁港周辺は入り江のため、津波の勢いが一つの方向に集中しやすい地形になっており、80年近く前の津波では死者が出たという。「これだけ壊滅的な被害だと地域にとってもダメージが大きいが、人の命が助かったのは何より。時間はかかるだろうが、一日も早く復旧するよう願いたい」 町によると、同町では住宅11軒が半壊し、小屋42軒、大蛇集会所1軒、漁業関連施設22軒が全壊。漁船179隻が流出した(14日午後3時現在)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

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洋野町

www.town.hirono.iwate.jp/

人口 17,844人

20戸全壊
沿岸部に家屋等の倒壊、流失が出ています。  人的被害は、現在のところ報告されていません。  3.18
 死者 0  行方不明 0  避難者 0  家屋倒壊 114 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

東日本大震災:「何度も押し寄せた」岩手県洋野町の津波

毎日新聞 2011年3月12日 19時00分

 岩手県洋野町種市にある久慈消防署種市分署の庭野和義分署長(59)は、11日の津波で民家20戸が流失し、係留中の漁船26隻が津波にのみ込まれるのを分署内の監視カメラで見ていたという。「第2波までは数えられたが何度も押し寄せ、怖かった。津波の渦に引き込まれた漁船には辛うじて浮いているものもあった」。津波は高さ7〜10メートルの水門をも乗り越えたという。第1波が来る直前に避難した漁船41隻は12日も2〜3キロ沖合で一列に並んで待機した。

 

 


 

  【被害状況】(3月22日 午後5時現在)

 ・死者 なし

 ・負傷者 なし

 ・行方不明者 なし

 ・建物被害(住家)

   全   壊   5棟

   半   壊  15棟

   床上浸水   2棟

   床下浸水   8棟

 ・船舶 

   流出及び破損 98隻

 ・その他

   大浜川鉄橋流失、漁港施設損壊、防波堤損壊、道路冠水、定置網流出、養殖アワビ流出など

 

 

【避難所】

  洋野町内の避難所は、全て閉鎖しました。

 

【ライフライン】

 ・水  異常なし

 ・電気 一部停電(107戸(非住家のみ))

 ・ガス 異常なし

 ・電話 一部つながりにくい

 ・鉄道 JR八戸線運休(代替バスなし)

      復旧の見通しはありません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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久慈市

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役所:海岸から 1,500m

36,600人  (推計人口、2011年1月1日)

津波8・6メートル 気象庁 4.5

3人 / 3月23日

82戸全壊

石油備蓄基地の地上設備が大破

死者 2  行方不明 2  避難者 0  家屋倒壊 896 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

 

【被害状況】

○人的被害(※3月23日現在 消防防災課調べ)

・死者 3人

・負傷者 7人(※救急搬送者のみ)

・行方不明者 2人

○建物被害(非住家含む)(※3月23日現在 消防防災課調べ)

・全壊 218棟

・半壊 86棟

・床上 396棟

・床下 175棟

○船舶 572隻(※3月16日現在 林業水産課調べ)

 

 

【ライフライン】(※3月23日18:00現在)

○下水道

 久喜地区の下水道は復旧の見通しがたっておりません。

○電気

 長内町の一部、侍浜町の一部、湊町の一部、宇部町の一部の約30戸で停電中です。

 

  

多くの皆様に愛されてきました『もぐらんぴあ』は、東北地方太平洋沖地震で発生した津波により建物が全壊いたしました。今のところ再開の目途は立っておりません。

これまでご愛顧いただきました皆様をはじめ多くのお客様、関係者の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご了承いただきますよう、よろしくお願い申し上げます

 

 

 

 

 

 

撮影日時    2011/03/12 14:27

東日本大震災 岩手・久慈市では石油備蓄基地や地下水族館などが崩壊

03/20 15:06 FNN

 

東日本大震災で、岩手・久慈市では石油備蓄基地が壊れるなど大きな被害があった。久慈市侍浜町にある石油備蓄基地には、日本の消費量の3日分、岩手県で換算すると1年分もの石油が格納されている。石油の流出はなかったが、建物は全壊し機能していない。そして、この石油備蓄基地の正面には、日本初の地下水族館として17年前にオープンした「もぐらんぴあ」があるが、こちらも壊滅した。ここは、もともと石油基地として掘る際に利用していたトンネルを再利用して使っていて、地下に降りると250種類、3,000匹を超える魚やサンゴが飼育されていた。およそ6億円をかけて建設され、年間5万人前後が訪れる久慈市随一の観光拠点だったが、現在は倒壊の危険があるため、市の職員も中に入ることができず、手つかずの状況となっている。魚は津波にのまれてしまった可能性が極めて高く、仮に津波そのものから逃れていても、電源施設などが機能していないため、全滅してしまったとみられている。久慈市商工観光課主事の中村有賀さんは「小さい水族館ながらも、愛着を持って活動してきたスタッフと、ファンの方もいらっしゃいましたので、そういった方の期待に沿えれば」と語った。久慈市でも150軒近くが全半壊するなど深刻な被害が出ているため、現在はがれきの撤去や道路の確保などが優先的に行われている。しかし、いずれ復興というものが現実的になってきたときに、こういった観光拠点や街のシンボルといったものをどう再生していくか、被災地では難しい選択を迫られている。

 

 

 

 


 

 「北限の海女」犠牲者ゼロも…海の環境一変  久慈市

2011年3月25日 06:00 スポニチ

 

「北限の海女」で知られる観光地・岩手県久慈市の小袖海岸も津波の大きな被害を受けた。昨年新築したばかりの観光拠点「小袖海女センター」は建物が流されてコンクリートの基礎だけの姿になり、海には油が浮き、流された船や重機が海底に沈むなど環境が一変した。素潜り漁の実演が人気だった約20人いる海女には幸い犠牲者はいなかったが、海女歴30年以上の中川やえ子さんは「まさかこんなことに…。海が変わっているだろうし、潜るのはおっかない」と不安げに話した。

 


 

広報 くじ 【災害緊急特集号】 平成23年4月1日号

 

  「ほれ! 来たぞ!」 大きな声が飛び交い、避難者が一斉に海を指差しました。大尻方面で、波が岩にぶつかり大きなしぶきを上げているのが見えたのです。 「何でえ、ありゃあ!」 正面に目をやると、むくっと海面全体が盛り上がっていました。単に大きい波とは明らかに違う異様な変化。これが津波のはじまりでした。 湾口防波堤を越えて押し寄せてくる津波。海の端から端まで全体が大きな白い壁となって、まちに襲い掛かってきました。 海岸に逃げ場はなし。なす術もなし。漁港や漁船、北日本造船などの工場、大型作業車、自家用車などが、あっという間に波に飲み込まれていきました。

 

 


もぐらんぴあのカメ命拾い 20匹、八戸の施設へ  久慈市

(2011/04/08) 岩手    

 

 津波で被災した久慈市侍浜町の地下水族科学館もぐらんぴあ(山崎毅館長)で、人気のアオウミガメなど20匹が生き残っていたことが確認され、7日、八戸市内の施設にすべて引き取られた。もぐらんぴあの復旧のめどは立っていないが、職員らは「(再建への)希望が残った」と安堵(あんど)し、大切な海の生物を託した。 もぐらんぴあでは、およそ200種類3千匹の生物を飼育していたが、生き残ったのはアオウミガメやオウムガイ、カブトガニなどわずか20匹。津波で水槽は壊れなかったが、停電で水を浄化するための設備が停止し、多くが犠牲になった。 アオウミガメは数年前に飼育を始めて以来、施設で子どもたちの1番人気。震災から1週間後、元気な状態で発見されたが、最近は動きが少なく、目を少し開く程度だったという。爬虫(はちゅう)類のカメは肺呼吸するため、水槽上部の空気を吸って生き延びたとみられる。 同日は、八戸市水産科学館マリエントの吉井仁美館長らがもぐらんぴあを訪れ、生物を引き受けた。吉井館長は「皆さんの働きを無駄にしないよう大事に育てたい。再建された際に元気な姿でお返ししたい」と話した。 もぐらんぴあの指定管理者あくあぷらんつの宇部修代表取締役は「多くの魚を救えなくて残念だったが、(20匹には)生き残ってもらい、次につながれば救われた気持ちになる」と、生物の体力回復を願う。

震災を生き延び、八戸市内の施設に引き取られるアオウミガメ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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野田村

人口 4,618人

役所:海岸から 800m

www.vill.noda.iwate.jp/  (Internet Explorer ではこのページは表示できません 3.27)

野田村で36人 / 3月25日       死者38名/ 3月29日不明者0名

200戸全壊

旭町や本町は壊滅的  (津波は地震後に水門を閉めてすぐやってきたそうです)

役場も一階 壊滅

死者 37  行方不明 0  避難者 402  建物被害 200以上 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

 

 

野田村の海岸では、古くから製塩が行われていました。製塩は”直煮(じきに)出し”という大変な重労動で、苦労して作られた塩は大切な商品でした。

Noda village, Iwate prefecture 

2011/03/16 13:15 愛宕さんの大鳥居周辺

2011/03/17 10:45

 


 

主家の娘を救うた忠犬 

昭和三陸地震 1933年(昭和8年)3月3日  岩手県昭和震災誌

九戸郡野田村にあつた忠犬の報恩物語である。その主家である大澤シキさん(二三)は、不意の強震にびつくりして家族と一緒に表へ出たが、地震の熄んだ後は、復た元の靜けさに返つて、普段に變らぬ浪の音ばかりが眞ッ暗な夜の帷の中に聞えてゐた。外は小雪がちらついて肌を刺すやうな寒さである。家に入つて炬燵に凭れ、いつかうとうとと眠りに入りかかつた頃、遠雷のやうな音につれて津浪が押し寄せて來た。
「津浪だッ!」。彈かれたやうに跳ね起きて表へ驅け出たが、餘りの恐ろしさに度を失つてバラ藪の中に迷ひ込んでしまつた。暗さは暗し、もう行くも戻るも出來ない、岩を噛む凄まじい浪の音はすぐ背後に迫つて、今はもう進退きはまり聲の限り泣き叫んでゐた。と此の時「ヨヅ」といふ飼犬が、シキさんの着物の裾を啣えへて激しく引っ張るのである。引かれるまま殆ど無我夢中で驅け抜け、やうやう安全な場所に着いた。最後の一歩を退いた瞬間にはもう滔々たる濁浪が足元の低地一面に氾濫してゐた。主人の娘の危難を救うた忠犬「ヨヅ」は、前年の秋惡い狩人の手にかかつて窒死し、獵刀で胸部を裂かれた時、蘇生してその狩人に噛みつき驚いてゐる間に遁れて歸り、家人の厚い手當に依つて再生した猛犬であつた。

 


 

野田村まるで焼け野原/未曾有の大津波

2011/03/14 09:08 東北新聞社

 

浜風の吹くのどかな漁村が、未曾有の大津波にのみ込まれた。東日本大震災で約50人の死者、行方不明者を出し、岩手県北で最大の被災地となった野田村。地震発生から2日後の13日、数百戸の住宅が全壊した同村野田地区には他県からレスキュー隊や自衛隊が集結し、行方不明者の捜索に全力を挙げた。同地区の中心部にある村役場から海寄りの住宅地は狆討洩邯境畩態。メーンストリートは崩壊した家屋のがれきや自動車、土砂などで埋まり、住民らは変わり果てた村の姿を目の当たりにし、絶望感に打ちのめされていた。

 

 11日午後3時半すぎ、村民の運命が変わった。村や住民らによると、襲来した津波は、高さ約8メートルの防潮堤を乗り越えた後、防潮林をなぎ倒し、国道45号を越えて一気に流れ込んだ。住宅を破壊しながら押し寄せる津波は、海から約1キロ離れている野田地区の中心部にまで到達した。 近くを流れる宇部川は、河口から野田橋までの約600メートルが家屋の残骸で埋め尽くされた。通りには泥まみれとなった車や家具も横たわり、村役場の玄関は車と家屋でふさがれた。全壊を免れた建物には、壁の高さ約3メートルの部分に津波の痕跡が残されていた。 村役場近くに住む無職大澤徹さん(74)は、自宅を出ると既に津波が間近まで押し寄せており、急いで村役場に避難した。「入り口を探しているうちに濁流に襲われ、腰まで水につかったが、塀にしがみついて何とか助かった」と恐怖の瞬間を振り返った。 村内では、学校や公民館など11カ所の避難所に約800人が身を寄せている。寺に避難した無職の男性(69)は自宅が全壊、兄が行方不明といい、「食料や毛布も足りず、心も体もぼろぼろ。早く落ち着ける場所に行きたい」とつぶやいた。 野田地区には、親類や友人の安否を確認するため、近隣の自治体から大勢の人々が駆け付けた。友達が行方不明と知り、久慈市から来た女性(72)は「こんな形でお別れなの…。たとえ、どんな形でもいいから会いたい」と涙をこぼしていた。

 

 

3.14 Youtube

 

 


東日本大震災:NZ女性 岩手・野田村で復興信じて汗

 毎日新聞 2011年3月25日 11時04分

村役場に届いた救援物資の荷降ろしをするジョージア・ロビンソンさん(左)=岩手県野田村で2011年3月22日、堀江拓哉撮影 

「野田の復興を手助けしたい」。東日本大震災で被災した岩手県野田村で、ニュージーランド出身の女性ALT(外国語指導助手)、ジョージア・ロビンソンさん(24)が、支援物資の荷降ろしなどに奮闘している。2月に自国のクライストチャーチ周辺で起きた地震に続き、大きな衝撃を受けた。だが、ここにも仲が良く、強い村人たちがいる。大好きな村の復興を信じ、汗を流している。 クライストチャーチの北約250キロのネルソン出身で、09年7月から村の学校で英語を教えるALTを務めている。伯父がクライストチャーチの市中心部で働いているが、2月の地震では、難を逃れたという。幼いころから何度も訪れた街だけに、「本当にショックだった」。英語を学ぶ日本人学生も多数犠牲になり、「家族にとっても、遠く離れた場所で子供を失うのは本当に痛ましく、気の毒だと思う」と思いやる。 震災があった11日は、村教委が入る役場に隣接する建物にいた。「揺れが大きくなり、クライストチャーチのことを思った」という。津波は1階に押し寄せ、他の場所に逃げる余裕がないまま2階に駆け上がった。家や車が流される様子を目にし「マイ・ノダ(私の野田が)……」と言葉を失った。11日夜は余震に震えながら村教委に泊まり、翌日から役場前にたまった泥を取り除くなど精を出している。 来年夏まで村でALTをする予定で、その後は母国で小学校教師を目指すという。「野田の人たちは助け合うし、仲が良く、強い。だからきっと新しい野田、美しい野田を復興できると信じているし、自分も手助けしたい。クライストチャーチもきっと、それに続ける」。荷降ろしの手を休めず話した。【堀江拓哉】


 県警機動隊、岩手派遣 消えた村・必死の捜索 野田村

 2011年3月29日(火) 茨城

 

雪と泥の中「被災地のために

東日本大震災を受け、被災地の岩手県野田村に派遣されていた関東管区機動隊の第3中隊が県警に戻り、28日、杵淵智行本部長に活動内容を報告した。余震が続き、雪が舞う中、行方不明者の捜索に全力を尽くした萩野谷剛中隊長(44)らは茨城新聞の取材に対し、「見渡す限りがれきの山。町が完全に消え、言葉を失った。想像を絶する現場」と活動を振り返った。同隊は20日早朝、大型バス7台に54人が分乗し本県を出発。緊急車両として常磐自動車道と磐越自動車道を走行したが、到着したのは午後6時。道路の損傷に苦しんだ。

 

燃料調達も困難を極めた。サービスエリアの給油所は営業しておらず、燃料が減るたびに一般道に降り、地元警察署の情報を頼りに給油所を探した。21日午前8時。行方不明者の捜索を開始した隊員たちの前に立ちはだかったのは、倒壊した家屋の山だった。家中敏夫小隊長(36)は「足の踏み場もなく、どこから手を付けていいのか分からなかった」と衝撃を受けた。10メートルを超える大津波に襲われた村は、全てが破壊されていた。最初に案内された建物の屋上から見た光景はまさに「地獄絵図」。海岸沿いの堤防が決壊して大きな口を開き、高さ20メートルの松が根元からなぎ倒されていた。山形雅紀小隊長(38)は、がれきの山となったわが家の前でぼうぜんと立ち尽くす人を見た。「何も言えなかった。残された写真を拾う姿は胸に迫るものがあった」という。同県内は朝の気温がマイナス3〜5度。雪が降り、足を滑らせる隊員も多かった。積もった雪が翌日溶けるため、泥だらけの作業を強いられた。遺体を初めて見つけたのは、大津波の前に避難所になっていた場所だった。目撃情報を基に木材や車両を重機で動かし、最後は素手でかき分けた。「いたぞ」。家中小隊長が叫び、隊員を呼んだ。掘り起こした70代の男性はがれきの山から右手首を突き出していた。それは助けを求めていたように見えた。男性は苦しそうな表情を浮かべ、立ったままの姿勢だった。萩野谷中隊長は夢中で作業をする隊員の姿が目に焼きついている。「これまでに経験のない悲惨な現場だった。この経験を今後の警察官活動に生かしたい」と静かに語った。隊は来月、再び被災地を訪れる可能性がある。山形小隊長は「長期的に見て被災地の力になれることがあるはず」と力を込める。家中小隊長は「現状を現実として受け止め、これからも手助けしたい」と意を決するように語った。

 

 


 

優しかった友、遺体で 「先帰ってごめん」

毎日新聞 2011年3月29日 2時32分

 

 東日本大震災で津波の被害を受けた岩手県野田村で、行方不明だった県立久慈工業高校2年生の内野沢美里(うちのさわ・みさと)さん(17)が28日、村内の川から遺体で発見された。心配して車で迎えに来た伯父の深渡(ふかわたり)守さん(42)と車で下校中、津波に巻き込まれた。「みんないるのに、先に帰ってごめんね」。友人へのメールを最後に行方が分からなくなっていた。 バスケットボール部マネジャーだった内野沢さんは地震発生時、部活動で学校の体育館にいた。自分の子どものようにかわいがっていた深渡さんは家に送ろうと駆け付けた。津波が到達する直前、バスケ部の友人に届いた絵文字入りのメールに人柄がにじむ。自分のことより人のことを案じる性格だった。 母めぐみさん(39)は「人の痛みに敏感な子。(8月6日などの)原爆の日には必ず黙とうするんです。『悲しい目に遭った人がたくさんいるから』って」。圧倒的に男子生徒が多い工業高校で生徒会議長を務め、「年2回の生徒総会では、235人の生徒を取り仕切っていました」と教員は振り返る。不登校の生徒に声をかけるなど「みんなに優しい。だから、本当にしんどい」と同級生(17)は声を振り絞る。

 

 

野田村では28日に内野沢さんを含む最後の行方不明者2人が見つかり、死者は38人になった。内野沢さんは村内の学校に通う小中高校生で唯一津波に巻き込まれ、教員や同級生、地元で隣村の普代村の消防団員も参加して捜索したが、悲しい結末となった。内野沢さんは遺体安置所となっている同校体育館に運び込まれ、延期されていた29日の終業式を仲間と共に迎える。 兄と次女を失っためぐみさんは、肩を震わせながら気丈に話す。「海に流されていなくて本当に良かった。みなさんには懸命に捜していただいて本当に感謝しています。美里の分まで復興に向けて頑張ってほしい」【尾垣和幸、堀江拓哉】

 


津波爍浬鼎諒畢畴砲

(2011/04/03 14:30) cgi.daily-tohoku

 

 東日本大震災で甚大な被害を受けた野田村では、大津波が海沿いの防潮堤と防潮林、三陸鉄道の線路が上部に通っている内陸側の防潮堤の爍浬鼎諒畢瓩鯑佑破り、海岸から約1キロ離れた中心部までの街並みを破壊した。最も海側の防潮堤は、長さ約720メートル分が全壊。小田祐士村長は2日の取材に「村を復興させるためには高さ15〜20メートルの防潮堤が必要だ」として、国や岩手県に要望していく方針を明らかにした

大津波で大破した海側の防潮堤=2日午後1時50分ごろ、野田村野田

 


東日本大震災:「まだ、お供えできない」 村民守った消防団員の妻−−岩手・野田

毎日新聞 2011年4月4日 東京夕刊

 

 東日本大震災の津波の被害を受けた岩手県野田村で、人気店「はまなす食堂」を経営していた佐藤隆幸さん(53)は、店を飛び出して消防団の車で避難を呼び掛け、消防団員として村民の命を救ったが、自らは津波にのまれた。3月23日に遺体で発見された。孫たちに「あの車に乗っているおじいさんはかっこいい」と言われていた赤い車は大破して見つかった。 妻美紀子さん(57)は車を見つめ「この車で夫は一番輝いていました」と振り返る。 海の近くに建ち、海岸に咲く花の名前をつけた食堂は、景色の良さと新鮮な魚介を使った料理が評判で、雑誌などにも取り上げられた。 地震発生時、佐藤さんは美紀子さんと食堂で働いていた。「みんな会社だから(団には)俺と団長しかいねえ」。そう言うと、佐藤さんは2人の客を残して店を飛び出した。野田村消防団第8分団の団員で、地震や火事ではすぐに駆け付けるのが習慣だった。 佐藤さんの呼び掛けで助かった人もいる。近藤勝利さん(73)は自宅で佐藤さんの声を聞いた。「大津波が来る」。裏山に避難した直後、大きな津波が自宅と佐藤さんをのみ込むのを見たという。 佐藤さんは「消防署に任すのではなく、村は自分たちが守る」という意識が強かった。 次女朱(あけみ)さん(25)は「『(火事を)消してきた』といつも誇らしげで」と振り返る。ただ美紀子さんには不安があった。「消防団では津波の時、いかに村民を避難させるかを話し合っていた。でも、津波の時は団員だって危ないんじゃないのと思っていた」。だが、意気込む夫にそう言えなかった。津波は食堂を押し流し、父で先代経営者の勝雄さん(81)の命も奪った。 佐藤さんは近く、初めて東京ディズニーランドに行くはずだった。客の送迎用のマイクロバスを使い、3人の孫を連れて遊びに行く計画を立てていた。このバスも食堂のそばで壊れて見つかった。 佐藤さんが避難を呼び掛けた消防団の車は数百メートル流されて見つかった。「あの人がいた運転席は、やはり見ることができません。今はまだ、供えられないですね」。持ってきた白い菊の花を手に、美紀子さんはうつむいた。【尾垣和幸】

 


心の中で生きてゆく親友へ 岩手で被災17歳女子高生、胸に誓う 

'11/4/5 中国新聞

 

岩手県野田村にある県立久慈工業高3年松葉まつばさくらさん(17)=岩手県普代村=は、東日本大震災で、幼いころからの親友内野沢美里うちのさわ・みさとさん(17)を失った。「これからは1人になっちゃうけど、美里が笑顔でいられるように、頑張らなくちゃ」。高校の女子でただ1人のクラスメートだった。 美里さんは3月11日、伯父の乗用車で高校から帰宅途中、津波に巻き込まれ、28日に野田村の川近くで見つかった。伯父も亡くなった。 同じ村で育ち、幼稚園、小・中学校も一緒。高校のクラスは、男子21人に対し女子は2人。先生は気を使って机を並べてくれた。ともに男子バスケットボール部マネジャー。一緒に笑い、泣いて、励まし合ってきた。 地震当日、さくらさんは朝から熱があり、バスケ部に顔を出せなかった。美里さんが行方不明になっていると知ったのは4日後。携帯電話もつながらない。 ガソリンが切れ、家の車は使えない。行方不明になったという約15キロ先の現場まで徒歩とヒッチハイクでたどり着いた。

 

 「あんなに精神力が強い美里が死ぬわけがない。負けるわけがない」。顔も手も膝も泥まみれになり、一日中、夢中でがれきの山を捜し回った。 舞い上がる土ぼこりでマスクは何度取り換えても真っ黒になる。それでも見つからない。悔しくて涙がにじんだ。 美里さんは勉強もでき、女子が2割しかいない高校で生徒総会をまとめる議長に選ばれるほどの人気者だった。 頼ってばかりだった。苦手だった測量の授業で、良い点が取れたのも彼女のおかげだ。 「地震の時、わたしがそばにいれば、家に帰るのを止められたんじゃないか? 助けてあげられたんじゃないか…」。そんな思いが頭から離れなくなった。 3月末、全校集会で美里さんの死が報告された。クラス担任両角誠司もろずみ・せいじ先生(38)がこう言った。「美里を勝手に(記憶から)殺すな。美里はここにいる。クラスの23人全員で来年卒業しよう」 そのとき気付いた。 「どんなに苦しいときも、美里は笑って『何とかなるさ』と言ってくれた。美里を悲しませるようなことをしちゃいけないんだ」 マネジャーに休みはない。ゼッケンの洗濯に飲料水の準備、タイム計測、ボール出し入れ―。これからは全部を1人でやらねばならない。 でも、心の中で生きてゆく親友がきっと支えてくれる。

【写真説明】津波で亡くなった親友、内野沢美里さんの写真を手に取る松葉さくらさん=3月31日、岩手県普代村

 


 

 いま、あなたの宝物は何ですか?

昆睦子さん・39歳・岩手県野田村・財布に入れている祖母の写真。山田町にある自宅は流され、祖母も亡くなった。写真は、祖母宅のがれき撤去中に自衛隊員が手渡してくれた。「遊びに行くといつもジュースをくれました」=2011年4月14日、小川昌宏撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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普代村

人口 3,075人

www.vill.fudai.iwate.jp/ (震災関連更新無し 3.27)

役所:海岸から 1,700m

倉庫172戸全壊

死者はゼロで、行方不明者は1人   (3.26)

死者 0  行方不明 1  避難者 1  家屋倒壊 0 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

 

 

東日本大震災:「生きていると信じて」弟の漁師、兄が知人らと捜索−−普代村 /岩手

毎日新聞 2011年3月15日 地方版

 

 消防庁の12日午後11時現在の発表で、14人が行方不明になっている普代村。村内の堀内地区に住む山崎由雄さん(68)も、弟で漁師の岩男さん(61)が近くの漁港に向かったまま、行方が分かっていない。港付近では、津波で大破したとみられる岩男さんの軽トラックが見つかったが、山崎さんは「絶対に生きていると信じたい」と、余震が続く中、知人らと連日捜索を続けている。 山崎さんによると、岩男さんは地震直後、自分の漁船の様子を見るため、近くにある堀内漁港に向かった。だが、11日夜になっても帰宅せず、今も行方が分かっていない。何度も余震が起きる中、山崎さんは翌12日から漁港に向かい、岩男さんを探した。 捜索に向かった漁港は、係留されていた100台近くの漁船がすべて水没し、荷捌(さば)き場や以前使われていた木造の加工施設などが崩壊。周囲には漁具や流木などが足の踏み場もないほど散乱していた。港の背後にある林の斜面は、10メートルほどの高さまで地面が海水で黒く染み、木々には浮きや網が引っかかっていた。津波を高台から見ていた山崎さんの知人男性(62)は「波の壁が、あっという間に港をのみ込んでしまった」と当時の様子を話した。

 

 港脇の道路では、岩男さんが普段乗っていた軽トラックが見つかったが、原形をとどめないほど車体がひしゃげ、横転していた。近くからは、岩男さんが当日着ていたズボンも見つかったという。 付近では、養殖ワカメの収穫を3月下旬に控えていた。父親の跡を継ぎ、20代半ばで漁師になった岩男さん。山崎さんは「ワカメの収穫に備え、弟は体力を充電している時期だった。まさかこんな大津波に遭うとは」と、悔しそうに話した。13日の捜索で見つかった岩男さんの車のナンバープレートを脇に抱えながら、山崎さんは「状況を考えると不安が増すが、なんとか早く弟を見つけてやりたい」と話し、いつまでも海を見つめていた。【村松洋、小坂剛志】

 

 

 


東北一の水門、村守る 津波被害最小限に 岩手・普代村

2011年03月26日 河北

津波の勢いを止め、岩手県普代村の中心部を守った普代水門 

 

 岩手県普代村では「東北一」とも言われる普代水門が、村内の津波被害を最小限に食い止めた。 普代水門は高さ15.5メートル、幅205メートルのコンクリート製。1984年、普代川河口から約300メートル上流に設置された。 村によると、今回の津波の高さは20メートルを超えたが、地震直後に久慈消防署普代分署が遠隔操作で普代水門を閉めたため、水門の上流200メートル付近の河川域で止まったという。 村内の震災被害は25日現在、死者はゼロで、行方不明者は1人。漁業関係の施設は被害を受けたが、住宅被害は床上浸水1棟にとどまった。 普代村では明治三陸大津波(1896年)で1010人の死者・不明者が出た。深渡宏村長は「水門のおかげで村民の生命財産が守られた。漁業施設の再建に全力で取り組みたい」と話した。(野内貴史、古賀佑美)

 


 

 沿岸南行記:津波被災地より 岩手県普代・27日 津波怖いが、漁は続ける

毎日新聞 2011年3月28日 東京朝刊

 

 青空の下で、岩手県普代村の太田名部(おおたなべ)漁港は静かだった。出入りする大小約400隻の漁船のうち残ったのは数十隻、と地元の人々は言う。帰港した漁師が集う2階建ての「番屋」は辛うじて原形をとどめていた。11年前、熊谷(くまがい)実さん(64)らサケ漁師に取材後、豊漁の祝いの席に加えてもらった場所だ。 熊谷さんは自宅から高台に逃げ難を免れた。夢に出てくるほど津波は怖いが、漁は続ける。「漁師が最初にやらねえば、加工も仲買人も商売になんないしな」。仲間や家族をまず案じる人だ。福島の原発に近い茨城県に住む三男一家も気遣う。

 

 三陸の暮らしを支える漁港は各地で壊滅的な被害を受けた。人口約3600人のこの小村も同じだ。それでなくとも、ベテランは去るが若者は加わらず、当時30人いたサケ漁の仲間は20人に。近年は不漁で、150万円近く年収が落ちている。 刻んだ昆布を手みやげにと渡された。00年10月の取材でも、高級品なので固辞したサケを冷凍して後日送ってくれた。「漁師は気は荒いが根は優しい。余分にあったら分けてやる。そういうもんだ」 4度の寒さ、がれきのほこりで、沿岸に入ってから鼻声になった。次の目的地・隣の田野畑村でもマスクは手放せそうにない。【工藤哲】

 

1階が被災した番屋の前に立つ熊谷実さん=岩手県普代村の太田名部漁港で2011年3月27日午前9時10分、工藤哲撮影
サケの水揚げを取材した後、豊漁を祝う席に加えてもらった=岩手県普代村の太田名部漁港の番屋2階で2000年10月撮影

 


家は残っても地獄」 漁師ら悲痛な声 久慈市 普代村

2011.3.28 岩手

 

「家は残っても地獄」。沿岸北部の漁師が悲痛な声を上げている。津波によって港に停泊する船のほとんどが流され、魚市場や荷さばき施設は壊滅的な打撃を受けた。漁師たちは生計を立てるすべをなくし、喪失感や今後の生活への絶望感は計り知れない。基幹産業の再生は、漁業者の元気をどう取り戻すかが鍵になりそうだ。 「新しく船を造りたいという希望が30隻ほどしかないんですよ」。久慈市漁協小袖漁業生産部の村塚繁好部長(64)は少し落ち込み気味で話す。震災前は約100隻の漁船が同生産部に所属していた。 津波は同生産部が拠点とする久慈市宇部町の小袖漁港に壊滅的な打撃を与えた。漁具の倉庫や魚の荷さばき所は大破。観光のシンボルの海女センターまでのみ込んだ。残った漁船は数隻。使えるかどうかは分からない。 「まだ先のことを考えるのも…。みんな気持ちの整理ができていない。借金を重ねるのを嫌って、漁をあきらめる人も出てくるのではないか」。村塚生産部長は無力感を漂わせる。

 

 普代村の太田名部漁港も、甚大な被害を受けた。多くの漁船や漁具が流失した上、魚市場や村漁協の加工場もひどく壊れた。同村全体で約600隻あった漁船は、約50隻が残るのみ。こちらも使用できるかは不明だ。多くの漁具を失った同村のイカ釣り漁船の船主合砂時雄さん(48)は「船が残ったのはいいけれど、これから数カ月は無収入になる。どう食べていけばいいのか。明日が見えない」と不安は大きい。 県北広域振興局によると久慈、洋野、野田、普代の4市町村の漁船は、少なくとも9割が流失または損壊した。加えて漁港には壊れた船が沈み、安全に航行できない箇所も多い。

 


 

 岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮

2011/03/31 ケンプラッツ

 

三陸海岸に面した普代村は、普代川に沿って中心部を形成している。1896年に発生した明治三陸大津波では、1000人以上の死者や行方不明者を出している。この明治三陸大津波を対象に、普代川の河口から約300m上流に建設したのが普代水門。水門の高さは15.5mで、長さは約200mとなっている。岩手県が高潮対策事業の一環で総事業費35億6000万円をかけて建設した。完成したのは1984年。  普代水門は遠隔操作で水門の開閉をできるようになっているが、操作中に地震の影響で停電。一部を久慈消防本部の職員が手動で操作して、津波の到達前に水門を閉めた。  津波は到達時に水門を越えたものの、水門から約200m上流付近で停止。水門の上流側に設けた管理用の橋が破損したが、住宅などに浸水の被害はなかった。

 

さらに同村の太田名部地区では、太田名部防潮堤が効果を発揮した。同防潮堤は高さが15.5mで、長さが約130m。1970年に完成した。津波は防潮堤の高さ約14mの位置で止まり、背後の集落に被害はなかった。  普代村では住宅への浸水被害はなかったものの、水門や防潮堤の下流側で水産加工場が全壊するなど、漁業施設に大きな被害が出ている。行方不明となっている1人について同村は、「船を心配して海岸側に向かったときに被災したのかもしれない」と話している。

普代水門から見た下流側の様子。3月14日午後1時22分に撮影

3月20日午後3時57分に撮影した普代水門。下流側からの様子

 


 

 明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手

2011年4月3日22時05分  読売新聞

 

津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

 

太田名部漁港(手前)と、防潮堤が機能して被害を受けなかった太田名部地区(奥)

 



巨大防潮堤/石碑「ここより下に家建てるな」 先人の知恵 住民守る 岩手の2地域 津波 集落に届かず

(04/07 09:26)北海道

 

東日本大震災の大津波に襲われた三陸沿岸の自治体で、先人が残した防災の知恵を受け継ぎ、被害を免れた地域があった。1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後、高さ15メートルを超える巨大水門を建造した岩手県普代(ふだい)村と、石碑に刻まれた教えを守り、住居を高台に移した同県宮古市姉吉(あねよし)地区。壊滅的な被害に見舞われた沿岸部の中で、両地域では住民の命が守られ、住宅被害もなかった。  普代村で津波被害を防いだのは、普代川の河口と市街地を隔てる全長205メートルの「普代水門」と、漁業者の集落と港の間に建つ全長155メートルの「太田名部(おおたなべ)防潮堤」。高さは、いずれも海抜15・5メートルある。 「命があるのは防潮堤を造った先々代の村長のおかげだ」。防潮堤近くに住む漁業太田文吾さん(78)は感謝する。津波は防潮堤の8割程度の高さに達したが、集落には「海水が一滴も流れなかった」(村災害対策本部)。普代水門を襲った津波は水門を越えたが、約1キロ離れた市街地まで届かなかった。 防潮堤の外側にあった漁船や港湾施設など漁業被害は大きく、船の様子を見に防潮堤の外に出た住民1人が行方不明となった。しかし、村内にいたそのほかの村民3千人余りは全員無事で、1118世帯には浸水もなかった。  水門と防潮堤の総工費は合わせて約36億円。それぞれ84年、67年に完成した。県の事業で総工費の1割程度が村の負担。周辺自治体は「まちの景観を損ねる」などとして同じような防潮堤の建造を見送り、村民からも「そんなに大きなものが必要なのか」と反対の声が上がった。  だが、村では1896年(明治29年)、1933年の三陸大津波で計439人の死者を出した。先々代の故和村幸得(わむらこうとく)村長(在任47〜87年)は「いつか理解してもらえる」と意志を貫いた。当時、建設課職員だった深渡(ふかわたり)宏・村長(70)は「和村村長は正しかった。たいへんな財産を残してくれた」と話す。  

 

一方、宮古市姉吉地区では、港から約700メートル内陸にある石碑が、12世帯約40人の住民の命を守った。「此処(ここ)より下に家を建てるな」。石碑に刻まれた教えに従い、住民たちは全員そこよりも高台に居を構えていた。  同地区の住民はかつて海岸沿いで暮らし、過去の大津波で大きな被害を受けた。生存者は明治の津波でわずか2人、昭和の時は4人だったという。石碑は昭和の大津波後に住民が建立し、以後、住民は石碑の教えに従ってきた。  東日本大震災後に同地区の現地調査を行った岩手県立博物館の大石雅之・首席専門学芸員によると、今回の津波は同地区の最も高い所で海抜約40メートルにも達したとみられる。波は漁船や作業小屋をのみ込みながら集落へと続く坂道を駆け上ったが、海抜約60メートルにある石碑の手前50メートルほどの地点で止まった。  石碑には「幾歳(いくとし)経るとも要心(ようじん)なされ」とも刻まれている。同地区の漁業川端隆さん(70)は「石碑がなかったら、津波の怖さを忘れてしまっていたかもしれない」と話した。(東京報道 水野富仁、報道本部 徳永仁)

 

 


 

 集落守った水門、一時危険な状態…長岡技科大・犬飼助教ら調査

2011年4月21日  読売新聞

 

長岡技術科学大学(新潟県長岡市)の犬飼直之助教(海岸工学)が今月2〜5日、東日本大震災で被災した、青森県八戸市から岩手県陸前高田市にかけての沿岸部を訪れ、津波の被害状況を調査した。 その中で、15メートル超の十分な高さで集落をしっかり守ったとされる、岩手県内の水門が、実は津波に乗り越えられ、危険な状態にさらされていたことが明らかになった。犬飼助教は「自然に絶対はない。どんな備えをしていても、その想定を超える災害が襲うことを念頭に、住民の命をいかに守るか、考え直すべきではないか」と指摘している。 犬飼助教は津波の発生メカニズムなどの研究が専門で、今回の震災では、津波が陸地に押し寄せる様子を計算で再現したり、押し流された漂流物の拡散の仕方を調べたりしている。 今回の現地調査は、八戸工業高等専門学校の講師らとのチームで実施。4日午後には岩手県北部の普代(ふだい)村沿岸部を訪れ、津波の痕跡を調べた。 その中で、今回、普代村に被害が及ぶのを防いだ、高さ15・5メートルの水門を、津波が2メートル越えていたことが判明した。 水門は、1984年に完成。この高さは、当時の村長が、過去の津波被害を教訓に、必要だと強く主張したという。1960年のチリ地震津波被害を防いだ他地区の防潮堤より5メートル以上高く、十分過ぎるとの見方もあった。

 

 ところが、今回の調査で、水門裏の道路が破壊され、水門脇の斜面は、高さ約2メートルにわたって草木がなぎ倒され、削られていたことがわかった。津波は水門がある普代川をさかのぼったと見られ、遡上(そじょう)の痕跡は約1キロ・メートル先の河川敷に達していた。 犬飼助教の分析では、岩手県北部沿岸を最大の津波が襲ったのは、第2波以降の3月11日午後4時頃。水門を越えたのは、最大波がが押し寄せた約数分間だったとみられる。 水門や堤防を水が乗り越えた際は、裏側から崩れることが多く、犬飼助教は「もう少し波が高く、時間が長ければ、水門が耐えきれずに一気に崩壊した可能性が高い。すぐ裏には小中学校があり、そうなればより多くの悲劇が起こっていたはず」と話す。 一方、同じく高さ15・5メートルで、同村太田名部地区を守った防潮堤には、津波が乗り越えた痕跡はなかった。防潮堤のそばには漁港があり、犬飼助教は漁港の防波堤で津波の威力が減衰し、防潮堤を越えることができなかったと見ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

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大船渡市

陸前高田市

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陸前高田市

  

  

田野畑村

http://www.vill.tanohata.iwate.jp/(3/27時点で不通)  3/30頃復旧

3,831人(推計人口、2011年1月1日)

役所:海岸から 4,200m

2011年03月25日 10:52 IBC  田野畑村で14人
148戸全壊 
2011年3月12日 2時40分 毎日    田野畑村では民家249戸が流され、一部の集落と連絡がつかない状態が続いている。
死者 14  行方不明 25  避難者 443  家屋倒壊 555 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 14  行方不明 24  避難者 430                     4月20日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 16  行方不明 24  4月11日現在 役場H.P.

 

東北地方太平洋沖地震に対する「田野畑村長のメッセージ」及び「被害状況等」について、下記のとおり掲載します。

 ※上記に関するお問い合わせは、下記までご連絡ください。

 028-8407 岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑143-1  

 田野畑村役場 総務課  0194-34-2111

 

田野畑村長からのメッセージ

本村は東北地方太平洋沖地震津波により、大きな被害を受けました。全壊・半壊・浸水など罹災戸数は582 戸(うち住居は267 戸)、死亡者は15 人、行方不明者は25 人に上り、800 人を超える方が村の公共施設や親戚宅などに避難しています。全国の皆様から寄せられた支援物資により、当面の食糧、水については何とか目途が立ちました。今後は、避難者の栄養状態や、肉体・精神的ストレスの蓄積が憂慮されるところですが、村民皆が協力しあいながら、復旧への階段を一つずつ上っているところです。これまで全国の皆様からいただいた沢山の励ましに心からお礼申し上げます。今後とも格別のご支援をいただきますようお願いいたします。2011 03 31

 

 

 

鵜の巣断崖

 北山崎と並んで、200メートルの落差の圧倒的なスケールを誇る鵜の巣断崖。中腹にはウミウの巣があることから名づけられました。5列に連なる断崖は巨大な屏風のようです。展望台からの大パノラマをお楽しみください。

 

 

地震と津波で破壊され、海中に散乱する防波堤の残骸=14日午後、岩手県田野畑村

 

田野畑村の状況(3月12日現在)

罹災状況

  • 流失・浸水戸数 167戸
  • 被災者数 483名
  • 避難者人数 600名
  • 安否不明者 30名
  • 亡くなった方 11名

村内の様子

  • 高台にある村役場や民家には、地震の影響による家屋被害はあまり見受けられなかったが、海岸線から20〜30mの高さにある集落全体が津波の被害により壊滅状態であった。
  • 海岸に近い道路や鉄道も壊滅状態であり、自衛隊や地元消防団による不明者の救出作業や廃材撤去作業等が盛んに行われていた。
  • 電話のみが現在も不通となっており、村役場から外への情報発信、並びに、外部からの情報入手が極端に困難な状況であった。携帯電話は、村内に1か所だけNTTのみ通じる場所があり、必要な人はそこまで行ってから電話をかけていた。
  • ガソリンや燃料が不足してきており、通勤や通学、市民生活に支障を及ぼしているようであった。

上机莞治田野畑村長のお話(概略)

 友好都市深谷市から早速、支援物資を送っていただき、本当にありがたい。住宅の被害は約200〜300戸、600人が避難所生活を送っている。現在は、電気、ガス、水道等は使えるが、電話が不通であり、家族との安否確認が困難な状況である。
 県や自衛隊から支援物資をいただけるので、避難所において水や食料が極端に不足している状況ではない。今後、具体的に必要な物があれば改めてお願いしたい。小島市長並びに深谷市民の皆様にくれぐれもよろしくお伝えいただきたい。

村内写真

田河原地区 平井賀地区 田野畑駅

 

 

Rescue workers search for victims in Tanohata.

 

In the village of Tanohata, those who survived have faced freezing temperatures as well as the loss of their loved ones, livelihoods and homes.  BBC

 

 

 

 

 

避難所で津波のビデオ上映 岩手の村民が撮影

2011.3.15 22:03

 

 波が大きく引いた後、津波が村を襲う。大型テレビに震災直後の映像が映し出されると、被災者から何度も「わーっ」と声が上がった。少なくとも約150戸が流出した岩手県田野畑村の避難所で15日、津波襲来の瞬間を村民が撮影したビデオが上映された。 200人近くの住民が避難所の一角に設置されたテレビを囲み、生活の拠点が根こそぎ奪われた光景に見入った。ビデオは津波が直撃した田野畑村明戸に住む男性が撮影。1度波が引いた後、大きな波が向かう様子や、がれきや木が散乱する村の様子を写した。 高台から目撃した漁業、斉藤忠一さん(78)は「実際に見るとこんなもんじゃない。足がすくんで動けなかった」と恐怖の瞬間を振り返った。 撮影した男性は厳しい表情だったが、住民から「貴重な資料だった」「よく撮ったな」と声を掛けられ、ほっとした様子だった。

 


 

祖父の遺志継ぎ供養 津波被災地の僧侶

2011.3.20 04:20 産経

 

 「生涯をかけて亡くなった方々を供養したい」。大規模な津波被害が出た岩手県田野畑村の法王山宝福寺の僧侶、岩見具行さん(27)は亡くなった村民のために連日、遺体安置所や火葬場で読経を続けている。 宝福寺は昭和8年の津波で死亡した村民の供養のために祖父が建てた。岩見さんは「亡くなった方の役に立ちたい」と被災者の供養と遺族の心の救済に当たっている。祖父は生涯、津波の被災者の供養を続けた。父も遺志を継いだ。 岩見さんは東京でサラリーマン生活を送っていたが、父の死去で仏門に入り平成21年秋に宝福寺に。今回の津波で多くの被害者が出たが、当初は自分が何をすべきか分からなかった。 人に相談し「できることをやろう」と決意。連日、遺体の火葬前に読経し、被災者には「一緒に頑張りましょう」と励ましている。

 


人々支えた薪ストーブ 岩手・田野畑村の食堂

2011.3.19 08:21

薪ストーブをくべる北川亜紀子さん=17日、岩手県田野畑村

 電気が消え、暖房もない中、家族や集まった近所の人々の心を温めたのは薪ストーブだった。 「ここで情報交換し、安否を確認したんです」。津波で多くの住宅が流された岩手県田野畑村の「北川食堂」の北川亜紀子さん(41)は店内で薪をくべながら話した。 地震当日、電気が止まった不安な夜は暖を取るだけでなく暗闇の中で家族を支える希望の明かりになった。 停電で暖房器具が使えない近所の人が集まり、今後のことを相談。住民が協力しておにぎりや豚汁を作って避難所に届けるきっかけにもなった。 北川さんが、今一番の不安は燃料不足から物流が滞っていること。米や肉が入荷できないと店を開けられない。「いつになれば元通りになるのか」。ストーブに照らされた顔が曇った。

 


東日本大震災:零細漁村、復興への道筋見えず 高齢化、膨大な費用−−田野畑 /岩手

毎日新聞 2011年4月22日 地方版

 

 ◇国の支援策求める

 東日本大震災で大きな打撃を受けた三陸沿岸の漁業。一部の漁港で水揚げが再開される中、高齢化が進む零細漁村ではいまだ復興への道筋が見えない。岩手産ワカメの産地・田野畑村もその一つだ。漁師の半数近くが60歳以上で、漁船だけでなく家を流された人も多い。地元漁協は「借金して漁を再開できる人もいない。組合も小さく自力復興は困難だ」と国などによる早急な支援策を求めている。 村は人口約4200人の1割の約400人が漁業関係の就労者。このうち漁師は180人で60歳以上は約80人に上る。ワカメ養殖や定置網漁が主流だったが、震災で漁協事務所や魚市場、養殖施設が流され、漁船も565隻中512隻を失った。漁業関係の被害額だけで村の財政規模の約2倍にあたる76億円とされる。 同村羅賀の畠山忠男さん(67)はワカメ漁などで年約500万円の収入を得てきたが、震災で3隻の船や漁具、家を失い、避難所で家族と暮らす。ワカメは収穫目前に壊滅した。 これまでも、しけの被害を受けた際は千葉県の製鉄所などに出稼ぎに行ったが、年齢もあり、もう無理だ。船や漁具の購入には数百万円が必要。「頑張れと言われるが貯金もなく頑張りようがない」。避難所で布団にくるまり、ぼうぜんとする日々を送る。 県漁連は漁船を一括発注し被災漁協に配分する計画だ。村漁協も100隻を県漁連に求めたが、引き渡しまで3〜4年かかるうえ、漁師負担になる可能性が高い。漁船2隻を失った同村島越の60代の漁師は「体が動くのもあと少し。借金して船を得ても返済できるまで働けない。やめざるを得ない」と話す。 自身も2隻の船を流された田野畑村漁協の工藤求組合長は「高齢者には船や漁具を安価に提供する仕組みを作らないと、漁村自体が消えてしまう」と焦りを強めている。【吉井理記】

 


生徒の目前で崖崩落、直後に津波 岩泉高田野畑校

2011/04/25 岩手

 

東日本大震災の発生時、田野畑村の岩泉高田野畑校(夏井敬雄校長)の当時2年生は海岸で清掃活動に励んでいた。激しい揺れにより目の前で崖崩れが起きる中、生徒らは何とか無事で避難した。同校は来年3月末で岩泉高に統合されるため、今は3年生となった14人が最後の卒業生となる。「助かったのは奇跡」「悔しさに負けず頑張る」―。それぞれの思いを胸に最後の1年と向き合っている。 あの日、海岸清掃は同村机の北山浜で行われた。生徒13人と教職員や地元のNPO法人メンバーら約25人が参加。午後2時ごろに駐車場に着き、海沿いの道を15分ほど歩いた場所で流木の撤去などを始めた。 活動が一段落した午後2時46分、突然の揺れが生徒らを襲う。生徒が立っているのもやっとの激しさで、間もなく切り立った崖が崩落。白い噴煙が一面を包んだ。 「ギャー」という女子の声が浜に響き、泣き崩れる生徒も。幸いにも崩れた岩は生徒に当たらなかったが、中田大喜君は「何をしたらいいか分からず、とにかく怖かった」と振り返る。

 

 「逃げろ」。津波を想定し海沿いの道を避けて山側に上る道を駆け上がった。連絡を受け移動していたバスに急ぎ乗り込み発進。車内から海を振り向いた生徒の目には大きな引き波が飛びこんだ。 畠山史也君は「海がなくなるんじゃないかというほど水が引いていた。その時『これはやばい』とみんなが感じた」と振り返る。生徒が出発して間もなく津波第1波が襲来した。 バスは山道を通って学校へ。家族が心配して次々と学校を訪れ、最後の生徒が家族と会えたのは午後9時近くだった。生徒は後日、番屋群で有名な机浜が建物一つ残さず流されたことを知った。 同校は4月6日に始業式を行った。津波を経験し、3年生だけによる最後の1年に懸ける思いはさまざまだ。 畠山君は「助かったのは奇跡。災害が起きたら知らない人とコミュニケーションを取らなければいけないことが分かり、人生にプラスになった」と避難誘導してくれた人たちへの感謝を強調。 津波で父親の漁船が流された中田君は「海は大好きだけど嫌いになった」と率直に胸の内を明かしつつ「みんなが一致団結して、震災前よりも復興できるようにしたい」と誓う。

 

崖が崩れ白煙が立ち上る北山浜。岩泉高田野畑校の生徒らは間一髪で避難した=3月11日午後2時51分、田野畑村(宮古支局・長内亮介撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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岩泉町

人口 1万616人

役所:海岸から 15,000m

岩泉町5人 / 3月25日

130戸全壊

死者 5  行方不明 0  避難者 263  家屋倒壊 130 4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

 www.town.iwaizumi.iwate.jp/ (OFF Line  3.27)

最終更新 2011年 3月 08日(火曜日) 17:01  (3.31)

 

被害状況等

人的被害  死者 9人

避難所数 4カ所

避難者数 225人(避難所に避難している方の人数)

住宅等被害

  • 全壊 177戸(うち流失80戸、うち全壊97戸)
  • 大規模半壊 10戸
  • 半壊 10戸
  • 一部損壊 5戸

 

小本水門

 

  

東北大震災で岩手県岩泉町の小本、中野の両地区を襲った津波を同町役場の職員が撮影していたことが分かった。水門や防潮堤に津波が押し寄せ、小本地区に津波が流れ込む様子が撮影されている。

Residentes cargan posesiones rescatadas de los escombros de sus casas devastadas en Iwaizumi, noreste de Japón, el jueves 17 de marzo del 2011, tras el terremoto y tsunami de la semana pasada.

 

 東日本大震災 児童88人救った避難階段 岩手・岩泉町

2011.3.21 01:28 産経

 

 東日本大震災による津波は、岩泉町小本地区にある高さ12メートルの防潮堤を乗り越えて川をさかのぼり、家屋をのみ込みながら小学校まで迫った。間一髪で児童88人の危機を救ったのは、2年前に設置された130段の避難階段だった。(原圭介)

 

 小本地区は太平洋に注ぎ込む小本川沿いに半農半漁の住民158世帯、428人が暮らしている。地区の奥に位置する小本小学校の背後には国道45号が横切るが、高さ十数メートルの切り立ったがけで阻まれ、逃げ場がなかった。 数年前の避難訓練の際、伊達勝身町長が「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と国土交通省三陸国道事務所に掛け合い、平成21年3月に国道45号に上がる130段、長さ約30メートルの避難階段が完成した。 巨大津波は小本地区と、川を挟んだ中野地区(175世帯、422人)を直撃。130棟の家屋をのみ込み、校舎手前の民家もなぎ倒したが、児童は避難階段を駆け上り、広場に逃げ込んだ。校舎と体育館は水に浸かり、今も使えない。 高橋渉副校長(51)によれば、階段のおかげで避難時間が5〜7分短縮できたという。広場の倉庫には毛布やテントも用意してあった。高橋副校長は「あと10分避難が遅れていたらどうなっていたか分からない。少なくとも何人かはけがをしていたかもしれない」と胸をなで下ろした。 卒業式と入学式・始業式は延期した上で町役場近くの町民会館で実施するが、校舎での授業は、めどがたっていないという。

 

 


 

東日本大震災:龍泉洞も大打撃 改装オープン延期、被災者感情を考慮 /岩手

毎日新聞 2011年3月25日 地方版

 

 東日本大震災は、観光産業にも大きな打撃を与えている。日本3大鍾乳洞に数えられる岩泉町の「龍泉洞」は、今月19日にリニューアルオープンする予定だったが、被災者感情などを考慮して延期を決めた。観光が主幹産業の一つである岩泉町の担当者は、東京電力福島第1原発事故による東北地方への風評被害もあり、「厳しい。八方ふさがりだ」と嘆く。 国指定天然記念物の龍泉洞は地底湖で、最水深120メートルにも達し、世界でも有数の透明度を誇る。ゴールデンウイークと盆を中心に、約20万人の観光客が訪れる。 龍泉洞は、今年1月4日〜3月18日、洞内に監視カメラをつけたり、照明をLED(発光ダイオード)に替えるなどの改修作業のため、休んでいた。19日時点で作業は完了したが、オープンは見合わせた。事務所の加藤勝彦所長は「美しい地底湖を見て、少しでも気を休めてほしい気持ちもある。複雑な気分だ」と話す。 昨年12月に東北新幹線新青森駅が開業し、観光への効果があると考えていた。しかし、被災地となった今、観光で広域連携をしようにもめどがたたない。08年7月の岩手北部地震では、風評被害で観光客数が落ち込んだ。やっと客足が盛り返しつつあった時期の大災害。岩泉町経済観光交流課の中居健一課長は「災害復旧が進むことが、東北観光に来てもらえるようになる条件。同時に原発の風評被害問題も早急な手当てをしてほしい」と話している。【酒井祥宏、後藤豪】

 


 

 岩手の「名水」に注文殺到 首都圏から

2011/03/26 岩手日報

    

 東京、茨城、埼玉、千葉各都県の一部自治体の浄水場から乳児の摂取基準値を超える放射性ヨウ素が検出された問題で、首都圏を中心に「安全な水」を求める動きが広がり、県産ミネラルウオーターの需要も急増している。 岩泉町で龍泉洞地底湖に湧き出している上流水系の地下35メートル地点で取水し、「龍泉洞の水」として販売している岩泉産業開発には注文が殺到している。 同社によると、東日本大震災で沿岸部のペットボトル、キャップ製造工場が被災し、在庫分は救援物資として輸送している。同社は「電話が復旧した24日から注文の電話がひっきりなしに鳴っている。再開のめどが立ち次第、予約注文に応えられるよう出荷したい」と対応を急ぐ。 釜石市と遠野市の境にある大峰山の深さ600メートルの地底に湧く水を「仙人秘水」として販売している釜石市の釜石鉱山にも、平時の約3倍の注文が殺到。 太田学総務課長は「被災した工場は再開の準備を進め、来週から稼働できる見通しだ。水に対する不安が増し、需要がどんどん増えている」と話す。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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宮古市 田老

4,570人 (推計人口、2005年6月1日)

1500世帯

 

三陸海岸・田老町における「津波防災の町宣言」と大防潮堤の略史
昭和津波当日の3月3日早朝には毎年、避難訓練
1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人死亡(83%)  全村345戸 残らず全滅 
1933(昭和8)年の昭和三陸津波で 911人
2011(平成23)年の東日本大震災での田老地区  町全体ががれきの山
2011年4月09日現在 家屋の流失が78・6% 48・3%が移転を希望
2011年4月16日現在 死者は129人、行方不明者は71人  4.3%
港に500隻以上あった漁船はほぼ全滅
全半壊 1668戸 平成23年4月4日

 

 

 

 

 

map     kenplatz.nikkeibp

 

 

 

 

 

 

 

大津波により破壊された扉 =7日午後、岩手県宮古市田老地区(荻窪佳撮影)

 

 

 

 宮古市田老地区(旧田老町)防潮堤 〜万里の長城〜 釜石港湾事務所

 昭和8年の大津波被害を契機に、各地で本格的な防浪堤の建設や、港湾、漁港の整備が始まりました。中でも、近年二度に渡る激甚被災地となった田老町の取 り組みは早く、「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤が、全国に先駆けて町を取り囲むように建設され、昭和33年3月に完成しています。防潮堤は海面から 10、45メートルの高さで、総延長が約1,350メートルに及び、二度に渡る悲惨な歴史を繰り返すことのないよう、人々が穏やかに生活できるように見 守っています。 また、漁港としての整備も進み、二重三重に整備された消波堤や防波堤が、高波や津波への備えをいっそう確かなものにしています。

 

 

 

 

                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

津  波    昭和8年 高二 赤沼とし子

この津波で、母親と姉(なつ子 20歳教員)と妹(けい子 9歳)の三人の家族  を亡くしました。  当時の住所は岩手県下閉伊郡田老村大字田老で、現在の宮古市田老です。  

とし子さんは当時13歳(14歳の誕生日の三日前)でした。     2008.10.17 

 

 

 

 

 

   

 

完成直後、防潮堤海側には漁具小屋以外の建物はなかったが、今は多くの家が建っていいて災害が風化しつつあるように見える(宮古市田老)撮影日    2009/12/10  山村武彦

 

 

 

 宮古の市街地ほぼ水没、岩手の死者74人

2011年3月12日09時32分  読売新聞

 

 岩手県警によると、12日午前8時現在、県内の死者は、新たに釜石市で5人確認されるなど9人増え計74人となった。 宮古市では、市役所が2階まで水につかり、市街地がほぼ水没、市内の田老地域と山田町内は、ほぼ全域が水没しているという。田老地域では山林火災も発生している。大衆浴場の3階に16人が取り残され、屋上で自衛隊のヘリによる救出を待っている。


 

 東日本大震災:泣き崩れた母親 子抱いた祖母、遺体で 倒壊家屋から−−岩手・宮古市 田老

毎日新聞 2011年3月15日 東京朝刊

 

 最愛の家族、住み慣れたわが家。巨大な津波は大切なものを何もかも奪い去った。東日本大震災による犠牲者は14日、3000人を超えることが明らかになり、悲嘆にくれる家族は日に日に増えている。倒壊した家屋から見つかったおばあちゃんは孫をしっかりと抱きかかえたままだった。「おばあちゃんは、いつも息子の面倒を見てくれていた」。幼い息子と母を同時に失った女性は泣き崩れた。 津波で壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市田老で14日、倒壊した家屋の中から祖母と孫で3歳の男の子の遺体が発見された。現地入りした記者は、その様子を見ていた。祖母は孫をしっかりと抱きしめたまま亡くなっており、最後まで孫を守り抜こうとしていた。 倒壊した家屋は津波に押し流され、元の場所から数百メートル離れた場所で見つかった。線路が上にあった。 家族や親類らは午前中から、がれきの撤去を始めたという。ブルドーザーや手作業で柱などを一つ一つ取り除いていった。電動ノコギリを使って、流れついた街路樹なども切った。 2人が発見されたのは午後2時を過ぎてからだった。折り重なるように倒れており、祖母が孫を両手で抱きかかえていた。 その瞬間、撤去作業の様子を食い入るように見つめていた20代の男児の母親はその場に崩れ落ち、家族や親類らと抱き合って号泣し続けた。 母親は「おばあちゃんは私が仕事の時、いつも息子の面倒を見てくれていた。2人が一緒に見つかって本当に良かった」と涙をぬぐい「でもやっぱり死に顔は見られなかった。まだ生きていると信じている自分がいるから」と声を詰まらせた。【西嶋正法】

 

 


 

久慈から田老、4日かけ両親の元へ 宮古の山本さん

2011/03/16 岩手  

 

 宮古市田老の会社員山本美穂子さん(51)は15日、両親の鳥居松太郎さん(74)、真木子さん(74)と再会を果たした。久慈市で津波に遭い、4日がかりで田老の避難所に到着。知人らに支えられての再会に感謝の涙を浮かべた。 両親の近くに住み、宮古市内の事業所に勤務する山本さんは大津波が発生した11日、会社の研修で久慈市にいた。自宅には帰れず、車中で一夜を明かした。 翌日、野田村方面から南下して田老へ帰ろうとしたが、交通規制のため断念。両親の無事はその日の夜、横浜市にいる息子からメールで知らされていたが、不安は募るばかり。山本さんは久慈市から盛岡市を経由し、田老の避難所へ向かうことを決意する。 各地の知人宅に泊まりながらの移動。夫と共に避難所の市田老総合事務所にたどり着いた山本さんは「(無事で)よかった」と父の手を強く握りしめる。目から涙があふれ出した。 津波でお互いの家が全壊したこと、山本さんの義母の行方が分からないこと―。会えなかった時間を埋めるように話し合った。 知人や、被災を知った見ず知らずの人から防寒用の衣服などをもらい受けた山本さんは「いろんな人にお世話になりありがたい」と感謝する。 大津波警報が発令されていた12日、津波襲来を知らせるサイレンを聞いた際、山本さんは通行人を乗せて高台に避難した。そのことを話すと、真木子さんは「みんなにいいことしているから神様が見てくれたんだね」と穏やかに笑った。

両親と4日ぶりに再会し、涙ぐむ山本美穂子さん(中央)=15日午前10時8分、宮古市田老・市田老総合事務所(報道部・及川慶修撮影)


 2010年06月  (9ヶ月前)

 

昭和三陸津波体験、紙芝居で伝え30年 悪夢再来に無力感 

2011年03月17日 河北新報社  

自作紙芝居を上演し続けてきた田畑さん(左)。想像を超える巨大津波の被害に心を痛める=宮古市田老 

 

 宮古市田老地区を中心に30年間、自作の紙芝居で小中学生への津波防災啓発活動を続けてきた田畑ヨシさん(86)は今、自然の猛威の前で無力感を味わっている。 田畑さんは1933年、旧岩手県田老町で911人の死者・行方不明者が出た昭和三陸津波を8歳で体験した。生き残った者として「語り継ぐ教訓こそが住民を津波から守ってくれる」と信じ、50代後半から小中学校で紙芝居を上演してきた。

 あの惨劇から78年。変わり果てたわが街の姿を目の当たりにし、「昭和三陸大津波の時よりもひどい。みんな助かってくれるといいんだが…」と立ちつくす。 田老では高さ10メートル、総延長2433メートルの防潮堤を越えて津波が押し寄せ、国道45号沿いの商店街や住宅地は跡形もなくなった。田畑さんは自宅近くの高台にある妹(81)の家に避難。自宅は流れてきた家屋に押しつぶされ、逃げ遅れた近所の人も多かったという。 田老では自衛隊や消防が行方不明者の捜索に当たっているが、町全体ががれきの山と化して作業は難航している。「生きてる間にこんな悲惨な津波を2度も経験するとは思わなかった」。田畑さんは悲痛な表情で語った。(阪本直人)

 

 


 

防潮堤「油断あった」 宮古市田老 岩手

2011.3.17 02:16  産経

 

 東日本大震災では岩手県宮古市田老地区(旧田老町)も津波で壊滅的な被害を受けた。田老地区は明治29年以来3度も津波の被害を受けた。昭和8年の三陸地震津波を教訓に日本でもトップクラスの防潮堤を備えた。だが今回の津波はその防潮堤を越えて地区を破壊した。避難した人たちは「防潮堤があるので油断があった」と話している。 鳥井隆さん(81)は、今回の地震で2度目の津波を経験した。しかし、三陸地震津波のときは4歳で、ほとんど覚えていない。 鳥井さんは「防潮堤を造ったからと油断して逃げなかった人もいた。過去の教訓を今回の津波は超えてしまった」と悔やんだ。 美容室を経営する大下和子さん(65)は、お客さんにパーマをかけている最中、津波警報のサイレンを聞いて逃げた。「若いころから『何も持たず、高いところへ逃げろ』と言われてきた。お客さんの髪を途中に逃がして、言われてきた通りにした」という。

 

 しかし、津波の到達は予想より早かった。「地震が起きてから30分ぐらいは逃げる余裕があると思っていたのに、あっという間に津波が来た」と振り返る。 田老地区の人口は約4000人。大半は高齢者だ。夜間に襲った三陸地震津波に比べれば逃げやすい時間帯だったが、若い人たちは外に出ていて、家にいた高齢者が逃げる間もなく津波に流された。 ある70代の女性は「年を取った母と2人暮らしの息子さんが『おふくろを(家に)おいてきた。おれは馬鹿だ』と叫んでいた姿を見た」と話す。その息子によれば、体の不自由な母親は「また(津波は)3メートルぐらいだから、上がっているから」と2階に上がった直後に家ごと流されたという。 宮古市の15日午後2時現在の死者は157人、うち田老地区の死者は20人。市全体では1658人が行方不明。市の人口のおよそ4人に1人、8836人が避難している。 (原圭介)

 


 

信じていた強固な防潮堤粉々に 津波防災の岩手・宮古市

2011.3.18 08:52 産経

 

 「守られていると思っていた。でも、油断もあったのか…」。津波被害の歴史を繰り返してきた岩手県宮古市田老地区。“万里の長城”の異名を持つ、高さ10メートル、総延長約2800メートルの防潮堤が整備され、住民が絶大な信頼を置いてきたが、津波は粉々に破壊した。 田老で生まれ育った住民は口をそろえる。「堤防(防潮堤)があるから大丈夫だと思った」。昭和8年の大津波を受けて建設が始まった。東西南北と町を十字形に横切る巨大建造物で、海外からも視察が訪れるほどの住民自慢の防災設備。このうち、港の中心部から東へ延びる約580メートルは一部の土台や水門を残し、跡形もなくなった。 住民の男性は、昭和の大津波を経験した老人が壊れた防潮堤を見てこう言うのを聞いた。「全部平らになって80年前の田老の姿になってしまった」

 

津波で破壊された岩手県宮古市田老の防潮堤=16日

 


 

「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民ぼうぜん

2011年3月20日14時52分 朝日

住民たちが「日本一」と自慢していた津波防潮堤。右側奥は壁が破壊されていた

=岩手県宮古市田老地区、吉村写す

 

 

 「日本一の防潮堤」「万里の長城」――。住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちはぼうぜんとしている。  「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。  小林さんは「防潮堤は安心のよりどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。  約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。

 

 防潮堤は、昭和三陸津波襲来の翌34年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の78年に完成。総工事費は80年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。  こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者はいなかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。

 

しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性(45)は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。  今後の津波対策をどうするのか。漁師の川戸治男さん(69)は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。  宮古市は津波防災都市を宣言している。地域振興課長の鳥居利夫さん(59)は「防潮堤は、これまで経験した大津波を想定して整備された。だが、今回は想定外だった。今後、どう津波対策を立てるのか。今のところ思いつかない」と肩を落とす。(吉村治彦)

 


2011/03/20 


 

 名物「田老かりんとう」再開に意欲

2011年3月25日8時18分 紙面から nikkansports

 

      東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市田老地区で、菓子店「田中菓子舗」を経営する田中和七さん(56)が24日、名産品「田老かりんとう」の生産再開に意欲をみせた。同店は津波にのみ込まれ、店舗部分が全壊した。工場兼自宅も損傷が激しく、1923年(大12)から続けているかりんとうの生産がストップし、現在は品切れ状態だ。 田老かりんとうは、渦巻き状の円盤形が特徴。程よい香ばしさと控えめな甘さで、幅広い年齢層に親しまれている。 田中さんは「がれきが取り除かれた後、元あったところに店舗を造り直して、工場は津波の心配がない高台に作り直したい。早く生産を再開して、田老のみんなを勇気付けたい。東京にいる友人からは、『(元巨人投手の)江川の耳を送って』と頼まれるんです」。復興を語る口調は力強かった。【柴田寛人】

 

 


津波対策“日本一”も全滅 防潮堤に限界…岩手・田老ルポ

2011.3.28 14:25 産経

 

総延長2.4キロ、高さ10メートルと国内屈指の防潮堤があった岩手県宮古市田老(たろう)地区。東日本大震災では、国内最大級の大津波が防潮堤の一部を崩壊させた。大量の濁流が地区に流入し、人家を一気にのみ込んでしまった。防潮堤は大津波に対し、どれほどの効果があったのだろうか。防潮堤の周辺を歩き、自分の目と耳で確かめてみた。(内海俊彦)

 

 「防潮堤が壊れるなんて、思ってもみなかった」 崩壊した防潮堤の近くにあった実家が流された盛岡市の会社員、中野直之さん(46)。泥だらけの更地に変わってしまった思い出の地を、力なく見つめながら、こう話した。 陸地を津波から「ナ」の字型に守る防潮堤は、今回の大津波で東側500メートル部分が完全に崩された。引き波の影響なのか、大きなコンクリート壁が海側に向けて、いくつもなぎ倒されている。西側に延びる防潮堤も、表面のコンクリートが完全にはがされていた。 気象庁の観測では、今回の大津波は、宮古市が過去最大の8.5メートル以上を記録。ただ、防潮堤近くの岩肌に設置された、明治三陸津波(明治29年)の水位(高さ15メートル)を示す表示板の上方には、今回の津波で漂着したと思われる木くずが引っかかっていた。過去の津波をしのぐ規模だったことを物語っている。津波で壊れなかった防潮堤の内側にあった区域の家屋も、ほぼ全滅。市によると、地震から2週間以上が経過して、撤去作業がようやく本格化したが、作業のゴールは全くみえない。 田老地区の避難所から津波を眺めていた男性は「大きい津波が何度も防潮堤にぶつかり、高々と白波を上げていた。『ドーン、ドーン』という大きな音もして、とても恐ろしかった」と証言した。 流されずに残った観光ホテルの下層階では、車や木造民家の外壁など津波による漂着物が、むき出しの鉄柱にからみつき、無残な光景が広がっていた。 日戸(ひのと)源一さん(57)と文子さん(55)夫婦は流失した自宅を探しながら、力なくつぶやいた。「防潮堤があるから、自慢の防災の町だったんだけど…。せめて、住民が逃げる時間を稼いでくれたと思いたい」


 岩手で検視、道警・刑事部隊 泥を洗い、丹念に特徴記録

03/29 10:05 北海道

 

 

東日本大震災で、岩手県宮古市に派遣されている道警の「刑事部隊」約20人が、犠牲者の検視に当たっている。仮設の遺体安置所に次々と運び込まれる遺体の中には、津波にのまれて着衣が破れたり、所持品が流されたりして、身元を示すものがないことも多い。しかし、「少しでも早く家族の元に帰してあげたい」という思いを支えに、遺体の小さな特徴も事細かに記録して、連日、懸命の身元確認作業を続けている。  紺色の作業着、目と鼻の間にほくろ−。道警の刑事部隊が活動する宮古市田老地区の遺体安置所で、遺体の特徴を記した書類を目にした40代の女性の顔つきが一変した。  道警捜査1課の警部補広西さゆりさん(38)が遺体の元に案内すると、女性は「どこかで無事でいると信じていたのに…」と泣き崩れた。遺体は女性の夫だった。  女性からは「見つけてくれてありがとう」と声をかけられたが、広西さんは「最後の希望を断ち切ったようで複雑だった」という。 東日本大震災では死者が1万人を超え、行方不明者も1万6千人を上回る。宮古市でも1400人の行方が分からない。一度に多数の人が被災しており、遺体の身元を確認するのは容易ではない。  津波で流され、携帯電話や免許証など身元につながる所持品がない場合も多い。被災時にいた場所から遠く離れた場所で遺体が見つかるケースもある。  「何としても遺体を、待ち続けている家族の元に帰したい」。捜査1課の警部前川剛さん(51)は第2陣として18日に現地入りし、検視に当たった。運ばれてくる遺体は、大量の泥にまみれていた。それをきれいに洗い流し、身長や体格、腕時計の形、ほくろやあざの一つまで特徴を書き留めた。「どんな小さな手がかりも見逃せない」。検視の前後には、必ず全員で手を合わせたという。  第2陣が活動した26日までに検視した遺体は計97体で、今後、遺体の数はさらに増えるとみられている。被災地の捜索はまだ手つかずの場所も多く、道警は今後も岩手県に部隊を派遣し、検視活動を継続する。

 

 


 

 


 

 In Japan, Seawall Offered a False Sense of Security

Ko Sasaki for The New York Times

Eiko Araya, 58, the principal of Taro No. 3 Elementary school, walked atop the inner wall on her way for meeting in Taro, Japan on Wednesday.

By NORIMITSU ONISHI

Published: March 31, 2011

 

 

TARO, Japan — So unshakeable was this town’s faith in its seawall and its ability to save residents from any tsunami that some rushed toward it after a 9.0-magnitude earthquake struck off the coast of northeast Japan on the afternoon of March 11. After all, the seawall was one of Japan’s tallest and longest, called the nation’s “Great Wall of China” by the government and news media. Its inner wall was reinforced by an outer one, and they stretched 1.5 miles across the bay here. The surface was so wide that high school students jogged on it, townspeople strolled on it, and some rode their bicycles on it. A local junior high school song even urged students: “Look up at our seawall. The challenges of tsunamis are endless.” But within a few minutes on March 11, the tsunami’s waves tore through the outer wall before easily surging over the 34-foot-high inner one, sweeping away those who had climbed on its top, and quickly taking away most of the town of Taro. “For us, the seawall was a source of pride, an asset, something that we believed in,” said Eiko Araya, 58, the principal of Taro No. 3 Elementary School. Like several other survivors, Ms. Araya was walking atop the inner wall late Wednesday afternoon, peering down at the ruins of Taro. “We felt protected, I believe. That’s why our feeling of loss is even greater now.” Tsunamis are an integral part of the history of Japan’s Sanriku region, which includes this fishing town of about 4,400. People speak of tsunamis as if they were enemies that “take away” the inhabitants here. Perhaps because the loss of life over the decades has been so great, a local teaching, called tendenko, unsentimentally exhorts people to head for higher ground immediately after an earthquake, without stopping to worry about anybody else. Sanriku is also home to some of the world’s most elaborate anti-tsunami infrastructure, including concrete seawalls that transform seaside communities into garrisonlike towns with limited views of the ocean. About 50 miles south of here, in the city of Kamaishi, the world’s deepest breakwater was completed two years ago after three decades of construction, at a cost of $1.5 billion.

 

The recent tsunami damaged, perhaps irreparably, Kamaishi’s breakwater, as well as countless seawalls and other facilities designed to shield communities against tsunamis. Researchers are starting to assess whether the seawalls and breakwaters minimized the force of the tsunami even as some experts are already calling for a stop to more coastline engineering, saying money should be spent instead on education and evacuation drills. As Japan undertakes the monumental task of rebuilding swaths of its northeast, it will also face the hard choice of whether to resurrect the expensive anti-tsunami infrastructure — much of which was built during Japan’s economic ascendancy. Osamu Shimozawa, a city official in Kamaishi, said a decision not to rebuild would be tantamount to “abandoning rural Japan.” “We have to provide a permanent feeling of security so that people will live here,” Mr. Shimozawa said. Kamaishi’s 207-foot deep breakwater — sections of which now lie broken in the harbor — blunted the force of the tsunami, according to preliminary investigations by independent civil engineers. In Kamaishi, 648 deaths have been confirmed, while 630 people are still listed as missing. “The damage was limited compared to other places,” said Shoichi Sasaki, an official at the Ministry of Land’s office in Kamaishi. It was an opinion shared by most people interviewed in Kamaishi, many of whom had witnessed construction crews erect the breakwater from 1978 to 2009. Toru Yaura and his wife Junko, both 60, were clearing the debris from the first floor of their home, several blocks from the water. “Without the breakwater, the impact would probably have been greater,” Mr. Yaura said, explaining that the water from the tsunami rose up to his waist on the second floor of his two-story house.

 

The Yauras, who are staying at a shelter, were initially trapped inside their home, alone without electricity, the night after the tsunami — which also happened to be Mr. Yaura’s 60th birthday. “It was a romantic birthday, with candles,” he said. “We laughed, the two of us.” Here in Taro, the number of dead was expected to rise above 100. Instead of protecting the townspeople, the seawall may have lulled them with a false sense of security, said Isamu Hashiba, 66, who had driven here from a nearby district to attend a friend’s cremation and was walking on the seawall on Wednesday with his wife and sister-in-law. His wife, Etsuko, 55, said, “There were people who were looking at the tsunami from the seawall because they felt safe.” The town began building the inner wall after a tsunami decimated Taro’s population in 1933. The wall was reinforced and expanded in the 1960s. In the 1933 tsunami, said Ms. Araya, the school principal, her mother lost all her relatives, except one uncle, at the age of 11. Her mother, now 89, survived the most recent tsunami because she happened to be at a day care center for the elderly. “People say that those who live in Taro will encounter a tsunami twice in their lives,” Ms. Araya said. “That’s the fate of people born in Taro.”Perhaps because it was their fate, perhaps because they were used to rising from tsunamis every few generations, some of those walking on the seawall were already thinking about the future. Ryuju Yamamoto, 66, peered down, trying to spot his house below, but was more interested in talking about the woman he was wooing. A tatami-mat maker, he pointed below to a spot where he had found his dresser and tatami mat, as well as a doll he had received as a wedding gift three decades ago. His father had forced him into an arranged marriage, he said, that lasted only 40 days. “I learned that she already had this,” he said, pointing to his thumb, signifying a boyfriend. “And she refused to break it off.” Unexpectedly, at a year-end party for dog owners last December, Mr. Yamamoto said he saw a woman he had met while walking his dog. The woman lived with her mother, who, Mr. Yamamoto learned, teaches taishogoto, a Japanese musical instrument. So Mr. Yamamoto was now taking lessons from the mother, regularly visiting their home, which was unaffected by the tsunami. “That’s my strategy,” Mr. Yamamoto said, adding that he was making progress. After learning that he was now living in a shelter, he said, the mother had invited him to take a bath in their home. “I’m going tomorrow,” he said.

 

 


東日本大震災 ゴンだけが残った…自宅付近で4日後 宮古市  田老

毎日新聞 4月2日(土)15時0分配信  

奇跡的に助かり、預けられた女性になでてもらうゴン=岩手県宮古市で2011年3月31日、伊澤拓也撮影

 

 ゴンは生きていた−−。東日本大震災の津波被害を受けた岩手県宮古市の田老地区で、コンビニエンスストア経営、山本義宣さん(57)一家は全員が死亡・行方不明になったが、飼い犬のゴンは奇跡的に生き残った。同じ町内で被災した山本さんの姉百合子さん(59)は「すべて流されてしまった中で、ゴンは唯一の形見です」と話し、ゴンを引き取ろうと考えている。愛犬家の山本さんはゴンの散歩を朝晩欠かさず、口癖は「ゴンも扶養家族にしたい」だった。津波でコンビニも自宅も被害を受け、山本さんは死亡、妻園子さん(56)、同居していた母チヤさん(82)は今も行方不明だ。 百合子さんは地震直後、夫とともに軽トラックで避難所に逃れ、山本さん一家を捜した。山本さんとは携帯電話のメールでお互いの避難状況を確認し合っていた。弟からきた最後のメールは「大丈夫か? 本当にちゃんと避難したな」だった。 避難所で「(山本さんの)コンビニは津波でめちゃくちゃ」「(地震で停電したため)津波が来る直前まで水やロウソクを求める客に対応していた」と聞き、「覚悟を決めた」という。 「ゴンのような犬が山本さん宅のあったあたりにいた」と連絡があったのは被災から4日後の朝。近所の人が山本さん宅付近でうろうろしている犬を見つけ、車に乗せて避難所まで運んだ。特徴のある茶色と黒が交ざった背中としっぽの毛。百合子さんが「ゴン」と呼ぶと車から降りて駆け寄ってきた。百合子さんは「おまえだけでも生きていて良かった」と涙を流し、抱きかかえられたゴンは足を震わせていた。 周辺の家屋はすべて津波で倒壊しており、家にいたゴンがなぜ生き延びられたのかは分からない。飲まず食わずで飼い主を捜していたのか、水を与えると一気に飲み干した。今でも海のある方向に連れていこうとすると足を踏ん張り、余震には体を震わせ、おびえているようだ。 百合子さんはゴンを被災を免れた知人に預けた。いずれ引き取るつもりだ。「散歩するたびに弟一家を思い出すでしょう。『大丈夫、ゴンとちゃんと一緒にいるよ』と言いたい」【石戸諭、伊澤拓也】

 

 

津波で大きく損壊した自宅(右)前に座る村松豊さんと愛犬のゴン=岩手県宮古市で2011年4月3日午後0時半、大西岳彦撮影

 


宮古市の津波 38mと判明    田老町 小堀内漁港

4月3日 18時48分   NHK

 

大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市では、津波が各地の調査で判明した中で最も高い、およそ38メートルの高さまで駆け上がっていたことが分かりました。津波災害を研究している東京大学の都司嘉宣准教授のグループは、3日、岩手県宮古市田老地区で津波の高さや建物の被害状況を調べました。このうち小堀内漁港では、海岸線からおよそ200メートル離れた高台で津波が斜面を駆け上がった痕跡が見つかり、測量の結果、高さが37.9メートルに達していたことが分かりました。これは、各地で行われている専門家による調査で判明した中で最も高く、1896年の明治三陸津波の際に岩手県大船渡市で確認された、38.2メートルに匹敵する大津波が押し寄せていたことが分かりました。調査に当たった都司准教授は「明治三陸津波に匹敵するか、それを上回る規模の津波だったことが分かった。場所によっては、さらに高くなっている可能性もあるので、ほかの研究者とも連携して引き続き調査を進めたい」と話していました。

 

 


東日本大震災:「ここが好きだから」 岩手・田老の大工、被災地に自宅再建

毎日新聞 2011年4月5日 東京夕刊

 

 東日本大震災で津波被害を受けた岩手県宮古市田老地区に、自らの手で復興を誓う大工がいる。扇田貞一さん(69)。菅直人首相が復興策として高台への集落移転について言及するなか、扇田さんはあえて田老港近くに自宅を再建することを決めた。「理由なんてない。ここが好きなんだ」。心の中で、復興の一歩を踏み出した。 「全部持ってかれちまった」。がれきの山から家族の品を捜し始めて、もう3週間になる。流された自宅の残骸が、50メートル離れた場所で見つかるという。 43年前、同じ大工の父仁三雄(にさお)さんと建てた木造2階建て。入手困難な120センチ角のクリの木を柱に使った自慢の家だった。2階をリフォームし、近くのアパートで暮らす長男(33)一家5人と同居する予定だったが、計画も津波が押し流した。 「あの日」、扇田さんは、出稼ぎで東京都の建設現場にいた。自宅と連絡がつかない。不安なまま翌朝に車で出発した。2日後、生まれ育った土地の変わり果てた姿を目の当たりにし、膝から崩れ落ちた。妻笑子さん(63)と長男一家は無事だったが、親戚8人が命を落とした。津波を憎み、がれきを片づけながら、田老港や自宅への愛着に気付いた。「もう一度、ここに自分の手で家を建てよう」 長男夫婦も後押ししてくれた。「生まれ育った土地ってのは、簡単に手放せねえよ」。木材が手に入るようになったら出稼ぎをやめ、自宅再建に取りかかるつもりだ。【伊澤拓也】

 


東日本大震災:「奇跡の船」次世代に 岩手・田老の漁師、揺れ感じ沖へ

毎日新聞 2011年4月7日 東京夕刊

 

 震災で津波被害を受けた岩手県宮古市の田老港に無傷の漁船が1隻だけ停泊している。漁師の下西文一(ぶんいち)さん(73)の小型船「かつ丸」。地震直後、港にいた下西さんが沖に出航して間一髪、被災を免れた。下西さんは漁からの引退を考えているが、壊滅した港につながれた「奇跡の漁船」を誰かが引き継ぎ、復興の先頭を切ってほしい。そう願っている。【伊澤拓也】

 

 「津波の時には沖に出ろ」。下西さんは港で大きな揺れを感じた瞬間、96歳でこの世を去った父孫次郎さんの言葉を思い出した。漁師だった孫次郎さんは1933年の昭和三陸地震津波で船を沖に出して無事だったという。考えるよりも先に体が動いた。近くにあった自転車をこいで、200メートル先に停泊してあった「かつ丸」に飛び乗った。「自宅のかかあ(妻)も気になったけど、自分と船を助けるにはこれしかねえ、と。漁師には『船は命』だから」 水産庁防災漁村課が06年に作ったガイドラインでは、津波が来た時、漁港周辺の漁船は(その方が早ければ)水深50メートル以深の海域に避難するように定めている。 3キロほど沖に出て陸を振り返った。見たこともない巨大な波が港をのみ込むのが見えた。「悪い夢を見ているようだった」。港に近寄れない。上陸できたのは、食料が尽きた3日目の朝だった。 かつ丸は90年進水。船名は妻勝(かつ)さん(68)の名前から付けた。その勝さんとは宮古市内の病院で再会。濁流にさらわれたところを若い男性に救い出されたらしい。 港に500隻以上あった漁船はほぼ全滅した。養殖ワカメやウニ、アワビで知られた港の面影はない。復興には時間がかかりそうだ。「この年齢だから、もう船には乗らねえ」。引退を決めた。


10メートル防潮堤を越す津波、間近で撮影 岩手・田老地区

2011.4.6 22:19 産経

 

 

“万里の長城”とも言われ全国的に有名な岩手県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル、総延長2433メートル)を津波が乗り越える様子を、漁協職員の畠山昌彦さん(43)が約15メートルの至近距離で撮影していた。 畠山さんは「映画のよう。あまりに現実感がなく逆に恐怖を感じなかった」と振り返った。 3月11日、防潮堤近くの鉄筋3階建て漁協事務所で地震に遭遇。女性職員らを高台に避難させた後、事務所に居残った。 地震の約20分後、漁港の船数十隻が渦を巻くように沖に流されていった。「津波が来る」。一度は防潮堤の上に立ったが、消波ブロックを大津波が乗り越えているのが見え、急いで事務所3階に戻った。 十数秒後には波が事務所前の防潮堤に迫り、慌ててシャッターを切った。津波は防潮堤を乗り越え、事務所の2階まで浸水したが、建物は流されなかった。

堤防を越え、住宅に押し寄せる津波=3月11日午後3時30分ごろ、宮古市田老(畠山昌彦さん提供)


宮古・田老地区/防潮堤過信も 「経験次世代へ」誓う

2011年04月10日 河北

 

 宮古市田老地区は44年の歳月をかけ「万里の長城」とも呼ばれた巨大防潮堤を築き、津波に備えてきた。だが今回、津波はその防潮堤を越えて田老地区を襲い、地区内の死者、行方不明者(4日現在)は合わせて230人を超えた。住民らは「防潮堤への過信もあった」と振り返る一方、教訓を次世代につなげようと誓っている。 巨大防潮堤は、地区内で死者、行方不明者911人が出た昭和三陸津波(1933年)の教訓から、旧田老町の中心部を2重に守るように整備された。陸側は1934年に着工し、57年完成。海岸側は62年に着工し78年に完成した。 いずれも高さ10メートル、総延長は2.4キロに達し、1960年のチリ地震津波から町を守ったことは田老住民の誇りだった。 地区の山本麻美子さん(31)は地震発生時、母恵子さん(57)と自宅にいた。避難を促すと、恵子さんは「犬がいるから逃げられない」ととどまり、犠牲になった。山本さんは「防潮堤があるから地震もどこか人ごとだった。こんな悪夢が現実に起こるなんて」とつぶやく。 旧田老町の消防団長を15年間務めた山崎勘一さん(76)も「この防潮堤なら大丈夫だと思っていた。ショックだ」とうなだれる。 旧田老町で防災を担当した宮古市職員山崎正幸さん(45)によると、防潮堤は本来、津波を完全に食い止めるためではなく、中心部への直撃を避けるため、山あいを流れる2本の川に津波を誘導することを目的に設計されたという。 防潮堤の整備と同時にまちづくりの発想も大きく転換。中心部の土地は津波からいち早く避難できるように、高台に向かって盛り土した。碁盤の目状に整備した道路の交差点も人が曲がりやすくするため、直角にならないように「隅切り」を施した。 山崎さんは「明治三陸大津波は波高が最大15メートルに達した。先人たちは防潮堤を築いても、なお津波被害が発生することを想定し、避難の大切さに目を向けていた」と指摘する。 初めに整備された防潮堤の外側にも住民が住むようになり、防潮堤は2重になった。コンクリートの壁と壁の間にできた新たな住宅地は、昭和三陸津波の直後に開発された中心部に比べ、避難しにくい構造となっていた。 今回の津波は陸側の防潮堤も越え、被害は田老地区全体に及んだが、二つの防潮堤の間の地区は特に壊滅的な打撃を受けた。(野内貴史、古賀佑美)

 


東日本大震災:流失の民宿、再建エール かつての客「手伝いたい」−−宮古 /岩手

毎日新聞 2011年4月14日 地方版

 

 ◇跡取り亡くした宮古の老舗 かつての客「魚食べさせて」

 東日本大震災の津波で壊滅状態になった宮古市田老地区。ここで90年近い歴史を持つ民宿「丸仙」を経営する腹子昌佳(はらこまさよし)さん(55)は津波で建物を流され、2年前に養子縁組して跡取りにと期待していた息子の亮さん(25)を失った。母も行方が分からない。新鮮な魚料理と家庭的な雰囲気に人気があった丸仙。腹子さんの元にはかつての宿泊客から激励と再建を期待する声が届いている。【三木陽介】

 

 丸仙は腹子さんの祖父由太郎(よしたろう)さん(故人)が創業。東京で20年近くすし職人をしていた腹子さんが12年前、3代目として継ぎ、すし店を併設した。サケ、サバなど新鮮な魚を振る舞い、1泊2食6700円という低料金もあって全国に常連客がいた。 津波が来た時、腹子さんは仕入れに出かけていた。亮さんは仕込みのため店に残り、母ミヤ子さん(80)は宿の裏にある自宅にいた。道路が復旧した2日後に戻ると街全体が消え、どこにも2人の姿はなかった。地区を襲った津波は約38メートルの高さまでかけ上っていた。 亮さんは腹子さんの亡弟の次男。北海道・小樽で板前修業をして2年前に戻ってきたのを機に養子縁組した。看板を継いでもらうためだ。最近は「そろそろ所帯持たなきゃな」と話し合っていた。無念さが募る。 丸仙があった場所は海砂に覆われ、破壊された防潮堤のコンクリート塊が横たわる。昌佳さんはそこに立つたび途方に暮れる。それでも丸仙のホームページに書き込まれる宿泊客からのメッセージに励まされる日々だ。 「また新鮮でおいしいお魚を食べさせてください。多くのファンが待っています」「たった一晩でしたが、宿のみなさんの心遣いが忘れられず田老が特別の愛着ある土地になりました」……。 毎年2回は丸仙に泊まりに来るという茨城県八千代町の大工、吉田昇さん(58)も「こういう時こそ力になりたい。再建する時に手伝いができれば」とエールを送る。 腹子さんは「励ましは本当にありがたい。この状況ではどうするか考えもつかないが、やれるなら高台でもう一度という気持ちはある」と話している。

 


高台に集団移転か 住民が協議

4月16日 18時37分   NHK

国内最大級の防潮堤が大津波で壊れ、多くの犠牲者が出た、岩手県宮古市の田老地区で、今後の街づくりを協議する地元住民の会合が開かれ、高台への集団移転などについて意見が交わされました。宮古市の田老地区には、津波への備えとして国内最大級の巨大な防潮堤が築かれていましたが、今回の大津波は防潮堤を壊して住宅地を襲い、129人が死亡、71人が行方不明になっています。16日は、田老地区の自治会長を務める20人余りが集まり、震災後初めて、今後の街づくりについて話し合いました。この中では、今回の津波の被害を受けて、「海の近くには仕事場を作り、高台の住宅から通うようにしたほうがよい」と、高台へ集団移転すべきではないかという意見が出た一方、「高台に宅地造成を進めるには長い年月がかかるので、現実的ではない」などと、高台への移転に反対する意見も出ました。田老地区の自治会では、さらに協議を行って、今後の街づくりについて意見を集約し、国や岩手県などに要望書を提出することにしています。

 

 


高台移住…揺れる住民 宮古・田老地区

2011年4月17日 朝刊  東京

高さ10メートルの「日本一の防潮堤」がある岩手県宮古市田老地区で、たび重なる津波の被害に、地区を離れ、高台への移住を考える住民も出てきた。津波は防潮堤をやすやすと越え、一部を破壊。同地区の16日現在の死者は115人、行方不明者は72人に上る。漁師が語る。「もうあそこに住む気にはならない」 (佐藤大) 

田老地区の漁師穂高均さん(62)は避難所で、こりごりといった表情を浮かべた。家族と一緒に高台に逃げ九死に一生を得たが、自宅は全壊し船を失った。年齢も年齢で、また船を買うつもりはない。「仮設住宅に入っている間に、田老に近い宮古市内の高台で、アパートを借りることも考えなきゃな」 二重の防潮堤の内側に住んでいた主婦(66)も高台への移住を考えている。「津波の怖さを考えると…。息子も『どこに行ってもいい』と言ってくれている。行政がうちの土地を買ってくれればいいんだけど」と話した。 一方、別の漁師の男性(63)は「田老ではどこでどんな魚が取れるか分かっている。離れたくない気持ちはある」と複雑な胸中をのぞかせた。住民の思いは交錯する。 地元はこれまでも、たびたび甚大な津波被害に遭ってきた。一八九六(明治二十九)年の明治三陸地震では千八百五十九人、一九三三(昭和八)年の昭和三陸地震では九百十一人が命を奪われた。 そのたびに高台への移住も検討されたが、高台には住むのに十分な広さの土地がない。漁師町ゆえ、時がたつとまた海に近い場所に家が建つ−。そんな歴史を繰り返してきた。 津波対策として、昭和地震の翌年から七九年にかけて、高さ十メートルの二重の防潮堤が築かれ、全長二・四キロに延びた。海岸近くには津波や潮位監視のカメラを設置。各戸に防災無線が配られた。だが、再び多くの命が奪われた。 田老地区の復興計画はこれから。宮古市のある職員は「被害を受けた場所に住宅を建てられないよう、規制をする必要があるのではないか。でなければまた、被害は繰り返される」と話した。

 


 

 田老地区 家屋流出8割

2011.4.9 20:35 産経

 

 家屋被害は、岩手県宮古市田老地区では家屋の流失が78・6%を占めた。これに次いで床上や床下浸水による水損(9・5%)、無被害(7・1%)を大きく上回り、津波による被害の大きさを改めて裏付けた形となった。 仙台市2カ所や女川町では、流失(27・7%)が最も多かったものの、全壊(26・2%)と半壊(同)もほぼ同数で、津波被害と、地震による被害が混在していることがうかがえる。 田老では家屋が流失した人の51・4%が移転を希望。仙台・女川では流出した人の40・0%が移転を望んでいるのに対し、全壊、半壊とも移転を考えている人は、それぞれ17・64%、5・9%と低かった。 また、人的被害については、家族に死者、または行方不明者が「いない」と答えたのは、田老(71・4%)、仙台・女川(81・7%)とも大半を占めた。 住居の移転希望については、仙台・女川では、家族に被害者がいなかった場合は22・2%、いた場合でも3割となっている。一方、田老では、家族に被害がなかった人でも48・3%が移転を希望しており、被害者のいるグループの41・8%を上回るなど、津波が被災者へ与えた不安感や恐怖感の大きさがうかがえる。

 


 

東日本大震災:宮古市田老地区の津波被害を見て 恐怖、伝承する大切さ痛感=竹内正右

毎日新聞 2011年4月21日 東京夕刊

 ◇一部で生きた「明治三陸」の教訓

 岩手県の早池峰(はやちね)山から太平洋側を眺めると、無数の渓谷が海に向かって走っていた。42年前、北上山地の最高峰に登った折の記憶である。 2011年3月11日、宮城県牡鹿半島沖の海底が55メートルもずれ、5メートル余り隆起したことで、陸に向かって大津波が襲った。宮古市田老地区(旧田老町)もひとのみとなり、住民約4500人のうち、230人余りが亡くなるか、行方不明となった。1896年の明治三陸大津波の際、同地区では1859人が死亡したが、それ以来の大惨事となった。 余震の続く3月31日、三陸鉄道の田老駅で西野キクさん(74)は、青ざめた表情でこのように語った。 「祖母に『地震に遭ったらすぐ山に走れ』と教わった。私の住む地区の人々に大声で呼びかけ、山にある常運寺を目指して走った。寺にたどり着いた数分後、大波がズシン、ズシンと防潮堤に砕け散っていた。あれよあれよという間に、真っ黒な津波が渦巻くように押し寄せ、街をのみこんでしまった。寺に年寄りは数えるほどしかいなかった。引き波でたくさんの船が流されるのが見え、2時間後に水は引いた」

 

 田老地区の人々が「日本一の防潮堤」と誇った高さ10メートル、総延長2・4キロの堤防。その2倍以上の高さの大津波が襲ったのだ。漁港の背後にある500メートルの前衛防潮堤は無残にも崩落。田老漁港から岬一つ離れた小堀内では、37・9メートルの遡上(そじょう)高を記録した。「高速で水の壁が押し寄せた射流」と東京大地震研究所は分析したが、西野さんが山から見た田老港の大津波も、それである。 田老漁港の沖合に巨大な波消しブロックがあった。おかげで第1波の20センチの津波を防ぎ、消防団員も中央の水門を閉める余裕があった。だが、第2波、第3波は、そんな人間の営みを嘲(あざけ)るように襲ったのだ。伏線があった。3月8日にも地震があり、40センチの津波が生じている。田老の人々は油断したのかもしれない。この射流は、他の沿岸部でも「物すごいスピードで川を逆流していった」との証言がある。 5000人以上の犠牲者を出した1959年9月26日の伊勢湾台風は東海地方を襲い、私の故郷である静岡の用宗(もちむね)海岸も被害を受けた。高潮と重なり、波の上をさらに高速の高波が走るさまを私も目撃している。一番土手の松並木は、強い引き波で海中に消えた。当時中学3年生の私は母と「これからは、避難するときは裏のミカン山に行こう」と言葉を交わしたものだ。 かつても、この田老周辺の海岸を歩いた私。今、目にする田老は壊滅し、ガレキに埋まる無残な姿をさらす。海からの冷たい風がうなり声を上げる。まるで津波にさらわれた人々の慟哭(どうこく)のようだ。 つぶれたベビーカー……母子はどこだろうか。ピンク色の一輪車……少女も波にのまれてしまったのか。泥のついた黒色のランドセル……少年は逃げ切れたのか。スタンドだけが残った寂しげな田老野球場……野球少年たちも山へ走ったのか。

 

 新潟の施設科連隊の自衛隊員たちが懸命に生存者捜しを続ける。すると突然、寺の煙突から一条の煙がもこもこと上りだした。荼毘(だび)に付された人の魂が、山肌へと静かに漂う。 私は、今もインドシナ取材に関わっている。かつての戦場ラオスでは、今も旧ソ連、中国、ベトナム、米国の各国製不発弾による子供たちの犠牲が絶えない。大人が子供たちに不発弾の位置とその恐ろしさを教えてこなかったことも要因だ。 大人が語り伝えることの大切さは、田老にも当てはまる。明治三陸大津波で生き残った人の知恵は「地震が起きたら、すぐ山に逃げる」。この教えを子供たちに伝承するしかない。 そのうえで、私は祈りたい。早池峰の女神よ、海を鎮めてくだされ、と。(たけうち・しょうすけ=フォトジャーナリスト)

 

 


ドキュメントにっぽんの絆:3・11それから 岩手県宮古市田老地区 母と子

毎日新聞 2011年4月24日 東京朝刊

防潮堤の上から、夫の幸雄さんが仕事場としていた海を見つめる(左から)妻の山本ヒデさん、長女の永都さん、長男の一慶君

すべてをさらった海は、日差しにきらめき穏やかだった。4月3日。山本ヒデさん(45)は、長女の永都(ひさと)さん(17)、長男の一慶(いっけい)君(12)と一緒に「あの日」以来初めて海を見ていた。岩手県宮古市田老地区を二重に守り「万里の長城」とも呼ばれた自慢の防潮堤は、砕かれていた。ヒデさんは前日、潮の流れでたどり着くことが多いという50キロ離れた釜石市まで、夫の幸雄(さちお)さん(49)を捜しに行った。「冷たい海にいるかと思うとかわいそうで……」。幸雄さんは今も見つからない。生活を支え、誇りだった青い海。「もう見るのが怖い」。目をそらし、つぶやいた。

 

 田老の歴史は、津波との闘いだった。1896(明治29)年、1933(昭和8)年の2度の大津波で、地区はいずれも壊滅。明治には人口の半数を超える1859人、昭和でも三陸沿岸で最多の911人が犠牲になり、「津波太郎(田老)」という異名さえ生んだ。約40年かけて世界にも例がない全長2・4キロの防潮堤を築き、昭和津波当日の3月3日早朝には毎年、避難訓練を続けてきた。それでも今回、約200人を超える死者・行方不明者を出した。

 

 あの日。田老診療所の看護師のヒデさんは患者の車椅子を押し、ありったけの毛布を抱えて、海から遠い公民館に避難した。その頃、船上にいた幸雄さんが自宅に戻り、再び飛び出す姿を知人が見ている。「俺はこれがあるから」と消防団のはんてんを羽織って海に向かった。 消防団の同僚が防潮堤に上ると、黒い壁のような津波が目前に迫っていた。幸雄さんに「上るな。逃げろ」と声を掛けたのが最後だったという。その後、幸雄さんを見た人はいない。永都さんと一慶君は学校で無事だったが、幸雄さんの父、冨弥(とみや)さん(81)は高台に上る階段の手前で亡くなっていた。4年前に建てたばかりの家も失った。 6年間の文通が2人を結んだ。高校卒業後に上京し看護の勉強をしていたヒデさんと幸雄さんは90年に結婚。幸雄さんは間もなく消防団に志願して入った。造船業を営む冨弥さんを手伝ってきたが、ヒデさんが「失敗してもいい。やりたいことをやれば」と背中を押した。「小さい頃から海を見てきた。大好きな海の仕事をしたい」。幸雄さんは小さな船を買い、昆布やワカメの養殖業を始めた。 夜間勤務が続くヒデさんの代わりに幸雄さんが夕食の準備や洗濯をこなした。田老から南に20キロほどの宮古市街地にある高校に通い、バレーボール部の練習で帰宅が遅い永都さんを車で駅に迎えに行くため、好きな晩酌も我慢した。

 

 自慢の父だった。永都さんは、震災前夜のやり取りを悔やむ。勉強中、「ご飯だよ」と告げに来た父に「分かったから、しつこい」と言い返してしまった。父の寂しそうな顔が頭から離れない。 津波の1週間後。海の近くで逆さになった父の車が見つかった。永都さんが窓から手を伸ばすと、見慣れない手帳が出てきた。「永都が部活の遠征」「お母さんが市街へ」。にじんだ文字で書き連ねているのは家族の予定ばかり。いつも家族を優先していた父の姿が目に浮かんだ。 誕生日にはプレゼントの代わりに寄せ書きを贈るのが、一家の決まりだった。家の残骸から数枚の寄せ書きが見つかった。「お母さんが輝いているから、家族が輝ける」。「絆を確かめ、心を寄せ合おうね」。永都さんには「いつも笑顔で、明るく前向きでいますように」。野球部だった一慶君へは「一球入魂。自信を持て」。残されたメッセージが今、母子を支える。 田老の避難所の隣で再開した診療所。避難生活で体調を崩した人が列を作る。ヒデさんを必要とする人たちがいる。「海のそばにはもう住めない。でも生まれ育った地の復興を助けたい」。思いは揺れる。 4月4日。宮古市街内陸部のアパートに引っ越した。一慶君は「同じ思いをした仲間と過ごしたい」と田老の中学への進学を決めた。入学式は25日。一慶君を送迎しながら、田老に通う日々が始まる。【安高晋】

 


 

 ハの字型堤防、津波の集中招く 岩手・大槌、東大調査

2011年4月24日0時40分  朝日

 

東日本大震災で大きな津波被害にあった岩手県大槌町で、堤防が津波の力を集中させる形状になっていたことが東京大の調査で分かった。津波の力が集中する部分で堤防が決壊して、街に津波が流れ込んだ。  東京大の佐藤愼司教授(社会基盤学)らは、現地調査や空中写真、地図などをもとに分析した。津波は湾の奥のように狭まった部分で高さを増す。大槌町では、堤防が川の上流に向かって急に狭まる形状になっていた。  大槌湾に到達した津波は「ハ」の字状の堤防に沿って大槌川をさかのぼり、両岸の堤防の幅が急に狭くなった部分で、堤防を決壊させた。ここでは津波は高さ13メートル近かったと見られる。街に流れ込んだ津波は、JR山田線の線路を押し流し、町役場や住宅地に流れ込んだ。  堤防が決壊した内側は、1933年の昭和三陸地震でも津波に襲われた場所。佐藤教授が当時の資料などを調べると、今後も津波による浸水の可能性がある「緩衝地帯」とされていた。その後、今回の津波で決壊した堤防が造られ、内側は農地から市街地に変わっていった。  佐藤教授は「これまでの河川堤防は洪水を防ぐことを主な目的としてきたが、これからは、特に河口付近は津波の特性も考えて点検をしていく必要がある」と話した。(竹石涼子)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

北海道

三沢市

 おいらせ町

八戸市

 階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

  

  

宮古市

59,012人 (推計人口、2011年1月1日)

役所:海岸から 40m

全22,500世帯中、4,675戸全半壊  (20%)

市役所2階まで浸水

宮古市で328人 / 3月25日

死者(遺体安置者) 387人 行方不明者 1,301人 (平成23年4月4日現在)

死者 376  行方不明 1301  避難者 5301  家屋倒壊 4675 4月03日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 396  行方不明 1301  避難者 4063  家屋倒壊 4675 4月10日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

www.city.miyako.iwate.jp/index.html  現在緊急体制中です。停電中のため更新は出来ません。 (2011年03月26日) 〜 メンテナンス中〜再開 (2011年04月04日)

 

津波の被害を受け残骸でうまった宮古市役所の1階出入口=岩手県宮古市で2011年3月14日午前8時41分、和田大典撮影    宮古市役所。2Fまで浸水。

 東北地方太平洋沖地震について  市長メッセージ 

 平成23年3月11日に発生しました東北地方太平洋沖地震でお亡くなりになった皆様及びご家族の皆様に対しまして、心からお悔やみ申し上げます。また、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。  さらに、身を挺した救援活動を行っております皆様に深く敬意を表します。 今回の地震及び津波は、想像を絶する未曾有の大災害で、報道で被害状況を見るたびに、その惨状に胸がつまるおもいです。 本市においても、平成15年に台風第14号の来襲で、大きな被害を受けたとき、全国各地の皆様から温かいご支援を頂きました。 今回は、本市が被災地の一日もはやい復興に向け、関係機関と連携し、支援していく時だと考えております。 また、市民の皆様から被災地への支援について協力したいなどの話しを伺っております。市民の皆様の善意の声が被災地に届くよう、本市といたしましても、情報を収集し、窓口を設置、対応してまいりたいと考えております。今こそ、宮古島市民の「結い」の精神を発揮し、被災地の皆様を応援しましょう。   平成23年3月14日 宮古島市長 下地 敏彦

 

 

 

 

 津波模型で怖さを実感 宮古工高が重茂小で実演

2011.3.4 岩手日報  (8日前)

 

 宮古市赤前の宮古工高(藤原斉校長、生徒276人)は3日、同市重茂の重茂小で津波模型の実演を行った。 1933(昭和8)年の昭和三陸津波を風化させまいと2009年から、同津波発生日の3月3日に毎年同校で実施。2、3年生の生徒6人が来校した。 模型は学校近くの音部地区を2千分の1の大きさで再現した。住宅の並びや防波堤、海の深さなどを忠実に模した。 模型の上部から機械で水を流し込むと「疑似津波」が発生。高さ7〜25メートルを想定した疑似津波で模型の家々が次々と浸水すると、実演を見守った児童からは「家が沈んだ−」などと驚きの声が上がった。 音部地区に住む重茂小の山崎麻衣さん(3年)は「音部には津波があまり来ないと思っていたのでびっくり。津波が来たら急いで逃げたい」と怖さを実感していた。

 

 

  

http://www.theatlantic.com/infocus/2011/03/japans-earthquake---the-aftermath/100023/

岩手県宮古市    堤防をやすやすと越えた黒い波が一気に海辺の街に襲いかかった=岩手県宮古市の閉伊川河口付近で2011年3月11日午後3時21分、狩野智彦撮影

 

 

man stands on a street scattered with rubble, boats and vehicles at Miyako, northeastern Japan, on Saturday March 12, 2011, one day after a giant earthquake and tsunami struck the country's northeastern coast. (AP Photo/Kyodo News) MANDATORY CREDIT, NO LICENSING ALLOWED IN CHINA, HONG KONG, JAPAN, SOUTH KOREA AND FRANCE 

 

東日本大震災:街はう黒い水塊…本紙記者津波に遭遇 宮古

毎日新聞 2011年3月13日 18時57分

 

波は街をはう黒い水塊のようだった−−。11日午後3時21分、岩手県宮古市の閉伊(へい)川河口近くにある宮古市役所。4階ベランダから見た津波の第2波は「ゴゴゴゴゴ」という音とともに高さ約3メートルの堤防を越えると、瞬く間に地表を走った。 「最悪だ」「うわー」。市職員が放心している。手が震えてシャッターボタンをうまく押せない。そのまま孤立して一夜を明かし、盛岡市に戻ったのは12日夜だった。 宮古市へは統一地方選の取材で出向いた。喫茶店で一息ついた時、揺れが襲ってきた。外に出ると、地面が波打ち、電柱が左右に揺れている。土地勘はない。とりあえず市役所へ向かう車のラジオで地震の規模を知った。 第1波は午後3時16分。岸壁の漁船約10隻を上流へ連れ去った。そして黒い水塊が来た。市役所脇のラーメン店などが流され、市役所駐車場に止めた車も消えた。漂着したLPガスのボンベから白煙が吹き出し、泥とガスの異臭が鼻をついた。 「助けて!」。見ると、住宅の屋根の上で4人が悲鳴を上げている。水位はさらに迫る。「死」の一文字が脳裏をかすめた。

 

 孤立した。固定電話は使えない。携帯電話は圏外。情報源はラジオだけだ。「こういう時こそ励まし合いましょう。みんなで頑張りましょう」というアナウンサーの声が、どれだけの被災者を励ましているか。想像すると熱いものがこみ上げてきた。 12日、水につかりながら津波の爪痕を通って約5キロ歩き、ヒッチハイクで約100キロ離れた盛岡市にたどり着いた。歩く途中の光景はすさまじかった。 いたる所で打ち上げられた漁船や車両が道路をふさぎ、住宅が別の住宅に突き刺さっていた。様子を見に来た人々はみな口をあけ手でそれをふさいだ。まさに「あぜん」だった。 腰の曲がったおばあさんが高台から駆け下りてきた。「父ちゃんと息子が流された」。顔を覆った両手の隙間(すきま)から嗚咽(おえつ)が漏れた。背中をさすってあげることしかできなかった。 自宅だろうか。中年男性はがれきを前に立ちつくし、つぶやいた。

 「終わった……」 海は何事もなかったように穏やかだった。【狩野智彦】

 

 


 

砂と流木駅を覆う 宮古

2011年03月14日 河北

 

 津波で甚大な被害を受けた宮古市。その爪痕は深く、復旧作業はなかなか進まない。漁港に程近いJR山田線津軽石駅。2両編成の普通列車がホームから約20メートル離れた場所に横転していた。構内は土砂や流木に覆い尽くされ、そこが駅だった面影はない。 1人で構内の土砂を片付けていた男性駅員(61)は「電話がつながらず、(JRの)盛岡支社との連絡も取れない」と疲れ切った表情。 宮古湾に張り付くように約900世帯が密集する市中心部の鍬ケ崎地区では、木造家屋が波の力で重なり合うように倒壊していた。二次災害の恐れもあり、自衛隊による捜索活動は危険と隣り合わせの状態だ。倒れた家屋の隙間から、ありったけの布団や毛布を取り出す住民もいた。

 自宅が全壊し、小学校に身を寄せていた会社員松田敏男さん(62)は「被害の大きさを現実に受け止められない」とうつむく。

 先の見えない避難生活が続く。(菅谷仁、吉江圭介)

 


漁師の徒然なるブログ

 

日立浜町津波被害

2011年03月14日 06時22分45秒

ここに自分の家がありました。土台の基礎だけ状態です。下隣家が自分家あるとこ超えて上にありました。家が跡形もありません。涙もでません。ショックを通り過ぎてます。なにもかにも失い。残ったのは携帯電話と命と船だけ。今後 どうすればいいのかと途方に暮れ過ぎています。食料と水がないと生きていけないです。

 

2011年03月18日

自分の家がなくなったショックは計り知れないです。ショックを通り過ぎて流す涙がまったくありません。帰る家がないです。地震きて津波が来ると判断して、即効逃げました。もう持ち物を選び持って逃げる余裕や考え方は、一切頭になかったです。おかげで命が助かりました。あと少し遅れてたらば船でも助からなかったです。隣家の大須賀民宿のおばあさんは津波にのまれ行方不明。家から斜め向かいの家のおばあさんも流され行方不明です。

 

2011年03月22日

それにしても盗みが凄いです。鍬ケ崎にきた盗っ人がいっぱい。かっぱらいしてます。ここらへんじゃない人が入りこんでます。それも平気で。かっぱらい横行。治安が悪い。南地域では夜に懐中電灯で探していたの注意したらば刃物で刺されたそうですし。強奪や窃盗、治安が悪い現実。女性の一人歩きや男性でも単独行動はつつしみ二人以上の行動で。昔の安全なのは崩壊。倒壊した鍬ケ崎信用金庫に窃盗してた輩を取っ捕まえたそうですし。地域で自警団を結成しないと。自分の地域は自分達で守る。夜は危険です。出歩くのはかなり危険ですから、気をつけましょう。事件に巻き込まれないように。

 

2011年03月28日

津波で橋が崩落まま。自殺者がまただそうです。今後増えそうです。頑張っての言葉は無責任です。かえって逆効果だと思います。

 

 

2011年04月06日

いつきても家がない。道路確保撤去で家跡地は 瓦礫場所に。津波後には 基礎だけでした。津波時 高台向かってに逃げた漁師が、日立浜で一番最初に一階から根こそぎ壊れ破壊されながら流されなくなったと言われました。なんか悲しい。見ていた漁師達にはおめーんちが最初にぶっ壊れて無くなったと浜どこで会うといつも言われます。いつも いつも。

 

「母の顔、もう一度…」 宮古商高の山根さん

2011/03/17 岩手日報社

    

学校からの帰宅途中、津波に流されながらも奇跡的に命をとりとめた宮古商業高校1年生の山根りんさん(16)は、宮古市内の遺体安置所で母親を捜した。一緒に津波にのまれた母。もう生きていないかもしれない。「せめてもう一度顔を見たい」と声を詰まらせた。 大地震の瞬間、学校まで迎えに来た母親が隣にいた。宮古湾沿いに立つ温泉宿泊施設近くのコンビニエンスストアに立ち寄ったところで、津波に襲われた。母親とともに走って高台に逃げたが、押し寄せるたびに高さを増す津波は堤防を乗り越え、背後から迫る。 「海の中でもみくちゃになって息もできなかった。もう駄目だと思った」。うねる水面から顔を出すと、辺り一面何も見えない。付近の集落から流された家屋の屋根にはい上がると、唯一残った温泉宿泊施設の屋上で、逃げ遅れた従業員の叫び声が聞こえた。 「こっちさこ(こっちへ来い)。がんばれ」。泳いでたどり着ける距離ではなかったが、しがみついた屋根が流されて宿泊施設にぶつかったはずみで、ガラスの割れた窓から屋内に飛び込み、上の階に駆け上がった。 屋上にいて声を掛け続けた温泉施設の支配人佐藤光伸さん(62)は「助かったのは奇跡としか言いようがない」。寒さに震える山根さんに逃げ遅れた宿泊客が着替えを差し出し、毛布を集めて暖を取った。かすり傷程度で済んだが、隣にいたはずの母親の姿はない。 父親と一緒に出向いた遺体安置所で母親を見つけることはできなかった。「泥の中にいるのかもしれないけど、捜さないと」。16歳の女子高生は気丈に振る舞った。

 


 

 田老の夜空真っ赤だった 船で2泊、宮古の中村さん

2011/03/21  岩手日報    

 

 岸に打ち付ける大津波。その光景を宮古市白浜の漁業中村敏さん(63)は宮古沖の漁船から見た。がれきは岸から3〜4キロ沖まで押し寄せ、船上での2泊を余儀なくされた。「田老地区の火災で夜空は真っ赤。陸の様子が分からず、家族が心配だった」と恐怖を振り返る。 白浜地区は重茂半島の西側。地震の際、自宅で作業していた中村さんは「船を助けねば」と、比較的波が小さいとされる沖に船を出すことを決めた。 岸に着くと、既に潮の流れが速く、渦巻いていた。「今回の地震は違う」。中村さんは大津波の兆候を感じ、全速力で船を進めた。 7・3トンの船は沖でも「グァー」と波に持ち上げられた。津波は真っ白な水しぶきを上げて浄土ケ浜などに打ち付け、田老地区の水しぶきは手前の山を越えて見えた。「頭の中が真っ白となり、言葉が出なかった。無線で陸の様子を聞いても、『大変だ』だけで詳細が分からなかった」。 壊れた船や木材などが帰港を阻み、船上での生活は13日朝まで続いた。食料は海上自衛隊からロープを使って降ろされたおにぎりを他の船と分け合い、水は魚の冷却用の氷を溶かして口にした。 中村さんは昨年のチリ大地震津波で養殖していたワカメやコンブが壊滅的な被害を受け、機材や船を新調したばかり。妻孝子さん(62)は「携帯電話がつながらず、生きているのか心配だった」と夫の無事を喜びつつ「今年はコンブがうまく育っていたのに」と被害の大きさを口にする。 中村さんは「これまでの災害も頑張って乗り越えてきた。自然には逆らえないが、負けたくはない。海が好きで海で生きたいという気持ちに変わりはない」と必死に前を向く。

 

 

「陸の様子が分からず、家族が心配だった」と語る中村敏さん。右は妻孝子さん=宮古市白浜

 


 

 東日本大震災:避難所ルポ 息子を捜す母、でも…「もっと話したかった」 岩手県 宮古市

毎日新聞 2011年3月25日 地方版 兵庫

 

 東日本大震災の被災地へ入り、取材を始めて4日目の16日、一つの出会いがあった。午後9時ごろ、岩手県宮古市内を車で走っていると、弁当専門店が開いていた。同僚の記者と中に入り注文すると、女性店員がすがってきた。「息子の行方が分からないんです」 同市の高橋麗子さん(59)は、長男龍(りょう)さん(35)の行方を捜していた。 高橋さんは女手一つで、龍さんと娘2人を育てた。龍さんは、宮古港近くの運送会社に勤務し、同県北部の久慈市などに荷物を配送していた。高橋さんと宮古市内のアパートで2人暮らしだったが、配送先などで宿泊することも多かった。昼夜、仕事を掛け持ちする高橋さんとは、顔を合わせる機会は少なかった。最後に会ったのは約1カ月前だった。 私たちは18日、取材の合間に市役所や避難所を回り、避難者名簿をくまなく調べた。だが、龍さんの名前はない。19日夕方になり、高橋さんから「息子の車が見つかった」と連絡が入った。 翌20日、車が見つかった宮古港近くの高台に、高橋さんと一緒に行った。車内には、財布や着替え、洗面道具があった。車は無傷で、安全な場所に止められていた。 高橋さんはリュックサックに、龍さんの部屋にあった壊れた腕時計を入れていた。「息子のところに連れて行ってくれる気がして」と話す表情は、今にも泣き出しそうだった。 近くに住む木村慶治さん(71)は、龍さんが車から降りる姿を見ていた。「港の魚市場の方向に行った気がする。間もなく津波がきたのではないか」。その情報をもとに、車があった場所から坂道を約400メートル下り、魚市場に向かった。 そこで、龍さんの会社のトラックが逆さまになっているのを見つけた。会社のトラックを避難させようと取りにきたのかもしれない。でも、魚市場の眼前はもう海だ。「自分の車のところにいてくれたら……」。高橋さんはトラックの中をのぞき込んだが、我が子の姿は見えなかった。

 

22日朝、高橋さんから、「りょうが目を青くして氷のように冷たくなって見つかった」とのメールが入った。21日夕方に、龍さんの会社の人たちから知らされたという。消息を絶った場所から約1キロ北の岸まで流されたらしい。 電話口の高橋さんは、「『早く見つけられなくてゴメンね』と息子に伝えました。(元気なうちに)もっと話しておけばよかった」と、私に涙声で話した。【後藤豪】

 

 


 

岩手の景勝、無残な姿に 浄土ケ浜・碁石海岸

2011年03月26日 河北

 

岩手県沿岸部屈指の景勝地、宮古市の「浄土ケ浜」と大船渡市の「碁石海岸」。東日本大震災で景色は無残に変わり、地元の観光関係者をがっかりさせている。

 遊歩道を海に向かって歩いていくと、所々で土砂が崩落し、木々がなぎ倒されている。800メートルほど進むと浄土ケ浜だ。 「剣の山」の白い岩肌に津波の痕跡は見られないが、浜辺のあちこちに木片やごみなどが打ち上げられた。遊歩道のアスファルトも約60メートルにわたってめくれ上がった。「極楽浄土」は、もうそこにはない。 現地調査した宮古市の職員は「トイレなど木製の建造物はほぼ全壊した」と険しい表情。昨年3月に完成した鉄筋コンクリート2階のレストハウスも一部がゆがみ、廃虚と化した。観光地として立ち直るまでの見通しは立たない。 発泡スチロールやごみが風にあおられては、落ちる。ウミネコの声も、もの悲しく響く。(佐々木貴)

     ◇

 年間50万人が訪れる国立公園の碁石海岸。代々続く浜辺の民宿は津波でつぶされ、奇岩の周囲は重油で黒ずむ。 碁石のような形をした美しい黒砂利が特徴の碁石浜には、破壊された防波堤のブロックやがれきが散乱する。 浜に面した喫茶店は土台だけが無残に残る。 約40年続く民宿は1階部分がつぶれてしまった。男性経営者(45)は「生まれ変わったつもりでやれば、次に進めるでしょう」と気丈に話した。 三つの巨大な穴が空き、小型遊覧船で穴をくぐれる奇岩「穴通磯」。強烈な重油の臭いが鼻につき、黒ずんだ海に家屋のがれきなどが漂う。ひっくりかえった小舟も浮かんでいた。 「いつもはきれいな海で、アワビも採れたのに哀れな姿になった」。近くの男性漁師(70)は変わり果てた光景を見つめ続けた。(坂井直人)

 

大量のがれきなどが打ち上げられた浄土ケ浜


 

再会信じ娘待つ 宮古の夫妻、贈られた車で命拾い 岩手県 宮古市

2011/03/27 岩手日報

 

多くの人命と財産をのみ込んだ大津波から半月。宮古市崎鍬ケ崎の建築業山下啓一さん(58)、真知子さん(58)夫妻は、行方不明となっている長女留美子さん(34)の帰りを待ち続けている。娘からプレゼントされた軽トラックで逃げ、一命を取り留めた啓一さん。「夢でもいいから会いたい」。車を見つめながらその時を待っている。 山下さん方は6人家族。市内の特別養護老人ホームに勤務する看護師の留美子さんは震災当日、仙台市から訪ねてきた友人と一緒だった。友人を見送りに車で家を出て数分後、地震が発生した。

 

 啓一さんは市消防団第16分団の分団長。防災無線のサイレンを聞き、団員と共に急いで水門を閉鎖した。運転していた軽トラックに戻ると無線から「高台に行け−」の声。急いで避難した。 津波が収まり自宅を見にいくと建物は跡形もなく、地面に基礎が残るだけ。「まさか津波がここまで来るとは」 ぼうぜんと見つめていると、そこにあるはずのない物が…。留美子さんの車が残されていた。 近所の住民に聞くと、留美子さんは地震が起きて自宅に戻ったらしい。真知子さんは「新幹線が止まって友達が帰れなくなるから、高台にある自宅へ戻ったと思う」と話す。 連日、必死に捜したが留美子さんは見つからない。水泳が得意なので「もしかしたら、どこかの船に助けられているかもしれない」と思い、真知子さんは「るっちゃん、るっちゃん」と冷たい雪が降る中、海に向かって何百回と叫び続けたこともあった。 留美子さんは市内や宮城県の病院に勤めた後、2009年に帰郷。てきぱきと仕事をこなし責任感が強く、職場から信頼を集めていた。 家では、啓一さんを大切にする親思いの娘だった。今年1月、父親を驚かせようとためたお金で軽トラックをプレゼントした。啓一さんに内緒で買い物に付き合った真知子さんは「『お父さんどんな顔するかな』って、本当にうれしそうだった」。その笑顔が忘れられない。 津波が起きた時、啓一さんが乗り込んだのは、その軽トラック。普段は水門付近で潮位の変化を見守っているが、いつもと違う様子に急いで避難した。津波はこの水門も越えてきた。もしかしたら、娘が知らせてくれたのかもしれない。「お父さん逃げて」と。 避難生活を送る啓一さんは大切な軽トラックを見つめ「大事に乗らなくちゃいけないな…」と涙を拭った。

【写真=留美子さんからプレゼントされた軽トラックを見つめる山下啓一さん。「夢でもいいから出てきてほしい」と自慢の娘の帰りを信じる=宮古市崎山の避難所】

 


東日本大震災:頑張って届けるよ 姉妹が支援物資配達−−岩手・宮古

 毎日新聞 2011年3月29日 東京夕刊

鍬ケ崎小学校に届いた支援物資を竹の籠に背負い、自宅で避難している人たちに届ける松田優奈さん(左)と凜奈さん姉妹=岩手県宮古市で2011年3月29日午前7時37分、木葉健二撮影 

岩手県宮古市立鍬ケ崎小学校に届いた支援物資を竹の籠に背負い、松田優奈さん(12)と凜奈(りんな)さん(10)姉妹は、自宅で避難している人たちに届けている。祖父の松田勝己さん(69)が、震災2日後から、お年寄りたちのために配達を始めた。その祖父の姿を見た姉妹は、翌日から手伝うようになった。おにぎり100個を籠に入れると時には重さは20キロ近くになるという。優奈さんは「重いけど、被災者の笑顔を見ると救われる」と話す。【写真・文 木葉健二】

 

 

 自宅で避難生活を送る人たちのため、鍬ケ崎小に届く支援物資や食料を届ける松田優奈さん(12)と凛奈さん(10)。背負いカゴが肩にずっしりと重い=岩手県宮古市で2011年3月28日午前8時39分、金澤稔撮影 毎日

   

 

津波で破壊された消防車付近を捜索する地元住民ら。津波を知らせに来た消防団員が巻き込まれた=岩手県宮古市の小堀内漁港で2011年3月28日午後2時34分、金澤稔撮影

漁港近くの沢を捜索する地元消防団員ら。津波を知らせに来た団員2人と漁師4人が行方不明のままだ=岩手県宮古市の小堀内漁港で2011年3月28日午後2時40分、金澤稔撮影

消防団員や漁師8人が津波に巻き込まれた現場では、行方不明者の家族も捜索に加わっていた=岩手県宮古市の小堀内漁港で2011年3月28日午後2時38分、金澤稔撮影

 


 

 岩手・宮古市、市役所で窓口業務を再開

TBS系(JNN) 3月28日(月)12時35分配信

 

 宮古市役所は海から幾分距離はあるんですが、近くの川を伝って津波が押し寄せ、市役所前には今も大型漁船が打ち揚げられたままとなっています。一方、市役所の庁舎本体も津波によって浸水し、総合窓口の1階のフロアーが全壊しました。そんな中、28日から再開された総合窓口は、2階の会計課に場所を移し設置されました。 住民票、戸籍謄本、印鑑証明などの記録が収められたコンピューターのサーバーが2階にあったことで、データそのものの消失からは難を逃れることができました。窓口では1度に6人までの対応が可能で、被災者は午前8時半の業務開始前から市役所を訪れ、申請のための長い行列ができていました。 「車をなくしたので、必要な書類。あと、いろんなものをなくしているので購入のため」 「住所変更です。(窓口が)稼動ということで一安心です」(訪れた市民) 総合窓口の業務に通常携わっているのは31人。しかし、避難所や物資の輸送業務に人がさかれていて、28日は、およそ半分の態勢での業務再開となりました。市役所窓口の再開で様々な手続きができるようになり、復興への1つの足がかりとなったようです。

 


 

不可解な行政政策

2011年03月30日 製作者

宮古市のホームページは、何らかの理由で、26日頃から、「メンテナンス中」との表示だけで、トップページのみ閉鎖中です。  先日まで、更新してましたから、故意によるものです。  こんな時だからこそ、市のページを有効活用された方が、宜しいと思います。 「○○緊急に必要とか」ですね。 福島県 浪江町の場合は、唯一 生存者情報を発信していて、賢いと思います。  http://www.city.miyako.iwate.jp/cb/hpc/Category-1223.html (観光 その他 表示可)

top ページは、これだけ

 


此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う  岩手県・宮古市・重茂半島・東端・姉吉地区

2011年3月30日07時22分  読売新聞

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm?from=navr

過去の津波で壊滅的被害を受けた姉吉地区にある石碑(27日、岩手県宮古市で)=菊政哲也撮影

 

「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。

 

 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」

 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛) 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。

 

 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。

 


ここより下に家を建てるな 宮古、集落守った石碑  宮古市 重茂 姉吉地区

2011/04/03 岩手

    

 

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」。明治、昭和の三陸大津波によって2度の壊滅的な被害を受けた宮古市重茂の姉吉地区に教訓を伝える石碑がある。今回の大震災で予想を超える波が各地に襲来する中、先人の教えが本州最東端の※ケ崎(とどがさき)に最も近い11世帯約30人の集落を守った。 石碑は姉吉漁港から数百メートル坂を上った場所で、集落の最も海側の住宅から約100メートル下にある。建ったのは昭和三陸大津波があった1933(昭和8)年以降とみられる。 姉吉地区は津波によって、これまで全滅に近い被害を受けてきた。住家が漁港周辺にあった1896(明治29)年には数十人が犠牲となり、生存者は2人。1933年は生存者4人だった。以来、住宅が石碑より海側に建ったことはない。 今回の大震災では住民は集落周辺より、さらに高台に逃げた。岩が崩れたような音が響いたためだ。 自治会長の木村民茂さん(64)は「集落が2度も全滅したことが、みんなの心にある」と危機意識の高さを証言する。津波は先人の教え通り、石碑より海側でとどまった。

 

 ただ住民の心は晴れない。津波襲来当時、たまたま他の集落にいた同地区の4人が行方不明だからだ。木村さんは「いくら家が助かっても、人がいなくなっては意味がない」と無念の表情を浮かべる。 漁業被害が大きかったことも心を暗くする。倉庫10棟とともにほとんどの漁具が流失した。「職場がそのまま持っていかれた」と不安を抱える。 今回の教訓について、木村さんは「地震の大小に関係なく津波を甘く見てはいけない。ずっと言い続けなければならない」と後世に伝える考えだ。※は、魚へんに「毛」。

 

 

 


 

 東日本大震災:海保「救えなくても感謝される…つらい」

毎日新聞 2011年3月30日 12時16分

 

「こんな悲しい仕事はない」。東日本大震災の行方不明者捜索にあたる海上保安庁特殊救難隊の隊員はこうつぶやいた。映画「海猿」シリーズで注目されたこの隊の最大の任務は人命救助だ。海上保安庁はこれまで被災地全体で324人を救助、76人の遺体を収容した。だが被災から2週間以上が過ぎた今は、生存者の救助だけでなく遺体発見も難しい。「ここまで捜してもらっても見つからないのなら」。行方不明者の家族が気持ちに区切りをつける。そんな役割も担っている。【石戸諭、村山豪】

 

 救難隊員の増井雅和さん(27)が海面で叫ぶ。「車があった。人がいないか確認します」。26日、岩手県宮古市重茂(おもえ)の石浜地区。前日から周辺海域で捜索にあたっていた特殊救難隊員ら4人の捜索チームがこの日、地域住民に頼まれたのは行方不明者が乗っていた車の捜索だった。 チームが重茂で捜索にあたったのは25、26日だ。25日には行方不明になっていた72歳の男性の遺体を海中で発見した。地区の住民ががれきの下を捜し続けたが、この日まで見つけることはできず、海保に捜索を依頼した。身元を確認した親族は「遺体が見つかるだけでも幸せです」と語ったという。 石浜地区の漁業、石村辰五郎さん(57)は26日、隊員たちに頼み込んだ。「奥さんが流されていて、手がかりがない人がいるんだ。せめて車だけでも見つかれば気持ちが整理できる」。石村さん自身も母スエさん(83)と孫の飛輝(とき)ちゃん(3)の行方が分かっていない。「おらんとこも何にも見つからねえ。だからよ、手がかりがあるなら見つけてあげてほしいんだ」。厳しい表情で語る石村さんの頼みを受け、石浜地区を捜索することになった。

 

 行方不明になったのはこの地区で漁業を営んでいた馬場光紀さん(48)の妻美和子さん(45)だ。石浜地区の昆布の加工場で働いていたところを津波に襲われた。沿岸から200メートルほど離れた場所だ。乗っていた軽乗用車は加工場近くに置いており、乗って避難しようとした可能性もあるという。光紀さんは「(自分たちでは)捜しても捜しても見つからない」と話し、隊員たちの捜索を岸壁近くで見つめた。隊員たちは海域の潮流などについて住民たちに聞きながら、捜索場所を決めていく。最初の捜索で車が1台見つかった。岸壁から約50メートル離れた海面に増井さんが顔を出して叫ぶ。「ナンバーは××−××」。住民から「その車の持ち主は別の人だ」と声が上がる。 2度目の潜水では、隊員たちは指も足も感覚がなくなりつつある。5度を切る水温の中で作業を続ける隊員の体力は限界に近づく。その時、「車が見つかった。ナンバーは……」。美和子さんの車だ。隊員たちはすかさず「(中に)人がいないか確認します」と言い、再び潜水を始めた。数分後、潜水服のオレンジ色が海面に上がってくる。叫ぶ。「人はなし、人はなし」。光紀さんは「ふうっ」と息をつき、しゃがみこんだ。 隊員たちが陸に上がってきた。光紀さんは小さく一礼した。そして「良かった。車だけでもあったんだ」とつぶやき、また海を見つめた。 作業を終えてたき火で暖を取る隊員たちから「(見つけられず)悔しいなあ」との声が漏れた。地区の消防分団長が近づいてきた。「ありがとうございました。これで次に進めます」。みんな行方不明の家族をあきらめきれず、災害対応に身が入らない。車だけでも見つかれば気持ちが落ち着く、そういう現実があるという。 陸上で指揮した第2管区海上保安本部刑事課の西野正則さん(52)は言った。「人命救助より、(生きている人が)区切りをつけるための捜索になっている。命を救えなくても、感謝される。これはつらいし、悲しいことだよ」

 

 

捜索に当たる海上保安庁の特殊救難隊員ら=岩手県宮古市重茂の石浜地区で2011年3月26日午後、村山豪撮影

宮城県石巻市の鮫浦湾で漂流物の水面下に潜って捜索救助する潜水士たち=2011年3月19日、海上保安庁提供

 

 


 


 平成23年3月11日に発生した東日本大震災に関わる宮古市の被害状況は次のとおりです。
                                    

人的被害(平成23年4月4日12時現在)

(1)死者(遺体安置者) 387人 
   内訳)勤労青少年体育センター/160人、千徳地区体育館/86人、田老公民館体育室132人
   ※宮古地区の遺体安置場所は、勤労青少年体育センターを廃止し、千徳地区体育館1カ所となりました
   ※田老地区の遺体安置場所は、宮古北高校を廃止し、田老公民館体育室に移動しました
(2)負傷者 33人※調査継続中
(3)行方不明者 1,301人※避難所での聞き取り及び町内会長などの協力を得て調査を継続しています
(4)避難所数 42カ所
(5)避難者数 3,633人※避難所へ避難している人、避難所周辺の人や施設に入所している人など支援を必要としている人の累計です

住家等被害 ※調査継続中

(1)住家等被害 全壊3,669戸 半壊1,006戸 一部破損176戸 床上浸水1,760戸 床下浸水323戸 
(2)地区別の内訳

地区

全壊

半壊

一部破損

床上浸水

床下浸水

宮古地区

722

647

118

1,262

247

2,996

鍬ヶ崎地区

646

136

 

33

 

815

崎山地区

148

24

 

17

6

195

津軽石地区

426

136

57

287

56

962

重茂地区

118

4

1

11

2

136

田老地区

1,609

59

 

150

12

1,830

3,669

1,006

176

1,760

323

6,934

(3)公共施設被害 調査中 

 

 


 東日本大震災:「あ、死ぬんだな」宮古の漁師・山内敏範さん、恐怖の模様語る /岩手  宮古市 崎鍬ケ崎 日出島漁港

 毎日新聞 2011年4月6日 地方版

 

 東日本大震災の津波で、宮古市崎鍬ケ崎の日出島漁港では漁師だけでも養殖漁船の陸揚げなどをしていた9人がさらわれ、行方不明となった。いち早く船を揚げた通称・大付(おおづけ)の漁業、山内敏範さん(61)も堤防をはるかに越えて押し寄せる津波に巻き込まれたが、約100メートル先の沢の上まで流され、奇跡的に助かった。山内さんが恐怖の模様を語った。 大きな地震の後には津波が襲来し、その前に漁船を海から陸揚げするのが漁師の習性だ。山内さんも高台の自宅から約200メートルの坂を下って駆け付け、磯漁に使う小型漁船を陸に揚げた。浜には13人ほどの漁師がいた。そのうち、海水が引いて漁港の海底がのぞいた。「津波の前兆だ」と山内さんら11人ほどが海から6、7メートル高い場所に逃げ、船が大丈夫か見守った。2人ほどがまだ浜に残り、引き波で流される船を必死に押さえていた。 津波はあっという間だった。どす黒い、壁のような波にのまれ、もみくちゃにされた。大量の海水を飲み、「あ、これで死ぬんだな」と思ったら気を失った。気が付くと、杉林の中に倒れていた。着ていたセーター、長靴、靴下は流され、はめていた腕時計もなかった。「助かった」。ふらふらしながら沢を下り、消防団員に発見されて県立宮古病院に運ばれた。せき込む度に「腐葉土のようなヘドロ」が出た。低体温が心配されたが、3日で退院できた。 浜では漁師9人と、嫁に手を引かれて避難する途中だった80代の女性の計10人の行方が分からない。山内さんら漁師4人が助かった。山内さんは「みんな漁の仲間だった。一家の大黒柱だった」と目をしばたたかせた。【鬼山親芳】

 


 宮古・姉吉地区/「此処より下に家を建てるな」 石碑の警告守る  幾歳経るとも要心あれ

2011年04月10日 河北

 

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」。先人の警告を刻んだ石碑が立つ宮古市重茂の姉吉地区(11世帯、約40人)。沿岸部の家々が津波で押し流された宮古市で、ここは建物被害が1軒もなかった。海抜約60メートルの地点に建立された石碑の教えを守り続けてきた住民は、あらためて教訓の重さを胸に刻んでいる。 姉吉地区は、明治三陸大津波(1896年)で60人以上が死亡し、生存者は2人だけ。昭和三陸津波(1933年)では100人以上が犠牲になり、生き残ったのは4人。2度とも壊滅的な被害に遭った。石碑は昭和三陸津波の後、住民の浄財によって建てられた。 津波は今回、漁港から坂道を約800メートル上った場所にある石碑の約70メートル手前まで迫ったという。海辺にいた住民らは地震後、坂を駆け上がって自宅に戻り、難を逃れた。 海岸近くに船を浮かべ、ワカメ採りの準備をしていた姉石勇さん(69)は、山が崩れるのを見て地震を知り、すぐに自宅に帰った。

 「家まで上がれば、津波が来ても大丈夫という気持ちがある」と話す。 津波は、湾の堤防を打ち壊し、コンクリートの巨大な塊が浜に打ち上げられた。樹木は根こそぎ倒され、岩肌が激しく削られた。 自治会長の木村民茂さん(64)は「2度も津波で全滅に近い被害を受けており、姉吉の危機意識は強い」と説明する。住民らは昭和三陸津波から50年目に漁港に観音像も建立。毎年6月に供養の法会を営み、惨禍と教訓を継承してきたという。 木村さんの気掛かりは現在の行方不明の親子4人だ。隣の地区の学校に子どもを迎えに行ったまま安否が分からない。 「家は無事でも人が犠牲になっては…」と無念そうな木村さん。「人は自然に勝てない。これからも津波の恐ろしさを伝え続けないといけない」と話している。(東野滋)

 

◇ 姉吉地区に立つ「大津浪記念碑」の全文は次の通り。

 高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪/此処(ここ)より下に家を建てるな/明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て/部落は全滅し、生存者僅(わず)かに前に二人後に四人のみ/幾歳(いくとし)経るとも要心あれ

 


 

 もう食べられない「煮込み中華」 宮古の店主犠牲に

2011/04/12 岩手

 

ぬくもりあふれる一杯はもう食べられない。宮古市築地で半世紀、「若山食堂」を営んだ若山敏子さん(82)が東日本大震災で被災し、亡くなった。看板メニューの「煮込み中華」と気さくな人柄を慕い、足しげくのれんをくぐった常連客。港町から一つ名店の灯が消えたことを惜しんでいる。 「津波が来るぞ。早く逃げよう」。激しい揺れが宮古市を襲った3月11日。近所の住民に避難を促された若山さんは「私は大丈夫」と断り、店舗兼自宅にとどまった。足が不自由だった若山さん。間もなく大津波が背後の堤防を乗り越えた。 若山食堂は市中心部を流れる閉伊川河口に1960年創業。人気はしょうゆラーメンにじっくり煮込んだ分厚い豚バラ肉がのる煮込み中華。二人三脚で店を切り盛りする夫と5年の試行錯誤を重ねて75年に売り出した。 近くには市役所や東北電力など事業所が立地し、昼時になるとサラリーマンがのれんをくぐった。「おいしい」とマスコミで紹介される機会も増え、県内外から多くの観光客も訪れた。 「私の味に勝るラーメンはない」と自信たっぷりに語っていた若山さん。買い出しを手伝っていた同市愛宕2丁目の坂下正一さん(78)は「手間賃だと言ってたくさんお裾分けしてくれた。心が強く、きっぷの良い女性だった」と往時をしのぶ。 近所の住民によると、若山さんは昨年暮れごろ病気で入院して以来、店を休んで療養。大震災の2日前、津波注意報が発令された時には「店と流されるなら悔いなし」と強い愛着をにじませたという。 同市日の出町の会社役員八重樫昌三さん(70)は「お客を大切にするおばあちゃんだった。真心こもった味と家庭的な雰囲気がなくなるのは残念」と肩を落とす。

往時の若山敏子さんと看板メニューの煮込み中華=2004年3月、宮古市築地の若山食堂

 


宮古、潮位下がった後に大津波 時速115キロの猛スピード

2011/04/21 18:29 福島民報

 

東日本大震災で岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島を襲った津波は、上昇した潮位がいったん下がった後、高い波が時速約115キロの猛スピードで押し寄せていたことが21日までに、岩手県立博物館(盛岡市)の大石雅之首席専門学芸員が入手した連続写真の分析で分かった。  大石さんは「大震災では、津波が一度引いた際に自宅に貴重品を取りに帰ったり、漁港の船に戻ったりした人が犠牲になった。一連の写真は、この実態を裏付ける資料」としている。  写真は大震災当日の3月11日、重茂半島の川代地区の漁港を撮った67枚。地元の植物研究家大上幹彦さんがデジタルカメラで撮影した。  地震発生から約23分後の午後3時9分ごろから潮位が上がり始め、同12分に漁港の防波堤が水没したが、同16分には水位が下がって再び防波堤が姿を見せている。  しかし、地震発生32分後の同18分、約800メートル沖の岬の部分に白波が現れ潮位が再び上昇。津波が猛スピードで岸に到達した。津波が岬から海岸に達するまで約25秒なので、速度は時速約115キロになる。  津波は繰り返し押し寄せ、水深が浅くなると速度が遅くなるため、前の波に後ろからの波が追いついて折り重なり急激に高くなるという。  重茂半島の姉吉地区では、陸地の斜面をさかのぼった津波の高さ(遡上高)が過去最大規模の38・9メートルに達している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

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宮古市

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大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

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陸前高田市

 

山田町

18,688人(推計人口、2011年1月1日)

役所:海岸から 400m

町は地区の大半が壊滅状態 

プロパンガス爆発  大規模な火災

山田町で408人 / 3月25日

町役場の1階が水没    

www.town.yamada.iwate.jp/  (OFF LINE 2011 03 26)

人口の8割 1万5000人の安否不明  3.25 NHK

行方不明者は調査中 2011/03/30

行方不明者数不明 警察庁 2011年4月5日 

3,618戸全壊

死者 450  行方不明 -     避難者 4347  家屋全壊 ー   4月3日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

死者 533  行方不明 378  避難者 3491  家屋全壊 2513  4月9日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

安否不明者が、これまで町が把握していた285人から93人増えて378人(8日正午現在) 朝日

 

 

 

 

 

 

荒川地区での稲刈りの様子=2007/9/24=

 

 

 

 

 

 

 

Streams of lights from vehicles are formed in the dimly lit town of Yamada, northeastern Japan on Friday, April 1, 2011, three weeks after a powerful earthquake and resulting tsunami struck Japan's northeastern coast. (AP Photo/Kyodo News) 

 

 

写真 :山田町の惨状(其二) 其の 1    昭和三陸地震 1933年(昭和8年)3月3日

 

 

山田湾の津波の現実 2011/03/27  津波後の訪問リポート

 

山田湾は周囲約30kmのほぼ円形で、その穏やかな円鏡を思わせる海面、その中に浮かぶ白い岩肌に松の緑が鮮やかなオランダ島、小島とまるで大きな箱庭を思わせる。 山田湾の代表的な眺めは、六角塔付近と織笠大橋から見る風景であろうか。六角塔からは、本町のシンボルともなった養殖いかだがぎっしり並ぶ景観。織笠大橋からは、右手に霞露ヶ岳、左手に十二神山、中央にぽっかり浮かぶオランダ島、小島の風景。この景色に感激して思わず車を止め、記念撮影する観光客の姿をよく見かける。 この素晴らしい青い湾は、われわれに多くの恩恵を与え続けてきた。カキ、ホタテに代表される養殖漁業やウニ、アワビ漁は本町の活力源であり観光資源でもある。 この豊かな自然の恵みを大切にし、未来に伝えよう。

 

町民のひろば  (町H.P.より)

 

タイトル:山田、最高!!

投稿者:ふるさと 投稿時間:2007/09/02 9:18:06  

今年も、夏休みを利用して家族で帰省しました。夏の山田は最高!!山田を離れ山田のよさが今、わかるようになりました。子供たちに山田の良さを教えることができて最高でした また来年も帰省したいと思います。山田の皆さんがんばってください。昔よりは活気も少なくなりましたが、町で働く皆さんを見ていると勇気をもらいました。朝から市場で働く人、さまざまなところで、がんばって働く姿はすばらしいです。 山田!!がんばれ!!

 

タイトル:第一保育所

投稿者:れいこやん 投稿時間:2007/03/16 21:42:45  

山田町出身、東京在住26年の主婦です。私は、第一保育所に1年通いました。わぁー、何年前の話だろう^^;  後楽町にあるお寺のところにあります。毎年、お盆には帰省していますので確かですよ^^

 

タイトル:山田って

投稿者:山田 花子 投稿時間:2007/02/20 14:34:21  

山田町のみなさん。山田町の保育所管理体制おかしいと思います。こういう、町民広場と題してせっかくの意見交換の場があるのに 山田町を変えよう、昇進しようとする、村人の声はもみ消すの?山田町内の町営保育所、町営だからといって、威張りすぎ!!!!特に職員の女性陣 お願いだから、行事ぐらい休日に、行ってください。 仕事をしているから、預けるの。行事ぐらい、休日に行いなさいよ。行けないと、親子の交流が、とか、子供がかわいそう、とか お願いだから、そんな事言わないで、そんなこと百も承知だよ 働いていれば、どうしても休めない日ってあるよね。 今更、アンケート取っても、提出場所が保育所なら、みんな本音は書きづらいでしょう。だって、保育所に大切な子供預けている以上は、人質にされているようなもんでしょ?

 

 

 

 

青空覆う黒煙、空襲後撮影した記録映画のよう

2011年3月12日20時34分  読売新聞

 

町の中心部全域が炎に包まれた岩手県山田町。 最初の地震発生から一夜明けた12日朝、記者が訪れると、青空を覆うように黒煙が上がっていた。 津波で押し流された民家のがれきなどで国道は通れないと聞き、裏道から町中心部へ。中心街手前1キロの地点で車を止めて歩き始めると、火事現場特有の焦げ臭いにおいがした。 土に覆われた道を進み、町中に入ると、役場隣の2階建て民家が激しく燃えていた。ゴーッとガスの噴出音が出る度に炎が激しく立ち上がるが、手が出せないのか、消防団員は遠巻きに見守るだけだった。 突然、津波警報が流れた。役場の4階へ急ぐ。上から眺めると、煙ごしに山田湾が広がる。正面から右手は、町並みが焼き尽くされ、所々で火がくすぶっていた。空襲後を撮影した記録映画のシーンを思い出した。左手は一面、がれきの山だ。 「消防署がある地域が津波にやられ、消防車が出動できない。水もなく、消火できない。海側の地域も、がれきのために立ち入れず、人を捜すこともできない」。町を見下ろしながら、消防団員の佐藤豊さん(42)は話した。佐藤さんの自宅も、津波に持って行かれたのだという。 そんな最中も、大きな余震が続く。自衛隊のヘリが到着、ようやく消火活動が始まったようだった。

 

 町危機管理室の白土靖行室長の話では、地震、津波、さらに火災が追い打ちをかけ、町の大部分が壊滅的な状況だという。町役場に隣接する中央公民館では、不安な一夜を過ごした住民らが集まっていた。 近くの会社員中山恵子さん(58)は「役場前にまで火が迫り、三つの公共施設を次々と移りながら避難した。ほとんど眠れなかった」と、青い顔で語った。地震発生の11日は、盛岡市で被災、何とか夜のうちに戻ったが、がれきの山の中で、自分の家が残ったのかどうか、わからないという。 公民館では、施設3か所に分かれて避難するはずだった約300人ですし詰めの状態。炊き出しでおにぎりは提供されたが、近くの役場支所から運んできた水は濁っていて、飲み水にも事欠くという。(辻本芳孝)

 


 

山田町の災害対策本部情報

ニュースエコー 岩手放送 - ‎2011年3月13日‎

 

山田町の災害対策本部によりますと、町内の死者はきょう午前9時現在90人となっています。 行方不明者はおよそ60人とされていますが、孤立した集落の情報がないため、今後かなりの増加する見込みです。地区別の被災状況です。 ・大浦地区・477世帯は地区の半数が流失、全壊 ...

 


 

津波に流され、崩壊住宅に…42時間ぶり男性救出山田町

読売新聞 - ‎2011年3月14日‎

山田町では13日、津波に流された男性が約42時間ぶりに救出された。午前9時半頃、消防団員の甲斐谷陽平さん(21)が山田町を捜索中、津波で崩壊しかけた住宅の2階で、70歳代ぐらいの男性がベッドに横たわっているのを発見した。男性が壁をたたく、かすかな音に ...

 


 

東日本大震災:「涙すら出ない」 焼けた町、漂う焦げ臭さ−−岩手・山田

毎日新聞 2011年3月14日 東京夕刊

 

大津波と火災で壊滅的な被害を受けた山田町中心部=岩手県山田町で2011年3月14日午前9時20分、本社ヘリから野田武撮影 

 

地震発生から2日たった13日、押し寄せた大津波とその後の火災で約90人の死者が出た岩手県東部の山田町に入った。 人口約1万9000人、カキやホタテの養殖が盛んで、風光明媚(めいび)な山田湾を望む山田町。町によると、町内にある7地区のうち5地区が壊滅に近い被害を受けた。行方不明者数は把握できておらず、町内20カ所の避難所に約6100人が集まっている。 国道45号を自動車で進み、海まで数百メートルに迫った大沢地区で、目の前の光景に息をのんだ。それまでの農村風景が一変し、道の両脇に津波で流された家屋、漁船、車、生活用品などの山が延々と続く。町役場近くの山田地区に入ると、襲来した津波で約6メートルの防波堤が無残に破壊されていた。 「ゴー、ゴロゴロ」。海のそばの自宅にいた福士佳子さん(52)はごう音をたてる津波に気づき、隣接する倉庫2階屋上に避難した。直後に木造2階建ての自宅は流され始め、水かさは一気に5〜6メートルに。夜になると「パーン、パーン」という爆発音と10メートルほどの炎が周囲で上がり、火の粉が降り注いだ。近隣住民らに助け出されたのは翌12日未明。福士さんは「まさに地獄絵図だったが、九死に一生を得た」と胸をなで下ろした。 町中心部の会社員、佐々木賢雄さん(45)の鉄骨2階建ての自宅は、津波で1階部分が骨組みだけになり、車3台が約3メートルほどにも積み重なった漂流物と共に突っ込んでいた。片付けをしていた佐々木さんは「ガソリンも携帯電話も無いので仕事にも行けない。余震に注意しながら片付けをするしかない」と話し、自分の車へと引き揚げていった。車中泊を続けている。 山田地区の高台にある町役場から外を見ると、一面に焼け跡が広がる。本来は住宅や商店があるが、原形はとどめていない。電柱や車などすべてが黒焦げになり、JR山田線の線路上にもがれきの山。白い煙がいくつも上がり、焦げ臭さが漂っていた。ある男性は「もう涙すら出てこない」と焼け跡をじっと見つめ、その横を担架を運ぶ男性7、8人が通った。白い布をかぶせた遺体だった。【服部陽、土本匡孝】

 

 


 

 津波振り切り生還

2011年3月16日  読売新聞

 

 東日本巨大地震の津波は、古里の景色も、思い出を重ねてきた家も、大切な家族の命さえものみこんでいった。だが、廃虚と化した沿岸各地には、絶望のふちに立ってもあきらめずに生還を果たした人々もいる。 大津波で多数の犠牲者が出た山田町船越の漁師町・小谷鳥地区。海抜50メートルほどの高台にある町の避難場所に指定されていた集会所は跡形もなく津波にのみこまれ、避難していた13人のうち、12人が一瞬で姿を消した。山の斜面を駆け上がり、唯一、津波から逃れた定置網漁師、川村司さん(37)は津波の様子を振り返りながら、言葉を絞り出した。「津波は生きているように大きく口を開けて迫ってきた。地獄でした」。 11日午後、自宅で父親で漁師の進さん(68)といたところ、突然大きな揺れに見舞われた。すぐに避難を呼びかける町内放送が流れ、山の中腹にある避難指定場所「小谷鳥コミュニティセンター」前に駆けつけた。 午後3時5分、約500メートル先の堤防付近に小さなさざ波のような津波が見えた。「いつも通りたいしたことないな」と携帯電話で写真を撮った。

 

 しかし、ここで異変に気付いた。さざ波が異常な速度で海に引き戻され、水深約10メートルもある海底がはっきりと見えた。引き潮はその後ろで、迫ってきた第2波と衝突し、30メートル近い高さになって防波堤にぶつかった。手前にあったコンクリート製2階建ての漁師作業所は風圧で吹き飛んだ。 津波は避難所の川村さんと同じ目線まで膨れあがった。「逃げろ」。進さんが叫んだ。雑木林の山の斜面を無我夢中で駆け上がった。背後からは洗濯機のような大きな水流が回転する音と、「バキバキ」という民家や木々をなぎ倒しながら迫ってくる津波の音が大きく響いた。尻に波が当たる感触がした。「もうダメだ」と思いながら、必死でさらに駆け上がった。 気付くと津波は一気に引いていた。振り返ると、さっきまで避難所前にいた住民は1人もいなくなっていた。民家や旅館などもない。子どもの頃から慣れ親しんだ景色は、更地となって目の前に広がっていた。 14日、川村さんは地元消防団や青年団とともに、父や仲間の姿を求めて、海辺を捜索したが、何の手がかりもないまま。海岸線にあった高さ約3メートルの防波堤や消波ブロックは姿を消していた。山の中腹にあり、海の神様として知られていた「小谷鳥神社」。石でできた鳥居は津波で折れ、支柱が1本立っているだけだった。 川村さんは「映画のコンピューターグラフィックス(CG)と全く同じ光景だった。日本全体が沈没したんだと思った」と振り返り、唇をかんだ。「あれだけ大きな津波であれば、父らはかなり沖にまで流されているんでしょう」(春名健吾)

 

堤防を越え迫ってきた大津波について振り返る川村さん(山田町で) 


【山田】思い出の写真どこに 町役場で保管

2011.3.22  岩手日報

 

 山田町八幡町の町役場に、町民らが持ち込んだアルバムや記念写真などが「漂流物」として持ち寄られている。「せめて思い出の品を手元に残したい」などと見詰める住民の姿がある。 町民らが被災地で見つけ、「大切な物だろうから」と持ち込まれるなどした写真などを町役場1階の一角に並べた。アルバムや遺影、年祝いの記念写真、賞状などが並んでいる。 泥が付き、大津波に流された跡が分かる写真も。結婚式の記念写真や運動会のスナップなども並び、60代の男性は「うちのはなかった。この写真に写っている人たちはどうなってしまったんだろうと思うと言葉もない」とつぶやいた。

 


 

思い出が戻ってきた―津波で散乱したアルバム、持ち主に

2011年3月22日9時47分

 

笑顔でピースをする子どもたち、神社での結婚写真、温泉旅行――。そんな写真が収められたアルバム200冊ほどが、岩手県山田町役場に展示されている。津波で街中に散乱していたのを住民が拾い、「持ち主のもとに返してあげて」と持ち寄った。持ち主が見つけることもあり、思い出が少しずつ、家を失った被災者のもとに返っていく。  町役場1階ロビーの机の上や段ボール箱に、泥のついたアルバムが並ぶ。持ち主が見つけやすいように、アルバムの一部はページを開いて写真が見えるようにしている。足を止め、家族や友人の写真がないかと、ページをめくる住民が絶えない。  関民子さん(54)のもとには、写真20枚ほどが収められた小さなアルバムが戻ってきた。自宅近くに落ちていたらしく、知人が拾ってきてくれた。30年近く前の家族や親戚と東京の上野動物園に行った時の写真だった。  「田舎から東京に遊びに行ったからでしょうか、ライオンやキリンを前に、当時3歳だった息子はうれしくてしょうがないような顔ですね」  家族は無事だったが、自宅は津波に流された。「少しでも手元に残せるものがあったんだと分かって、本当にうれしい」と涙ぐんだ。(井上裕一)

 

   

町役場のロビーに展示されている写真やアルバム=21日、岩手県山田町、樫山晃生撮影

がれきの捜索中に見つかったアルバムなどが並ぶ漂流物置き場。大切な写真を探す人たちが後を絶たない=岩手県山田町の同町役場で2011年3月26日、金澤稔撮影 毎日

 


 

 消えた町並み 山田町の上空から撮影

 2011/03/24 岩手日報  

 

 街は一面、茶色に覆われていた。東日本大震災で大津波の直撃を受けた山田町を23日、陸上自衛隊の輸送ヘリコプターに乗って上空から取材した。 高度約500メートル。眼下に広がるのは、穏やかな海と建物が根こそぎさらわれた陸地。土とがれきの山と化した光景は、津波の猛威をまざまざと見せつけていた。山田湾には壊れた養殖施設で形成された孤島がぽつぽつと浮かぶ。三陸特有の入り組んだ地形には、流された船や木材がびっしりと詰まっていた。 同日は沼崎喜一町長らが同ヘリで上空から視察。沼崎町長は「被害の甚大さを目の当たりにした。何年かかっても希望を捨てずに頑張りたい」と言葉を絞り出した。

写真=東日本大震災で多くの建物・家屋が大津波にのまれた山田町=23日午後0時41分、陸上自衛隊輸送ヘリから(報道部・櫛引亮撮影)

 

 


 

 三陸大津波ー安否確認できなかった。『その1日目』  

2011/3/27(日) 午前 7:09

 

一昨年から昨日まで、三陸沿岸部の動脈の国道45号が仮に開通。前回の記事でも記したが、山田町にいた同級生のブログ友の『西美保子さん』の安否確認のため、田野畑村から南下して山田町に行って来る。油を満タンにして、パンクに備えてタイヤ4本積んで、シュラフと毛布2マイを持って…。往く途中の町は、道の両側は高いガレキの山で、町には家が全くない。戦渦の後のような光景。普通の2倍以上の時間かけて、ようやく、彼女がいたであろう山田町の境田地区の家に到着。想像していたより、凄い。全くの全滅。現場を呆然と眺めていたら、一人で牡蠣養殖の玉を集めている漁師の人がいた。尋ねたらこの地区の人が避難所となっている所まで案内してくれた。名簿を見たが、彼女の名前はない。その時、ちょうど、境田地区長さんと出会うことが出来た。『彼女たちは、家から逃げて、近くの木造旅館に逃げたようだがその旅館も流されて、その人たちは、行方不明だ。恐らく、流されたと思う。まあ、他3避難所にいるかも知れないが、遺体安直所かも…。』愕然とした。まず、先に、生きていることを優先して、避難所を全て回ったが、名前がない。行きたくなかったが、4つの遺体安直所に…。もう暗くなっている。意を決めて、行って見た。沢山の遺体が毛布にくるまり、体育館に横たわっている。遺体の身元の分かる人は、名簿に掲載されているが、分からない遺体は、写真を見て確かめるしかない。せのアルバムのページをめくって行くのが、怖くて、複数な心境だった。涙が出て来て、もう頭が真っ白。どうしも探してあげたかった。でも、自分の心が限界だった。1日目は、そうして、車に横たわって、ほとんど、眠れなかった。

 

 


3.27  正面の建物が山田町役場です。

 


東日本大震災:景観の良さ裏目 高齢者施設を津波直撃 山田町

2011年3月27日 10時24分 更新:3月27日 18時20分

 

 

捜索の行われている老人保健施設「シーサイドかろ」を心配そうに見つめる行方不明の職員の家族ら=岩手県山田町で2011年3月23日、熊谷豪撮影 

寝たきりの高齢者ら入所者97人中75人が死亡・行方不明になった岩手県山田町の介護老人保健施設「シーサイドかろ」。職員らは津波から全員を避難させられなかった無念の思いを抱えながら毎日、施設前に立っている。安否不明の入所者の家族らを迎えるためだ。必死で避難誘導にあたったスタッフも約半数の14人が死亡・行方不明になっている。 90年の開所。二つの湾に挟まれた海岸に面し、景観の良さで知られた。スタッフらは地震直後から入所者を車椅子や可動式ベッドに乗せ、いったんは2階と同じ高さにある広場に全員避難させた。毎月1回の津波避難訓練と同じ手順だった。 だが、津波は想定を超えていた。「ここじゃ危ない」。海の様子を見て、あわてて高台へ避難を始めたが、大勢がのみ込まれた。助かった人も高台のバンガローで夜を明かし、翌日、救助された。 2階建ての施設の屋根には津波で運ばれた車やボートが今も残されている。交代で施設前に立つ職員の一人は「助けられなかった入所者の家族は腹立たしい思いがあるだろう。立つのはつらいが、生かされた者の務めだと思う」と涙ぐんだ。

 

 入所者136人中30人が死亡、3人が行方不明となった福島県南相馬市原町区の介護老人保健施設「ヨッシーランド」。施設を運営する医療法人慈誠会の小林敬一事務長(60)は「津波ハザードマップの浸水区域より1キロ以上も内陸側でまさか津波が来るとは思わなかった」と悔やむ。 南相馬市が09年3月に作った津波ハザードマップでは、浸水想定区域は海岸から約500メートル。施設は浸水区域に入っていないことから津波の避難訓練はしていなかったという。【熊谷豪、岸本桂司、平川昌範】

 


直前まで一緒に作業 山田

2011年3月31日  読売新聞

 

自宅近くで純さんの持ち物を捜す白野さん(26日、山田町中央町で)  

町の大部分が津波にのみ込まれた山田町。漁業白野博さん(60)は、次男の純(あつし)さん(29)が津波に巻き込まれ、今も所在が分からない。「遺体だけでも帰ってきてほしい」。祈るような気持ちで白野さんが海に通い始めてから2週間以上がたった。後継ぎの息子の面影を、海原に捜す日々が続いている。(上杉洋司) 巨大地震が発生した11日午後、白野さんと純さんは、山田湾の漁港で2人で作業をしていた。ぐらぐらっと地面が揺らいだ。実際には3分程だった激震は、何十分も続いたように感じた。揺れが収まり、海を見ると、すうっと潮が引いていった。 「すぐに逃げねば!」。町消防団第6分団に所属していた純さんは、港内にいた人に避難を指示し、すぐに堤防の水門を閉めに向かった。 白野さんは、妻(54)を連れて逃げる途中、知人男性と一緒になった。「これは、でかいのが来るなぁ」とのんきに言い合ったことを覚えている。 避難先の役場で、「第6分団が無事逃げたようだ」と聞き、胸をなで下ろした。しかし、丸2日たっても、純さんとは連絡が取れない。13日になって分団の3人が行方不明になっていたと知った。逃げる途中、消防車ごと波に巻き込まれていた。白野さんは「もう生きているとは思っていない。せめて体が見つからないものか」とため息をつく。 白野さんには3人の息子がいる。それぞれ町を出て行ったが、8年前、仙台市内の大学に通っていた純さんに「漁師にならないか」と誘うと、二つ返事で地元に帰ってきた。自分で捕ったウニやアワビを親戚に送るのを楽しみにしていた。 純さんの持ち物が何か見つからないかと、がれきと化した自宅跡を掘り返すと、泥まみれのスーツが見つかった。友人の結婚式の時に着ていた一張羅。純さんが見つかり次第、着せてあげるつもりだ。 純さんを思って海に足を向ける時、白野さんは必ず缶コーヒーを持っていく。純さんの好物だった。津波の気配などまるで感じさせない穏やかな海面に、コーヒーを優しく注ぎながら、願う。 「早く家に帰ってこい。純よぉ…」 涙が一筋、白野さんの頬を伝った。

 


「早く埋葬してあげたい」=身元確認に時間、無縁仏の可能性も−娘と孫亡くした男性

2011/03/31-14:23

 「一番悔しいのは、まだ娘と孫を荼毘(だび)に付してやれないこと」。東日本大震災で娘と孫を亡くした千葉県市川市の自営業菊地二三男さん(56)は唇をかみしめた。震災で壊滅的な被害を受けた岩手県山田町の火災現場から見つかった2人の遺体。損傷が激しく、県警から「DNA型鑑定の結果が出るまでに1カ月はかかる」と告げられたといい、もどかしさは募るばかりだ。 菊地さんの長女真田夕紀さん=当時(31)=と孫の聖斗ちゃん=同(1)=は発見された時、折り重なるように倒れていた。2人は真っ黒になっていたが、顔の輪郭から夕紀さんと確信したという。そばにあった鍵などの所持品も夕紀さんのものと一致。菊地さんは「娘と孫に違いない。家族だから分かる」と断言する。聖斗ちゃんの遺体は夕紀さんに比べ損傷が少なく、「娘は孫を最後まで守ろうとしたんだ」と思った。 「せめて自分の手で早く埋葬してあげたい」と引き取ろうとしたが、岩手県警から身元確認のためにDNA型鑑定を実施すると言われた。 警察庁によると、遺体の損傷状況によって、DNA型鑑定をする試料の採取ができないケースもある。生前の本人の髪の毛などがない場合、遺体と家族のDNA型で照合をするが、確認できるとは限らないという。厚生労働省によると、警察が遺体の身元を確認できない場合、地方自治体が無縁仏として埋葬する可能性が高い。 夕紀さんは日頃、聖斗ちゃんが歩けるようになったことを写真付きメールで知らせたり、遠く離れた菊地さんの体調を気遣ったりしていた。 地震発生後、千葉県の自宅から自動車を飛ばして山田町に入った菊地さん。携帯電話に残る2人の写真をいとおしそうに見つめ、「こういう現場があることも知ってほしい」と目を潤ませた。

 


新入学目前「ママは…」 山田、無人の車だけ

2011/04/03 岩手

 

「ママがずっと帰ってこない。津波に流されたんだよ」。山田町豊間根の佐々木颯(そら)君(6)は不安に耐えながら、言葉を振り絞った。母加奈子さん(33)は今も行方不明。祖父母は「どんな形でも家に連れて帰りたい」と颯君を連れ、2日に1度、加奈子さんが働いていた大槌町内の遺体安置所を回る。新入学の春。颯君は大好きな母親がいない現実を懸命に受け止めようとしている。 津波の痕跡が生々しく残り、校庭ががれきで埋め尽くされた大槌中の遺体安置所。強い西風が土煙を起こす中、祖父正男さん(60)と祖母悦子さん(59)は2日も、加奈子さんを捜した。この日はもう1カ所も訪れたが確認できなかった。外で待っていた颯君が「いなかった?」と聞くと、正男さんは黙って抱き上げた。 加奈子さんは3年前、一人息子の颯君と埼玉県から帰郷。保険外交員として働きながら、4人暮らしの家計を支えた。颯君が嫌がっても帰宅後のハグは欠かさなかった。今春の豊間根小の入学式に合わせ、母子の礼服や靴も買いそろえていたという。 正男さんと悦子さんは震災以降、連絡の取れなくなった加奈子さんを捜し避難所を回ったが、手掛かりはつかめなかった。10日ほどたって、加奈子さんの同僚がドラッグストアの駐車場で車ごと津波に巻き込まれたことを伝えてくれた。 「捜しに行こう」。その時、颯君が「8151」と書いた紙を手渡した。祖父母も分からなかった母の車のナンバーだった。車は100メートルほど流され、車体はひっくり返り窓ガラスは割れていたが、携帯電話や免許証の入った財布が見つかった。

 

 携帯電話は泥を落としたら電源が入った。立て続けに加奈子さんの身を案じた友人たちから着信やメールが入ったが、待ち受け画面は真っ暗で通話することはできなかった。歯がゆさは募るが、悦子さんは大切に持ち歩いている。 颯君は「自衛隊のヘリコプターに乗って捜したい」「釜石に行ったら観音様(釜石大観音)にお願いする」とけなげに語る。その一方、一人で泣いていることもあり、夜は添い寝をして様子を見ている。悦子さんは「期待を持たせていても酷なだけ。現実として受け止めていかなくてはならない」と苦しい胸の内を明かす。 遺体安置所を後にした3人は、国道45号沿いから加奈子さんの車を見つめた。黙ったまま言葉を発しない颯君。正男さんは「誰を恨むわけにもいかない。つらい思いをしている人はたくさんいる。残された宝と思って孫を育てていく」と涙をにじませた。

【写真=加奈子さんが被災した現場を見つめる佐々木颯君と正男さん、悦子さん夫妻。不安と疲れの表情がにじむ=大槌町大槌】

 


あの津波に耐えた!世界最大級のクジラ骨格標本

2011年4月5日07時22分  読売新聞

 

岩手県山田町立「鯨と海の科学館」で、日本一の大きさを誇るマッコウクジラの骨格標本がそのままの状態で見つかった。 津波にのまれながらも耐えた姿に、町民らからは「復興のシンボルだ」との声も上がっている。 鯨は商業捕鯨が禁止された前年の1987年に、釜石沖約200キロで捕獲された。体長17・6メートル、重さ60トンと世界最大級。貴重な資料として、かつて捕鯨基地のあった同町に捕鯨会社から寄贈された。全国から来場者があり、町の観光名所となった。 津波で展示室内も浸水し、窓は割れ、折れた枝や泥が入り込んで展示物は散乱している。高さ約10メートルの天井からつるされている骨格の口やあばら骨にも泥が付着し、津波に巻き込まれたことがうかがえる。 同町に住む佐藤葵(まもる)さん(76)は「明るいニュースが少ない中、津波を“泳ぎ切った”クジラは勇気を与えてくれる。街の復興も見届けてもらいたい」と話す。 鯨の生態に詳しい加藤秀弘・東京海洋大教授は「文化的、学術的にとても貴重。流されていれば二度と入手できず、町だけではなく世界中の損失だった」と指摘している。

 


岩手・山田町の不明者、93人増える 計378人に

2011年4月9日20時33分 朝日 

     

 津波で市街地が壊滅的な被害を受けた岩手県山田町の安否不明者が、これまで町が把握していた285人から93人増えて378人(8日正午現在)となった。被害が大きく、集計が難航していた二つの行政区の安否不明者数が判明したためという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山田町 船越

 

 

 

 

 

 

 【地震】岩手 なお数百人が孤立状態‎

テレビ朝日 - 13 Mar 2011

 

消防庁によると、岩手県山田町の船越半島にある小谷鳥地区に約200人、大浦地区に約300人が孤立しています。また、大槌町では町役場と消防署に80人、蓮乗寺に50人、赤浜小学校に150人、船越小学校に200人、浪板観光ホテルに40人が取り残されています。

 


 迫る山火事、死を覚悟 山田・船越半島の住民

2011/04/02 岩手

 

東日本大震災による大津波で山田町の船越半島は一時離島状態となった。同半島の田の浜地区の住民は山奥の旧ホテルに逃げたが、山火事が迫り続々と自衛隊ヘリで避難。10人ほどが「地元を守るため」と避難所に残ることを決めたが、状況を正確に把握する手だてはなく、死をも覚悟する極限状態まで追い詰められていた。 「『船越半島は捨てていい』と報じられたそうだ。そんなこと年寄りたちが聞いたらどう思うか」 迫り来る山火事を確認しながら、元消防団分団長、荒川明見さん(63)たちは悔しさを押し殺していた。津波後自宅近くの民家から出た火は、強風にあおられ、瞬く間に山に燃え広がった。火は最終的に旧ホテルの約200メートル手前まで来ていた。 3月13日までに旧ホテルに逃げた100人以上がヘリで避難。残ったのは荒川さんらだけ。情報はラジオだけで、テレビや新聞はない。人づてに「船越半島は捨てていいと言っていた」と聞いた。 確かめる手段がない。知り合いの顔を思い浮かべ悲しくなった。死をも覚悟した。 船越半島は山田町南側にあり、山田湾と船越湾に挟まれている。大津波で船越湾側の堤防が決壊。波は半島の付け根部分で押し引きし、道路が寸断された。 約480世帯が住む田の浜地区は海岸からの傾斜に沿って家が建てられていて、約6割が津波にのみ込まれた。

 

 荒川さん宅は津波後の火災が燃え広がって全焼した。「屯所からホースを出しても水が出なかった。水さえあれば消すことができたのに」と悔しさが込み上げる。 荒川さんは自転車店を経営し漁業も兼業。中学卒業後、3年ほど東京で工場勤務などをしたが、親や同級生、友達がいる生まれ故郷に戻った。旧ホテルに残った理由は「何もできないのは分かっているけど何かできることはないかと思った。地元を愛しているから」。 内陸との道路が復旧した現在、旧ホテルへの避難者は入れ替わりもあるが15人ほど。4月に大槌町職員となった菊地亮佑さん(27)は同町内で、在宅被災者に灯油を届けるなどのボランティア活動をした。 震災の時は埼玉に旅行中で、テレビで自宅が燃えているのを見た。家族と再会したのは4日後。「家や職を失った状況でも、自分より周りを優先して考えている人が多いと思う。一人一人の話に耳を傾けることが大切。復興のために自分ができることをやっていきたい」と決意する。 荒川さんは3月29日、自宅の焼け跡から仕事の工具を見つけた。車3台、舟も失った。「生活や仕事のため(資金を)もらえればいいが、借りれば返さなければならない。地元に住みたいが、これからどうしたらいいか」と模索する毎日を送る。


 東日本大震災:校務員さん、ありがとう 山田・船越小、誘導で全員無事 /岩手

毎日新聞 2011年3月26日 地方版

 

 津波が校舎1階を襲った山田町立船越小学校の卒業式が25日、近くの船越保育園であった。海を見張っていた校務員の田代修三さん(55)が危険を知らせ、校庭に避難していた児童は山を登って、173人全員が無事だった。卒業生は「救ってくれてありがとう」と田代さんを囲んだ。 田代さんは海に面した同小の近くで生まれ、大津波の経験があった父親から「津波が来たら1メートルでも高い所へ逃げろ」と教えられてきた。11日は、大きな揺れを感じたため、海を見張った。湾全体が盛り上がるような波を見て、「ここじゃ危ない」と佐々木道雄校長にさらに高い場所への避難を訴えた。教師らが児童を山の上へ誘導した直後、津波が校舎を襲った。 船越小では、親を亡くした児童もいる。卒業式の冒頭には全員で黙とうした。 佐々木校長は式辞で「みんなは歴史の語り部となる運命を担わされた。見たこと聞いたことを語り継ぐ役割があります」と述べた。 金庫にしまってあった卒業証書は、津波の被害で取り出せなくなったため、代わりの証書を手渡した。 卒業生の加藤三範君(12)は「間近で見た津波は怖かった。助けてくれた先生方には感謝している」と話した。笑顔の児童らに囲まれた田代さんは「津波の大きさに身震いした。子供が無事に巣立って何よりです」と涙ぐんだ。 6年生担任の片桐啓一教諭は「アルバムは流されたが写真データは残っているので、また作ってもらおう」と述べ、印刷し直すことを約束。「新しい学校がいつどこにできるか分からないが、顔を出して近況を教えてください」と、最後の“宿題”を出した。【熊谷豪】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

北海道

三沢市

 おいらせ町

八戸市

 階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

  

  

大槌町

15,256人 (推計人口、2011年1月1日)

役場を含めた町中心部は完全に壊滅状態  2日間の火事で、焼け野原
6mの防波堤機能せず。地震前の3月3日に避難訓練を実施
役所:海岸から 600m  戸籍などの書類が流失
死亡 492人 / 3月25日   527人 / 3月30日
生存が確認 約7千人。安否不明 約8千人。  行方不明者の届出1039人。 3月30日
www.town.otsuchi.iwate.jp/ (アクセス不能 2011 03.26)

 

5,845戸全壊
死者 550  行方不明 1068  避難者 4533  家屋全壊 ー  4月03日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 588  行方不明 1066  避難者 9070  家屋全壊 ー  4月10日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 610  行方不明 1006  避難者 9070  家屋全壊 ー  4月18日現在 (県と県警まとめ)岩手日報

 

otsuchi.web.fc2.com/index.html 災害復興室

死者 654  行方不明 1007 4月18日現在

 

 

診療所を開設している安渡小学校近くの壊滅した市街地です。鉄筋の3階建てビルを残してまわりはすべて津波に流されています。 2011/03/31
 

 

 

新聞各社では大槌町を壊滅状態と報道していますが、壊滅状態という言葉だけではそのむごさを言葉では表現できません。私は過呼吸になりそうになりながら津波が襲ったその町をみてきました。海鳥たちの鳴き声。潮の匂い。町中に立ち込める腐敗臭。がれきの中で失ったものを探す町の人々。 気がつくと私の眼から涙が溢れていました。  2011年4月3日日曜日   Aiko


大槌町 ホームページ




沿 革

 大槌町には、夏本、崎山弁天、赤浜遺跡をはじめ数多くの縄文時代の遺跡が見られます。この地域は、遠い昔から人々が住み、生活を営んできたことが伺い知れます。そして、東北地方は「みちのおく」と呼ばれていた大和時代から「北方の王者」と称され、栄華を極めた藤原氏の時代を経て、鎌倉幕府の地頭といわれる武家による支配へと変遷をたどります。
 鎌倉幕府の崩壊後、南北朝(1336?)の動乱期の頃から徳川氏の江戸開府(1603)後の慶長7年(1612)頃まで、この地方は、大槌氏によって統治されてきました。 大槌氏の改易後に城代が置かれ、のちに周辺23カ村を管轄する代官時代(1632)に移行し、江戸時代初期の大槌は周辺の行政中心地として、かつ豊かな海の資源によって大いに繁栄しました。
 この代官所体制は、明治2年(1869)の版籍奉還によって廃止されるまで約240年間続くことになります。明治2年(1869)、版籍奉還によって南部氏が盛岡藩知事に復帰し、大槌地方は江刺県に所属、明治4年(1871)、廃藩置県によって盛岡県に所属し、翌明治5年(1872)に岩手県に所属しました。そして明治22年(1889)、当時の大槌村、小鎚村、吉里吉里村が合併して大槌町となりました。(合併当時の人口は6,315人、戸数は 1,338戸)。68年後の昭和30年(1955)に大槌町と金沢村が合併しました(当時の人口は16,628人、戸数は3,278戸)。明治22年と昭和30年の合併時の人口と戸数を比較すると、人口が約26倍、戸数は2 4 倍という規模に拡大しました。
 この間の大槌町の変遷は、基幹産業である漁業にあっては、旧来から住民の生活を支えてきたサケを主体にした魚介類を、獲る漁業から育てる漁業へと転換しつつ推進し、また、明治以後3回にもわたって町を襲った三陸津波、チリ地震津波などによる被害からの復興を遂げるとともに、三陸沿岸の地理的に不利な、陸の孤島と呼ばれる区域を、町の繁栄に欠かせない交通網の確保にそそいだ情熱の歴史といえます。 先人たちのねばり強い産業開拓精神と実践に支えられ、地域住民のたゆみない努力によって町は継承され、平成2(1990)に町制施行100年を迎え、今日に至っています。


■海に歴史あり

 縄文の時代から続く大槌町の歴史は、中世に入り繁栄の礎を築いたといえます。
 鎌倉幕府の崩壊後、南北朝(1336?)の動乱期のころから徳川氏の 江戸開府(1603)後の慶長17年(1612)ころまで、この地方は大槌氏に よって領知されてきました。 大槌氏の改易後、二代の城代時代を経て、寛永9年(1632)周辺23ヵ村を管轄する代官所時代へと移行します。
江戸時代の大槌は豊かな海の資源に恵まれ、大いに繁栄しました。 寛永年間に入り、ロシアが南下政策をとりはじめると海岸警備が強化され、代官所の役割もいっそう重要となります。その後代官所は明治2年(1869)の版籍奉還により廃止され、約240年間におよぶ歴史に幕を閉じたのです。
 累代大槌氏のなかで、名を馳せた武将のひとりが大槌孫八郎です。秀吉が天下を取った天正18年(1590)以降の激動の時代、孫八郎は大槌城の城主でした。孫八郎は優れた政治、経済の手腕を発揮した人物といわれていますが、なかでも最大の功績は江戸という大都市にだれよりも早く着目し、特産である鮭を出荷したことでしょう。当時は現在と違い、江戸に運ぶまでには20日以上もかかる時代、生のままで運ぶことはできません。そこで孫八郎は「新巻(塩鮭)」の手法を開発します。そして『南部の鼻曲がり鮭』として商品化に成功しました。いまでも正月の贈答用に珍重される新巻は、すでにこの時代に造られたのです。
 この事業をさらに発展させたのが、南部藩最大の豪商といわれた歴代の前川善兵衛(吉里吉里善兵衛)です。善兵衛は自ら大型廻船を建造し、さまざまな海産物を江戸はもとより、大阪や京都にも運びました。江戸時代の中期には長崎の俵物や木材も扱うようになります。宝歴3年(1753)の日光東照宮修復に際しては、7、500両にもおよぶ資金を拠出。まさに豪商といわれる所以です。善兵衛の興した海運は、浜の人々にも活力を与えました。これも海の恵みといえましょう。
 平成7年(1995)、大槌町を含む周辺十市町村では『三陸地方拠点都市地域基本計画』を策定しました。沿岸の新しい交流都市圏の形成を目指して、これからさまざまな環境整備が進められようとしています。海と共存するまちづくり、自然と調和した21世紀の新しいまちづくりが今、始まろうとしています。
 平成9年(1997)には、天皇・皇后両陛下のご臨席のもと、大槌漁港において第17回全国豊かな海づくり大会が開催され、つくり育てる漁業の一層の推進が図られています。

災害記録・地震・津波

No

年   代

記      録

1

869

貞観11

5月26日陸奥国大いに震動し、海嘯を生じ、溺死1,000名

 

2

 

1614

 

慶長19

10月28日午後2時頃、三陸大津波溺死の人3,000人(陸中沿岸史)

3

1616

元和2

10月28日八日町市日に津波、古明神まで侵入する。(古城、官職記)

4

1677

延宝5

3月12日夜大地震で大汐寄せその月中騒動する。(古今代伝記官職記)

5

1703

元禄16

11月22日午後10時ころ大地震あり、大騒ぎする。

6

1751

宝暦1

5月2日昼2時頃大汐7度小汐5度(津波)あり暮6時頃汐が引く人畜に被害はなかったが四日町、八日町、向川原海のごとくと見える。(これに地震の記録はないが、中央気象台の調査の結果5月2日(大陰暦)太陽暦になおしてみれば、前日現在のチリに地震津波の記録あり。昭和35年5月24日のチリ地震津波と同じか)

7

1774

安永3

5月3日、津波大地震地割れあり。(宮古、遠野年表)

8

1793

寛政5

1月7日正午頃大地震3回、大津波となり、蓬莱島の上を越し大槌町内裏通り垣根まで浪押す。その後も毎日2、3回地震があり、浪も7日程押し、海岸の者山に移る。
大槌浦船3艘行方不明、2艘破損。安渡海手の家少なからず破損。

9

1856

安政3

7月23日中津波家屋流失大槌の被害不明(宮古年表)

10

1896

明治29

6月15日(旧5月5日)午後8時20分津波あり総戸数1,172戸のうち526戸罹災、総人口7,027名のうち599名死亡

11

1931

昭和6

今暁県下一帯強震あり、下閉伊郡小国村及び上閉伊郡金沢村に亀裂断層を生じ、石垣崩壊、木炭破壊その他被害あり。

12

1933

昭和8

3月3日未明大地震あり、死者39名、行方不明23名、住宅被害(倒壊225、流失397、床上浸水201、床下浸水122) 地震規模M8.3

13

1960

昭和35

5月24日午前4時前後から三陸沿岸一帯に大津波あり 住家被害(全壊36、半壊187、流失44、床上浸水345)罹災者数6,542名 震源地チリ

14

1964

昭和39

3月28日12時44分、東北地方各地に顕著な遠地地震が記録された。この地震の震央はアラスカ南方近海でこの地方の被害は地震津波の被害甚大であった。この地震に伴った大津波は地震発生後約7時間、28日19時40分東北地方太平洋岸に達し、4月1日まで2mから3mの津波を記録した。 地震規模M8.2

15

1968

昭和43

5月16日午前9時40分十勝沖地震津波(1.5 3.5m)漁船、漁具、養殖施設等約3億円の被害

16

1978

昭和53

6月12日午後5時15分地震発生。震源地宮城県沖100km、深さ40km、M7.5。
東北太平洋沿岸に津波警報発令(17時21分) 最高潮位90cm

 



「明治29年三陸大津波浸水区域を元に表示」  あなたの避難所を探して見てください。

 

 

http://www.town.otsuchi.iwate.jp/bousai/tsunami1.html

岩手県地震・津波シミュレーション

1 はじめに
 700キロメートルに及ぶ岩手県沿岸は、その地理的・地形的特性から世界有数の津波常習地帯であり、有史上多くの津波被害を受けてきました。明治以降でも、明治三陸津波(明治29年)、昭和三陸津波(昭和8年)、チリ津波(昭和35年)などに見舞われており、尊い人命と貴重な財産を失われました。 この教訓として、国・県・市町村等は、防潮堤や防波堤、水門等の整備、津波防災訓練の実施や自主防災組織の育成・強化など、様々な対策を講じてきております。 しかしながら、国では、2033年までに宮城県沖地震が発生する確率が99%、さらには明治三陸津波級の地震が発生する確率も約20%と評価しており、今まで講じてきた対策の想定を越える津波が発生する可能性もあります。このような状況から、岩手県では、平成13年9月に「岩手県津波避難対策検討委員会」(委員長:首藤伸夫 岩手県立大学教授)を設置し、今後の津波避難対策の基本的な方向について、約1年間にわたって検討が行われました。 その検討報告書の提言に従って作成された、津波浸水予想図や津波シミュレーションを紹介するものです。

 

大槌町には、吉里吉里・浪板海岸海水浴場をはじめ、新山高原、浪板不動滝など海や山の自然が豊かで、貴重な観光・レジャー資源があります。この自然を総合的な観点から見直し、産業や福祉、健康などと融合した新しい活用を図っていきます。その中でも、特にリアス式海岸に代表される海の美しさは、地域全体の財産です。人と自然の調和を目指し、豊かな自然環境の保全と育成に努めながら、個性あるまちづくりを進めていきます。

どこよりも津波に警戒していたと思われる町  唯一津波対策が詳細に明記してある。

 

 

 

2011.03.15 大槌町役場

 

  

 

 

 

 

 

 

ここ何十年津波がないので、40〜50歳くらいの親、又その子供たちは津波などに対して、来ないものと思って訓練などに参加せず、残念に思う。私は昭和8年津波で祖父、兄弟、姉妹をなくしている。(大槌町 70代 女性)   2002年

 


 

町長ら1万人超不明…岩手・大槌、機能停止の町

2011年3月13日14時02分  読売新聞

 

町の中心部が大津波にのみ込まれた岩手県大槌(おおつち)町。 避難所で所在が確認されている住民約4600人を除き、町長をはじめ1万人以上の行方がわからないままだ。火災にも見舞われ、何もなくなってしまった町に13日、記者がはいった。 所々から火災の残り火や煙が上がり、町中心部は焦げ臭いにおいに包まれている。中心部にあった図書館やガソリンスタンドなどは跡形もない。背後にある山で火事が起きているが、消防機能は完全にまひしている。大槌川にかかるJR山田線の橋は橋脚を残し、落下した。

 

 港から約1キロにある役場は、2階まで津波が押し寄せた。役場では加藤宏暉町長ら幹部が災害対策会議を開こうとしていた、まさにその時だった。東梅政昭副町長は「町長が高いところに避難するよう指示し、約20人が屋上に上がったところで津波が押し寄せてきた。数十人の職員が行方不明となっている。加藤町長は姿が見えなくなった」と話した。町も事実上、機能停止となっている。 同町城山の中央公民館は遺体の安置所になっていた。約20人の遺体が安置されている。各地で遺体の回収が続いている。 災害対策本部も置かれ、13日朝までに40人の死亡を確認したという。町内26か所の避難所に約4600人が、命からがら避難している。

 

 公民館に避難した会社員、阿部正人さん(46)は「もう2日間、何も食べていない。それでも連絡の取れない弟を捜さないといけない」と疲れ切った表情で話した。 不明の町長に代わり災害対策本部長を務める東梅副町長は「何人の町民が亡くなっているのか全く分からない。約1万5000人の町民で、もっと亡くなった方が増えるのではないか」と苦しい表情で話した。 町民たちはがれきに埋もれた自動販売機を壊して、中からペットボトルのお茶や缶ジュースを取り出してのどの渇きをしのいでいた。住民はがれきの中から、泥にまみれた預金通帳や食料など使えそうなものを探していた。 県立大槌病院で、ライフライン(生活物資補給路)が途絶し、医薬品もとぼしい中で、かろうじて診療が続けられていた。岩田千尋院長は「夜は懐中電灯の明かりで診察を続けている。職員も家族と連絡がつかないまま、頑張っている」と話した。 43人の患者が入院している。事務員岡田和也さん(32)は「水、食料、医薬品はほぼ底をついている。医薬品は1階にあったが、水浸し。ライフラインは全滅だ。患者の搬送を頼みたくても電話や無線は全て壊れており、外部との連絡は断絶状態」と話した。(吉田拓矢)

 


 

指揮系統まひ限界 町長ら安否不明 岩手・大槌

2011年03月14日 河北

 

 リアス式海岸に接した風光明媚(めいび)な町は、大津波の爪痕がむごたらしく残り、光景は一変していた。岩手県大槌町に13日、入った。人口約1万5000の静かな町は、民家の残骸や押し流された車で覆われ、見る影もなかった。 加藤宏暉町長をはじめ、多くの幹部職員が行方不明のまま。町長らは役場で会議中に被災したとみられるという。外壁は崩落し、鉄筋がむき出しになっている。 高台にある県立大槌高では、約800人が避難生活を送る。町内5カ所の避難所のうち最も多い人数で、日ごとに増えているという。 教員25人と生徒が中心となり、逃げてきた人を支える。避難者も食材や暖房器具を持ち寄って協力するが、突発的な対応に学校は苦慮している。 13日昼、体育館で男性教諭が町民に呼び掛けた。「私たちじゃ手に負えない。中心になる人がいないから、協力お願いします。自分たちのことは自分でやってほしい」 同校の高橋和夫校長(56)は「病人がでたり、物資、医薬品が不足したりと、対応に限界が出てきた。医師が1人でもいれば…」と窮状を明かす。 家が流され、避難した主婦岩間惇子さん(73)は「高校生が頑張ってくれている。私たちも助け合って苦境を乗り越えたい」と語った。 壊滅した町中心部にある県立大槌病院は51人の入院患者を順次、高台にある医療機関などに移している。津波は建物3階の2階まで迫ったが、ようやく水は引いた。 岩田千尋院長(64)は「支援を要請したいが、町幹部とは連絡が取れず、誰にお願いしていいか分からない」と語った。(山形泰史、酒井原雄平、道下寛子)

 

 岩手県大槌町の浪板観光ホテルで地震に遭遇した秋田県のツアー客ら43人が13日、同県五城目町役場に無事バスで戻った。大半はホテルのはんてん姿でボロボロのサンダル。迎えに来た家族を見て泣き崩れる女性もいた。 猿田利美さん(79)は「子どもが行方不明でも、わたしたちの面倒を見てくれた従業員の皆さんに全員が涙した」と感謝の気持ちを語った。 関係者によると、客らがホテルで芝居見物中に地震が発生。従業員の指示で高台に逃れると、津波がホテルの2階に達し、一瞬で多くの車や家がのみ込まれた。 13日朝まで別の施設に避難。食事は従業員の家が提供したコメをおにぎりに。はんてん姿と寒い格好だったが、住民らがストーブや布団を差し入れてくれたという。

 


 

「はよ、山に上がれ」で助かった 助けを求める声にもなすすべなし

2011年3月14日 11:00 スポニチ

 

 津波に襲われ壊滅状態となった岩手県大槌町。加藤宏暉町長を含め多くの住民の安否が分かっていない。町の中心部をのみ込んだ大津波。この町でも、救えなかった多くの命がある。奇跡的に難を逃れた住民は憔悴しきった様子で当時のもようを語った。 「はよ、山に上がれ」。海岸沿いの水産加工会社で勤務していた荻野貴紀さん(40)は地震直後、社長の大きな声を耳にした。近くの高台を目指し、300メートルほどの坂道を駆け上った。 大きな水の壁が堤防をあっという間に越えて迫ってきた。坂道の下の方にいた人が次々と水にのまれていく。女性の叫び声がした方に目をやる。「高校生くらいの女性が助けを求めていたが、引き波にのまれてしまった」。なすすべもなかった。

 

 町の中心を流れる大槌川の河口から約1キロにある県立大槌病院。地震直後、院内には職員と患者計約100人がいた。病院脇を流れる川がみるみる増水していく。誰かが叫んだ。「津波が来る」 津波が迫ってくるのが窓から見えた。岩田千尋院長(64)ら職員は患者と屋上に避難。自力で逃げられない患者約30人は職員たちが運び上げた。3階建ての病院は2階部分まで水没したが、全員が無事だった。 夜には流されてきた車や船が燃えて、辺りは火の海に。爆発音が何度も聞こえた。水浸しになった2階部分から職員がパックのおかゆを見つけてきた。避難した患者たちは一口ずつ分け合って救助を待った。 岩田院長は「この世の終わりのような光景だった。家を失い、家族の安否も分からない職員もいたのに、よく頑張ってくれた」と話した。

 


 

「無事です」伝言板にメッセージ 大槌の避難所

2011/03/15 岩手

 

家族は、友人は…。約8千人の住民と連絡が取れなくなっている大槌町。町内の山林では14日、断続的に山火事が発生。煙と灰が舞う中、災害対策本部のある公民館や避難所となった施設では、多くの住民が肩を寄せ合い、不安な日を過ごした。 「無事ですか。心配しています。父・母」。約500人が避難した弓道場の伝言板には、家族や知人に安否を知らせるメッセージがあふれた。ほかの避難所で生存が確認された住民の名簿も置かれ、一心不乱につづりをめくり、名前を探す住民もいた。 避難所で初めて、お互いの無事を確認できた人もおり、「おお、生きとったか」「大丈夫だったの」と抱き合う姿も見られた。 近隣住民がおにぎりをつくったが、2人で1個を分け合うのがやっと。毛布も足りず、朝になるとストーブを消して灯油を節約。残りは数缶ほどで、町職員は「今日はいいが、明日以降はどうなるか」と表情を曇らせた。 この避難所では電話は一切通じず、町の対策本部との連絡手段も緊急時に消防や自衛隊の無線を借りるのみ。職員は「食料も、燃料も、情報もない。これからどうなるか…」。 避難所に隣接する施設は遺体安置所となり、自衛隊員がシートや毛布に包んだ遺体を一体、さらに一体と運び入れた。居合わせた住民が静かに手を合わせた。 災害対策本部のある公民館も、寒さが厳しく食料が不足。「家に帰りたい」と繰り返すお年寄りも。及川正さん(64)は「十分な防寒着を持ち出す余裕がなかった。宮古市に住む息子と連絡が取れずつらいが、皆で協力して頑張る」と涙を浮かべた。

 


 

 

息子と夢 抱いたまま 音更出身益田さん一家、無言の帰郷 岩手・大槌町で津波に

03/24 10:15 北海道

 

益田さんと琉生ちゃんが見つかったがれきに押しつぶされた軽乗用車(写真は遺族提供)

 

 【音更】岩手県大槌町で水産加工業を営む道内出身の夫婦と2歳の長男が東日本大震災で津波にのまれ、遺体で発見された。3人の遺体は遺族の車で夫の故郷、十勝管内音更町に戻り、23日夜、仮通夜が行われた。  遺体で見つかったのは大槌町の水産加工会社「海産工房琉生(るい)」経営益田正直さん(38)と妻美保さん(40)、長男琉生ちゃん(2)の3人。正直さんと琉生ちゃんは海岸から約500メートル離れた自宅近くの軽乗用車内で、正直さんが両手で琉生ちゃんを抱きしめている状態で見つかった。美保さんは流されたのか、町内の別の地区で発見された。  地震発生直後の11日午後2時50分ごろ、正直さんは音更町の実姉織田亜由美さん(44)に電話をかけてきた。「こっちはすごい地震だ。北海道も揺れるかもしれないから気を付けて。(地震が)大きくなってきたから避難するね」。その言葉を最後に正直さんとの連絡は途絶えた。  手を尽くして一家の行方を捜していた織田さんに遺体発見の知らせが届いたのは19日だった。正直さんの兄好仁(よしひと)さんらが音更町から車で現地へ向かい、21日朝、遺体安置所で正直さんと琉生ちゃんと対面。2人の遺体は車で22日に音更に戻り、美保さんの遺体は身元確認に時間がかかり、23日に着いた。  正直さんの到着を待っていたかのように、がんを患い帯広市内の病院で闘病中だった正直さんの父修さん(69)が22日夕、息を引き取った。  正直さんは小学校時代に柔道を始め、地元の中学校を卒業後、柔道の強豪・旭川大学高校に進学。道都大でも柔道で活躍し、在学中に知り合った美保さんと卒業後に結婚した。美保さんの紋別市の実家の漁業を手伝ううち、水産加工業に興味を持ち、美保さんの実家の仕事と関係のある大槌町に夫婦で移り住んだという。  琉生ちゃんは益田さん夫妻が結婚後13年目に授かった念願の子供。「海産工房琉生」の社名について、正直さんは「後を継ぐ長男の名前をあえて入れた」と周囲に説明していた。 正直さんら親子3人の仮通夜には遺族や友人ら約40人が駆け付けた。益田さんの高校時代の同級生で十勝管内上士幌町の消防職員川端健功さん(38)は「いつも笑顔で周りを和ませていた。天国でも家族仲良く暮らしてほしい」と声を詰まらせた。

 


 100人、全員が生還

 2011年3月15日 06:00 スポニチ

 

加藤宏暉町長を含め多くの住民の安否が分かっていない岩手県大槌町の県立大槌病院。地震直後、職員と患者計約100人がいたが、全員が生還した。 津波が迫ってくるのが窓から見えると、岩田千尋院長(64)ら職員は患者と屋上に避難。自力で逃げられない患者約30人は職員たちが運び上げた。3階建ての病院は2階まで水没したが、全員が無事だった。夜はパックのおかゆを患者たちに分け救助を待った。岩田院長は「この世の終わりのような光景だった。家を失い、家族の安否も分からない職員もいたのに、よく頑張ってくれた」と話した。

 


 

 津波から92時間、75歳女性救出 岩手・大槌の住宅

2011年3月15日14時23分 朝日

     

 大津波に襲われ大きな被害が出た岩手県大槌町大槌で15日午前10時40分ごろ、被害にあった民家から75歳の女性が救助された。地震発生から約92時間ぶりで、生存率が大きく下がるといわれる「発生後72時間」を約20時間過ぎての救出劇だった。女性は低体温症の症状があるが、命に別条はないという。  大阪府が派遣した救助隊が救出し、女性は隣接する同県釜石市の県立釜石病院に搬送された。女性は津波などの被害を受けた民家の1階の廊下付近で、縮こまって座っていた状態で発見された。隊員によると、女性はずっと同じ姿勢で家の中で救助を待っていたという。  同日午前10時過ぎに、避難所に避難していたこの女性の息子から「家の中にお母さんがいる」と消防に連絡があり、救急隊員が駆けつけたところ、女性を発見したという。  家は津波をかぶって被害を受けたものの流されてはいなかった。  2004年10月の新潟県中越地震では、同県長岡市の土砂崩れ現場で、ワゴン車と岩の間から2歳の男児が約92時間ぶりに救出されている。(五十嵐大介)

 


 

「息子生まれた時のうれしさ」 92時間ぶり救出の75歳女性

2011.3.16 12:37

 

 東日本大震災による津波のため自宅で身動きが取れなくなり、約92時間ぶりに救出された岩手県大槌町の主婦、阿部才さん(75)が16日午前、県立釜石病院で「助け出された時は息子が生まれた時と同じくらい、うれしかった」と語った。 被災者の生存率が急低下する「72時間」を過ぎての救出。助け出されて最初に口にした水は「本当においしかった」。低体温症の症状があるが命に別条はないという。 長男の弘美さん(54)によると、地震の後、海水が自宅に流入。才さんは海水に押し流され2階にたどり着いていた。水が来ていない2畳分のスペースにいてもらうことにしたが、自力では救出できなかったという。 才さんが救出されたのは15日午前10時40分ごろ。消防隊員が近くを通り掛かり、弘美さんが「自宅に母がいる」と伝えた。弘美さんは「おやじは助けられなかった。何とか生きていてほしいが…」と話した。

 


 

 東日本大震災 不明の大槌町長、遺体で発見 岩手

毎日新聞 3月20日(日)11時10分配信

 

 東日本大震災発生後の津波に襲われ、岩手県内の首長で唯一行方不明になっていた大槌町の加藤宏暉(こうき)町長(69)について、県は20日、死亡が確認されたと発表した。 県災害対策本部によると、19日午後、町役場から北へ約500メートルの国道45号バイパス付近で発見された遺体から町長の名刺が見つかり、町が町長と確認した。 加藤町長は11日の地震直後、役場前の駐車場で対策会議を開こうとして津波に襲われ、町職員三十数人とともに連絡が取れなくなっていた。【湯浅聖一】

 


 

「頑張って生きます」命の恩人と9日ぶり再会 岩手

2011年3月20日20時3分 朝日

 

津波に流され、がれきの下敷きになった岩手県大槌町の川口伸さん(18)が20日、助け出した吉田久人さん(31)と9日ぶりに再会した。「せっかく助かったんだ。頑張って生きるしかねえべ」。命の恩人から声をかけられた川口さんは、「頑張って生きていきます」と照れくさそうにこたえ、握手を交わした。  川口さんは地震後、同町でタクシー会社を経営する父浩さんと母明美さんの3人で車に乗り込んだ。その瞬間、津波にのみこまれた。車外に投げ出された後、がれきに体を挟まれた状態で動けなくなった。  「助けて」。約3時間後、壊れた自宅の様子を見にきた吉田さんは、がれきの下からかすかなうめき声を聞いた。「今、動けるようになっからな」。川口さんを励ましながら、近くに落ちていたおのでがれきを壊して救い出した。 川口さんは右手にけがを負った。吉田さんから「大丈夫か」と聞かれたが、「大丈夫です」とこたえ、両親を捜すため、その場を離れた。  20日、2人は家の片付けの後に寄った小学校の避難所で偶然出会った。川口さんの父浩さんは亡くなり、母明美さんは行方が分からない。吉田さんも自宅を失い、親戚のところに身を寄せていた。  川口さんは今春、同県宮古市の専門学校に入学が決まっている。自動車整備士資格を取って父の仕事を継ぐためだ。「今度は、おれが一家の大黒柱になる番。祖母や姉はおれが支えていきます」と唇をかみしめた。(奥田薫子)

 


 

 手押しポンプで井戸水提供 新町の徳田さん  大槌

2011.3.22 岩手日報

 

東日本大震災で被災した大槌町新町の徳田健治さん(61)は避難先に設置していた手押しポンプを活用し、井戸水を地域住民に提供している。同町は全域で断水が続くため、多い日は100人近くが利用。人力に頼る昔ながらの手法が威力を発揮している。 徳田さんは自宅が津波で流されたため、11日から同町大槌の作業小屋に家族と避難。井戸は1973年の干ばつの際、約8メートルの深さまで掘った。今回の地震でも水が濁ることはなかった。 避難してきた時、手押しポンプのベルト部分が壊れていたため、自分のズボンのベルトを手ごろな長さに切って代用した。水不足に悩む近所の住民に声を掛け、自由に利用してもらっている。 最近になって給水車も入るようになったが利用者は途切れない。入所者ら約40人が避難する近所のデイサービス「城山の杜(もり)」の佐々木薫所長は「洗濯や炊事に使う量が多いので助かる」と感謝する。 町内には井戸水を使う自家水道もあるが、多くはモーターで取水するため停電の続く今は使用できない。徳田さんは「人力で水を確保する手段を残しておいてよかった」と非常時にも前向きだ。

【写真=手押しポンプで井戸水をくみ上げる徳田健治さん(右)。断水の続く地域の住民に喜ばれている=大槌町大槌】

 


 

東日本大震災:鳴らし続けた半鐘…消防団11人死亡・不明   大槌

毎日新聞 2011年3月23日

 

東日本大震災で1000人を超える死者・行方不明者を出した岩手県大槌町で、大槌町消防団第2分団(越田弘分団長、28人)の団員たちは、防潮堤の門扉を閉じ、住民を避難させようと最後まで海辺にとどまった。任務を果たした結果、4人が死亡し、7人が行方不明。その中の一人、越田冨士夫さん(57)は団の象徴である「半鐘」を鳴らし続け、津波にのみ込まれた。 海岸に近い大槌町の安渡・赤浜地区。第2分団は地震が起きると真っ先に門扉を閉じる決まりになっていた。11日も団員たちは一斉に防潮堤へ向かった。 「おみゃーは屯所でサイレン鳴らせ」。14カ所ある門扉の1カ所を閉め終わったところで、団員の飛内邦男さん(55)は越田さんからそう指示された。

 

 津波が迫っていた。住民を円滑に避難誘導するには、全域に危険を周知する必要がある。飛内さんはサイレンを鳴らすため近くの分団屯所へ車で向かった。 スイッチは1階。ボタンを押した。鳴らない。地震で町全域が停電し装置が作動しなかった。 間もなくして越田さんが屯所にやってきた。状況を報告すると越田さんは「よし」と一声。屯所の屋上に上がり叫んだ。「早ぐ行げ。みんなを避難させろ」。その時、飛内さんは、越田さんが普段は火の見やぐらから外してある半鐘を手にしているのを見た。これが最後の姿だった。 「カン、カン、カン」。大災害時にだけ使用が許可されている特別な鐘。その乾いた音は遠くまで響いた。当時、数百メートル離れた高台に避難していた元分団長、東梅武保さん(72)は「海の様子が見えていたんではないか。何とも寂しい音だった。今も耳から離れね」。 第1波が到達したのは午後3時20分ごろ。高さ約5メートルの堤防を軽々と乗り越えた黒い波は、渦をまきながら集落をのみ込んだ。同じころ、屯所の近くでは団員10人前後が高齢者の避難を手伝っていた。住民や団員に警報を出し続けた半鐘の音は、津波が屯所に達するまで鳴っていた。 津波が引くと、屯所は建物の基礎部分だけを残し消えていた。変形した屯所のやぐらが、がれきの中から見つかったのは10日後のことだ。 越田さんと半鐘の行方は、今も分かっていない。【鈴木一生、山本将克】

 


 

 本場カレーに笑顔=パキスタン人らが炊き出し−被災の小学生もお手伝い・岩手  大槌

2011/03/23-06:10 時事

 

 ほころぶ笑顔、「中辛かな」。東日本大震災による津波と火災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町では、パキスタン人らのグループが被災者を元気づけようと炊き出しをしている。夕食にはできたてのカレーとナン約2000人分を町内各避難所に送り届ける。 全員が愛知県春日井市のモスク(イスラム礼拝所)に集う仲間。「苦しいときに助け合うのがイスラム教徒だ」。ムハメド・シャフカットムニルさん(33)らは調理器具や食材を車に積んで出発し、被害が特にひどいと聞いて大槌町に入り、20日からほかほかの食事を出している。 家族で避難所暮らしの大槌小3年上野珠生君(9)は、お母さんのとは一味違う本場のカレーに「うまかった」と白い歯を見せた。今ではグループと一緒に、ニンニクの皮むきや避難所での配膳などを手伝い、周囲を和ませる。 朝食には甘いミルクティーを出す。被災者は「温かいものは初めて」と口々に感謝を述べ、おかわりする人も。シャフカットムニルさんは「うれしいし、力になります」と手応えを感じていた。 息子を亡くした女性が孫息子の手を引き、町災害対策本部近くの炊き出し場所を通り掛かった。「どうぞ」と振る舞われたミルクティーをすすり「おいしい、おいしい」。深く一礼し、張り詰めた頬が少しゆるんだ。

 

 


 

 群馬・栃木のパキスタン人物資購入、岩手に運ぶ  大槌

2011年3月23日  読売新聞

 

群馬県と栃木県に住むパキスタン人8人が、東日本巨大地震の津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で支援活動を行っている。22日には、4トントラックの荷台一杯に詰め込んだ支援物資を町に届けた。「とにかく被災地に」と飛び出した8人。昨年のパキスタン大洪水で、日本が行った大規模支援に対する「お返し」だという。(岩手県大槌町で、酒井圭吾 )     8人は前橋市や太田市、栃木県足利市などに住む。被災地の映像が、約2000万人が被災した昨年7月の大洪水や、テロが多発する母国の惨状と重なったという。洪水では、日本は多額の支援金を出すとともに、500人規模の自衛隊員を派遣した。 今回の地震でパキスタンからの公式支援はないため、8人は「自分たちの番」と支援を思いついた。両県に住む同胞数十人から寄付金を募り、群馬県内で食糧や水、おむつ、毛布など1200万円分を購入。 トラック2台とワゴン車に積み込み、とにかく急げとばかりに先遣隊数人が行き先を定めぬまま、18日に前橋市を出発。東北道で給油中、「大槌町への支援は十分ではない」と聞き、8時間かけてたどり着いた。 大量の支援物資は、住民3分の1以上が避難者となった町も大歓迎だ。町職員倉本秀紀さん(60)は「ありがたいとしか言いようがない」と笑顔。搬送には、常駐の自衛隊員も手伝った。 8人は、町の仮役場に泊まり込み、23日にはパキスタンカレー2000食分の炊き出しをする。前橋市、自営業アブドラ・ハフィゼさん(41)は「日本とパキスタンは同じ言葉が好き。『困った時はお互いさま』だよ」と笑った。

 


 

 東日本大震災:岩手・大槌高、今春卒業の5人が不明 同級生、懸命の捜索

毎日新聞 2011年3月25日 東京夕刊

 

 岩手県大槌町の県立大槌高校をこの春卒業した115人のうち、5人が行方不明になった。「もう一度会いたい」。進学や就職を控え、夢を語り合った同級生や親たちは一縷(いちる)の望みをかけて町内を捜している。 いずれも18歳の、阿部智大(ともひろ)さん▽三浦恵美子さん▽山崎千晶さん▽石井明さん▽石原翔平さん。 阿部さんは地震直後、近くで1人暮らしをする祖母を避難させるため、「ばあちゃんの所に行って来る」と家を飛び出した。母の恵美子さん(43)は、避難場所に着いてから息子に電話をかけたが通じなかった。 柔道部の主将を務めた阿部さんは消防士を目指し、4月から盛岡市内の専門学校に進学するはずだった。「あの子なら、足の不自由な祖母をおぶって山を登ってくる」。恵美子さんは願ったが、2人とは連絡が取れていない。 三浦さんはバスケットボール部のキャプテンで、岩手県立大学への進学も決まっていた。友人の小川良子さん(18)は地震の2日前、三浦さんと一緒に映画「ハリー・ポッター」のDVDを見たり、大学生活への夢を語り合った。「恵美子は絶対にいます」。小川さんは手がかりを求め、避難所を巡っている。 4月から服飾の専門学校に通う予定だった山崎さんは、おしゃれ好きなクラスのムードメーカー。石井さんは盛岡市内の大学に進学、石原さんは千葉県内のメーカーに就職するはずだった。高橋和夫校長は「希望を胸に卒業した大切な生徒。どうか無事でいてほしい」と祈っている。【藤田剛、村上正】

 



 

 東日本大震災 避難生活の支えは愛犬 車中泊続ける66歳

毎日新聞 3月27日(日)9時36分配信

 

津波で自宅を失った岩手県大槌町桜木町の無職、大平トワさん(66)は避難所の駐車場で車中泊を続けている。避難所にペットを連れ込むことはできないため、愛犬のマルチーズ、モモ(雌、5歳)と一緒に寝泊まりすることを選んだ。「つらい体験や避難生活でも、モモは私を支えてくれている」と話す。1人暮らしの大平さんは外出先で地震に遭った。激しい揺れに驚いて帰宅。留守番をしていたモモと、足が不自由な隣家の高齢女性を軽乗用車に乗せ、高台を目指して逃げた。 命からがらたどり着いた避難所で、日中に作業を手伝い、食料などの物資を受け取っている。「モモちゃん、お仕事だからお留守番しててね」。車を離れるときは必ず声を掛ける。 モモとの散歩は運動にも気分転換にもなる。エコノミークラス症候群を予防するため、医師に相談して体調管理に気を配る。「仙台市に住む長男が(モモを預かりに)来るまでは一緒にいたい」

 

軽乗用車で愛犬と避難生活を続ける大平さん=岩手県大槌町小鎚で2011年3月24日、福島祥撮影

 


 岩手 大槌町の津波は13m

3月28日 20時37分  NHK

 

東北沿岸の大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町では、広い範囲で、高さおよそ13メートルの津波が押し寄せていたことが専門家の調査で新たに分かりました。横浜国立大学と東京大学の研究グループは、大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県の大槌湾の沿岸を初めて調査しました。その結果、湾に面した大槌町では、沿岸部の建物に残された痕跡などから津波の高さが広い範囲でおよそ13メートルに達していたことが分かりました。また、湾の南側にある釜石市の崖の斜面では、打ち上げられていた漁具などから、津波がおよそ15メートルの高さにまで駆け上がっていたことが分かり、大槌湾の広い範囲に巨大な津波が押し寄せていたことが確認されました。調査に当たった横浜国立大学大学院の佐々木淳教授は、「大槌湾から川をさかのぼった津波は数キロ上流までの広い範囲に大きな被害を及ぼしている。この地域では避難が非常に難しい状況だったと考えられる」と話しています。

 


 

 「学校なくなり、無理だと思ったけど…」岩手の小学校で卒業式

2011.3.29 13:54  産経

岩手県大槌町の避難所となった安渡小学校の卒業式で、祝福される卒業生=29日午前

 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町内の小学校が29日、卒業式を開いた。 津波で校舎が損壊した町立大槌北小学校は、避難所にもなっている近くの県立大槌高校で開催。家が流されたり家族が安否不明の児童もいるが、卒業生47人を含む全児童が無事だった。 卒業生の藤沢慶子さん(12)は津波で家が流され、ジャージー姿で卒業証書を受け取った。「学校がなくなって式は無理だと思っていたけど、できてうれしかった。中学では吹奏楽部でトランペットを吹きたい」と笑顔で話した。 大槌町では同日、ほかに町立安渡小学校などでも卒業式が行われた。

 


 

 

津波に流された家屋の撤去作業中に自衛隊員が見つけた写真やアルバム。ボランティアらが災害対策本部の脇に並べて展示し、持ち主が現れるのを待っている=岩手県大槌町で2011年3月29日午前11時43分、須賀川理撮影 毎日

 

 


燃料確保に苦慮 全ガソリンスタンド被災の大槌 往復で45〜60キロ

2011/03/30 岩手日報

 

東日本大震災で市街地が大きな被害を受けた大槌町は、町内のガソリンスタンドも全て壊れた。住民は給油のため釜石市や山田町まで足を運ぶ。特に山間部はスタンドまで遠く、被災は免れたものの負担感は大きい。住民へのガソリン供給のめどは立たず、耐乏生活を強いられている。 県石油商業協同組合によると、町内5カ所のスタンドは、いずれも津波で被災。町内は山間部まで集落が点在しており、金沢地区や小鎚地区から最寄りのスタンドのある釜石市中妻町や山田町船越まで往復で45〜60キロもある。 給油に行っても販売量が制限されたり、売り切れのため無駄足となることも多い。大槌町小又口の佐々木武男さん(73)は「4回足を運び、やっと給油できた。シイタケ栽培にも燃料が必要。町内で販売する場所を早急に整備してほしい」と求める。同町小鎚の小笠原喜重治さん(57)も私用の外出を控え、内陸の親戚や友人が支援したガソリンでしのいだ。「農作業が始まると燃料はもっと必要になる。町内は商店もなくなってしまったので買い出しも大変だ」と窮状を訴える。 全13カ所のガソリンスタンドが被災した陸前高田市も厳しい状況が続くが、27日から3日間、市民向けのガソリン配給があった。町災害対策本部も県と連携し、町内でガソリンを配給する手続きを進めている。 同町の東梅政昭副町長は「燃料がない状況を歯がゆく思う。一般の人が給油できるような態勢を直ちに構築したい」と話す。

 


東日本大震災:車中泊の男性「母どこ」−−岩手・大槌町

毎日新聞 2011年3月30日 東京夕刊

 

 神奈川県南足柄市の会社員、柵山一成さん(45)は、出身地の岩手県大槌町で車中泊をしながら、行方不明になっている母カヂ子さん(73)を捜している。高校卒業後、母を残して関東地方で就職した柵山さん。廃虚と化したふるさとを目の当たりにし、「親孝行はこれからだったのに」とつぶやいた。 柵山さんは震災当日、出張先の滋賀県にいた。母が1人で暮らす実家は高台までわずか約200メートル。電話してもつながらなかったが、どこかに避難していると信じていた。 しかし、新聞の生存者情報欄などを探しても名前は見つからず、東北自動車道が全線通行可能になった24日、車で約10時間かけて大槌町に戻った。 ふるさとの惨状は、想像を超えていた。実家があった場所には、別の家の残骸が積み重なっていた。写真などの思い出の品がどこに流されたのかも分からなかった。 難を逃れた親類や知人から、母が近所の人から避難を促されても「私は1人暮らしだからいい」と動かなかったと聞いた。 柵山さんが就職で上京するのを決めた時、「お前なりの希望もあるだろうし、就職できるならそれでいい」と後押ししてくれた母。その時の寂しそうな表情が忘れられない。「一緒に住もう」と何度も誘ったが、母は首を縦に振らなかった。 「変わり果てた姿になった母を見るくらいなら、このまま思い出だけを心に残しておく方がいいのか」。柵山さんの目が潤んだ。【斎藤良太】

 


8千人と依然連絡取れず 岩手・大槌町

2011.3.30 22:01 産経

 

 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町は30日、人口約1万5千人のうち、避難所や自宅で生存が確認できたのは7千人ほどにとどまり、残る約8千人と依然連絡が取れないことを明らかにした。 町は「連絡が取れない人には、町外に避難した人も含まれるとみられる」とした上で、がれきに阻まれて捜索が市街地の道路付近にとどまっていることから、今後も死者・不明者の数が増えるとの見方を示した。 町によると30日現在の死者は527人、家族から届け出などがあった行方不明者は1039人。 町役場が津波に襲われて町長と職員計33人が死亡・不明となり、住民基本台帳の原本も失われた。町は台帳のデータ復旧を急ぎ、連絡が取れない住民の消息を引き続き調べるとしている。

 


 

 東日本大震災:笑顔ともった…避難所に電気開通 大槌町

 毎日新聞 2011年3月30日 22時19分 毎日

 

岩手県大槌町の避難所になっている安渡(あんど)小学校に30日午後5時45分、電気が開通した。暗い避難所に明かりがともると、事前の知らせがなかった避難者は一斉に上を向き、拍手と歓声が湧き起こった。 これまで同校では発電機2台による最低限の電力しかなく、避難所内はほとんど照明が使えず、日が暮れると暗いままだった。 津波で父親を亡くした2人の孫と避難している三浦枝美さん(70)は「気持ちも明るくなった。これが第一歩。前を向いて頑張らないと」と話し、孫の和真くん(12)は「暗闇で余震があると怖かったが、ちょっと安心」と笑顔を見せた。【須賀川理】

 


 

大槌町 住民票サーバーが残る

3月31日 15時12分   NHK

津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で、住民票などを管理するコンピューターのサーバーが、津波に耐えて役場に残っていたことが分かり、町はデータを復元し、住民の安否の確認を進めたいとしています。大槌町は震災で町役場も壊滅的な被害を受け、住民票などを管理する「住民基本台帳ネットワーク」が使えなくなりました。このため町は、1万5000人余りの住民について、避難所で生活している人を調べるなどして安否の確認を進めていますが、住民票のデータがないため、困難な状況が続いていました。こうしたなか、職員が町役場の庁舎を調べた結果、「住民基本台帳ネットワーク」のサーバーが、津波に耐えて庁舎の2階に残っているのが見つかり、専門の業者にデータの復元を依頼したということです。大槌町総務課の平野公三主幹は、「データが復元できれば、思うように進んでいなかった住民の安否の確認を行うことができる」と話しています。 


 

「ランドセル探したい」小学教諭、退職まで奔走…大槌

2011年4月2日  読売新聞

 

大槌小校舎のがれきの中からランドセルを運び出す工藤教諭(30日午前、大槌町で) 

大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町の町立大槌小で、がれきの中から教え子のランドセルを探す教員がいる。 2年1組担任の工藤祐子教諭(52)。地震後、クラスの19人は高台に避難して無事だったが、思い出が詰まったランドセルは、校舎もろとも津波にのまれた。これまで17個を見つけた。母親の介護のため31日で退職したが、あと二つのランドセルを同僚が見つけてくれることを願っている。(福本雅俊) 「この辺はまだ探していない。もしかしたら」。毎日、午前中の1時間半、手袋と運動着姿で、2年1組の教室があった場所のがれきを一つ一つ取り除いていく。「ランドセルには、初めて背負った時の喜びがこもっている。そのままにしておけない」 同小では児童1人が犠牲となり、2人が行方不明のままだ。地震発生時、2年1組の教室では「帰りの会」が開かれていた。 「大津波が来る。みんな早く、早く」。工藤教諭はクラスの19人とともに高台の公民館に逃れた。ランドセルを持ち出すことなど考えもしなかった。 地震から7日後、がれきの山と化した学校内に足を踏み入れた。2年1組の教室のあった場所で、泥まみれの赤いランドセルを見つけた。「かけがえのない物を置いて行かせてしまった」。申し訳なさが募り、1人でランドセル探しを始めた。 なかなか見つからず、心細くなりもしたが、同僚たちの助けもあって、げた箱や机の下などからランドセルが見つかり始めた。 雪の降るある日、中庭からピンクのランドセルが出てきた。公民館で避難生活を送る三浦楓(ふう)子さん(8)のものだった。中に入学後の体重や身長などを記録した「けんこうカード」があった。公民館に届けると、楓子さんは「友だちにもらった大切なキーホルダーも付いてる。早く学校に行きたい」と声を弾ませた。 そのカードは母親の夏美さん(44)にとっても宝物となった。三浦さん宅は津波で全壊したため、母子手帳などの楓子さんの成長の記録はすべて失われた。夏美さんは「記録が一つでも残ってよかった」とカードを胸に抱いた。 工藤教諭は退職後、被災した母の介護のために軽米町へと移る。「ランドセルを背負った子どもたちに会いに、また大槌に戻ってきます」。元気に走り回る子どもたちの姿を目に浮かべる。

 


 

大槌町、仮庁舎を着工

2011年4月2日  読売新聞

大槌町は1日、大槌小の校庭で、役場仮庁舎を着工した=写真=。10日頃から順次、職員約80人が中央公民館から仮庁舎に移る。 校庭には、大型クレーンやトラックなどが並び、作業員14人がビニールひもで区画したり、測量したりし、クレーンでプレハブを設置していった。プレハブ1個の大きさは縦3メートル、横2・4メートル、奥行き5・6メートル。大阪市や青森市などから取り寄せ、10個使って2階建てにする。役場のほか警察、消防用も含めて計6棟を設置する。


 

東日本大震災:岩手・大槌、釜石の被災地を取材して=金子淳 /北海道

毎日新聞 2011年4月2日 地方版 毎日

 

 3月17日に岩手県に入り、大槌町や釜石市の避難所を訪ね回った。発生から1週間以上たってもがれきの中から死臭が漂い、カラスの群れが頭上を飛び交う。そんな現場で出会った被災者たちは、誰もが家族か友人を失っていた。記者として何ができるか。悩み続けた。そして10日間の取材が終わり、途方もない無力感だけが残った。

 

 ◇喪失感を誰もが抱え

 教室に入ると、床に敷き詰めた毛布の上で疲れきった人々が身を寄せ合っていた。大槌町立安渡(あんど)小学校の避難所。一家6人で避難した大石留美子さん(61)は孫の姫乃ちゃん(9)と遊んでいたオセロゲームの手を休め、津波の恐ろしさを語ってくれた。「あの日は孫と『おいしいラーメンを食べに行こうね』なんて話していた。これが夢なのか、これまでの生活が夢だったのか。今でも目をつぶると煙と波しぶきが見えて『逃げろー、逃げろー』と聞こえてきます」 大石さんは自宅で被災し、避難した高台の寺から町が波に沈むのを見た。自宅は流され、友人が何人も消えた。「何にもなくなった。何にも。ランドセルも海にプレゼントしたんだもんね」。孫娘と目を合わせたとたん、穏やかな顔がゆがんだ。「ばあちゃん、泣き虫だね」。姫乃ちゃんが笑う。「そうだね、ばあやはすぐ泣くからね」。大石さんも笑顔を作るが、それでも涙は止まらなかった。 被災者に、どんな言葉をかけ、何を聞き出せばいいのだろう。取材中、ずっと悩んだ。帰り際に名刺を渡すと、大石さんが言ってくれた。「札幌からわざわざ来てくれたんですね。ありがとう」。札幌に帰れば家も会社もあるし、友人もいる。私は何も失っていない。それが何だか申し訳ないような気がして、途方に暮れた。 目の前で夫が波にさらわれた女性。自宅に残した妻が家ごと流された男性。避難所では、そんな人々がボランティアで炊き出しや物資の運搬を手伝っていた。「近くに住んでいる人がご飯をもらいにきたから分けてあげたの。どっちが被災者なんだか」。避難先の寺で炊き出しをしていた女性(59)はおかしそうに笑った。この女性も家や友人を失っていた。

 

 釜石市の岬では、がれきの中で住民たちが黙々と遺体の捜索を続けていた。「自衛隊の捜索も打ち切られた。でもまだ見つかっていない人がいるから」。こう説明してくれた女性(58)は地震の日、高台から夫と娘が波に消えたのを見ていた。「2人とも見つかっていない。だから、私もここを離れられない」。つらい取材だった。 「復興なんて、気が遠くなる」。がれきの町を見ながら、こんなつぶやきを何度耳にしたことだろう。それでも取材した10日間で、真っ暗だったトンネルは明かりがともり、避難所には電話が引かれ、道路脇のがれきは少しずつ減った。宿舎から被災地に向かう道すがら、毎朝そんな変化の兆しを見つけては、ひそかに自分を慰めた。 だが、被災者が抱える喪失感は、いくら復旧が進んでもきっと埋まることはない。記者として何ができるか。自らに問いを重ねて、何度も被災地に足を運んで、ただじっと向き合っていくしかない。(北海道報道部)

 

 


 園児をおんぶ「山に逃げろ」 大槌保育園、30人救う

2011/04/03 岩手

    

 女性保育士とスーパーの従業員らは、四つんばいでしかはい上がれない急斜面を園児30人を背負って夢中で駆け上がった―。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた大槌町の大槌保育園。園舎も避難場所も津波に襲われたが、必死の避難で園児を守った。 八木沢弓美子園長(45)によると、地震発生時は昼寝が終わったばかり。園児約100人はパジャマのまま防災ずきんをかぶり外に。向かったのは国道沿いの小高い丘にあるコンビニ。町の指定避難所は空き地で寒さをしのぐ建物がない。保育園は、津波浸水想定区域のぎりぎり外にあるこのコンビニを独自の避難場所と決めていた。 八木沢さんはコンビニ店内で、迎えに来た親に園児のうち約70人を引き渡し、外を見た。「家の屋根をたくさん浮かべた高い波」が迫ってきた。「怖い、怖い」と泣きじゃくる園児ら。覚悟を決めた。「山に逃げよう。先生のそばにいれば大丈夫」 国道は市街地から逃げる人や車で大渋滞。八木沢さんらは、1歳から年長まで残っていた園児30人を散歩用の台車に乗せて車道を駆け上がり約300メートル先の山のふもとへ。近くのスーパー従業員約30人も避難していた。 さらに津波が迫ってきた。もう考えているひまはなかった。目の前には30度を超えるような急斜面。でも登るしかない。八木沢さんら女性保育士20人と男性保育士1人、さらにスーパー従業員の男女が手分けして園児をおんぶし、斜面に張り付くように四つんばいになって、切り株や木に手をかけて登り始めた。上へ、上へ。 必死だった。登りながら振り返った。大槌湾から押し寄せる波が、コンビニと園舎、指定避難所の空き地に向かう道路をのみこんでいった。 山頂は雪。眼下で火事も起きていた。山頂まで何分かかったか覚えていない。20分だったか、30分だったか…。 気持ちが落ち着いたら、山頂からふもとにつながる細い山道があることに気付いた。歩いてふもとに下りたのは真夜中だった。 コンビニで親に引き渡した園児のうち9人が、死亡または行方不明になっていた。最後に引き渡した女児は、乗用車の中で防災ずきんをかぶった姿のまま遺体で見つかった。 「あそこで引き渡さなければ、あの子は助かったんだろうか」。八木沢さんは保育士を辞めようと思い詰めたが、保護者の声に支えられ保育園再開のために汗を流そうと決めた。亡くなった子どもや親の分まで、自分にできることを精いっぱいやるつもりだ。

 


 沿岸南行記:津波被災地より 岩手県大槌・4日 地盤沈下で水位上昇

 毎日新聞 2011年4月5日 東京朝刊

岸壁とほぼ同じ高さに迫る海面を見つめる地元の女性たち=岩手県大槌町の大槌漁港で2011年4月4日午後4時13分、工藤哲撮影 

正直怖い。ひたひたと迫り来る海水が足元近くに達し、このままさらわれそうな錯覚を覚える。もし余震で津波が来たら……。町長が亡くなるなど壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町。大潮の満潮を迎えた夕方、大槌漁港の岸壁は同じ高さの海水面に洗われていた。 特産のホタテやカキの香りが漂う漁港は岸壁などのアスファルトがひび割れ、海沿いの道は大津波でえぐられた部分に砂利をかぶせて通行できるようにしている。居合わせた近所の漁師、黒沢弘さん(59)が「修復には5年、10年かかるんだろうな。使いもんになんねえかも」とため息をつく。防波堤はゲートがなくなっていた。 水位の変化を黒沢さんは「震災前の満潮が今の干潮。海面が70センチ近く上昇した」と表現する。実際は地盤沈下だ。国土地理院が隣接市町で観測したデータによると、山田町で47センチ、釜石市で53センチ。まだ沈み続ける被災地もある。 これまでも海沿いで片付けにいそしむ人々を大勢見たが、すぐ近くに海が迫っていた。地盤沈下は新たな被害を生みかねない。  バスの時間が合わずタクシーで釜石市へ向かうと、渋滞に巻き込まれた。「家族の安否を気遣う人の車が増えているのだろう」と運転手。被災地を悩ませるガソリン不足が少しずつ改善しているようだ。【工藤哲】

 


 東日本大震災:「夫、不明のままでいい」 岩手・大槌の75歳、安置所回り耐えられず  大槌町

毎日新聞 2011年4月4日 東京朝刊

 

 東日本大震災の身元不明者は依然1万5000人を超える。遺体安置所を回る人が絶えない一方で、やむなくあきらめた人もいる。岩手県大槌町から同県雫石町に避難中の長峰カツさん(75)は、夫の溜(たまる)さん(81)が家ごと津波にのみ込まれた。4日間、遺体安置所に通ったが、見つからなかった。「もうこれ以上遺体を見るのは耐えられない。『行方不明』でいいです」と無念の思いを語る。 カツさんは溜さんと長男泰一さん(54)の3人暮らしだった。「あの日」も3人で家にいた。大きい揺れが収まった直後だった。網職人だった溜さんは10年前から前立腺がんで寝たきり生活。泰一さんは消防団員と協力して溜さんを2階に避難させ、足の悪いカツさんは泰一さんに支えられながら裏山に向かった。山から見下ろすと、黒い濁流がみるみる街に迫り、6メートル近くあった堤防を乗り越えた。「とーさん、ごめん、とーさん、とーさん」。悔し涙が止まらなかった。 避難所から毎日バスで遺体安置所に通った。さまざまな状態の遺体が並ぶ遺体安置所は「地獄だったよ」。身元不明の遺体を何度も何度も見た。「つれーもんだ。もう『行方不明』でいい。共同墓地に葬ってくれって思ったよ」。カツさんは大粒の涙をぬぐった。 カツさんは自宅のあった所に行った。跡形もなく、土の底までえぐられていた。そこで1本の緑色のひもを見つけた。イワシの目刺しの頬通しに使うひもだ。津波が来る前の晩、溜さんは目刺しを「うみゃー(うまい)」と食べていた。その時のひもかは分からない。カツさんはそれだけ拾って避難所に戻った。「とーさんの形見にしようと思ってね」【三木陽介】

 


 

「息子に会うまでは」 大槌の久保さん、希望捨てず 大槌町

(2011/04/04) 岩手

教え込んだ「漁師の基本」を手掛かりに―。大槌町吉里吉里の養殖業久保一夫さん(75)は、消防団員で救助に向かったまま行方の分からない次男衛(まもる)さん(37)を捜し、毎日がれきをかき分けている。震災翌日、避難の手助けに「もやい結び」された消防用ロープを見つけ「衛に違いない」と確信した。衛さんの顔を見ない限りは希望は捨てない。 「街が全部海に流された」。海岸沿いのがれきを片付けながら一夫さんはつぶやいた。震災翌日の先月12日から休みなく息子を捜し、既に3週間が過ぎた。 11日に一夫さんが最後に姿を見たのは、避難する途中に衛さんが乗ったポンプ車とすれ違った時。「ちょっとやそっとの津波じゃない」と悪い予感がした。その後、一緒に海岸に向かった加賀敏勝さん(57)、佐藤貴広さん(31)とともに衛さんとも連絡が取れなくなった。 ある避難者から「国道45号に車を止め、ロープを使って低地にいる人を助けていた」との目撃情報。震災翌朝、海岸から約50メートルの現場付近に行くと、国道のガードレールに消防用ホースが固定され、約10メートル下の低地まで垂れていた。 目に付いたのはその結び目。衛さんと一緒に働き始めた時に「漁師の基本」と最初に教えた「もやい結び」だった。 「この結びは衛だ」。現場に向かった3人の中で漁師は衛さんだけ。しっかりとした結び目に「これほどきれいにやるのは難しい」と成長を感じたが「人を助けるため波も見ていなかったのだろう。適当にやって早く逃げれば助かったかもしれない」と悔しさがこみ上げた。 盛岡市で会社勤めしていた衛さんは地元の漁師になって10年近い。一夫さんは、息子の正確な仕事ぶりを見ては「ものになる」と心の中で喜んだ。だが今では「盛岡にいればこんなことにならなかった。漁師をやらせたことを後悔している」。 「優しい人だから逃げる人を見過ごせなかったと思う」と衛さんの妻(37)はぽつり。小中学生の娘2人の面倒見も良く、地震発生時も下校する娘を迎えるため自宅に戻っていたという。 祭りの太鼓を地域の子どもたちに教えることもあり「ここに暮らす子は全員がずっと仲良くしてほしい。地域みんなで育てていかなきゃ」とよく語っていた。 「行ってくる」。11日早朝、いつも通りに自宅を出て海に向かった時の言葉が最後では寂しすぎる。「あきらめるわけにはいかない」。家族は対面するその日を待ち続ける。


 寺失い法衣なくても…被災僧侶、再起の読経

2011年4月5日14時35分  読売新聞

 

東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県大槌町で、津波によって寺を失い、住職の父親と後継ぎの長男の行方が分からないながらも、家族を失った被災者のために再起した僧侶がいる。 葬儀を希望する檀家(だんか)の知人に励まされ、「少しでも、被災者の心を癒やすことができれば」と、避難所暮らしをしながら読経を続けている。 大萱生良寛(おおがゆうりょうかん)さん(52)が副住職を務める江岸寺(こうがんじ)は、室町時代に創建された曹洞宗の寺院で、町の中で最も古い寺の一つとされる。海岸から約500メートルと海に近いが、1960年のチリ地震津波でも被害はなく、津波の避難場所になっていた。 今回の大震災でもお年寄りら約100人が避難。大萱生さんは裏山へ逃げるよう呼び掛けたが、足腰の弱いお年寄りら約30人は境内や本堂に座り込んでいた。 地震から約30分後、「津波だ」。裏山に避難していた長男の寛海(ひろうみ)さん(19)が、慌てて駆け降りて来るのが見えた。その直後に庫裏の壁から黒い水が噴き出してきた。濁流は本堂やお年寄りらをあっという間にのみ込んだ。水中で必死にもがき、「ここだあ」と手を挙げて叫び続けていると、裏山に避難した人たちに担ぎ上げられた。 生き残りはしたが、本堂は炎に包まれ、鉄骨だけの無残な姿になった。寛海さんと父の住職秀明(しゅうめい)さん(82)は行方不明のまま。一人息子の寛海さんがいなくなったダメージはあまりに大きかった。「愛知の大学で仏教を学んでいて、いつかは後継ぎに、と考えていたんです。たまたま帰省していて、こんなことになるなんて……」。避難所で、ふさぎ込む日々が続いた。 そんな時、幼なじみで檀家だった50歳代の男性が避難所を訪ねてきた。両親を失っていた。「法衣や数珠がなくても構わない。お前に葬儀をやってほしいんだ」。そう言われ、目が覚めた。今こそ、被災者のために働かなければならない。落ち込んでいた自分を恥じた。 親戚の僧侶から法衣を借り、4月1日、幼なじみの男性の家の墓の前で、両親の葬儀を執り行った。 その後、散り散りになっていた檀家の人たちから連絡が入るようになり、火葬場に出掛けたり、遺族宅に出向いたりして読経を続けている。

 

 


 

東日本大震災:企業も苦楽ともに 避難者40人受け入れ−−大槌 /岩手

毎日新聞 2011年4月7日 地方版

 

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた大槌町で、避難所に指定されていないのに約40人の地元住民を受け入れている会社がある。駐車場に建てたプレハブ小屋で社員が世話をし、被災した住民たちも「ここでは普段と同じように安心して暮らせる」と手料理を社員にふるまっている。社長は言う。「家をなくした人たち全員が協力して、みんなで生活する。それが自立への第一歩です」【大野友嘉子】

 

被災者を受け入れているのは、奥州市に本社を置く金属加工会社「千田(ちだ)精密工業」の大槌工場。 同工場の社員は48人。3月11日の震災で1人が死亡し、3人が家を流された。千田伏二夫社長(65)は家を失った社員のため、13日にプレハブ小屋を駐車場内に計5棟設置。発電機や布団、ストーブを運び入れた。 この日、町内の避難所近くで山火事があり、別の避難所に移る途中にプレハブ小屋を見つけた地元住民から「私たちを受け入れてほしい」と要望を受け、千田社長は快諾した。「苦しんでいる人を一人でも多く助けたい。社会や地域に貢献するのは企業として当たり前のこと」と言う。 散乱した書類の片付けや取引先との連絡に追われていた社員たちも「困っている人に協力したい」と支援物資の運搬をかって出たり、生活の相談に乗ったりした。「避難者が調理場で料理を作れるように」と社員食堂も提供した。 現在、避難生活をしている人たちが支援物資の食材を調理し、工場に残っている社員らと食事をとっている。社員食堂は談話室にも使われ、避難生活する高校生が別の家族の小学生の勉強を見ている。 震災後、停電などのため工場は操業していなかったが、4月4日に再開された。仕事との両立で忙しくなる生産技術課長の丹野秀明さん(41)は「社員の中で仕事と避難者への手伝いを分担し合い、今後も避難者と楽しく生活していきたい」と話した。

 


廃墟の町で、  大槌町

2011.4.7 11:56 産経

 

 民家も病院も漁港もスーパーも役場も、すべて流された…。東日本大震災の大津波で集落の大半が飲み込まれ、壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町。人口の1割にあたる1500人以上が死亡・行方不明になり、町長まで失った。故郷の惨状に絶望し、涙がかれることはない。それでも、生き残った住民は復興に向けて前に進もうとしている。(中村翔樹

 

漁師町に有形無形の恩恵をもたらしてきた大槌湾を望み、多くの商店が立ち並んでいた大町地区も、歩くたびに耳障りな金属音が響く廃虚と化した。重機ががれきを撤去し、土煙が舞い上がる。その横でマスク姿の住民がビデオカメラで『現実』を記録していた。 「ここに、近所の人の布団乾燥機が転がっていたみたいだから…」。県立釜石高校への入学を控える三浦祐希君(15)は自宅のあった場所から300メートルほど離れた荒れ地を、スコップで掘り返していた。 探していたのは、5人家族で唯一、行方の分からない母親(49)ではない。「自衛隊に捜索してもらったし、もう会えないと思っている。せめて、形見になるようなものを見つけたいんです」 勉強に厳しかった。中学時代の野球部の試合には欠かさず応援に来てくれた。そのときには、弁当に好物の少し甘めの卵焼きをたくさん詰めてくれた。震災翌日の3月12日に予定されていた卒業式に、どんな服を着ていくか迷っていた。 思い出を語るとき、自然と涙があふれる。スコップを握る手にはバットを振っていたときとは違う位置にマメができた。「できるならもう一度、お母さんと旅行に行きたい」 町によると、4月6日現在の死者・行方不明者は1636人。家屋の被害を把握できる段階ではないが、7〜8割は全壊しているとみられている。電気、水道は4分の3の世帯で復旧していない。 2階建ての町役場は屋上近くまで津波が押し寄せ、外観を残すだけ。勤務中だった町職員136人のうち32人が命を落としたか、行方が分からない。町民の証である住民基本台帳のデータさえも奪った。

 

山間にある吉里吉里(きりきり)地区の「堤(つつみ)乳幼児保育園」に4日、震災以来24日ぶりに19人の園児が顔をそろえた。朝礼で、芳賀カンナ副園長(43)が声を張り上げた。 「お父さんとお母さんは、おうちを片づけるのが仕事です。みんなは泣かないで、お友達と元気よく遊ぶのが仕事です」 園児は「はーい」と返事をすると、勢いよく園内を走り回った。わが子の笑顔に涙する母親もいた。 75人の園児のうち5歳と9カ月の姉妹ら4人が死亡・行方不明になった。20人の職員にも家を流され、園に寝泊まりする人がいる。それでも、芳賀副園長は「子供が元気でいれば、町も元気になる」と信じる。 津波の被害で再開のめどが立たない吉里吉里、大槌両保育園の6人も特例で受け入れた。芳賀副園長は環境の変化を気に病んだが、「園児同士で園内を案内したりして、すぐになじんでいた。地区の子供はすべて受け入れるつもり」。

 

吉里吉里地区など4カ所の町有地に建設中の計約200戸の仮設住宅に、1787件、5067人分の入居申し込みがあった。加藤宏輝町長=当時(69)=に代わり、町政運営の先頭に立つ東梅政昭副町長(66)は町の再建に希望を見いだした。 「うれしい数字だ。町外に避難している人の中にも、入居を希望している人がいると聞いている。それは、いつかは町に戻って来るという気持ちの表れだという風に考えている」 4月1日、新人職員12人を迎え入れた。最初の仕事は避難所で被災者に食料や水を届けることだ。小槌地区で生まれ、大学を卒業して故郷に戻った小石理恵さん(23)は、住民の変調を敏感に感じ取った。 「大槌には強くて優しい人が多いけど、みんなが空元気を出しているように見える。ふとした瞬間に弱音を吐く人もいる」 小石さん自身も何人かの親類の行方が分からない。「ずっと大槌に戻りたいと思っていたが、震災があってその気持ちはもっと強くなった。まだできることは少ないけど、笑顔だけは絶やさないようにしたい」

 


避難所に「食料格差」 大槌、いまだに1日2食

(2011/04/08) 岩手

 

    

 昼食時に高齢者がお菓子をかじり、育ち盛りの子どもたちがカップラーメンをすする。災害対策本部が隣接し、約300人が避難している大槌町小鎚の城山公園体育館では1日2食の食料支給が続いている。1日3食の避難所が増える中、炊き出しできる設備がない上、高齢者が半数以上と「働き手」が少ないのが悩み。震災直後から同じ食生活が続き、全国から来た炊き出しボランティアは「2食の子どもがいるのはショック」と驚く。食料自体は不足しておらず、行政など避難所間の格差を埋める「調整役」のきめ細かい対応が求められている。 同避難所にいる住民によると、食料は朝と夜に支給され、朝におにぎり2個と菓子パン1個が渡され、昼食まで賄うようになっている。夜はカレーライスなども増えてきたが、大抵はおにぎり。昼食はほとんど親族による持ち込みか、たまにあるボランティアの炊き出しが頼りだ。  避難所では、避難者自ら炊き出しするところもあるが、設備面や高齢者が多いここでは難しいという。 同町上町の三浦夏美さん(44)は「食料が支給されるのは大変ありがたく感謝しているが、8歳の娘が熱を出すなど栄養面が心配」と危惧。避難所でボランティアをしている滝沢村滝沢の木村理恵さん(40)は「タンパク質が欠乏し、免疫力が落ちているように感じる。まさか1日2食の小中学生がいるとは思わなかった」と驚く。

 

 全国から炊き出しボランティアが増え、各避難所を支援しているが、必要な場所に行き届かないこともあるのが課題だ。ボランティア関係者によると、町内には1日2食の避難所がほかにも数カ所あるという。  同町安渡の安渡小での6日の昼食は炊き出しボランティアによるゆで卵入り肉うどん。阪神大震災や新潟県中越沖地震でも支援した北海道島牧商工会は、500食を6回分支給できる食材を持ち込んだ。 理事の高島輝彦さん(55)は「必要とされるところに配属されたかと思ったら50人だけで、食料を持て余してしまう」とボランティアセンターに再度足を運び、城山公園体育館でも支給することになった。  同町のボランティアセンターは町社会福祉協議会のほか、岐阜、三重、愛知3県の社会福祉協議会で構成。同センターの渡辺賢也さんは「均等に振り分けているが、直接避難所に行って支援する人もいるので、全体を把握するのが難しい場合もある」と実情を話す。  同町の平野公三総務課長は「現状把握ができず調整できていなかった。今後改善していく」と述べた。


東日本大震災:親子2人漁船生活 新たな津波に備え−−岩手・大槌

毎日新聞 2011年4月9日 東京夕刊

 

 岩手県大槌町赤浜地区の漁港で、漁船の中で親子2人だけで避難生活を送る漁師がいる。第5金勢丸の船長、佐々木毅さん(72)と長男逸良(いつりょう)さん(48)。震災時は船を沖に出し津波の難を逃れた。新たな津波に備えていつでも出港できるよう待機しており、「船を失った漁師仲間の希望の光にしたい」と深夜まで船の明かりをともす。3月11日、港近くの自宅でくつろいでいると、大きな揺れに襲われた。同居する妻洋子さん(72)と逸良さん夫妻は外出中だった。自転車で港に向かい海を見ると、かつてないほど潮が引いていた。 「でかい波が来る」。船に乗り込み、約1・5キロ沖へ走らせた。津波が沿岸近くまで押し寄せる前に沖に出た方が影響を受けにくく、岸壁に打ち付けられることもないと判断したからだ。港付近を見ると、うねった波が地面ごと街を削り取っていくのが見えた。転覆したり、沖へ流されていく船もあった。間一髪のところだった。 翌朝、海面に浮かぶがれきをよけて帰港すると、町は壊滅していた。「船内のテレビでは(大槌町の)津波のことは放送されていなかったからたまげた」。家族は高台に逃げ無事だったが、自宅や車は流されていた。その日から、避難所では寝泊まりしていない。20年以上も苦労を共にした船を津波から守るため、逸良さんと船内で過ごしている。昼ごろから洋子さんがいる避難所の手伝いや自宅の片づけに出かけるが、夕方には船内に戻る。今月7日深夜に起きた余震の際は、浅瀬に乗り上げるような鈍い音で地震に気づき、エンジンをかけて津波の警戒を続けた。 漁師仲間らがいる高台の避難所からは、夜になると佐々木さんの船の明かりがはっきりと見える。佐々木さんは言う。「船を失った仲間にこの明かりを見てもらい、勇気づけたい。必ずみんなで一緒に漁に復帰するんだ」【山川淳平】

 


 

 

様変わりした町に驚いた 〜津波から逃れたもの

2011.04.10 産経

大地震発生の直後に船を沖に出し、津波の難を逃れた、遊漁船と釣具店を経営する佐々木稔さん(68)。外洋に出ることができたので大津波の影響は感じなかったという。5マイルほど沖で一晩過ごした時、陸が赤く燃えているのがわかったが山火事だと思ったという。朝になって港に戻る際は、家の屋根などの漂流物がいたるところにあり、避けながら航行して、普段は1時間で戻れるところを3時間ほどかかって港に戻った。「様変わりした町を目にしたときは驚いた。まさか堤防を越える津波が来るとは思わなかった」という。幸い家族は無事だったというが、釣具店も自宅も津波に流されてしまった。唯一、残った財産「海秀丸」の船室で地震発生以来、寝泊りしているが「避難所は気を使うから、こっちのほうが楽だ」と笑顔で話した =10日午前10時50分、岩手県大槌町(頼光和弘撮影)


 

 妻のため内陸へ移った77歳 「みんなに支えられ感謝」   大槌町

毎日新聞 2011年4月10日 東京朝刊

 

 岩手県大槌町から100キロ以上離れた内陸部の雫石町の旅館に避難中の元会社員の小国省司さん(77)は毎週金曜にはバスを乗り継ぎ1時間半かけて盛岡方面に通う。妻シメさん(76)が震災直後から入院しているからだ。往復3100円。年金生活の身には大きな出費だが「妻の顔を見ないと不安ですから」。 シメさんと2人暮らしで、あの日も自宅に2人でいた。揺れが収まると腰が悪いシメさんを車椅子に乗せ、小学校に逃げ込んだ。家は流された。 翌日、シメさんはヘリで盛岡市の病院に運ばれた。人工透析を受けているためだ。対面できたのは3日後。その日は埼玉県に住む息子、娘とも初めて連絡が取れた。「2人ともうまく逃げたから」。それ以上言葉にならなかった。 県が避難者を内陸部に移送する計画を聞き、すぐに手を挙げた。少しでも妻の近くにいたいと思ったからだ。 旅館の個室での生活は2週間が過ぎた。旅館前のテント内に設置された洗濯機を使うのも慣れた。「みなさんのおかげ。感謝しています」 先行きを考えると不安が多い。「自分も家内も大槌に戻って暮らしたい」。願いはそれだけという。【三木陽介】

 


大槌町 タクシー3台で再出発 避難所から出勤 社長の妻は行方不明

2011年4月11日 10:32

 

 東日本大震災の津波で大きな被害が出た岩手県大槌町を拠点にする「大槌タクシー」が運行を再開した。岩崎松生社長(64)は自宅を失い、妻も行方不明のまま。事務所は壊滅し、避難先の小学校で携帯電話で注文を受ける。町の復興のため、がれきの町を走る。 事務所は町の中心にあり、大槌川の河口にも近い。運転手とパート計15人のうち、事務所で無線配車をしていた妻きち子さん(60)ら2人が行方不明になり、ほかに2人が亡くなった。ほとんどが家を失った。 午後2時46分の地震直後、岩崎社長は娘(30)と2人で、事務所にあったタクシー2台を海から遠ざけるため、大槌中学校の近くに移動させた。 この時、事務所にいたきち子さんに「寺に逃げろ」と言い残して別れた。その後、行方は分からない。「何とか姿だけでも見たい」と遺体安置所を回る日々が続く。お寺は約500メートル先。「津波がここまでくるとは思わなかった。甘かった」と悔やむ。 9台あったタクシーのうち3台が残った。大槌町にあるほかのタクシー会社2社は再開できる見通しが立っていない。 「避難している人を相手に商売をするのは心苦しい」と思う。町はいつになったら復興できるんだろうか。お客さんは来るんだろうか。がれきに覆われた町を前に、心配ばかり募る。自分はまだ日中を避難所の小学校で過ごしているのだから。 だが7日、その同じ小学校で暮らす被災者から「自衛隊が作った風呂に行きたいから乗せて」と人づてにタクシーの注文が来た。 しばらくの間、運転手は避難所から出勤する。避難所に広告を張り出す準備も始めた。プレハブの仮事務所も建てたい。無線機も置きたい。復興への階段を一つ一つ上がるつもりだ。

 


岩手・大槌町消防団長の祈り 家族3人失い部下も16人

2011年4月11日 20時15分 共同

 

 岩手県の大槌町消防団の煙山佳成団長(72)は、出動のため義母と妻子3人を津波の犠牲にしてしまったと自らを責め続けてきた。防潮堤の水門を閉め、避難誘導をして死亡・行方不明になった部下の団員や協力隊員は少なくとも16人いる。11日。震災後初めて警戒態勢を解くよう指示し、黙とうをささげた。 地震直後、商店を兼ねた家で妻昌子さん(73)が消防団のはんてんを準備し、いつものように出動を見送った。「早く帰ってきてね」 自転車で消防会館に向かい、仲間が乗る消防車が通り掛かった。同乗した。水門が閉まっているのを確認し、避難を呼び掛けながら、堤防に上がった。津波が間もなく襲ってくると気付いた。車で一気に坂道を上った。追い掛けてきた水で車は後輪が浮かび、90度横に回転。何とか流されずに持ちこたえたが、道路が寸断され孤立した。寒空の下、流れ着いたイカの加工品やサンマをたき火で焼いて食べた。 翌日、廃虚になった町を歩いて、大槌町の災害対策本部になった公民館にたどり着いた。以来、町職員と公民館で寝泊まりし、消防団を指揮している。 出動のため家を出た場面が今も頭をよぎる。 長男隆之さん(40)は寝たきりの義母タマさん(92)に流動食を食べさせていた。「後を頼むぞ」と言い残したのが最後になった。 避難場所の小学校までタマさんを背負うと10分はかかる。ばあちゃん思いで、流動食の栄養まで気遣う息子が、懸命に逃げた姿が目に浮かんだ。途中で津波に追いつかれたのだろうか。 出動で気がせいていて「すぐ逃げろ」と言わなかった。悔しい。怖がりだった妻。俺がいなくてさびしかっただろう。 3人の遺体は見つかった。それだけでもありがたいことなんだと自分に言い聞かせている。

 


大槌町 造船会社が再建へ始動

4月12日 14時47分  NHK

 

岩手県大槌町の漁港では造船会社が、がれきの撤去を行うなど会社の再建に向けて動き出しています。大槌町の漁港にある明治時代初期に設立された造船会社は津波で船の修理を行うドックや、当時、修理や点検を行っていた11隻の船が流され、大きな被害を受けました。震災後は、一時休業していましたが、地元の漁協関係者などの強い要望を受けて早期の再建を目指すことを決め、先月20日から、社長と従業員が総出で作業を進めています。12日も午前8時すぎから、避難所などで生活する従業員たちが集まり、クレーンや手作業でがれきを撤去したり、泥がついた工具をブラシで丁寧に洗い落としたりしたほか、船を陸に揚げるために使う機械のエンジンの修理などを行っていました。造船会社の川端義男社長は「会社が津波に流される風景を見たときは再建は無理だと思いましたが、従業員や漁港の関係者のことを考え、一から始めることを決意しました。再建には5年、6年かかるかもしれませんが、頑張りたいです」と話しています。

 


東日本大震災:記者リポート 壊滅的な市街地、岩手・大槌町 /兵庫

毎日新聞 2011年4月17日 地方版

 

 ◇備え超えた大津波 生死分けた一瞬の判断

 市街地が壊滅的な打撃を受けた東日本大震災の被災地、岩手県大槌町。「想定以上の大津波だった」と被災者の多くが惨状を前にそう振り返る。生死を分けたのは一瞬の判断だった。経験したことのない大津波に町民はどう考え、動いたのか−−。【村上正】

 

 地震発生と同時に机の下に隠れた町立大槌小学校の児童は、教室からグラウンドに移動した。大津波警報が発令され、児童や教職員は近くの高台にある城山公園に向かって駆け上がった。一方、一部の児童は心配して車で迎えに来た保護者と一緒に避難した。 全校児童が避難した後、同校の吉野新平教頭(51)は教室に鍵をかけて閉めようとしていた。グラウンドを見ると学校に避難してきた人が集まり始めているのに気付いた。 吉野教頭はとっさに校舎4階に上がり、拡声器を手に「城山公園に逃げてください」と叫んだ。海を見ると海面が上昇しているのに気付いた。 津波だ。「危ないから逃げて」。何度も叫び続けた。校門付近に車椅子の高齢女性の姿があった。吉野教頭は駆け寄り、「逃げましょう」と必死に声をかけた。女性は「自分は坂を上れない」と繰り返した。車椅子ごと抱え校舎へ入った。 「ゴゴゴゴー。バリバリバリー」。大津波と共に響き渡ったごう音は「生まれて初めて聞く音」だった。2階まで女性と上がった吉野教頭の足元まで水が押し寄せた。窓から黒い水が急流のようになだれ込んできた。 別の窓から外を見ると、「助けてくれー」「なおき、どこに行ったー」。叫び声が聞こえた。波打つ水面から顔だけ出して流される女性、民家の屋根に上った男性……。 一緒に残っていた職員2人ととっさの判断で屋上にあるプールから浮輪やビート板を持ち出し、外に向かって投げ込んだ。しかし、女性らに届かない。 だが、何とか女性はがれきとなった板を捕まえ、はい上がった。今度は脚立をはしご代わりに、校舎と民家の屋根を結んだ。「水が引くからそれまで頑張って」。声をかけ続けた。 1時間が過ぎた。水位が下がり、がれきが道となった。はしごを伝って、何とか住民を校舎へ引き上げた。体を震わせる住民に、ぞうきんやタオル、児童のジャンパーで体を温めてもらった。 沿岸部に住む大勢の人は車で避難しようとした。だが、幹線道路は車が連なる大渋滞を引き起こし、そこに容赦のない大津波が覆いかぶさった。大槌小でも親が児童を迎えに来て、車で避難しようとした3人が行方不明となっている。 吉野教頭は「そのまま一緒に逃げていれば……」。子どもを預けて良かったのかと、無念さを吐露する。 児童らが避難した高台にある公園の真下まで大津波が押し寄せた。民家や車が流れ込み、しばらくすると火災が発生した。公園の周囲にある山にも燃え移り、さらに公園の奥まで逃げ込まざるを得なくなっていた。

 

 大槌町浪板地区の防災リーダーを務める台野宏さん(66)は地震発生後、住民に高台の集会所へ避難するよう呼びかけた。海沿いの国道を越えた大津波が押し寄せてくるのが見えた。集会所までの道のりは民家の間をかけ上る坂道になっている。 台野さんはもう一人のリーダーの女性に「上がって来られない人がいないか見てきてほしい」と頼んだ。女性は集会所から坂を下った。坂道の途中にある十字路までなら、水は来ていないと台野さんは考えていた。多くの住民が集会所に集まる中、リーダーの女性が戻ってくることはついになかった。 坂道の途中にあるJR浪板海岸駅の線路にまで、がれきが散在する。十字路はそのすぐ近く。「こんなところまで波が来たのか」と台野さんはつぶやく。繰り返してきた避難訓練ではそこまでの大津波は予想していなかったという。お年寄りが多い地区で、集会所までいかにたどりついてもらうかが課題だった。「(集会所)ここまで来てもらえれば」との思いだった。 大槌町では地震前の3月3日に避難訓練を実施したばかりだった。市街地が海に接している大槌町では避難指定場所の多くが津波被害に遭った。「もう一度、防災計画を見直さないといけない」。台野さんは無念さに唇をかみしめた。

 


仮設住宅2260戸の用地確保 大槌

2011/04/20 岩手

    

 東日本大震災で大槌町は19日、仮設住宅の用地確保にめどがついたことを明らかにした。国に申請した2千戸に対し、2260戸分確保した。 同日開いた町議会への災害復旧対策説明会で示した。用地は民有地を主体に39カ所。建設は既に吉里吉里中グラウンドなど216戸が進んでおり、週内にさらに約600戸着工し、整備を加速する。入居は5月中旬開始、7月末完了を目指す。 同町は、津波で建物用地の浸水率が県内最大の52%(国土地理院分析)と被害が大きく、用地確保に苦慮していた。 土橋清一地域整備課長は入居者の選考について「地域性を考慮しコミュニティーが維持されるようにしたい」と述べた。 他自治体からの職員派遣の見通しも示され、5月1日をめどに18人を受け入れる方向。県内市町村から10人、県外自治体から3人、県から5人という。 同町は加藤宏暉町長が死亡したほか、136人いた職員のうち32人が死亡・行方不明となり、新採用を加えた110人態勢で新年度をスタートしている。 冒頭、阿部敏雄町議(66)が死亡、伊藤之夫町議(66)が行方不明であることも報告された。

 


 

 大槌町 国に土地買い上げ要望へ

4月21日 21時11分   NHK

 

今回の大震災で、市街地の大半が壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町は、浸水した土地を再び利用できる状態に戻すには、町の財政では厳しいとして、国が土地を一時的に買い上げ、町とともに復興を進めるよう要望する方針を決めました。岩手県大槌町は、市街地の大半が壊滅的な被害を受け、677人が死亡したほか、1000人余りが行方不明になっています。町役場も130人余りいた職員のうち、町長が死亡したほか、4分の1に当たる34人が死亡したり、行方不明になったりして機能が大きく損なわれました。こうした状況のなか、大槌町は、震災で海水をかぶったり、地盤沈下したりした土地を整備して、再び利用できる状態に戻すには、町の財政では厳しいとして、被害を受けた土地を国が一時的に買い上げ、町とともに復興を進めるよう要望する方針を決めました。被災地の自治体が、浸水した土地の買い上げを国に要望することにしたのは、大槌町が初めてです。大槌町の東梅政昭副町長は「浸水して塩分を含んだ土地をそのままの状態で活用するのは難しく、国に買い上げてもらうのがいいと思う。今後、国と協議を進めていきたい」と話しています。

 


乗り上げた観光船、震災モニュメント案浮上

2011年4月23日 朝日

 

岩手県大槌町の民宿に乗り上げた釜石市の観光船「はまゆり」を、震災モニュメントとして保存する案が、地震などの専門家らの提言で浮上している。地元の財政的な理由もあり、保存されるかどうかは流動的だ。  はまゆりは地震当日、定期検査で大槌町の造船所にあったが津波で流され、2階建ての民宿に乗り上げた。当初、民宿経営者や大槌町、船を持つ釜石市は解体する方針だった。阪神淡路大震災でも断層の保存を提唱した広島大の中田高名誉教授(地形学)が県などに「原爆ドームのように、当時を忘れない象徴として防災教育に活用できる」などと保存を訴え、学識経験者の要望書を集め始めた。23日から解体工事に着手するが、26日までは周辺の整地工事にとどまる。(菊地敏雄、疋田多揚)

 


 

 

岩手県大槌町の吉里吉里海岸で、沈んだ車の引き揚げ作業をする和歌山県警の警察官ら=24日午後

2011/4/25 01:44

 


 

「津波の前必ず引き潮」 誤信が悲劇招く 岩手・大槌

2011年05月01日 河北

「津波が来る前には必ず潮が引く」。過去に津波を経験した三陸沿岸の住民の多くは、そう信じていた。岩手県大槌町では東日本大震災で、引き潮がなかったように見えたため、潮が引いてから逃げようとした住民を急襲した津波がのみ込んだという。津波の前兆を信じていたことが、1600人を超える死者・行方不明者を出した惨劇の一因にもなった。

 

 3月11日午後3時すぎ、大槌町中心部の高台に逃げた住民は、不可解な海の様子に首をかしげた。大津波警報は出されていたが、海面は港の岸壁と同じ高さのまま。潮が動く気配がなかった。 「潮が引かない。本当に津波が来るのか」。そんな声が出始めた。 大槌町中心部は、大槌川と小鎚川に挟まれた平地に広がる。津波の通り道となる二つの川の間に開けた町の海抜は10メートル以下。津波には弱い一方で、山が近くに迫り、すぐ避難できる高台は多い。 高台にいた住民らの話では、海面に変化が見えない状態は20分前後、続いたという。JR山田線の高架橋に避難した勝山敏広さん(50)は「避難先の高台から声が届く範囲に住む住民が『潮が引いたら叫んでくれ。すぐに逃げてくるから』と言い、自宅に戻った。貴重品を取るためだった」と証言する。 複数の住民によると、高台を下る住民が目立ち始めたころ、港のすぐ沖の海面が大きく盛り上がった。勝山さんは信じられない現象に一瞬、言葉を失った。「津波だ」と叫んだ時には、既に濁流が町中心部に入り、自らの足元に迫った。 「なぜ潮が引かないのに津波が来たのかと、海を恨んだ。自宅に戻った人を呼び戻す機会がなかった。引き潮があれば、多くの人が助かった」と勝山さんは嘆く。 住民によると、津波は大槌川と小鎚川を上って川からあふれ、濁流が町中心部を覆った。少し遅れて、港中央部の海側から入った津波が防潮堤を破壊し、なだれ込んだ。 町中心部の銀行の屋上から目撃した鈴木正人さん(73)は「2本の川と海の3方向から入った津波が鉄砲水のようになって住民と家屋をのみ込んだ。やがて合流し、巨大な渦を巻いた」と振り返る。 東北大大学院災害制御研究センターの今村文彦教授は「引き潮がない津波もある。津波の前に必ず潮が引くという認識は正確ではない。親から聞いたり、自らが体験したりして誤信が定着していた」と指摘。 近隣の山田湾などで潮が大きく引いたことから、大槌湾でも実際は潮が引いていた可能性が高いと分析し、「湾の水深や形状から潮の引きが小さくなったことに加え、港の地盤が地震で沈下し、潮が引いたようには見えにくかったのではないか」と推測している。(中村洋介、遠藤正秀)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

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野田村

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釜石市

大船渡市

陸前高田市

 

  

釜石市

39,174人 (推計人口、2011年1月1日)

役所:海岸から 400m  震災で閉鎖

鈴子町のシープラザ釜石に災害対策本部を設置

津波9・3メートル 気象庁 4.5

 

釜石市で595人 / 3月25日

市街地 2〜3キロに渡り壊滅

www.city.kamaishi.iwate.jp/  (.03.26 不通) (.04.01 準備中)(.04.03 公開)

死者 678  行方不明 633  避難者 6203  家屋全壊 ー  4月03日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
死者 703  行方不明 610  避難者 6162  家屋全壊 ー  4月10日現在 (県と県警まとめ)岩手日報
ご支援ください

 

平成23年3月11日、14時46分に発生した大地震は、本市に甚大な被害をもたらしました。 この地震で発生した大津波が東日本太平洋側沿岸部を襲い、大槌湾、両石湾、釜石湾、唐丹湾に面する地域は、壊滅的な被害を受けています。 家を流され、住む所を失った地域住民およそ6,000人が避難所生活を余儀なくされています。 市は、鈴子町のシープラザ釜石に災害対策本部を設置し、被災者の救援活動、被災地の復旧活動を行っています。平成23年4月3日

 

 

 

 

釜石市役所   チョッピリ高台になっているものの、それでも浸水があった様です。

 

 

 

 

 

 津波−この非現実な現象との遭遇

 津波−この非現実な現象との遭遇

 

撮影場所  のぞみ病院横の薬師公園 

 

 

事業着手から28年、総工費約1,300億円 

 

 

 

 車列静かにのみ込んだ…釜石市が廃虚に 遺体次々と 

東日本大震災 2011年3月12日 19:35 スポニチ

 

 屋根がぺしゃんこになった乗用車が民家の玄関にねじ込まれ、流木が商店のウインドーに突き刺さる。東日本大震災の大津波の直撃を受けた岩手県釜石市の中心部。地震から2日目となった12日、津波の巨大な力にかき回され壊滅した市街地は泥の廃虚と化していた。 JR釜石駅近くの商店街は、幅約6メートルの通りを海から運ばれた泥が埋め尽くす。商店の軒先に大型バスの後部がのめり込み、多くの乗用車がひっくり返ったり、商店や民家にねじ曲がった車体を突っ込んでいた。 魚の臭いがする泥を、自衛隊員や岩手県警の警察官らがかき分けるように生存者を捜索するが、見つかるのは遺体ばかり。商店街横の河原の土手には白い布を掛けられた犠牲者らが並べられた。布の間から見えた足は小さい。横顔には、まだあどけなさが残っているようだった。 「この先に私の家があるの」。船酔いにも似た余震が繰り返す中、自宅のある地区の様子を懸命に尋ねる老夫婦に、自衛隊員の一人は「あっちの状況は分からないんです」とがれきと泥に埋もれた通りの向こうを見詰めた。 市内の旅行代理店に勤める鈴木亜季さん(35)は、街と人々が津波にのみ込まれるのを避難先の小高い丘の上から見詰めるしかなかったという。 地震直後、海岸沿いの道路は付近を逃れようとする人々の車で渋滞となったが、大津波がその車列を襲った。「ごーっと、低い響きがしたと思ったら、波が静かに渋滞をのみ込んだ」。緊急出動したばかりの消防署員ばかりか、消防本部も瞬く間に泥色の波に沈んだ。 「何十台だったか、100台ぐらいは渋滞で並んでいたかもしれない」。その光景を振り返る鈴木さん。現場の道路の方を指さしながらつぶやいた。「本当に多くの人たちが何もできずにのみ込まれてしまった」。地震から24時間が過ぎたが友人や知人の多くと連絡が取れていないという。

 


 

 「助けてくれろ、ここさいる」 釜石市の80歳男性、大声で助け求め救出

2011.3.13 23:35 産経

 

 「助けてくれろ。ここさいる」。東日本大震災の大津波で自宅2階に閉じ込められていた岩手県釜石市の無職、鶴田信雄さん(80)が13日朝、捜索していた岩手県警機動隊の呼び掛けに大声で応じ、無事救助された。 鶴田さんの自宅は海岸から約700メートルの住宅街。揺れを感じてから15分ほどで、津波が押し寄せてきた。2階にいた鶴田さんは助かったが、1階は津波で破壊され、外へ脱出しようにも、流された家具が階段をふさいでいた。 2階の一部は水につかったが、サンマの缶詰やミカンなどを食べて過ごした。水もなく、のどが渇いて眠れなかった。 妻の好美子さん(75)は地震発生の2時間前に外出したまま。病院に運ばれた鶴田さんは「どこかにいる妻が心配だ」と表情を曇らせた。

津波で流された消防車の上に乗り上げた宅配便のトラック=13日午後、岩手県釜石市


 

釜石消防本部壊滅‎

読売新聞 - 14 Mar 2011

 

東日本巨大地震で壊滅的な津波被害を受けた釜石市。消防本部や消防車も大きな痛手を負った。わずかな時間で襲ってくる津波からの避難を住民に呼びかけていた消防職員らも行方不明となっている。(小野沢記秀) 同市の商店街は、ひっくり返った車が ...


 

釜石市内の小中学生の避難率100%近く ほぼ全員が無事

2011.3.16 19:46

 

 東日本大震災の大津波で多数の死者・行方不明者が出ている岩手県釜石市で、市内の小中学校全14校の児童・生徒約3000人の避難率が100%に近く、ほぼ全員が無事であることが16日、群馬大学の片田敏孝教授(津波防災)の調査で分かった。平成18年の千島列島沖地震の際に避難率が10%未満だったため釜石市教委が避難訓練などを徹底して取り組んでおり、防災教育の重要性を裏付ける結果となった。

 

 片田教授によると、市内の児童・生徒は地震発生時、下校の直前で教室にいた。児童・生徒らは警報と同時に、避難を開始し、各学校はあらかじめ決めていた徒歩5〜10分の近くの高台にそれぞれ避難した。ところが高台から市内に押し寄せる津波の勢いをみて、さらに後背地の高台に移動した。この間、中学生が不安がる小学生を誘導し、迅速に避難したという。大槌(おおつち)湾からわずか約800メートルの市立鵜住居(うのすまい)小周辺は壊滅状態だったがほぼ児童全員が無事だったという。ただ市内の児童・生徒のうち、地震発生当日に病欠した数人については、現在も安否が不明だという。市教委では、片田教授らと共同で、小中学生を対象に実践的な防災教育を実施。各地域の津波浸水状況、避難経路などを想定したハザードマップを用い、児童・生徒に登校、下校などの生活時間帯に合わせた避難計画を立てさせるなどしてきた。また、授業では「津波を知る」項目を設け、津波被害の歴史や、津波の構造など防災教育と危機管理意識を高めてきたという。 片田教授は「今回の100%に近い避難率のデーターは市教委が、早く高台へ避難するという危機意識の刷り込みを子供たちに徹底してきた成果だと思う。防災意識が生死の境を分けることを裏付ける貴重なデータでもあり、暗いニュースのなかで朗報だ」と話している。 釜石市の人口は約3万9千人で、犠牲者・行方不明者は1千人を超える可能性があるという。

 


 

 「湾口防波堤」に大きな被害

3月18日 17時3分  NHK

 

津波の被害を軽減するために、岩手県の三つの港の湾の入り口に作られていた「湾口防波堤」が、今月11日に太平洋沿岸を襲った大津波で、大きな被害を受けていたことが分かりました。国土交通省は、被害の実態を調査するとともに放置すれば危険だとして復旧を急ぐことにしています。

 

「湾口防波堤」は、津波の被害を軽減するため、深く入り組んだ湾の入り口を塞ぐように作られた防波堤で、岩手県では釜石港と大船渡港、それに久慈港に整備されています。国土交通省は、大津波の翌日の今月12日、上空から防波堤の被害を調べました。その結果、大船渡港では防波堤のほぼすべてが崩れ落ちていたほか、釜石港の防波堤も大きく壊れ、さらに久慈港でも防波堤の一部が壊れていることが分かりました。このうち釜石港の防波堤は、マグニチュード8.5だった明治29年の三陸沖地震を想定して作られ、水深63メートルの海底の上に作られた世界で最も大きな防波堤で、本格的な耐震設計も取り入れられていました。国土交通省東北地方整備局は、想定以上の大津波が押し寄せたことで大きな被害が出たとみています。東北地方整備局では、被害の詳しい実態を調査するとともに、放置すれば仮に再び津波が来た場合、そのまま湾の奥に押し寄せることになり危険だとして、復旧を急ぐことにしています。これについて、岩手大学工学部の堺茂樹教授は「完全に破壊された状態で、正直、驚いている。湾口防波堤によってこの一帯を守るのが基本方針で、その根本がなくなっているため、非常に危険な状態だ」と指摘しています。

 

 


 

 釜石市平田地区 2011 03/19 08:30 北海道新聞

波は高さ4メートルの防波堤を軽々と乗り越え、周辺約480戸のうち100戸以上をのみ込み、同地区では10人の死亡が確認されたという。

 

 


 

 太平洋沿岸を襲った大津波は、世界有数の規模を誇る三陸海岸の防波堤を軒並み破壊した。

2011年3月21日03時07分  読売新聞

 

 早稲田大学の柴山知也教授(海岸工学)が19日午後、本社機で上空から視察し、岩手・釜石湾入り口の「世界最深」の防波堤を破壊した津波について、「時速1000キロ・メートルで飛行中のジャンボジェット250機分以上の運動量があった」と試算した。 釜石湾の入り口に南北からせり出した防波堤は、全長約2キロ・メートル。地震前は海上に高さ約8メートル、厚さ約20メートルでそびえ、港湾を守っていた。しかし上空から見ると、北側の防波堤は約800メートルにわたり大きく崩落し、かろうじて残った部分が海面に虫食い状に残っていた。海面に出た部分には、残ったコンクリートブロックが様々な方を向いて崩れた姿をさらしていた。 防波堤は、最深63メートルの海底に東京ドームの7倍に当たる700万立方メートルの巨大なコンクリート塊を沈め、その上部にコンクリート壁が構築され、2009年に完成したばかりだった。 国土交通省によると、1896年(明治29年)の明治三陸地震(マグニチュード8・5)の揺れや津波に耐えられるように設計され、「世界最深」としてギネス記録に認定されていた。

 大船渡港(岩手県大船渡市)にある巨大な湾口防波堤(全長約750メートル、水深約40メートル)も完全に崩壊し、水没していた。柴山教授は、「地震で破損した箇所に高い破壊力の津波がぶつかり、一気に崩壊した可能性がある。予想をはるかに超える威力だ」と指摘した。 防波堤内側の海岸沿いにある「最後の砦(とりで)」の防潮堤も多くがなぎ倒された。同県宮古市田老の高さ10メートルの巨大防潮堤(全長約2・5キロ)は、住民らから信頼感を込めて「万里の長城」と呼ばれていたが、津波はそれを乗り越え、集落をのみこみ大きな泥沼を作っていた。 同県山田町の防潮堤も50〜60メートルにわたり激しく倒壊し、灰色の泥をかぶった町には漁船や家々が、がれきと一緒に転がっていた。 柴山教授は、「全国的に防災対策を作り直す必要がある」と唇をかんだ。(金子靖志)

 

大津波で決壊した釜石港湾口防波堤=読売機から、米山要撮影


 

冷たく硬い手…後悔 妻と一緒に逃げてたら

2011年3月22日 東京新聞 朝刊

 

 八日ぶりに握った妻の手は冷たく、硬かった。「あの時、一緒に逃げていれば」。五十四年連れ添った妻を津波で亡くした岩手県釜石市の藤原忠蔵さん(85)は、震災の日に妻と別々で逃げたことを悔やみ続けている。 「高台へ逃げろって言ったでねえか」。十九日、遺体安置所で会った妻ハルさん(82)の手を握り締めると、涙が止まらなくなった。ぬれた髪、冷たくなった腕を、包み込むように手ぬぐいで何度もぬぐった。 突き上げるような揺れが自宅を襲ったとき、家にはハルさんと長男(48)、孫(23)がいた。四人で外に飛び出すと、近くで助けを求める声がする。長男らは救助に向かい、後には忠蔵さんとハルさんが残された。 漁船が心配だった。「おめえはとにかく高台へ逃げろ」。ハルさんが高台を目指して歩いていくのを確認し、自転車で数百メートル離れた港へ走った。 港で見たのは防波堤を軽々と越えて迫る津波。すぐに引き返してハルさんが向かった高台へ走った。しかし、ハルさんがいない。 しばらくして長男と孫に合流した。二人とも津波に流されたが、タイヤにつかまって難を逃れたという。三人で避難所を捜し歩いたが、ハルさんは見つからなかった。 遺体が発見されたのは、家からわずか八メートルのがれきの中だった。忠蔵さんらを心配し、いったん逃げた後で戻って来たに違いない。「おれが悪いんだ。あいつの手をとって一緒に高台に行けばよかったのに」 きっと妻が息子たちの命を守ってくれたのだろう。「けれど、おれはごく普通の暮らしを、あいつと続けたかった」。その後は言葉にならなかった。 (浅井俊典)

 

 


 

 指定避難所にも津波、50人超犠牲 釜石・鵜住居

2011/03/23 岩手日報

 

東日本大震災で大きな被害を受けた釜石市で、市指定の災害避難所が津波にのみ込まれ避難した50人以上が死亡していたことが22日分かった。被害に遭ったのは昨年完成したばかりの鵜住居地区防災センター。浸水予想の範囲外にあり、今回の津波の大きさをあらためて浮き彫りにするとともに津波防災の見直しも求められそうだ。 市災害対策本部に掲示されている死亡者名簿によると、センターや周辺で遺体が発見されたのは55人(22日午後5時現在)。同市は500人以上の死者が出ており、約1割に当たる。 近くの鵜住居川の堤防が海から逆流した津波で決壊、鉄筋コンクリート造り2階建ての建物を襲った。センターに避難した古川悌三さん(72)によると、水はものすごい勢いで屋内に入り込み、2階天井まで10〜15センチに迫った。古川さんはわずかな隙間で呼吸し助かったが、ガラスの割れた窓から多くの人が外に流されるのを目撃したという。 被災時に身を寄せた人数は不明だが残ったのは26人。ぬれた服で夜を明かし、翌日から順次ヘリで救助されたという。古川さんは「川を上ってくる『ゴオー』という音がすごかった。(1960年の)チリ地震津波も経験しているが比較にならない」と振り返った。 同センターは、県が過去の大津波や想定宮城県沖地震でシミュレーションした浸水予測範囲の外にある。津波時にまず逃げる高台などの1次避難所ではないが、最初の危険を回避後に避難生活を送る「拠点避難所」に位置付けられている。 野田武則市長は22日、自衛隊のヘリで上空から市内を視察。鵜住居地区の惨状も目の当たりにして「まさか防災センターの2階まで津波が達すると思わなかった。海辺は都市計画をあらためて考えないといけない」と語った。 達増知事は「これまでの防災や安全対策について専門家に調査を依頼し、提言を受ける必要があると考えている」と述べた。

 

【写真=津波にのまれ、50人以上が死亡した鵜住居地区防災センター=釜石市鵜住居町】 


 

 東日本大震災:釜石で最後の現役芸者、84歳伊藤艶子さん「負けてられねえ」 /岩手

毎日新聞 2011年3月23日 地方版

 

 かつて、大漁を祝う漁師や好景気に沸く製鉄マンでにぎわった岩手県釜石市で、「最後の現役芸者」と言われる伊藤艶子(舞踊名・藤間千雅乃(ちかの))さん(84)が、津波で家を失った。「(過去に)3度の津波や戦時中の艦砲射撃も経験したけど、こんな恐ろしい思いは初めて」。まちの盛衰を見つめ続けた伊藤さんが、あの日を振り返った。 地震が起きたのは、釜石市中心部の自宅にいた時だった。慌てて飛び出すと、近所の男性が避難場所の体育館までおぶってくれた。周りの人たちはさらに高台に逃げていく。自力で上る自信はなく、「ここで皆とさよなら。それでいい」とまで覚悟した。 体育館までの道のりは、1933年の昭和三陸津波で、母親に背負われて逃げた時と同じ。当時は自宅は無事だった。「うちまで津波が来たら釜石は全滅。来ないと思っていたのに」。今回の津波は、その家までのみ込んだ。 12歳で踊りを習い始め、「釜石の奥座敷」と呼ばれる老舗料亭「幸楼(さいわいろう)」で修業した伊藤さん。ごひいき客や友人を大勢失った。知人2人の遺体の身元確認にも立ち会った。 芸に生きた人生の集大成として、米寿で引退披露するのが夢だったが、着物も三味線もがれきに埋もれてしまった。「応援してくれた人も津波で亡くなったの。でも負けていられねえ。米寿までまだ3年あるから必ずやりたい」【安藤龍朗、花牟礼紀仁】

 

 


78年前の移転で被害免れる 本郷地区

3月23日 3時42分  NHK

 

岩手県釜石市では大津波で甚大な被害がでていますが、そのなかで、78年前の昭和三陸津波のあと高台に集団移転した住宅地では、今回の津波で被害を受けなかったことが分かりました。岩手県釜石市の本郷地区は、今から115年前の明治三陸地震と78年前の昭和三陸地震の2度の津波で、住宅が壊滅的な被害を受けたことから、昭和三陸地震の翌年の昭和9年に、住民の多くが海沿いの土地から標高20メートル以上の高台に集団移転しました。今回の大津波で、集団移転のあとに海沿いの土地に建てられた住宅の多くが流されましたが、集団移転した高台の住宅地に建っているおよそ100棟の住宅は、津波の被害を受けなかったことが分かりました。住民によりますと、津波は高さおよそ11メートルの防波堤を越え、高台の住宅地につながる道路まで押し寄せたものの、住宅には被害はなく、ほとんどの住民は津波の前に避難して無事でした。航空写真による専門家の分析では、この地区では、津波は高いところでは標高およそ30メートルの地点まで押し寄せたものとみられています。本郷地区の自治会の阿部勉さんは「過去の津波を教訓に先代たちが移転したことや、ふだんから津波の避難訓練に取り組んでいたことが被害の軽減につながったと思う」と話していました。

 

 


 

ガソリンスタンドで「暴力やめて」 給油500台待ちの釜石市

2011.3.24 17:45

午前中にガソリンが売り切れ、「臨時休業」の看板を出したガソリンスタンド=24日、岩手県釜石市

 岩手県釜石市は24日、ガソリンスタンドで客から従業員や施設への暴力行為が起きているとして、災害対策本部などに「給油時にはマナーを守って」と呼び掛ける張り紙を掲示した。 釜石市ではガソリン不足で500台以上給油待ちの車の列ができる店も。長時間待っても売り切れで給油できなかったり、店が3千円分などと給油量を制限したりすることに腹を立てて、暴力に及ぶ客がいるという。 市は業界団体に給油再開を呼び掛けるとともに、給油場所や時間を避難所などに掲示してきた。最近、店から「従業員が襟首をつかまれた」「罵声を浴びた」「石を投げ込まれた」などの訴えが相次いでいる。 列への割り込みで客同士がけんかすることもあり、市は警察にパトロールを要請し、職員を店に派遣して対応している。

 


 

東日本大震災:6歳の孫捜す2人の祖父 岩手・釜石

毎日新聞 2011年3月30日 11時01分

琴美さんと涼斗ちゃんが避難した鵜住居地区防災センター2階の避難室で、花を手向け、手を合わせる菊池通幸さん(左)と佐々木重光さん(右)=岩手県釜石市で2011年3月26日、山本撮影

 

岩手県釜石市の拠点避難所「鵜住居(うのすまい)地区防災センター」に母と避難したまま行方不明になった6歳の孫の男の子を、2人の祖父が捜している。保育園児だった孫は、4月にランドセルを背負うのを楽しみにしていた。「誰さ、この怒りをぶちまければいいのかね」。がれきに埋もれた街を、今日も2人は歩いている。【鈴木一生、山本将克】 行方不明なのは菊池辰弥さん(35)の長男涼斗(すずと)ちゃん。地震が起きた11日、体調を崩していた涼斗ちゃんは保育園を休み、母琴美さん(34)と一緒に祖父の佐々木重光さん(62)宅にいた。 突然の激しい揺れ。「怖いよう。怖いよう。もう止めてよ」。涼斗ちゃんは居間のこたつに潜り込んだ。「あそこへ避難しろ」。地元消防団の分団本部長を務める佐々木さんは、琴美さんに約50メートルの距離にあるセンターに逃げるよう指示。防災サイレンを鳴らすため家を飛び出した。 センターは3月3日にあった津波の避難訓練の集合場所でもあった。「安全だと思ったのに。避難場所として適していなかった」。佐々木さんは悔やむ。 2日後、もう一人の祖父、菊池通幸さん(63)はセンターに向かった。泥が堆積(たいせき)し備品が散乱する2階の避難室に、子どもの遺体があった。息をのんでティッシュペーパーで顔をふいた。別人。涼斗ちゃんと同い年の男の子だった。 琴美さんの遺体はセンター2階で見つかった。18日、遺体安置所で対面した。首には、結婚指輪が通されたネックレス。母子は津波が来るまで手を握っていたはずだが、涼斗ちゃんは見つからなかった。 「ただいま」。玄関先で元気よく一日の無事を知らせてくれた涼斗ちゃん。その声は11日から途絶えている。「お母さんとお兄ちゃんはいつ帰ってくるのかな」。涼斗ちゃんの妹風音ちゃん(3)は菊池さんに尋ねる。今は「お利口にしていれば、いつかは帰ってくるさ」とごまかすしかない。 2人の祖父は26日、センターへ向かった。物資不足の被災地では、なかなか手に入らなかった菊の花をそっと手向けた。センターの外では重機ががれきの山と格闘していた。孫はその下にいるかもしれない。「丁寧に丁寧に、かきわけてくれねえと」。菊池さんはつぶやいた。

 

 

避難した住民54人が津波で亡くなった鵜住居地区防災センター=読売機から

 


津波に医者も奪われた 夫婦不明・病院は流失 釜石 鵜住居

2011年4月6日 朝日

医療機関が流されたため避難所に開設された診療所には途切れることなく住民が訪れる=5日午前10時20分、岩手県釜石市鵜住居町、高橋正徳撮影

 

岩手県釜石市の市街地から北に二つの岬を越えた旧鵜住居(うのすまい)村。隣の栗橋地区と合わせて約8千人が暮らすムラの医療は、3人の医師が担っていた。内科・小児科病院を営む医師の夫婦と、9年前にやってきた神経内科医院の医師。津波で医師の夫婦は行方が分からなくなり、二つの医院は跡形もなくなった。

 

渥美進さん(81)と妻の久子さん(71)が診察する渥美医院はムラでただひとつの小児科で、夫婦は学校の担当医も務めていた。  進さんが父の後を継いだのは約50年前。昨年にようやく救急車が配備されたムラで、医院は多くの患者を受け入れてきた。夜に熱を出した子ども、早朝にけがをした漁師。進さんは内科が専門だったが、傷の縫合が得意だった。  1年前に体調を崩した進さんは、3月いっぱいで引退しようと考えていた。地元の医師会は、久子さんには残ってもらうよう説得をしていたという。  古川典さん(82)は、津波が襲った3月11日の朝、医院に行った。採血した検査の数値が平常になり、久子さんから「この調子でがんばって」と声をかけられたという。「カルテに細かく字を書いて、それを丁寧に説明してくれた。進さんも久子さんも、聴診器のあて方がすごく優しい。ほかの病院には行けなかった」と古川さんは話す。  夫婦と40年間一緒に暮らした准看護師の佐々光代さん(59)は、「患者とも家族ぐるみの付き合い。明るい病院だった」と振り返る。

 

 

渥美医院のすぐ近くには、「はまと神経内科クリニック」があった。院長の浜登文寿さん(46)が9年前に開いた。  同じ沿岸部の山田町出身の浜登さんは、電器店を営んでいた父から「過疎地を救う医者になれ」と何度も聞かされた。県内の県立病院に勤めた後、「無医村にしてはならない」と鵜住居に来た。  病院は流されたが、家族と14人のスタッフは全員が無事だった。約10キロ離れた釜石市の市街地で、3年前に閉院した病院を借りて診療を再開した。  過疎地の町医者に導いてくれた父は、母とともに行方が分からない。浜登さんは「住民が1人でもいるなら、いつか鵜住居に戻る。それが父の教え」と声を詰まらせた。

 

 

森田ヒロさん(69)は、浜登さんの病院のすぐ近くで、車いすの夫征紀さん(72)と2人で暮らしていた。自動車はなく、車いすを押して行ける浜登さんの病院がありがたかった。  震災から3週間がすぎた今月3日、避難所にある臨時の診療所に行った。血圧を測ると、地震前に140だった数値が220を超えていた。津波の後からは左耳が聞こえづらい。疲労やストレスから来ている可能性があると診断された。 この日、仙台市に住む娘たちが森田さん夫妻を迎えに来た。しかし、征紀さんは鵜住居を離れるつもりはない。「みんながいるし、いつでも診てくれる病院がここにはあるから」とヒロさんは言った。  ヒロさんが診察を受けた臨時診療所は、避難生活を送る栗林小学校の児童会室にある。大阪市から派遣された医師2人と看護師らのチームが外来と巡回の診療を受け持っている。  地震直後、1日あたりの患者は100人を超えた。今は院外処方を勧め、4月に入ると20人ほどに減った。巡回場所も19カ所から3カ所程度になった。それでも、看護師の犬童さおりさん(36)は、患者のお年寄りから「いつまでいるの?」「帰られたら困ってしまう」と言われるという。  臨時診療所は10日までは開設されるが、それ以降は未定だ。(木原貴之)

 


ふんばる 3.11大震災/津波の怖さ写し発信 釜石市 鵜住居町

 2011年04月06日水曜日 河北

砂に埋もれた田んぼで撮影する藤枝さん。「釜石の被災と復興を記録し続けたい」=釜石市鵜住居町

 

 

 カシャ、カシャ。レンズに映っているのは、砂に埋もれ、がれきが積もった田んぼや畑。大好きなトンボはここに帰ってきてくれるだろうか。 岩手県釜石市の中心部から北10キロの沿岸部に広がる鵜住居(うのすまい)町。 指定避難所の同地区防災センターに逃げた住民が大津波にのまれ、約50人が死亡、多くの行方不明者が出た。市内のフリーカメラマン藤枝宏さん(53)は1日、震災後初めてカメラを手に取り、現地を訪ねた。 トンボの希少種マダラヤンマが市内で見られるのは、田園が広がる鵜住居町ぐらい。高校2年でカメラを始めたきっかけも、マダラヤンマとの出合いだった。だが、思い出の地は無残な姿に変わり、「古里を失った感覚。寂しい」とこぼす。

 

「フォトライブラリー心象舎」。1996年、釜石市大町1丁目の自宅に設立した仕事場だ。東京の大学を卒業後、帰郷してホテルに勤め、30代から本格的に写真の勉強に取り組んだ。河北写真展などで入選を重ねる腕となり、プロとして独立。釜石の街を撮ってきた。 3月11日、海に近い自宅が激震に揺れた。「絶対に津波が来る」。デジタルカメラ2台を担ぎ、妻久美子さん(50)と脚の具合が悪い母ユキさん(81)を急いで車に乗せ、高台に逃れた。 津波で自宅は家財道具もろとも流され、釜石の街並みが詰まったフィルムも失われた。しかし、なぜか不思議と前向きな気持ちになれたという。 母、妻、次女、長男の家族は無事で、今はアパート住まい。「命が助かっただけでも良かったと思わないと罰が当たる」 自分たちが置かれた境遇を、釜石の歴史に重ねる。明治29(1896)年と昭和8(1933)年の三陸大津波、太平洋戦争の艦砲射撃。 若い時に帰郷を選んだのも「斜陽を迎えた新日鉄釜石製鉄所の高炉の火が消える瞬間を、この目で見たかった」からだ。 打ちのめされるたび、街は立ち直った。「前より良くなれる」と被災後の今も信じている。

 

 企業からポスターやカレンダーの写真の依頼を受け、三陸地方の風景を撮る。その傍ら、心象舎のホームページ(HP)を開き、釜石の「いま」を写真と文章で紹介する。「自然豊かで昔は高炉があった魅力的な街。全国にファンを増やしたい」 パソコンは津波にさらわれ、HPの更新は止まったまま。津波の後に再会し、無事を喜び合った知人から「早く写真を見せて」と言われる。 新しいパソコンはもうすぐ届く。HPも今月中旬に更新するつもりだ。 「被災の状況を隅から隅まで撮って記録する。津波の怖さを後世に伝えたい。それが、地元でカメラマンとして生きていく私の使命だと思う」

(吉江圭介)

 


世界最深・釜石の防波堤、津波浸水6分遅らせる

2011年4月2日22時31分  読売新聞

 

東日本大震災の大津波で、世界一深い防波堤としてギネスブックにも認定されている岩手県・釜石港の防波堤が破壊されたのは、コンクリートブロックのすきまに発生した強い水流で基礎部分が削られたのが引き金になったことが、港湾空港技術研究所の分析で明らかになった。 ブロックの倒壊は徐々に進んだため、防波堤がない場合と比べると、市街地への浸水を6分間遅らせる効果があったという。 2009年に完成した湾口防波堤は全長約2キロ。防波堤としては世界最深63メートルの海底に基礎の石材が置かれ、その上に幅30メートルのブロックが並ぶ。ブロックは海面から約6メートル出ており、高さ5・6メートルの津波から街を守るよう想定されていた。 同研究所では、沖合20キロの波浪計で観測した津波波形をもとにコンピューター解析し、現地調査の結果とともに破壊過程を推定した。最初に到達した高さ10・8メートルの津波は、防波堤の内側では高さ2・6メートルにとどまった。しかし、ブロック同士の間にある約30センチのすきまに強い力で水が流れたため、基礎の石が削られ、最終的にはブロックの7割が倒壊した。

 

 


 

東日本大震災:卒園アルバム届けたい 教諭4人死亡・不明  釜石市立 鵜住居

 毎日新聞 2011年4月7日 20時33分

がれきが流入した幼稚園から見つかったアルバムなどを手作業できれいにする女性たち=岩手県釜石市で2011年4月7日、小川昌宏撮影 

東日本大震災で津波にのまれた岩手県釜石市立鵜住居(うのすまい)幼稚園は、園児を守ろうとした及川牧子園長(56)や教諭計5人のうち4人が死亡・行方不明になった。卒園式に向けアルバムを作成中だった先生たち。「なんとか園児たちに届けたい」。被害の少なかった幼稚園の教諭たちが集まり、がれきの中から泥だらけの卒園アルバムを見つけ出した。1カ月遅れで開く卒園式で手渡すつもりだ。【松井聡、阿部弘賢】

 

 海岸から約1.5キロの鵜住居幼稚園は、約60人の園児が通っていた。震災時は大半の園児は帰宅し、及川園長、教諭の小沢葉子さん(52)、山崎伴子さん(56)、臨時教諭の片桐理香子さん(31)、疋田菜津子さん(26)と園児4人がいた。 地響きの後、激しい揺れが園舎を襲った。教諭らは園児を連れ園庭に避難。間もなく園児2人は迎えに来た保護者に引き取られ、教諭4人は残りの園児2人と近くの防災センターに走った。及川園長は安否確認の連絡をとるため園舎に戻った。 センターに着くと、既に住民が数人避難していた。山崎さんが窓の外を見ると、津波が見えた。「ここは絶対安全だから」。山崎さんが園児に声をかけて抱き寄せた瞬間、冷たい海水が足元から一気に部屋に広がった。 天井近くまで押し上げられた山崎さんは、わずかな隙間(すきま)で呼吸して耐えた。園児2人は住民が肩車して守ってくれた。他の同僚の姿はなかった。  しばらくして、及川園長、小沢さん、片桐さんの遺体が見つかった。園長は携帯電話と緊急連絡網の紙を握りしめていた。疋田さんは行方不明。帰宅していた園児らのうち2人が死亡、1人が行方不明になっている。 震災前、園では保護者から園児の写真を提供してもらい、教諭らがメッセージを書き込んだ卒園アルバムを作成中だった。被害の少なかった他の幼稚園の教諭たち5〜6人が、マスクと手袋、長靴姿で何日もアルバムを捜し続けた。数人分が見つかり、はけで丁寧に泥を落とした。 3月17日の予定だった卒園式は4月16日に開かれる。アルバム捜しに協力した市立小川幼稚園の佐藤チヨ園長(57)は「卒園式を計画したのは、亡くなった先生たちの願いだと思ったから。絶対に成功させたい」と語る。山崎さんは「卒園式には出席し、同僚たちの思いを伝えたい」と話している。

 


 「遅れてごめんな」27日目にわが子発見

2011.4.9 22:30 サンスポ

 

がれきの隙間に6歳のわが子の背中とお尻が見えた。岩手県釜石市の会社員、菊池辰弥さん(35)は、抱き上げて名前を叫んだ。「涼斗」。遅れてごめんな。あの地震から27日がたっていた。 あの日。涼斗ちゃんは体調が悪く保育園を休み、妻、琴美さん(34)と釜石市鵜住居地区にある琴美さんの実家に行っていて行方不明に。水が引いた直後から、辰弥さんは押し流されて跡形もなくなった同地区の防災センター周辺を捜した。妻子がそこに逃げ込んだらしいと聞いた。 2階建てのセンター。琴美さんの遺体は3月18日、2階で捜索隊が見つけた。涼斗ちゃんの上着と片方の靴も見つかった。4月7日、センター1階を歩き回って、やっと見つけた。 今ごろ小学生になっていたはずだった。知人に頼んで6歳の誕生日に撮った写真と、ランドセルの写真を合成してもらった。「ランドセルくらい、背負わせてあげねえと…なあ」。辰弥さんの頬を涙が伝った。

 


 釜石名物の観光船を解体へ 津波で民宿に乗り上げ

2011/04/09 17:57   【共同通信】

 

 岩手県釜石市は9日までに、津波により2階建ての民宿に乗り上げる状態になった観光船はまゆりを解体して処分する方針を決めた。客室のガラスが割れた程度で船体に大きな損傷はないが、約200トンの船をクレーンでつって海まで移動するのは難しいと判断。三陸海岸の観光名物が一つ消えることになった。 釜石市によると、約4億円で市が購入し、10年以上観光客を乗せてきた。定期検査中の岩手県大槌町の造船所から、津波によって防波堤を乗り越え、約150メートル離れた民宿に乗った。 7日の余震を受けて8日に調査した結果、船の傾きに変化はなく、微妙なバランスを維持しているが、上るのは危険なため、内部は確認できていないという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釜石市 両石町

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   2008 岩手・釜石市両石町(りょういし)

撮影日時    2011/03/13 11:03  釜石市両石町の惨状

 

 

震災で壊滅的な被害を受けた釜石市。男性は漁港にほど近い同市両石町に住んでおり、11日の地震発生直後、家族らと一緒に軽トラックで高台に避難。その最中に「町が津波にのみ込まれた」という。 2011年3月19日 東奥

 


 東日本大震災:復興か、移住か 岩手県釜石・両石地区、防潮堤破られ住民苦悩

毎日新聞 2011年3月29日 毎日 東京朝刊

 

 「何十年も積み上げてきた津波対策が一瞬で崩れた。もう住めないかもしれない」。集落約200世帯のほとんどが被害を受けた岩手県釜石市両石(りょういし)地区。明治、昭和の津波を教訓に裏山を切り開き、防潮堤も整備したが役立たなかった。この地での復興か、移住か。漁村の住民は困難な課題に直面している。 28日、避難所となっている釜石市の体育館。両石地区の町内会長ら約10人が車座になって集落の将来を話し合った。消防や漁業など各団体でつくる「復興対策委員会」を設置し、住民の意向を聞くことを決めた。 市中心部から車で約30分の両石地区。両石湾に面し、住民の多くはワカメ漁などで生計を立てる。1896年の明治の大津波では11・6メートルの津波に襲われ、住民約800人の約9割が死亡した。存亡の機にさらされたが、地域のまとめ役が「誰が墓を守るのか。ご先祖様に申し訳が立たない」と呼び掛け、復興させた。87年には県が約6・3メートルの防潮堤を9・3メートルにかさ上げし、最終的には12メートルにする計画だった。 町内会によると、11日の津波は海面から約20メートルの高台も襲い、家屋などをのみこんだ。残ったのは十数軒だけ。住民約500人のうち、死者・行方不明者は四十数人に上る。「高台の住宅地に避難した高齢者5人ほどが、安心してお茶を飲んでいたら津波にのまれた」との証言もある。 漁船や加工工場を失った漁師は収入の道を断たれた。50代の漁師は「われわれは失業保険がない個人事業主。まだ年金もなく、仮設住宅に入っても収入はゼロ」と頭を抱える。 漁師の久保隆治さん(70)は「浜の人間は浜でしか暮らせない」と再生に希望を託すが、ある漁師は「防潮堤を超え、学校の体育館よりも高い30メートル近い津波が来た。すべてを失い、もう住めない」とため息をつく。 住民の半数以上は住宅ローンの借り入れが難しい60歳以上の高齢者だ。夫が行方不明の女性(73)は「ここに戻ってくるかどうかまだ考えられない。集落復興は難しいのでは」と指摘した。瀬戸元・町内会長(66)は「先人は無理と言われたこの集落を再建した。その意気込みをわれわれも持たないといけない。浜根性で何とか復活させたい」と話す。【稲垣淳、阿部弘賢】

 


 

地域復興、使命熱く 釜石・小野食品

2011.3.29 岩手

 

 「豊かな三陸の幸は本県特有の資源だが、漁業は壊滅的な状態だ。加工、流通、観光など、このままでは地域全体がだめになってしまう」 三陸産を中心に旬の魚介類を調理し、「つくりたての味」として真空パック商品を全国に届けている釜石市両石町の小野食品。小野昭男社長(54)は、がれきが散在する会社の前で声を絞り出した。 同社は1988年創業。日本で初めて「冷凍食品 焼き魚」で食品衛生管理システム・HACCPの認定を受け、農水省の食の信頼関連の評価制度で東北で初めて最高格付けを獲得するなど、本県産業界でも急成長している1社だ。 順調に業容、雇用を拡大しながら、今年2月25日には大槌町に新たな拠点を設置。さらなる飛躍に向けスタートを切ったが、その直後に巨大津波に襲われた。 近くにある高さ十数メートルの堤防を乗り越えた津波は本社工場の1階をのみ込み、大槌町の新拠点は全壊状態。従業員約130人のうち、2人の安否が確認できていない。 「東京出張から現場に戻った時、もうだめかと思った」と小野社長。ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。 「このままでは人がどんどん離れてしまう。若い人が戻ってきて、住民が生き生きと仕事ができる地域を取り戻したい。6カ月、いや3カ月以内に再開し、全国に情報発信していきたい」 地域復興のためには被災住民の生計維持、雇用確保が欠かせない。そのためには各地の拠点企業が大きなけん引役になる。 「ただ、震災処理、新たな設備投資など考えると、現行制度での企業再生は相当厳しい。地域と国が連携して知恵を出し合う復興プランづくりが必要だ」

 

 

 

 お客様へのご報告とおわび   三陸おのや・小野食品株式会社

http://onofoods.com/

釜石「三陸おのや」の小野です。日ごろご愛顧いただきまして、ありがとうございます。このたびの震災で被害にあわれた方に心よりお見舞い申し上げます。 私どもの事業所は、震災の被害が大きかった釜石市および近接する大槌町にございます。いまは情報の収集をすすめている段階ですが、従業員全員の無事を確認できました。しかし、交通網や通信網も含めた生産・配送環境の被害の全体は、まだ把握もできておりません。この影響によりやむなく、毎月20日前後にとお約束していた頒布会の商品は、この三月についてお届けができません。また四月以降の再開のめどもたっておりません。お待ちいただいているお客様に、深くおわびいたします。 わたしたちが愛する三陸の釜石・大槌の被害は甚大です。また、大切にしてきたお客様とのご縁が、いったん途絶えてしまうのはほんとうに残念です。しかし、いずれまた従業員と三陸の仲間たちとともに立ちあがります。具体的にいつになるか、申し上げられる状況ではございませんが、この三陸の地から、おいしい魚料理をお届けする仕事を、必ずや再開します。お客様の食卓に商品をお届けしてきたことがわたしたちの誇りです。これまでにいただいてきたお客様からのご支持が心のささえです。 三陸おのやの再始動の際にはご連絡いたしますので、ふたたびご愛顧いただけますよう、よろしくお願いいたします。本来ならばお一人おひとりのお客様にご連絡すべきところではございますが、ホームページにて失礼いたします。 末筆ではございますが、またお会いできる日まで、どうかお元気で。皆様のご無事とご健勝をお祈り申し上げます。 

2011年03月15日  三陸おのや・小野食品株式会社社長  小野昭男

 

 


釜石・両石の津波17メートル超 「明治三陸」上回る

2011/03/29 岩手

 

東日本大震災の大津波は釜石市両石町の水海水門で速報値約17・7メートルに達し、明治三陸津波(1896年)を大きく上回る規模だったことが28日、土木学会調査団の調査で判明した。陸地を駆け上がった遡上(そじょう)高は約19メートル。各地で防波堤や防潮堤をのみ込み、想定していた避難所も浸水するなど、津波対策の抜本的な見直しが課題となる。 土木学会の津波痕跡第1期調査団(代表・佐藤慎司東京大教授)は6班体制で、25日〜4月3日まで本県と宮城県で津波の高さや遡上高などを調べている。 東京大と横浜国立大の調査チームは28日、釜石市の両石湾と鵜住居町などを調査した。両石湾では水海水門で津波の高さ約17・7メートルを観測。波は水門を優に越えて、陸側に押し寄せていた。 津波は水門の陸側をえぐるように破壊し、周辺建物の浸水高は約10メートル。山側ののり面に残っていたビニールなどの痕跡から推測した遡上高は、約19メートルだった。同市鵜住居町の海岸に面したのり面でも、暫定値で遡上高約15メートルを記録。大槌湾は約12・6メートルだった。 明治三陸津波の記録によると、釜石市・両石は11・6メートル。防波堤や防潮堤が整備されているにもかかわらず、過去最大の被害をもたらした大津波を超えた。 これまでの調査では壊滅的な被害を受けた陸前高田市で海岸付近約14〜15メートル、海岸から約1・5キロメートル陸側の遡上高は約18・5メートルにも達している。釜石港は約11メートルだった。 釜石市などを調査した横浜国立大の佐々木淳教授(海岸工学)は「詳細な分析が必要だが、日本最大級の津波だった。ハード整備と避難所などソフト面も含めて総合的な津波対策の見直しが迫られる」と説明する。

 


東日本大震災:まとめ役男性、悪戦苦闘 釜石の避難所

 毎日新聞 2011年4月5日 12時43分

避難所の運営に奔走する洞口博夫さん=岩手県釜石市の中妻体育館で2011年3月30日、斎藤良太撮影 

 

東日本大震災で自宅を失った被災者は炊き出しや掃除などをしながら、落ち着き先が見つかる日を待ち続けている。活動の中心になっているのが、避難所運営のリーダー役になっている自治会役員たちだ。悪戦苦闘しながら住民をまとめる一人の男性の姿を追った。【斎藤良太】 「風邪が流行しているので換気をしっかりやってください」 岩手県釜石市両石地区の住民約150人が避難生活を送る中妻体育館。両石町内会副会長の洞口(ほらぐち)博夫さん(59)は巡回中の保健師にそう指摘されると、ただちに午前と午後、体育館の窓を開けて空気を入れ替えることを決めた。仮設住宅の入居申し込み開始など行政の連絡事項をハンドマイクで伝え、逆に住民の要望を行政側に伝える事実上の現場責任者。震災後から多忙を極める生活を振り返り、苦笑した。 「今まで経験したことがないのに、よくやってこれたなと思う」 釜石市中心部から約4キロ北側にある両石地区。漁港に面した集落約250世帯のほとんどが津波にのまれた。わずかに残った高台の民家などに身を寄せていた住民約270人は、15日に開設された中妻体育館(約600平方メートル)の避難所で暮らすことになった。 

 

◇住民、次々に協力 

われ先に自分の場所を確保する住民たち。トイレなどに行く時に寝ている人の頭を踏みつけかねない状態になった。「誰かがここを仕切らなければ」。30代から町内会活動を続け、顔が広い洞口さんが自然の成り行きで責任者になった。老人クラブの事務局長ら数人が協力を申し出て、漁協婦人部などの女性たちが炊き出しを引き受けてくれた。 最初に手を付けたのは、通路を確保することだった。住民を10班に分け、1メートルほどの通路を設けて班ごとの区画を決めた。寝起きする場所での食事は不衛生なので、炊き出しのコンロの前で班ごとに食事をする専用の場所も設けた。場所取りしたのに移動することになった住民から不満が続出したが「みんなで協力し合わなければ」と説得した。

 

◇ささいなことでいさかいも

 自衛隊などから届くパンやおにぎり、衣類といった救援物資も、当初は人数分が届かなかった。配給時は並ばずに群がって奪い合い状態になり、体力が落ちたお年寄りらに行き渡らないこともあった。「メシがまずい」「なぜ服が回ってこない」。ささいなことでいさかいも起きた。最初の1週間は混乱の連続だったが、試行錯誤をしながら住民をまとめ徐々に集団生活を軌道に乗せた。 落ち着いてきた避難生活でも、課題はまだ多い。体育館のトイレは和式便器のみ。足腰が悪い高齢者が不自由し、市に改善を求めたらポータブル式の洋式トイレが届けられた。だが、トイレが狭く、設置することができない。食事もカップラーメンは山積みになっているが、野菜など生鮮食品は依然として不足がちだ。

 

◇「疲れているのはみんな一緒」

 洞口さん自身も自宅を失い、妻(53)、父(89)、母(85)と避難生活を送る。リーダーとして疲労はピークに達しているが「疲れているのはみんな一緒」と笑う。 「両石の再建には、土地をかさ上げするといった大規模な工事が必要だ。国などの支援を受け再建するためには、住民同士の団結を維持しなければ」

 

 


釜石 魚介類を埋め立て処分へ

4月8日 15時15分   NHK

 

岩手県釜石市は、津波で被害に遭った水産加工会社が保管していた魚介類について、がれきと分けたうえで、山間部に埋め立てて処分することを決めました。釜石市の沿岸部にある水産加工会社の多くは、冷凍庫が津波で被害を受け、保管していた魚介類が、がれきとともに放置されて傷み、問題となっています。釜石市では、8日、県の担当者とともに、地元の水産加工会社10社余りが、処分の方法について話し合いました。その結果、山間部に処分場をつくり、魚介類とがれきを分けたうえで、消毒のための石灰を混ぜながら埋め立てることを決めました。廃棄する魚介類は、釜石市だけでも4000トンから5000トンに上るとみられています。処分の費用をどこが負担するのかはまだ決まっておらず、被災した会社からは、国に対して支援を求める声が出ています。釜石市の水産加工会社で作る協同組合の青沼秀喜理事は、「会社も被災しているため、人手を集めるのも難しく、魚を取り出すことさえ、自分たちだけの力でできることではない。国には抜本的な支援策をとってもらいたい」と話しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 釜石市 唐丹町(とうに)

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 津波記念碑(釜石市唐丹)

1896年(明治29)6月15日、午後8時ころ三陸東岸一帯を襲った明治三陸地震津波は唐丹村(現在は合併して釜石市唐丹)に多数の犠牲をもたらせました。唐丹村総人口2,807人中、実に2,100人が死亡しました。また、流失家屋は341戸という壊滅的な損害をこうむった。33回忌の昭和3年に建立された慰霊碑は、現在本郷堤防の南側に犠牲者を悼むようにひっそりと建っています。津波の知識と教訓/ 山村武彦

 

釜石市唐丹町小白浜漁港 2009 09

撮影日時    2011/03/27 8:34


地震:三陸沖で発生、県内全域に緊張 沿岸で養殖施設被害 /岩手

毎日新聞 2011年3月10日 地方版

 

 三陸沖で発生した地震は9日、県内全域を揺らし、避難勧告が一部で出るなど緊張が走った。約3時間で津波注意報は解除され安堵(あんど)の声の一方、大船渡市などで養殖施設被害が出、昨年2月の津波、年末年始の荒天と続く災難にため息も。また、大きな揺れに岩手・宮城内陸地震を思い出し不安になった人もいる。いつ来るか分からない自然災害にどう対するか、改めて思い直す一日となった。 気象庁によると、震度4を観測したのは、宮古市や盛岡市など22市町村。11市町村で震度3、田野畑村で震度2を記録した。津波注意報は午前11時48分に発令され、約3時間後に解除された。海辺にある唐丹、鵜住居、平田の3小学校と釜石東中学校は津波注意報を受けて授業を一時中断、児童・生徒を校舎の2階以上に避難させた。唐丹小は午後2時35分に下校時間となったが、市教委の指示に従い全校児童73人を2階以上に待機させ、同2時50分の注意報解除を待って帰宅させた。【鬼山親芳】      ■沿岸の主な津波最大波■  大船渡(午後0時16分)60センチ  釜石 (午後0時18分)40センチ  宮古 (午後1時04分)30センチ  久慈 (午後1時13分)50センチ

 


地震:三陸沖で発生 生ワカメの出荷に安堵−−釜石 /岩手

毎日新聞 2011年3月11日 地方版

 

 釜石市唐丹町小白浜で10日、生出荷用のワカメの収穫が始まった。唐丹湾の養殖ワカメは津波被害から辛うじて免れ、漁業者には安堵(あんど)の色が見られた。 小白浜地区はボイルしての塩蔵ワカメより、そのまま生出荷する漁業者が多い。刈り取ったばかりのワカメを満載した漁船が次々と接岸し、小型のクレーンで陸揚げされた。 800キロを収穫した寺崎勝広さん(60)は「渦を巻くほどの勢いの津波でホタテの棚1台が流されたが、ワカメは大丈夫だった」と茶褐色の海の恵みをうれしそうに見つめた。【鬼山親芳】

 


県教委が安否情報‎ 釜石市 唐丹

読売新聞 - 13 Mar 2011

 

釜石市では、釜石小の19人の児童が、津波に流されたとの目撃情報があったほか、唐丹中の2年生女子生徒1人がタンスの下敷きになり死亡。大船渡では、大船渡北小の児童1人が行方不明、大船渡中の生徒33人の安否が未確認という。

 


漁師の町、何もかも失った 釜石 唐丹町 小白浜地区

2011/03/17 岩手

 

無数の家屋のがれきの中に、原形をとどめない水産加工場がむき出しの鉄骨をさらす。地震前、150隻ほどあったという漁船はどこにも見えない。高さ約12メートルの防潮堤はブロックごと集落側に倒れ、漁師町を破壊した。

 釜石市唐丹町の漁業白幡義規さん(66)は同町中心部の小白浜地区で生まれ育ち、15歳から船に乗った。イカ釣り船と養殖用の小型船を保有。投資額は数千万円に及ぶ。浜が暮らしのすべてだった。 震災で船も養殖施設も何もかも奪われた。自宅も9割方壊れ、住み続けるのは困難だ。漁業者の平均年齢が70歳に達するという同地区。浜の後継者は極端に少ない。「漁業をもう一度やろうとはならないだろう。涙は出ない。でも、朝起きると『あーあ』とため息が出る」 白幡さんは今、妻の実家の名古屋に移り住むことを考え始めている。基幹産業を失った高齢、過疎の漁村にさらなる人口減の足音が忍び寄る。 同地区の約200世帯のうち、約60世帯がほぼ全壊する大きな爪跡。しかし、幸いにも犠牲者は一人も出なかったという。 「まずできることから始めよう」。住民同士が助け合い、中心街の道路を覆ったがれきの除去作業を始めた。「言葉も出ない大きな被害。でも、幸運にもみんな助かった」。同町で理髪店を営む山田純一さん(59)は被災した1階店舗から泥をかき出しながら、周囲を鼓舞する。 約10世帯へ「近所で使って」と届いた救援物資はわずか毛布2枚。「これで他地域の被害の大きさが伝わり、腹をくくった。ここはみんなで力を合わせれば何とかなるでしょう」と山田さん。近所の大向正則さん(62)も「そうだ、そうだ」とうなずく。「地域の絆は壊れない」。同地区の住民は17日も総出で作業に汗を流す。

総出で中心街のがれき除去に励む小白浜地区の住民(遠野支局・及川純一撮影)

 


釜石市 唐丹町

お亡くなりになった方が奇跡的にお二人だけだったそうです。2011年3月17日

初めて救援物資が届いたそうです。   トイレットペーパー2個、缶詰2個、一家族これだけだそうです!!   犠牲者が少なかった分地元の復興作業が進んでいないと言っています。   2011/03/17 17:01

 


安否を尋ねて・・・被災地を行く 8  釜石市 唐丹町 本郷

2011/3/25(金) 午後 8:30

唐丹町本郷です。過去の三陸大津波で大きな被害を被った経験から高台に集落を作ったそうです。その後、防潮堤も作られ道路下にも新しい家が建ちましたが、今回の大津波は非情にも道路下の新しい家々を押し流してしまいました。それでもこの集落では死者数名だとか・・・寝たきりの老人や元気の良すぎる人だったようです。(普段から元気が良すぎて誰の忠告も耳にせず津波の状況を見に行った人)地元住民談

 


東日本大震災:祖先の教訓、集落救った 高台移転で無傷

 毎日新聞 2011年4月5日 12時24分

近年低地に建てられた家屋(手前)は津波で破壊されたが、並木の上の高地移転したエリア(奥)はほぼ無傷だった=岩手県釜石市唐丹町本郷で2011年4月1日、福永方人撮影

近年低地に建てられた家屋(手前)は津波で破壊されたが、並木の上の高地移転したエリア(奥)はほぼ無傷だった=岩手県釜石市唐丹町本郷で2011年4月1日、福永方人撮影 東日本大震災の大津波により壊滅的な被害を受けた岩手県沿岸部で、過去の津波被害の教訓から高地に移転し、今回は難を逃れた集落がある。釜石市唐丹(とうに)町本郷と、大船渡市三陸町吉浜の2集落。本郷地区は道路を挟んだ上下で「明暗」がはっきり分かれた。防災の専門家は「被災地の復興策として高地移転を進めるべきだ」と指摘する。 本郷地区は明治三陸地震津波(1896年)と昭和三陸地震津波(1933年)で海岸部の家屋がほぼ全滅した。住民たちは裏山を切り崩して海抜約25メートル以上の高台に団地を造成、約100戸を移転させた。今回の津波は唐丹湾の防潮堤(高さ約10メートル)を乗り越え、高さ20メートル以上に達したとみられるが、移転した家屋はほぼ無傷だった。一方、転入者らが近ごろ建てた低地の約50戸はのみ込まれた。 住民らによると、住民たちは高台に避難し、犠牲者は漁船を沖に出そうとして津波に襲われた1人だけだった。漁業の千葉賢治さん(79)は「堤防を越える津波が来るなんて思わなかったが、親たちの知恵が生きた」と話す。 吉浜地区も明治三陸地震津波の後に約50戸が海抜20メートル以上の場所に移転。今回、元々集落があった水田地帯は水没したが、家屋は全壊が1戸だけで、死者も1人だった。 牛山素行・静岡大防災総合センター准教授は「今回の大津波で明らかに有効だった対策は高地移転だけ。再建する集落に加え、近い将来大地震による津波被害が想定されている東海地方などでも高地移転を検討した方がいい」と話している。【福永方人】

 


漁業継続 組合員の意思確認へ  釜石市 唐丹町

3月27日 16時46分   NHK

 

津波で壊滅的な被害を受けた岩手県釜石市の漁協が、震災後初めて理事会を開き、今後、漁業を続けるかどうか、組合員に意思を確認したうえで復興策を検討することになりました。釜石市の3つある漁協の1つの唐丹町漁協では、400隻以上あった漁船の9割が壊れたり、ワカメやホタテの養殖場がすべて流されるなど壊滅的な被害を受けました。漁協が27日、震災後初めて開いた理事会には11人のメンバーが集まり、今回の津波で亡くなった組合員2人に対して全員で黙とうをささげました。この漁協は、450人の組合員の半数が避難生活をしているということで、理事会では、今後、漁業を続けるかどうか組合員一人一人に意思を確認することを決めました。そのうえで、漁業を続ける人数に応じて復興させる養殖場の規模を検討することや、残った漁船を使って定置網漁を再開していくことを確認しました。また会合では、生活の再建のためには、大きな収益を上げていた養殖の復旧を急ぐ必要があるといった意見が出されていました。唐丹町漁協の上村勝利組合長は「どれだけの組合員が漁業を続けられるかという不安はあるが、復興に向けてしっかりと進んでいきたい」と話していました。

 


東日本大震災:釜石で防災に熱心な取り組み、町内会長の清水さん死亡 /岩手 釜石市 唐丹

毎日新聞 2011年3月28日 地方版

 

 ◇被災8日前の避難訓練、津波の怖さを訴えたばかり

 地域防災に熱心に取り組んでいた釜石市唐丹町片岸の町内会長、清水学さん(62)が津波で亡くなったことが分かった。勤め先の釜石市大町3の市営青葉ビルで、避難住民の受け入れ準備中に逃げ遅れたとみられる。 清水さんは地震の時、ホールや研修室などのある1階部分にいた。親子教室を担当し、子供3人を避難させてビルから出た市の保健師(55)が「避難するね」と声を掛けた際、清水さんは「住民が逃げてくるかもしれない」と床の掃除をしていたという。 津波の翌日になっても地区に顔を見せない住民が不審に思い、親類に連絡した。知らせで保健師ら職員3人が3日後の14日、ビルに入り、ホール中央付近でがれきに埋まった遺体を見つけた。ビルからはリュックを背負った夫婦ら計5人の遺体が収容された。 ビルの1階天井付近まで水が入り、備品が散乱していた。清水さんは津波が市の中心部まで押し寄せるとは思ってもいなかったらしい。ビルは市の避難場所には指定されていない。 1人暮らしの清水さんは市役所を定年退職後、日中、管理人として働いていた。昨年5月に町内会長に就任。都市計画課長を務めた経験から地区防災に率先して取り組んだ。津波の8日前にあった市の避難訓練でも、明治三陸地震大津波で半壊した旧宅の写真を住民に配り、津波の怖さを訴えたばかりだった。 海辺の片岸地区では住宅41戸中35戸が流され、4人が死亡、5人が行方不明となった。前会長の立石隆幹さん(70)は「防災にはとても熱心で、慎重な人だった。管理人としての責任から最後まで残ったのではないか」と肩を落とした。【鬼山親芳】

 


 

全壊した家屋に孫(後方)と来た男性。チリ地震は被害がなかったのに、「まさかここまで来るとは思わなかった」と語った=29日午後、岩手県釜石市唐丹町

 


東日本大震災:三陸鉄道、存続の危機…復旧費用100億円 釜石市 唐丹

 毎日新聞 2011年4月2日 10時48分

トンネルから熊野川を越える高架橋が落下した三陸鉄道南リアス線=岩手県釜石市で2011年3月31日、稲垣淳撮影 

三陸のリアス式海岸沿いを走り、「さんてつ」の愛称で親しまれている第三セクターの「三陸鉄道」(盛岡市)が存続の危機に立たされている。東日本大震災で高架橋が崩落するなど、復旧費用は100億円かかるとの見方もある。会社単独の復旧は困難で、資金のめどがついても全面再開まで1年以上かかるという。 ◇「地域の足なのに」 三陸鉄道は県や沿線自治体などが出資して81年設立。北リアス線(久慈−宮古駅間71キロ)や南リアス線(釜石−盛駅間36キロ)を運行する。09年度は利用客約89万人。県などから1億円以上の経営損失補助金を受け、実質赤字状態だった。 震災で、南リアス線は釜石市の唐丹(とうに)−吉浜駅間の高架橋が落下、釜石−平田駅間の大渡川鉄橋は橋脚にひびが入り、線路が寸断された。北リアス線も島越駅など駅舎が壊滅。同線は一部区間で運行を始めたが、南リアス線は損壊が大きく復旧のめどが立っていない。

 

 唐丹駅から月2回、釜石市内の病院に通う男性(85)は「電車がないと往復で数千円タクシー代がかかり、通院できない」。家族が同駅を利用する男性(52)は「復旧費が巨額なら廃線も仕方ないが、代替バスなど地域の足は残してほしい」と話す。 現行の鉄道施設災害復旧費補助制度では、復旧工事費のうち国と地元自治体が各25%、鉄道事業者が50%を負担する。三セクは地元自治体が事業者分の負担も迫られるため、岩手県の担当者は「工事費に100億円かかるとの試算もある。国のさらなる支援なしに復旧は不可能」と頭を抱える。 国土交通省の担当者も「今回の地震は通常の災害と異なり、被災自治体の負担は計り知れない。鉄道の復旧について国の補助率を拡大したり、違う枠組みによる支援も検討したい」と話している。【稲垣淳、阿部弘賢】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

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山田町

大槌町

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陸前高田市

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大船渡市

陸前高田市

 

  

大船渡市

40,753人(推計人口、2011年1月1日)

役所:海岸から 2,100m

津波11・8メートル 気象庁 4.5

大船渡市で251人 / 3月25日

全約14,800世帯中 3,600棟以上が全壊

3,629戸全壊

市内ほぼ壊滅

役所 無事 ? www.city.ofunato.iwate.jp/ H.P.サーバーダウン中(2011.03.26)

臨時 H.P.

大船渡市の綾里地区   津波の高さが23.2メートル

死者 278  行方不明 238  避難者 6290  家屋全壊 3629  4月3日現在 (県と県警まとめ)

死者 279  行方不明 236  避難者 6733  家屋全壊 3629  4月04日現在 (県と県警まとめ)

死者 287  行方不明 213  避難者 6785  家屋全壊 3629  4月10日現在 (県と県警まとめ)

死者 303  行方不明 155  避難者           家屋全壊 3629  4月29日現在 (県と県警まとめ)

   

 

 

 

 

 

カメラの藤田屋

 

明治29年(1896)6月15日に発生した「明治三陸地震津波」(死者22,066人)で、岩手県綾里村(現在の大船渡市 三陸町 綾里)を襲った津波がここまで来たことを表す三陸大津波水位表示板は、38.2m(一説には50m以上)の本州津波史上最大高さを示しています。     2009/12/09

 

 

 

 

 チリ大地震:津波被害1年 生活再建の兆し−−被災6市町 /岩手  大船渡市

毎日新聞 2011年3月1日 地方版  (10日前)

 

県水産振興課などによると、陸前高田市や大船渡市など被災6市町の被害総額は約18億1532万円に上った。耐久性のある養殖施設に替えることを中心に、県は6市町や生産組合に約2億2800万円(国の交付金を含む)を補助し、昨年10月上旬に復旧を終えた。    大船渡市漁協によると、ホタテの水揚げも例年の半分程度だったが、2割増の卸値に救われたという。佐藤功さん(46)もカキとワカメの養殖業を営む。津波が来る2日前にカキの種付けを完了していた。そのため半分以上の種を失い、水揚げも例年の半分以下に落ち込んだ。300万〜500万円の被害額に「まさかこんなにやられるとは思わなかった……」と肩を落とす。2月中に、再来年に水揚げする分の種付け作業を終え、3月から始まるワカメの収穫作業に向け準備を進める。「ワカメは1年養殖だから、いくらか(カキの分を)取り戻せれば」と話す。

 


「全滅だ」住民ら悲痛‎

朝日新聞 - 12 Mar 2011

 

大船渡市大船渡町の加茂公園。津波は海岸線から1キロ離れ、標高30メートルの高台の手前約150メートルまで迫った。 ... 同市三陸町の吉浜地区では3トンの漁船が22隻、沖に流された。

 


 

 大船渡の小中生34人不明 釜石小19人は津波被害か  大船渡市

2011年3月13日21時31分 朝日

     

 岩手県災害対策本部によると、大船渡市立大船渡中では生徒33人、同市立大船渡北小で児童1人が行方不明であることがわかった。また、釜石市立釜石小では19人が津波に流されたとの情報がある。また、12日までに連絡が取れていなかった大船渡市立吉浜中で生徒8人、県立一関清明支援学校でも気仙沼市に住む6年生の児童1人、高校の生徒3人についても、依然として行方がわからないままだという。

 

 


 

濁流、30人以上襲う 大船渡の特養ホーム  大船渡市 越喜来

2011/03/14 岩手日報

 

 命を慈しむ場を津波が襲った。大船渡市三陸町越喜来の特別養護老人ホーム・さんりくの園では、利用者と職員30人以上が濁流にのみ込まれた。 地元だけでなく近隣の市町村の高齢者が入所、ショートステイで利用していた同施設。地震当時は約60人の利用者がおり、自由時間を思い思いに過ごしていた。突如の大地震に、利用者は「助けてくれ」と恐怖と寒さに体を震わせ、車椅子に乗せられて駐車場に避難。職員に押されて高台に移動する途中で、黒い濁流に襲われた。 利用者と共に津波から逃げた同施設の女性ケアマネジャー(58)は「多くの利用者が、渦を巻く波にのみ込まれてしまった。家や財産、そして命まで、どうして津波は大切なものばかり奪っていくのか」と悔しさに唇をかんだ。 13日は現場に散乱する住宅の破片やひしゃげた自動車を自衛隊員が撤去。利用者を失った車椅子やリクライニングベッドが土砂にまみれて倒れていた。

 


 

津波去り憔悴漂う 家族と夢流された 大船渡

2011年03月14日 河北

 

岩手県大船渡市の避難所。どの人も、不明者の安否を気遣い合う。「夫の行方が分からない」と小さな子どもを抱えて顔を伏せる女性。近くで男性は「家は流された。母が見つからない」。憔悴(しょうすい)。市全体を重く覆っている。 現実は非情だ。避難所にはこんな場面もある。 「よかった!!」と涙を浮かべ、崩れ落ちる女性。「よく生きてたな」と抱き合う男性同士。近くで不安を募らせる人たちの表情を見ていると、いたたまれなくなる。 大船渡湾に面した中心市街地、大船渡地区を歩く。市内では同地区を中心に約2500戸が津波で流された。死者・行方不明者は約4000人(13日午後4時50分現在)に上る。ただ、現場に立ってこの惨状を見れば、これだけでは済まないことは容易に分かる。 地震発生時の11日午後2時46分、市内の幹線道路、国道45号を車で走っていた。道路はたちまち津波から避難を試みる車で渋滞。約40分後、前方の市中心部の方向から砂煙が舞っているのが見えた。 「津波だっ、津波だっ」。歩いて避難しようとしていた女性は連なる車の運転者たちに向かって叫んだ。ゴーッ。前方約300メートルで多くの家屋が左から右へ流れていく。映画やテレビでしか見たことのない世界が目の前にあった。 津波の威力はどんどん増していく。慌てて車を捨て、高台へ向かった。高台から眺めた市内の中心街。すべてが失われていた。 大船渡は明治三陸(1896年)、昭和三陸(1933年)、チリ地震(1960年)の3度の大津波で計約3500人の犠牲者を出した。市民の津波防災意識は高い。巨大津波はそれを簡単にのみ込んだ。 津波は漁師たちの夢さえも打ち砕いた。 同市三陸町綾里、越喜来の両地区。県内有数の定置網漁で知られる漁港を持つ。 綾里地区は今、数十隻の漁船が陸上に横たわり、無残な姿をさらす。家も加工場も無数のがれきに変わっている。そのそばで住民はぼうぜんと立ち尽くしていた。 約40年間使い続けた愛船が流された漁業の山崎達之輔さん(68)は「1隻1000万円もする船の購入資金を工面することはできない」。別の漁師は「長年積み上げてきたものが一瞬で流された。もうやめる」と静かに言った。 市内最多の死者・行方不明者が今のところ確認されている越喜来地区も同様だ。ホタテの養殖用かごが無残にも散乱し、小さな漁船が崩れかけた防波堤に乗っかっていた。 自宅があった周辺を右往左往する男性はつぶやいた。「家と一緒にカカアもいなくなった」と。(山口達也、加藤健太郎、神田一道、鈴木拓也)

 


 

東日本大震災:米英救助隊、岩手・大船渡での捜索開始

毎日新聞 2011年3月15日 東京夕刊

 

 東日本大震災で、海外からの救助隊も到着し、15日には米、英、中国からの協力隊が岩手県大船渡市の被災地に入り、午前7時半から海岸沿いで行方不明者の捜索活動を始めた。 捜索に参加したのは米国際開発局(USAID)の救助隊約150人や英国の消防隊70人、中国の救援隊15人。国際的に広がる支援活動の一環として、地元消防団と連携して被災者の支援や捜索にあたった。各国の協力隊員は津波の惨状に驚いた様子だった。【川名壮志】

 


 

児童71人の命を救った非常通路 尽力した市議の「遺言」生きる

2011/3/30 16:38 J-CAST

 

岩手県大船渡市の越喜来(おきらい)小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。今回の大震災の3か月前、2010年12月に、その念願の通路ができた。市議は震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童はこの通路を使って避難、全員が助かったという。(朝日新聞岩手版)   校舎はがけの下にある。津波避難には、いったん1階から外に出て約70メートルの坂を上って、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。   「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求めた発言が残っている。平田さんの強い要望が実現したのは2年半後、今回の津波にぎりぎり間に合った。   非常通路は約10メートル。校舎2階とがけの上の道路が直接つながった。3月11日の地震直後、71人の児童はこの通路を使って、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、非常通路は壊され、がれきに覆い尽くされた。遠藤耕生副校長は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話している、という。

 


 

 大船渡の津波は23メートル 「昭和三陸」に匹敵  大船渡市 三陸町 綾里

2011/03/20 岩手日報

    

 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の津波が大船渡市三陸町綾里で23メートルに達していたことが、港湾空港技術研究所(神奈川県横須賀市)の調査で分かった。1933(昭和8)年の昭和三陸津波とほぼ同じ高さまで達し、甚大な被害をもたらした津波の実態が明らかになった。 同研究所は19日までの6日間、本県の大船渡、釜石、久慈の3港湾を含む8港湾で現地調査。建物に残った浸水跡や住民の証言などから高さを判定した。 今回の調査で最大級を記録した大船渡市三陸町の綾里湾は湾奥が狭くなるリアス式海岸特有の地形で、津波が湾奥に進むにつれ高さを増す。1896(明治29)年の明治三陸津波でも38・2メートルと日本最大の津波を観測し、昭和三陸津波でも約23〜28メートルの津波が襲来している。 同市茶屋前は9〜9・5メートルを観測。港に近い大船渡商工会議所は2階まで浸水した。高い場所にある国道45号を超え、想定浸水区域をはるかに上回った。同市の長崎漁港では11メートルだった。 釜石市の釜石港は7〜8メートル。近くの市営釜石ビルの2階まで達し、港周辺の浜町一帯は壊滅的な被害を受けた。そのほかの調査結果は久慈港13メートル、八戸港6メートル、宮城県女川港15メートルなど。 大船渡、釜石両港を調査した高橋重雄アジア・太平洋沿岸防災研究センター長は「防波堤や護岸があっても昭和三陸津波と同じぐらいの津波で、すさまじい破壊力を示している。具体的に分析し、今後の安全対策につなげたい」と述べた。

 

1896  大船渡市三陸町綾里 

4月1日 4時46分 NHK

 

津波が30メートル近い高さにまで駆け上がっていた岩手県大船渡市の綾里湾で、津波の様子を捉えた映像が見つかりました。

 


 【大船渡】妻と悲しみの再会 不明者探す被災者必死

2011.3.24 岩手

祐子さんの写真を見つめる山口久さん。悲しみをこらえる=23日午前10時半

 「信じられない」。東日本大震災で死者235人、行方不明者191人(23日現在)の甚大な被害を受けた大船渡市。同市三陸町綾里の山口久さん(62)は23日、市内の遺体安置所で妻祐子さん(58)と悲しみの再会を果たした。「こんな姿になって…」。悲しみ、悔しさ、絶望。大震災から13日目を迎えた港町に鎮魂の雪が降り続いた。 「間違いない。丸顔だったから」 久さんは23日午前、遺体安置所の大船渡・一中で、妻祐子さんと無言の対面をした。 「まさかこんな風になるなんて…」。にこやかにほほ笑む写真をぐっと握り締めた。 祐子さんは大震災の日、同市盛町の水産加工場に勤務。逃げる姿を目撃されていたが、行方不明になった。 久さんは、奥州市江刺区の土木作業現場にいた。祐子さんはてっきり避難しているものだと思っていた。しかし、翌日避難所を回っても見つからない。親族宅にも姿はなかった。 大船渡市内に止めていた車は流され、同市三陸町の自宅から市中心部まで1時間半以上かけ、連日歩いて捜しに向かった。 丸顔。髪は肩ほどで茶色。長年連れ添った妻の姿を胸に刻み、被災から3、4日たってから遺体安置所も訪れるようになった。「見つかったようだ」。22日に親戚から教えられた。 1984年に結婚、2人の子を育てた。真面目な性格。5月の誕生日に計画していた還暦の前祝いを楽しみにしていたという。 久さんは「こんなことになるとは思わなかった。11日の朝も自分が早く家を出たから、あまり話さなかったんだ」とうつむいた。 大船渡・一中には23日朝時点で54人の遺体が安置されている。その半数以上が身元不明のまま。行方不明の家族や知人を求め、多くの被災者が足を運ぶ。

 

 同市三陸町吉浜の橋本千賀子さん(56)は吉浜で行方不明になった父行男さん(85)を探している。 海で遺体が見つかったと聞き、同校を訪ねたが、背丈から別人だと分かった。 行男さんは、福祉施設の理事長を務めるなど多くの役職を担っていた。多忙だったが11日は偶然休み。農作業中だった。トラクターで避難する途中に津波にのまれた可能性が高いという。 千賀子さんは「いつも忙しく家にいない父だったから、いないことが普通でまだ信じられない。せめて見つかってほしい」と願う。

 


 

 東日本大震災 岩手・大船渡市の赤崎地区は津波に乗って襲ってきた油で町が黒色に

フジテレビ系(FNN) 3月24日(木)17時50分配信

 

各地の津波の被害については、今なお全容が明らかになっていない。岩手・大船渡市の赤崎地区では、津波に乗って襲ってきた油によって、町の景色が黒く塗り替えられてしまった。大船渡市赤崎地区は、本来はのどかな漁村風景が広がっているが、現在は焼け野原のように、黒くその姿を変えている。町を黒く変えたものは、油。油は、津波に乗って襲ってきて、あたり一帯のがれき、そして、住宅の屋根を黒く変えた。そして、蔵の壁には、はっきりと油のラインが見て取れる。ところによっては、3メートルくらいの高さまであった。因果関係はまだわかっていないが、さら地の奥にセメントを作る工場があり、そこには、最大で3,000klを貯蔵する重油タンクが2基ある。工場の従業員によると、このタンクが津波によって壊され、油が海に流れた可能性があると話していた。しかし、まだ原因は、はっきりとはわかっていない。そして、工場の敷地内は、油で真っ黒となっている。工場は停止し、稼働するめどは立っていない。そして、海には何隻もの船が沈んでいるという情報もあり、海洋汚染が心配されている。

 


 迅速避難、全員無事 大船渡・越喜来小 高い津波防災意識

2011年03月25日金曜日 河北

 

 東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県大船渡市三陸町にある越喜来(おきらい)小(児童73人)は、児童と職員計約80人が迅速に逃げ、全員が助かった。越喜来地区は市内で最も多い100人以上の死者を出した。学校も海から約200メートルで、海抜ゼロメートル地帯。津波で校舎全体が破壊されたが、高い避難意識が子どもの命を守った。 経験のない強い揺れが襲ったのは、1年生が帰宅しようとしていたときだった。 教員らは「津波が来る」と直感した。電気が止まり、校内放送が使えない。揺れが続く中、各教室を回って避難を指示し、昨年末に設置した非常階段を駆け上がった。 階段から通じる道路に出て約350メートル離れた公民館へ逃げた。1週間前に訓練をしたばかりで、2日前の地震でも同じルートで避難した。遠藤耕生副校長は「落ち着いて避難できた。命が守れ、本当に良かった」と胸をなで下ろす。 黒い波は3階建ての校舎をのみ込み、卒業証書や書きかけの通信簿もすべて失った。学校再開のめどは全く立たない。 臨時職員室として使う近くの幼稚園のドアに17日、6年生の一人から先生宛てに手紙が挟まれていた。 「流された中から習字道具を見つけてもらえました。学校で卒業できなくて残念だけど、いずれ卒業できる日を楽しみにしています。また先生方と友達全員に会えることを楽しみにしています」(坂井直人)

大津波で校舎全体が破壊された大船渡市越喜来小。避難意識を徹底していたため全児童が無事だった

津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来  岩手日報

 


 

 【大船渡】孫との日々目前 妻を捜し廃虚通い 大船渡市 末崎町

2011.3.25 岩手日報

 

大船渡市末崎町の建築業戸羽光也さん(64)は大震災以来、妻を捜してがれきの山に通い続けている。同市大船渡町笹崎の米穀店に勤めていた妻豊子さん(62)が行方不明になって半月。24日も同町笹崎の国道45号沿い、重機の運転音が響く捜索現場に姿を見せ、「避難所も遺体安置所も捜せる所は全部捜した。何とか見つかってほしい」と懸命な作業を見守った。 2人は結婚して35年目で、3人の子どもと2歳から小学3年まで計7人の孫が市内に住む。豊子さんは毎週日曜日に自宅で子や孫たちへ手料理を振る舞うのが一番の楽しみで、30年以上勤めた米穀店を今年5月に退職し、悠々自適の暮らしを送る予定だった。栃木県出身の豊子さんは大震災があった日、職場近くの高台にある空き地に同僚と避難。空き地は会社の1次避難場所に指定されており、長男に「避難したから大丈夫」とメールを送った後、行方が分からなくなった。行動を共にしていたとみられる同僚は4日後に遺体で発見された。 「暇をもらったら2人で『孫だまし』して楽しく過ごそうと言っていた。これからだったのに」と戸羽さん。今月19日は豊子さんの誕生日で、「何となく会えるような気がしていたけども、会えなかったなぁ」とつぶやく。 同市では連日警察、消防など200人態勢の捜索活動が続く。しかし、全半壊した住居の撤去は家主の同意を得るまで後回しになるケースもあり、がれきの下からプロパンガスのボンベや灯油缶などの危険物が発見されるたびに作業は中断。大量の物と土砂で捜索は難航している。 戸羽さんは現場作業員とすっかり顔見知り。24日夕も作業を終えたパワーショベルのオペレーター、霜山隆さん(56)が「今日も見つけてあげることができなかった。すみません」と伝えると、「いつも気遣ってくれてありがとう。またよろしく」とねぎらった。 「ばあばはかくれんぼが上手で大変だ。いつ帰ってくるんだろうね」。幼い孫たちに言い聞かせる日々が続く。

すっかり顔見知りになった現場作業員に捜索状況を聞く戸羽光也さん(右)

 


東日本大震災:被災跡地の買い取り検討 岩手・大船渡

毎日新聞 2011年3月26日 20時47分

 

 岩手県大船渡市の戸田公明市長は26日の会見で、低地の木造住宅を高台や内陸などに移転させ、跡地を市が買い上げる案を検討する意向を示した。戸田市長は「これから議論が必要だが、子や孫が同じ思いをしないように今回の教訓を生かしたい」と述べた。 住宅を建てられるエリアを制限するには、市の都市計画審議会に諮り用途地域を変更する必要がある。市民の反応や買い上げにかかる費用など、現時点では不透明な点は多いが、戸田市長は「安全なまちづくりには避けられない。市民の皆さんも同感だろう」との見解を示した。大船渡市では、民家など約3600戸が津波で全半壊した。【銭場裕司】

 


 

 東日本大震災 たんすに乗って漂流し助かる 大船渡の男性

毎日新聞 3月27日(日)18時55分配信

 

勤務先を片付ける金野さん。津波に巻き込まれたが、海に浮いたたんすにしがみつき生還した=岩手県大船渡市で

 

 津波で家ごと流された岩手県大船渡市の会社役員、金野健一郎さん(37)は、たんすにつかまり大船渡湾を漂っているところを小型船に助けられた。船長の男性は、名前や住所を頑として名乗らなかった。金野さんは「船長の恩は一生忘れない。落ち着いたら捜して、もう一度お礼を言いたい」と話している。地震が起きた11日、金野さんは公民館にいったん避難したが、スーツから着替えるために港から約300メートルのところにある自宅に引き返した。2階の窓から外を見ると、「真っ黒な波が渦を巻いて迫ってきた」。 みるみるうちに2階まで浸水。倒れて浮いていたたんすの背に必死にしがみついた。そのまま天井まで約30センチのところまで浮き上がると、「バキバキ」と音をたてて家が回転し、突然、大きな衝撃音と共に屋根が吹き飛び視界が開けた。たんすの上に乗ったまま沖に向かって流されていた。 日が暮れ始めたころ、「多賀丸」という船名の小型船が通った。「助けてくれー」と叫んだが、コンテナや民家、木とあらゆるものが海に漂っており、「無理だ」という船長の声が聞こえた。「このまま沖に流されたら終わりだ」と絶望的になった。 だが約1時間後、多賀丸は引き返し、ロープを使って救助してくれた。「信じられない。助かった」。涙をボロボロと流し、何度も「ありがとうございます」と繰り返すと、船長はただ黙ってうなずいていた。 そのまま一晩を船上で過ごした金野さん。夜は一睡もできず、落ち込んでいた。「命があるだけでいいんだ」「またやり直せばいい」。船長は金野さんを励ましてくれた。 12日夕、金野さんは別の漁船に移り、大船渡湾の東側に上陸。数時間歩いて公民館にたどり着き、避難していた家族3人と抱き合い無事を喜んだ。「助かったのは奇跡。家族と頑張って、一から生きていきたい」【鈴木一生、山本将克】

 


 

大船渡 津波の高さ23m超に  大船渡市 綾里

3月29日 19時26分   NHK

 

東北の沿岸を襲った大津波で、岩手県大船渡市の綾里地区では、陸地を駆け上がった津波の高さが23.2メートルに達していたことが専門家の調査で分かりました。横浜国立大学と東京大学の研究グループは、過去の津波災害で局地的に津波が高くなったことで知られる大船渡市三陸町の綾里地区を調査しました。調査の結果、綾里湾の奥の海岸付近では高さ20メートルを超える津波の痕跡があり、海岸近くにあった防潮堤は大部分が破壊されていました。また、湾の奥の陸地では、住民の話や打ち上げられた木材などから、津波は海岸から450メートルほど離れた水田付近にまで達し、23.2メートルの高さにまで駆け上がっていたことが分かりました。同じ地域では、別の専門家グループが行った調査で、津波が23.6メートルまで駆け上がったとみられるという調査結果が出ていましたが、今回は、海からの距離や高さをより正確に測量したということです。近くに住む熊谷サワエさん(86)は「昭和8年の昭和三陸地震のときとほぼ同じ場所まで津波が押し寄せていた。ゴーッというすごい音がして恐ろしかった」と話していました。調査に当たった横浜国立大学大学院の佐々木淳教授は「綾里湾は、湾の奥が狭くなっていて津波が集まりやすく、高く駆け上がったとみられるが、今回の津波が非常に大きかったことを示す調査結果だ」と話しています。

 


 

38.2メートル大津波の教訓生かす 大船渡・綾里 白浜地区

2011年03月27日日曜日 河北

25メートル前後の津波が到達した大船渡市の綾里白浜地区。防潮堤が破壊され、陸地に飛ばされた

明治三陸大津波(1896年)で国内観測史上最高の38.2メートルの津波を記録した大船渡市綾里白浜。東日本大震災でも25メートル前後の津波が押し寄せたとみられるが、地区住民のほとんどが過去の教訓を生かして高台に住み、被害を免れた。 綾里白浜が湾奥部にある綾里湾はV字形の湾。外洋に面した湾の入り口の幅は約4キロあるが、湾奥部は500メートルに狭まっている。津波が奥に入り込むにつれてエネルギーと水かさも凝縮されるため、津波が強大化する。 住民の話や流された漁具などの形跡から判断すると、震災での津波は海岸から水田を駆け上がった後、水田と約3メートル上にある県道との間ののり面にぶつかり、収まった。県道は標高30メートル前後を通っていることから、津波は25メートル前後まで到達していたと推測できる。 小学生の時に昭和三陸津波(1933年)を体験した熊谷サワイさん(85)は「昭和三陸津波とほぼ同じ場所まで波が上がった。怖くて、家が流された70年以上も前の記憶がよみがえった」と語る。 威力も壮絶だった。湾内に沈められた約3メートルの巨大な消波ブロックが浜辺に打ち上げられた。浜辺を囲んだ高さ約3メートル、幅約1メートルの分厚いコンクリートの防潮堤は20以上に細切れにされ、200メートルほど吹き飛ばされていた。 だが、約60世帯が住む綾里白浜地区は家屋の浸水さえなく、人的被害はゼロ。昭和三陸津波の後、住民は津波の到達点より高い場所に自宅を再建した。世代が代わっても津波が通る経路や到達点が語り継がれ、地区全体で昭和三陸津波クラスの津波に備えていたという。 昭和三陸津波で親族が犠牲になった沢武雄さん(76)は「今回の津波は昭和よりもずっと大きかった。分厚い防潮堤が津波の力を弱めたはずだ。それがなかったら、被害が出ていたかもしれない」と冷静に分析した。(中村洋介)

 


 

 首相に集団移転の支援要請…岩手・大船渡市長

2011年3月27日10時15分  読売新聞

 

 東日本巨大地震による津波で壊滅的被害を受けた岩手県大船渡市の戸田公明(きみあき)市長は26日、菅首相と同日午後に電話で会談し、高台に新築する住宅への集団移転に対する公的支援を要請したことを明らかにした。 戸田市長によると、会談は約6分間行われ、木造住宅を高台に建て、津波で被災した土地を市が買い入れる案を検討中であることなどを伝え、財政支援を要請した。菅首相は「新しい法律を作り、国を挙げて支援することを検討したい」と答えたという。 また、岩手県山田町の沼崎喜一町長も同日、菅首相と電話で会談し、被害状況などを報告するとともに、「今後の町づくりにつながる復興策を充実させてほしい」と求めた。菅首相は「国として精いっぱい支援するのでがんばってほしい」と激励した。

 


被災水産物など埋設 大船渡市、最大1万5千トン

2011/04/03 岩手

    

 大船渡市は2日、東日本大震災で津波被害を受けた業者の冷蔵倉庫内の水産物などを一般廃棄物として地中埋設することを明らかにした。市の全額負担で埋設作業は3日から開始する予定。処分量は最大約1万5千トンに上る見通しだ。 市農林水産部によると、埋設するのは水産、食品加工会社合わせて22業者のサケ、サンマ、イサダ、イカ、鶏肉など。損害額は明らかになっていない。 末崎町、大船渡町、赤崎町にある業者所有地や県、市有地の計約1万2千平方メートルに埋設する。重機などで掘削後、腐敗を防ぐEM菌などを散布しながら1メートル以上の土砂で覆う。 処理は大船渡湾冷凍水産加工業協同組合に委託。重機や搬送用トラックの使用料などを含めた総事業費約5千万円は市が負担する。

 


東日本大震災:娘が好きだった海、恨めない 姿追う家族−−岩手・大船渡

毎日新聞 2011年4月4日 東京夕刊

 

 東日本大震災で、岩手県大船渡市にキャンパスがある北里大海洋生命科学部で、ただ一人行方不明となっている瀬尾佳苗さんを東京の家族が捜している。生き物が大好きで、同学部への進学を決めた佳苗さん。大津波があったのがうそのように穏やかな三陸の青い海を前に、両親は「娘が大好きだった海。恨むことはできない」とたたずんだ。4日は佳苗さんの21歳の誕生日だ。【佐藤敬一、蒔田備憲】

 

 3日、津波で一帯ががれきの山となった大船渡市三陸町越喜来(おきらい)に、娘を捜して歩く父真治さん(56)、母裕美さん(52)、兄亮介さん(23)の姿があった。震災後、大船渡を訪れたのは2回目になる。 同学部は2年生から、相模原市から大船渡市にキャンパスが移る。「海のそばがいい」と佳苗さんが昨春決めたアパートは、今は跡形もなく土台が残るだけ。「どうしてもまずここに来てしまう」と真治さん。裕美さんが「何にもないんだね」とつぶやいた。 佳苗さんは東京農大一高在学時、馬術部に所属。毎朝4時に起き馬の世話をした。将来は生き物にかかわる仕事に就きたいと考えた。リアス式海岸が広がるキャンパスを見て、北里大進学を決めた。 将来の夢は水族館職員。大学では生物部と茶道部に所属した。裕美さんは「『漁師のおじさんが魚をくれた』なんて話をしたり、『自分に合っている街』というほど三陸を気に入っていた」と語る。真治さんも「帰省してもすぐ三陸に帰りたがっていた」と話す。 大震災発生5日後の16日夜。ようやく大船渡市に入った両親は、変わり果てた海辺の街に息をのんだ。避難所などを2日間歩き回ったが、佳苗さんは見つからない。娘が乗っていた車がボロボロになって発見され、真治さんは足が震えた。財布は拾得物として交番に届けられ、真治さんと裕美さんが2日、がれきと化した街中でスノーボードも見つけた。 「好きな魚の勉強をしたくて大船渡に行った娘の将来に期待していた。佳苗の使っていた物が一つでも出てくれば。本人がひょこっと出てきてくれると一番いいけれど」と真治さん。裕美さんは言う。「1%の確率であっても、娘を連れて帰りたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大船渡市 三陸町 吉浜

 

 東日本大震災:祖先の教訓、集落救った 高台移転で無傷 大船渡 市三陸町 吉浜

 毎日新聞 2011年4月5日 12時24分

 

 

東日本大震災の大津波により壊滅的な被害を受けた岩手県沿岸部で、過去の津波被害の教訓から高地に移転し、今回は難を逃れた集落がある。釜石市唐丹(とうに)町本郷と、大船渡市三陸町吉浜の2集落。本郷地区は道路を挟んだ上下で「明暗」がはっきり分かれた。防災の専門家は「被災地の復興策として高地移転を進めるべきだ」と指摘する。 ・・・

吉浜地区も明治三陸地震津波の後に約50戸が海抜20メートル以上の場所に移転。今回、元々集落があった水田地帯は水没したが、家屋は全壊が1戸だけで、死者も1人だった。

 

 

 


刺し網漁、浜に活気 大船渡、避難所へメバル提供  大船渡市 三陸町 吉浜

(2011/04/01) 岩手

    

 東日本大震災の津波で甚大な漁業被害を受けた大船渡市三陸町吉浜の吉浜漁協青年部(小坪智幸会長)は31日、吉浜湾沖で震災後初の刺し網漁を行った。久々の漁に浜は活気づき、メバルが越喜来地区の避難所に届けられた。吉浜地区は養殖施設が全滅し、残った船もわずか。復興への道のりは厳しいが、浜人が一歩を踏み出した。 「緊張する」。小坪会長がつぶやく。青年部の漁業者6人が、津波被害を免れた2隻で根白漁港から出漁。漁港内には沈没船や流された漁具がある。慎重に操船し、海に前日入れた刺し網を目指した。 約2時間後、船は千歳漁港に入った。メバルなど約100キロを水揚げ。付近の住民約30人が網から外す作業に励む。震災から20日ぶりの浜仕事。漁業者の表情が柔らかくなる。 浜で下処理したメバルは、隣の越喜来地区の避難所へ。旧花菱縫製に避難する及川克美さん(62)は「ここは浜で育った人ばかりだから、魚が食べられるのは本当にうれしい」と喜ぶ。 小坪会長は「おっかなびっくりの漁だったけど、魚いたなあ。これくらい捕れれば大丈夫だ」と胸をなで下ろす。一方で「今日は試験的な漁。まだまだ時間は掛かる」と現実を見据える。 吉浜地区に約300隻あった漁船で残ったのは10隻もない。漁港や漁業関連施設も壊れた。 漁に出た吉田友成さん(35)は「やはり海に出るのはいいし、復興に向けたきっかけにもなった。できるだけ早い漁港整備など復旧支援をお願いしたい」としている。


 

漁師の伊藤さん、被災後初出漁 「第一歩、水揚げまずまず 大船渡市 三陸町 吉浜

 2011年04月02日土曜日 河北

震災後初めての漁で、まずまずの水揚げに喜ぶ伊藤さん 

 大船渡市三陸町吉浜の漁師伊藤久直さん(65)が1日朝、所有する「喜福丸」で根白漁港から東日本大震災後初めて刺し網漁に出た。水揚げはメバルを中心にソイ、タナゴ、ドンコなど700匹以上とまずまず。伊藤さんは「魚が捕れるかどうか心配したが、根魚はいる」と手応えを示した。 吉浜地区はサッパ舟を含む漁船計約300隻のほとんどが津波にさらわれ、残ったのはわずか11隻。主力のワカメやホタテの養殖棚計460基は全滅した。伊藤さんも13基失った。 伊藤さんによると、海は定置網のいかりが切れ、流された養殖棚が絡み合う。漂流物があちこちで固まり、船の行く手を妨げるという。残骸の撤去、堤防の修復、船の確保、養殖施設の設置といった再生の道のりは険しそうだ。 収入を得るまではワカメで1年、ホタテで3年かかる。伊藤さんは「この1年は漁船漁業をやるしかないが、市場などが被災し魚を捕ってもさばけない」と苦慮する。 今後は生命保険の解約や経費削減をしながら、独自に魚の販路開拓などに取り組むという。 1日に捕った魚は吉浜地区に避難する被災者らに提供した。「再生に向けた第一歩。漁師が海を放棄したら、何にもならない。困難に立ち向かう姿勢を若い世代に示したい」と力を込めた。(坂井直人)

 


被災地発:老朽化した湾口防波堤が壊れた大船渡市

2011/04/05  kenplatz

 

大船渡湾の湾口防波堤は、1960年のチリ地震津波での被害を契機に旧運輸省(現在の国土交通省)が直轄事業として整備した。4年間の年月と19億円の事業費をかけて66年に完成したものだ。国内で初めての湾口防波堤だった。  ところが、完成後40年以上が経過し、基礎地盤の沈下や構造物の損傷などの老朽化が目立っていた。以前から大船渡市などは国交省に対し、湾口防波堤の早期改修を求めていた。国交省は2010年8月、大船渡港を「重点港湾」に指定。国費が優先配分される11年度に入る矢先に震災が発生した。

 


大船渡・吉浜湾/「明治三陸」で被害、高台に集団移住

2011年04月10日 河北

 

 大船渡市の吉浜湾は、ほかの三陸海岸の湾とは風景が異なる。中心集落があるはずの湾奥部の低地には家屋がなく、水田が広がる。中心となる集落の家屋約100世帯は海抜20〜30メートル前後の県道沿いに並ぶ。 「吉浜では海辺の低地に家を建てないことが常識。親から言い伝えられて守った教訓というよりも常識なんだ」 消防団員の新沼公晴さん(47)は県道に立ち、双眼鏡で潮位を観測しながら何度も強調した。 今回の震災で、吉浜湾には10メートル前後の津波が襲来。戦後に低地に建った民宿など2軒が流され、海辺で作業をしていた男性1人が行方不明になった。ただ、津波は集落深くには達せず、県道で止まった。 100年以上前、吉浜湾でも湾奥部の低地に中心集落があったが、1896年の明治三陸大津波で壊滅。死者、行方不明者は200人を超えた。当時の村長は高台へ家を再建するよう指示した。 

 

津波が到達しなかった地点には、村の下方を意味する「下通り(しもどおり)」という道が造られた。それが今に残る県道だ。 家を再建する場所は下通りを目安とし、その周辺とされた。多くの住民が高台に移住したが、低地に住み続ける住民も少なくなかった。 村を襲った1933年の昭和三陸津波で、下通り周辺の住民は助かったが、低地の住民が被害に遭い、17人の死者、行方不明者を出した。 当時の吉浜村の柏崎丑太郎(うしたろう)村長は私財に加え、銀行から調達した資金で下通り周辺の土地を購入。村が移住先を用意すると、数年間で高台への集団移住が完了した。 柏崎村長の孫のナカさん(97)は今でも、祖父の話を覚えている。 「おじいさんは『ただ呼び掛けるだけでは移住しない住民が必ずいて、また同じことが起きる。村が強引にでも移住させる方法を考えた』と、昔話を聞かせてくれた」 道沿いには高さ2.5メートルの巨大な石碑が立ち、明治三陸大津波の犠牲者の全氏名が彫られている。津波の恐ろしさが住民の心に刻まれ続け、ほとんどの住民は今でも下通り周辺の高台に住む。 「おじいさんも苦労が少しは報われたと思っているはず」。ナカさんはそう語った。(中村洋介、山口達也)

 

 住民が明治時代から高台移住を続けた吉浜湾=6日、大船渡市

 


3度目の津波被災「でも故郷離れたくない」

毎日新聞 2011年4月19日 11時17分

 

岩手県大船渡市盛町の佐々木ヤエ子さん(86)は、東日本大震災の津波で自宅が浸水する被害を受けた。昭和三陸大津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)に続く人生で3度目の津波被災。避難所を離れ約40日ぶりに自宅に戻った佐々木さんは「生まれ故郷だもの。離れたくない」とこの地に暮らし続ける。 3月11日、遅い昼食に天ぷらを揚げようと鍋を火にかけたとき、大きな横揺れに襲われた。火を消してあわてて玄関に出たが、戸も大きく揺れ「どこもすがるとこさなかった」。同居の次男勝嘉さん(56)の車で高台に避難したが家は津波に襲われ、家電はすべて水浸しに。屋根瓦も割れて、近くの公民館で避難生活を送った。 昭和三陸大津波のときは小学生。雪の中を草履で逃げた。チリ地震津波のときは、生まれたばかりの長女を背負い、夫と一緒に勝嘉さんら3人の息子の手を引いて必死に高台を駆け上った。 今回、街は強大な防波堤で囲まれており「津波は来ないと思っていた」。しかし、その防波堤も破壊され「もしまた津波が来たらと思うと恐ろしい」と不安を隠さない。 それでも16日に自宅に戻り、新しい畳の敷かれた居間でこたつに入ったヤエ子さん。震災のショックのあまり右耳が遠くなったが、勝嘉さんが買ってきた補聴器を付け「ああ、よく聞こえる」と笑顔を見せた。家の近くの畑の野菜は流されたが、ホウレンソウなどの種を買ってきた。「また畑やる気いっぱいなの。無農薬。おいしいよ」【徳野仁子】

補聴器をつけ「よく聞こえる」と顔をほころばせる佐々木ヤエ子さん=岩手県大船渡市で徳野仁子撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道

三沢市

おいらせ町

八戸市

階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

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 おいらせ町

八戸市

 階上町

洋野町

久慈市

野田村

普代村

田野畑村

岩泉町

宮古市

山田町

大槌町

釜石市

大船渡市

陸前高田市

  

  

陸前高田市

23,197人(推計人口、2011年1月1日)

岩手県内で最大の犠牲者を出した街

役所:海岸から 700m  戸籍などの書類が流失

陸前高田市で894人  / 3月25日

津波 23m  3階建て役所全壊 屋上は無事

3,600戸全壊

市内ほぼ壊滅  市内の約8割が水没

www.city.rikuzentakata.iwate.jp/  (2011.03.26 不通) 〜 津波被害により、陸前高田市のサーバーがダウンしている状態が約1か月続きました

行方不明 1300人 3月30日現在 TV朝日
死者 1094  行方不明 1277  避難者 13474  家屋被害 3600  4月03日現在 (県と県警まとめ)
死者 1137  行方不明 1231  避難者 15507  家屋被害 3600  4月04日現在 (県と県警まとめ)
死者 1162  行方不明 1212  避難者 16611  家屋被害 3600  4月06日現在 (県と県警まとめ)
死者 1211  行方不明 1177  避難者 16579  家屋被害 3600  4月10日現在 (県と県警まとめ)
死者 1256  行方不明 1203  避難者 16579  家屋被害 3600  4月18日現在 (県と県警まとめ)
死者 1429  行方不明 772   避難者           家屋被害          4月29日現在 (県と県警まとめ)

 

3月11日に発生した東日本大震災は、観測史上最大のマグニチュード9.0の大地震と、市役所屋上にまで達する大津波を引き起こし、多数の死者・行方不明者を出す未曾有の大惨事となりました。  この大震災によって尊い命を亡くされた方、ご遺族の皆様に心からお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆様にお見舞いを申し上げます。陸前高田市といたしましても、関係機関の皆様、そして国内はもとより世界各国の方々のご支援をいただきながら、1日も早い復興に向け全力を挙げてまい進する所存でございますので、今後とも変わらぬご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。  2011 平成23年4月 陸前高田市長  戸羽 太

 

 

本市は、岩手県沿岸の南部、陸中海岸国立公園内に位置し、白砂青松の高田松原や気仙川など、海・山・川の豊かな自然と、気仙大工左官に代表される伝統の技、歴史的文化遺産に恵まれたまちであります。 昭和30年1月に市制を施行した本市では、チリ地震津波の被災など幾多の困難を乗り越えながら、農林水産業を中心とした一次産業、そして恵まれた自然環境を活かして着実な発展を遂げて参りました。 しかしながら、人口減少や少子高齢化、基幹産業における後継者不足、内陸部との地域格差の拡大など、時代は大きな変革期を迎えております。 このような情勢の中、本市では平成18年に「陸前高田市総合計画後期基本計画」を策定し、「健康」「環境」「創造」の3つをキーワードに、「健康で文化の薫る海浜・交流都市」の実現に向けて、市民一丸となって取り組んでおります。 このホームページをご覧いただいた皆様が、本市にお越しいただき、本市の恵まれた風土や暖かい人情に触れ合っていただけますよう、心よりお待ちしております。    2008  陸前高田市長  中里 長門

 

   

 

 

陸前高田市役所も3階付近まで浸水

 

 

 

   2010/10/16

    

 

撮影日時    2011/03/17 13:33  陸前高田市街(市街地は入れないので望遠で撮影)

 

 

気仙川の左岸から気仙大橋を見る。橋桁は完全に流失し、橋脚だけが残っている。橋台の裏込め土も流された

気仙大橋より上流に架かる姉歯橋も落橋した

  2011/03/12 12:23

             

 

 

 

陸前高田市  米崎町

 

 

 

壊滅状態の岩手県陸前高田市で240人の無事を確認

2011年3月12日7時12分 朝日

 

岩手県災害対策本部によると、壊滅状態と伝えられる陸前高田市では、市中心部から周辺にかけ、広い範囲でかなりの家屋などが被害を受けていることが、県警のヘリなどで確認された。市民のうち、無事が確認されているのは240人で、そのうち40人は横田町コミュニティーセンター、100人は県立高田高校、残る100人は市役所の庁舎か県立病院の屋上に避難している模様だ。市役所とは連絡がとれない状況が続いているという。  陸上自衛隊が午前7時ごろにも、被災地に入る見込みという。

スーパーの屋上に取り残された人を救出するヘリコプター=12日午前7時34分、岩手県陸前高田市、朝日新聞社機から、樫山晃生撮影


 

「死者把握できない」陸前高田市、庁舎は壊滅

 2011年3月12日 22:01  スポニチ

 

 津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市は12日、市内の小中学校など14カ所に約5900人が避難していることを明らかにした。同市の人口は約2万3000人。高台や市外の知人宅などに身を寄せている人もいるとみられるが、市災害対策本部は「複数の死者がいるとみられる。把握できていない」としている。 陸前高田市は12日昼すぎ、津波の被害を受けて機能停止に陥った市役所に代わって、高台にある市給食センターに災害対策本部を移して、被害の確認を始めた。 市役所は津波で庁舎最上階の3階部分まで水に漬かり、電話や電気も通じない状態になった。市役所屋上などに避難した市民は同日、ヘリコプターで救助されたという。

 


 

陸前高田で116遺体発見 がれきと泥「捜索困難」

2011/03/13 20:10   共同通信

 

 岩手県陸前高田市では13日、陸上自衛隊や山形、埼玉、福井3県の消防、大阪府警などが、行方不明者の捜索などを続けた。現地の陸自によると、同日夕までに116人の遺体を発見。 陸自は680人態勢で、津波が引いた後の12日から市中心部の高田地区を捜索。病院や市民体育館で複数の遺体が見つかった。ある隊員は「がれきに泥が混じり、捜索が困難な現場になっている」と話した。 市によると、避難所には市の人口の約3分の1に当たる約8200人が避難。市内全域で携帯電話が全く通じず、行方不明の親族らを心配した人が避難所を捜し回る姿も見られた。

 

 


 

景勝地 廃墟と化す 被災地ルポ-陸前高田市- 

03/15 岩手日日新聞

 

巨大地震による大津波で全域が壊滅的被害を受けた陸前高田市。がれきの山の間に通った1本の復旧道路を進むと、一面廃虚と化した市街地に着いた。想像を絶する自然の脅威−。緑豊かな沿岸の景勝地は一夜にして“泥の荒野”に変わっていた。 本紙記者2人は14日午前、国道343号から同市矢作町に入った。津波は高田松原から10キロ離れた地域まで押し寄せ、家屋や田畑を次々にのみ込んだ。市街地方面、竹駒町に進むにつれて被害はさらに深刻化。信じられない、いや信じたくない光景が広がり、車内で2人とも言葉を失った。 車を止め徒歩で中心部に向かう途中、「5メートルの潮位変化を観測」と一報が入り、警察官から即時避難を命じられた。約40分後誤報と判明したが、走って逃げる際は生きた心地がしなかった。その後、全域を撮影しようと高台へと車を走らせたが、路面の亀裂や落石を発見し、やむなく途中で引き返した。 高田一中付近では重機によるがれきの撤去作業が始まり、遺体の収容も行われていた。同校の高台から見下ろすと、市街地の中で残っている建物はホテルや公共施設などごく一部。高田松原、海水浴場、道の駅など慣れ親しんだ市街地の風景は跡形もなく消え去り、1000年に1度とも言われる大津波を前にした人間の無力さを痛感した。 避難所の外では、NTTが臨時衛星電話を提供し、家族の無事を知らせる被災者、市民が長蛇の列をつくっていた。人々は避難者名簿で安否情報を確認し、中には涙を流す人の姿も見られた。 この日、取材した方々は身内や近所の人を亡くすか、行方不明の方ばかり。悲しい気持ちをこらえて取材に応じていただいたことに深く感謝したい。筆者の1人はいとこと叔母の安否が不明だが、同様に多くの方の行方が分かっていない。不明者の早期の無事発見を祈らずにはいられない。(千厩支局長・伊藤正幸、報道部・伊藤稔)

 

家も家族も…悲痛な叫び

 陸前高田市の津波被害は市内全域に及び、多くの市民から行方不明となっている家族や親戚への悲痛な声が聞かれた。 気仙川と矢作川が合流し、高田松原から内陸10キロの矢作町内にも被害が及んだ。同町に実家のある男性(60)=横田町=は「市職員の30代のおいが高田町内の市民会館にいたはずだが、いなくなった。実家もなくなってしまった」と肩を落とし、駆け付けた女性(60)=一関市大東町摺沢=も「高田町内で義姉が米屋をしているが、絶望的と言われ自宅も流された。天災とはいえ…」と涙をこらえた。 高台にある竹駒町の竹駒神社付近の集落でも、発生時間帯が日中だったことで市街地に出掛けた地区民の犠牲者や行方不明者が続出。同集落の女性(55)は「78歳の母が美容院に出掛けたまま帰って来ない。同じような人が地区内にいっぱいいる。隣の市役所職員の男性(50代)も遺体で上がった」と不安げなよう。地区内の別の女性たちも「みんな苦しい。生きて帰って来てくれれば」「津波で流されるのを見て助けることもできない。一家で亡くなった方もいる」と、沈痛な面持ちで口にした。 避難場所の高田一中でNTT東日本の臨時衛星電話に並んだ男性(42)は「気仙沼にいる婚約者に、とにかく無事と伝えたい」と語ったが、母(68)とめい(4)はまだ行方不明。「(自身の)避難はできたが、自宅も全壊で何も残っていない」と、やるせない心境を吐露した。 このほか「復興には何十年とかかる」「若い人が亡くなっているのが心配」「携帯電話もつながらず、ガソリンも電気も食料もない」「電池がもったいなく、ラジオも聴けない」などの嘆きも。花壇に挿してあるソーラーライトを、懐中電灯代わりに使用する住民も見られた。

 


 

津波研究者、九死に一生 大船渡の山下さん

2011/03/17 岩手日報

 

「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者、山下文男さん(87)は陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。 「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」 家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。映像で何度も見たインドネシアのスマトラ沖地震津波と同じだった。 ドドーン―。ごう音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またもごう音とともに波が引き、何とか助かった。 海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。 「こう話していると生きている実感が湧いてくる」と山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」 「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。人に構わず必死で逃げろ―と山下さんが何度も訴え全国的に広まった言葉だ。

 

 9歳だった1933(昭和8)年、昭和三陸大津波を経験したが「今回ははるかに大きい。津波防災で検討すべき課題はたくさんある」と語る。特に、もろくも崩れた大船渡市の湾口防波堤について「海を汚染するだけで、いざというときに役に立たないことが証明された」と主張する。 同市の湾口防波堤は60年のチリ地震津波での大被害を受けて数年後に国内で初めて造られた。「津波はめったに来ないから軽視されるが、いざ来ると慌てて対応する。それではいけない。世界の研究者でじっくり津波防災の在り方を検証すべきだ」と提言する。その上で「ハード整備には限界がある。義務教育の中に盛り込むなど不断の防災教育が絶対に必要だ」とも語る。 1896(明治29)年の明治三陸大津波で祖母を失った。今回の津波で綾里の自宅は半壊。連絡は取れていないが、妻タキさん(87)は無事だった。「復興に向けて立ち上がってほしい」。最後の言葉に将来への希望を託した。

 


一時は死を覚悟…被災の全盲女性、避難生活も「生きる」決意  陸前高田市

2011.03.18  zakzak

 

津波で岩手県陸前高田市の自宅が流された、全盲の吉田千寿子さん(75)。一度は死を覚悟したが、同じ境遇の人たちと強く生きようと決めた。 1人でこたつに入っていた。激しい揺れの直後。人々の叫び声、砂ぼこりの臭い…。「何も見えない」。不意に「自分がいたら迷惑がかかる。このまま死のう」と考えた。しかし、「家がつぶれたら捜索でもっと手間をかけさせてしまう」と思い直し、外に出た。 「ほらほら、早く逃げてー」「ママー、ママー」。足音、猛スピードの車の音、クラクション。激しい音が次々と耳に飛び込む中、向かいの友人に手を引かれて走った。後ろから「バリバリ」という音が近づく。砂ぼこりで息もできない。津波に追いつかれて足元が水につかったとき、避難所となった寺の山門に着いた。 同居の娘(45)と翌日合流。寺には地元の約40人。吉田さんは約10年前、緑内障で全盲に。「目が見えない分、人の好意をありがたく感じる」。生まれ育った町は跡形もないが、「きっと神様が何かの役に立つと思って生かしてくれた。生きるだけ生きようと思う。私は幸せ」と話す。

 


 

東日本大震災:「夜警団」が活動開始 岩手・陸前高田

毎日新聞 2011年3月18日 10時29分(最終更新 3月18日 10時45分)

 

約200世帯のうち半数が津波に流された岩手県陸前高田市の広田町泊地区で、被災者による「夜警団」が活動を始めている。住民が2人1組で懐中電灯を手に地区内を歩き、不審者に目を光らせている。 泊地区にある広田漁港の背に広がる中組集落。1晩1回午後8時から、約1.5キロを30分かけて巡回している。17日の当番は、避難所になった慈恩寺に身を寄せる菅野千春さん(62)と菊地兼さん(34)。月明かりの下、がれきの山や住民がいない家屋を懐中電灯で照らして回った。 停電が続く集落では車のライトがまぶしく、近くまで寄らないと誰だか確認できない。約30分間の巡回中、車4台とすれ違ったが、確認できたのは自衛隊と市役所の2台だった。菅野さんは「顔見知りも知らない人もいるが、疑ったら切りがない。巡回するだけで役立つはず」と話す。

 

 泊地区とその周辺からは、津波に流された軽自動車からガソリンが抜き取られるなど、放置された物品が盗まれているという話が発生2日目から伝わってきた。被災した住宅の敷地に入り込み、草刈り機やプロパンガスボンベ、家庭用タンク内の灯油などを盗む例もあったという。 そのため、地区の自主防災対策委員長を務める菅野徳一さん(66)の提案で夜警が始まった。無断持ち出しを見つけても警告する程度だが、徳一さんは夜警団の活動が少しでも防犯につながればいいと願う。「盗むというより拾うという意識なのかもしれない。同じ被災者だとしたら寂しい」と漏らした。【狩野智彦】

 

 


 

岩手・陸前高田市で仮設住宅の建設開始へ

< 2011年3月18日 16:35 >日テレ

 

東日本大地震で大きな被害を受けた岩手・陸前高田市で、19日から仮設住宅の建設が始まる。来月初めまでには建物が完成する予定だという。 岩手県から仮設住宅用の土地の準備が整ったとの連絡を受けて、国交省は、19日から陸前高田市の高田第一中学校のグラウンドで約200戸の仮設住宅の建設を始めると発表した。まずは、建設資材の整った36戸分を建て、来月初めには完成するという。入居については今後、県が調整を行う。 被災した岩手・宮城・福島の3県が建設を求めている仮設住宅の戸数は、現在までで約3万2800戸に上る。 福島県についても、相馬市などで仮設住宅のための土地を確保でき次第、建設工事を始めるという。

 


 

 陸前高田市の仮庁舎開所 給食センター北側

2011/03/21 岩手日報

    

 陸前高田市は20日、同市高田町の市学校給食センター北側に市役所仮庁舎を開設した。ほぼ全壊の被害を受けた市役所庁舎の機能を代替する。 仮庁舎は1階建てのプレハブ6棟を連結した事務棟と市民待合室で構成。当面は死亡届の受理や埋火葬許可証などの交付作業に事務を特化し、順次、取り扱い事務を広げる。 震災以来、市災害対策本部を置く給食センターで市の諸事務を行ってきたが、スペースが手狭になり、事務量も増えていることから、市民対応専門の窓口として仮庁舎を設けることを決めた。 震災により、市職員296人のうち約80人が行方不明になり、死亡が確認された人もいる。市は国や県から応援を受け人員を確保、市役所機能を回復させる方針だ。 戸羽太市長は「人員、サービスの幅ともに徐々に増強・拡大し、復興への体制づくりを進める」としている。

 


大船渡の津波、23.6メートル

2011年03月24日 河北

 東日本大震災の津波の高さが、岩手県大船渡市で23.6メートルに達していたことが23日、港湾空港技術研究所(神奈川県横須賀市)の現地調査で分かった。1933年の昭和三陸地震津波で観測された大船渡市の最大28.7メートルにほぼ匹敵する規模。国内観測史上最大は、明治三陸地震津波(1896年)の38.2メートルとされる。

 


 

東日本大震災:「必ず帰ってくる」米国人婚約者が不明

2011年3月24日 12時17分 mainichi.jp/life/kirei

 

岩手県陸前高田市の小、中学校で英語を教えるALT(外国語指導助手)だった米国人、モンティ・ディクソンさん(26)が行方不明になり、婚約者の渡部直子さん(36)=山形県天童市=が捜している。渡部さんは「きっと無事でいるはず」と信じている。 渡部さんは留学先のアラスカ大で、ディクソンさんと知り合った。09年夏、ディクソンさんは「日本の子どもたちに英語を教えたい」と来日しALTとなった。市教委学校教育課の菅野義則さんは「子どもとのコミュニケーションのうまさや熱心さ、日本語の能力、どれも最高」と話す。 11日は午前の授業を終え、市教委がある市民会館に戻っていた。突然強い揺れがあり、職員らとともに屋外の公園に避難したが、その後は津波から逃れようと各自バラバラになった。間もなく津波が押し寄せ、市民会館や市役所はあっという間にのみ込まれた。渡部さんはディクソンさんの携帯電話を鳴らし続けた。何十回目かのコールで、ようやくつながった。「今どこ?」「市役所に避難した」 そんな短いやり取りが最後だった。電話の向こうからはサイレン音が聞こえた。約1週間後、陸前高田市を訪れ避難所の名簿を繰ったが、名前は見つからなかった。 ディクソンさんは日本か米国の大学で教員になるのが夢だった。 「もし米国に行く時には、ついてきてくれる?」。ふだんの会話の中で何気なく聞かれ、渡部さんはいつも「うん」と答えていた。 渡部さんは「いつも人の気持ちを考え、前向きに取り組む人。日本が大好きだった彼は、必ず帰ってくる」とフィアンセを待ち続けている。【佐々木洋、谷口拓未】

昨年5月、岩手県大船渡市末崎町の碁石海岸でデートするディクソンさん(左)と渡部さん=渡部さん提供

 


 

【陸前高田】強く叫んでいれば… 消えぬ自責の念

2011.3.25 岩手日報

 

小さな亡きがらを抱きしめ、小島幸久さん(39)=陸前高田市高田町=は泣いた。最愛の一人娘、千空(ちひろ)さん(7)、妻紀子さん(38)をはじめ、父も母も全て東日本大震災の大津波に奪われた。消防団員として住民の避難誘導を優先し、家族のそばにいられなかった。「強く避難しろと叫んでいれば」。やり場のない自責の思いに押しつぶされそうになる。 被災から7日目の17日午後3時すぎ。陸前高田市高田町で、乗用車から複数の遺体が見つかった。消防団員として住民の捜索活動を進めていた小島さんに知らせが入り、現場に向かった。 自宅から少し離れた場所。物言わぬ千空さん、紀子さん、父捷二さん(69)、母キミさん(62)がいた。近所の2人も一緒だった。 眠っているようにも見えた。目を覚ましてほしい。妻子を抱きかかえたが、全身の力が抜けていった。 高田小1年の千空さんは明るくて負けず嫌い。ダンスが上手で、水泳や生け花も習っていた。「思い出して眠れない」。愛らしい笑顔はもう戻らない。

 

 11日午後2時46分。電気店を経営する小島さんは、自宅から少し離れた住宅新築現場で作業中に大きな揺れを感じ、その場を飛び出した。 津波警報のサイレンが鳴る。消防団活動の準備のためにいったん、自宅に戻った。「2階のテレビは守ったよ」と紀子さん。 「靴下取って」 小島さんはぬれた靴下を交換し、すぐに消防団の持ち場に向かった。紀子さんとの最後の会話になった。 避難所での対応に追われたその夜、家族の消息がつかめなかった。知人からも「見てないぞ」と情報がない。津波に流される自宅は高台から見ていた。まさか。不安に駆られたが、無事を信じて捜索活動に没頭した。 「避難しろ」とは言わなかった。自宅は海岸から約1キロ離れ、裏手はすぐ高台。「ここまで津波が来るなんて…」と自分を責めた。 「近所の一人暮らしのお年寄りも心配で、一緒に乗せたんだろう。もう少し早く家を出ていれば。もう少し、津波が遅ければ。俺がもっと強く避難しろと言えば助かったかもしれない」とうつむく。 小島さんは、大震災から連日、消防団としての責務を果たしている。24日も捜索活動と遺体収容に取り組んだ。「仲間がいるから壊れないでいられる」。はんてん姿の男たちが支え合っている。

 

 


岩手県大船渡市ではオランダから駆けつけた捜索犬による捜索が行われた。嗅ぎつけたポイントには紅白のリボンがかけられ海風に揺られていた。市の関係者によると、こうした場所からこれまで5割程度の確率で遺体が発見されているという=岩手県大船渡市で2011年3月25日午後4時32分、宮間俊樹撮影 毎日


 

高田松原、無残な姿 砂浜も大半が消滅

2011/03/26 岩手日報

 

 陸前高田市高田町の高田松原は、震災により砂浜と松林の大半を失うなど壊滅的被害を受け、多くの人に愛された白砂青松の景勝地はすっかり姿を変えている。 高田松原は国の名勝で、日本百景の一つ。2キロ以上にわたる弓形の砂浜に、防潮と防砂のため江戸時代から植栽を進めてきた数万本のアカマツとクロマツが美林を成し、本県の代表的な観光地の一つとして知られる。 地震と津波で、松林ほぼ全てが根こそぎさらわれたり、根元から折れるなどして流されたのに加え、砂浜も同市を流れる気仙川寄りの一部を残して大半が消滅した。 地震で地盤が沈下した上、津波が砂浜や一帯の土砂を流し去ったためとみられる。高田松原に近い道の駅の裏手付近は地面が崖状に断ち切られ、海水が流れ込んでいる。 同市高田町の中心部には流された松がいたる所に散らばり、行方不明者の捜索活動などを妨げている。

根元から折れ、根こそぎ流されるなどして消えた高田松原の松林。砂浜も大半が姿を消した=陸前高田市高田町の松原大橋付近から撮影

 

 


 

 津波“挟撃”半島分断 陸前高田・広田半島で「水合」

2011年03月29日火曜日 河北

 

東日本大震災で深刻な津波被害を受けた岩手県陸前高田市で、広田半島を隔てた二つの湾に入った津波が陸地で合流して3キロ離れた湾同士がつながり、一時的に半島を分断していた。史上最悪の津波災害とされる明治三陸地震津波(1896年)でも同様の現象が起きた。陸前高田での現象は、東日本大震災の津波が明治三陸津波に匹敵するほどの威力があった可能性があることを示している。 津波が合流した場所は、陸前高田市南東部に突き出た広田半島の小友町地区。広田湾側と只出(ただいで)漁港側の湾との間にあるJR大船渡線周辺の陸地は津波後、ほとんど家屋が無くなり、3キロにわたってがれきが続く。 津波の合流を目撃した複数の住民によると、11日の地震発生後、只出漁港側から高さ3〜5メートルの津波が入り込んだ。その直後、広田湾側からは高さ10メートル前後の津波が到来し、二つの津波が広田半島先端部に通じる県道付近でぶつかり合い、巨大な波しぶきが上がったという。 10〜15分後には、また両方向から津波が押し寄せ、再び合流した。海水が引くまでJR大船渡線周辺の陸地は水路のようになり、広田湾と只出漁港側の湾がつながった。小友地区より先の広田半島は一時的に陸路が寸断された。 高台に逃げて無事だった丹羽五百子(いおこ)さん(71)は「二つの津波が家々をのみ込みながら、表現できないような音を立ててぶつかり合った。現実ではあり得ないことが目の前で起きて、生きた心地がしなかった」と振り返る。 明治三陸地震津波では、大船渡市の綾里(りょうり)半島で2キロ離れた綾里白浜地区と綾里港地区に押し寄せた津波が合流。この時、白浜地区では津波が標高38.2メートル地点まで到達し、国内観測史上最高記録となっている。 当時の津波の合流と湾がつながった現象は綾里地区で「水合(みずあい)」と呼ばれ、今でも明治三陸地震津波の壮絶さを伝える話として語り継がれている。(中村洋介)

 

 

合流した津波のうち、高さ10メートル近い津波が押し寄せた広田湾側

最初の津波が襲来した只出漁港側

 

 


  

いまだに津波で流されたまま海に漂う家=岩手県陸前高田市で2011年3月29日午後5時22分、岩下幸一郎撮影 毎日

新しく取り付けたポンプを使って、地下水をくみあげ顔を洗う佐藤直志さん。息子を亡くし、

遺体が見つかるまでは避難所には行かず、津波を被った自宅で頑張るという=岩手県陸前高田市で2011年3月30日午前6時57分、岩下幸一郎撮影 毎日

 

 


津波も家が欲しかったんだよ

2011.03.30 産経

流された自宅の跡で思い出の物を探す熊谷ひなさん(5)。一番悲しいことは「お家が無くなったこと」だと言うが、「津波も家が欲しかったんだよ」と笑顔で話す姿が、あまりにも痛々しかった =30日午後、岩手県陸前高田市(門井聡撮影)


 

 1階がれき、2階土砂、3階天井に泥 陸前高田のホテル

2011年4月1日18時39分 朝日

 

街全体が津波にのまれた岩手県陸前高田市の沿岸に、7階建てのリゾートホテル「キャピタルホテル1000」が残された。ホテルの許可を得て、内部に入った。  ホテルは外観上は、原形をとどめている。しかし、1階フロント部分は大きく壊れ、がれきで足の踏み場もない。2階の大宴会場にも土砂が流れ込み、非常口のドアは外れていた。3階の客室は津波に運ばれて来たとみられる大量のカキが散乱し、天井まで泥が付着していた。  ところが、4階の客室には浸水した痕跡がない。ベランダに出ると、ガラス製の柵が割れ、一部に海藻が付着していた。5階以上のガラス柵に損傷はなく、海水は4階付近まで押し寄せたと考えられる。地上から15メートル前後の波が押し寄せたと推測できた。 ホテルを経営する第三セクター「陸前高田地域振興」(小山剛令社長)によると、地震発生時、ホテルには宿泊客がいたが、直後にバスで避難し、全員無事だった。しかし、女性社員1人が行方不明のままだという。今後の見通しは全くたっていない。(安倍龍太郎)

外観は原形をとどめている=岩手県陸前高田市、安倍写す

 

 


高台に住み続け全世帯無事 陸前高田

2011/04/03 岩手日報

 

 「おかげさまで、今度も助かりました。でも…」 陸前高田市広田町の集(あつまり)集落に住む伊藤アヤノさん(101)は、深く刻まれたしわに、苦渋の表情を浮かべる。 東日本大震災では、津波がアヤノさん宅の数メートル下まで駆け上がったが、集落の24世帯全てが被害を免れた。 だが、アヤノさんの孫で市農林課職員の啄哉さん(40)は、避難所に指定されていた同市高田町の市民体育館で避難者を誘導中に津波に遭い、帰らぬ人となった。 「息子は、最後まで市職員の職務を全うして死んだ。仕方なかったと思う。だが、なぜ避難所が…。小中学生の子ども3人を残して逝った息子の無念は、どれほどのものだったろうか」 アヤノさんの長男で、啄哉さんの父一夫さん(72)は、痛恨の思いをこらえきれない。

 

 アヤノさんは1933(昭和8)年3月、昭和の大津波で被災した。当時23歳。2歳の娘をおぶったまま津波にのみ込まれたが、たまたま高台に流され九死に一生を得た。 しかし、海岸近くにあった自宅は押し流され、夫と息子2人を含む家族5人を亡くした。 15人の犠牲者を出した集集落は、その後全戸が高台へ移転。60年のチリ地震津波では大きな被害を受けなかったが、地域住民は78年前の教訓を忘れず、高台に住み続けた。 だが、啄哉さんがいた同市高田町は、チリ地震津波で市街地の一部が流されたものの、街中が壊滅状態となった今回のような甚大な津波被害を受けたことはなかった。

 

 一夫さんは「高田町は油断したのだろう。漁のたびに坂道を往復する高台の暮らしは楽ではなかったが、集が犠牲者を出さなかったことで、津波から命を守るには高い所に住むしかないことが証明された」と話す。  街中ががれきの山と化し、ゼロからの復興を目指す陸前高田市。 啄哉さんの母テツ子さん(70)は「どんなに立派な防潮堤を造っても、いつかは越される。息子の無念を晴らすためにも、生き残った人たちは今度こそ高い所に津波に負けない街をつくってほしい」と願う。

【昭和三陸大津波を機に高台に移転し、被害を免れた伊藤アヤノさん方=陸前高田市広田町】

 


陸前高田市 津波の威力は明治三陸大津波をはるかに上回った。

津波の高さ湾の向きで差 東北大講師「相関関係示す典型」

2011年04月04日月曜日

 

広田半島で隔てられている二つの湾から押し寄せた津波が合流し、大きな被害が出た岩手県陸前高田市では、広田湾側から入った津波と、只出(ただいで)漁港側から入った津波の高さが大きく異なっていた。住民らの証言では、広田湾側からの津波は高さ10メートル超に達したのに対し、只出漁港からの津波は3〜5メートル程度。専門家は津波の威力が、震源の位置と湾口の向きによって大きく左右される典型例とみている。 広田湾側と只出漁港側の双方から津波が押し寄せ、合流した陸前高田市小友町地区の新田集落。 町内会長の及川秀七さん(73)は「広田湾も只出漁港も、すぐ隣の湾なのに、それぞれの方向から入ってきた津波は、規模や迫力がまったく違っていた。別の地震の津波のようだった」と証言。広田湾側からの津波は高さ10メートルを超えていたが、只出漁港側からの津波は3メートル程度だったという。 東北大災害制御研究センター非常勤講師の阿部郁男さん(43)は「津波の威力は地震の規模だけではなく、震源と湾口の位置関係で大きく変わり、今回の津波でも、その傾向は顕著だ」と指摘する。 東日本大震災の震源は牡鹿半島東南東の三陸沖で、広田湾からは南東方向。広田湾の湾口はちょうど南東に開いていて、震源からの津波が直接伝わった。一方、只出漁港側は東向きで、津波は広田半島にぶつかり、広田湾の津波よりも小さくなったとみられる。 阿部さんによると、大船渡市綾里白浜地区は明治三陸大津波(1896年)で、国内観測史上最高の波高38.2メートルを記録した。この時の震源は釜石東方の三陸沖で、真東に湾口が開いた綾里湾には津波の威力が減殺されずに達したという。 今回の東日本大震災で綾里白浜地区に到来した津波は25メートル前後。明治三陸大津波を下回り、集落の被害も少なかった。震源の宮城県沖を発した津波の一部が綾里半島に吸収された可能性が大きいという。 阿部さんは「広田湾に限っては、今回の津波の威力は明治三陸大津波をはるかに上回った。震源と湾口の位置関係によって、津波被害の大きさが変わる典型例だ」と話している。

 


陸前高田電気復旧進む

2011年4月4日 夕刊 東京

 

 東日本大震災で二千人を超える死者・行方不明者を出した岩手県陸前高田市で、電気の復旧作業が進む。家や仕事、学校を失った親族八人が肩を寄せ合って暮らす熊谷一隆さん(75)宅に三日夜、発生以来、二十三日ぶりに電灯がともった。 大学三年の熊谷祐太さん(21)と忠博さん(15)の兄弟は、母恵子さん(55)とともに身を寄せる。震災後、高台にあり、無事だった一隆さん宅に避難した。 祐太さんは、就職活動を中断した。忠博さんが今月から通うはずだった県立高田高校は校舎が全壊。母は、勤め先の水産加工会社を津波に流された。一家の将来は見えない。 それでも、若い二人は近くの避難所で、被災者らの支援に汗を流す。ともに「これまで上げ膳(ぜん)据え膳だったから。自分たちが甘えていたんだなって、よく分かった」とたくましく笑う。 ほかの二家族も自宅が全壊し、一隆さんを頼ってきた。カキの養殖を生業としていた一隆さん自身も、船や養殖場を流され、生活の糧を失ったままだ。「助け合える親戚がいることが心の支え。みんなで力を合わせて、何とか、乗り切りたい」と力を込める。 被災地のライフラインは、少しずつだが、復旧が進んでいる。一隆さんら八人はこれまで、明るいうちに食事を済ませ、日暮れとともに眠る生活。震災後、初めて電灯がついた三日夜、八人は久しぶりに夜更かしをした。「電気は本当にありがたいね」。しみじみと語り合った。 (岡村淳司)

 

 


 

信頼された警官、住民誘導中に被災 行方は今も分からず 大船渡署高田幹部交番

2011年4月5日 15時01分 中日新聞

 

 東日本大震災で、岩手県陸前高田市の中心部にあった大船渡署高田幹部交番も津波に流された。3月いっぱいで定年だった同交番所長の高橋俊一さん(60)=警視=の行方は今も分かっていない。弟で大学職員、修三さん(54)は兄の姿を捜し続けている。 「警察官としていつ呼び出されてもいいよう、ずっと酒を控えていた。『退職したら一緒に酒飲むべ』と約束してた」。修三さんは無念そうに語る。 震災直後、勤務先の盛岡市から、俊一さんと両親が暮らす大船渡の実家に駆け付けた。幸い、両親は無事だったが、隣町の交番に勤める俊一さんに、いくらメールを打っても、返信は来ない。 特別奨学生として東京の大学に進学した俊一さんは自慢の兄だった。法律を学び、恩師からも大学に残る道を勧められたが、故郷に戻り、警察官になった。 両親の面倒を見るため、自ら実家近くの勤務を望んだ。「まじめで優しくて。義理人情をわきまえた兄ちゃんだった」 俊一さんが率いた交番は、地域住民と連携した防犯活動が高く評価され、警察庁が選ぶ「全国優秀交番」に輝いたこともある。警官仲間からは、俊一さんは住民の誘導中に「津波にのまれた」のだと聞いた。 地元署や警視庁機動隊も、がれきと泥に埋もれた交番の周辺を捜索している。修三さんも捜し続けるが、兄の姿を二度と目にすることはできないのか。「早く冷たい場所から助け出してあげたい。このままじゃ成仏できない」。修三さんは苦い胸の内を語る。


東日本大震災:漁師の思い、胸打たれ 造船所経営の男性、決意新た−−岩手・陸前高田 長部漁港

毎日新聞 2011年4月6日 東京朝刊

 

 東日本大震災で岩手県陸前高田市の漁港は岸壁が崩れ、多くの漁業関係者が被災した。市内の長部(おさべ)漁港で「中野造船所」を営む中野勝男さん(69)も造船所や自宅が津波に流された。廃業も考えたが、被災しながらも漁の再開を目指す漁師たちの思いに胸を打たれ、再起を決意した。【沢田勇】

 

 中野さんは18歳から造船業に携わり、1973年に独立。それまで木造船を造っていたが、利用する漁師が減ったため、船の修理を専門に細々と経営を続けてきた。3月11日は地震が起きてすぐ、津波に備え修理中の船を護岸に固定し、着の身着のまま高台に逃げた。 漁港に戻ると事務所は姿を消し、修理中の船は畑や民家の庭に打ち上げられていた。 「潮時だな」。廃業を覚悟していたら、なじみの漁師から懇願された。「頼むから、もう一度やってくれんか」。その数は20人ほどに上った。被災しながらも熱い思いを持ち続ける海の男たちに心を揺さぶられた。 避難所から毎日、漁港に通い詰め、がれきの中から使えるものを探した。船を陸に揚げる鉄製のレールやウインチ類の機械が、かろうじて残っていた。ケヤキの一枚板でできた事務所の看板も見つかった。 「まだ必要としてくれんなら、もう少しだけやってみっかね」 まだ春雪が舞う長部漁港でほほ笑んだ。

 


自転車壊れたら持ってきてや…大阪の66歳活躍

2011年4月6日11時30分  読売新聞

 

東日本大震災の津波被害を受けた岩手県陸前高田市の避難所で、大阪市の自転車店主・衛藤典雄さん(66)が1000キロ以上の道のりを車で駆けつけ、自転車やリヤカー、車いすの修理をボランティアで引き受けている。 バスなどの交通手段が不十分な被災地では、自転車は重要な移動手段となっており、被災者から喜ばれている。 「車いすとか、壊れたら持ってきてや」。陸前高田市立第一中学校に設けられた避難所前で、威勢の良い大阪弁が響く。5日は、約3時間で20台の自転車を修理した。 車いすが壊れて介護に苦労している人がいることをニュースで知り、同居する妻や娘に黙って自宅を飛び出した。阪神・淡路大震災でも自転車修理の需要は高かったが、ボランティアに行かなかったため、「今度こそ絶対駆けつけたる」と思っていた。 3月19〜22日は仙台市に入り、避難所などで自転車を修理。ガソリン不足でいったん大阪市に帰り、5日に陸前高田市に入った。

 


「捜してあげられず申し訳ない」陸前高田市長、妻の遺体を確認

2011.4.6 18:47

 

陸前高田市の戸羽太市長(藤原保雄撮影)

 壊滅的被害を受けた岩手県陸前高田市の戸羽太市長(46)の妻、久美さん(38)が遺体で見つかっていたことが6日、分かった。市幹部によると、戸羽市長が5日午後に市内の遺体安置所で久美さんを確認したという。 6日夕、外出先から災害対策本部に戻った戸羽市長は「今まで捜してあげられず妻に申し訳ない」と言葉少なだった。 戸羽市長は3月11日の発生直後から、小学生の息子2人を親類宅に預け、災対本部が置かれた給食センターなどで寝泊まりしていた。 ある職員は「久美さんを捜したい気持ちを市長が抑えているのが分かっていた。無事を祈っていたが残念です」と話した。

 


 

スーパー マイヤ の屋上、いのち支えた 漂流者救助、食料も送る

2011年4月6日19時1分

 

津波が襲った日、岩手県の地元スーパーの屋上に、多くの従業員や住民が取り残された。店内に流れ着いた人を救ったり、隣のビルに食べ物を運んだりして支え合った。店員たちはいま、被災地に食料品を届けている。  同県陸前高田市のマイヤ高田店。店長の新沼善寛さん(59)は3月11日、3階建ての店舗の外階段を必死に駆け上がった。下を見ると、駐車場の自分の車が波にさらわれていった。  客や従業員の多くは、津波が来る前に避難させていた。屋上には、最後まで店内の確認をしていた従業員や避難に来た住民、消防団員ら13人が残った。  親子らしい女性と女の子が、屋根の上にしがみついたまま沖に流されていくのが見えた。「どうすることも出来なかった」  水が少し引くと、3階にはがれきの山が積み上がっていた。燃やして暖をとろうと、がれきを取りに行った従業員が叫んだ。「人がいる」。3階の天井の骨組みにずぶぬれの男性がつかまっていた。市役所の職員が、波にのまれて運ばれていた。職員を抱えて下ろし、消防団員が着ていた上着を着せた。 夜はコンクリートの上に発泡スチロールを敷き、暖を取るため段ボールを体に巻き付けた。翌朝、ヘリコプターが救助に来た。

 

 

同県大船渡市のマイヤ本店の屋上にも、従業員や住民ら計59人が残された。  同社販売部マネジャーの伊藤長一さん(59)は午後7時ごろ、斜め向かいのホテルの屋上に避難していた人たちの叫び声を聞いた。「食べ物がない」。5階建てのスーパーは3階まで浸水したが、4階には売りものの菓子類があった。ただ、スーパーの屋上から、ホテルの屋上までは約20メートル離れている。  伊藤さんたちは店内から荷造り用のビニール製のひもを見つけ、その先にボールを結びつけた。野球の経験がある従業員が、本店屋上から向かいのホテルの屋上を目がけて投げた。何度も失敗した後にようやく届き、菓子をいっぱい詰めたスーパーの買い物かごの持ち手にひもを通した。スーパーとホテルの高さの違いを利用して、ロープウエーのように買い物かごを移動させてホテル屋上に届けた。  マイヤは、被害の大きかった岩手県沿岸部を中心に16店を展開する地元スーパー。津波で6店が店ごと流されたり、全半壊の被害を受けたりした。従業員7人が亡くなり、約20人の行方がいまも分からない。  それでも、地震4日後から、陸前高田市の小学校で食料品の出張販売を始めた。少しずつ、販売場所を増やしている。新沼さんは「こういう時こそ、地元スーパーとして、住民の力になりたい」と力を込めた。(長富由希子)

 


東日本大震災:県、あすから火葬を受け入れ 陸前高田の300遺体 /千葉

毎日新聞 2011年4月7日 地方版

 

 県は6日、岩手県陸前高田市から身元が確認できない震災犠牲者約300人の遺体を受け入れ、千葉市と佐倉市の斎場で火葬することを明らかにした。 県衛生指導課によると、遺体は7日夜に陸前高田市から35体が陸路で搬送され、8日朝に千葉市斎場(緑区)とさくら斎場(佐倉市)に到着後、火葬される。遺体と一緒に搬送された骨箱に遺灰を入れて返送する。今後は2〜3日ごとに20〜30体ずつ運ばれ、30日まで受け入れる予定。県には3月30日、岩手県から「土葬の予定だったが火葬の方が望ましい」として要請があったという。【斎藤有香】

 


生徒呼びに海へ 小樽出身の高校教師 陸前高田で不明 再会祈る教え子 家族

(04/07 09:25)http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/284073.html

 

小野寺素子さん

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市で、生徒を捜しに行ったまま、行方不明になった高校教師がいる。小樽出身で高田高教諭の小野寺素子さん(29)。熱血だけど優しかった先生を思い、生徒たちは一日も早い再会を祈っている。  3月11日午後。大津波警報が発令されると、小野寺さんは同僚とともに部活で校内にいた生徒約250人を校舎裏の高台へ急がせた。全員の避難を見届け、小野寺さんが向かったのは、顧問を務める水泳部が練習していた海沿いの屋内プールだった。「部員を避難させなきゃ」。同僚らにそう言い残した。  その直後に津波−。練習していた水泳部員9人のうち6人が死亡し、1人が行方不明に。小野寺さんの安否も確認できていない。  部員にはいつも「自己ベストを上回れ」と熱心に指導。好成績が出ると「頑張ったね」と笑顔で頭をぽんぽんとたたいた。救助された水泳部マネジャーの佐々木穂夏さん(16)は、小野寺先生がプールに向かったと後から聞かされ胸が詰まった。「先生にありがとうと一言でも伝えたい。早く見つかってほしい」と涙を浮かべた。

 

 「自分を犠牲にして周囲を大切にする優しい人なんです」。隣の市にある大船渡高教諭で夫の浩詩さん(43)は声を震わせた。若いのにしっかり者で人のために働く姿にひかれ、1年前の3月28日に結婚した。陸前高田市内の新婚の家も津波にのまれ、残ったのは、あの朝、小野寺さんが夫に持たせた弁当箱と校内で見つかった小野寺さんの上着だけ。「素子がどこかに生きているんじゃないかという思いが頭の片隅にあるんです」。今も避難所と遺体安置所を回り続けている。

 小樽市に住む両親、毛利奉信(とものぶ)さん(66)、みどりさん(62)も震災後、何度か陸前高田市に足を運んだ。  奉信さんは元高校教諭。6年前の退職時、同じ道を選んだ娘が手紙をよこした。「まだまだお父さんにはかなわないけど、いつか追いつけるよう頑張るよ」  みどりさんが言った。「素子は教師になってからずっと忙しくしていた。頑張ったことを認めてあげたい。ご苦労さまって」。傍らの父が静かにうなずいた。

 

 

 小野寺さんは記者(貝沢)の大学時代の友人だ。下宿も同じ。明るく努力家で、思いやりあふれる「もっちゃん」。宇宙飛行士毛利衛さんのめいにあたる。2年前、メールで近況報告をしあった。「そのうち会おうね」。最後にそう書いた。まだまだ話したいことがある。あの時の約束を果たさせてほしい。(札幌圏部 宇佐美裕次、貝沢貴子)

 


 

<東日本大震災>星になったママへ 「波になって会いたい」 陸前高田市

毎日新聞 4月7日(木)11時37分配信

 

  

津波で母親を亡くした及川律ちゃん(右)と詠ちゃん兄弟。手前は律ちゃんの書いたお母さんの絵=岩手県陸前高田市で2011年4月5日午後、石井諭撮影

 

 「一番きれいな星が、ママだよ」。パパに教えられ、澄んだ夜空を見上げる。岩手県陸前高田市の保育園児、及川律ちゃん(4)は、東日本大震災で母久美子さん(32)を亡くした。「ぼくも流されて、ママに会いたいなあ。波になりたい」。小さな手で描いた母の似顔絵。いっしょに暮らし始めたおばあちゃんは、孫の無邪気な言葉を絵の裏に書き留めた。【長野宏美】

市立図書館の職員だった久美子さん。あの日、大きな揺れの後で隣接する市立体育館に同僚らと避難し、そこで津波にのまれた。仕事着のエプロン姿のままだった。 律ちゃんと弟の詠(えい)ちゃん(2)は保育園で昼寝をしていた。旋律の「律」と歌の「詠」。ピアノ好きだった久美子さんが名前をつけた。兄弟は保育士に導かれ、靴を履かず上着も着ないで大津波から逃げた。「靴下だったから途中で足が痛くなって、先生にだっこしてもらったの」と律ちゃん。市職員の父克政さん(33)も無事だった。 兄弟はいま、近くの母方の祖父母宅に避難している。久美子さんを思うと、祖母まみ子さん(62)は思わず涙ぐむ。律ちゃんも泣き顔になるが、すぐ笑顔を見せる。詠ちゃんは「バアバを守ってあげる」と得意のウルトラマンのポーズを取る。 津波が起きて7日後のことだった。こたつにいた律ちゃんがボールペンで絵を描いた。にっこり笑う母の顔。 「ぼくも流されてママに会いたいなあ」 津波の恐ろしさをまだ理解できず、母に会いたい思いを口にする律ちゃん。切ない気持ちで、まみ子さんは絵の裏にその言葉を書き込んだ。兄弟の写真や成長の記録をきちょうめんに整理していた久美子さん。「すべて流されたので、私が代わりにやってあげないと……。いつかこの時のことを孫たちに伝えるためにも、大事にとっておきます」 2人の孫の「作品」を水色の箱にしまっている。 「ママがいるか、確かめるんだ」 律ちゃんは、パパやおばあちゃんと別棟にあるお風呂に行く時、夜空を見上げる。 「真ん中の一番きれいな星がママ。抱っこされて、夜空のキラキラお星になって、一緒に街を見たいな」 ママに会えたら、律ちゃんは伝えたいことがある。 「パパは無事だったよ。ママ、おうちにずっといてちょうだい」

 


津波から命救った教師の機転 陸前高田の気仙小

2011/04/09 岩手

    

 先生に命をもらった―。東日本大震災で被災した陸前高田市の気仙小の全児童92人が、教師たちの機転で津波から逃れた。命を救った瞬時の判断に保護者や児童からは感謝の声が上がっている。 3月11日午後、激しい揺れが教室を襲った。児童たちは避難訓練通りに机の下に身を隠した後、上履きのまま校庭に整列した。海岸から約2キロ離れ、地域の一時避難所に指定されている気仙小。地域住民も集まり、避難は無事終わったかのようだった。 教師たちが一安心して児童の点呼などをしている時だった。普段は静かにしていないと聞こえない防災無線から、かすかな音が響いた。「津波が堤防を越えました」。学校は堤防から約500メートルの地点。 「まずい…。逃げろ」。非常事態を察し、すぐさま学校の裏山に児童を誘導した。山には竹やぶが茂っていたため、比較的体格がいい高学年を先に登らせて低学年のための道をつくらせた。 何が起きたか分からずに目を赤くして登る児童の後ろから、「振り向くな」「上がれ」と叫び続けた。大谷蓮斗君(当時5年)は「怖かったけど先生が『大丈夫だ』って背中を押してくれた。とても心強かった」と振り返る。 校庭から12メートルほど高台に移って約1分後、ごう音と共に「茶色の水壁」が姿を現した。3階建ての校舎はのみ込まれ、逃げ遅れた人や家は流された。 佐々木歩実さん(当時3年)は「上がれと言われ、夢中で逃げた。お母さんに会えて良かった」、母の光代さん(50)は「先生に守ってもらった命。感謝してもしきれない」と頭を下げた。 教師たちは震災後も数日間、被災した自宅にも戻らず、児童の健康管理や精神状態を考えて避難所で過ごしたという。 当時6年の担任だった菅野一孝教諭(44)は「とにかく何も考えず行動した。児童が助かって本当によかった」と胸をなで下ろした。 今春退職した菅野祥一郎前校長(60)は「少しでも声掛けが遅れていたら駄目だった。先生も児童もみんな頑張った」と目を細めた。

 

 


ただ会いたい 陸前高田、夫の発見願い毎日海岸へ

2011/04/10 岩手    

 

「おなかすいてるだろうと思って」−。陸前高田市気仙町字双六の菅野カチ子さん(67)は目に涙を浮かべて話す。避難所で配られるおにぎりやパンを半分残し、毎朝、海岸に持って行く。行方不明の夫富男さん(70)の分だ。富男さんは目の前で津波にのまれた。明日で1カ月になるが、「来るな!」と叫んで手を振る姿を思い出し、眠れぬ夜が続く。「早く見つかってほしい」。祈るようにつぶやいた。

 

 9日午後3時26分、陸前高田市気仙町

 


陸前高田で仮設住宅入居開始 36戸、被災地で初めて

2011年04月10日日曜日 河北

 

津波により壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市で9日、被災地で初めて仮設住宅への入居が始まった。入居が決まった住民は冷たい雨の中、避難所になっている第一中の校庭に建てられた36戸に次々と荷物を運び込んだ。 完成した仮設住宅は台所、トイレ、風呂付きの2DKタイプ(約30平方メートル)で、半数の18戸は高齢者や障害者、母子世帯向け。日本赤十字が贈った冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの家電も各戸に備えられている。 家族4人で避難所から引っ越しした主婦熊谷栄子さん(35)は「まだ不安は残るが、仮設住宅での生活を再スタートと思って頑張る」と話した。 今回入居が始まった36戸は、3月19日に着工。5日の抽選会には1160世帯が応募し、競争率は32倍だった。 市は希望する住民全員分の仮設住宅を用意する方針で、市内3カ所に現在、計約200戸を建設している。今後も建設を続けていく。 被災3県の仮設住宅の目標戸数は、避難者数が最も多い宮城が3万戸で、岩手1万8000戸、福島1万4000戸の計6万2000戸となっている。 これに対し、7日現在の着工戸数は宮城1632戸、岩手1549戸、福島1156戸の計4337戸となっており、目標の1割にも達していない。

 

被災地で最も早く完成した仮設住宅に入居した避難家族=9日午前11時35分ごろ、陸前高田市の第一中校庭

 


私は元気だよ 家族奪った海へ、追悼のトランペット

2011年4月11日23時8分 朝日

 

がれきで覆われた岩手県陸前高田市。佐々木瑠璃さん(17)は11日、自宅跡に立ち、行方不明者の捜索が続く海に向かって、ZARDの「負けないで」をトランペットで吹いた。津波で母親の宜子さん(43)、祖母の隆子さん(75)を亡くし、祖父の廣道さん(76)は行方不明のままだ。「私は元気だから、心配しないで」。涙をふきながら、祖母が買ってくれたトランペットを抱きしめた。

 

 

 


 

 

がれきの中でガソリンスタンド再開

2011.04.14 産経

 津波でほとんどのガソリンスタンドが流された岩手県陸前高田市で、瓦礫の撤去された道路わきでガソリンスタンドが再開した。地元住民は「やっぱり近くにあるってのは助かるね。遠くに入れに行くとそれだけ無駄だしね」と満足げに話した。ベニヤ板に店舗名と営業時間が書かれ、発電機一台とドラム缶が2本並ぶ店舗にはラジオが常に流れている。万が一の津波に対する警戒のためだ。 本来は海沿いの車の通行量の多い国道45号線沿いに店を出したかったが、店員の浅沼悠芙佳(ふゆか)さん(34)は「波がすぐそばで音を立てるところで仕事するのはちょっとね・・・」と津波への恐怖心を話した。店は一直線に山へと続く道沿いにあり「いつでも逃げられるようにしている」という。それでも、「なじみのお客さんに声をかけてもらえると私たちも元気が出るし、微力だけど役に立てているのかなと思う」と話した。=14日午後、岩手県陸前高田市(頼光和弘撮影)

 


一緒にいた母と祖母が犠牲に「2人が力貸してくれた」/陸前高田

2011年04月22日 河北

 

 震災から1カ月がたった11日。祖母が遺体で見つかった。その2日後には母も。津波で2人と生き分かれた場所から、それほど離れていないがれきの下だった。 「あれだけの津波だったのに、流されなかったんだ」。陸前高田市の会社員鈴木泰治さん(33)は、少し意外だった。 地震発生時は、仕事で気仙沼市唐桑町にいた。避難した高台から見下ろすと、海の底が顔を出していた。「津波が来る」と直感した。 車を飛ばして自宅に戻った。祖母ニシエさん(85)と母しげ子さん(60)の手を引っ張って約100メートル先にある本丸公園に向かった。 途中、背後で黄色い砂煙が舞った。「バキバキ、バキバキ」。何かが家をなぎ倒す音がした。同時に、黒い水が見上げるような壁となって襲ってきた。とっさにニシエさんを抱えた。 しげ子さんは流されてきた軽乗用車に足を挟まれ、動けなくなった。そこに再び津波が押し寄せ、しげ子さんをのみ込んだ。 ニシエさんを抱えて陸地を探したが、がれきに引っ掛かって思うように泳げない。握り締めていたニシエさんの襟が破れ、離れ離れになった。 水から顔を出そうとしても、がれきが邪魔をして息が吸えない。「もう駄目だ」。力が抜け、体が沈み、意識が薄れた。 波の中を約200メートル漂い、愛宕神社まで流されたようだった。「自分は助かったのか」。現実感はなかった。 1カ月、2人を捜してがれきのまちや遺体安置所を訪ね歩いた。悲報は友人が知らせてくれた。13日に2人の火葬を済ませた。生き残った者の責任を果たせた気がする。 平たん部が津波でほぼ全滅した陸前高田市。死者・行方不明者は2000人を超える。自分が助かった理由は分からない。単なる運か。そうではなく、2人が身代わりになってくれたのか。「悲しいけど、2人が力を貸してくれたと考えた方が救われる」 身辺整理が一段落したら、救援物資を運ぶボランティアに参加する予定だ。「このまちが好きだから、少しでも復興に力を尽くしたい」。拾った命は、人のために使う。

(宮崎伸一)

 


サンマの腐敗被害深刻 津波で大量の流出

(04/23 19:05) テレ朝

 東日本大震災の津波で、水産加工会社の倉庫から流された大量のサンマが遠く離れた住宅にも流れ込み、腐敗して悪臭を放つという新たな問題が起きています。

・気仙沼市 2万トン以上   ・陸前高田市 沿岸から1キロ以上離れた場所で

 


東日本大震災被災者支援レポート(7)

2011年04月07日 09:58  AFP

 

高田に津波が押し寄せた日の生々しい様子を、避難所となっている施設の管理者の方やおばあちゃん達が少し語ってくれたのですが、あるおばあちゃんからは、避難を告げる市の防災放送が「津波警報が出ていますので避難してくださ・・」でプツッと途切れ、水が押し寄せるのを見ながら逃げたという話を聞きました。津波は台風の波のようにまっすぐ来るのではなく、大きく渦を巻きながら、斜めに流れ込んで来ると、これも体験した人しかわからないことを話してくれました。

 

実は以前に高田で被災した別の方から、津波の高さは50mはあったと聞いて、それはかなりその時の印象によるところが大きいのではないかなどと思っていました。しかし、今回話を聞いたある方は高台からずっと様子を見ておられ、津波の第一波が町を襲った後引き潮となり、戻る第一波の引き潮と第二波とがぶつかったところで水が大きく盛りあがり、その場所に数分間に渡ってやはり50mくらいの津波の壁が出来ていたと、同じことを語ってくれました。 あるおばあちゃんは、その間、普段は対岸に見える山が、まったく見えない状態であったと話しておられました。

 

 


 

 「周りは泥水の海。何もなかった…」 ビル屋上で助けを求めていた菓子店職人、松野浩二さん

2011.4.30 10:30 産経

 

《3月12日朝、ヘリコプターで陸前高田市の上空を飛んだ。破壊し尽くされた街。無我夢中で撮影していると、鉄骨だけになった3階建てのビルの屋上で人が助けを求めているのが目に入った。ヘリの燃料はあとわずか。必死でシャッターを押し続けるしかなかった。そして1カ月半。陸前高田市の避難所で、偶然その人に出会った》(写真報道局門井聡)

【岩手県陸前高田市、菓子店「清風堂」職人、松野浩二さん(42)】

 

 11日午後2時半過ぎ。いつも通りの休憩時間がきた。「お茶が入ったよ〜っ」。呼ばれて階下に降りようとしたら揺れた。 3階で1人仕事をしていた。大型冷蔵庫などが倒れないように必死で支えたが、揺れが収まったとき周りには物が倒れていて部屋から出られなかった。 「2月にニュージーランドで起きた地震の印象が残っていて、建物が倒壊するのではという恐怖で、いっぱいでした」。ベランダに出て下の人に助けを求めようとすると、外は飛び出した人たちでパニック状態。やはり自力で降りよう。部屋に入ると再び揺れた。もうだめだ。 そう思ってもう一度ベランダに出たところで、あり得ない光景を見た。海岸沿いの名勝、高田松原のマツが次々となぎ倒されていく。 「黒く、大きな防波堤が迫ってくるような感覚だった」 すぐには何が起きているのか分からず、呆然(ぼうぜん)として見ていた。やがて数百メートル離れた巨大な市民体育館の壁が轟音(ごうおん)を立てて吹き飛んだ。津波だ。民家が転がるように流されていく。下の通りにはまだたくさんの人。車は渋滞で動かない。 とにかく下にいた人たちに上がってくるよう呼びかけ、3階に避難させた。しかし津波は誰も想像しなかった高さで迫ってきた。あっと言う間に、水は3階の高さに達した。3階の部屋に何人いたのだろうか。これでは危ないと思って屋根裏部屋に上がるための階段を下ろし、一人ずつ上がった。津波が外壁にたたき付ける大きな音が響く。ちょうど自分が登りきったとき、津波が壁を突き破った。

 

 「がれきの固まりが突っ込んできた。目の前で社長の奥さんと息子さんが悲鳴を上げながら流されていった。助けられなかった」。あのときに躊躇(ちゅうちょ)なく屋根裏に上がっていたらみな助かったかもしれない、と今も悔やんでいる。 助かったのは6人。もう一人の従業員と社長、近所の女性。それにたまたま店の前を通りかかった女性と高校生。 津波が引いたとき、「周りは泥水の海。何もなかった」。 津波が去った後、自衛隊らしきヘリが、消防署の鉄塔に避難していた署員らをつり上げていたのが、唯一目にした救助の様子。それを最後に夜を迎えた。 電気のない真っ暗闇。そして寒い。屋内で仕事をしていたので、たいして服も着ていない。屋根裏に戻って探すと、クリスマスに店頭に飾るサンタクロース人形を見つけた。真っ赤な服を脱がせ、身にまとった。 たまたま見つけたずぶぬれの毛布に6人でくるまった。「何もかもが流されて、6人だけがぽつんと残された」。会話はない。社長は家族を心配して泣いていた。自分も家族がどうなったか分からない。自分たちだけが助かってよかったのか、思い悩んだ。

 

 夜明けとともに、次々とヘリの音が聞こえ始めた。「屋上に出て手を振りました。でも、みんな素通りしていくんです。まさか、こんな所に人が居るなんて思いませんよね」。市役所や病院など、大きな施設から救助が始まったのを屋上からずっと見ていた。 「家が心配で仕方がなかった。がれき伝いに行けば大丈夫なんじゃないかと思って、本気で下に降りようとしていた」救助されたのは昼頃。気付いた消防団員が建物の周りに並んで目立つようにしてくれた。前の道路に降ろされたが道もなく、消防団員の案内で残った道までがれきの上を歩いた。 《松野さんたちを撮影したのは午前8時すぎ。遠景写真を撮影中、赤い物が動くのに気づいてズームした。松野さんがサンタの服を着て帽子をこちらに振っていた。「ヘリが旋回し始めたので、気づいてくれたのかなぁと思って」と松野さん。しかし、燃料にも時間にも限りがあった。何もできなかった後ろめたさと悔しさが蘇った》 自宅のある町に近づくと、所属している消防団の仲間が交通整理をしていた。「死んだと思われていたようで、とてもびっくりしていました」。 6人の家族は、全員公民館に避難して無事だった。翌日から、消防団員として捜索や遺体搬送に追われる日々を過している。 「時間がたっても、あの日の状態からずっと同じ。朝起きて、高台にある公民館から出て下を見下ろすとがれきの山。ああやっぱりなぁって。店に行っても夢のような、いや夢であればという思いで、何度も様子を見ています」。その店の再建もまだ望めない。 《取材の最後に松野さんはこう話してくれた。「写真を見ると自分が写っているのがいまだに信じられません。一歩間違えると、ここに写っていませんでしたから。でもこれを撮影した人と偶然出会って、今こうしてしゃべっている。縁ってあるんですね。動く体があるんだし、何でもやらないと」》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩手県 死者数・避難所   2011年03月25日 10:52 IBC

東日本大震災、県内の犠牲者は、3000人を超えました。県警察本部のまとめによりますと、24日午後8時現在、県全体の死者は、3025人となりました。

このうち、陸前高田市で894人、釜石市で595人、大槌町で492人、山田町で408人、宮古市で328人、大船渡市で251人、野田村で36人、田野畑村で14人、岩泉町5人、久慈市2人などとなっています。また、行方不明者は4869人以上、負傷者数は130人以上に。

 


 

岩手日報

岩手県内の被災状況(県と県警まとめ)

2011 4月10日17時現在

最新の被害状況は県の「いわて防災ポータルサイト」で閲覧できます。

市町村名

死者

不明者

避難者

被災状況

陸前高田市

1211

1177

16579

家屋被害3600
陸前高田市内、小友町(字両替から字唯出付近)、米崎町(字沼田、字神田付近一帯)、高田町(字古川、中宿一帯)、気仙町(字中堤、字的場付近一帯)水没。小友駅、小友小、小友中等、周辺建物は崩壊。広田病院(広田町字天王前)、旧広田水産高校(字大久保)も浸水。
県立高田病院(気仙町字中堤)4階まで浸水。3階まで土砂、ガレキで使用不能。米崎コミュニティセンターで診療活動。
国道45号の通行止め解除 気仙大橋は迂回路で通行可
国道340号陸前高田道路の通行止め解除
固定電話:横田、広田、矢作地区でアナログ復旧
スポーツドーム、サンビレッジ高田、陸前高田基地局付近にau車載基地局
第一中学校周辺、長部小 長部保育所などでドコモ通話可能
給食センター(市仮庁舎)に移動基地局設置。ドコモ通話可能。

大船渡市

287

213

6785

住家全壊3629、床下浸水多数
3/11盛駅まで浸水、末崎太田団地、細浦被害甚大、建物倒壊被害甚大
三陸ヘリポート利用可能
大船渡職業訓練センター建物冠水、建物使用不能
丸森権現堂線 通行止め解除
国道45号、三陸縦断自動車道 市内通行可
固定電話:大船渡、細浦、綾里、日頃市、吉浜地区でアナログ復旧
市役所にau車載基地局
市内中心部(猪川町地区周辺 等)市街地周辺、綾里地区、越喜来地区でドコモ通話可能

住田町

0

2

5

瓦屋根落下、壁はく離、床の損壊、道路ひび割れ
固定電話:全域でアナログ復旧

世田米地区(大股郵便局、中井部落公民館など)でドコモ通話可能
(同地区 役場、住田高校、上有住駅周辺は復旧済み)

釜石市

703

610

6162

家屋被害調査中
3/11釜石消防本部冠水、車両全損、1F 水没。
釜石海上保安部2Fまで浸水。
岩手オイルターミナル(株)施設関係は甚大な被害、タンク、桟橋は残存
新日鉄釜石上神中島グラウンドをヘリポートに
R45:釜石駅から、大船渡方面は使える。
固定電話:駅周辺より東でアナログ復旧
au基地局復旧
栗林小学校 移動基地局でドコモ通話可能、市内中心部・釜石市役所・唐丹中周辺復旧済み。

大槌町

588

1066

9070

家屋被害多数
町内全域で甚大な被害
県立大槌病院3階建ての2階まで浸水、施設は使用不可。大槌高校で診療活動。
大槌小槌線大町〜安渡橋、緊急車両のみ通行可能。
大槌停車場線 緊急車両のみ通行可能。
3/26国道45号開通、県道86%開通、町道61%開通

固定電話:金沢・吉里吉里、小槌地区復旧、大槌地区 復旧

大槌高校にau車載基地局設置、通話復旧。ドコモも同地域復旧
吉里吉里地区周辺でドコモ通話可能
中央公民館にドコモ車載基地局設置、通話復旧。

山田町

533

378

3491

建物全壊2513
大浦地区、小屋鳥地区、田の浜地区、織笠地区、山田地区、大沢地区 甚大な被害。
織笠川の堤防破堤→3/29応急復旧完了
県立山田病院1階浸水により使用不可。2階で診療活動。
固定電話:豊間根地区、船越地区、山田地区で復旧
ドコモ:大浦地区、青少年の家を除き通話可能
山田高校にau車載基地局設置、通話復旧

宮古市

396

1301

4063

家屋倒壊4675(全壊3669・半壊1006)
市役所2階まで浸水、JR船場鉄橋損壊。
鍬ケ崎、磯鶏、重茂、津軽石、愛宕、築地、藤原、乙部、田老、里で津波被害甚大
閉伊川右岸(宮古市藤原地内)堤防破堤→応急復旧完了
神林地区木材港の防波堤破損
固定電話:田老地区以外復旧
au通話可能。
田老駅、田老第一小、道の駅たろう周辺でドコモ通話可能。(川井門馬地区、古田地区、田老青野滝地区、川井川内地区、津軽石地区等復旧済み)

岩泉町

5

0

241

家屋倒壊130戸、浸水家屋40戸
小本地区の国道から海側 甚大な被害
小本港防波堤一部消失、岸壁の一部崩壊
固定電話復旧
中里地区、小本、門、乙茂、猿沢、釜津田各地区、岩泉地区、大川地区、安家地区、有芸地区ドコモ通話可能。
au携帯は、岩泉地区、袰綿地区、猿沢地区、大川地区で通話可能。

田野畑村

14

25

347

家屋倒壊 全壊517戸、半壊38、一部損壊52、大破4
明戸地区、羅賀地区、島越地区 甚大な被害
固定電話復旧
道の駅たのはた周辺、田野畑駅周辺、役場周辺、尾肝要地区、巣合地区周辺等でドコモ通話可能

普代村

0

1

1

住家床上浸水1、漁業用作業倉庫など172
普代役場は被害なし。堤防より海側で被害。太田名部漁港、堀内漁港の被害甚大。
普代水門の管理橋被災
固定電話復旧
役場周辺、普代駅周辺、芦渡地区などでドコモ通話可能

野田村

37

0

345

建物被害200棟以上
津波は村庁舎を超え、中心部甚大な被害
前浜の周辺で崩落あり。本村地区400世帯の被害甚大
明内川、泉沢川、米田川の水門管理用階段流出
固定電話:全域でアナログ復旧
野田地区(役場、陸中野田駅、野田小、野田中、野田玉川駅など)周辺でドコモ通話可能

久慈市

2

2

0

家屋倒壊916
久慈国家石油備蓄基地は、地下の原油流出は認められない。地上施設は大破。
北日本造船が全壊
固定電話復旧
市街地周辺、宇部地区(久喜小、三崎中付近)でドコモ通話可能

洋野町

0

0

0

家屋倒壊25
漁船転覆、流出相当数、JR鉄橋流出
和座川の送水管破損、断水の恐れあり
固定電話復旧
ドコモ復旧

矢巾町

0

1

32

道路陥没小規模多数

遠野市

0

4

81

家屋一部破損302、火災1件、遠野中内壁破損
水道管破裂3か所→復旧に向け対応中

平泉町

0

1

0

屋根瓦落下、壁崩落
道路の損壊→通行可能

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津波の被災地、建築禁止 岩手県沿岸12市町村

2011年4月18日3時0分

 

 

岩手県は、東日本大震災の津波で浸水した沿岸12市町村の約58平方キロ(東京ドーム約1240個分)で、住宅などの建築を禁止する方針を決めた。18日に12市町村に、建築基準法の「災害危険区域」に指定する条例を制定するよう求める。  禁止期間は防潮堤の再建などで住民の安全が確保されるまでで、「短くても年単位になる」としている。  県は、原則として浸水した全域を災害危険区域に指定した上で、地域の実情に合わせて区域を広げるよう求める方針だ。この区域では土地所有者の私権が厳しく制限されるが、若林治男・県土整備部長は取材に対し、「被災者の安全を守り、無秩序な建築を防ぐための措置」と説明した。  市街地が壊滅的な被害を受けた同県陸前高田市などでは、がれきの撤去が進むにつれ、自宅跡にプレハブ住宅を建てる住民も出始めていた。災害危険区域に指定されると住宅などの建設はできなくなり、行政の復旧・復興計画がスムーズに進められる利点がある。  今回の震災を受け、宮城県も同法を適用し、気仙沼市など3市2町で2カ月限定(5月11日まで)の建築制限をかけた。ただ、災害危険区域への指定にはいたらない応急的な措置だった。  岩手県は「2カ月で復興の青写真をつくるのは無理」(若林部長)と判断したという。具体的な禁止期間は各市町村に判断を委ねるが、防災施設の整備や防潮堤の再建までを念頭に、長期間になると想定している。 大規模災害後の災害危険区域の指定は、1993年の北海道南西沖地震で津波被害に遭った奥尻町や、2004年の新潟県中越地震で被災した同県旧川口町(現長岡市)の例がある。いずれも指定面積は小さく、住民の強制的な集団移転が目的だった。(山西厚、森本未紀)

 

 

 

 

 

 

http://sv032.office.pref.iwate.jp/~bousai/

 

自力入居も家賃無料に 県、被災者救済方針

2011/04/22 岩手

 

県は、東日本大震災で被災後、自分で契約し賃貸住宅に入居する被災者について、2年間住宅を借り上げ家賃無料で提供する方針を決めた。避難所を出て自分で契約・入居している世帯は、災害救助法の対象外として家賃負担などの支援が受けられなかったが、県は救済措置が必要と判断。契約時にさかのぼり敷金や礼金を全額負担する方針で、仮設住宅と同じ条件で支援が受けられるように配慮する。 民間賃貸住宅の借り上げで県は、家賃を平均6万円前後と想定し、200戸分の年間家賃約1億5千万円を2011年度補正予算案に計上する方針。既に自力で入居した被災者の住宅を県が借り上げる場合の負担金もこの中に含まれる。 仮設住宅と同様に日赤が家電を提供し、光熱費などは自己負担。県は事務処理手順について市町村に通知し手続きの円滑化を図る。 災害救助法の規定では、被災者が避難所を出て住居を得た時点で救助を終えるため、既に自分で契約し賃貸アパートなどに入居している世帯は家賃負担の対象外だった。 こうした世帯について、県は救済措置が必要と判断。平等な支援が受けられるように、独自の対応を決めた。 県地域福祉課の小田原照雄総括課長は「被災者のため、市町村と相談しながら必要な住宅戸数を確保していきたい」としている。

 

 

 

 

岩手 6人に1人が失業か休業

4月22日 20時37分   NHK

 

震災のあと、岩手県内の9つの市町村では、自営業の人を除いた働く人の6人に1人に当たる7500人余りが、仕事を失ったり、会社が休業して仕事ができない状況になったりしていることが、NHKのまとめで分かりました。今回の震災で、岩手県内では各地の企業も大きな被害を受けたことから、NHKは、沿岸部の9つの市町村を管轄する大船渡・釜石・宮古の3つのハローワークに、失業や休業状態になったと事業主から届け出のあった人数をまとめました。その結果、震災のあと失業や休業状態になった人が、少なくとも7500人に上ることが分かりました。これは、9つの市町村で自営業者や漁師などを除いた雇用保険に加入している人の16%、およそ6人に1人に当たります。このうち、岩手県大船渡市と陸前高田市などを管轄するハローワーク大船渡には、今月1日から19日までの間に、雇用保険加入者の20%に当たる3300人余りの届け出があったということで、この期間だけで去年1年間の届け出人数を上回っています。また、釜石市と大槌町などを管轄するハローワークには、先月23日から今月20日までに2300人余り、宮古市や山田町などを管轄するハローワークには、今月1日から20日までの間に1800人余りの届け出があったということです。ハローワークでは、被災地の復興の見通しが立っていないことから、今後、失業や休業となる人はさらに増えるとみていて、失業給付を支給するなどして、当面の生活費を支援することにしています。

 

 

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