4.慰安婦は売春を強制されていなかった?


 このような言説もネットで見かけることがあります。
 数多くの慰安婦の中には自由意思に基づいて売春に従事していた者もいたかも知れません。けれども、軍慰安所で一般的に行われていたのは自由売春だったのでしょうか? それとも強制売春だったのでしょうか?
 この問題についてネットの世界では、「当時は公娼制度が存在した。慰安婦もそれと同じである、だから強制ではなかった」との主張が見られます。
 既に検討したように軍慰安所制度は「国家による売春システム」であり、従って「民間による売春システム」であった公娼制度とは同じではありません。それについてはおくとしまして、仮に「軍慰安所制度は公娼制度と同じ、ないしはその延長」だったとしても、そのことだけで強制ではなかったことが果たして論証できるのでしょうか?
 そこで、先ず当時の公娼制度とはどのようなものだったかについて検証してみましょう。
 秦郁彦氏が当時の公娼制度について次のように記述しています。

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)

 しかし娼妓たちが自由を奪われた悲惨な「カゴの鳥」であるという実態は変わらず、救世軍などによる廃娼運動が盛り上がるのを見た内務省は、一九〇〇(明治三三)年に「娼妓取締規則」(省令四四号)を制定して、全国的た統一規準を作ろうと試みた。
  だが、この法令が一般に近代公娼制度を確立したと評されているように、必ずしも彼女たちの境遇が改善されたわけではなかった。たとえば、前借金が残っていたも廃業する自由は認められたが、楼主(抱え主)側の妨害や警察の非協力があり、実際には廃業しにくいうえに、新たな生業につくのも容易ではなかった。また廃業しても、前借金の契約自体は有効(一九〇二年の大審院判決)とされたので、借金返済できぬ女性は元の境遇に戻らざるをえなかった。
(28頁)

  この時代(昭和初期の不景気時代)の日本では、公娼の多くは親が前借金という名目で娘を売春業者に売る、いわゆる「身売り」の犠牲者であり、その背景は広義の貧困であった。
(33頁)

 まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった。(36〜38頁)

 このように当時の公娼制度自体が既に前借金の名の下の性奴隷制度であったというのですから、「慰安婦は公娼と同じ=強制でなかった」との主張は成立するはずがありません。
 公娼制度との関係で「慰安婦は強制でなかった」との主張を成り立たせるためには、「当時の公娼は前借金などによる拘束も受けていない、自由意思による売春が基本であった」ことを論証した上で、「慰安婦は公娼と同じ」と主張するか、「当時の公娼制度は強制売春のシステムだったが、軍慰安所制度は例外的に自由売春のシステムだった」ことを論証しなければならないはずです。

 ともかく、実際に軍慰安所においては自由売春が基本であったのか、それとも強制売春が行われていたのかについて検討してみます。
 この問題について秦郁彦氏『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)の「第12章 七つの争点ーQ&A」の中でで「Q4 慰安婦はどのように集められたか?」の問いを立てて、実状を検討しています(382〜390頁)。
 秦氏は

当時の慰安婦たちから事情を聞きとった人たちの証言から推察するほかない。
 次に列挙したのは、これらの諸証言から私が信頼性が高いと判断してえらんだものである。                                

として、A〜Iの九つの証言を挙げていますので、これを見てみましょう。

A柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言

 一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。
「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代わりに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった


B榎本正代伍長(済南駐屯の第五十九師団)の証言

 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた・・・・・(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが・・・・・皇軍相手の売春婦にさせられた。目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ≠ェ彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。


C井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言

 一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百−五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍名と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです


D鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言

 一九四〇年夏の南寧占領直後に〈陸軍慰安所北江郷〉と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。


E総山孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験

 一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。

※指環注 この記述は総山孝雄『南海のあけぼの』(叢文社、1983)150頁からの引用ですが、同書には上記記述に続いて次のようにあります。(秦郁彦氏はなぜかこの部分を引用していません。)

ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった激務が待ち受けていた。昨年の一二月初めに仏印を発ってより、三ヵ月近くも溜りに溜った日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せてきたからである。・・・(中略)・・・英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴を上げてしまった。四、五人すますと、

   「もうだめです。体が続かない」

  と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と仕切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、

   「さあどうぞ」

  と戸を開けたという。


F梁澄子が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモ二から聞いた身の上話

 一九三七年、十七歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押し切っていった。
 どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った・・・・・日本人のイズミ少尉に助けられ、一九四〇年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり。


G大岡昇平『俘虜記』より

 彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。
 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。


H野本金一憲兵軍曹の回想

 一九四三年ビルマのアキャブ憲兵分隊の分駐所に勤務していたとき、慰安所のない配属部隊が村長を通じてビルマ人女性の慰安婦を募集しようと計画したことがあったが、半強制的になっては治安対策上まずいと判断して、連隊本部へ申し入れ中止させた。


I河東三郎(海軍軍属設営隊員)の証言

 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。


 上記の秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」九つの諸証言のうち、A・B・D・F・Iは騙されて慰安婦にさせられたという事例であり、Gは全くの売春強要、Cは前半が前借金による拘束の事例、後半が「悪どい手を打っているらしい」という事例、Hは実際には慰安婦募集は中止されたものの、実施されれば半強制的になったであろうと推察される事例、Eは最初は自由応募であったという唯一の事例ですが、結局は「女性の手足を寝台に縛り付け」という究極の性行為強制が行われたという話です。
 つまり、A〜Iの九つの証言全てが強制の実例です。結局、秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」諸証言の中に自由意思による売春だと言えるのはただの一例も無いということになります。
 そして、秦郁彦氏は

おそらく、〔略〕大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突きとめるのは至難だろう。

と考察しています。
 「信頼性が高いと判断してえらんだ」諸証言の大部分は騙されて慰安婦にさせられたという事例なのに、なぜ「大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われる」と結論づけてしまうのかは理解に苦しみますが(*)、ともかく秦郁彦氏は、慰安婦の大多数は事実上の人身売買によるものだった(つまり、自由意思による売春では決してなかった)と認識しているようです。

*永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)も同様の指摘をされています。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20070415


 また、1941年の夏に「関東軍特種演習」という名目で対ソ侵攻作戦のための大動員が行われましたが、この時、関東軍は朝鮮人慰安婦を大規模に集め、朝鮮総督府の上からの割り当てで強制的な徴募が行われたとの疑いが指摘されていますので、これについても少し見てみましょう。

 「関特演」における慰安婦徴集については実証史家だった故島田俊彦氏が次のように記しています。

島田俊彦『関東軍』(1965年、中公新書)176頁

原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業≠ウせた、という一幕もあった。

 これについて、秦郁彦氏は次のように考察しています。

秦郁彦『昭和史の謎を追う』〔下〕(1993年、文藝春秋)334〜335頁

第41章 従軍慰安婦たちの春秋(上)

 関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に四十万から七十万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』の記述や千田夏光が主務省の関東軍後方参謀原善四郎元中佐からヒアリングしたところでは、約二万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督府に飛来して、募集を依頼した(千田『従軍慰安婦』正篇)。
 結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)というルートで割り当てを下へおろしたという。
 実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘たちは一抹の不安を抱きながらも面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう≠ニ働く覚悟を決めて」応募した。実状はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる。


 その他の資料も見てみましょう。
 ネットで言及されることの多い、ビルマのミッチナにおける米軍の捕虜尋問報告の一節を紹介します。

アメリカ戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告 第49号」(1944年10月1日)

    徴集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地ーシンガポールーにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて六ヵ月から一年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

                 〔略〕

1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

               〔以下略〕
                                                           
                                                           (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』439〜452頁)

 やはり、騙されて朝鮮からビルマの軍慰安所まで連れて来られ、慰安婦にさせられたようです。*なお、この尋問報告に出てくる20人の慰安婦のうち、12人が未成年で慰安婦にさせられています。最低年齢は何と17歳です。
 前借金による拘束も受けていたようですが、軍が「帰国を認める旨の指示を出し」「朝鮮に帰ることを許された」のは「借金を返済し終わった特定の慰安婦」だけだったようです。
 ビルマのミッチナの軍慰安所で行われていたのは、まさに秦郁彦氏も言うところの「前借金の名の下の性奴隷制度」に違いなかったようです。

 日本の責任を否定する立場での旧軍人の回想も紹介しておきましょう。

伊藤桂一「若き世代に語る日中戦争」

 当時は公娼制度があって、官憲が強制連行する必要などそもそもないし、本人たちも一応納得してーもちろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったでしょうがーというのが建前だった。奴隷狩りなどではなく、きちんと筋は通して集められていたんです。

(『諸君!』2007年8月号149頁、伊藤桂一『若き世代に語る日中戦争』文春新書46頁)


 伊藤桂一氏によると、「本人たちも一応納得して」という「建前」は存在したらしいですが、本人たちには「不本意だったろう」ことであり、「騙されて」ということもあったということのようです。それでも「きちんと筋は通して集められていた」と判断してしまう伊藤氏の人権感覚には唖然としますが、少なくとも伊藤氏も自由意思による売春が基本だったとは認識していないようです。

小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」(『正論』2005年1月号)

 首相の靖国参拝神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全くの理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。
 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言者として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

               〔略〕

内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

               〔略〕

確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされたことに変わりはなかった。
 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。         


 従軍慰安婦問題は「全くの理由のない他国からの言いがかり」で「証言者として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた」という小野田寛郎氏も、前借金による事実上の人身売買が行われていたという認識であり、朝鮮で「あくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いた」そうです。

 最後に、慰安婦に対する強制性の問題について、秦郁彦氏以外の研究者の見解を紹介しておきます。

吉見義明氏

軍慰安所の女性たちは、日々、日本軍の将兵から性的奉仕を強要されつづけていた。日本軍は、このような女性を大量に抱え込みながら、彼女たちを保護するための軍法も何もつくらなかったのである。事実上の性的奴隷制である日本国内の公娼制でも、十八歳未満の女性の使役の禁止、外出・通信・面接・廃業などの自由を認めていたが、この程度の保護規定すらなかった。従軍慰安婦とは、軍のための性的奴隷以外のなにものでもなかったのである。

(『従軍慰安婦』1995年、岩波新書、158頁)


永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)

 それよりも、何よりも、システムとしての慰安婦制度が「自由売春」と言いうるためには、「強制売春」を禁止する風俗行政上の強い規制がなければならないのです。そうでなければ、「自由売春」制度とは言えません。

 仮に現在の日本で、「自由売春」制度を実施しようとすれば、法的には、売春防止法の第1条および第4章を改正し、第2章の第3条、第5条あるいは第6条および第3章は廃止しなければいけませんが、しかし第2章の第7条から第13条までは残さなければいけないし、さらに売春の強制やそれを目的とする自由の拘束を厳に禁止する条項を設け、その罰則を強化しなければいけません。

 たんに売防法を廃止するだけでは、「自由売春」制度にはなりません。売防法を強制売春禁止・処罰法に変化させてはじめて、「自由売春」制度がなりたつのです。もちろん最近改正された刑法における人身売買・人身取引罪は必須です。

 たんなる売春の公認だけでは、「自由売春」制度にはなりません。売春を正業と認め、強制売春禁止法、人身売買・人身取引禁止法、強力な売春婦(sex worker)保護法と保護のための行政措置がとられなければ、たんなる売春の公認は、ほぼ必然的に強制売春の横行にいきつきます。それが人類の歴史の現実です。

 その点で、ebizohさんの「自由売春」を「公認された合法な売春」と同義のものとする理解は、根本的な誤解といってよいでしょう。

 さて慰安婦に関していえば、政府が大々的に行った調査の結果わかったことは、「自由売春」を制度的に保証するであろうはずの、慰安所での強制売春禁止規則や慰安婦保護規則なるものがどこにもみつからなかったという事実です。この一事をもって、従軍慰安婦の実態は「自由売春」制度とはいえないと結論してよいのです。

 この結論をくつがえすには、慰安所での強制売春禁止規則や慰安婦保護規則がなくても、事実において「自由売春」であった。すなわちごく少数の例外を除いて、慰安婦はその自由意志によって売春に従事し、かつその稼業を行うに際して、いかなる強制も拘束もうけていなかったこと、そして少数の例外的な売春強制に対しては、厳重な処分と慰安婦の解放がおこなわれたことを、証明しなければなりません。

(「永井和の日記」より)


                         次へ

                         トップページへもどる