5.日本軍が慰安婦を直接強制連行した事実はなかった?


 「軍が奴隷狩りのような強制連行を直接行なった事実はない」「『狭義の強制』はなかった」
 このような言説もネットでよく見かけます。
 けれども、朝鮮・台湾はともかく、中国や東南アジア・太平洋地域の占領地においては、業者を介さず、軍が直接、慰安婦を徴集していたと言われます。
 その実態について、ここでは旧・日本軍将兵の回想などを資料として紹介します。

第三師団衛生隊回顧録編集委員会編『第三師団衛生隊回顧録』(1979年,同回顧録編集委員会)所収の杉野茂氏の手記(p102)

軍律厳しきなかにも粋な計らいと言いましょうか、慰安所が開設されることになりました。我が隊からは私が開設委員として派遣されることになりました。

    〔中略〕

その日から自治委員会の人と一緒にクーニャン探しに歩き回りました。四十七士になぞらえて、四十七人を求めることにしました。委員会の人はどこにどんな娘が居るかよく知っていました。顔にススを塗って天井裏から降りて来る娘もおりました。昔から美人と言えば、小野の小町か照る手の姫か支那の楊貴妃かと言われたその楊貴妃の生れ故郷の揚州ですから、美麗な子が多かった。


新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上(1985年,同事務局)所収の宮谷重雄氏の手記(p146〜147)

 やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、
 「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」
という命令である。
もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。
 ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。「あいつは物集めがウマイ」という評判が立って、その後、随分とこきつかわれるキッカケとなってしまった。どうも人間、何が不幸の種になるか分からないものである。

     〔中略〕

 兵団は武漢、長沙を経て衡陽から桂林に向かうことになった。ちょうど、桂林の中間地点の村落で、作戦準備のため長期駐屯することが決まり、旅団は分散して宿営することになった。数日たつと、また作戦参謀が私を呼び出した。そしてまたまた、慰安所を作れ、衡陽で女を集めてこいという命令である。私もつくずくいやになったが、作命には背けない。


平原一男『山砲の○江作戦』※○=草冠+「止」(1991年,私家版)384頁

 第二節で聯隊段列長が両市○に着任したとき、治安維持会長に要求した事項の筆頭に姑娘があったように*、小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたのかもしれない。

*指環注 平原一男氏は聯隊段列長と治安維持会長(余光南氏)とのやりとりを同書378頁で次のように紹介しています。
「夜、余光南がやって来た。何事かと思うと『歴代の警備隊長はいろいろと希望事項があったのだが、阿部連隊長は何を望むか』。『前の隊長は何を希望したのか』と尋ねると、『姑娘・鶏・鶏卵・豚肉・酒・警備隊の主食・税金等である』『そのような心配は一切不要』というと逆に驚いた顔をする。 〔以下略〕   」
  

*巻末の著者紹介によると平原一男氏は昭和15年9月陸士卒、独立山砲兵第二聯隊付となり、同年10月聯隊本部付となり、漢水作戦(15・11)陸水作戦(16・2)第一次長沙作戦(16・9)第二次長沙作戦(16・12)参加、昭和17年4月より18年3月まで陸軍科学学校学生、昭和18年5月第二中隊長に補せられ、常徳殲滅作戦(18・11)湘桂作戦湖南の会戦(19・5)参加、昭和19年8月第一大隊長に補せられ、湘桂作戦広西の会戦(19・11)南部○漢打通作戦(20・1)○江作戦参加、昭和21年11月復員。元陸軍大尉。昭和27年9月陸上自衛隊入隊、昭和47年8月定年退職。元陸将補。                                                  


森利『モリトシの兵隊物語ー一兵士の哀歓ー』(1988年,青村出版社)227〜228頁

 私は三日間の休養日に開設する特設慰安所の長を命ぜられる。先ず、前線司令部のある○城の軍政部に、自動車二台と一個分隊の警備兵を伴って出頭する。軍政部の係官と書類手続きを済ませ、二十五人の慰安婦と賄婦、監督(やりてばばあ)、総数三十人を受領する。彼女等は朝鮮ピーと違い、現地で徴発した支那ピーで、半分は素人、半分がセミプロ程度のようだった。軍政部から金が支払われている。二台の車に分乗させ、逃亡されないように警備も分乗する。

       〔中略〕

 翌日九時から開業である。それまでに軍医殿の検診を終わらねばならない。衛生軍曹がクレゾール石鹸液を準備する。軍医は至極事務的に終わらせようとする。ところが彼女達は初めての検診に驚き、軍医が薄いゴム手袋をはめて検診しようとすると受けつけない。これで意外に時間がかかる。また、監督を呼んで説明し、性病検査であること、決して恐ろしいものではないことを納得させる。私も軍医に立ち会って彼女達を見る。なんと驚いたことに、彼女達は例外なく不具者である。足の指が六本と手の指が四本ずつ合計すると二十本、また、足の指が十一本に手の指が九本もある。甚だしく不自然である。顔だちはよく二十歳前の女性である。軍の命令で軍政部が集めた慰安婦は、倫理道徳の進んだ中国社会では、苦肉の策として、この不幸な彼女達に慰安婦の仕事を引き受けて貰うしか方法がなかったものだろう。
 中国では大都会に行かなければ賎業婦はいない。そして日本よりはるかに性道徳心が高い。だから普通の縁組の出来ない不具者が、この方面を押しつけられるのだろう。軍政部の指示で、止むなく治安維持会が彼女達に犠牲になってもらったようだ。彼女達も表情こそ若さが溢れてはいるが、どことなく淋しさがただよい、生まれ持っての不幸を感じているようだ。軍規を保つための性欲処理は合法的な手段とはいいながら、哀れであり、人間の業の深さに嫌な気持ちになる。

*巻末の著者紹介によると森利氏は昭和14年、森利商店を設立し、繊維雑品卸業を営み、昭和16年2月、現役兵として野砲兵第1連隊に入隊して渡満、北満黒河省孫呉に於てソ満国境警備並びに駐屯地勤務、昭和17年8月東満○利に移駐し、戦車第二師団の機動砲兵第2連隊に編成される。昭和19年に鉄道13連隊に転属、河南、○漢、湘桂作戦に従事し、昭和21年5月復員。昭和24年モリトシ叶ン立。昭和35年森利シャツ工業叶ン立。繊維相互協同組合理事長。東京ワイシャツ協同組合常任理事。日本ワイシャツ組合連合会連合会。関東シャツ経営者協議会会長。本所警察署安全協会副会長。モリトシ梶Aモリトシ商事梶A森利シャツ工業椛纒\取締役。墨田商工会議所役員。


海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会企画編集『滄溟』(1983年,同委員会)所収の坂部康正氏の手記(312頁)

 命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件についてご熱心で、転勤前に山形長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて
現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
 日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと
強制収用された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらせられるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度も聞いて暗い気持ちになったものだ。
 果たして敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。

*坂部康正氏は、海軍第25特別根拠地隊司令部付きの主計将校だった。


禾晴道『海軍特別警察隊』(1975年,太平出版社)p109〜116

IX 慰安婦狩り

 アンボン島のような小さなケシ粒のような島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。
 日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎部屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。
 そこには日本女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要でもあった。
                                                                                          (109〜110頁)
      
 そして、再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からだされていた。
                                                                                          (112頁)    

 そして慰安婦を集める作業はどこがやるのか、各隊はそれにどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。問題は現地人を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つの謀議でもあった。
                                                                                          (113頁)    

 対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。
                                                                                          (114頁)

 副官の大島主計大尉はなにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。」
       〔中略〕
 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であったのだろうが、そんなことに気づいていなかった。
       〔中略〕
 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
                                                                                          (115〜116頁)

*禾晴道氏は1942年1月第一期海軍予備学生として海軍経理学校に入校、ただちに軍令部勤務。1944年3月以降インドネシアのセレベス民政部アンボン海軍特別警察隊に将校として勤務。

 このアンボン島の事例については、秦郁彦氏が次のように考察しています。

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)137頁

 ところが、四五年三月、艦隊の帰国の直前に、慰安所の復活が計画され、特警隊と政務隊が現地警官を使って女性の徴集に乗り出した。元売春婦や志願者や日本人の愛人(チンタ)を対象とする建前であったが、近くの島から女を連れていく時に「住民がどんどんやってきて返せ≠ニ叫び、こぶしをふりあげ、思わず腰のピストルに手を」と禾中尉が書いているくらいだから、拉致まがいの徴集もあったにちがいない。


                           次へ

                           トップページへもどる