フィリピン戦(機 ルソン島南部の「ゲリラ狩り」(1)


 太平洋戦争末期の1945年2月から3月にかけて、フィリピンのルソン島南部では、かなりの規模の「ゲリラ掃討」が行われました。実行部隊は、歩兵第十七連隊(秋田)を中核とする、「藤兵団」(長・藤重正従大佐)です。

 しかしこの「ゲリラ掃討」は乱暴極まりないもので、民間人とゲリラの選別はいい加減、挙句の果て、女子供までも大量に殺戮してしまった、と伝えられます。

 その結果、戦後の戦犯裁判において、兵団は大量の「戦犯」を出すことになりました。以下、資料に沿って、その実態を見ていきましょう。




背景:「敵」に回ったフィリピン人


 フィリピンは、日本の占領地の中でも、目立って「抗日ゲリラ」の活動が盛んなところでした。戦争末期には、日本軍は事実上、フィリピン人のほぼ全部を敵に回していた、と伝えられます。

中村康二『フィリピン政府の横顔』

※英文毎日編集部

 そして日本軍政に最初の成功から急転して失敗をもたらした大きな原因もまたゲリラに在る。

 メリカによって承認されたゲリラの総数は詳ではないが、米国在郷軍人会に登録されたものの概数は約二十七万と称せられている。マッカーサーが最初企図した数は十万といわれ、二倍半以上の数に達し、承認ゲリラ部隊の数は百四に上っている

 これら正規のゲリラに加えて、老人婦女子に至るまでが伝令、情報勤務に利用され、動員された。これらの人たちが、非武装ゲリラ、又はシンパとしてレイテ作戦当時はフィリピン約一千の町(ムニシパリティ)またこれらが包含する村落(バリオ)にあって約二百にすぎない町に存在する日本軍に抵抗したのである。(P73)



 日本軍は十万、二十万のアメリカ軍を相手にしているのではなく、全フィリピン人一千八百万を敵として戦っているともいえた

 特に後方において日本軍はフィリピン人の烈しい抵抗にぶつかっていた。日本軍の動静はアメリカ側につつ抜けの状態だったし、地方によっては一ヵ小隊の巡察でさえ危険であった。

 これはいわゆる一般住民が事実上の諜報機関として活動しているからであった。前線の米軍との戦斗はともかくとしてもこの後方におけるゲリラの動きもまた極端に日本軍の消耗をはげしくした。(P81)

(『秘録大東亜戦史 比島編』所収)  


設楽敏雄『米軍レイテに上る』

※毎日新聞ラジオ報道部

 マッカーサー元帥はフィリピンに十万のゲリラがあれば反攻作戦が十分できると考えていたところ、何とユザッフェの登録者は二十七万以上になり二千八百万の比島人全部が何らかの意味でその協力者であった

 純粋に日本軍に協力したものがあるとすれば、真のアジヤ人としての自覚をもった解放者か、さもなければ、箸にも棒にもかからない悪党でしかない。いずれにせよ、限られた少数者であった。(P109)

(『秘録大東亜戦史 比島編』所収)

※「ゆう」注 人口は「一千八百万」の誤記でしょう。 


フランク・リール『山下裁判』(上)


 橋が破壊された。電線が切断された。軍用車輛が破壊された。日本軍夜間哨戒兵は本部に帰れなかった ― 兵隊は死体になって発見され、頭部や他の重要な器官はナイフで切りとられていた。

 これらの数万の人々が山間地に浸透し、夜間、待ち伏せ、破壊、暗殺、時に、公然たる戦闘を行なった。そして、山麓の部落の男や女や子供達はこれらの人々に食料や情報を提供していた

 日本兵が、事実上、地方のすべての住民が、彼等に対して銃をとり、昼間、彼等に微笑を送るおだやかなフィリピン人が、夜になると、彼等を裏切って彼等に危害を加えるように思ったのは不思議ではない。

 日本に対するまじめな協力者は少数のフィリピン人に限られ、大多数の民衆は、合衆国に忠実であることが、特にルソン島では、今や明らかになった。

 (P150)


 一応のタテマエとしては日本は「アジア」を解放するために戦っていたはずなのに、実際には住民の大多数を「敵」に回してしまっている。何とも皮肉な結果です。

 基地を一歩出るとそこはもう危険地帯であった、という証言もあります。


『ふくしま戦争と人間5 特攻編』より

 それにしても、このときフィリピンの一般住民の心は、急速に日本軍から離れつつあった。開戦当初、フィリピンから追われた米軍が各地にゲリラ隊を残していき、これを住民にもぐり込ませて反日活動をしていたが、日本軍が各方面で劣勢になると、反日活動は一層激しいものとなった。

 それに占領軍としての日本軍がラウレル政権を誕生させ、名目上のフィリピン独立を実現したものの、ラウレル政権に与えたのは犹鯵篌治″でしかなかった。

 こうしたことが一般住民を反日的な気分へとかりたてた。「基地から一歩でも出ると、そこには米軍が残したゲリラの活動があり、うっかり歩けなかった」―こう回想する人もある。(P8)

 


 なぜここまで「反日ムード」が盛り上がってしまったのか。よく指摘されるのが、「物資の強引な徴発」と「日本軍の横暴さ」です。


宇都宮直賢『回想の山下裁判』


 一方、フィリピン人の間には、「スペイン人はわれわれに宗教を与え、アメリカ人は学校を与えた。日本人はわれわれに一体何を与えたというのか」などと陰口がささやかれだした。

 これは、日本が持たざる国であり、ギブ・アンド・テイクといったことができない経済状況にあったこと、現地陸海軍がなんらの取り決めなしにあらゆるフィリピン人の物資を徴用し、また米の収買に当たっては軍事絶対優先主義で、フィリピン市民の食糧生活が日とともに悪化していったことに大きな原因があった。(P92-P93)

 さらに、マニラその他の大都市をのぞく駐屯日本軍将兵が、支那事変や満州事変での異民族にたいする誤った取扱いに慣れて、キリスト教徒のフィリピン人に優越感をもってたいし、なにかというと、フィリピン人が最大の侮辱だと考えた平手打ちを彼等の顔に加えたり、爛丱ヤロー瓩茲个錣蠅垢觧例が各地に頻発した。このことが、日本軍にたいする反感に拍車をかけることになった。

 その結果、米軍のレイテ上陸以後、各地において多くの住民がゲリラ化することになったのである。(P93)



小林勇『マニラ市街戦』

※社会タイムス外信部


 野蛮なスペインにも似た、露骨な日本軍の搾取よりも、高度に近代化されたアメリカの支配のほうが、まだ多くの物質文化をもってきてくれたのである。

 四百年も虐げられて何ひとつ精神文化を持たない、被圧迫民族の地位に甘んじてきたフィリピン人にとっては、"アジアはアジア人の手で"などという食えないスローガンで飢えさせられるより、潜水艦でチョコレートを運んでくる米軍の宣伝のほうがはるかに魅力もあり、有難いにきまっていた。(P203)

(『秘録大東亜戦史 比島編』所収)  


NHK出版『証言記録 兵士たちの戦争ァ


 戦争末期、抗日ゲリラへの参加者は一気に膨れ上がった。きっかけは日本軍が軍票(通貨の代わりに軍が発行する手形)を乱発し、米や物資を買い占めたことだ。フィリピン人に多数の餓死者が出た。さらに孤立した日本軍の部隊が各地の農村で食料略奪に走り、反日感情を拡大させていった。(P241)

 


 加えて、以下述べるような乱暴な「ゲリラ狩り」が、ますますフィリピン人を「反日」の側に追いやる結果になったことも否定できません。



 当時のフィリピンにおける「反日感情」の強さは、右派論壇も認めるところです。ネットで「右派」から大人気の、アジアに生きる太平洋戦争(展転社)から紹介しましょう。


『アジアに生きる大東亜戦争』

味方を敵にした日本軍の愚策

 中島(慎三郎) 大沢清さんが言ってましたよ。「日本軍の将兵はフィリピンの風俗と習慣と宗教をまったく知らない。そのために、人様の目の前でフィリピン人の頬を殴ったり、フィリピンでは親も手を掛けない頭に、日本兵は平気で手を掛けたり、道路のまん中で最敬礼させたりしたので、その日から親日家が反日家になってしまった。物資のあふれる国だったフィリピンを、戦争で物資の欠乏する国にしてしまった。

 もっとも悪いことは、戦争末期、マニラを平和都市に宣言しないで、この地で死闘し、瓦礫の街にしてしまったことです。そのうえ、マニラ市民をアメリカ軍のスパイと見なして、掃蕩作戦を敢行して多く死傷させたことだ」と。

 これでは、日本軍が怨嵯の的になったのも当然です。フィリピン人はもともと親日的だった。しかし、敗戦の色が濃くなって、日本兵の道義が急速に低下した。物がなくなった。そういう最悪の状態になったため、親日のフィリピン人まで反日に変わったのは残念至極です……とね。(P47)


 次の発言などは、ほとんど「やけくそ」に見えます。


『アジアに生きる大東亜戦争』

 中島 第一点は、大東亜戦争は五百年とか千年とかの長い時間単位で見るべきだということです。

 人類史的規模の大戦争ですから、戦争のある時点の断面をとって、フィリピンの風俗・習慣に馴れぬ日本兵が不作法だったとか、日本軍が生活物資を現地調達するので、フィリピン国民の生活が窮乏を来たしたとか、敗戦色が濃厚になってからは日本兵の軍紀が乱れて残虐になったとか、そんな局所的現象にのみレンズを当てて云々するのは、公正な戦争批判だとは言えません。(P56-P57)

 発言者は日本軍を擁護する意図だったのでしょうが、結局「悪い所」を全部認める形になっています。しかしこれを「局所的現象」と斬って捨ててしまうのは、いかにも乱暴です。





藤重兵団長の「討伐命令」


 藤兵団が担当するルソン島南部地区は、その中でも特にゲリラの活動が活発であったと伝えられます。(ルソン島南部のgoogle地図をリンクします)


宇都宮直賢『回想の山下裁判』


 ルソン島におけるゲリラの活動は、アメリカ占領時代と同様、バタンガス州地方で最も活発だったが、ルソン中部平地でも侮りがたいものがあり、昭和十九年に入ると、フィリピン政府機関の行なう米の収買などもたびたびゲリラの襲撃を受け、日本軍の協力がなくてはその実施がほとんど不可能な状態となった。(P98)



 米軍との直接対決を間近に控えた藤兵団にとって、「ゲリラ」の活動を抑えて背後を安全にすることは、兵団の生死を分ける、喫緊の課題でした。

 藤兵団長は、ついに、「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛正せよ、責は兵団長が負う」という命令を発します。

戦史叢書『捷号陸軍作戦<2> ルソン決戦』より


 藤兵団は敵がリンガエンに上陸したのちも、依然、兵団地域内に敵の新上陸があると考えた。一月中旬−下旬における兵団長の苦慮は、

(一)兵団地域内の上陸はどこに行なわれるか、
(二)激化したゲリラの跳梁と住民の匪化をどうするか
(三)口スバニオスの俘虜をどうするか

などであった。

 兵団長は一月中旬、わが討伐中隊がサンパブロ地区で約一〇名の死傷を生じ、次いで同二十二日前後に集成討伐大隊が同方面で十数名の死傷を生ずるや、二十五日、中隊長以上を会同し、「対米戦に先立ちゲリラを粛正する」命令を下した。

 この際、「現状をもって推移すれば対米戦を待たず自滅に至る」旨を述べ、「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛正せよ、責は兵団長が負う」旨を述べた。部隊はこれにより粛正を行なった(この結果、兵団長は終戦後連合軍から絞首刑に処せられた)。(P587)


 戦後の戦犯裁判でも、藤重大佐はこの命令を発出したことを認めています。


フランク・リール『山下裁判』


 日本人の残虐行為の大部分は、一九四五年二月下旬から三月にかけて、バタンガス州で藤重大佐の指揮する部隊によって行なわれた。

 藤重の証言は直截で、断定的で、大声だった。彼は「女や子供さえふくめて」日本軍に反抗するすべて者を殺せという命令を出したことを直ちに認めた。(P155)



宇都宮直賢『回想の山下裁判』


 兵団長は一月下旬、中隊長以上を集め、対米戦に先だち徹底的なゲリラ討伐に着手する旨命令した際、「現状をもってしたら対米戦を待たずに兵団は自滅する、住民でゲリラに協力する者はことごとく粛正せよ、責任は自分が負う」と訓令した。

藤重大佐は裁判で、自分の乗用車も少年に手榴弾を投げられたこと、女や子供をふくめて日本軍に反抗するすべての者を殺害せよという命令を、上司の許可をもとめず、また報告もせずに自ら下達したと証言した》(P96)



 どうも実際の命令は、『戦史叢書』の記述に加えて、「女や子供を含めて」の文言が入っていたようです。


 しかしこの命令は、いかにも乱暴なものでした。

 藤重大佐は一応「ゲリラに協力するもの」という留保条件をつけてはいましたが、「反抗する者」とそうでない者の区別が簡単にはできない以上、現場の運用次第では「無差別殺害」になってしまいかねないことは、容易に想像がつきます。


 『戦犯裁判の実相』の記述です。

『戦犯裁判の実相』


 而して情況通迫して、良民とゲリラを識分する時間的余裕がなく、又便衣をまとふゲリラと、一般現地人と見分けることも困難であつたため処刑した者の中には、ゲリラと云へないものがあつた。(P321)



 なお『戦犯裁判の実相』は、「無差別殺害」を示唆する命令が出た、という認識を示しています。念のためですが、『戦犯裁判の実相』は、「戦犯」の側に深い同情を示すスタンスで書かれた本です。


『戦犯裁判の実相』


 即ち、兵団長は、米軍がリンガエン湾とナスグブに上陸した時の戦訓(現地人が米軍を日本軍陣地に先導した)に鑑み、米軍攻撃の際に於ける、予想交戦地域の「無人地帯化」を企図し討伐を発令した。(P320-P321)

 この命令に基き、各部隊は住民を戦斗地域外に立退かせると共に、討伐を実施したが、実施中、各地に於いてゲリラ部隊の反撃を受け、将校以下数十名の犠牲を出した。

 これに激怒した兵団長は「ゲリラ棲息地帯の現地人は、ゲリラに内通してゐるものとして処断せよ。女子供でも容赦するな」の強硬命令を出したが、米軍を至近の間に控へた各隊では、陣地整備に昼夜兼行の作業を続けてゐたため実施は仲々困難であつた。(P321)






 さらに現場では、こんな「噂」も流れました。


友清高志『つぐないきれない罪を犯して』


 サンタクララの藤兵団司令部が、隷下部隊の中隊長以上に集合を発令したのは、二月二五日でした。兵団長は、並みいる将校たちに、ゲリラ、すなわち住民の徹底的粛清を命じました。

 この時、特に厳命を受けたのが、第八六飛行場大隊長です。リパ市の中心地より三キロ南面にアンチポロ、これより西半キロにアニラオという部落があります。二つの部落にアメリカ軍の兵器が持ち込まれ、日本軍襲撃の訓練が行われているとの情報を、リパ憲兵隊がつかんだわけです。

 私が中隊長から聞いたところによりますと、藤重兵団長は、正面にいる田辺第八六飛行場大隊長を睨みつけて言ったそうです。

 「おい田辺、思い切りやって見せろ。責任はこの藤重が持つ。後世の人間が、世界戦史をひもといた時、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやって見せろ

 口を閉じた藤重兵団長は、田辺大隊長に視線を当てたまま薄く笑ったそうです。(P50)

(『アジアの声 第四集 日本軍はフィリピンで何をしたか』所収)

 「後世の人間が、世界戦史をひもといた時、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやって見せろ」 ―まさしく 実態通りの内容ではありますが、高級指揮官の間では、本当に藤重大佐がここまでの命令を出したのかどうか、否定的な見解が目立ちます。


『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

藤重部隊長を偲んで

聯隊本部 高橋 勇


 戦争の出版物に残虐行為を取材したものが少くないが比島戦場に於ける記事でも有りもしない事がらまで書き立てているものがある。事実を知らないものが、どんなことかと本を買いたがる心理を利用して売らん哉の不心得者であると思う。戦争は勝てば官軍で英雄的行為で敗ければ残虐的行為とされる。

 藤兵団は残虐部隊でそんな命令を藤重正従が下令されたかどうかは隷下部隊が知っている筈だ。側近の私はそんな命令は一度も聞いたことがない

 但し昭和二十年の三月に入って米軍と直接交戦するようになってから住民は子供まで日本軍に銃を向けるようになった時、部隊長は「日本軍に抵抗する者は草木でも殺せ」と言った。「抵抗する者は」であって「抵抗しないものまで」とは言わなかったのである。部隊長は国際法をきちんと守って戦斗していたのである。(P242)



『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

藤重大佐の思い出

聯隊本部 伊藤正康


 私自身、当時は夜中働き朝しばし仮眠しては兵団長のもとに屡々報告に参上した。そんな時に討伐の実体を聞いたこともないし、部隊長会同の席上、兵団長が住民を皆殺しにせよと部隊長を叱咤した(と或る本になっているが)ことを聞いてはいない。(P237)

※「ゆう」注 伊藤氏は戦後戦犯として絞首刑判決を受け、モンテンルパ・プリズンに収容されました。渡辺はま子が歌う『モンテンルパの夜は更けて』の作曲者であることで知られます。1953年の釈放後、自衛隊に入り、最後は自衛隊第六師団長を務めました。フィリピンの「戦犯」の中でも、とりわけ有名な人物です。


 両名とも、明らかに友清氏の証言を意識しています。


 念のためですが、この伊藤氏にしても、「皆殺し」命令の出所が藤重大佐であることを否定しているのみで、「命令」が出たこと、そして虐殺の事実があったこと自体を否定しているわけではありません


『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

藤重大佐の思い出

聯隊本部 伊藤正康


  二月六日、思いがけない事件が起こる。小林主計見習士官以下十数名がゲリラの襲撃をうけて殺害されたのである。この日から約二週間或は三週間の間に戦後、戦犯といわれる諸々の事件(討伐)が発生したのである。

 これらのすべてを兵団長が計画し命令したのかどうか。少くともバイで起った事件の報復は所在の部隊(漁撈隊藤井中隊)を使ってO中尉(連隊本部)が、翌二月七日独断行ったものと思わざるを得ない。

 戦後工藤中尉や私がこの報復行動の責任を問われ、比島軍事裁判を受け、工藤さんは遂に処刑されてしまうことになるのだが、どうしてこんなことになったのか今もって判らない。戦後F中尉(漁撈隊)の密告によるものだとの噂はあったが。(P236)

 市村大隊地域の討伐、そしてリパ、或いはカランバ等、何れも戦後になって見れば非常識と思われるような事件が相ついで起っている。これらのすべてが藤重連隊長の討伐命令に起因していることは疑うべくもない。只そのやり方、指導は誰がやったのかの疑問が残る。(P237)


 そして、藤重大佐の「監督責任」を、明確に認めています。


『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

藤重大佐の思い出

聯隊本部 伊藤正康


 討伐の細部にわたってまで兵団長が直接指導したとは思われない。が部下部隊が実行した行為について兵団長はその責を免れることはできない。(P237)


 いずれにせよ、藤重命令が結果としては現場に「皆殺し命令」として伝わったことは、否定できないでしょう。この藤重命令をきっかけに、ルソン島南部の各地で乱暴な「ゲリラ狩り」が行われることになります。

 友清氏は、現場の実態をこのようにまとめます。


友清高志『ルソン死闘記』

 ゲリラといっても、顔や容姿が一般住民と異っているわけではない。善良そうな笑顔で捜査班を迎える農民や、部落の首長が実は首領かもしれないし、そうでないかもしれない。このため討伐隊は疑わしい住民を拉致しはじめた

 住民は日本軍の姿を見ると逃げ出した。日本軍は、逃げる住民はますます怪しいと躍起となる。虐殺命令はこれに油をかけた。ついに、手当りしだい部落を包囲しては皆殺しの策に出たのである。兵団長藤重大佐(敵側は少将と思い込んでいた)の首に、やがて二万ドルの懸賞金がかかった。(P103)

 

 この地域で生じた「事件」の数は多く、まともに紹介するととんでもないスペースが必要となります。本来はここで個別ケースを紹介するところですが、読者の方の読みやすさを考慮し、次コンテンツにまとめることにします。




『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』より


 『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』は、藤兵団の中核部隊であった「歩兵第十七連隊」の元メンバーの戦場体験記を集めたものです。

  ここでは、あちこちで、「討伐」に触れる記述を見ることができます。


『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

大久保挺身隊の編制と行動

大久保隊 武田誠一

○討 伐


 アラミノス近郊の部落へ徴発に行った小隊が数名ゲリラに殺され大久保隊は死体を収容し焼骨した事があった。其の後此の村を報復討伐した。おそらくゲリラは逃げてしまい、討伐されたものは良民であったかもしれないと思う

 敵であれなんであれ人を殺すなんて初めてであったので、恐しいことに思った。而し戦場で生きることは自分が殺されないうちに相手を殺すことである。

 二月大久保隊はサンパブロ市警備に付く学校に集積された物資や馬具や布切れ、などが多かった動哨し警備。又市内巡察も何回もした。

 米軍がマニラ入城する頃にはゲリラ活動も一層活発になり此の為市内周辺の部落へ討伐に出る事が多かった。この頃から市内も時々爆撃される様に成り戦局もいよいよ急を告げる様になった。(P57)


『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

回想の比島戦線 マコロド山の戦闘・秘話

第二大隊本部(軍医) 植野為準


(カ) バウアン秘話

 クエンカに布陣している昭和二十年(一九四五年)二月バウアンのゲリラ討伐が行われた。

 その日の出来事であるが、竹薮のある某関所で、歩硝に誰何されて返事をしなかったために刺殺された二人連れの男がいた。ゲリラと判断されたのである。処断後、検分した処変装していた二十才前後の男装の麗人であったという。兵士達は取り返しのつかないアクシデントに悔恨しきりであったという。

 (教訓)戦場域では婦女子は男装する事は生命の危険を招くと知るべし。戦場では女、子供は殺さないのが掟である。(P130)



『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

比島南部ルソン戦線の思い出(昭和二十年)

聯隊本部 森口勝


 この三ケ月間は強烈すぎる行動をした時期であり、詳述を差しひかえたい。純戦斗行為とはいえないが自衛作戦であり、米軍との本格的闘いになる過程であり、日本軍のみ責められないと思う。(P159)



『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

ロスパニオスの戦闘

第十中隊 畠山四郎


 ゲリラは潜水艦や空輸によって武器の供給がどんどんなされていった。或る日カランバを望むラグナ湖畔に敵機が十個位のパラシュートで物資を投下して行く。すると、どこからともなくゲリラ達はそれに一目散駆けてゆくのが見えた。二粁も離れているのではどうすることもできず、ただ望見しているより他なかった。

 そのようにゲリラ、ゲリラと恐れられているゲリラではあるが、米軍からみれば実に頼もしい米比軍なのである。ゲリラの諜報は米軍に直結し、我々には誠に厄介なものだった。

 戦争という混乱の中では恨みや憎しみが生じ、必然的に感情的となり、ときには良民を巻添えにしてしまったことも事実であった。(P166-P167)



 例えば「南京事件」の場合、部隊戦史や手記集で「不法殺害」に言及したケースはほとんどありません。ほとんどの戦史は、「なかった」ことをタテマエとします。(数少ない例外を集めたのが、郷土部隊戦史に見る「南京事件」の記事です)

 そのことを考えれば、ここまで素直に「不法殺害」の事実を認めた「戦史」ものは、珍しい部類に属します。逆に言えば、「掃蕩」の事実が、全く否定のしようのないレベルに達していたことの証左、と言えるかもしれません。


 それでも実際には、編集者は寄稿された文章を、かなりの程度カットしていたようです。読み進めると、最後にこのような一文に行き当たります。

『歩兵第十七聯隊比島戦史 追録』

編集後記

 非常に長文の原稿は編集の関係上、削除或いは分割致しましたし、又、描写が生々しすぎるものは割愛せざるを得ませんでしたので、これらの事をどうかご海容下さるようにお願いいたします。(P285)


 殺人シーンなど、リアルに実態に触れたものは排除した、ということでしょう。





戦後の戦犯裁判


 戦後フィリピンでは、多数の「戦犯裁判」が行われました。その内容は、茶園義男氏が編んだ『BC級戦犯 米軍マニラ裁判資料』『BC級戦犯 フィリピン裁判資料』(いずれも不二出版)で見ることができます。

 藤兵団からも、多数の戦犯が出ました。『歩兵第十七聯隊比島戦史』などの記述をまとめると、米軍裁判で5名、それを引き継いだフィリピン裁判で16名が死刑の判決を受けています。そのうち5名が実際に死刑を執行されました。(他のメンバーは、1953年フィリピン大統領特赦により減刑、最終的には釈放)

 「命令」の発信元であった藤重大佐は、絞首刑に処されました。兵団幹部であった上原少佐、大野大尉も同様です。


 しかし、これ以下の下士官・一般兵士クラスになると、「誤認」が相次いだ、と伝えられます。先に紹介した、のちの自衛隊第六師団長、伊藤正康氏は、自らの体験を語ります。


伊藤正康『フィリピン軍による戦犯裁判』


 開廷劈頭、検事側証人が現われ、事件発生の経緯を述べたかと思ったとたん、被告席にたった一人座っている私を指さして、「この男が現場の責任者だった!」と供述したのには、当方が驚いた。

 バイという場所へ私自身今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。それだけに裁判で負けるとは思ってもみなかった。

 この後の弁護側証人、私自身のアリバイ証言も、事件の生き残りと称する一人の住民の証言には勝てなかった。昭和二十三年一月二十一日、私もまた工藤氏同様に死刑を宣告されてしまった(死刑第四号)。(P96)

(別冊歴史読本『戦争裁判 処刑者一千』(1993.7)所収)


 たった一人の証人の、いい加減な証言だけで死刑判決を受けたわけです。

 死刑を執行された工藤忠四郎大尉についても、実際は無罪であった、と言われます。

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』


工藤忠四郎元大尉の裁判


 起訴状によれば、工藤被告は一九四五年二月九日頃、ルソン島南部のラグナ州バイ町において、ホセ・カリキタンなどフィリピン人の非戦闘員約一〇〇名への虐待を命令、許容し、ドミンゴ・ディネロスなど二五名の刺殺、焼殺を命令、許容したとされる。(P80)



 起訴状に申し立てられたバイ事件の当日、彼はアラミノスというラグナ州の別の場所におり、翌日に「新任地たる「ロスパニオス」(ラグナ州)に向かうべく出発の諸準備に忙殺されて居った」のであり、バイ事件には 「全然関係がない筈」であった。公判でもこのことを主張したが、無実の訴えは通らなかった。(P82)


 その他、「同姓同名」を誤認された佐藤ケース(タール町事件。終身刑)、「殺害」には全く関与していない中田ケース(サンパヴロ事件。懲役30年。次項で詳述)など、杜撰きわまる裁判が相次ぎました。

 フィリピン側にとっては、国民の「復讐心」を少しでも満足させるべく、とにかく誰かを有罪にすることが最優先課題だったのでしょう。



 ただし一方、「上官の責任逃れ」の犠牲となって有罪判決を受けたケースもあります。市村大隊萩野ケースです。

 萩野少尉は、「藤兵団長の命令に基きルソン島バタンガス州、タール市周辺及びバウアン町のゲリラ討伐が現地人三〇〇名を殺害」した事件の犯人として、市村大隊の8名とともに起訴されました。

 その時、「命令者」であったはずの市村大尉、そして副官の尾張中尉は、起訴を免れました。萩野少尉と同時に起訴された福岡少尉らによれば、市村が命令を出したことを否認し、「責任を部下になすりつけた」ため、と言います。

石田甚太郎『殺した殺された』

大石五郎さん(「ゆう」注 福岡少尉)

―敗戦後、兵団としては討伐命令を出さなかったことにしようという動きがあったのですか?

「そう、あった。山下裁判の証人として出席した十四方面軍のある参謀が、『日本の名誉にかけても、討伐命令はなかったことにせよ』と口止めをしたそうだ。だから兵団長も命令をしなかったと言いだし、『それじゃ、責任はすべて部下になすりつける気か』と大騒ぎになった。

 その後、兵団長は前言をひるがえして責任を取り、絞首刑になった。

 しかし、田川大隊長(「ゆう」注 市村大隊長)は臆病者だったから、自分だけ逃げた。戦犯の判決が下される前夜、起訴された私たち九人は田川に激しく迫った。『ゲリラ討伐命令をあんたが出していながら、病気だったからと否定されたんじゃ、部下のわれわれに処罰がくるじゃないか』って。

 夜中まで、彼に真実を証言してくれと迫ったところ、やっと明日の法廷では本当のことを証言すると約束をした。だけど、彼は約束を反故にしてしまった」



 バウアン爆破事件で戦犯に問われた佐々木五郎さんも田川さんについて、次のように証言している。

あの人は日本に戻っても出身地が違うので、私たちと顔を合わせることもないと思い、命令を出さなかったと責任を部下になすりつけた。当時は、上官でも戦友でも、自分が助かるために罪をなすり合って醜いものでしたよ」(P202-P203)

※「ゆう」注 本書では、証言者はすべて仮名となっています。他の資料と照らし合わせて本名が特定できる場合、「姓」のみを示しました。以下も同様です)

 実際には萩野少尉は、事件の責任者ではなかった、と伝えられます。


『戦犯裁判の実相』


 第二項目の討伐に就いては、爆破された生残りと称する証人が四人現れ、討伐隊長は萩野であると指名した。

 この爆破は前述の如く状況逼迫のため武本隊長が命じたので、若しこれに参画してゐるとすれば小銃隊中隊長高橋中尉(戦死)であつた。萩野は給養係として参加したものであるが、同時に通訳として町民を教会に集めたりしてゐた為誤認されたのである。(P323)


 戦後、大隊副官の尾張中尉が、その事情を語っています。


石田甚太郎『殺した殺された』

―なぜ、松野少尉(「ゆう」注 萩野少尉)だけが責任を問われて銃殺刑になったのですか? ……彼は大隊本部副官だったあなたを補佐する役目で、まったく命令系統からはずれていた人物でしょう?

あれは英語も話せたし、進んで住民の中に入って行ったから、キャプテン・マツノとよく名を知られていた。だから、住民に指さされて犯人にされてしまった

―責任者でない松野少尉が死刑になろうとしていたのに、誰も法廷で助けようとしなかった。なぜですか?

「自分のことで精一杯だったからな」(P200)



 結果的にこの事件では、死刑の萩野少尉を含め、9名のうち6名が有罪判決を受けました。弁護側にとっては、市村大隊長の「命令発令否定」が大きな打撃になった、ということです。

『戦犯裁判の実相』


 特に打撃となつたのは、大隊長市村大尉が討伐命令の発令を否定してゐたことであつた。ケース関係者としては、命令に依る討伐であることを立証したかつたのだが、肝心の市村大尉が発令を認めてくれず、談合の末漸く承諾を得て、弁護側証人に立たせた

 ところが、そこでも彼は発令を否定したのである。これによつて検事側が意図する被告の一部の共同謀議による殺人行為となつた。

 次には討伐隊長武本中尉及高橋中尉の戦死してゐることであつた。検事側は萩野を事件の主謀者にしようと証言を集中せしめたので、他の被告が彼の当日の任務と行動を証言したが殆ど採証されなかつた。(P323)


 なお、米軍裁判では起訴を免れた市村大隊長・尾張副官でしたが、続くフィリピン裁判では起訴され、絞首刑の判決を受けました(のち減刑、釈放)。戦後市村大隊長は石田氏のインタビューを受けていますが、なお「命令を出した」ことを否定しています。


 結局、連隊幹部3名以外で死刑が執行されたのは、下級将校である工藤中尉、萩野少尉の2名のみでした。この二人とも「冤罪」であったことは、大きな悲劇、と言わざるをえません。





石を投げられる日本軍捕虜たち


 フィリピンの「反日ムード」に、このような乱暴な「ゲリラ狩り」はさらに拍車をかけました。

 戦後捕虜になった日本兵たちの記録には、必ずと言っていいほど、「フィリピン人から罵声を浴びせられ、石を投げつけられた」というエピソードが登場します。


長井清『悔恨のルソン』


 日本兵のトラックが何台も通るという噂が広まったのか、沿道の比島民衆から「バカヤロウ」「人殺し」「ドロボウ」と口々に罵声を浴びせられた。

 
私たちにはほとんど身に覚えはなかったが、略奪や婦女暴行をはたらいた部隊もあったから、彼らの怒りは当然だった。満員電車のような状態のなかに大きな石を投げ込まれて、よけることもできず恐ろしい思いをした。

 トラックは猛烈なスピードで走った。そしてマニラ近郊にあるラグナ湖付近の、二重にバリケードされた第四収容所へ到着した。(P84)



守屋正『フィリピン戦線の人間群像』


 住民がバラバラと家から道路上へ駈け出して、手を振って何やら大声で叫んでいる。私たちはてっきり戦争が終ったので、喜んでわれわれを歓迎するために、家から飛びだしたのだと思った。われわれは彼らの姿をみると、ニコニコして手を振った。

 ところがこれが大間違いで、彼らは形相おそろしく、口々に、「ハポン ドロボー バカヤロー」と言っているのである。ハボンとは現地語で日本のことである。

 なかには石を投げつけようとするものもいる。トラックの前後に乗っているMPが、カービン銃をかまえておどすと投石をやめる。(P232-P233)

 いや、飛んでもないことである。三年何ヵ月かの日本の戦果は元も子もなくしただけでなく、住民にこうした最も下等で悪質な言葉をおしえただけの結果となったのかと思うとなさけなくなった。

 町の中を通る間はみんな頭を抱えて、トラックの中で小さくなることにした。(P233)



阿利莫二『ルソン戦ー死の谷』

 何日か経つ。やがて貨車に乗りこむ日がきた。重苦しい肝臓を押えながら、タオルをまきつけ、貨車にうずくまるように横になる。スプリングのきかない貨車にどのくらいゆられていただろうか。

 線路際にフィリッピン人が群らがって石を投げ始める。

 「ジャパン・ボンボン・パタイ」

 この罵声だけを覚えている。《日本人射ち殺せ》こんな心だろう
。(P160)


福井綏雄『我が青春の烈禍』

 「ドロボー、ドロボー、キル(殺す)キルー」

 侮蔑の目を一段と大きくひんむき、憎悪に満ちた罵声を浴びせかけ、首に手をやって首を落とすゼスチャーをする。石やボルトナットが手当り次第に飛んでくる。鉄道の貨車に移乗させられた私達が、沿線群集から受ける挨拶であった。

 敗け戦争(いくさ)にかり出され、ルソンの地を踏んだばかりと言うのに、何んの因果でこんな仕打ちを受けなければならないのか…………。ラグナ湖畔の広大な湿地に設営された、カンルパン捕虜収容所に入れられ、原住民から隔離されてほっとした。(P366)



石田徳『ルソンの霧 見習士官敗残記』より

 列車が部落に差しかかると、予想通りに、どこからともなく、付近の住民が集まってきた。そして、「バカヤロー」、「ドロボー」を、さかんに浴びせた。暫く声がしないので、油断していると、不意を突いて、石ころや汚物が投げ込まれた。そんなとき、同乗のガードは、間髪をいれず、カービン銃で威嚇射撃をした。

 街に入るほど、対日感情が悪くなった。概して、彼等は、教育程度も高く、親米反日的であった、

 おそらくこの辺は、戦禍も甚だしかったのであろう。財産は略奪され、肉親は殺害されたのかもしれない。そんなフィリピン人なら、日本人を見れば、石の一つも投げたくなろう。(P236)

 そう思うと、それほど腹も立たなかった。あるいは、帰国を控え、少々気持が寛大になっていたのかも知れない。(P237)



 これはほんの一例です。読者の方も、フィリピン戦の捕虜の記録を見ていただければ、高い確率で同じような記述に行きつくはずです。

 民間人であっても、フィリピン人の怨みの対象となることは免れなかったようです。

岡田梅子『アシンの緑よ 有り難う』

 車の中で朝を迎えた。人家のある所をトラックが通ると、私たちは罵声を浴びせられ、小高い家の庭先で洗濯をしていたおかみさんは、矢庭にタライの中の石鹸水を浴びせかけた。(P99)

 金網で囲まれたテント張りの中に私たちは下ろされた。そこはソラノかボンファルの様だった。遠い金網の外側には比島の人がたかり、拳を振り上げたり、唾を吐いたり、憎しみを私たちに精一杯ぶつけていた。(P100)


 実際の話、「ゲリラ狩り」に遭遇して、逆に「ゲリラ」への参加を決意した、というフィリピン人の証言もいくつかあります。日本軍の「ゲリラ狩り」は、「反日運動」を抑え込むどころか、フィリピン全体を一層「反日」の側に追いやる結果に終わりました。
(2014.11.16)
  
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