"バターン死の行進"(機 マリベレスからバランガまで

―食糧なき行進―



 以下7回にわたり、「バターン死の行進」を採り上げます。

 ネットを見ると、ほとんどが「バターン死の行進」を否定するサイトで占められますが、実際に調べてみると、それは、一部右派論壇での「バターン否定論」論稿を丸呑みした一面的な認識であることがわかります。

 本稿は、1〜5でスタンダードな「バターン」認識がどのようなものであるかを確認するとともに、最後の2回では「バターン否定派」の認識の危うさを示します。

 なお5の「バンティンガン川の虐殺」は、日本語で読める関連資料をすべて集め、その上で私なりの再構成を行いました。「バターン」自体は決して「意図した残虐行為」ではありませんでしたが、その陰でこのような事件が生じていることは、ほとんど知られていません。




「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―   ・・・本稿
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―
3.サンフェルナンドからオドンネルまで
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄




 「バターン死の行進」は、太平洋戦争初期における日本軍の「戦争犯罪」の代表例として、しばしば取り上げられます。


秦郁彦他編『世界戦争犯罪辞典』より

パターン死の行進

 一九四二(昭和一七)年四月、日本陸軍がフィリビンのパターン半島を攻略した際、降伏した米比軍あわせて七万人余の捕虜を、炎天下に、主として徒歩行進によりルソン島中部のオドンネル収容所まで移送したが、その途中および収容所に到着後に三万人近い死亡者を出した事件。(P134)


※「ゆう」注 死亡者数については、「オドンネル収容所」の「到着後」も含まれていることにご注意ください。「バターン死の行進」という言葉からは「行進」中の死者のみ問題にされているかのように錯覚しますが、 実態としてはむしろ「収容所」到着後の死者の方が多く、アメリカ・フィリピンで認識される「死の行進」はここまでが一体となったものです 。なお上では「三万人近い死亡者」となっていますが、死亡者数については諸説あり、確定は困難と見られます。




 ただしその事実認識、及び責任論については、今日でも大きな争いがあります。「南京事件」と同様、「加害者側」と「被害者側」では「事件」に対する認識が全く食い違っており、日本軍側(及びそれを継承する現代の右派論壇)では、日本軍側の責任を否定する議論が盛んです。

 以下のコンテンツでは、1〜3で主として被害者側から見た「行進」の状況を概観し、4で捕虜たちがようやく到着した「オドンネル収容所」の悲惨な実態を取上げます。5は「番外編」、行進中に生じたと伝えられる「パンティンガン川の虐殺」です。そして6、7で日本側の「否定論」を重ね合わせて、事件の全体像を探っていきます。






「行進」前史

 1941年12月、マニラを放棄した米比軍は、バターン半島に立て籠もって戦闘を続けました。

 日本軍は、この米比軍を攻めあぐねます。最終的に「大攻勢」を仕かけたのは、それから4か月後の、1942年4月のことでした。

 日本軍は当然のことながら、大量の捕虜発生を予期しています。「捕虜後方移送計画」については、上田敏明氏のまとめが簡潔にして要を得ています。(上の地図と合わせてご覧ください)


上田敏明『聞き書きフィリピン占領』


 捕虜を後方移送する計画は、半島が陥落する前の三月二三日に兵站祖当の河根良賢少将から提出された。この計画は四つの段階に分かれていた。

  一、マリベレス町 - バランガ町(約三九キロ)
  二、バランガ町 - サンフェルナンド町(約五一キロ)
  三、サンフェルナンド町−カパス町(約三七キロ)
  四、カパス町−オードネル収容所(約一四キロ)


 一(マリベレス−バランガ)を一日で歩かせる。この区間では、捕虜たちには手持ちの携帯食があると予想し、食事は与えないことにした。バランガやオラニ、ルバオ、サンフェルナンドの町では日本兵と同じ食事を出す、と した。(P71-P73)

 二の区間は二〇〇台のトラックで、三の段階は鉄道で移送する。最後の四は再び徒歩で行かせる―。

 また野戦病院を三ヵ所開設し、水や応急物資を支給する休息所も一〇キロごとに置く予定だった。

 計画では、歩く距離は一と四とを合わせて五〇キロほどだった。(P73)



 日本軍の輸送能力では、発生するであろう大量の捕虜に対して食糧を運ぶことは困難である。そうであれば、食糧を捕虜のところまで運ぶのではなく、逆に捕虜を食糧のところまで連れて行こう、という計画です。

 バランガまでの最初の39キロは徒歩行進。バランガからはトラックと鉄道で収容所最寄り駅のカバスまで移送し、最後の14キロは再び徒歩行進。食糧は、バランガまでは捕虜の手持ちに頼り、バランガ以降は食糧を供給する

 机上のプランとしては、特段無理があるとも思われません。しかし、実際に捕虜を得てみると、この計画の前提となった条件はすっかり崩壊していました。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥

 悲劇的なことは、この計画の基礎自体が誤っていた。ウェーンライト将軍指揮下の将兵はすでに飢えに苦しんでおり、さらにマラリアにかかって衰弱していた

 そのうえバターンで投降した捕虜の数は二万五千人ではなく、七万六千人であった。(P242)



 「計画」との齟齬は、以下の2点です。

1.米比軍将兵は既に慢性的な食糧不足の状態にあり、「手持ちの食糧」など存在しなかった。そのためにバランガまでは「食糧なき行進」となった。しかも彼らはマラリアなどの猖獗に苦しんでいた。

2.投降兵の数は当初見積りの3倍であり、「トラックでの輸送」が困難となった。 (現実には、「トラック」の大半は、フィリピン戦の最終段階である「コレヒドール」攻略のために使われ、捕虜輸送に回る状態ではありませんでした)




 このうち捕虜の大量死に直結したのは1の方でしょう。捕虜の投降前に、既に「飢えとマラリア」は深刻な問題になっていました。

レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』


 私たちバターンの兵士の食糧割当は最後の4日から5日間はわずか1日八〇○カロリーにまで落とされていた

 私たちは米と小さじ1杯のC食(軍隊用非常食として戦闘中に用いるよう特別に調理されパックされた肉)を食べていた。時にわれわれの食事には蛇1匹か猿1、2匹、望めるものならイグアナ1匹分などが増量されることもあった。前線の全兵士が1日に2食しか食べられなかった。

 この飢餓食は壊血病、ペラグラ(ヴィタミンBなどの欠乏による皮膚の障害)、脚気、そしてマラリア蚊その他の病原に対する抵抗力の低下をもたらした。食糧があろうとなかろうと、私たちは行進に耐えうる状態とはほど遠かった。歩ける者たちは入院しているべき状態で、病棟の者たちは死人同然だった。(P82-P83)

 


 蛇、猿、イグアナまで、「食糧」としなければならない状況であり、また高熱を発するマラリアなどの病気の蔓延により、米比兵たちは「行進に耐えうる状態」にはなかった、ということです。

 本間雅晴・山下奉文両将軍の「戦犯裁判」を扱ったテイラー『将軍の裁判』の記述も同様です。

ローレンス・テイラー『将軍の裁判』 


 おまけに彼らは、予期以上にひどい状態だった。大半の捕虜は、さながら生ける骸骨だった。ほとんど全員が栄養失調に陥り、マラリアか赤痢のいずれかに悩まされ、両方を患っている者も少なくなかった

 関口が一〇パーセントから二〇パーセントの間とふんでいた罹患率は八〇パーセントから九〇パーセントにおよび、高津の計算では二万五〇〇〇だった捕虜の数は一〇万にのぼった。

 アメリカ兵の中にもフィリピン兵の中にも、第一日めの糧食を携帯していると思われる者はほとんどいなく、常態ならば歩兵にはありふれた距離の行進に耐えられそうな肉体的条件の捕虜はほとんどいなかった。(P96)


 ともあれ、「計画」の前提条件がすっかり狂ってしまったにもかかわらず、当初の「計画」を強行したことが、「バターンの悲劇」の大きな原因の一つとなりました。




「行進」のはじまり

 この時期、フィリピンは「乾季」に当っていました。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 このころ、年間でもっとも乾燥する時期だった。フィリピン人が〈タグ・イニト〉と呼ぶ日照り続きの乾季にあたったのだ。フィリピンでは三月から五月まで太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼過ぎには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。(P237)

※「ゆう」注 以下、「被害者側証言」については、この本に大きく依存します。この本は、筆者が「一〇年の歳月をかけて」「アメリカ、日本、フィリピンで四〇〇人以上にインタビューし」(P576)た大変な労作であり、比較的信頼性の高いものであると思われます。


 捕虜たちは、こんな天候の下、空腹に苦しみ、水すらも補給を制限されていました。例え「病気」がなかったとしても、「行進」の苦痛は、いうまでもないことでしょう。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 このとき、捕虜たちは空腹を抱えていた。降伏前からすでに飢えていたが、降伏後、ほとんどの者は一口も食べていなかった

 飢えよりも深刻なのが渇きだった。カブカベン到着後の混沌とした状態のなか、近くの小川で水筒に水を詰める許可はめったにもらえなかった。捕虜のほとんどは水を携帯しておらず、たちまち脱水状態になり、暑気あたりに苦しんだ。こめかみは脈打つように痛み、頭は燃えるように熱くなった。意識が遠のき、めまいのせいで足がふらついた。(P244)


 「病気」の蔓延が、捕虜の苦痛に拍車をかけます。

火野葦平『バタアン死の行進』

 フィリピン兵たちの憔悴ははげしかった。それは戦闘だけの疲れではなかった。栄養不良、マラリヤ熟、デング熱、赤痢、等で、半病人が大部分だった。勿論、戦傷者もゐた。(P53)



 当然のことながら、行進についていけなくなる捕虜が続出しました。


火野葦平『バタアン死の行進』

 炎天に灼かれながら、捕虜の隊列は遅々として進まない。思ひ思ひの服装や姿勢で、勝手な行軍をしてゐる。

 指揮をとる者は誰もゐない。ただ、命ぜられた同じ方向に、口もきかず、疲れきった身体を運んで行く。精神のない機械のやうに、或る者は立ちどまり、道傍にしゃがみこむ。また、歩き出す。

 炎天の陽炎につつまれて、弱りきった兵隊たちはときに亡霊のやうにすら見える。道路傍にへたばったまま、長く起きあがらなかったり、そのまま、二日も三日も動かぬ者もある。(P56-P57)



児島襄『太平洋戦争』(上)

 四月はフィリピンの盛夏である。

 マリベレスから東海岸に出る道は、山道でけわしいが木かげもある。しかし、いったん東海岸に出ると、道はたんたんとしたアスファルト道路で、まわりは水田か草原にすぎず、炎熱の太陽を避けるマンゴーの木もめったに見あたらない。

 その道を飢えに苦しみ、マラリアにおとろえた兵士が歩くのだから、犠牲者が出るのも当然だった。道路には、点々として死者がならんでいった。(P195)

※「ゆう」注 児島氏の文は、「行進がはじまってからその実状を知った本間中将は、できるだけの対策を講ずるよう和知参謀長に命じた」と続きますが、その記述の根拠は不明です。あるいは次章で取り上げる、寺下辰夫エピソードのことを指しているのかもしれませんが、これはバランガでの話です。




 飢えとマラリアの高熱に苦しむ兵士たちを、四十度近い炎天下、食糧も(場合によっては水も)与えずに何十キロも「徒歩行進」をさせたらどういうことになるか ― 日本軍には、そういう「想像力」が欠けていた、と言わざるをえません。

 報道班員の寺下辰夫も、戦後の著書の中で、拙速すぎたのではないか、との感想を漏らしています。

寺下辰夫『サンパギタ咲く戦線で』


 卒直にいって、日本軍の参謀部に、輸送に関する計画性がなかったことも事実である。

 もう少し、あわてることなく、よしんば、一日か二日ぐらいは、処々に俘虜を集結させ、休止させて、最小限度でも仕方がないから、食糧の到着を待った上で、おもむろに、後方に移動させたり、あるいは、米比軍の各部隊で、幾分か食糧のある部隊の食糧を、食糧皆無の部隊の方へまわして、マニラから救援食糧の届くまで補填するとかの工夫をするのも、その方法だったとおもわれる。(P230)

※「ゆう」注 公平を期するために付け加えますが、寺下氏は続けて、「あわてた考えが先になってしまって、ただ後方へ後方へ輸送して、彼らに一日も早く食糧を与えなければならぬということのみに、考えがはしるのも、またやむを得ぬ結果ともいえるであろう」と書いています。しかしこの事態を「やむを得ぬ結果」を総括してしまうことには、私としては違和感を禁じ得ません。



 このような状況が正確に軍中央に伝わり、かつ軍中央に「捕虜」に心を向ける余裕があったのならば、「死の行軍」はかなり緩和されたものとなったかもしれません。しかし日本軍の関心は、「フィリピン戦」の最後を飾るであろう「コレヒドール戦」に集中しており、バターンの「捕虜の待遇」は事実上現場任せになっていました。


 伊藤正徳は、どちらかといえば「日本軍擁護」のスタンスをとります。しかしその伊藤氏ですら、「擁護」の材料を並べつつも、最後にこう付け加えざるをえませんでした。

伊藤正徳『帝国陸軍の最後』より

 ただ、こういうことは言い得る―俘虜を好遇する意思が十分にあったならば、モ少し苦痛のない後送法は実行できたであろう。(P186)

 一日の行進距離を縮めること。マリベレスとサンフェルナンドの中間に食糧の貯蔵所をつくり、多少なりとも補給を考慮すること。幹部にトラック輸送を工夫すること等々、とにかく尽くせるだけは尽くしてみることであった。それを、本間軍は逆に放擲したという憾みがあった。(P187)



 「世界戦争犯罪辞典」の記述も同様です。

『世界戦争犯罪辞典』より

 ジョン・トーランドは意図的、組織的に行なわれたものではないと述べているが、いずれにせよ、以上のような諸要因から多くの死者が発生したことは事実であり、英米通として著名だった本間軍司令官が実情に適合した処置を工失する余地がなかったか、との思いは捨てきれない。(P137)

(執筆:原剛)







捕虜への暴力、虐待


 「バターンの悲劇」を増幅したのが、日本軍兵士の捕虜に対する暴力、虐待です。これさえなければ、欧米の「バターン」に対する評価は、随分と違ったものになっていたでしょう。

 その背景には、こんな「捕虜観」があったと伝えられます。いずれも、バターン戦に同行した「報道班員」の記録です。

※開戦時、大勢の作家・詩人・マスコミ関係者が「徴用」を受け、各地の戦場に派遣されました。フィリピン戦の「ペン部隊」メンバーは、火野葦平、尾崎士郎、石坂洋二郎、今日出海など、今日でも名が知られるなかなかの豪華メンバーです。彼らは「報道班」に組織され、軍の宣伝活動の一翼を担いました。

西川佳雄『比島従軍記』

 アメリカ兵の最後の一兵まで一人残らずやっつけてやるぞ、と火の如き怒りに燃えてゐた勇士たちにとって、それ(「ゆう」注 敵の降伏)は少しも喜びではなかった。

 「卑怯者奴ッ

 と、勇士たちは口惜し涙を流して泣いた。

 なぜアメリカ兵は最後まで戦はうとしないのか。自分らの命が危いとみてとると、それまで銃をとって闘ってゐたといふことを一瞬にして忘れてしまったかのやうに、にこにこと嬌笑さへふくんで両手をあげる米兵たちであった。(P145)



柴田賢次郎『樹海』

 彼等はかうして日本軍に投降しをはると、瞬間喜々とした表情で安堵の色をあらはす。刀折れ矢は尽きた、吾々の仕事は終了せり、と、彼らは先づ自分自身の安全であったことを祝福するのである。皇軍の将兵には、まことに不可解な彼等の態度である

 「戦争は生命を賭けたスポーツだ」と或る米人捕虜が笑って言った言葉が、脳裡から消えない。抵抗するだけ抵抗して、いけなくなれば手をあげる。さうして自分の戦争は終了せりと宣言する。これはバタアンの米比軍将兵全体の考へであった。まことに危険な憎悪すべき思想だ。(P171)



 「バターン戦」に限らずよく言われることですが、実質的に「降伏」を禁じられていた日本軍兵士にとって、敵兵の「降伏」は、理解できない、軽蔑すべき行為でした。こんな蔑視観が、「捕虜虐待」につながっていきます。


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 日本兵は前触れもなく怒りを爆発させるようだった。冷静だと思っていると、次の瞬間には常軌を逸した行動をとった。

 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、その上官の軍曹や少尉にしても部下を殴るさいには同じように残忍だった。平手や拳固で殴り、蹴り、横っ面を引っぱたく。頭を打ちのめし、頭蓋骨を叩き割る。

 こっちを見た、あっちを見たと言っては殴り、動いた、迅速に動かなかったと言っては殴り、話をした、話をしなかったと言っては殴った。理由は何でもよかった。たいした理由はなかった。(P235)



レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

理解できない命令

 日本軍の見張りたちも日本語でどなりはじめたが、私たちには理解ができなかった。思うほどすばやく私たちが命令に反応しないため、彼らは道ばたで拾った棒切れで私たちを打ちたたきはじめた

 もっと早く歩かせよう、というより小走りに行かせようとしていたといったらいいだろう。自分たちの命令を私たちが理解できないことなど、この見張りたちはおかまいなしだった。彼らはただ同じ言葉を何回もくり返しつづけるのだった。

(略)

 この絶えまないいやがらせと殴打と肉体的な悪条件のなかで4、5時間も強行軍をつづけたために、仲間の捕虜の多くが、休まないことにはもうこれ以上一歩も進めなくなった。しかし見張りたちはどんな状況でも私たちに休むことを許さなかった
(P87-P88)

 


鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 現在、パターン半島サマル市に住んでいるメレンシオ・ガルシアさん(当時二五歳・比人)は当時、米比軍第三一師団に所属していた。彼は「行進」中に見た光景を次のように語った。

 ほとんどの捕虜たちは栄養失調やマラリアなどの病気だった。「早く歩け」と命令されても思うように歩けなかった。足はもつれがちになる。すると、日本兵たちはすぐに銃の柄で背中を叩いた。足が遅い捕虜たちにトラックの荷台から長い棒をふりまわした日本軍監視兵もいた。(P80-P81)

 ガルシアさんが歩いているとき、前かがみになって倒れそうになった捕虜にそばの同僚が手をかした。それでも歩けなくなるフィリピン人捕虜がいた。その一人はガルシアさんの斜め前を歩いていた。日本兵は両手を持ってその捕虜を立たせた。ガルシアさんは「親切な日本兵もいるのだ」と思った。しかし次の瞬間、日本兵は立たせた捕虜の顔面を殴りつけた。捕虜は倒れたが、起きあがった

 それからもその捕虜は思うように足が運べなかった。今度は日本兵は日本刀で足を切りつけた。傷を負ったフィリピン兵はもう歩けない。同僚のフィリピン人捕虜が助けた。両腕を抱えているフィリピン人捕虜二人も遅くなった。再び日本兵は彼らを銃の柄で叩いた。傷を負わされた捕虜は足が動かせなくなった。隣を歩く同僚たちも傷ついた彼を抱えるほどの力はない。歩みが遅くなれば、今度は自分か切りつけられると知っている。

 とうとう歩けなくなった捕虜はそのまま置き去りにされた。日本兵は、今度は彼の左足を日本刀で刺した
(P81)



 本来は「捕虜を食糧のある場所まで運ぶ」ために行進させていたはずなのですが、現場では「計画通り捕虜を移送すること」がいつのまにか自己目的化してしまったようです。行進についていけなくなった捕虜が虐待されたという証言は、到る所に登場します。

 日本軍が、「捕虜は人道的に扱うべき」という「国際法」のルールを守ってさえいれば、「バターン」がここまで大きな非難の的となることはなかったかもしれません。 しかし「南京事件」と同様、現場兵士の国際法への無知が、ここでも災いしました。

 基本的に日本側の「部隊戦史」ものはこのような「残虐行為」の存在をスルーします。数少ない例外が、「福山聯隊史」でしょう。


 
「福山聯隊史 マレー・バターン編」

絞首刑となった誠之館卒業生 その8

 残虐行為と云っても、平手でなぐられたり、げんこつを食うことも、ごく普通のことであった

 その原因を考えてみると これは明治初年の日本陸軍創設の頃の将校は殆ど武士の出身であったが徴兵によって入営する兵士には百姓や町人が多く将校から見れぱ、ただに軍人として地位が違うだけでなく、身分格式の截然と異る平民共であった

 平民と席を同じくして軍籍にあるということは忍び難い屈辱ですらあった。

 そうした心の蟠(わだかま)りから必要の度をこえて兵を蹴ったり殴ったりするようになった。

 このようにして、私的制裁で訓練された日本兵は、捕虜が日本兵の言葉を理解できなかったり、衰弱しきって命令どおりすることができなくなっていると、日本兵は不服従の態度に衝動と欲求不満が生じてきて、暴力をふるい、そして殺人にまでつながった。(P356)


 日本軍内部では「私的制裁」が日常的に行われていました。その延長で捕虜に対しても「暴力」を振るうことに何の抵抗もなかった、という説明です。識者の認識も、この点はほぼ共通しています。


角田房子『いっさい夢にござ侯 本間雅晴中将伝』


 捕虜の引率に当った日本兵は、彼らをどのような思いで眺めたであろうか ―。

 日本の将兵はすべて「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と教えこまれ、これを絶対の軍律として戦場に立っていた。敗戦となれば、玉砕を目指して最後の一兵まで戦うのが、彼らに課された義務であった。こうした日本の将兵の多くが、恥じる色もなく捕虜となった米比軍の将兵に対して軽侮の念を待ったのは当然であろう

 検察側証人の多くが「われわれの中で、当然の抗議や要求をした者は日本兵によって殴打され、蹴られ、それらはしばしば死に至るまで続けられた」というたぐいの証言をしているが、投降した後は国際法規による捕虜として扱われるのが当然と信じている彼らの抗議や要求を、日本兵は「捕虜のくせにナマイキな」と受けとって、暴力を振う気になったのであろう。(P387)



ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥

 残虐行為といっても、それは日本兵にとって日常のことであった。兵隊は戒告のために将校から平手でなぐられたり、げんこつを食ったりしても、ごく普通のことと思っていたし、自分たちも、階級が下の連中を殴打した。

 捕虜が日本兵の命令を理解しなかったり、衰弱して命令どおりにすることができなくなっていると、彼らはその不服従の態度に衝動と欲求不満が生じて、暴力をふるい、殺人さえ犯した。(P254)




 さらに、列を乱す捕虜への「虐待」が「捕虜虐殺」にまでエスカレートした例も、多数報告されています。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 たとえば、隊列から落後する者や、隊列全体の速度を遅らせる者がいれば、たいていの監視兵は銃剣でその者の腰か尻を突いた。ただちに隊列に戻るよう急き立てる目的で、すばやく、浅く刺したのだ(インディアナ州ノックス出身のエド・トーマス軍曹は、そうして監視兵に突かれたとき、必要ならば「はるかマニラまで」走れるに違いないと思ったという)。だが、もはや追いつく体力のない者には、銃剣を深々と突き立てた



 トニー・アキノ軍曹と同じ隊列の若い米兵が砂利道でうつぶせに倒れた。後方にいた監視兵がその隊列全体に停止を命じ、若い米兵のあばらのあたりを蹴り、立ち上がれと怒鳴りつけた。その米兵は少しばかり体を起こしたが、ふたたび倒れてしまった。(P246-P247)

 監視兵はもっと強く蹴りつけた(がんばれ戦友、とアキノは心の中で声をかけた。立て、立て、と)。若い米兵は頭を上げ(アキノが見ると、彼の口には血があふれていた)、手を伸ばした。監視兵に助けを求めるかのようだった。

 監視兵は、その米兵の首筋に銃剣を突きつけ、ひと声叫ぶと、ぐいと刺した。びくりとして上体を起こした米兵は尻をついて座った格好になったが、銃剣を引き抜かれ、地面にどっと倒れた。

 これは死の行進なのだとアキノは思った。「死神のさまよう果てなき道」である。よろけて倒れれば「もはやそれまで」だった。



 ジョー・スミスと同じグループの軍曹が倒れたとき、その友人ふたりが隊列から飛び出し、手を貸してやった。すると、後方にいた監視兵が何か叫びながら走ってきて、手助けを買って出た捕虜たちを殴って隊列に戻してから、倒れた軍曹を銃剣で突き剌した

 スミスがその現場の真横に来たとき、監視兵は銃剣を引き抜こうと四苦八苦していた。あまりにも深く刺しこんだのでなかなか抜けず、軍曹の腰のくびれに足をかけ、両手で小銃を引っ張ってようやく抜けたのである。(P247)



レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』


 この男はもうだめだと私にはわかり、明らかに助けが必要で、死にかけている者に何もしてやれないことでたまらない気がした。もし私たちのだれかが彼のために止まったら、近くにいる見張りの気分しだいでどんな刑罰も受けねばならないだろう。

 行進が続くにつれ、彼は列のずっと後ろへと遅れていき、ほとんど歩けなくなった。私たちは要らないものは投げ捨てるように彼によく話して納得させようとした、というのも、こういう状態では彼の持ち物は重すぎたからである。

 彼はそれを断り、数百フィート(一〇〇メートル)ほどふらつきながら歩いた後で地面に倒れてしまった。行進中の私たちを見張っていた日本兵は立ちどまり、倒れた男を見た。その日本兵は日本語で何かどなり、ためらうことなく若いアメリカ人将校の胸に自分の銃剣をずぶりと剌した

 それから大きな金きり声で「立て!」という意味だと思うが、怒鳴った。むろん、その言葉は遅すぎた。行進によって弱っていた彼の体は、その銃剣の一突きでとどめを刺された。(P90)



上田敏明『聞き書きフィリピン占領』

 中部ルソンのタルラック町で会ったレオン・T・アウグスティンさんの場合、マリベレス町を出たのは一〇日の夕方五時ごろだった。その晩は休みを与えられ、翌日バランガ町に入った。二泊させられ、一三日にルバオ町に着いた。

 この途中、ヘルモサ町の北を進んでいるとき隊列の中の二人が歩けなくなったが、日本軍の護送兵は容赦なく鉄砲で撃ち殺した。亡骸はそのままうち捨てられた。

 一四日、サンフェルナンド町に到着、闘鶏場に押し込められて三日間過ごした。一七日、貨物列車でカパス町へ移され、正午から五時間半ほども歩かされてオードネル収容所にたどり着いた。(P80)


※「行進から落伍した兵を殺した」事例としては、本件「バターン」の他に、1945年の北ボルネオ「サンダカン死の行進」の事例が知られています(ただし「はっきりした証拠は出ていない」との見方もあります)。また、「南京事件」でも、「幕府山事件」において、栗原利一ら2名の元兵士が「列から離れた捕虜が殺された」旨を証言しています。



 目立つのが、「渇きに耐えかねて水を飲むために勝手に列を離れた捕虜を殺害した」というパターンです。


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 監視兵は、捕虜をつねに前進させるよう命じられていた。南下する軍用車両を通すために停止したり、定められた場所での物資支給のさいに待機したりはするものの、上官から停止命令が出るとか、その日の目標地点に到達したとかいうわけでもなければ、水のあふれ出るパイプの前に列をなすことなど、許可するはずがなかった

 ときおり小隊長が見回りにあらわれ、任務を怠り、捕虜の行進を止めている監視兵がいれば、ただちにわきへ連れて行かれ、折檻された。(P249)




 捕虜たちには前もって注意があった。通訳によって伝えられたのだ。「秩序を乱さないこと。所定の位置を離れないこと。休憩をとらないこと、日本軍の許可なく休憩をとらないこと」

 ところが、掘り抜き井戸のそばを通りかかるたび、渇きのせいで正気を失った者がそちらへ行こうとして隊列を飛び出した。そんなときには、監視兵が小銃を構えた。走り出したときにすぐ撃つこともあれば、パイプの前にかがみこみ、あふれ出る透明な水に口をつけようとした瞬間に銃弾を見舞うこともあった。

 シドニー・スチュアートのグループが「水の冷たい小川」に差しかかると、監視兵が大声で停止するよう命じた。スチュアートは一つ深呼吸をした。川辺に広がる地面は「苔の匂いがし、素晴らしい」し、水流は「見るからに心地よく、冷たく、甘美」であるようだった。

 「この川に飛びこんで水中に横たわり、流れを体感できたら」と彼は思った。

 捕虜たちは「待ちに待った」。監視兵から飲んでいいといわれるのを心待ちにしたのだ。やがて、待ちきれなくなった者が隊列を離れて走り出し、小川の水に顔を突っこんだ

 すぐさま日本軍の軍曹が駆けつけ、銃剣を抜き放った。その後のことはあっという間で、スチユアートが目撃したのはいくつかの場面だけだった。(P251-P252)

 鞘から抜き放たれる銃剣、それが振り下ろされる音(「すばやい、耳ざわりなシュッという音」)、切断され、小川に転げ落ちる首。数百人の捕虜が心から飲みたいと願った水は、血で汚れてしまった。(P252)




レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

水を求めて

 行進の間、見張りは私たちに水も飲まさずに歩かせた。それは私の身に受けた経験の中で一番困難なつらいものとなった。胃は痛み喉はヒリヒリし、腕も足も動こうとしなかった。水分を必要としているときに体が受ける精神的、肉体的虐待を言葉でうまく表わすことはできない。

(略)

 ある日、私たちの舌は絶えず追い越していくトラックの蹴たてる埃でザラザラになり、喉はカラカラになっていた。ある井戸から水が流れ出ているのが見え、その水が無駄に流れているのを長い間じっと見ていたが、私たちの側に監視がいなかったので、行進仲間のフランクと私は飲めるだけ飲み、この先飲むために水筒をいっぱいにしようと井戸に走った。(P92-P93)

 井戸にたどり着きできるだけ早く水を飲みはじめた。まず私が少し飲み、それからフランクが代り、それからまた私が飲み、それからフランクが、というように。私たちはかわるがわる飲んでいたが、とうとう何人かのほかの行進者が井戸のところにいる私たちに気がついた。

 数分もしないうちに、10入から15人のほかの捕虜が水を求めて井戸に走ってきた。ちょうどそのとき日本人の見張りが井戸にやってきて、私たちを見て笑いだした。私たちのうち最初の5人は十分飲んだが、6人目が飲みはじめたとき、見張りは突然自分の銃剣を6人目の首と背中の間にぶすりとやった。

 そのアメリカ人捕虜は崩おれ、息が苦しくて喘ぎうつ伏せに倒れた。自分の身に何が起こったのかわからないうちに死んだのだった
。これというはっきりした理由もなしに、それもひどくむごい死に方をさせられたのだった。(P93)



NHK取材班『レイテに沈んだ大東亜共栄圏』より

 ひとりは、バターン戦に参加したエンリケ・ガラン氏である。長年フィリピン犯罪大学で教鞭をとってきたガラン教授は、常に笑みを絶やさない温厚な人物だが、「死の行進」について尋ねた時には、一瞬、険しい表情を見せた。

「降伏前は食糧不足で、木の葉を食べてしのいでいるという状況でした。九〇パーセントの兵士はマラリアに苦しんでいました。私は背部に銃弾を受け負傷しており、杖をついて『死の行進』 に加わりました。

 よく歩けない将兵はピストルで撃たれました。食糧も与えられず、水を飲むことも禁じられたのです。水を飲もうとした捕虜が銃剣で刺し殺されるのも目撃しました。夜は横になることもできないはど狭い場所に押し込まれ、膝を抱えて眠るしかなかったのです。

 監視の日本兵が自分たちの食糧を受け取るために持ち場を離れた隙に、私は逃げ出し助かったのです」(P46)



 実際にどの程度の「残虐行為」があったのか、今日では検証は困難です。しかし、これだけ多種多様な「証言」が揃っている以上、少なくとも「日本軍の捕虜取扱には何の問題もなかった」と強弁することは困難でしょう。





 念のためですが、すべての捕虜が、このような悲惨な行進を経験したわけではありません

 日本軍には統一的な「捕虜取扱方針」は存在しませんでした。「人道的に扱え」という指示もなかったかわり、別に「輸送を最重点とし、規律に従わない捕虜には厳格な態度をとれ」という明確な指令があったわけでもありません。

 言ってみれば、捕虜にとって、どのような待遇を受けるかは、どの部隊が監視に当るかという「運」次第、という状況でした。

 この点については、日米双方の論者の見解は一致しています。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥


 日本兵の捕虜に対する反応はさまざまであった。あるトラックの日本兵は捕虜に食糧を投げたが、その直後にやって来たトラックの日本兵は略奪したゴルフ・クラブで、歩いている捕虜をなぐっただが、ただ一つ、行進する捕虜に明らかになってきたことは、彼らが半島を北上するにしたがって状況はますます悪化するということであった。(P243)



 ほとんどの生存者は、この悪名高い「バターンの死の行進」が、日本軍の最高司令部によってあらかじめ計画されていたものだと信じ込んでいた。

 しかし、この残虐行為は組織的に行なわれたものではなかった。パランガからサンフェルナンドまで運よくトラックで送られた捕虜はあまりひどい仕打ちを受けなかったし、行進させられた者のなかでも十分な食事を与えられ、一度も残虐行為に出会わなかった者もかなりいた。

 しかし、その一キロ後方では捕虜は飢え、なぐられ、殺されていた
。(P254)



ローレンス・テイラー『将軍の裁判』 


 後年のアメリカ兵とフィリピン兵の証言が例外なく示しているように、場所によって捕虜の受ける扱いは劇的ともいえるほど正反対だった

 ある者は安楽にトラックに乗せられ無事何事もなくオドンネル収容所に送られたかと思うと、ある者は土埃の道に倒れ、焼きつけるジャングルの太陽の下で渇きながら死んでいった。ある者が医療を受け、相応に食べ、笑顔の日本兵から煙草を与えられている一方、その五〇〇メートル後ろでは、他の者が乱暴に叩きのめされて土の上に倒され、銃剣で突き殺された

 そのいずれもが、意識的なものではなかった。全般的に無秩序状態だった中で捕虜の一人ひとりが受けた取り扱いは、純粋に偶然そうなったに過ぎなかったのである。(P97)



角田房子『いっさい夢にござ侯 本間雅晴中将伝』


 理由もなく殺人が行なわれた話も、数少ない病院車で親切に輸送された話も、ともに真実なのである。

 この行進は、上にたつ一人の人間が特殊な意図によって計画したものではないから、移動中の捕虜がどのような経験をしたかは彼ら一人一人の運というほかはない。日本の軍隊が、アメリカ人はじめ文明国人には考えられない乱暴な軍隊であったことは一つの前提だが、 それにしても、辻政信の偽命令は別として、他の残虐行為は上司の命令によるものではなく、各当事者の性格や習慣、気まぐれなどから生まれたものであった。(P391)



 その意味では、ここで取り上げた事例は、最も「不運な」ケースであったのかもしれません。

 しかし言うまでもありませんが、「捕虜を人道的に取り扱うこと」は国際的な「ルール」です。例え一部とはいえども、それを逸脱した捕虜取扱事例の存在は、米国世論の轟々たる非難を呼び起こすのに十分なものでした

(2014.1.26)


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