
| 資料:極東国際軍事裁判判決 |
「極東国際軍事裁判判決」のうち、「南京事件」の関係部分を紹介します。
「判決文」の事実認識がどこまで正しいかはともかく、ネットではしばしば「判決文」を見ていないと思われる混乱した議論を見かけますので、正確な事実に立脚した議論を行う上での一助になれば幸いです。
|
昭和二十三年十一月四日朗読 (ハ)起訴状 ( 抄 ) 【前略】訴因第四十五ないし第五十は述べ方があいまいである。これらの訴因は、異った場所で、示された日時に行われた殺人を訴追している。 これらの殺人は、日本軍隊に対して、これらの場所を攻撃し、住民を殺害することを不法に命令し、行わせ、許可し、それによって、一般人と武装解除された軍人を不法に殺害することによって行われたものとされている。 これらの訴因の言葉からは不法な殺害という主張の基礎を、攻撃の不法性に置こうとするのか、その後における戦争法規の違反に置こうとするのか、またはその両方に置こうとするのか、あまり明瞭ではない。 その意図が前者にあるのならば、この類の初めの方の諸訴因の場合と事情は同じである。もし戦争法規の違反に基礎を置くものとすれば、訴因第五十四と第五十五の起訴事実と重複している。 これらの理由だけで、そして、このような事情のもとにおいて殺人の起訴事実の妥当性に関してどのような意見も表明する必要がないと認めて、われわれは、訴因第三十九ないし第四十三と訴因第四十五ないし第五十二とについて、判定を与える必要がないと決定した。 (『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395) |
|
第八章 通例の戦争犯罪 十一月十一日朗読 南京暴虐事件 一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。 中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。 中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。 目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。 兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。 他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。
日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。 住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。 南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。 後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。 これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。 軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。 ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。 国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。 『自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市内に滞在した。
南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。 この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。
中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。 南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。 その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣・陸海軍大臣・外務大臣広田・大蔵大臣賀屋・参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。
このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲された。 松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。
この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映しものである。 (『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395〜P398) |
|
昭和二十三年十一月十二日朗読 松井石根 松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。 共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。
一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。 残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。 この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期聞において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。 これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。 憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。 本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。 同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。 かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起っている聞に、何回も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。 これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P398〜P399) |
<参考 起訴状>
| 一 起 訴 状 第二類 殺人の罪 [中 略] 訴 因 第四十五 被告荒木・畑・平沼・広田・板垣・賀屋・木戸・松井・武藤・鈴木及び梅津は、千九百三十七年(昭和十二年)十二月十二日及び其の後引続き、本件訴因第二記載の条約条項に違背して南京市を攻撃し、且国際法に反して該住民をオウ殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ、且許すことに因り、不法に、目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる軍隊を、殺害し殺戮せり。 第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪 [中 略] 訴 因 第五十五 被告土肥原・畑・星野・板垣・賀屋・木戸・木村・小磯・武藤・永野・岡・大島・佐藤・重光・嶋田・鈴木・東郷・東条及梅津は、千九百四十一年(昭和十六年)十二月七日より千九百四十五年(昭和二十年)九月二日に至る迄の期間に於て、夫々の官職により、亜米利加合衆国・全英聯邦・仏蘭西共和国・和蘭王国・比律賓国・中華民国こ匍萄牙共和在りし此等諸国の数万の俘虜及びー般人に関し、上記条約及ぴ保証並戦争の法規慣例の遵守を確保する責任有するところ、故意に又不注意に、其の遵守を確保し其の違背を防止する適当なる手段を執る可き法律上の義務を無視し、以て戦争法規に違反せり。 中華民国の場合に於ては、該違反行為は千九百三十一年〈昭和六年〉九月十八日に始まり、上記指名の者の外、下記被告も之に責任を有す。 荒木・橋本・平沼・広田・松井・松岡・南 (『南京大残虐事件資料集』第1巻 P13) |
(2005.7.9)
| HOME |