纏足の風習

纏足の風習

―「南京戦 閉ざされた記憶」を巡って―


 昨年(2002年)8月、第十六師団を中心とした元日本軍兵士の証言集、「南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」という本が発行されました。

 標題の通り、元兵士102人の証言を集めた、大変な労作です。「南京で何が起こったのか」を探る上での、貴重な資料であると言えるでしょう。


  この本のもととなった「証言」ビデオの一部は発売直後にテレビ放送されましたが、その後しばらく、「証言」の細かな矛盾・誤りを針小棒大に取り上げる議論が相次ぎました。

  単純な「生年の誤記」をことさらに問題にして、「11歳で南京戦に参加できるわけがない(から証言はウソだ)」とする議論、あるいはどこにも書いていない「腰だめでの機関銃2時間連射」なる「証言」をとりあげて「そんなことは不可能だ」とする議論。当時の掲示板では、こんなおかしな議論が、堂々と行われていました。

 もちろん、この「証言集」が100%正確である、というわけにはいきません。80歳過ぎの老人たちの60年も前の回想ですから、記憶違いなどにより正確さを欠く部分は当然に出てきます。また、公的な場での発言ではありませんから、「事実」を誇張したり、あるいは逆に隠したりすることも、ないとはいえません。インタビューアーがどんなに努力をしても、この「バグ」をゼロにすることは不可能でしょう。

  このような性格の本ですから、例えば「何月何日何時にどこにいた」という部分が誤りだからこの「証言」自体が怪しい、とする態度は、あまりに一方的なものでしょう。この部分は「記憶違い」であろうがこの部分は概ね正確であろう、といった細かな「検証作業」を重ねて、「南京で何が起こったのか」を知る一助とする。私は、これが、この種の「資料集」と対峙する正しいスタンスである、と思います。


 ましてや、「否定」したいがために、いい加減な根拠をネタに「証言の信頼性」を無理やり否定する議論は、感心しません。ここでは、たまたま目についた、「纏足」についての事例を取り上げることにしましょう。

阿羅健一『「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ』より


さらに久米宏キャスターは、百二人のなかから選んで、つぎのような告白を紹介した。
「中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服をぬがして強姦したんじゃ」

昭和十二年といえば、中華民国二十六年だ。そのとき纏足の若い女がいたかどうか、すこしでも歴史を学んだなら、わかりそうなものだ。歴史やあの戦争を勉強するのは、久米宏キャスターをはじめとする「ニュースステーション」の出演者でありスタッフだろう。

(「正論」2002年11月号 P102)


阿羅氏が取り上げた証言の、元の文です。

井戸直次郎 (第十六師団歩兵第三十三聯隊第三大隊)


 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物をを徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」って言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。

(「南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて」 P276)
 

 

 しかし実際には、当時の中国では「纏足」の風習はなくなりつつあったものの、まだ一部では残っていたようです。以下、ふたつの資料を掲げます。

小原孝太郎日記より (第十六師団輜重兵第十六聯隊)

(1938年)3月23日

段鳳端が遊びに来たので会話す。(筆談をやった)

(略)

▲纏足は。

支那十年前より改良して、現在の小学校の子供には一人もありません。しかし私妻二十八歳ですが、纏足あります。大へんかなしい。これは支那三千年以来の習慣ですから、現在ではこれが禁止されたことが大へん私はうれしく思います。

(江口圭一、芝原拓自編「日中戦争従軍日記 一輜重兵の戦場体験」 P191〜P192)

 

若槻泰雄『「在中二世」が見た日中戦争』より

 
辮髪は清朝時代の風習だが、纏足の歴史はもっと古いらしく、十歳前後から、布で足の甲をしばりあげることに始まる。いつもそうやっているのだから、成年に達する頃には足のうらの長さは普通の半分ほどに短くなり、先はとがって三角になる。歩くときはチョコン、チョコンといった感じで、走ることはできない。街頭で見かける女学生や、いわゆる上流階級の女性には、そういう格好は消えていたが、例えば私の家のアマは纏足だったし、その娘にも纏足の用意をさせ始めていた。

 しかし辮髪も纏足も、シナ事変が近くなるにつれて少なくなっていた。一九三〇年代に始まった蒋介石主導の「新生活運動」が、こういうところにも及んできたため、と聞いたように思う。

(『「在中二世」が見た日中戦争』P64〜P65)

*「ゆう」注 筆者の若槻氏は、1924年中国山東省青島市生まれ。1930年代前半当時、医師の父に従って、青島市で小学校生活を送っていました。

 以上の資料から見ると、「纏足」という一言のみを材料に、この証言を否定することはできないように思います。



 なお、「102人の証言」の中には、他にも「纏足」の証言が存在します。

上岡光雄 (第十六師団歩兵第三十三聯隊輜重特務兵)


 支那人を探している時に、逃げ遅れた纏足の女も見ました。当時は支那語を三つほど覚えていたらいいんです。一つはクーニャン(娘)、二つめはテンホ(きれい)、三つめはカンカン(見せろ)で、一番手っ取り早い支那語で支那人の女に「クーニャンテンホカンカンデイ」と言って銃剣つきだしたら終わりです。女を好きにできましたな。その当時勝っている時はそういう悪いことをしたんです。

(「南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて」 P266)

 
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