捕虜の試し斬り


 日本軍では、「軍刀の切れ味を試す」ための「捕虜の試し斬り」が、しばしば行われていました。言ってみれば「面白半分の殺害」であり、「南京事件」についてどのような立場に立つにせよ、弁護することが難しい行為でしょう。

 このコンテンツでは、このような「試し斬り」の資料を紹介します。



 まず、第十六師団長、中島今朝吾日記より。南京陥落当日の記述です。

中島今朝吾日記

◇十二月十三日 天気晴朗

(略)

一、一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一に追送分配したり

一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  
時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

一、午後司令部は躍進して西山の麓にある郵便局に移り此処にて事後処理を為す

(以下略)

(『南京戦史資料集Ⅰ』 P218)

*「中島今朝吾日記」のうち、12月13日の部分の全文は、こちらに掲載してあります。



 あっさりと読み流してしまいそうな文章ですが、想像すると背筋が寒くなりそうなシーンです。こんなことを平気で日記に記すあたり、中島師団長はこれを「残虐行為」であるとは全く認識していないことがわかります。

 師団長自らがこうなのですから、下士官クラスのメンタリティは容易に想像がつきます。


「証言による『南京戦史』」(10)より

住谷盤根氏の回想
(第三艦隊従軍画家、安宅乗組)

―南京陥落後の捕虜殺害― (雑誌『東郷』58年12月号)

 その時「陸軍からの問い合わせの電報があって、捕虜の処分はどうなっているか?」と第三艦隊司令部から、問い合わせがかかってきた。福岡参謀は「未だ判りません。すぐ調べて報告します」と返電して部屋の外へ出て行かれた。私は直ちに福岡参謀の後に従って、士官室に戻った。

 士官室ではこの問題を知っていて、若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。

 私も中尉に従って士官室を出て校門を降り、下関埠頭を左の方に行って、紅岸の鉄の垣根(手すりの低い棚)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいたようだが、夜の暗がりでよく見極められない。

 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。

 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかと考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

(『偕行』1985年1月号 P32)


岡田酉次『日中戦争裏方記』より

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれに当たり、上海派遣軍と第十軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することになり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。

 この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現われ、たまたま宿営準備で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。

 特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。

 この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならでの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

(同書 P111〜P112)

*「ゆう」注 岡田酉次氏の人物について、巻末の「著者紹介」を引用します。

明治30年、三重県鈴鹿市に生まれる。

陸軍経理学校、同高等科卒業ののち、東京帝国大学経済学部に入学、昭和8年卒業後間もなく参謀本部支那課に配属される。昭和11年、駐在武官として上海武官府に赴任し、以後、日華事変勃発とともに戦争の物資調達、各種工作等に従事、さらに維新政府、汪政府軍事顧問兼経済顧問当をつとめる。その間、日中和平工作に直接参画するなど、戦争終結のための裏方役としても活躍。終戦時は陸軍主計少将。

昭和33年より日本発条㈱副社長、現在(「ゆう」注.1974年)同社顧問。



 現場の兵士の体験談も、追加しておきましょう。「将校」が、「少し負傷」した「捕虜」に対して「日本刀の切味を試」そうとしたもので、明らかな「捕虜虐殺」です。

『「斉藤次郎」陣中日記』より

十二月十三日

 南京の敵は後退しつつあり我が軍の追撃に会ひ混乱の状態との情報だ、夕刻南京東方四里の一寒村に宿営する、夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷して居つた、

 一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとした
ら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写真の映画其のものの感がする。

 ××君より早く追いつき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣あびせかける。手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切つたのでくびをはねる積だつたのだろうが手元が少し違つたのだろう・・・自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、

 敵兵も年齢廿六七才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して困難にあたつて居るかと思へば敵兵をたをした痛快なる反面、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P36)

*歩兵第六十五連隊本部通信班小行李・輜重特務兵


(2003記  2006.3.18「斉藤次郎陣中日記」追記)



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