スミス記者の講演



 ロイター通信社のスミス記者は、南京陥落当時、南京に残留していた5人の外国人記者のうちの一人です。

 スミス記者については、以下の講演がよく知られています。南京陥落後わずか3日しか南京にいなかったこともあり、部分的には明らかに誤った記述も散見されますが、外国人記者の記録として、現場を知る上で貴重な資料であると言えるでしょう。


資料13

添付書類
一九三八年ー月六日付駐華ドイツ大使館報告代十一号に添付
一九三八年一月一日ドイツ通信社(漢口)より入手
文書番号二七二二/一一〇六/三八


内容−一九三七年一二月九日から一二月一五日にかけて南京で起こった戦闘中のできごとに関するスミス(ロイター通信)氏による講演の抜粋

                   
 一二月九日、初めて遠くに砲声が聞こえ、南京周辺でかなり大きな軍隊の動きがあった。

 一二月一〇日、中国軍の移動は大規模になった。城内でも軍隊が動き始めた。砲声は時間とともに激しくなった。

 一二月一一日、日本軍の最初の榴弾が城内に撃ち込まれた。おびただしい榴弾だが、的が定まらず広範囲に分散し、さほど甚大な被害は出なかった。外国の軍艦が川の上流へ航行したため、南京に残っていた外国人は軍艦との接触を断たれた。夕方には給水が停止した。

 南京は一日中、日本軍機の攻撃にさらされ、爆撃を受けた。当初はまだ空襲警報が鳴っていたが、後に攻撃の頻度が増したため、警報は無意味になった。爆弾で小さな火災がいくつも発生したが、重大な被害は出なかった。日本軍機の主な任務は偵察とみうけられた。

 一二月一二日朝、砲声ははぼ止んだ。そのため、日本軍は駆逐されたとの憶測がなされたが、正午ごろ、日本軍砲兵隊の南京砲撃が再開され、その憶測は偽りであると判明した。電灯がつかなくなった。

 紫金山の上に中国軍が見えた。かれらは二個の係留気球〔からの指示〕による日本軍の砲火に見舞われていた。斜面下方への無数の爆撃と、そこで日本軍が引き起こした火災が、中国軍を山の上方へ追いたてた。

 南京城内でも、中国軍の一師があわてて中山路を北上した。それは潰走中のようであった。突然、数発の銃声が鳴り響いた。第八八師の一部が一斉砲撃で逃走経路を遮断し、同師はひき返さなければならくなくなった。

 午後遅く、城内南部から大方の軍が退却を始めた。規律正しい師団で、整然と北方へ向かって退却した。わずかに約一千名の兵士が、まだ城内南部にとどまっているとのことであった。かれらは勇敢に市街戦を戦ったが、真夜中までに全滅した。

 退却中の部隊は、閉ざされた北門前で(脇門の一つだけがまだ開いており、その他の門には砂袋と有刺鉄線を巻きつけた柵でバリケードが築かれていた)動きがとれなくなり、城壁を越えて逃げのびるために縄梯子とロープを掴んだ。部隊のパニック状態は、北門の近くに日本軍の榴弾が打ち込まれたことでいっそう高まった。

 交通部は一二月一二日夕方、赤々とした炎に包まれた。中国軍が放った炎は、中庭に積み重ねられていた備蓄弾薬に燃え移った。この爆発で、中山路を退却中の部隊の行く手が阻まれた。

 翌朝、われわれは、通りに沿って、逃げた中国兵が投げ捨てた大量の兵器類を見つけた。かれらの逃走経路は、毛布の束、調理器具、弾薬箱などで一目瞭然だった。北門前で起きたパニックの結末は、約一メートルの高さに層をなして積み上がった兵士と市民の死体である。私の見積りでは、約一千名がここで命を失った。

 一二月一三日の朝になっても城内にはまだ日本軍の姿はまったく見られなかった。城内南部は依然として中国軍の手中にあった。中華門の付近で夜中に激戦がおこなわれ、一千名以上の中国人が戦死した。

  一二月一二日から一三日にかけての夜、中国兵や民間人が略奪を始めた。食料品店がまっ先に略奪され、民家から食料品を持った中国兵が出てくる姿も見られた。しかし、中国軍が組織的な略奪を企図したと主張するのは誤りである。

  この間の事情をよく説明しているのは、城内南部の中国人衣料品店の前で繰り広げられた次の光景である.何百人もの兵士が店の前に押し寄せ、あらゆる種類の平服が「飛ぶように」売れていった。 兵士たちは有り金をはたいて平服を手に入れ、路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民に紛れて立ち去ったのである。こうした何百人もの民間人はその後、軍官学校や国際クラブに集まった。

 〔一三日〕正午近くになって、マクダニエル氏は城内南部で最初の日本軍の警邏隊を見かけた。かれらは、六人から一二人の集団をつくり、大通りを注意深く進んだ。散発的に銃声が聞こえたが、道端にはあちこちに―日本軍が言うには―逃走中に撃たれた市民が倒れていた。

 それでも、日本兵の出現で、中国市民の間にはある種の安堵感が生まれたようである。もし日本兵が人間的なふるまいをしてくれれば、かれらを受け入れる心づもりはできていたのである。

 いわゆる安全区では流れ弾と榴弾によって約百人の中国人が死亡し、さらにもう百人ほどが負傷した。

 一二月一三日午後、日本軍戦車隊が先遣部隊を従えて入城した。部隊は疲労困憊の様子をしていた。中山門と光華門の付近での戦闘はもはやなかった。中山門に損傷はなく、光華門も軽微な損傷ですんだ。この二つの門近くに死者はいなかった。

 夜になると、日本軍が安全区にも入ってきた。安全区の管理下には、約七千人の武装解除された中国兵がいた。かれらは軍官学校やその他の建物に収容されていた。城内南部から数百人の中国人警官が逃げてきたため、安全区の警察は増員されていた。

 一二月一四日朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。だが正午ごろになり、六人から一〇人ぐらいの日本兵の小グループがあちこちで組織された。かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。 中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。

 私が南京を去る一二月一五日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が日本兵に略奪しつされた。屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。

 まだ南京に残っていた外国の車も押収され、国旗はもぎとられた。日本兵は安全区国際委員会の車二台とトラック数台を押収した。私は、キースリンク&バーダーの店頭でラーベ氏に会った。かれは、ドイツ国旗を下ろして店を略奪しようとしていた日本兵を、店の支配人と力をあわせて追い払っているところだった。

 国際赤十字の旗がはためく外交部には約六百人の中国人負傷者が収容されていた。伝道団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、負傷者に食料品を送ることも許されなかった。外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していた。 かれらは日本軍に連れ出され、射殺された。鼓楼病院で働いていた看護婦たちは整列させられ、所持品検査がおこなわれた。そして、腕時計、万年筆、所持金などが没収された。

 日本軍は四、五百名の中国人を縛り、下関へ連行した。下関まで追跡しようとしたヨーロッパ人の試みは日本軍に強硬に阻止された。

 一二月一五日、略奪が続けられた。安全区では約五千人の中国人難民が整列させられ、およそ一八〇ドルが奪われた。こうしたふるまいを上位機関に訴えて止めさせることは不可能だった。なぜなら、苦情を申し入れるべき日本軍上級将校は、日本兵の主張によれば、まだ南京にいなかったからだ。

 大勢の若い中国人女性と少女たちが自宅から連れ去られた。その後、彼女たちを見かけた人はいないので、彼女たちの身に何が起こったかはわからない。

 結局、城内での戦闘による被害は少なかった。ドイツ人の家屋は、外見上はほとんどがもとのままだが、大半は略奪にあったようである。

 明の孝陵と中山陵はとくに報告すべき損害を受けなかった。

 メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、その後日本兵によって根こそぎ略奪された。

 米国領事館の前では中国人市民が四名、長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名が日本兵に射殺された。

 福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆弾が落ち、それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。シュペアリンク氏は、榴弾の破片で手に軽傷を負った。

 一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。

 出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

 その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。




 スミス氏は、南京に残留したドイツ人の活躍に賛辞をおくっている。ラーベ、クレーガー、シュペアリンクの行為は、隣人愛と中国人難民にたいする気遣いに満ちているとのことである。かれらが身の危険を顧みず、多くの人命を救ったことをスミス氏は高く評価しているのだ。


 へンペルに関しては、スミス氏は会っていないので言及できない。いずれにせよ、スミス氏が南京を離れた時点でドイツ人全員が無事とのことである。


(『ドイツ外交官の見た南京事件』P44〜P50)


 

(2005.1.15記)


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