資料:「百人斬り競争」関連記事(2)
 



「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.1付

百人斬り"波平"
二百本の中から選んだ銘刀
田代村出身 野田毅少尉


既報百人斬りを誓つて江南の地に勇名をとゞろかせてゐる冨山部隊野田穀少尉は鹿児島県肝属郡田代村出身鹿児島県立一中から士官学校に進み本年八月少尉に任官した青年将校でさきに保定攻撃で「城山」を吟じつゝ戦死した神田部隊加隅少尉と同期生であつた、

出陣に當つて

「近代戦争は科学兵器の戦闘であるが最後を決するものは依然として大和魂だ。日本刀だ」

とわざわざ郷里にゐる愛刀家の叔父田代宮熊氏の愛刀約二百本のうちから鹿児島の名工波平作の二口を選んで譲り受け

「これさへあればやるぞ」

と勇躍出征したものである、

果たせるかな同僚向井少尉と無錫、南京間の百人斬りをやらうと阿修羅の如く奮戦してゐる

鹿児島県川邊郡加世田町津貫小学校長をつとめてゐる実父伊勢熊氏(五○)のもとにこの快報をもたらせば実母てるさん(四五)とともに喜んで語る
本年士官学校を出たばかりで無鉄砲盛りですからそれくらゐのことはやるでせう、この間来た手紙にも友達は皆赫赫たる武勲を立て新聞に書かれてゐるが自分はさういふ機会がなくて残念だと書いてゐました
なほ同少尉は一人息子で妹が四人ある。

(『野田毅獄中期』P6に記事写真掲載あり。『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P146、笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』P104)

「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.2付

南京攻略戦で"報國百人斬り"を念願し同僚の向井少尉と念願達成の日を窺つてゐる鹿児島縣肝属郡田代村出身、野田毅少尉は縣立鹿児島第一中學時代、いま同じく南支で勇名を轟ろかしてゐる○○部隊長の薫陶を受け、自ら進んで士官學校を○○、さきに戦死した神田部隊加隅少尉その他中北支戦線で○○の武勲を樹てゝゐる青年少尉の多くは彼の同期生である。

ために最近戦線から鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校に勤務してゐる實父伊勢熊氏(五○)に届けられた便りにも"御期待に副ふだけの働きはこれから十分するから安心してくれ"と書いてあった。

以下○○から○○の新戰場へ移る○に書いた野田少尉の手紙である(中略)

九月十六日○○上陸以來十月十七日まで一ヶ月のうちに百○里を追撃。まるで急行列車追撃戰でした。

そのうち小○○、中○、大孫村では私の部隊が土戰部隊になつて戰ひ、幾多の戦友、部下を失ひましたが弾丸の下の度胸は十分に出來ました。

○郷では神田部隊と一足違ひで皆と逢ふことは出來ませんでしたが、同期生の加隅少尉が悠々「城山」を吟じながら戰死したことや○○少尉が名誉の戰傷を受けたことを聞いてひとしは励まされ羨ましくも思ひました。(P146)

同僚の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。(P146-P147)

これから○○の新戰場に向かひます。次に來るものは何かこれはかねてから覺悟してゐるそれです。ついでがあったら煙草(バツト)を送って下さい。なほ大阪毎日と鹿児島の新聞を一部づゝ送って下さい。ほとんど一月おくれの新聞を讀んでゐるし、戦線では新聞が何より樂しみです

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P147)




「鹿児島朝日新聞」 1937.12.16付

「  南京攻略の華百人斬り再出發 背に浴びた太刀提げて 鹿児島出身の若武者野田毅少尉」との見出しで,両少尉の念願が南京陥落とともに達せられた旨記載され,「南京城にゴールインしサテ刀の血糊を拭ってみれば、前者が百○六人、後者は百○五人といふ勘定―どっちが先に百人を刀の錆にしたか、不明とあってこの勝負更めて百五十人を目標にスタートを切ることになった。  」

「  南京完全占領がもたらされた日、津貫小學校長を訪ふと、寫眞に見る少尉にそつくりのピリッとした小粒の嚴父野田校長は

南京が陥ちて、斯んな目出度いことはありません。無論子供は陛下に捧げた軍人ですから、戦死は覚悟の上ですが、たゞ新聞にこんな風に書かれた以上、百人斬らんうちに死んだら残念だ・・・がと、そればっかりが氣掛かりでしたよ、刀は田代村で神官をやってゐる伯父の田代宮熊といふのが、出征前に贈ってくれたもので無銘でしたが、二尺三寸の業物です、あれは父に似て五尺二寸足らずの小兵ですので聯隊區司令部の岩山中佐殿が、君には長過ぎるぞといはれましたが、背に浴びるやうな長い奴を擔いでいきましたよ、ワッハッハッハー あれの気性ですからまだこれから働いてくれるだらうと、大いに期待して居ます  」


「  性格は負ず嫌いの暴れン坊だが、繪なんか器用に描くので両親は最初お醫者か、繪描きさんという極温和しい處世法を打ち樹ててゐた、本人はそれが氣に喰わなかったらしく、中學に入るや、好きな繪筆をがらりと投げ捨て、明倫會の村山中佐らの主宰してゐる神刀館邉りに出入して、盛んに劔舞をやりだしたものだ、両親は、家に歸ってからも、狭い座敷で三尺もある長い奴を矢鱈に振り廻されるので、危くてしやうがないので、親父さん、到頭折れて出て、本人の願望の軍人を叶ってやったといふ次第  」

「  陣中餘暇を見出し、煙草を吹かしながら、戰跡を追想して居ります今廿三日《判決文のママ、十三日ではないかと思います》は、近頃珍らしい小春日和りです、やがて北支五省に春が還ってくるのも近いうちでせう。左に陣中所感の一端を認めてみませう。

  ○○日の○○沿線の作戰は○○○の第○軍と呼應○○線沿線の敵を包囲殲滅するに在つた。敵の退路遮断の目的を以てする機動戰に敵はこれを察知したか疾風の如く逃げ出したが、その一部を叩き潰した。タンネンビルヒの殲滅戰を夢見ていた余の作戦は失敗だったかもしれぬ。然し一部の目的は達したと思考す。

  ○○上陸以來○○に至る間約一ヶ月間を以て敵陣百三十里を突破した、○○の約二千粁の所を行軍中、我先遣部隊と約三百粁を距てた道路を平行して前進する敵の大縦隊を発見、機関銃、重機銃、大隊砲を以て痛撃した敵五百が散を亂して潰走、先頭白馬の三將校が、馬乗から轉落したのは愉快だった。

  間もなく約三千の大敵が現れ、三方から包囲攻撃し來つたので、五十メートル迄引寄せ、目茶々々に叩いた結果、敵は死體五百を遺棄潰走した、これで激戦を三回経験したわけだが、近頃は戰爭にも馴れて來ました、やがて華々しい戰果の御報できるのも近いうちでせう。  」
(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P147-P148)

「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1938.1.25付


二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願

  
 さすがの“波平”も無茶苦茶


    野田部隊長から朗信


南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶"百人斬り競争"に血しぶきとばして鎬を削つた向井俊明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一〇六-一〇五、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、

その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙"千人斬"をめざし野田部隊長は自後の敗残兵掃討に二百五十三人を斬つた

このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島縣枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまゝの痛快さがあふれてをり、"猛勇野田"の面目躍如たるものがある・・・

目下中支にゐます・・・約五十里の敵、金城鐵壁を木ツ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかゝつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出來たわけです、

小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、

おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、

支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

  百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)

    一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
    二、軍刀枕に露営の夢に、飢えて血に泣く声がする
    三、嵐吹け吹け江南の地に、斬つて見せたや百人斬
    四、長刀三尺鞘をはらへば、さっと飛び散る血の吹雪
    五、ついた血糊を戎衣でふけばきづも残らぬ腕の冴え
    六、今日は面かよ昨日はお顔、明日は試さん突きの味
    七、国を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り・・・(中略)

まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われわれは戦死することをかく読んでゐます)を毎日念じてゐます、

小生戦死の暁は何とぞ路傍の石を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、

最後に大元帥陛下万々歳・・・(写真は野田毅部隊長)

(三面、上段四段見出し)


「鹿児島新聞」 1938.3.21付


袈裟がけ・唐竹割−突つ伏せ−唸れる銘刀の凄味 

三百七十四人を斬つた 戰場の花形・鬼少尉薩摩男の子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ

 その途次に郷里へ凱旋



陸軍士官学校を巣立つとともに片桐部隊に属して第一線に出動し同僚たる山口県出身の向井少尉と百人斬の競争をはじめた快男子野田穀少尉は今回師団から選抜されて陸の荒鷲群に入ることになり所沢陸軍飛行練習所へ赴く途中目下加世田津貫尋常高等小学校長の職にある厳父伊勢熊氏の膝下に帰り、数日間身を委ねることゝなつた。(P149)

薩摩と長州、昔から陸軍の花形役者だけに野田、向井両少尉の首斬り競争は、天下の話題となり、とくに血の気の多い青少年間の話の中心となって、その記録の発表あるを鶴首して待っていたものである。

十九日午後九時二分伊集院駅から南薩線に乗替へた同少尉を父伊勢熊氏らと出迎へると元気一杯に満ちた、今年二十六歳の若武者は悠然と車室に納まり武運長久を祝す酒盃を外にして出征以來の戦績を語るのであつた、

例の向井少尉との競争談に水を向けるとニツコと笑ひ乍ら
三百七十四人の敵を斬りました 袈裟がけ、唐竹割、突伏せなど真に痛快でした 愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは餘りありません
と水も滴る軍刀を抜き放って示すのである 見れば中ほどから刃先にかけてところところに刃がこぼれてゐる、然しこれが三百七十四人の支那人の血を吸ふたものとは思へぬほどに濁り一つ見せぬ明皓々たる名刀である
津浦京漢両鉄道線路の中間地区から京漢線方面の戦闘に従事 転じて常熟南京攻略の戦闘に参加しさらに又北支に舞ひ戻り大小数々の戦闘に参加し所謂弾丸雨飛の間を往来しましたが弾丸は私には一発も当りませんでした

紫金山攻撃の際のごとき私の左右にある兵士どもは七人までバタバタ倒れましたが中間にある私には一度も当りませんでした、弾丸は決して私には当らないものと信念を得ました
と武運に恵まれた若い少尉は微笑し乍ら語るのであった 競争相手の向井少尉は何人斬つたかをそれとなく尋ねると破顔一笑
矢張り百六七十人でせう
と己れの功のみを誇らぬところに同僚への床しい厚誼が偲ばれる 同少尉は二十日午前中父君の津貫校児童に一場の競争談をなし午後は校区主催の講演会および歓迎会に臨み二十四、五、六日ごろ郷里肝付郡田代に帰省墓参をなす予定である

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P150。笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』P194-P195により適宜修正))

 

「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1938.3.22付

斬りも斬ったり敵兵三百七十四人

剛勇野田少尉突如加世田に凱旋


 戦友向井少尉と百人斬りの競争をして戦線に薩摩隼人の面目を遺憾なく発揮し、武人の華と謳われた野田少尉は、赫赫たる武勲を樹て突如故国に凱旋し、三月十九日父の任地たる川辺郡加世田町津貫に帰ってきた。父伊勢熊氏が津貫小学校の校長をしているからである。

しかし、今回の凱旋は飛行学校入学を命ぜられたので、その途次墓参かたがた両親を省したもので、一両日さらに郷里の肝属郡田代村に帰省、先登の墓参を済ませば直に上京の予定である。

 野田少尉の凱旋を聞き二十日校長宅にこの勇士を訪えば、当日野田少尉は午前九時から津貴校児童のために実戦談の講演をするというので多忙の模様であったが、父伊勢熊氏の談によれば、
「野田少尉は北支戦線から中支方面に転戦し、南京攻撃を最後として前後二十回の激戟に参加し敵兵を斬ること実に三百七十四人におよび、とくに河北省の耶部攻撃では最も多くを斬り、その為に愛刀が少し曲がった」ということである。

野田少尉は父君に似て、大兵の方ではないが総体に体躯も引きしまり、眼光炯炯たる中にもどっしりとした落ち着きを見せ、いささかも武功に誇るような素振りもなく、家庭に帰れば依然として昔のままの無邪気な愛息子である。

この男が敵陣に突入し、紫電閃々たる縦横無碍に振りさばいて鬼神のごとく斬りまくる勇敢な千人斬りの男子かと思うと、さすがに日本武人のよさが仰がれた。

野田少尉は講演を終わると枕崎に戦友の家族を見舞いに行く予定で戦塵を洗う暇もないらしかった。

(写真は向かって右が凱旋した野田少尉、中央は母テルさん、左は父伊勢熊氏と五女とよ子さん)

(笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』P195-P196)


「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1938.3.26付

百人斬の野田少尉神刀館で講演

北支中支と薩摩隼人の意氣を發揮し南京入りに百人斬りの名聲を轟かした片桐部隊野田少尉は廿四日歸鹿昨日昔詩を吟じ釣を舞した神刀館生一同の盛大なる歓迎會に臨み實戰に花を咲せ名残を惜しみつつ午后一時二十一分西驛發の列車にて上京せり

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P151)  


「東京日日新聞」 1939.5.19付

戦死した競争相手に 「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉 漢水戰線にあり

【漢水東方地区にて十八日西本特派員発】

わが木村、恒廣、中西の諸部隊が炎熱百度を超えクリークの水も沸く物すごい暑さの中を湖北平原の山岳地帯に堅固な陣地を築いてゐた敵将張自忠麾下の敵兵十数個師を包囲攻撃中 これに従軍した記者はある日寺荘といふ小部落で奮戦中の向井中尉とひよつこり出会つた

同中尉は一昨年南京戦の折戦友の野田中尉と百人斬りを約して愛刀関孫六で敵兵百七人を斬り殺した勇敢な青年将校である、

南京戦後長く伸びた髯を落して戦友野田中尉と更に五百人斬りを約し除州、大別山、漢口、鏑祥と各地に奮戦、敵兵三百五人を斬つたが野田中尉が海南島において戦死し今は一人で約束の五百人斬りを果すため奮闘してゐる

実は向井中尉の念願は千人斬りださうで記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると朴訥な中尉は次の如く語った

「よく斬れます、ちよつと剣先がひつかゝりますが自信を持つてゐるから大丈夫です、出征以来病気もせずいつも第一線に立つて負傷せず不思議なやうです、長期戦に耐へ得るやうに体が出来てゐるのでせう、たゞ部下を死なして申訳ないと思つてゐます、それだけが残念です、

遺族の方々には悔みの手紙を出したのみで千人斬りがやれないので残念だ私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果すため一生懸命やつてゐます、今日まで三百五人斬りました、部隊長が槍をもつてをられるので負けないやうに奮闘する決心です」


(七面、中下四段見出し)



 

(2009.9.12記)


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