今井武夫『支那事変の回想』

みすず書房刊 1964年

今井武夫『支那事変の回想』  

リマイ山頂に輝く大日章旗

 バターン戦場には増援部隊が到着し、新たに大阪第四師団と独立旅団一を中国大陸から転用し、東海岸方面に増加された。

 勿論新鋭な強力兵団の増援に伴い、飛行機や重砲兵も増強し、従来の敵の早期投降を期待した甘い判断も一擲し、慎重に本格的攻撃の準備を始めた。

 元来パターン半島の米比軍は戦前の予想に比較すれば思ったより精強で、殊にフィリッピン兵も、祖国アメリカの国難に赴くことを揚言して、よく米人将校の統制に服した。

 戦前日本人が一方的に、米比人相互の民族的反感を激発せんと考えた企図は、何等根拠のないことと判り、日本軍はここにも誤算があった。

 其の上米軍が徹底的に物量を惜まぬ戦法は、長い間日本軍が支那大陸で中国軍を相手にした経験を裏切り、大東亜戦争末期に、日本軍が至る所で経験した通りであるから、われわれが最も苦手とした所である。

 二月一旦敵から離脱して後退し、増援部隊の来着を待ちながら訓練して、鋭気を回復した夏兵団は、新たに第二次攻撃を再開する軍の中央兵団となり、嶮峻な中央脊梁山岳地帯から、攻撃再興を命ぜられた。(P175-P176)

 われわの聯隊も、兵器弾薬や糧抹を補給し、同時に内地から三回にわたり兵員を補充して、第二大隊長には服部少佐戦死の後任として、立川鴻一中佐を迎えることが出来た。

 約一ヵ月間の攻撃準備を整えた後、旅団の左翼隊となって、サマット山正面の敵を攻撃する事となった。

 バターン半島に於ける軍の第二次攻撃は四月三日神武天皇祭を期して行われ、午前九時からテイアウエル川の渡河点に向って集中的に、火砲と飛行機・で砲爆撃を行い、その中止と同時に、午後三時全線一斉に突撃を敢行した。

 勿論敵の抵抗は依然頑強であったが、今までの各戦闘で経験したような、幾ら砲撃しても必ず敵部隊の残存した記憶に比較すれば、案外短時間に殆ど信じられない程奏効し、戦車に従う一回の突撃で突破孔を構成出来、敵は算を乱して、密林中に潰走した。

 勝ちいくさの追撃は全く快適で、部隊将兵の足も軽く、進路には所々ヴアニラの花や、仏桑華が一際美しく咲き乱れていることまで楽しかった。

 準備のある所必ず容易に成功することを、この時程痛感したことはない。

 われわれの部隊は、サマット山西麓のジャングルを縫って昼夜を分たず追撃を続行したが、敵は暗夜にかかわらず砲撃を継統していた。

 翌四日も終日巨木の密林に巨巌露出した急坂を攀じ、或いは叢林に没した谷を降りながら嶮路を突破し、聯隊長自ら尖兵長や斥候と同行して、方向の確定に努めながら、前衛司令官や尖兵中隊長を指揮した。

 この夜半、下弦の月の出と共にサマツト山西南側の鞍部を目がけ、チイアウエル川の支流カトモン渓流の流水を、下流から上流に向って徒渉し、五日夜明けと共に、敵の砲兵陣地に突撃して乱入した。

 今までわれわれより逍か後方の我が友軍を射撃中であった敵の砲兵隊は、予想もしなかった脚下の渓谷から、朝霧を抜けてジャングルを分け、忽然起った日本軍の肉弾突撃に、慌てふためき、弾丸を装填して閉鎖器を開いたままの砲車や、牽引自動車まで全部遺棄して潰走し、われわれは陣地に残置した火砲十六門、自動車二十輛牽引車一輛を鹵獲し、捕虜十名を得た。

 更に敵を追撃するに従い敵の遺棄した火砲を増加し、遂に大小各種の迫撃砲まで加え総計三十七門に達した。(P176-P177)

 翌六日には、われわれ聯隊は米軍建設の軍用道路第四号道を前進し、第二十五号道との交叉点であるサンピセンテ川の上流標高一四二一・○呎(フィート)附近を占領した。

 米軍は其の戦史に依れば第五十七聯隊と、第二百一及び第二百二工兵大隊をリリー大佐が指揮して、第八号道に沿って東方から攻撃し、又第四十五聯隊と第百九十四戦車大隊を、ドイル大佐が指揮して、第八号道を西方から前進して、われわれの聯隊を挾撃しようとした。

 ドイル部隊は、四月七日午前一時西方から、わが聯隊を攻撃したが、先頭の戦車がわが迫撃砲弾の最初の一弾で撃砕されて攻撃頓挫し、午前十一時バンテン川河谷まで退却して仕舞った。われわれは当時敵の移動部隊を射撃したと思ったが、逆襲部隊とは気付かなかった。

 之れと同時にリリー部隊の東方からの攻撃も頓挫したので、わが聯隊は前進路に横たわった障碍を一切排除出来、われわれは続いてリマイ山に向って前進を起した。

 翌八日午後六時には険峻を登ってリマイ山頂を極め、バターン半島からコレヒドール要塞まで、一望の裡に瞰制しながら、標高三一二七・七呎の山頂に軍旗をたて、更に準備した大日章旗を掲揚した。

 バターン東海岸道を追撃前進する友軍は、まだわれわれと斉頭面に進出せず、可成り後方から、丁度蟻の行列のように黒々と望見出来たので、マバタン方向に向いて、第一次攻撃で散った服部大隊長以下の英霊を遥拝した。

 この夜山頂でわれわれは、台湾以来二度目の地震を経験し、岩石の落下を警戒した。

 この日わが聯隊のリマイ山占領を記念し、奈良兵団長からイマイ山と命名するとの祝電を受けた

 四月九日午前七時山頂に軍旗を奉じて、聖寿の万歳を三唱し、次で両側部隊の進出に伴い旅団命令に基づき、一旦奪取したリマイ山を攻撃の終点として、後退を命ぜられたので、一小隊を残置し、主力は再びサンビセンテ川の谷地に集結して、新任務を待機した。

 われわれの聯隊は一月元日リンガエン湾上陸以来、常に最前線に立って激戦を続け、四六時中生命の危険を意識しながら、既に百日を経過したのち、始めて予備隊となって後方に控置せられたため、新任務の物珍らしさと、安息の気分で、野草を褥とはいえ、警戒心も自然緩め、深い安眠を貪り、静かな一夜を朋かした。(P177)

 この当時までわれわれは、米比人約百五十人の捕虜を連行していたが、彼等の中には戦前マニラの開業医をしていた米人軍医も居り、敵味方恩讐を越え、両軍軍医共同で傷病兵を治療したり、兵隊同士お互いの運命を慰め合っている光景も見られた。(P178)



今井武夫『支那事変の回想』  


 九日バターン戦線の勝敗はすでに明かとなり、敵の指揮官キング中将は、バターン半島の全部隊に降伏を命じたので、十日朝から戦線各所のジャングルから、七万の捕虜が現われ、わが軍門に降った。

 わが聯隊にもジャングルから、白布やハンカチを振りながら、両手を挙げて降伏するものが俄かに増加して集団的に現われ、忽ち一千人を越えるようになった。
 
 この頃になって戦場のわれわれにも、バターン半島の米比軍が全面的に降伏したという噂さが伝わって来て、兵達は長い戦闘間の辛労を顧み、生き残った各自の生命を改めて確かめ、各所で歓声を挙げて楽しげであった。

 午前十一時頃私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。

 特に聯隊長を指名した電話である以上、何か重要問題に違いない。
 
 私は新らしい作戦命令を予期し、緊張して受話器を取った。附近に居合わせた副官や主計、其の他本部付将校は勿論、兵隊一同もそれとなく私の応答に聞き耳を立てて、注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。

 それは

 「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだ之れを全面的に承諾を与えていない。

 其の結果米比軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。

 貴部隊も之れを実行せよ。」


と、いうものである。

 戦闘間の命令は其の事の如何を問わず、絶対服従せねぱならぬことは、厳しい軍律である。しかしこの兵団命令は人間として、何としても聴従しかね、又常識としても普通の正義感では考えられぬことである。

 この時(P178)

 コン(門がまえに困)外の任を承けては勅命と雖も聴かざることあり

と、いう古い言葉が、頭をかすめた。

 私は自己の責任上避けられない立場に困惑したが、心を決めて直ちに応答した。

 「本命今は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」

と、述べて受話器をおいた。

 私は直ちに命令して、部隊の手許に居った捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するように指示して、一斉に釈放して仕舞った

 私の周囲に居った渡辺中尉や杉田主計中尉其の他若い将校は、私の意外な指示に仰天してあっけに取られ、棒を呑んだように息を詰めたまま私を見詰めていた。

 戦後彼等の告白によれば、聯隊長の突飛な命令に吃驚りして、実際頭がどうかしたのではないかと、疑ったと述べている。

 私はこの時、兵団は恐らくこの非常識な筆記命令を、交付しないであろうが、たとえ万一斯かる命令が交付されても、其の時部隊には一兵も捕虜を管理していない状態にしておけば、多数捕虜の生命を擁護することが出来ると、思案した結果であるが、果して筆記令今は遂に入手しなかった。

 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしく某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理を生む行動に、慄然とした。

 勿論戦後マニラの米軍戦犯軍事法廷では、本問題も審理の対象とされ、軍司令官本間中将の罪行に加えられたと聞き、側隠の情に堪えかねたが、同時に斯かる命令を流布した越権行為が、有耶無耶に葬られていることに対し、深い憤りを禁じ得ない。

 ここで大東亜戦後フィリッピンのロハス大統領が、中華民国の蒋介石総統に、助命の親書を送ったため、戦犯から解放されて問題となった神保信彦中佐の談話を附記する。

 神保はバターン戦で、われわれ夏兵団の右側に隣接して戦闘した、生田寅雄少将の指揮する第十独立守備隊司令部で高級副官をしていた。(P179-P180)

 生田兵団は中国大陸から比島に転用され、四月四日リンガエン湾に上陸し、四月七日オロンガポから前進してバターン半島西岸地をマリベレス山西麓に向って攻撃前進した。

 私が捕虜殺戮の命令を受けた同じ日、生田司令官は夏兵団の高級参謀から電話で、私が受けた命令と同じ内容の大本営命令を伝達された

 驚いた生田少将は、特に部下大隊長四名を招集して、この命令により約一万人に達する捕虜の処置を協議したが、もとより重大問題であるだけに、慎重に審議すればする程、異論が出て、決論が決まらないまま数日を経過した。

 其の間に神保は、自ら軍司令部に出かけて、この軍命令は、本間軍司令官の関知せざるものであることを偵知し、危うくこの蛮行の実行を中止することが出来た

 同時に神保は、戦闘間の軍命令の神聖性に深い疑惑を感じ、特に捕虜に関する命令には、怪しい偽作命令のあることを体験して、衝撃を受けた。

 神保の属する生田兵団は、バターン戦終了後直ちに、ミンダナオ島に転進して、同島の戡定作戦に従事したが、日本軍に抗戦した米比軍は、マライバライで降伏し、其の時フィリッピン軍の参謀長であったマヌエル・ロハス少将も同時に捕虜となり、生田兵団で管理することとなった。

 ロハスは戦前比島政府の大蔵大臣や、下院議長をやった前歴もある比島政界の巨頭で、比島独立の功労者である初代大統領ケソンの二代目と云われた程人望があった。予てから日本軍に其の行衛を注目されて居ったが、六月になるとマニラの日本軍司令部から、銃殺するように命令して来た

 神保はさきのバターンに於ける捕虜殺戮の偽作命令の経験にかんがみ、この捕虜処刑の軍命令にも疑惑を感じ、生田少将の指示も受け、其の処刑を延期してマニラに出張し、軍参謀長に命令の真偽を確かめた結果、本間軍司令官の全く関知せざる命令なることを知り、はっきり決心してロハスを助命した。

 その後神保は中国大陸に転勤を命ぜられ、昭和二十年大東亜戦争終結後、当時服務していた山東省で武装を解除され、戦犯として済南監獄に収檻された。

 その時曽てフィリッピンで銃殺の刑に処せらるべきであったロハスは、大統領としてフィリッピンで最も高い権力のある地位につき、そしてその時捕われ人の命を守った神保は、かえって異国で捕われの身となうていた。(P180-P181)

 図り難いのは人の運命であるが、ここで奇蹟が起った。

 曽て命を救われた大統領は、今服役中の戦犯を救うべく立ち上って、中国の蒋介石総統に神保助命の親書を送り、神保は済南の軍事裁判で、処刑される筈の運命から、突然昭和二十二年四月特別に釈放され、同年七月日本に帰還することが出来た。

 善意は善意を生み、感謝は感謝を呼ぶ。

 斯くて神保は獄中で思わぬ恩典に浴して、無事故国の土をふみ、戦争で荒廃した日中比三国の民心に、人情の灯の消えていないことを示した。

 ここで話を本筋に戻すこととし、バターン攻撃を終ったわれわれ夏兵団は、中部ルソン島戡定の新任務を受け、わが歩兵第百四十一聯隊は四月十二日より反転を開始し、途中敵を掃蕩しつつ、サンミゲールを経て四月二十四日カバナツァンに到着した。

 爾来聯隊は第一大隊をボンガボンに、又第五中隊の一小隊をサンホセに派遣し、主力を以てカバナツァンに駐屯して周辺の作戦に従事したが、六月中旬に至り聯隊主力を以てマニラに移駐して同地の警備を担任した。

 私はマニラ防衛司令官としてルネタ公園東側の建物に入って約二ヵ月間勤務したが、専ら日本軍の軍紀、風紀の取締りに重点をおいた。(P181)



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 密林戦とバターン死の行進

 比島の密林は天を蔽ってそびえる原生樹林で、遠くから眺めれば樹海といえるもので、近よって見れば榕樹や檳椰(ビンロウ)樹、マンゴー等の巨木の間に、刺のある竹や濯木の群落が密生し、籐や葛のような蔓が、からんでいる。

 時として下枝や雑草がなく、案外林間の通過を許す所もあるが、多くは通行困難で、壁のように立ち塞がっていた。その上余程標高差があるか、急斜面でもない限り、高地に登っても、立並んだ樹林に遮られて、展望が利かないから、敵に瞰制されている山麓では、之れ等の障碍を克服することも出来ず、従って容易に方位の判定もつかなかった。

 私は二月六日アポアボ河谷で、部下大隊長に五号無線機を配属して経路機を携行させ、新任務を授けて、西南方タクボまで派遣したことがある。勿論未知の土地ではあったが、直線距離にして僅か四・五粁であったに拘らず、部隊は毎日密林中を右往左往して彷徨し、目的地に向って大迂回し、三日目に目的地から十粁も西北方の遠距離に到着し、四日目の九日漸く所命の地点に達した。(P181-P182)

 之れがため後方の聯隊本部から、工兵大隊に捜索を命じたり、将校斥侯を派遣したり、無線機を使用して行進方向を是正する等、大いに心痛した。

 こんな特殊地帯であるから、作戦といっても、先ず方位を間違えないことが、第一の要件であった。(P182)



今井武夫『支那事変の回想』  

 バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルッツ島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給雑と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽していた。

 その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が、今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が統出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶余も許さず、休養の暇もなかった。

 われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁行軍せねばならなかった

 窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃迄に、目的地に到着するよう、行軍計画を樹てたが、落伍兵を激励しながら、行軍するのは、全く容易でなかった。

 然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米比軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。

 士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹蔭と水を求めて飯盒炊事を始める等、其の自堕落振りは目に余るものがあった。

 しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。

 戦後米軍から、バターン死の行進と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、始めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった

 米軍は戦時中国民の敵慨心を昂揚するため、政略的に死の行進を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の惨酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。

 明らかに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。(P185)

 しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。

 その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかも知れない。

 何れにしても、この為め日本軍から、軍司令官本間中将が、マニラ軍事法廷で其の責を問われたことは周知の通りだが、別に輸送の責任者として河根兵站監やその部下の平野兵站司令官が、横浜軍事裁判で、死刑の判決を受け、戦争犠牲者として一命を捧げたことは、誠に痛恨に堪えない。(P186)




(2013.6.29)



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