淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 吉村寿人は亡くなる前の、77歳のときに自分の学究の足跡をふりかえって、『喜寿回顧』という一冊の自伝を残している。このなかの「戦争への参加」、「心に残る人々」の恩師との思い出のなかで、731細菌戦部隊のことを折りに触れ仕方がなかったと言い訳を書き残している。

 これについて常石敬一が、『医学者たちの組織犯罪』のなかで書いているのでそれに依るとして、『喜寿回顧』のなかで気づいた点について述べる。

 吉村寿人が初めて戦闘に参加したところは、中国東北(偽満州国)とモンゴル人民共和国が国境を接する、大興安嶺の一角に広がるホロンパイル平原一帯のノモンハン地方である。すでに人々の記憶から遠くなってしまったが、ここは日ソが初めて局地で戦火を交えたノモンハン事件(1939年)の地である。

 当時を回想して、吉村が所属していた731部隊は細菌戦の研究をしていたが、自分は本来生理学者であったので、彼らとは別の研究をしていたといっている。別の研究とは、酷寒で起きる凍傷の人体におよぼす研究のことである。

 このとき初めて彼は「砲弾でたおれ死んでいく兵士の死にざまを見て無情な残酷さを感じるとともに、こんなところでは私のpHの研究は何の役にも立たぬと痛感した。まず生き残る事が第一条件である。生き残ってこそ学問であり、活動である。生理学は自然の驚異に対して如何にしてそれに耐え生き残っていくかを先ず研究すべきでないかと痛感した」と、45年前のノモンハンのハルハ河の会戦で、日本軍が壊滅的な敗北を喫した模様を思い出しながら述懐している。

 ここには一兵士として戦闘に参加した自分と生理学者としての自分を見つめながら、帝国陸軍が壊滅的な敗北を喫したノモンハンの戦争体験を通して、如何にして生き残っていくかを冷めた目で見つめている姿がみえる。(P256-P257)

 これは戦闘に参加した731部隊のインテリ兵士の自己中心的なエゴを剥き出しにした感情の吐露といったもので、ここには生体実験の餌食となった犠牲者への贖罪の意識も、戦争体験を通して自己を見つめる科学者としての反省も見られない。このころになると、石井細菌戦部隊は日本陸軍のなかで極めて特異な目的を持った、戦術細菌戦部隊であったことを充分知っていたことを窺わせる。

 この文面からは人体実験に饗された被害者への悲しみの感情は伝わってこない。研究に生きる生理学者として、戦時下の学問に対する決意しか伝わってこない。これは731細菌戦部隊に参加した医学者たちの平均した内面であっただろう。彼らのほとんどは黙して語らず、心の内面はわからない。55年たっても本音と建て前を使い分ける日本人特有の心の在処を覗かせている。

 『喜寿回顧』を読みながら感じることは、学者として最高を極め、永年にわたり医学者として医学生の養成に携わり、多くの優れた人材を世に送ってきた氏の内面をどのように理解すればよいのだろうか。(P257)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 1981(昭和56)年、森村誠一の『悪魔の飽食』(「赤旗」日刊耗連載)によって731細菌戦部隊の戦争犯罪行為が批判されるにおよんで、吉村は、「(社会の目をひくためにマスコミや新聞報道が)私に関係のない事をいかにも私が責任者であったように書くのは全くの捏造である」と切り捨てている。

 しかし森村誠一の批判はなにも根も菓もない捏造ではない。れっきとした資料に基づいて書かれたものである。因みにその典拠をあげてみると、それは「公判記録七三一細菌戦部隊一細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉で起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判記録一完全復刻版《普及版≫」である。

 森村の『悪魔の飽食』第三部(初版)は1985(昭和60)年にでており、その間に3年の差がある。恐らく吉村は赤旗の連載も、ベストセラーになった角川文庫の『悪魔の飽食』も読んでいなかったのではないだろうか。恐らくこの文章も新聞やマスコミが流す記事をみて書いたようにも思われる

 しかし「悪魔の飽食のなかに書かれている私に関するものには随分ひどい誤解やフィクションに満ちたものがあることをここに断言しておく」と書いている。(P257-P258)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 故人に追い打ちをかけるようだが、終生脳裏にこびりついて離れない、断末魔の形相に苛まれる、と関東軍防疫給水部第一部吉村班に出向したときの体験千田英男は書きのこしている。

 それは1942(昭和17)年春であった。彼が出向したところは第一部吉村班、凍傷の研究を担当している部署で、そこではたまたま喝病の生体実験の最中であった。



 衛生兵の教育を受けていたとき、この部隊は防疫給水を主目的とする濾水機の製造補給が私の任務であると教えられていたので、堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病に罹りやすい気象条件を作りだして罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくても束縛されていて身動きもできない。やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていくあの凄まじい断末魔といえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。被害者の死に様をとても正気では見ておれなかった。



 このような実験を平気で行っている人間はどのような神経の持ち主だったのだろうかと書き残している。

 この証言の原典は1974(昭和49)年戦争体験を記録する会編『雲は帰らず』のなかに収録された千田英男「終生の重荷」より転載されたものである。(P258)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 1974年といえば、731細菌部隊の実体を掘り起こす運動が全国的に繰り広げられていたときである。すでに吉村ら731細菌戦部隊に参加した医学者たちは、アメリカから戦犯の免責を受けて、20年の年月がたっていた。

 この免責が吉村をして強気の発言をさせているようである。兵隊を凍傷や凍死からどのようにして守るかを部隊長の命令でしたまでで、良心を失って悪魔になったわけではなかったと言っているが、これでは「部隊長の命令」を言い訳の理由にした言い逃れとしか受け取れない。(P258-P259)

 吉村は何故過去を語ろうとしなかったのか。まず731部隊で犯した個人としての罪の意識が見られない。どうして戦犯として罪に問われなかったのか、自分に問いつめる意識がすっかり抜け落ちている。

 これは戦争に参加した日本人たちが、多かれ少なかれ戦争で犯した罪にたいして抱いている意識と共通するものである。彼は「戦争だったんですよ。分からなければ勉強しなさい」と他人事のように言っている。この言葉はその間の内面をあらわしているようで、戦争を口にする日本人の共通の認識である。罪の意識にふれる心あたりは、何でも戦争と上官の命令のせいにして万事を済ます姿勢である。ここには自己防衛本能が見える。(P259)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

このような氏が中国から引き揚げてきた後、南極観測隊の一員として、1956(昭和31)年北海道濤沸湖での氷上耐寒訓練の医学上の指導をしていたことがある。731細菌戦部隊での凍傷の人体実験の継続と考えられる実験を南極観測という国の場で行っていたということである。

 当時の朝日新聞をみると、「日本学術会議の南極特別委員会(茅誠司委員長)では13日、医学、設営委員会の初委員会を開き、……この日の医学委員会は午前十時半茅委員長、西堀越冬副隊長、長谷川東大伝所長、戸田金沢大学長ら十委員が出席して開かれ、まず、観測参加の医師や携行薬品などについて東大内村裕之委員、元関東軍軍医中将北野政次委員らが意見を述べた」とある。

 当時の南極特別委員会医学専門委員メンバーを知るために、『南極観測25年史』を見たが、南極特別委員会には医学の専門もあったようだが、『学術の動向』や『科学者名鑑』にはそのあたりの具体的な記述はなにもない。

 高杉晋吾によると、日本学術会議の資料には医学専門委員の中に京都府立医科大学生理学教授吉村寿人の氏名があがっている。そこで日本学術会議に問い合わせたところ、そのような記録は残っていないという返事があった。

 日本学術会議は意図的に医学専門委員会を消してしまったのか。今となっては曖昧模糊としてわからない。その間の事情を茅誠司が「いいことは継承すべきだ」とか「あまりこのことに深く立ち入らない方がよい」と高杉晋吾に語っているところをみると、高杉の話は真実であることが理解できる。

 当時新聞紙上で731細菌戦部隊にいた北野政次や吉村寿人が、国の機関で戦時中の研究の成果を乗鞍や濤沸湖で南極越冬訓練の中でやっていた。(P259-P260)

 日本学術会議自体が研究活動に何の差別もない、良いものは良いと無原則に思慮分別もなく、彼らを招聘した意図の根底には、戦争責任に対する意識に、暖昧模糊とした日本人的な長いモノには巻かれろ式のものの考え方が根深くあったのではないだろうか。(P260)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 吉村寿人は、戦時体制下で、個人の自由意志で良心にしたがって行動できるような軍隊はどこにあるのかと、自己を正当化する言い訳として、軍隊の絶対服従という身分関係があった、軍属と軍人の身分格差のもとで、個人が良心に従って行動する余地はなかったというが、これでは戦争だから何をしてもいいのだと言っているようで、彼の個人としての良心はどこにあったのか、科学者として、医学教育者としての良心はどこにあったのか。

 マッカーサー司令官と石井四郎とのあいだで、細菌戦の極秘情報をアメリカに提供することによって戦犯を免責にするという取引は終わっており、医学者たちの罪の意識も戦争犯罪もすべて帳消しにされてしまっていたことによって医学者たちは医学界への復帰の免罪符を手に入れ、大手を振って返り咲いていったのである。

 言い訳を仔細にみていくと、強気の発言の裏には、この「免罪」があったことが読みとれる。

 この731細菌戦部隊の免罪をめぐって太田昌克は、極秘の新妻清一ファイル(「特殊研究処理要領」、「新妻清一中佐尋問要領」、「増田智貞大佐尋問録」、「田中淳雄少佐尋問録」、「増田智貞大佐書簡」、「北野中将への連絡事項」)を詳細に検証し、連合軍調査官と彼らとのやりとりのなかで如何に免責を勝ち取っていったかを証してくれている。

 なかでも彼らの通訳としてサンダース取調官の尋問に立ち会った内藤良一の際だった存在をあざやかに措いている。恐らく吉村は詳細を知らなかっただろうが、アメリカから免責を受けていたことは知らされていただろう。それは1945(昭和20)年の10月であった。研究者の間で噂されていたよりもかなり早い時期であった。

 吉村が京大に復帰したのは1945年9月、航空医学教室青木九一郎教授の講師として迎えられている。その後この教室は青木九一郎教授の公職追放と、この教室自体が行政整理によって消滅したために、1946(昭和21)年5月に兵庫県立医科大学生理学教授に迎えられるが、尻の暖まる暇もなく、翌年の9月に京都府立医科大学生理学教室の教授に、かつての恩師正路倫之助の引き立てで見事に返り咲きをはたしている。(P260-P261)

 もちろん学究の業績にたいする評価があったからとはいえ、731細菌戦部隊の経歴は不問のまま、彼は医学者の道を歩み、研究者として生涯を全うしている。「戦争だったんですよ。仕方がなかったんです」と、すべてを戦争のせいにして、自己責任までも風化させる無責任な社会的風潮を瀰漫させる温床を作った。日本現代史の欠落部分として残る天皇の戦争責任と731細菌戦部隊の医学者たちの免罪を、後世の史家は何と言うだろうか。日本人の戦争責任は終わっていないのである。(P261)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 その後医学界では、「医の倫理」が口の端にあがることはあっても、731細菌戦部隊はタブー視されて、1952(昭和27)年10月の日本学術会議第13回総会で、平野義太郎、松浦一、福島要一らが、「細菌兵器の使用禁止に関するジュネーブ議定書の比准を国会に申し入れる」という動議をだしたが、賛成少数で否決されている。

 このとき第7部会(医学系)から選出されていた、石井四郎らと深い繋がりをもつ木村廉、戸田正三らが反対を打ち上げ、この批准促進の提案は第7部会の医学会員らの反対によって否決されている。

 これは石井細菌戦部隊に関係した医学者たちの戦争責任を問うものではなかったが、これが彼らに波及することを恐れた医学界の水際でのもみ消しの一事件であった。

 これ以後、医学者たちの戦争責任は日本社会で問われることはなかった。ここには「先輩の引き、同僚の支え、後輩の押し」という医学界の人間関係の構図があったことは見逃すことはできない。

 防疫研究室、石井731細菌戦部隊につながる人脈に出てくる医学者たちは、当時の医学会で名の通った著名人たちで、後年医学界でボス的存在と目された人が多い。彼らは黙して語らず、過去を隠すことによって罪責を握りつぶし、鬼籍に入っていったのである。医学界全体が彼らを庇い、支持し、後押しをし、実体を隠蔽することに力を貸したのである。

 そんななかで吉村のように731部隊の体験を回顧した文章を残した人は珍しい。ほとんどの人は過去に目を瞑ることによって、歴史に背を向けてきた。たとえそれが感情もあらわな、歴史にたいする誹謗と自己弁護に終わっていても、それはそれとして、これを手かがりに彼らの内面に立ち入らなくてはならない。(P261-P262)

 731細菌戦部隊に参加した医学者たちがどのようにして返り咲いていったか、吉村を例に話すのも、この世界に疎い世間の人々に何かと参考にはなるからである。(P262)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


淵上輝夫『戦争・罪・贖罪−吉村寿人の場合』

 吉村を語る場合に、彼に大きな影響をあえた正路倫之助(京都帝国大学医学部教授、兵庫県立医大教授、兵庫県立医科大学学長、第一期学術会議会員)の存在がある。

 吉村は1930(昭和5)年に京大生理学教室に入室して、血液pHの測定法のテーマで研究生括にはいっている。まもなく日本評論社から医学書『生物物理化学』を正路倫之助と共著で出している。主任教授の信頼も厚く、本人も言っているように書物を読んでまとめるのが得意で、4カ月で仕上げたといっているところをみると器用な人であったのであろう。

 入室まもなく主任教授と書物が出せるなど、当時としては破格の待遇である。正路倫之助に見込まれていたのであろう。

 当時、吉村の実家は父の死後莫大な負債を抱え、母と裁判所や銀行に通い、遺産で借金を棒引きにするという、離れ業を成し遂げるという凄腕の持ち主でもある。後年学長職にあったときに辣腕を発揮したその片鱗を見るのである。

 このような家庭事情のなかで「血液pH測定用の硝子電極の作成に成功し、硝子電極の電位差発生のメカニズムについて研究を発展させ、アルカリ誤差がNa+括量Dose responsiveであることを発見して、Na sensitiveな電極をつくることも可能である」という考えに至っている。

 彼の学究の成果は確実に積みあげられ、『pHの理論と測定法』が丸善から出版されることになる。こうみてくると実績が評価されていったことが伺われる。

 そうこうしているうちに、正路倫之助からの強引な731部隊への赴任命令を受けることになる。その間の事情については常石敬一が『医学者たちの組織犯罪』に詳述している。当時教室員の人事権は主任教授に握られ左右されていたことが何われる。今も事情は変わらないだろう。

 『喜寿回顧』の「正路先生の応用生理学への転向と日支事変」のなかで、正路倫之助が時局にあった生理学の必要に気付き、今までの生物学的な生理学原論から臨床医学の基礎としての生理学に方向を転換していることがわかる。

 吉村もその影響を受けて寒気生理学や航空生理学などの応用生理学の研究テーマに転換していくのであるが、医学的研究の方向転換と言えば聞こえはよいが、国策に迎合した顔だけが目に付き、偽満州国の建国がなにを意味していたのか、何ら考えることもなく戦後を生きてきた医学者の姿勢が見えるだけである。これだけ蒙昧な考えに徹した医学集団も珍しい。このような考えが戦後ずっと生き続け、戦後の医学界をリードしてきたのである。(P262-P263)

 彼は「心に残る人々」のなかで、戦争に巻き込まれた人間の極限状況というのは、平和な時代には考えられない想像を絶するものだと、生理学者としては実に単純な視点で戦争を見ていることで、自分が体験させられたという生体実験についてはいっさい自分に問うことはなかったのである。(P263)

(『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』所収)


(2016.1.31)


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