下関の光景
  
ー入城式後の「捕虜殺害」ー


 南京市西北部、揚子江に面した波止場「下関(シャーカン)」は、捕虜殺害の主な現場となったところです。

  ここでは、十二月十七日の入城式以降の、「捕虜殺害」あるいは「敗残兵処分」の目撃証言を並べてみました。この時期、「南京戦」は完全に終焉していたにもかかわらず、こ のような光景が継続していたことがわかります。

 この時の捕虜は、南京郊外で捕虜になった敗残兵、または、安全区から摘出された敗残兵が主であったと思われます。各証言の細部に誤りがないとは言えませんが、いずれもリアルな記録であり、少なくとも「目撃」の部分については、大筋では正確なものであると見てよいと思います。


赤尾純蔵氏「泥と血の中」より

 
揚子江の水は泥水かと思われるほど汚く、流れの真中に数隻の貨物船と病院船が停泊していた。

 波止場にはいくつかの倉庫があったが、その倉庫から五つ六つの細い桟橋が河上につき出ていた。桟橋の上には、青い支那服をきた中国人が倉庫から出て、一歩々々ゆるやかなあしどりで河の方へ進んでゆく列が見られた。桟橋の先端では、三人の日本人が刀を振りあげて中国人の首を切っていたのである。

 その日本人は軍服を着ていなかったので、武田の眼には軍属のように見えた。首を切られる中国人は、或者は既に観念したものか、橋板の上に行儀正しくひざまずき、首を伸ばして、切りおろされるのを待っていた。切りおろされると、首は泥水の河中にどぶんという音を立てて落ち込み、そのまま俯せた胴体は、河に足で蹴とばされた。

 殺されることがわかったため、橋の先端で死を免れようと必死にもがいている中国人の姿もあった。しかし、虐殺者はこれを引き据え、一人が押え、他の一人が首を切った。

 おとなしく首を切られるふりをして桟橋の先端に近づくや、水泳の心得があるとみえて、やにわに河にとび込んだ中国人があった。しかし、虐殺者は拳銃をかまえると、河にもぐる人間を執拗に狙撃した。

 こうして鮮血は泥水を赤く染め、人間の首、人間の胴がふわりふわりと河面に浮び、河中で狙撃された人間は苦しそうにもがきながら河底に沈んでいった。

 河上に停泊している病院船のデッキから、七、八名の看護婦がこの有様を眺めていた。数珠つなぎに並んで桟橋の端にくる中国人が、虐殺者によって首を落されるごとに、彼女たちは「キャッ!」という悲鳴を上げて顔を伏せた。鬼畜と化した虐殺者は、女性の悲鳴を耳にするごとにいっそう勢づいて暴虐をつづけたのだ。

 白衣姿の武田は、傷の痛みをこらえてこれを眺めながら、やがて病院船に乗り移り、凄惨な南京をあとにして、揚子江を上海に向って下っていった。

(P59-P60)

*17日の「入城式」から、「数日後」の出来事とのことです。




『井家叉一日記』より

 十二月二十二日

 満月の月は日々に近づくのかかけて行く、夜の寒さは一入身に泌みる。

 メリケン粉を固めて団子にして葱の汁に入れて雑煮を祝った様な者である。全くお正月を迎えた様な者である。襦袢や袴下を衣替をやる。晴々した、精神的に小春日和の様になる。

 畠に行き通行の支那人拾五名を徴発して葱の掃除をやる。

 タ闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。

 百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすで西山に没してすでに人の変動が分るのみである。

 家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきでは突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。 戦にやぶれた兵の行先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。

 突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す。

 暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終りて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。

 向うの竹薮の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

 (『南京戦史資料集』 P479)

*筆者は歩兵第七聯隊第二中隊・上等兵。





奥宮正武氏「私の見た南京事件」より


1 第一日目


 戦死した飛行機搭乗員たちの遺体捜索の第一日目は十二月二十五日、第二日目は十二月二十七日であった。

(略)

  下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の要衝であった。浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。

*「ゆう」注 「開源碼頭」は下関の地名ではなく、この地名は奥宮氏の記憶違いであるようです。

 碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。

 私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。

 構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。

 岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。

 この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私がロを出す余地はないと感じた次第であった。

 そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。

「なぜこのようなことをするのか」

 答えて日く、

「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」

 彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。

 その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索しながら飛行場へ帰った。

 人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しぼらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。

 また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持つていた人々がいたことであろう。

 ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私がそれまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。

 二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。



第二日日

 十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。

 下関の処刑場に近づくと、この日もまた、域内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。

 再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑問が生じた。

 それは、

「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」

ということであった。

 そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、

「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、”腹のすいた者は手を上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」

と説明してくれた。

 そこで、更に、

「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」

と質問したところ、

「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」

との答が返ってきた。

 このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。

 もっとも、二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三〇旅団長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日頃までに数千人の処刑をしたとのことである)、 二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。

 この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。

 私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。

 それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。

 そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大問題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的余裕がなかった。

(以下略)

(P30-P40)


*この証言のうち、「一人の若い陸軍士官」「一人の下士官」から聞いた話は眉唾物で、この部分を奥宮証言否定の材料としようとする向きもあるようです。しかし、奥宮氏自身も「彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった」などとコメントしている通り、必ずしも話を全面的に信じたわけではありません。 そもそも、「他人から聞いた話」が信憑性が薄いからといって、「目撃」部分まで信憑性が薄い、ということにはならないでしょう。




吉田庚氏「軍馬の想い出 一輜重兵の手記」より

南京滞在.

 昭和12年12月28−31日

 原隊との距離は短縮され、夢に幻影を描く。南京に入城した。安堵感で今夜は気がはずむ。明日から曳行馬の装蹄や手入れをしたりまた市街を見物して過去の労苦を慰さめんとす。

 午前中兵站下関支部及び中山埠頭に行き装蹄の処置を依頼せしも無駄、依而五八歩兵砲隊員に頼みし処快く承諾してくれて安心する。昨夜は判らなかったが宿舎にしたこの家の一隅に数十罐の大豆油があり、また麦粉も二、三袋を発見して、天麩羅、肉、ぜんざい等を料理する。所謂蒋介石給与に出会いして御馳走に満腹する。

 さて、南京で正月を迎えるかそれとも一日も早く渡河して原隊に帰るか、明日いずれかを選ばん。原隊を離れる事は戦地では禁物である。日用品の官給を受領す。霙が雪となりて白き薄化粧。滞泊す。

 疎外せし同行の戦友橋爪、小林の二名は外出して小生は留守居をする。天麩羅せしも失敗す。北村武夫、ミヤに葉書出す。晩歩兵砲隊兵来り、チャン酒を飲みながら世間話に興じて軍歌、民謡を唱いご機嫌で帰る。飲み過ぎて腹痛あり。

 本日原隊へ連絡に行きし上等兵二名の一日も早く帰らんことを希う。捕虜惨殺の実験談を聴く。連日実施されつつありと。

 午前中、中島部隊野戦支庫に行き馬糧及び麦粉の支給を受く。住民殆どいなく廃墟の街で想像通り皇軍兵馬往還である。たまに支那服を着た人々に出会うが、軍許可証を腕章に巻く通訳、または治安維持会幹部などの軍協力者である。

 宿舎近くに火事あり一時避難準備するも無事である。晩に至りまたまた再燃し火勢猛裂となりしため、装具を歩兵砲隊宿舎に運び仮眠する。延焼を免れて戻る。二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。

 準備も完了している気安さから噂に開く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。

 街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名堤上に整列させ半数は揚子江に面して半数は裏向きとして前向き十名は桟橋に駆足行進濁流に投身せしむるのである。

 強行溺死の処置であるが、 生還せんとするものまたは逃げんとせし者は数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。

 終ると残る裏向き十名が前向けに替り、終れば堤脚部から二十名整列、これを繰返すのである。
鮮血河流を紅とす。

 鳴呼惨たる哉、已むを得ざる処置なる哉、江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面につき刺す。流弾的をはずれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と堤上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面白半分の行動である。

 上流に向かって堤防を行く川面側の堤下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。小型小銃を見付け点検せしに我が軍の騎銃のごとく、口径は一回り大きく弾も廿数発拾得して試射せしところ異常なし、よって今後の戦争に役立てんとして持ち帰る。

(P68-P69)

*吉田氏は、第十三師団歩兵五十八連隊所属。



『「浅羽町史」 資料編三 近現代』 より


300 戦場からの手紙(3) 南京虐殺 昭13.1

浅羽町教育委員会所蔵


 (略)

 其の町に南京政府、敵様が居たる兵営も有り、海軍部も有って支那軍も相当常に軍事教練をして居た事が思われるよ。自分等の居る所は此の城外で有る。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行、家は五階で有るが三階までは焼けて居る。

 自分等の居る隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐で有って良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやる所で有る。揚子江を船で来る全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足の兵で歩哨に立つので中々苦労は多いよ。

 去年の三十一日まで支那兵の捕えたのを毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に手をしばって落して置いて上から銃で撃ったり、刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるでにわ鳥でも殺す様な気がするよ。

 十二月二十七日の夜は兵站部に食糧を盗みに来たので七人捕えて銃剣で突殺したが面白い物だったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。

(以下略)

(P456)


* 静岡県浅羽町が編んだ、同町の町史からの引用です。原文は、「を」が「お」になっていたり、送り仮名が省略していたりするなど読みにくくなっておりますので、適宜修正しました。原文を確認されたい方は、直接原典を当っていただくようお願いします。




井出純二氏「私が目撃した南京の惨劇」より


ヨロヨロと引き立てられる捕虜

 私の南京入りは十三日の首都陥落から二週間以上遅れた十二月二十九日だから、それ以前のごとは全く知らない。いわゆる”南京虐殺事件”は、十七日の入城式と翌十八日の慰霊祭を前に、治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体ではないかと推測する。 中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。

 にもかかわらず、それから十数日経った後、南京埠頭で私が見た光景は、なんと解すべきか。軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜにそこまで堕落していたのか。ましてや私が見た限りでは、大量、組織的、 軍命令による白昼堂々の”公的処刑″としか見えなかったのは、いったいどうしたことなのか。私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との相関について、いまだにその解釈に苦しんでいる。

*「ゆう」注 この「松井大将の涙の訓示」は、実際には2月7日のことだった、との議論もあります。

 さて、現場は、歩哨も憲兵もいなくて立入り自由、写真撮影さえ可能で、いま考えると、なんとも不思議な話で、残虐シーンを次々にカメラに収めたが、数枚を除いてほとんど紛失してしまったのは残念である。

 南京北部の中山北路が挹江門から揚子江岸に至る東側に、下関(シャーカンと呼んでいた)駅があり、そこから引き込み線と鉄橋が江岸まで延びていて、対岸の浦ロへの貨物を鉄路から直接連絡船に移送できるようになっている。だから江岸は少し凹んでいて、ここで処刑すれば、ひとりでに河中に落ちるが、一部は流れて行っても、多くの死体はそのまま岸に累積、停留するわけだ。

 当時私は部隊の炊事を担当していたので、毎日一、二回、下関駅近くの糧秣廠へ、食糧その他の受領にトラックで出かけていた。営舎からの外出は自由であり、はっきりした記録はないが、二十九日以降、明けて正月五日ごろまでの間に、少なくも三、四回は現場へ出かけたと思う。 好奇心−といってしまえばそれまでだが、航空隊の地上勤務では、ナマの戦争体験はなかなか機会が少ないので、こうした気持ちの処理もあったように思う。

 私は”血の桟橋”と名づけた。鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、 みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。

 江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。

 私は彼らが屠所へ引かれる羊のようにおとなしく追い立てられるのが、ふしぎでならなかった。腹が減って抵抗する気力もないのか、と想像したが、今でも解けない謎だ。

 もっとも、その前に北支戦線でやはり捕虜を日本刀で処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念しておとなしく斬られていた。あきらめのよいのは中国人の民族性なのだろうか。


ダンベラと機関銃の処刑

 さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。

 一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。

 傍まで行くと、四十歳前後のヒゲの応召兵が「戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ」と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。

 私に気がつくと、

「航空隊の人よ。少し手伝って下さいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ」

と言われたが、三十分近く見物しで胸が悪くなっていた私は、日夜連続、命がけの苦戦を重ね、多くの戦友を失った人にしてはじめて許される憎しみ、非人間性、野獣化だろうと、むしろ老兵に同情する気持だった。

 顧みて航空隊の地上勤務者は”軍隊の中でのドラ息子”、”苦労を知らない傍観者”みたいに思われており、手を振って早々にその場を離れ去ったことを憶い出す。

 その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、「何ですか」と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。

 その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。                      

北支でもそうだったが、こうした処刑場面を第三者の目から隠そうという気持が、当事者にはまったくなかったようだ。

 将校か指揮官でもいたら事情を聞いてみたはずだが、姿はなかった。末端の兵隊に掃除させているような感覚だったのだろう。

 私は隊に帰ると、見聞きた情景を誰彼となく話したのだが、将校連中の意見では、〆鄒錣亮最圈↓衣食住の不足が原因だということであった。

 市民に聞くと、「蒋総統、唐生智防衛司令官の脱出も全く知らされなかった。政府からは”大丈夫、大丈夫”″と強調され安心していた。いざ陥落、逃げようとしたときは既に舟はなし、役人と一部の金持しか舟が手に入らなかった」とこぼしていた。一般市民だけでなく、敗残兵も逃げ場を失い、良民の間に紛れこんだので、その区別がつかず、勢い捕虜はふえるばかりで、当時実数一万人とも聞いた。

 またそのころ市内の電柱に、日本軍の名で「兵器修理工場をつくる。少しでも兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」といった求人広告が貼ってあるのを見た。中国で兵器取扱いの経験者といえば、旧軍人とみてまず間違いなしというわけで、これも苦しまぎれの敗残兵狩出しの奇策だったようだ。

(「増刊歴史と人物 秘史・太平洋戦争」=1984年12月発行、P273-P275)


*井出氏は、当時陸軍航空兵軍曹・飛行第八大隊付。







 なお、この時期の「捕虜殺害」については、佐々木手記にも記述が登場します。

佐々木到一「ある軍人の自伝」より

 十二月二十六日、宣撫工作委員長命ぜらる。城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった。予は峻烈なる統制と監察警防とによって概ね二十日間に所期の目的を達することができたのである。

 一月二日、敵機五機大校飛行場を空襲。損害なし。

 一月五日、査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容。外に宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。

 城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。

 南京攻略戦における敵の損害は推定約七万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せられる。

 一月二十二日、警備司令官の任を第十一師団の天谷少将と交代。その後ふたたび北支へ転進す。

(「ある軍人の自伝 増補版」 P334〜P335)


*「ゆう」注 第十六師団第三十旅団長であった佐々木少将の手記の紹介です。このあたりの文章はあちこちで引用される有名なものですが、勁草書房の「増補版」にしか出てこないもので、 「増補版」ではない、普通社の「中国新書」版にはこのあたりは収録されていません。お買い求めになる方、ご注意ください。






2009.8.15追記

戦前の出版物に、この時期の「捕虜殺害」を示すと思われる手記を発見しました。昭和十四年一月発行、『全国各県代表新聞五十社協力執筆 支那事変 皇国の精華』に掲載された記事です。


『全国各県代表新聞五十社協力執筆 支那事変 皇国の精華』より

 山頂に翻る日章旗、南京城一番乗り 誉は高し郷土部隊

大泊町出身の出征兵士歩兵上等兵K・M君(原文実名)は栄ある南京攻略一番乗森塚部隊に属して入城せる唯一の郷土出征兵士であるが去る元日付義弟N・N氏(原文実名)の許へ左の如き書翰を寄せ近隣は勿論町内一般に対し多大の感銘を与へた。


第二回目のニュースをお送致します、今回向ひました処は南京占領です、

先回も申上げた通り敵の逃げ足の早い事毎日五里乃至七里といふ進軍には誠に兵士もヘトヘトに相成り、身には軍装十四五貫目位付いて居ります

周宅といふ処より初まり南翔站、安定站、昆山、蘇州、無錫常洲、金丹、白面站、句容、修山まで追撃々々とて我軍の食料も食ひつくし支那米の徴発にて毎日食塩よりなく 夜は野原に休んだり畑中に休んだり偶には支那の家に休んで誠に百五十里位の道を修山迄来た時は自分ながら能く来たものと思ひました

明日向ふ処は支那の都南京です、さすがは敵国の都です 敵も今までの退却ばかりでなく我軍に向つて打出す砲撃を惜まず 何分にも南京の右側にある紫金山といふ山は全部トーチカ陣地です 盛んに打出す小銃、機関銃、迫撃砲、野砲です 二回目の畔家宅の激戦当日の様でして (中略=原文通り)小隊長佐藤殿の談にて始めて自分等が下関占領致したのだと云ふ事が判りました

其の後十二日間は毎日二千人三千人の敗残兵殺しにて突く又は斬る打つので揚子江の河畔は死人の山にてお話になりません 私等も毎日なので飽きました、よくもこんなに斬り殺し突き殺したものと思ひました

私等の目についたものだけでも三、四万人以上にて上海より南京迄の敵国の死体百万人を算すると言はれて居ますが尤もと思ひます 十日間は毎日の残敵殺しに上海より南京間の敵兵全部打ち殺したと申しまして口はばかり無いと思ひます、 

その後は兵站部付と相なり十二月二十八日まで南京に居り二十九日には銷江に始めて汽車にて行軍です、それに当銷江には我軍の電気がついて家らしき家へ這入りました 上陸以来百十日目でした、

なほ書き残しましたが十二月十七日には南京城へ入城式に参加したが北海道部隊としては我が篠原隊だけで皆外部隊の人の目に付いたのでした。

又南京攻撃の時には食料欠乏致した時敵弾の雨霰と来る中を潜り牛を分捕りに行きその肉を食はせてやりました

(以下略)

(樺太 P5-P6)

*「ゆう」注 「数」は過大であると思われます。



(2004.11.23記。 2006.3.19 『井家叉一日記』追加。2009.8.15追記)


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