盧溝橋事件 Wikipediaバージョン比較

 


<バージョンA Hermeneruさんのバージョン>

*私Matunami(ゆう)が、こちらへの差し戻しを主張しているバージョンです。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日北京(当時は北平と呼ぶ)南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。日本軍はこの事件をきっかけに国民党政府と戦争状態に突入、戦線を拡大していった。

事件の経緯

7月7日

  • 22時40分頃:永定河に駐屯中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、豊台の一木清直大隊長、北平の牟田口廉也連隊長、北平特務機関の順に伝達される。
  • 23:00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(熊部隊)(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)

7月8日

  • 3時25分:第8中隊が盧溝橋東方2kmの西五里店に撤退を完了、同じく西五里店に移動していた第3大隊と合流する。直後、竜王廟方向より3発の銃撃を受ける。
  • 4時00分:特務機関は日華双方の代表からなる軍使を現地に派遣し、不拡大方針の徹底を計る。構成員は、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平輔補佐官、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員。ただし桜井少佐のみ盧溝橋城の開門交渉の為に先行している。
  • 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて経過を報告。2度目の銃撃の報にて連隊長は戦闘開始を許可、大隊長は砲撃準備を命令。
  • 5時00頃:特務機関の軍使一向が現地盧溝橋に到着。再度、不拡大方針を説く。これ受けて大隊は砲撃準備を一時中断。
  • 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。

本来この事件は、紛争にもならない、ただの駐屯部隊同士の小競り合いで終わるものであった。問題となるのは、8日以降の政府の対応である。

  • 5時54分頃:東京の参謀本部に電報が届く。参謀本部第一部長石原莞爾は戦闘の不拡大を指示。これは、6年前に誕生した満州国を安定させ、ソ連の南下を防止するために、中国との戦闘停止を求めたためである。
  • 昼頃:陸海軍事務局長と外務省東亜局長との会議で事件の不拡大を確認。
  • 21時00分頃:陸軍内での会議で本事件を理由に部隊の増援を送るという意見が出される。

7月9日

  • 2時頃:現地部隊同士の話し合いがもたれ、事態収拾が進められる。
  • 早朝:参謀本部により、「中国側が挑戦的な行動を取った場合、部隊を派遣、攻撃を開始する」との案が出される。
  • 20:30分頃:臨時閣議が開かれ、派遣は行わず、事態収拾に当たるという方針となる。

7月10日

  • 午前:参謀本部の会議で、石原莞爾は、「不測の事態に対処させるため」として部隊派兵を承認する。この議事上で、「満州事変の柳条湖事件と同じ事をやっている」として、石原の反対意見を退けている。
  • 深夜:陸軍大臣より、「駐留部隊の兵力増強のため」に、派兵を要請される。

7月11日

  • 11時30分:五相会議が開かれ、その席上で陸軍大臣が、北京近郊の居留民の安全のため派兵を提案。その後開かれた閣議により派兵が決定される。

7月12日以降

この日本政府の決定に対し、中国蒋介石は日本との徹底抗戦を決意。宣戦布告のないまま日中両国は戦争へと進むことになる。

事件の謎 〜1発目を誰が撃ったか?〜

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一氏が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西氏が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢である。


影響

元来、問題なく終結することとなるはずであった事件を拡大したため、日本軍は中国との戦闘で戦力を取られた。また、その過程で通州事件南京事件などが発生することとなる。この戦争のために日米関係が悪化をたどり、太平洋戦争(大東亜戦争)を引き起こす直接原因となったなど、昭和初期の日本史に与えた悪影響は絶大である。

参考文献

  • 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
  • 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
  • 安井三吉「盧溝橋事件のイメージ中国の場合、日本の場合」(日本史研究、1994年380号)
  • 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254
  • 葛西純一『新資料蘆溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
  • 桂鎮雄「盧溝橋事件 真犯人は中共だ 私は東京裁判で事件の証言を中止させられた」(文芸春秋、1988年7月)

外部リンク


 

 



<バージョンB どんべーさん主張のバージョン>

*このバージョンは、Hermeneusさんのバージョンを、大ちゃんさんが編集し、さっらにそれをどんべーさんが編集を追加したものです。最終的にA6M4さんの編集が加わっていますのが、A6M6さんの編集は「争点」には関係しないマイナーチェンジであり、実質的には「大ちゃんさん、どんべーさんが編集主体となったバージョン」と呼ぶことができると思います。

*A6M4さんについては、ここに名前が使われることは不本意かもしれませんが、ご容赦ください。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日北京(当時は北平と呼ぶ)南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに発砲を受けた日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、戦線を拡大することななる。

 


 以下、比較していきます。

 ただし以下の比較は、「どちらがより中立的であるか」ということに問題を絞ったものであり、細かい記述ミス(例・いずれのバージョンでも最初に「北京南部の盧溝橋」という表現が出てきますが、「盧溝橋」は実際には北京の西南方向にあります)は問題にしていません。



 この中で、特に問題が大きいのが、「大ちゃん」さん、「どんべー」さんが大幅な改訂を行った、「事件の謎〜第一発を誰が撃ったか?」です。


<比較1 事件の謎 1発目を誰が撃ったか?>

<バージョン1>

事件の謎 〜1発目を誰が撃ったか?〜

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一氏が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西氏が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢である。

 

<バージョン2>

事件の謎 〜1発目を誰が撃ったか?〜

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとする意見(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)と「中国共産党の陰謀」説(中村粲 獨協大学名誉教授 正論10月号 平成17年度;菅沼光弘(元公安調査庁第二部長)、春名幹男 諜報劣国ニッポン 『諸君』平成十四年八月号)とする意見が存在する。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を主張している。

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一氏が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西氏が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢であるが、事件発生時の中国共産党の対応から事態の沈静化を望んでいなかったとの見方が大勢で、むしろ事態悪化を望んでいたとの見方(桂鎮雄「盧溝橋事件 真犯人は中共だ 私は東京裁判で事件の証言を中止させられた」(文芸春秋、1988年7月)もある。




/岨瓠安井氏の「意見」の内容

<バージョン1>

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。

 

<バージョン2>

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとする意見(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)と


(コメント)
<バージョン2>の編集は、明らかな「勘違い」に基づくものです。「概ねの一致を見ている」というのは<バージョン1>の編集者のまとめであり、秦氏や安井氏が「概ねの一致を見ているとする意見」を主張しているわけではありません。



◆崑莪貳」からして「中国共産党の陰謀」と見る見解

<バージョン1>

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。

 

<バージョン2>

日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとする意見(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)と「中国共産党の陰謀」説(中村粲 獨協大学名誉教授 正論10月号 平成17年度;菅沼光弘(元公安調査庁第二部長)、春名幹男 諜報劣国ニッポン 『諸君』平成十四年八月号)とする意見が存在する。


(コメント)

1.ここでの争点は、「第一発」を「中国共産党の陰謀」と見る見方が「大勢となっていない」か、あるいは「並立する、ある程度対等な見解」として存在しているか、ということです。そもそもどんべーさんは、「中国共産党陰謀説」の内容がわかっていないのではないか、と思われます。「7月8日通電」や「葛西手記」を必要以上に重視する論者を除けば、「中国共産党陰謀説」論者の主流は、「第一発は中国軍兵士の暴走、事件後の拡大過程で中国共産党が拡大を図る「陰謀」を行った」とするものでしょう。

2.「第一発」については、「演習中の日本軍による、中国軍方向へ向けた空砲射撃」に刺激された中国軍兵士が反射的に発砲を行ったもの、という見方が、日本側では大勢となっています。従軍憲兵であった荒木和夫氏によれば、この時、日本軍と中国軍の間には「他の如何なる武装兵力も存在しなかった・・・諜者もその時点に現地には匪賊はいなかったと報告してきた」(『北支憲兵と支那事変』P165)とのことです。中間地点から第三者(中国共産党に限らず、藍衣社、大陸浪人等)が発砲を行った、という可能性はほとんど存在しません。

3.そしてそもそも<バージョン2>で挙げられている対抗資料は、論稿の名前もわからない、不親切なものです。
 ちなみに表題は、それぞれ、次のものです。国会図書館データベースより、検索しました。

○中村粲 『日中歴史問題 小泉首相は「謝罪」ではなく「反論」すべし 東京裁判を否認し防共史観に立て』
○菅沼光弘、春名幹男 『そこは中国に学べ! 諜報(インテリジェンス)劣国ニッポン 中国人を見たらスパイと思え 諜報機関も警戒心もない日本は「スパイ天国」から「情報奴隷」に』


 何とも勇ましい表題ですが、要するに「盧溝橋事件」をメインテーマとする学術論稿ではなく、「反中国」系の政治的なにおいの強い論稿であるようです。後者は「歴史学者」ですらありません。私は未読ですが、おそらくは、論稿のごく一部で「盧溝橋事件」について触れたものであるに過ぎない、と思われます。

4.この2論稿を、「盧溝橋事件」の定評ある専門書である「秦本」「安井本」と並べること自体、無茶なものです。「両論」が同じレベルで並立していると主張したいのであれば、同質の「研究書」を持ってくるのが、筋というものでしょう。

5.ちなみに、当時北支の現場にあり、「事件」にリアルタイムで関わった3名の方々の見解を引用しておきます。3名とも、事件拡大の背後には「中国共産党の陰謀」があったとの見解を持っていますが、「第一発」に関する限りは、「共産党の策謀とはいえない」との見解です。

寺平忠輔氏『蘆溝橋畔の銃声』より

 唯、最初の十八発の実弾をも彼等の策謀と決めつけることは、いささか穿ち過ぎており、又具体的裏付資料は全然掴めていない。むしろ前述廿九軍説の方が、あらゆる条件ことごとく実情に合しているのである。

(現代史資料月報 第九回配本『日中戦争(二)』付録)

*寺平氏は、当時北平特務機関輔佐官、陸軍大尉。


今井武夫氏『支那事変の回想』より

 こう考えてくると、最初の射撃は必ず何者かの陰謀に違いないと、頭から決めて判断しようとするから、結局謎となってわからないが、之れ等の先入感を一切黙殺して考えれば、案外真実に近いものが、出て来るかも知れない。

 即ち龍王廟で最初の小銃弾は、恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎに過ぎなかったが、時が時、場所が場所だったため、この数発が他の同輩の発砲を誘発して、漸次大事に発展したものかも知れない。

*今井氏は、当時北平大使館附陸軍武官輔佐官、陸軍少佐。


荒木和夫氏『北支憲兵と支那事変』より

 もちろんこの時点においては、不逞分子や中共北方局工作員の潜入する余地などなく、二十九軍兵士の中に共産主義者の学生が一兵卒となって潜入していて、不法の第一発を発射したなどという、スリル満点の演出はしようにも出来ない芸当である。

(同書 P185)

*荒木氏は、当時、支那駐屯軍憲兵隊所属。




「第一発」問題に関係のない内容の追記


<バージョン1>

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一氏が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西氏が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢である。

 

<バージョン2>

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一氏が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることである、葛西氏が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、との見方が大勢であるが、事件発生時の中国共産党の対応から事態の沈静化を望んでいなかったとの見方が大勢で、むしろ事態悪化を望んでいたとの見方(桂鎮雄「盧溝橋事件 真犯人は中共だ 私は東京裁判で事件の証言を中止させられた」(文芸春秋、1988年7月)もある


1.そもそもこの部分は「1発目を誰が撃ったか」を論じる部分です。それ以外のことを記述する必要はありません。赤字部分を無理やりに加えたために、「・・・が」、「・・・が」と、何ともすわりの悪い文章になっています。とにかく「中国共産党の批判を行いたい」という、編集者の意図が、ミエミエです。

2.また、当時の情勢は、日本側、中国側双方に「拡大派」「不拡大派」が存在したが、結局は「拡大派」が勝利する結果になった、というものであったと思います。日本側の「3個師団派遣決定」が、全面衝突に向けた緊張を高める上での大きなターニングポイントとなった、という見解も、かなりスタンダードなものです。その中で、「事態悪化」の責任を中国共産党にのみ負わせる見解のみを紹介するのは、「中立性」の観点から、問題があるでしょう。

3.ついでに言えば、なぜここに、わざわざマイナーな「桂論文」を持ち出す必要があるのか、わかりません。同様の見解を唱えている論者は、多いのですが・・・。


<比較2 概説>

<バージョン1>

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。日本軍はこの事件をきっかけに国民党政府と戦争状態に突入、戦線を拡大していった。

 

<バージョン2>

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに発砲を受けた日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、戦線を拡大することななる。



(コメント)

1.ここで争点となったのは、「発砲を受けた」という表現の「中立性」でした。その後、何度か文章の改訂があったのですが、その中にむりやり「発砲を受けた」という表現を残そうとしたために、<バージョン2>は、「この事件をきっかけに発砲を受けた」とつなげて読めてしまう、日本語として据わりの悪い文章になってしまっています。

2.「盧溝橋事件」から「日中戦争」に発展した経緯について、「日本軍と中国軍のどちらの責任が大きいのか」というのは、まだまだ議論中のテーマです。このような状況であれば、この点については、可能な限りどちらの論にも肩入れしない「中立」の立場の表現をとるべきでしょう。「発砲を受けた日本軍」という表現は、日本側が被害者でありやむえず戦争を始めた、というニュアンスで捉えられる怖れがあります。事実経過を見れば、例えば「中国側を挑発して発砲させた日本軍」という表現も、十分可能なはずです。

3.その後「どんべー」さんは、「日本軍を主語とすることは「中立性」に反する」という主張を開始しました。この点を取り入れるとすれば、最終的な形は、<バージョン1>の「日本軍」の位置を変えて、「この事件をきっかけに日本軍と国民党政府と戦争状態に突入、戦線を拡大していった」とするのが最も妥当であると思われます。




<比較3 5時30分>

<バージョン1>

5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。

 

<バージョン2>

5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。国府軍は第三大隊に対して激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。


(コメント)
 ここでの争点は、「これに対し」という表現を入れるかどうか、ということです。

 大ちゃんさん、どんべーさんは、なぜか「これに対し」との一文を削除することに固執しているようです。どうやら「日本軍の前進が国府軍の射撃を誘発した」という事実に触れたくないようですが、そのことは「前進」を行った当の本人である野地少尉も手記に残していることであり、否定しようのない「事実」であると考えていいでしょう。

野地伊七氏『事件発端の思出』より
 

 暫くして次のやうな大隊命令が来た。「中隊(機関銃二隊を附す)は龍王廟に向ひ前進すべし」と。彼等より見えないやうに遠く迂回して前進した。途中中隊長殿が帰って来られて直接中隊の指揮を取られた。

 竜王廟東北五・六百米の処迄来た。其処で準備を整へる。背嚢を下す。

 前方を見ると前に居るのは匪賊ではない。正に二十九軍の服装をして居る。あざむかれたのである。我等は最後まで堪忍自重しやうと考へた。

 やがて一木隊長の命令が来た。「向ふが射撃せばこちらも射撃してよい、其れ迄前進せよ」と。故に中隊長殿は向ふが射ち出せば直ちにこちらも射撃するつもりで機関銃に射撃準備を命じた。

 龍王廟の北方一五〇米か二〇〇米の処の永定河堤防上にトーチカがあって之について居たので、更に其の北方二〇〇米位の処に向ひ前進した。漸く其処に達し更に其のトーチカ及龍王廟、蘆溝橋の方に向ひ永定河堤防上を中隊は第一第二第三小隊の重複を以て前進し、私は第一小隊長として一番先頭を前進した。

 トーチカ前七、八十米まで前進すると敵の将校らしきものが一人出て来て「止れ、止れ」と叫ぶ。

 中隊長殿は自分で交渉せよと云ふ。私は士官学校で四年間支那語を学んだので、下手ながらどうにかこうにか、「今命令を受けて龍王廟より蘆溝橋に向ひ前進中なのである」と支那語で答へた。

 彼はそれでも「止まれ、止まれ」と手まねをしながら云ふ。もはや猶予は出来ないから分隊毎に前進を続ける、敵前五、六十米まで近づいたと思ふ時其の支那の将校らしきものはトーチカの中に入った。

 其の瞬間敵は撃つなと思ったから直ちに伏せさせた。思った通り敵はパリパリと射撃を始めた。そこで直ちに射撃開始を命じ之に応戦する。配属機関銃も射ち出す。

 之で敵より射撃されたこと四回目である。四回目で始めて我が日本軍は射撃を開始したのであるが、併し之が支那事変の発端にならうとは思はなかった。

 此の時一木部隊主力は龍王廟と蘆溝橋の敵陣地正面前方五、六百米の処で停止して居ったのであるが、我が中隊の戦闘行動開始と共に正面の支那軍から射撃を受け直ちに攻撃前進を開始した。

戦友会『支駐歩一会々報 ― 蘆溝橋事件第二次特集』(1990年4月)P15)  

 
 さらに寺平氏に至っては、この「前進」が、実は「中国軍の攻撃を誘発するための挑発」であったことを、明確に記述しています。 

寺平忠輔氏『盧溝橋事件』より

 その時、歩兵砲隊の伝令が地隙を縫い、コマ鼠のように大隊長の方にとんで来た。

 「大隊長殿、歩兵砲隊長報告、ただいま一文字山に、連隊長代理森田中佐殿が見えております。射撃開始の件は、森田中佐殿が、絶対いかんといって中止を命ぜられましたッ」

 「そりゃあいかん。森田中佐は情況の変化をご存知ないんだ。小岩井中尉、とんで行って情況を報告して来い、そして直ちに射撃を開始させるんだ!」

 小岩井中尉はまっしぐらに一文字山に向って駆け出して行った。

 その直後、荒田中尉がひょっこり顔を出した。

 「大隊長殿、荒田中尉、ただいま北京から戻って参りました。森田中佐殿と同行して参りましたが、中佐殿はいまから不拡大交渉を開始するといっとられます。
 しかし、敵は明瞭に二十九軍ですなあ! 森田中佐殿はまだ、全然この情況はご存知ありません」

 「そうだろう。それだもんだからいま、歩兵砲の射撃が食い止められてしまったんだ」

 「大隊長殿、このまま演習のような格好で部隊を前進させたらいかがですか。そしたら敵は、きっと射撃して来るに違いありません。その時、断乎反撃を加えたらいいじゃありませんか」

 「確かに一案だ。しかし森田中佐の肚がハッキリつかめん事にはなあ」

 大隊長は眼を前方に転じた。第八中隊はすでに敵前二、三百メートルに近接している。 ―いかん、歩兵砲が協力せんうちから衝突してしまったら、ひどい損害を受けなきゃならん。 ―

(同書 P126)

 

 大隊本部の書記が、はるか後方から駆けつけて来た。

 「中隊長殿、大隊命令であります。第八中隊は敵の左翼を包囲するごとく直ちに前進、敵が射撃を始めたらこちらも射撃開始」

 中隊長は大きくそれにうなづいた。そして右手を高くあげると、前方に振りおろして、

 「攻 ― 撃 ― 前 ― 進!」と高らかに叫んだ。

 中隊は青々とした草原の上に美事に散開して、分隊交互に躍進を起した。ここから左の方を眺めると、大隊主力もいま、一文字山の方から疎開前進を始めている最中である。

 敵との距離が次第次第に接近してきた。突如、廟の北側のトーチカから、中国軍の将校が一人、ポッカリ姿を現わした。

 彼は両手を広げて、しきりに、「站着、站着!」(停まれ! 停まれ!)と叫んでいる。彼の背後には兵が二名従っていた。

 野地少尉が

 「日本軍は演習のために前進中だッ! 停まれぬ、停まれぬ」とあざやかな中国語で応酬した。敵はそれでもまだ「站着、站着!」を繰り返していたが、急にトーチカの中に姿をかくした。

 瞬間、清水中隊長は、射ってくるぞ! と直感した。大声張りあげて「伏せッ!」と号令したとたん、敵はバリバリッ! と撃続射撃を浴せかけてきた。中隊は直ちに応戦する。これが大隊主力方面の戦闘開始とほとんど同時、いや、実はこちらの方が十数秒早かったのである。

 したがって五時三十分における本戦開始、これは世間に伝えられるごとく、中国軍が一木大隊の攻撃を、頓挫したとあなどって射ちかかってきたのでは決してない。清水中隊に対する対応射撃が原因で、これが全線に波及した、と見るのが至当であろう。この点は清水中隊長もまた、確かにその通りだということを自認している。

(同書 P130〜131)



<比較4 影響>

<バージョン1>

元来、問題なく終結することとなるはずであった事件を拡大したため、日本軍は中国との戦闘で戦力を取られた。また、その過程で通州事件や南京事件などが発生することとなる。この戦争のために日米関係が悪化をたどり、太平洋戦争(大東亜戦争)を引き起こす直接原因となったなど、昭和初期の日本史に与えた悪影響は絶大である。

 

<バージョン2>

元来、問題なく終結できる可能性のあったこの事件を拡大したため、日本軍と中国軍は戦闘で戦力を取られた。また、その過程で通州事件が起った。その後南京事件(真否論争中)が発生したと言われている。この戦争のために日米関係が悪化をたどり、太平洋戦争(大東亜戦争)を引き起こす遠因となったなど、昭和初期の日本史と中国国民党史に与えた悪影響は絶大である。


(コメント)

 <バージョン2>の編集者は、わざわざ「真否論争中」という文言を付加しています。しかし、「南京大虐殺」について「真否論争」があるというのであればともかく、「南京事件」についてまで「真否論争中」としてしまうのは、いささか無茶というものでしょう。

 
あと、A6B4さんによって細かい編集が行われているようですが、他の異動はどちらのバージョンでも大差はないものと考えます。



<比較5 参考文献>

<バージョン1>

参考文献

  • 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
  • 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
  • 安井三吉「盧溝橋事件のイメージ中国の場合、日本の場合」(日本史研究、1994年380号)
  • 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254
  • 葛西純一『新資料蘆溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
  • 桂鎮雄「盧溝橋事件 真犯人は中共だ 私は東京裁判で事件の証言を中止させられた」(文芸春秋、1988年7月)

 

<バージョン2>

参考文献

  • 桂鎮雄「盧溝橋事件 真犯人は中共だ 私は東京裁判で事件の証言を中止させられた」(文芸春秋、1988年7月)
  • 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
  • 葛西純一『新資料蘆溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
  • 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
  • 安井三吉「盧溝橋事件のイメージ中国の場合、日本の場合」(日本史研究、1994年380号)
  • 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254


(コメント)
1.上のうち「桂論文」については、そもそも掲載の可否をめぐって議論があったものです。最初「大ちゃん」さんは、「参考文献」のコーナーを作成するにあたり、単独でこれのみを記載してきました。私は、様々な概説書をすべて無視して、このような重要度の低い、かつ偏った立場からの論稿のみを「参考書」として掲載することは、読者を惑わすものであると考え、いったん削除して再考を促しました。その後、Hermeneusさんの「仲介編集」により、結局は「バージョン1」の形に落ち着いたものです。

2.とりあえずは、「バージョン1」にまで、私が妥協した形になっています。しかしその後、何とこの「桂論文」をトップに持ってくるという、何とも意図的な編集が行われました。

3.「参考文献」をあげるとすれば、‘門書、概説書、E事者の手記などの一次資料、という順番が、読者にとって最も親切なものであり、また自然なものであると考えます。それなのに、「当事者の手記」ですらない桂論文を、あえて秦、安井の定評ある「概説本」よりも上位に位置づけることは、明らかに問題のある編集でしょう。(念のためですが、桂氏は、「盧溝橋事件」そのものに直接関わっているわけではない、「第二連隊」の所属です)




<比較6 リンク先>

<バージョン1>

外部リンク

 

<バージョン2>

外部リンク


(コメント)
1.「大ちゃん」さんは、「最近の雑誌から」以下の3つのみを、当初「外部リンク」として呈示してきました。いずれも、「盧溝橋事件の概説ページ」としては内容に乏しく、また明らかに「右派」に偏ったページばかりであったことから、私は理由を詳細にノートに記載した上で、これをいったんrevertしました。(全く何の議論もなく、すぐさま再revertされたことを付け加えておきます)

2.その後Hermeneusさんに、<バージョン1>を仲介案として呈示していただきましたので、とりあえず私はこの仲介を受け入れました。その上で、私のページが2つあった(第一発問題、中国共産党陰謀説)ことから、1つに減らしても差し支えのない旨を申し出しました。

3.さて、<バージョン2>の編集者は、Hermeneusさんの「仲介編集」に対し、あえて「右派ページ3件」を前に持ってくる、という「改訂」を行いました。私のページを、わざわざ一番下にしています。

4.私としては<バージョン1>の順番が妥当なものであると考えておりますが、私のページが含まれていることから、この編集が妥当であったかどうか、という判断は、読者の方にお任せしたいと思います。



(2005.12.11)


HOME