盧溝橋事件 最初の衝突
盧溝橋事件 最初の衝突
 
ー7月8日午前5時30分ー

 

  先のコンテンツでは、「第三発」までは、中国軍の一部兵士の「反射的射撃」、あるいはせいぜい「過剰防衛」のレベルに過ぎないことを見てきました。

 この時点では、「中国軍とおぼしき銃声が三回にわたり聞こえた」という小事件であるに過ぎません。これまでのところでは、日本側の損害は皆無であることに、ご注意ください。

 このコンテンツでは、この「小事件」が、なぜ「本格衝突」に発展してしまったのか、その経緯を追っていきます。


 日本軍は、この「第三発」までを「中国軍の挑発」と決め付け、7月8日午前4時20分、中国軍に対する「攻撃」を決意しました。

東京朝日新聞 『蘆溝橋事件一周年回顧座談会』より

 
一木中佐 

その話を承つてから私は部隊長に今の状況を申上げた

 今しがた又向ふから射つて来ました、これらから考へるとどうも断然盧溝橋を攻撃しなければ爾後の交渉はうまく行かぬと思ひます、私は断然攻撃をしたいと思ひますが部隊長はお許しになりますか

 と申上げた、

 部隊長は暫く考へて居られたやうでしたが「やつて宜しい」と電話口でいはれました、

 私は実は部隊長はまさかやれとは仰つしやらんかも知れぬと思ふ位の腹で申しましたのが本当にやつて宜しいとなると重大問題ですから本当に間違ひないかどうか、本当にやつて宜しいんでありますかといふと牟田口部隊長は

 やつて宜しい、今四時ニ十分、間違ひない

 とかういふ風に時刻と共に明瞭に言はれましたので私は「やります」と申上げて電話を切つた、

(『東京朝日新聞』 昭和十三年六月三十日)

*この『回顧座談会』の詳細は、こちらをご覧ください。

 

牟田口廉也連隊長『盧溝橋事件の真相を語る』より

 
  ところが間もなく大隊長から電話があつて『支那側が龍王廟の方からまた射撃をしました。どうしますか』と聞いて来た。この時が恰度四時過ぎであつた。

 私は前々から、今度支那側がやつたら、立ちどころに鉄槌を加へるつもりだ、と言つてゐる手前もあつたが、何しろいま、ここでやるとなると、非常に大きな問題化する惧れがある。さうかと言つて、一度ならず二度までも日本軍に射撃を加へて来た支那軍に対して、この際黙つてゐては、皇軍の威信にも関係すると思ふので、全く反対の考へが一瞬、頭の中に渦巻いた。

 然しその次の瞬間私の頭に憶ひ浮んだのは、前の豊台事件の時に、あれほど情けをかけてやつた支那軍に、却つて悪用された貴い体験であつた。これは矢張り、事件を最も迅速に解決するには、過ちを犯したその者に、その場で徹底的に拳骨を喰わす他はないと私は考へたのである。

 私は受話器を持つて、うーむと唸つた。腕時計を見ながら二分間ばかり考へた。『よしツ、断然戦闘開始して宜しい』と言ひ切つた。それは四時二十分であつた。

 私は、ついで自己の責任を明かにする意味において、『隊長が、断然戦闘を開始して宜しい、といつたのは午前四時二十分である。よく覚えておけ』と言ふと、大隊長もまた『午前四時二十分ツ』と復唱する。『よし、間違ひなし』といふと、大隊長は元気な声で『それでは、これでお眼にかかれないかも知れませんが、よく御趣旨を体してやります』『健闘を祈るぞ』といつて、電話を切つた。

(『大陸』昭和十三年七月号)

 


 どちらが先に「攻撃決意」を行ったのか、当事者双方に食い違いが見られますが、一木大隊長の手記に従えば、大隊長が「断然攻撃をしたい」、と意見具申を行い、連隊長が「やって宜しい」、と許可を下したようです。

 

 こうして、日本軍は「戦闘開始」を決意しました。一木大隊長は、部隊に攻撃開始命令を下します。

東京朝日新聞 『蘆溝橋事件一周年回顧座談会ぁ戮茲

 
一木中佐 

 桜井さんがいつたので敵がをらんのぢやないか、をらんとすれば抜いた刀のやり場に困るがなどと考へながら三百メートル位近づいた時薄明りの中に敵が点々として散兵壕の中に見える、そこでこれは証拠が握れるぞと安心して歩兵砲の者にすぐ射てと号令した、

(『東京朝日新聞』 昭和十三年七月一日)

*この『回顧座談会ぁ戮両楮戮蓮こちらをご覧ください。

 

 
 ところが、思わぬ偶然から、この「攻撃命令」は実行されませんでした。北平(北京)から現場にかけつけた森田中佐が、射撃にストップをかけたのです。

 

東京朝日新聞 『蘆溝橋事件一周年回顧座談会ぁ戮茲

 
一木中佐 

 所が今まで準備をして集合をかけてゐた歩兵砲が射たない、どうした訳かと思つて何故射たぬかと催促の信号をしたところ歩兵砲隊長の所から連絡が来て、一文字山に森田中佐が来て射撃をとめてゐますといふ

(『東京朝日新聞』 昭和十三年七月一日)


 森田中佐は、「4時20分」の攻撃許可を、知らなかったようです。森田中佐との話し合いがなかなかつかず、一木大隊長は、いったんは攻撃をあきらめます。

 

 これ以降の経緯を、一木中佐は、このように証言していますが・・・。

東京朝日新聞 『蘆溝橋事件一周年回顧座談会ぁ戮茲

 
一木中佐 

 どうもこんなことをやつてゐたんでは時間がかかると思ひましたが、こつちでこれだけやるぞといふ意思があることを示せばあとはどういふ風にでも話はつくから好んで射撃をする必要もない、森田さんがお止めになるなら許されるまで待機して、この間に兵に飯でも食はしてやらうと全部止れ、飯を食へといふ号令を出し小さい畦の陰などにしゃがんで背負ひ袋の中からパンを出して食べようとした時

 支那軍の方は私たちの攻撃が鈍つたと見て、多分俺達に向ふ気力はなく、あそこで散兵壕を作つて防禦でもすると言つたのでせう 前進してゐる間は何ともなかつたのがパラパラと射出した

 さうなると私の方でも仕方がありませんし額田さんもおとめにならぬことは分つてゐるから私も機を逸せず攻撃前進、歩兵砲射てと号令を下しやつと射ち出しました

 大体大砲は第一発は射程が短いものですが第一発から敵のトーチカに立派に命中しまして士気は非常に揚がつた、機関銃、歩兵も一斉に前進した、それが午前五時半でありました、

(『東京朝日新聞』 昭和十三年七月一日)

 これだけを読むと、朝食休憩を行っている日本軍に対して、中国側が一方的に射撃を行ったように見えます。『戦闘詳報』の記述も、概ね似たようなものになっています。

 しかし一見して、この一木中佐の証言は不自然です。一木中佐は、日本軍の「攻撃が鈍ったと見」て中国軍が射撃を開始した、と証言していますが、「先制攻撃」の動機としてはあまりに弱いと感じるのは、私ばかりではないでしょう。

 

 実は、一木中佐は、経緯の重大な一部を、「証言」から省略していたのでした。例えば、寺田浄氏の記述を見ましょう。

寺田浄氏『第一線の見た盧溝橋事件記』より

 
 こうした事情で攻撃中止を余儀なくせられて、今後の作戦を黙考中であった大隊長の側には、小岩井、荒田両青年将校がいた。大隊長に対して、「攻撃前進を開始しましょう。前進したら撃つでしょう。撃たれたら撃ちましょう」と進言した。大隊長は、「よし、それだ」即座に同意して、休憩中の部隊に前進準備を命じた。

 坐って携帯口糧を食べながら、どうなるものかと、憶測の雑談を交わしていた兵隊は一斉に立って軍装を整えた。この気色は敏感に中国軍に伝わったらしい。第八中隊の正面がまず銃撃を受けた。右第一線中隊として、竜王廟を包囲の態勢にあった八中隊は、昨夜来四度目の射撃を受けた、運命の中隊であった。

 大隊長はついに、「撃て!」と信念ある命令を下した。攻撃前進のラッパは蘆溝橋の原野に響き、全軍に伝えられた。時に午前五時半、東天にはまさに朝日が昇らんとしていた。

(同書 P65〜P66)

 

 
 
 日本軍は、中国軍から先に発砲するように仕向けていたわけです。第八中隊第一小隊長、野地中尉の記述は、さらに詳細です。

野地伊七氏『事件発端の思出』より
 

 暫くして次のやうな大隊命令が来た。「中隊(機関銃二隊を附す)は龍王廟に向ひ前進すべし」と。彼等より見えないやうに遠く迂回して前進した。途中中隊長殿が帰って来られて直接中隊の指揮を取られた。

 竜王廟東北五・六百米の処迄来た。其処で準備を整へる。背嚢を下す。

 前方を見ると前に居るのは匪賊ではない。正に二十九軍の服装をして居る。あざむかれたのである。我等は最後まで堪忍自重しやうと考へた。

 やがて一木隊長の命令が来た。「向ふが射撃せばこちらも射撃してよい、其れ迄前進せよ」と。故に中隊長殿は向ふが射ち出せば直ちにこちらも射撃するつもりで機関銃に射撃準備を命じた。

 龍王廟の北方一五〇米か二〇〇米の処の永定河堤防上にトーチカがあって之について居たので、更に其の北方二〇〇米位の処に向ひ前進した。漸く其処に達し更に其のトーチカ及龍王廟、蘆溝橋の方に向ひ永定河堤防上を中隊は第一第二第三小隊の重複を以て前進し、私は第一小隊長として一番先頭を前進した。

 トーチカ前七、八十米まで前進すると敵の将校らしきものが一人出て来て「止れ、止れ」と叫ぶ。

 中隊長殿は自分で交渉せよと云ふ。私は士官学校で四年間支那語を学んだので、下手ながらどうにかこうにか、「今命令を受けて龍王廟より蘆溝橋に向ひ前進中なのである」と支那語で答へた。

 彼はそれでも「止まれ、止まれ」と手まねをしながら云ふ。もはや猶予は出来ないから分隊毎に前進を続ける、敵前五、六十米まで近づいたと思ふ時其の支那の将校らしきものはトーチカの中に入った。

 其の瞬間敵は撃つなと思ったから直ちに伏せさせた。思った通り敵はパリパリと射撃を始めた。そこで直ちに射撃開始を命じ之に応戦する。配属機関銃も射ち出す。

 之で敵より射撃されたこと四回目である。四回目で始めて我が日本軍は射撃を開始したのであるが、併し之が支那事変の発端にならうとは思はなかった。

 此の時一木部隊主力は龍王廟と蘆溝橋の敵陣地正面前方五、六百米の処で停止して居ったのであるが、我が中隊の戦闘行動開始と共に正面の支那軍から射撃を受け直ちに攻撃前進を開始した。

戦友会『支駐歩一会々報 ― 蘆溝橋事件第二次特集』(1990年4月)P15)  

 
 東中野氏は、衝突の原因を中国軍の「挑発」に求めていましたが、実際には、「挑発」を行ったのはどう見ても日本軍でした。

 当時の北京特務機関補佐官、寺平忠輔氏の記述は、さらに明快です。

 

寺平忠輔氏『盧溝橋事件』より

 その時、歩兵砲隊の伝令が地隙を縫い、コマ鼠のように大隊長の方にとんで来た。

 「大隊長殿、歩兵砲隊長報告、ただいま一文字山に、連隊長代理森田中佐殿が見えております。射撃開始の件は、森田中佐殿が、絶対いかんといって中止を命ぜられましたッ」

 「そりゃあいかん。森田中佐は情況の変化をご存知ないんだ。小岩井中尉、とんで行って情況を報告して来い、そして直ちに射撃を開始させるんだ!」

 小岩井中尉はまっしぐらに一文字山に向って駆け出して行った。

 その直後、荒田中尉がひょっこり顔を出した。

 「大隊長殿、荒田中尉、ただいま北京から戻って参りました。森田中佐殿と同行して参りましたが、中佐殿はいまから不拡大交渉を開始するといっとられます。
 しかし、敵は明瞭に二十九軍ですなあ! 森田中佐殿はまだ、全然この情況はご存知ありません」

 「そうだろう。それだもんだからいま、歩兵砲の射撃が食い止められてしまったんだ」

 「大隊長殿、このまま演習のような格好で部隊を前進させたらいかがですか。そしたら敵は、きっと射撃して来るに違いありません。その時、断乎反撃を加えたらいいじゃありませんか」

 「確かに一案だ。しかし森田中佐の肚がハッキリつかめん事にはなあ」

 大隊長は眼を前方に転じた。第八中隊はすでに敵前二、三百メートルに近接している。 ―いかん、歩兵砲が協力せんうちから衝突してしまったら、ひどい損害を受けなきゃならん。 ―

(同書 P126)

 

 大隊本部の書記が、はるか後方から駆けつけて来た。

 「中隊長殿、大隊命令であります。第八中隊は敵の左翼を包囲するごとく直ちに前進、敵が射撃を始めたらこちらも射撃開始」

 中隊長は大きくそれにうなづいた。そして右手を高くあげると、前方に振りおろして、

 「攻 ― 撃 ― 前 ― 進!」と高らかに叫んだ。

 中隊は青々とした草原の上に美事に散開して、分隊交互に躍進を起した。ここから左の方を眺めると、大隊主力もいま、一文字山の方から疎開前進を始めている最中である。

 敵との距離が次第次第に接近してきた。突如、廟の北側のトーチカから、中国軍の将校が一人、ポッカリ姿を現わした。

 彼は両手を広げて、しきりに、「站着、站着!」(停まれ! 停まれ!)と叫んでいる。彼の背後には兵が二名従っていた。

 野地少尉が

 「日本軍は演習のために前進中だッ! 停まれぬ、停まれぬ」とあざやかな中国語で応酬した。敵はそれでもまだ「站着、站着!」を繰り返していたが、急にトーチカの中に姿をかくした。

 瞬間、清水中隊長は、射ってくるぞ! と直感した。大声張りあげて「伏せッ!」と号令したとたん、敵はバリバリッ! と撃続射撃を浴せかけてきた。中隊は直ちに応戦する。これが大隊主力方面の戦闘開始とほとんど同時、いや、実はこちらの方が十数秒早かったのである。

 したがって五時三十分における本戦開始、これは世間に伝えられるごとく、中国軍が一木大隊の攻撃を、頓挫したとあなどって射ちかかってきたのでは決してない。清水中隊に対する対応射撃が原因で、これが全線に波及した、と見るのが至当であろう。この点は清水中隊長もまた、確かにその通りだということを自認している。

(同書 P130〜131)

 寺平氏もまた、中国軍が一木大隊の攻撃を、頓挫したとあなどって射ちかかってきたのでは決してない」と、一木証言を明確に否定しています。

  

 策が功を奏して思惑通り中国軍への攻撃を開始できた一木中佐は、実に気分爽快だったようです。「座談会」の次の発言が、一木中佐の心境を暗示しています。

東京朝日新聞 『蘆溝橋事件一周年回顧座談会ぁ戮茲

 
一木中佐 

 其時今まで非常に暗かつたのが天佑と申しますかひよつと振返つて見ますと東の方に大きな太陽がそれこそ旭日然として輝いてをります、私も本部の書記に「五時半太陽があがる」と書いて置けと書かせましたが実際気持ちのよい程大きな太陽が昇りました

(『東京朝日新聞』 昭和十三年七月一日)

 

 午前5時30分、最初に射撃を行ったのは中国軍でした。しかし日本軍はそれより先に「攻撃」の決意を行っており、それが実行されなかったのはほんの「偶然」からに過ぎません。また、中国軍が射撃を行うにあたっては、間違いなく、日本軍の「挑発」がその背景にありました。


 

 最後に、江口氏の「事件」に対する評価を紹介しましょう。

江口圭一氏『盧溝橋事件』より
 

 牟田口も一木も、日本軍になんの損害もないことを承知していながら、「不法射撃」を日本軍にたいする「侮恥」「冒瀆」として部隊を出動させた。そして、午前三時二五分の「三発の銃声を聞」いただけで、中国側の対応などには目もくれずに攻撃命令をくだし、一木の回顧談にあるように、はやりたって攻撃を決行したのである。七月八日午前五時三〇分の戦闘は、宛平県城内の交渉とはまったく無関係に、牟田口・一木の決断で、日本軍が一方的かつ主動的に引きおこしたことは、議論の余地のない明白な事実である。
(P36〜P37)

 

 七月八日朝に発生した日中間の戦闘―厳密にはこれこそが盧溝橋事件である―はあきらかに日本軍が意図的にしかけたものである。そして、その最大の責任が牟田口連隊長と一木大隊長にあることも明瞭である。

 牟田口と一木は、なぜ中国軍を攻撃したのだろうか。牟田口は、旅団司令部を通じて「不法発砲せるは皇軍に対する最大の侮恥」であるといい、「我軍の威武を冒瀆するも甚だしい」ので「容赦なく庸懲」したと発言している。一木は、「日本軍の面白さえ立てばよいので・・・軍の威信上奮起した」と説明している。

 要するに、牟田口・一木は日本軍の「面白」「威武」「威信」をたもつために中国軍を攻撃したのである。じっさいに損害を受けたとか、危険が切迫していたとか、戦略・戦術上必要だからとか、というのではいっさいない。まして、攻撃の結果として日中間の関係にどのような影響をおよぼすかということなどは、さらさら頭になかった。日本軍の、というより正確には牟田口・一木のメンツのために、もっと端的にいえばかれらの腹いせのためにしかけた攻撃だったのである。こんなことで戦争をおこされては、中国側はもちろん、日本側としてもたまったものではない。

 七月八日と九日の戦闘で、第一連隊には下士官・兵に二一名の戦死者がでた。かれらは牟田口 一木のメンツ・腹いせの犠牲者であったといってよい。

(P37〜P38)

 

 

(2005.2.20)


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