
| 盧溝橋事件 中国共産党陰謀説 |
ネットに「盧溝橋事件」が登場する時、必ずといっていいほど持ち出されるのが、いわゆる「中国共産党陰謀説」です。
しばしば混同されるのですが、「陰謀説」には、
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<タイプ1> そもそも「盧溝橋の第一発」は、中国共産党の陰謀であった。 |
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<タイプ2> 「第一発」の犯人が誰であったかはともかく、中国共産党は中国が日本と戦争に突入することを望んでおり、そのために「事件」の拡大過程において「陰謀」を張り巡らせた。 |
という二つの型があります。掲示板などでは、<タイプ1>と<タイプ2>の違いを意識しないまま、根拠の薄い方である<タイプ1>の主張を行なってしまう方が多いようです。
私見では、<タイプ1>は、根拠が薄い、極言すれば一種の「伝説」に近いもの、と言ってよいと思います。<タイプ2>については、中国共産党が「事態の拡大」を望んでいたこと、中国側の現地軍である「第二十九軍」に多数の秘密党員を送り込んでいたことまでは「事実」と言うことはできても、果してそれが「陰謀」と呼べるレベルのものであるかどうかは微妙、ということになろうかと考えます。
以下、「陰謀説」について、その根拠とされているデータ群を個別に検討していきましょう。
< 目 次 >
| タイプ1 <その1> | 葛西氏の見た「戦士政治課本」 |
葛西氏が見た中国人民解放軍の『戦士政治課本』なるテキストに、「七七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」との記述があった、というものです。ネットでは、最もポピュラーな「説明」でしょう。
| 葛西純一氏 『新資料 盧溝橋事件』より
序に代えて
と堂々と述べ、また次の記述もあった。
昭和28年から翌29年(一九五三〜五四)にかけて、いわゆる中共帰国船(興安丸、白山丸、自竜丸)で約三万二千人の日本人が帰国したが、「国共内戦で帰国のチャンスを失った日本人居留民」と北京放送の伝えたあの日本人たちは、実は中国革命戦争に八年間も従軍した革命者なのであった。
彼ら三万二千人は殆んどが中国語の『戦士政治課本』を読みこなせたし、或る者は、
(P6〜P7) |
しかし、このテキストは、葛西氏以外に現物を確認した人は誰もいないようです。秦郁彦氏が、そのあたりの経緯を詳述しています。
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秦郁彦氏 『昭和史の謎を追う 上 』より
(略)
というくだりがあるのを見ると、著者は帰国のさい、現物を持ち帰ったととれる。 (『昭和史の謎を追う 上 』 P154〜P155) |
なおその後、『戦士政治課本』というテキストは、存在自体は確認されたようではあります。ただし、内容は依然として「不詳」とのことです。
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安井三吉氏 『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』より
(P207〜P208) |
いずれにしても、「三万二千人」が見たテキストであるにも関わらず「内容」について言及しているのは葛西氏だけ、かつその記述を他に確認した人がいない以上は、これを「決定的証拠」とすることはできないでしょう。
2009.8.15追記
その後、中国国内で、「戦士政治課本」に関する記事が掲載されたようです。私には現物は確認できませんので、『出版ニュース』掲載の記事から紹介します。
| 『海外出版レポート 中国』より
広東省最大の夕刊紙「羊城晩報」の5月15日版に面白い記事が掲載された。曰く「盧溝橋事件を引き起こしたのは中国共産党の幹部・劉少奇元国家主席であったとする日本人の説に対して、中国共産党側のいい加減な記録が原因になっている」と報じた。日本人の説とは、主に葛西純一著『新資料 盧溝橋事件』(1974年、成祥出版社刊行)を指しているようだ。 (『出版ニュース』 2009年6月下旬号 P27) |
これを見ると、「戦士政治課本」に「劉少奇」の名が出てきたことは事実であるようです。
しかしその内容は、上を見る限り「劉少奇が盧溝橋で日本軍と戦った」までで、葛西氏の言うように「七・七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」とまで踏み込んで書いてあるかは、不明です。
そして上の記事によれば、当時劉少奇は北京にはいなかったはずです。秦郁彦氏も、「このとき党中央委員会は二手に分れ、劉少奇は朱徳らとともに、難行軍ののち河北省平山県に移ったらしい。有名な紅軍の大長征ほどではないにしても、桂証言の時機に劉は山間の難路を逃避中だったはずである」と述べています。
結局のところ、「戦士政治課本」の記述に根拠はない、ということになるでしょう。
| タイプ1 <その2> | 中国共産党の「通電」 |
盧溝橋事件の翌日8日には、もう中国共産党が全国に向けて「抗日」を呼びかける「通電」を流していた、とするものです。あまりのタイミングの良さから、中国共産党は事前に「事件」が起きることを察知していたのではないか、という主張が行なわれていますが・・・。
まず、「通電」の内容を見ます。
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『中共中央 日本軍の蘆溝橋進攻に際しての通電』 全国の各新聞社・各団体・各軍隊・中国国民党・国民政府・軍事委員会および全国の同胞諸君。 七月七日夜一〇時、日本は蘆溝橋において中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、馮部隊に長辛店への撤退を要求した。馮部隊では衝突の発生を許さなかったため、目下双方はまだにらみあいをつづけている。 蘆溝橋における日本侵略者のこの挑戦的行為の結果、ただちに大規模な侵略戦争にまで拡大されるか、あるいは外交的圧迫という状況をつくりあげ、それによって将来における侵略戦争への導入とするかのいずれをとわず、北平・天津と華北に対する日本侵略者の武力侵略の危険性はきわめて重大なものとなった。 この危険な情勢はわれわれに、これまでの日本帝国主義による対華新認識・新政策といった空論が中国に対する新攻撃の準備を隠す煙幕にすぎなかったことを教えている。中国共産党は、すでに早くから全国の同胞にこの点をはっきりと指摘してきたが、今やこの煙幕は取り除かれた。日本帝国主義の北平・天津と華北に対する武力による占領の危険は、すでに一人ひとりの中国人の目前にまで迫っている。 全国の同胞諸君! 北平・天津危うし、華北危うし、中華民族危うし。全国民族が抗戦を実行してのみ、われわれの活路がある! われわれに攻撃してくる日本軍に対しただちに断固たる反撃を加えるよう要求するとともに、新たな大事変に即応する準備をただちにすすめるよう要求する。全国の人びとは上下をとわず、日本侵略者に一時的な和平や安息を求めようとするいかなる希望や思惑をもただちに放棄しなければならない。 全国の同胞諸君! われわれは、馮治安部隊の英雄的抗戦を称賛し支持しなければならず、われわれは、国土と存亡をともにするという華北当局の宣言を称賛し支持しなければならない。 われわれは、宋哲元将軍がただちに二九軍全軍を動員して前線に赴き応戦することを要求する。われわれは、南京中央政府がただちに二九軍に適切な援助を与えるとともに、ただちに全国民衆の愛国運動を開放し民衆の抗戦士気を発揚させるよう、また、ただちに全国の陸海空軍を動員して抗戦の準備をととのえ、中国領内に潜伏している漢奸・売国奴らと日本侵略者のすべてのスパイをただちに一掃し、後方を強固にするよう要求する。 われわれは、全国人民が全力をあげて神聖な抗日自衛戦争を支援するよう要求する。 われわれのスローガンは― 武装して北平・天津を防衛しよう! 華北を防衛しよう! 寸土たりとも日本帝国主義の中国占領を許さない! 国土防衛のためには最後の血の一滴まで捧げよう! 全国の同胞・政府・軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長裁を築きあげ日本侵略者の侵略に抵抗しよう! 国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう! 中国共産党中央委員会 (日本国際問題研究所中国部会編『中国共産党史資料集 第8巻』 P434〜P435) |
この「通電」を、「中国共産党陰謀説」の疑惑の大きな根拠であるとしているのが、岡野篤夫氏です。
| 岡野篤夫氏『蘆溝橋事件の実相』より 七月八日にこの電報を延安から全国に発信したとすると、まずその手回しのよさと電文の行きとどいていることに一驚を喫せざるを得ない。 (略) この通電はあらかじめ準備されていたのではないかと思わざるを得ない。とすると蘆溝橋の一発もあらかじめわかっていたのではないか。打ち合せ通り実行したという通知があり次第、それっとばかりにかねて用意の電文を発信出来たのではないか。 (P282、P283) |
しかしそもそも、電報は「八日付」とはなっているものの、本当に八日に発信されたのか。「全国各新聞社」や「各団体」などに対して発せられたはずなのですが、八日時点でこれを受電した、という中国国内の記録はないようです。安井三吉氏の研究によれば、実際に「通電」が世に出た記録が残るのは七月十三日以降とのことであり、これは日付を遡って作成された文書なのではないか、という疑いが持たれます。
| 安井三吉氏『盧溝橋事件』より しかしながら、この通電は、国民党地区のどの新聞社、団体、政府・党の機関でどのような反応を以て迎えられたのかは不明である。また、さまざまな回想録にも、八日あるいは九日に、この電報を受け取ったとか、あるいはこれに関するニュースを聞いたという話が出てこない。・・・この通電が一般の人々の目に触れるのは七月十三日の後のことと言えよう。 (P286〜P287) |
秦郁彦氏も、種々のデータを検討した上で、「通電が多くの読者に伝わったのは、十二−十三日頃と推定してむりはないと思う」(『盧溝橋事件』P280)と、安井氏に賛意を表します。
またこの電文は、内容的にも、従来の中国共産党の主張の範囲を超えるものではありませんでした。例えこの「通電」が実際に八日に発せられたものだとしても、中国共産党が「事件」を予め察知していた、とまで言い切ることはできないでしょう。
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秦郁彦氏 『昭和史の謎を追う 上』 より
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| 安井三吉氏『盧溝橋事件』より
中共が、保安あるいは延安から、中国の各地各機関に「通電」を打つということは、これまでもしばしば行なってきたことである。・・・この「通電」を以て「中共謀略説」を云々することはあまり根拠がないと言うべきであろう。 (P289〜P290) |
| タイプ1 <その3> | 桂鎮雄氏の証言 |
桂氏は、極東軍事裁判で、弁護側証人として証言台に立ちました。その時の、体験談です。
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桂鎮雄氏 『盧溝橋事件 真犯人は中共だ』 より
(支那駐屯歩兵第二連隊陸軍中尉) 昭和二十二年四月、筆者は東條、梅津両被告の弁護側証人として呼び出され、二十一日渋谷区西原の指定宿舎へ着いた。そこには私の元連隊長萱嶋中将(四月二十五日出廷)や元ニ九軍顧問桜井徳太郎中将(四月二十二日出廷)らが先着していた。桜井氏から聞いたところでは ― 、 中国側梅汝■判事の要請で、私に求められる証言は二つ。一つは盧溝橋事件、いま一つは、いわゆる通州事件との事であった。すぐ証言の準備にかかった。ところが二日後の二十三日夕刻、梅判事が宿舎へ来て会議が聞かれた。そして曰く、 「桂証人は盧溝橋の証言をとりやめ、通州事件のみを証言せよ」 私は驚いた。理由を聞いたが答えてくれないまま、判事は急いで立ち去った。 四月二十五日、筆者は証人席に立った。通州事件のみの証言を求められ、筆者の口供書をレヴィン弁護人が代読した。反対訊問は少く、ウエップ裁判長から訴因四つ全部の採用を宣告せられ、退廷を命じられた。その場でキーナン検事を睨みあげ、東條、梅津被告ら全員の方に、最敬礼しながら「頑張って下さい」とお訣れをした。二階の傍聴席に河辺旅団長の姿が映った時、巣鴨プリズンから釈放された事を知って喜んだ。 後で知った事であるが ― 筆者が、盧溝橋事件の証言を拒否された直接の動機は、その直前に中共の劉少奇副主席が、 「七・七事件の仕掛人は中国共産党で、現地責任者はこの俺だった」 と証拠を示して西側記者団に発表した事に因ったものだった。慌てたのは法廷検事団で巣鴨プリズンに拘置中の河辺、牟田口両氏は理由も告げられずに釈放されたとの事であった。 この事件は中国側が、柳条溝の二の舞いとして日本軍の謀略を立証すベく凡ゆる資料と証人とを繰り出した。秦徳純という前二九軍長にして、現国防部次長〈昭和二十一年七月二十二日証人台に立った〉ですら、日本軍の謀略はもとより、日本軍が先に発包したと言う証拠も示し得ずタジタジとなっていた。 弁護側は、「中国側の発砲に交って暗夜、両軍対峠の中間に潜入した中共軍が日支双方へ同時発射をしたのではないか」と主張し、その証人として筆者を出廷せしめんとしたその矢先に、劉少奇の声明が発表せられて検事側の敗けが決定的となったわけである。 その結果、検事、判事側の会議で、盧溝橋審議は、これ以上は不問とし筆者の証言は不要となったと思われる。河辺正三元旅団長はあとで、 「あれほど日本の不利を暴露した東京裁判でも、日本側発砲の事実を唯一回も証拠づける事が出来なかった。日本軍が先に発包(ママ)しなかった事は天地神明に寄って私は断言する」といわれた。 (『文藝春秋』1988年7月号 P132〜P133) |
しかし、これに対して秦氏は、「妄想以外の何物でもなさそうだ」と手厳しい評価を下しています。
まずそもそも、このような「記者会見」の記録がどこにも存在しないようです。さらに、「記者会見」を開いたはずの劉少奇は、当時、「山間の悪路を逃避中」だったと推定され、「記者会見どころではなかった」と見られる、とのことです。
| 秦郁彦氏 『昭和史の謎を追う 上 』 より
桂は陸士四十六期生、盧溝橋事件の頃、陸軍中尉で支那駐屯歩兵第二連隊に所属していた元少佐である。この連隊は天津に駐屯していて、事件発生から二十日後に北京周辺へ前進、冀東カイライ政府の保安隊が反乱を起こし日本人居留民を殺害したいわゆる通州事件(七月二十九日)に出動した。
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| タイプ1 <その4> | 「成功了」の電報 |
*2009.2.28追記分 本コンテンツ作成当時は、あまりにマイナーな説であるために無視していたのですが、ネットの掲示板でこの説を取り上げている方を見かけましたので、念のために触れておきます。
平尾治という方が記した、『或る特種情報機関長の手記-我が青春のひととき−』に、北京から延安の中国共産党軍司令部に対して「成功了(うまくいった)」という無線が流れたのを傍受した、というエピソードが登場します。
このエピソードを、「中国共産党陰謀論者」である坂本夏男氏が取り上げています。
| 坂本夏男氏 『盧溝橋事件勃発についての一検証』より
天津の支那駐屯軍司令部内に設置された特種情報班は、無線による情報収集に任じていたが、その一通信手は、蘆溝橋事件が発生した七月七日の深夜、北京大学構内と思われる通信所より延安の中共軍司令部の電台に対し、緊急無線により、平文の明碼(秘密でない電信の数字番号、中国では数字を用いて送信)で、「2052 0501 0055」(成功了−うまくいった」と三回連続して反復送信しているのを傍受した。 |
これに対しては、安井三吉氏の反論が、明快です。
| 安井三吉氏『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』より しかし、この電報は、平尾氏自身が「傍受」したものではなく、後年、北支那方面軍勤務当時、氏の上司であった秋富繁次郎大佐から聞いた話によるものである。この「一通信手」とは、平尾氏でもなければ秋富氏のことでもないのである。 そして、このような話は、当時の軍関係者の回想、文書のなかにはまったく出てこない。もし、支那駐屯軍がこのような事実を把握していたら、当然反中共宣伝に利用したはずである。そうしたことがないということは、このような話が事実であったかどうかを疑わせるものである。 当時、平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津の劉仲容(劉紹嚢?)の家でなされていたことは、関係者の証言によって明らかにされている。 しかし、「七月七日の深夜」(平尾氏の原文では、「深夜」とのみある)といえば、事件発生からせいぜい一時間以内のことで、一体、盧溝橋の現場と「北京大学」の間は、どうやって連絡したのであろうか? 「空砲発射」と「実弾射撃」とは、ほんの数秒、せいぜい数分の間のことで、以後は八日午前三時二五分の「発砲」まで、日中両軍の間には何の問題も発生していない。「成功了」などといえるものではないだろう。 それに、中国共産党員がこのように重要な連絡を「明碼」で打つなどとは考えられないことである。 (中略) 平尾氏の回想録を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない。 (P233-P234) |
情報が「また聞き」であること、他の資料には一切登場しないこと、またそもそも「七月七日深夜」では「成功了」というような段階にないこと、から、平尾氏の記述は根拠が薄いものであると考えられます。
<付記>
上記の他に、学会や論壇の議論では見かけないにもかかわらず、ネットの世界でのみ散発的に目にする主張があります。
例えば2005年夏、ネットに、「2005年7月3日、中国のTV局北京電視台の番組「社会透視」で、盧溝橋事件は、第二十九軍に潜入していた共産党員『吉星文』『張克侠』らが引き起こしたと報道された」旨の情報が流れました。
その後の詳報を待ってみたのですが、2006年2月現在に至るまで、これ以上の情報は聞こえてきません。これでは、そもそもこの文が「報道」なるものの内容を正確に伝えたものであったかどうか、検証すら困難です。
また、仮に上記報道が行なわれたことが事実だとしても、これだけでは、「報道」の情報源が信頼できるのかどうかもはっきりせず、また情報の内容も曖昧である感は免れません。この書き方からは「第一発」を画策したかのようにも読めますが、「共産党員」が事件の中で具体的にどのような役割を果たしたのかが明らかにされない限りは、これを「事実」として断定するのは尚早でしょう。
実際に番組を見たわけではありませんので確言はできませんが、「タイプ2」の議論である可能性もあるように思われます。
現在の中国においては、「抗日戦争を煽ったこと」はむしろ「功績」であり、「自慢話」として語られます。この話も、「根拠のない自慢話」程度に捉えておくのが無難かもしれません。余談ですが、「南京事件」では中国側証言を「信頼できない」として黙殺する方々が、このような「自慢話証言」については何の疑問もなく「事実」として受け入れてしまうことは、私には奇妙なものに思われます。
なお、フォローがなかったためか、2006年2月の時点では、この論はほとんど見かけなくなっています。
「第一発」の犯人については、現在かなり研究が進んでいるものの、今のところでは「決定的に明らかになった」という段階にはありません。その中で最も有力なのが「日本側の演習射撃に刺激された、中国側第二十九軍兵士の偶発的射撃」説であり、事件の流れを見ると、これが最も自然な説明でしょう。
*七日午後十時四十分の「第一発」から八日午前五時三十分の「最初の衝突」に至る経緯については、「盧溝橋事件 「第一発」問題」 「盧溝橋事件 最初の衝突」にまとめてありますので、併せてご覧ください。
「陰謀説」としては、中国側は「日本軍の陰謀」説を主張し、一方日本の側には、ここまで見てきたように「中国共産党の陰謀」説があります。しかしどちらも、決定打に欠ける感は免れません。後者は「結果として中国共産党が利益を得た」という「結果論」からのスタートである、という見方も可能かもしれません。
以上、「タイプ1」の、「第一発=中国共産党陰謀説」に対しては、次の江口圭一氏の記述をもって「結論」としても差支えないと考えます。
| 江口圭一氏『盧溝橋事件』より 日本軍が機会あれば中国軍に一撃をくわえたいと念じ、奇襲攻撃の準備に余念がなかったこと、中国軍が警戒心をつのらせ、もし攻撃を受ければ断固として応戦する準備をととのえていたこと、事件前日の七月六日に、中国側をひときわ緊張させるなんらかの情報かデマが流れたらしいこと―は確認できる。しかし翌七日の事件が、日中いずれかの事前の計画にもとづいて、謀略的におこされたことを確証するような事実は、こんにちまでまったくみいだされていない。 (P17) |
| タイプ2 <その1> | 清華大学生の「爆竹」 |
次に、「タイプ2」の、「事件の拡大過程における中国共産党の役割」をめぐる議論に話を移します。
ただしこちらについては、「実は二十九軍内に多数の中国共産党員が潜入していた」以上の具体的な議論は、ほとんど聞かれません。「陰謀」と呼ぶにふさわしいのは、ほとんど唯一、寺平氏らが残すこのエピソードぐらいでしょう。
| 寺平忠輔氏 『盧溝橋事件』より
「日が暮れると、このころ毎晩のように、便衣をつけた青年十名ばかりがこの部落に入り込んで参ります。そして村はずれの落花生畑で、土炮と爆竹を盛んにパンパンやり始めるのです。なんの目的であんな騒ぎをやるのか、私共には皆目見当がつきません。今日もやがて、もうボツボツ集って来るころでしょうよ」 密偵は憲兵の指図に従って高梁畑の中に身をひそめた。今日は満月らしく、やがて東の空がボー ッと赤味を帯び始めてきた。と、住民がいった通り、八時ごろになると、十名余りの便衣が一列の縦隊で部落の陰から姿を現わし、黙々、落花生畑の方に進んで行く。 やがて彼等は畑の真中で一塊りになって、何やら支度にとりかかった。そして用意が整うと、指揮者らしい男の合図に従って、間もなく爆竹が点火された。 パンパンパンパン・・・・・ けたたましい響と共に発する閃光! 鼻をつく煙硝のにおい! おびただしい白煙が濛濛(もうもう)として地を這った。 この時、密偵は高梁畑の中から一斉に姿を現わし、たちまちその数名を逮捕した。彼等は密偵を二十九軍側の便衣とでも感違いしたらしく、リーダー格の一人が極めて率直に「我々は学生です。救国のためにこうして日本軍の側面を脅威してるところです。許して下さい」 と弁解した。 彼等は北京の西北、万寿山街道にある清華大学の学生を中心とし、共産系の指導の下に、日華両軍交戦地帯の真っ唯中に潜入し、土炮や爆竹で両軍を刺激する事によって、事変の拡大を企てていた事がハッキりした。 彼等の背後関係には、共産党の全国総工会書記、中共北方局主任、劉少奇などが采配を振っている事も判明した。「七月十三日、大紅門事件の起った日の真夜中すぎ、永定門外でドンドンパリパリやったのも、やっぱりお前達の仕業だろう ? 」 との問いに対し、彼等自身ではなかったが、同類がやった事も白状した。 事実、事変対策としては、責任者の謝罪や処罰、そういった形式的の問題よりも、今や潜行的に抗日工作を展開している、赤色策動の摘発弾圧、これこそより以上優先しなければならぬ、極めて重要な措置ではないかと痛感させられるのだった。 (寺平忠輔『盧溝橋事件』P286〜P287) |
| 今井武夫氏『支那事変の回想』より 斥候は曹家バイ附近で待機した甲斐あって、 一団の男女学生が爆竹を鳴らす現場をおさえ、直ちにその数人を逮捕したら、学生達は始め斥候を彼等の同国人と感違いしたらしく、 われわれは北方局の命令に従ってやっているのに、何故邪魔するか。 と、威丈高かに喰ってかかる一幕もあった。 当時斥候の調査報告を聞いた憲兵隊長の赤藤庄次少佐と特務機関の寺平大尉は、北方局とか、その責任者劉少奇とかいう氏名に大して関心を払わなかったが、今にして思えぱ、劉少奇こそ現在世に時めく中共政府主席その人である。 (同書 P42〜P43) |
両者の記述を見ると、赤藤少佐、寺平大佐が聞いた「斥候の調査報告」が、このエピソードの情報源であったようです。ただし秦氏などは、このエピソードに対して、「史実として確定するには証拠不足とせざるをえない」という評価を下しています。
| 秦郁彦氏 『昭和史の謎を追う 上 』 より
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また秦氏は、『諸君!』2000年2月号の座談会「歴史と歴史認識」で、次のような発言も行っています。
| 座談会『歴史と歴史認識』 より
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以上をまとめると、
1.「爆竹事件」については、複数の「犯人候補」が存在し、中国共産党を「犯人」と決めつけることはできない。
2.「劉少奇の指示」を受けて「爆竹事件」を起こした、とする「精華大学生」のエピソードは、「斥候」からの伝聞に過ぎず、史実として確定するには証拠不足である。
ということになるでしょうか。
さらに言えば、実際にはこの「策動」なるものは「事件」の拡大に何の貢献もできず、「失敗」に終わっていることを付言しておきます。
<付記>
この議論に関係しますが、2005年春頃、このような書き込みをネットのあちこちで目にするようになりました。
「周恩来も1949年10月1日の中華人民共和国成立当日に『我々の軍隊が発砲したから、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した』旨の発言をしている」
この話はネットの中の「伝言ゲーム」で広がったものらしく、ほとんどの投稿はその出典をスルーしていました。私も確認に苦労しましたが、どうやら元の文はこれであったようです。
| 山内一正氏 『「唐決」を嗤って過ごせるか』より 中共政権が支那本土を掌握したとき(一九四九年十月一日中華人民共和国成立宣言の際)、周恩来は誇らしげに言った。「あのとき(支那事変勃発当時)我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に(夜闇にまぎれて)鉄砲を射ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定成立を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光を齎した起因である。 (『動向』平成6年5月 第1539号 P25) |
念のためですが、別にこれは「盧溝橋」を主テーマにした論稿ではありません。よくもまあ、最初の紹介者はこんな名も知られていない雑誌の十年以上も前の文章を「発掘」したな、と「感心」します。
関連部分は、これで全部。山内氏は出典も根拠も挙げておらず、この周恩来発言のソースを確認するのは困難です。私は、国会図書館を訪れた際、「周恩来」の名のつく書物を片っ端から借り出して「1949年10月1日周恩来演説」の内容の確認を試みましたが、発見することはできませんでした。
*辛うじて、梨本祐平氏の著作「周恩来」で、周恩来がこの日になんらかの「演説」を行った事実だけは確認することができました。ただし内容は、「新政府の外交方針」です。
| 梨本祐平氏 『周恩来』より (「ゆう」注 毛沢東主席就任宣言のあと)このあと、周恩来が起って、共同綱領第五六条の、「中華人民共和国の中央人民政府は、国民党反動分子と関係を絶ち、中華人民共和国に対し、友好的態度をとる外国政府と、平等互恵および相互の領土と、主権に対する尊重の基礎の上に交渉し、外交関係を結ぶことができる」とあるのにもとづいて、新政府の外交方針を、次のように宣言した。 (同書 P134) |
私が調べた範囲では、「中国共産党陰謀説」の論者でこの「周恩来発言」なるものを根拠として取上げている方は皆無です。この発言が事実であるとすれば、なぜ誰も取り上げないのか、不思議に思うところではあります。
さらに、この発言は寺平氏の紹介するエピソードを想起させますが、寺平氏に従えば、「精華大学生」は、「爆竹を鳴らし」ただけでした。彼らが「発砲」を行った、という記録は存在しません。また、「今日の栄光を齎した起因」になるどころか、この「陰謀」は、日本側に暴露してしまったことにより、完全な失敗に終わっていたはずです。「発言」が仮に事実であったとしても、その「内容」は、中国共産党の「放言に近い自慢話」の域を出るものではない、と思われます。
以上まとめると、
1.この「周恩来発言」の存在自体、確認困難な怪しげなものである。また、アカデミズムの世界の「陰謀論者」たちが、これに触れないのも不自然。
2.もし仮にこの通りの「発言」が存在したとしても、明らかに史実と異なるもので、信頼に価しない。「中国共産党の怪しげな自慢話」程度に捉えておくのが無難である。
というところでしょうか。
その後、この話はネットでの「流行」を終えたようで、2006年2月現在では、ほとんど見かけなくなりました。
2010.6.10追記
安井三吉氏が、『歴史科学』2008年12月号の『盧溝橋事件研究の現状と課題』の中で、この点についてコメントしています。
| 安井三吉氏『盧溝橋事件研究の現状と課題』より ここで『検証』(「ゆう」注 日本青年会議所「日本の魂」創造グループ近現代史検証委員会『近現代史検証報告書』)がまず根拠としている点は、一九四九年一〇月一日、中華人民共和国式典で、周恩来と劉少奇が行ったという演説である。『検証』は次のように書いている。 「昭和二十四年(一九四九年)一〇月一日、中華人民共和国宣言の際、周恩来首相は誇らしげに、「あの時、我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々に今日の栄光をもたらした起因である」と語った。また、毛沢東に次ぐナンバー2だった劉少奇(後に国家主席)は、「盧溝橋事件によって、蒋介石と日本の軍国主義を両方とも滅亡させることができた。中国軍(中国共産党軍)にとってはまさに思うつぼだったのである」と演説している。・・・」 (略) 周恩来と劉少奇の演説とは、一体どのような資料に基づくものか? 演説であれば、それは何万という人々が耳にしたはずであり、記録に留められているはずである。典拠を示してほしいところである。 (『歴史科学』2008年12月号 P3-P4) |
結局今日に至るも、誰も「典拠」を示せないでいるようです。
| タイプ2 <その2> | コミンテルンの指令 |
これまた、ネットでは「人気商品」のひとつでしょう。しかしこの文書の存在が事実だったとしても、これは、コミンテルンが「全面的衝突」までに事件を拡大させることを指令したものに過ぎず、「陰謀」の根拠にはなりえません。
その「要点」は、以下のようなものであると伝えられます。
| 波多野乾一編 『中国共産党史 資料集成』 第七巻 より かくて事変勃発後一週日を出でざるに、コミンテルンの指令は櫛の歯を引くがごとく中国共産党に達した。その要点は左記のごとくである。 (一)あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。 (二)右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決(例へば北支を分離せしめることに依つて戦争を回避するの類) 日本への譲歩に依つて、支那の解放運動を裏切らうとする要人を抹殺してもよい。 (三)下層民衆階級に工作し、これをして行動を起さしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち到らしめなければならぬ。 (四)党は対日ボイコットを全支那に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対しては、ボイコットを以て威嚇する必要がある。 (五)紅軍は国民政府軍と協力する一方、バルチザン的行動に出でなければならぬ。 (六)党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。 (同書 P334) |
ちなみに、この資料についての、秦氏のコメントです。
| 秦郁彦氏 『盧溝橋事件』より 波多野乾一『資料集成中国共産党史』第七巻(三三四ページ)、伊達宗義『中国共産党略史』(一四四ページ ) は、盧溝橋事件直後に中共党へ送られたコミンテルンの指令なるものの要旨を記述している。出所は、一九三九年十月に印刷された興亜院政務部(担当者は嘱託原口健三)「コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料」(極秘)という内部印刷物と思われる。 指令の要旨は、(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならぬ、(2)局地解決、日本への譲歩により支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してよい、(3)下層民衆工作を進め、国府を開戦へ追いこむ、(4)対日ボイコットの強化、(5)紅軍は国府軍と協力してパルチザン行動をとる、(6)この機に党勢を拡張する、のようなもので「中共党はこの指令に基づき、周恩来を蒋と会見させ、国共合作、紅軍改編を申入れたとしている」(九〇−九一ページ)。 ただし日付をふくめ情報の出所は明らかにされておらず、『コミンテルン資料集』第六巻(大月書店、一九八三)にも見当らない。真偽は不明だが、当時の中共党がとった方針と大差のない内容とは言えよう。
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出所は興亜院の「内部印刷物」であり、実際にこのような「指令」が存在したのかどうかということすら、確認が難しいようです。また、存在していたとしても、「当時の中共党がとった方針と大差のない内容」であり、「陰謀」の存在を裏付けるものとは言い難いでしょう。
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タイプ2 <その3> |
張克侠の作戦プラン |
第二十九軍副参謀長であった張克侠が、実は中国共産党員で、「盧溝橋事件」を策謀した、という説です。中村黎氏が詳しく紹介しています。
| 中村粲氏『大東亜戦争への道』より 中国側資料が告白した陰謀 最近ある中国側資料が公表された。事件五十周年の昭和六十二年五月、中国人民大学出版社から発行された『盧溝橋事変風雲篇』(武月星、林治波、林華、劉友于著)である。その中に事件直前に於ける中国第二十九軍の対日戦争計画について詳細な記述があるが、紙幅の都合上、略記すれば次の如くである。
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中村氏は、二十九軍副参謀であった張克侠が秘密共産党員であったこと、また、その張が、劉少奇の承認の下、積極的な対日作戦計画を策定した事実に言及しています。
これ自体は『盧溝橋事件風雲篇』に記述されている通りなのでしょうが、これはせいぜい、張が日本における「拡大派」と同じような役割を果たしいてた、ということの「証明」にとどまります。中村氏は、最後の段落で、突然これを「以降の執拗な射撃は・・・張克侠の積極的な対日作戦計画を発動実施したものではあるまいか」という「推論」に飛躍していますが、これはやや乱暴な論であると言わざるを得ません。なお上に見られる通り、中村氏も、「あるまいか、と」「かも知れないと」と、慎重に断定を避けています。
いずれにしても、これは「中国共産党陰謀説」の具体的証拠というレベルにはないように思われます。
安井氏は、中村氏と同じ主張を行なう坂本夏男氏に対して、次のような批判を加えています。
| 安井三吉氏『盧溝橋事件に関するいわゆる「中国共産党計画」説』より しかし、もしこのような「作戦計画」の存在をもって、「中国軍計画」説の根拠とするなら、支那駐屯軍の司令部が、一九三六年九月に策定した「昭和十一年度北支那占領統治計画」の存在をもって、「日本軍計画」説のいっそう有力な根拠と主張してもかまわないはずである。(中略) さらに、張克侠の「作戦計画」をもって、「中共計画」説の根拠とするなら、それに先立って国民政府参謀本部が策定した「民国廿六年度国防作戦計画」をもって、国民政府の「計画」説を主張することもできたはずである。 (『季刊中国』1994年夏季号 P9〜P10) |
確かに、「作戦文書」の存在のみをもって「陰謀」の根拠としてしまうのであれば、同じような論法で、「日本軍計画説」なり「中国国民党計画説」なりを主張することも可能となってしまうでしょう。
さらに秦郁彦氏は、当時の中国共産党北方局の要人の動きを追う中で、肝心の時期に「首謀者」であるはずの劉少奇が北平を留守にしていた事実を指摘しています。
| 秦郁彦 『昭和史の謎を追う 上 』 より
この時期の中共党は張聞天(総書記)、秦邦憲(中央組織部長)らのソ連派が主流を占め、毛沢東の最高権力は必ずしも確立していなかった。李天民の『劉少奇伝』によると、毛は五月の会議で切迫した対日戦にゲリラ戦術で対抗する路線を主張した劉少奇を支持し、両人の関係は緊密だったという。 ともあれ、七月七日夜の「盧溝橋の第一発」を、劉少奇が現場で指導する位置にいなかったことはたしかだろう。
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そもそも「影の実行者」であるはずの劉少奇が、この時期延安に引き上げていたわけです。「張克侠の作戦プラン」を「陰謀説」の根拠とするのは、説得力が薄い議論でしょう。
以上、「中国共産党陰謀説」をめぐる論議状況を見てきました。
既に見てきたとおり、いくつかの「論拠」は存在しますが、いずれも決定打とするには不十分、と考えてよいと思います。現時点の研究では、せいぜい「疑惑」のレベルにとどまる、と見ておくのが無難でしょう。
また、「第一発」問題と、事件後の拡大過程の問題とは、明確に分離する必要があるでしょう。私見では、「第一発」自体に「中国共産党」が絡んでいた可能性はほとんど存在しないように思われます。
焦点となるのは、事件後の「拡大過程」で「中国共産党」が果たした役割です。「抗日」を目指した「中国共産党」が「拡大」を望んでいたことは事実でしょうが、表立った宣伝行動はあっても、「陰謀」「謀略」と呼べるレベルの陰湿な行動があったのかどうか。私見では、「陰謀」を証明する決定打は今のところ存在しない、と見るのが妥当であると考えます。
「第二十九軍」に多数の共産党員が潜入していたことは事実だとしても、これは単に、「二十九軍内において中国共産党が一定の影響力を発揮していた」というだけの話であり、「陰謀」という表現にはややそぐわないものであるように思われます。日本と同様、中国軍内部に「拡大派」と「不拡大派」の対立があり、中国共産党党員グループはその一方の「拡大派」に属していた、というだけのことでしょう。
なお、『蒋介石秘録』によれば、第二十九軍軍長宋哲元が最終的に「抗戦」を決心するのは、南京から送り込まれた国民党将軍熊斌の説得によるものである、とのことです。中国共産党党員グループの役割を、過大に評価する必要もないでしょう。
(2004.10.4記 2006.2.21 増補全面改訂)
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