12月13日、ラーベの行動



ジョン・ラーベ日記 12月13日 

  我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いたら最後、ふっとんでしまう。

 上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。

 ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。
なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。

  日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。

 武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。

(「南京の真実」文庫版P122)


 この文章を見ると、ラーベたちが中山北路から上海路へ曲がったところで「たくさんの市民の死体」を発見し、そこで南から(安全区内を通って)進軍してくる日本軍と出会い、あわてて来た道を引き返して中国軍兵士を救った―そのようにしか読めません。

(安全区内及び境界の通りの名称については、こちらをご覧下さい。国内サイトではなかなかいい地図が見つかりませんでしたので、中国サイトからご案内します。 安全区の中央を南北に走るのが「上海路」、安全区の南端を東西に走るのが「漢中路」です。 地図には名前がありませんが、右下の、「漢中路」と「中山路」の交差点が、「新街口」(ポツダム広場)です)


 これでは、「十三日」段階で「日本軍」部隊が安全区内を進軍しており、かつ侵入以前に「市民の死体」があった、というおかしなことになります。  いくつかの「否定本」で、この部分がラーベ日記の記述の信憑性を疑う材料となっているようです。

 しかし、この翻訳を正確なものに修正し、さらに"EYEWITNESS TO MASSACRE"所収のスマイス博士の手紙などの資料と照合すると、 この日のラーベらの行動がかなり正確に見えてきます。以下、資料を紹介しながら、まとめてみましょう。




まず、スマイスの手紙から。

Smythe Letter

Monday morning, Dec. 13th

(略)

At the office we decided Rabe and I must contact the Japanese at once. So we got Cola, who could speak some Japanese, and started out to explain three things to them― as high an officer as we could find: The Zone, the new Red Cross Committee, and the fact there were some disarmed soldiers that had entered the Zone.

(中略)

We went down Shanghai Road and found no Japanese soldiers on Kwangchow Road. Near the Seminary we found a number of dead civilians, about 20, whom we later learned had been killed by the Japanese because they ran. That was the terrible tale that day, any one who ran was shot, and either killed or wounded. Our instructions were off, but had not reached the people! But among that street we found a Japanese soldier, riding nonchalantly along on a bycycle with rifle strapped over his back. We hailed him, and he told us we would find an officer on Han Chung Lu near Sing Kao Ko. Sure enough we found a detachment of about 100 men sitting on the south side of the road, and a large group of Chinese civilians on the opposite side looking at them. We tried to explain to the officer the Zone and drew it on his map of Nanking, note it was not on his map. He said the Hospital would be all right if there was no one in there that shot at the Japanese. About the disarmed soldiers he could not say.

"EYEWITNESS TO MASSACRE" P255〜P256




(「ゆう」訳)

12月13日 月曜日朝

(略)

 事務所で、ラーベと私が一刻も早く日本軍と接触しなければならない、と決まった。そこで、日本語を少し話せるコーラを伴ない、 可能な限り上級の将校に対して、以下の3つの事項を説明するために出発した。すなわち、安全区のこと、赤十字のこと、そして安全区には武装解除されたいくらかの兵士たちが存在すること、である。

(略)

 我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。 恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!

  しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。

 はたして我々は、約100名の部隊が通りの南側に腰掛けているのを発見した。中国市民の大集団が通りの反対側から彼らを見ていた。我々は将校に安全地帯のことを説明しようと試み、彼が持つ南京の地図に記入した。 (彼の地図にその表示がなかったことに注意)  彼は、そこに日本軍を狙撃する者がいない限り、病院のことは心配するに及ばない、と言った。武装解除された兵士については彼は何も言えなかった。

(拙訳で、誤訳があるかもしれませんので、訳文の方は参考程度にして下さい)


 スマイスはこの時、ラーベと一緒に行動していたようです。「死体目撃」談については、ラーベ日記と一致しています。なお、死体があった「神学校」とは、安全区の南端に近い「金陵女子神学校」のことだと思われます。




この「死体」の発生原因については、「戦争とは何か」所収の、フィッチの手記にも触れられています。


一九三七年、クリスマス・イブ 中国、南京にて

十三日の午前一一時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。 彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二○人を殺したのです。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P29〜P30)


 これは、時間的には、先程のラーベらより以前だったようです。




 さらに、ラーベ自身が書いた、国際委員会文書の記録です。

国際委員会文書 (T6、J9) 12月17日

 十二月十三日午後、日本兵が隊長とともに漢中路で休憩中であるのをみました。われわれは隊長に地区の所在地を説明し、彼の地図に記入させました。われわれは三つの赤十字病院にかんして隊長の注意を丁重に喚起し、 武装解除された兵士のことを話しました。彼の方でもくり返し保証するので、貴軍においてはいっさいが了解ずみと当方は考えました。(ラーベ)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P125。 なお、Tはテインパーリ、Jは徐淑希による文書番号です)


この記述は、「スマイスの手紙」と概ね一致しています。




最後に、ラーベの「ヒトラーへの上申書」を紹介します。なお、こちらの方が、「日記」のオリジナルに近いものです。

ヒトラーへの上申書

 私はアメリカ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況をざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。自転車に乗った日本軍の前哨によれば、 総司令官は三日たたないと到着しないということでした。

 中国人の民間人の死体がそこここにありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわかりました。 たぶん逃げようとするところだったのでしょう。 中山路と太平路をぬけ、夫子廟の手前まできて、太平路にあるアメリカ人伝道団の地所で車を降りました。

(中略)

 帰り道、新街口、通称ポツダム広場の手前で、革の上着を着て、戦闘帽をかぶっている日本人が数人、ドイツ人が経営するカフェ・キースリングに押し入るのを見つけました。

(中略)

 いつのまにか、南からやってきた何千人もの日本兵がポツダム広場のまわりに整列し、市の残りの地域を占領すべく、扇形になって北へとさらに行進しようとしていました。それを見た私は安全区を通って回り道をし、 急遽北へ向かうことにして、鼓楼病院の裏からふたたびメインストリートに出ました。 北から逃げてくるいわゆる敗残兵、揚子江を渡って逃げることができなかった中国首都防衛軍の生き残りに会えるのではないかと思ったからです。

(中略)

私たちドイツ人がバイエルン広場と呼んでいる山西道路のロータリー、これは安全区の北の角に当たりますが、まず最初にここで完全武装した兵四百人を擁する部隊に出会いました。 あくまでも彼らのことを思ってしたこととはいえ、このため、あとになって私は若干良心の呵責を感じることになります。私は兵たちに、機関銃を装備した日本軍が遠くから進軍してくると伝え、危険を知らせました。

 そして、武器を捨てるよう、私が武装解除するから安全区の収容所にいれてもらうようにとすすめたのです。しばらく考えた後でかれらは私の忠告に従いました。

(「南京の真実」文庫版P356〜P358)


 ラーベらのこの日の行動が、より正確に見えてきます。ラーベらは、「漢中路」で日本軍と接触を持った後、市の南部まで出かけ、その帰路、新街口(ポツダム広場)で「何千人もの日本兵」と出会ったようです。 スマイスの手紙に登場した「自転車に乗った兵士」が、こちらにも出てきます。




以上をまとめると、資料間に微妙な食い違いはありますが、概ね以下のように考えて間違いないと思います。

1.12月13日昼前後、日本軍が進出した、との情報を受けて、外国人数人(ラーベ、スマイス、コーラ)が、日本軍と接触を持とうと、上海路経由で出発した。

2.彼らは、「神学校」(おそらく、「安全区」の南端に近い、「金陵女子神学校」)付近で、20体程度の市民の死体があることを発見した。

3.安全区の南の境である「漢中路」に達した時、「自転車に乗った日本兵」に出会った。その日本兵から、新街口(漢中路と中山路の交差点。安全区の東南の端)に近いところに「将校」がいる、との情報を受けた。

4.新街口に近い漢中路の南側(安全区と反対側)に、100名ほどの日本人部隊がいて、それを中国人たちが北側(安全区側)から見ていた(日本軍が「安全区」を意識していたのかもしれません)。そこで「将校」(隊長)に対して「安全区」のことを説明し、 「将校」の手持ちの地図に「安全区」を記入させた。

5.その後ラーベらは、市南部の「夫子廟」あたりまで出かけた。その帰路、「新街口」まで戻ると、そこに日本兵の大部隊(数千人)が北へ向かって進軍しようとしているのを見た。

6.そこで彼らは、「安全区を通って回り道をし、急遽北へ向かうことにして、鼓楼病院の裏からふたたびメインストリートに出」て、「山西道路のロータリー」にいた中国人兵士たちを武装解除して救った。




さて、問題となっている「ラーベ日記」を、英訳版から、翻訳しなおしてみましょう。



ジョン・ラーベ日記 12月13日

 我々は、たいへん用心してメインストリートを下っていった。手榴弾がころがっており、踏みつけると空に吹き飛ばされる危険があったからだ。

 我々は上海路に曲がり、前進してくる日本軍へ向けて車を走らせた。上海路にはいくつかの市民の死体があった。

 ドイツ語を話す医者を伴なった日本軍部隊が、日本軍将軍はあと2日たたないとやってこない、と言った。

 日本軍は北へ向かって行進しているので、我々は彼らを迂回する横道に車を走らせ、武装解除することによって約600人からなる中国人の3部隊を救った。

(英語版からの拙訳です。渡辺さんの訳を参考にしました)


 概ね、上のストーリーと符合していることがわかると思います。「ドイツ語を話す医者」との出会いと「北へ向かって行進」する日本軍を追い越したことの間には、かなりの「省略」があるようです。

 なお、「日本軍将軍はあと二日(三日?)たたないとやってこない」と言ったのは、他の資料に全く登場しない「ドイツ語を話す医者」ではなく、「自転車に乗った歩哨」である、と考えた方が妥当だと思われます。


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