
| パル判決書 |
*「パル判決書」のうち、「南京事件」関連部分を抜粋しました。
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『共同研究 パル判決書』(下)より
許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は本件において証拠として提出されようとした。これは検察側文書一七三四号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において尋問を受けなければならないと決定した。したがって同氏はそのとおり尋問をされたのである。氏は南京に居住、一九三七年十二月紅卍字会に関係している。 マギー氏は一九一二年から一九四〇年まで南京の聖公会の牧師であって、一九三七年十二月およぴ一九三八年一月および二月をつうじて南京にいたのである。(P561)
船頭の話を受入れることは実際容易にできることであろうか。その場にいたのはほんの二名の日本兵だけであった。他方、強姦された娘たち、彼女らの父親およびその一人娘の夫もいた。そこには船頭自身ももちろんいたのである。その一家全体は生命より名誉を重んじていた。その一家全体はいずれも河のなかに飛び込み溺死してしまった。(P564-P565) こんな家族であった以上、「両親および一人の夫の眼のまえで」娘たちを二名の兵隊が強姦しえたであろうか。いかにして許博士はこの話の中に真実らしくないものを認めなかったであろうか。かれは船頭が長い間紅卍字会に関係していたから、この話を「真実のほんとうの」ものとしてわれわれに与えることができるというわけになる、というのであろうか。
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『共同研究 パル判決書』(下)より
これら非道な行為を犯したとみなされたすべてのものにたいし、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難しうるものは一人もいないと本官は思う。(P566-P567)
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(中略)
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『共同研究 パル判決書』(下)より
かれの証言というのは、同委員会が南京の日本領事館にたいして、毎日個人的報告をなしたというのである。スマイス博士は、領事館はなんらかの処置を講ずることをそのたぴごとに約束したが、一九三八年二月にいたるまでの事態を改善するための有効的な手段が、とられなかったと述べているのである。
ペイツ博士によればこれらの日本人外交官は、悪条件のもとにわずかながらかれらのできうることを誠意をもってなそうと努めていたのであるが、かれら自身軍をすこぶる怖れ、上海を通じて東京にこれらの通信を伝達する以外にはなにもできなかったとのことである 。これらの領事館員は、また南京の秩序を回復させるべき強い命令が東京から数回発せられたことを証人に確言しているのである。 またこの証人は、外国の外交官およびこの代表団に同行した一日本人の友人から、ある高級陸軍将校が多数の下級将校および下士官を集めて、陸軍の名誉のために、その振舞いを改善しなければいけないということを、すこぶる厳重に申し渡したことを開いたのである。
もちろん証人には、これらの報告が実際に東京に送られたかどうか、あるいはまた、誰にあてられたかは、この方法以外に知るよしもなかったのである。検察側によれば、「 これら残虐行為に開する報告はすべて、外国新聞の非難報道とともに、広田に送達せられたが、報告が続々入りつつあったときでさえも、かれは同問題を陸相に迫 らず、また内閣に計りませんでした」と。
残虐行為に関する外国新聞報道に関しては、事態がすでに収拾された後の一九三八年二月十六日の貴族院予算委員会において言及されたのである。そこには木戸被告が出席していた。
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(中略)
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『共同研究 パル判決書』(下)より
検察側証拠によれば、一九三七年十二月十三日南京陥落のさい、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終息したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問および劫椋の狂宴が始まり、六週間続いたというのである。 このおなじ六週間の間に二万人をくだらない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。 以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。 十六日にかれは、日本軍に捕われたいく多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのをふたたぴ目撃した。そのおなじ日の午後、かれは大平路に連れていかれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。かれはこの日本兵の名前をもあげることができたのである。 この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から三十九名の者を連れだしたといっている。証人は、これが起こった日付はたしかに十二月十四日であるとしている。この一団の人のうち、その日に三十七名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが十二月十四日に起こったとはいえなかったのである。かれは難民収容所に関する十二月十四日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとはいっていない。
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(2005.5.21)
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