大宅壮一氏の証言


「サンデー毎日臨時増刊 大宅考察組の中共報告」より(1)

四旧追放と孫文ゆかりの地 9月15日 南京

小谷 南京は大宅さんにとって思い出の土地ですが、まず大宅さんから南京がどのように変わったか、戦前と対比しながらうかがっていきたいと思います。

大宅 ぼくは南京攻略のとき上海からずっと軍について南京にはいったわけだけどね、一番乗りは光華門で、ぼくらは二番手で中山門からはいったんだが、その中山門に土のうを積み込んではいれない。それを遠くから日本軍が土のうをくずすために大砲をどんどん撃ち込むんですね、日本の大砲は正確ですね、真ん中に穴をあけて、そこを突撃するわけですね、

当時はですね、南京を占領すればですね、あの日華事変は終わるもんだというふうな考え方が一般的で、兵隊もそう考えて張り切っていた。張り切ったあまり、相当悪いことをしたもんでね。非常に思い出の深い土地だね。

(中略)

大森 ハルピンからきてるのもいたなあ。ぼくも紅衛兵といっしょに、あの中山陵の何百段の階段を登ったんだけれども、途中でお前はどこからきたんだというと、一人の大学生は「北京」、私が「東京」といったら、ちょっと顔色が変わりましたよ。

 南京という土地柄を考えて、それから私もちょっとこわくなった。南京大虐殺という歴史に残っている事件を彼らも知っているでしょうしね。そういうこちらの罪悪感が非常に強く影響した気持がありましょうしね。

大宅 ちょうどね、われわれが南京にはいったときにね、たくさん殺した兵隊さんと、だいたい同じ年配の連中がわれわれの前を歩いている・・・。

(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P70、P72 )


「サンデー毎日臨時増刊 大宅考察組の中共報告」より(2)

文化粛正と教育問題と 9月17日 天津

南京大虐殺の”真相”を聞く

小谷 大森さん、前の晩の食卓でも、お互いがよりよく理解するためにも真実を聞きたいというんで、南京大虐殺をかつての社会部記者的にかなり追及しておられたようだが、あの夏さんが「話したくないんだが、あなたがたがそうおっしゃるなら語りましょう」といつて、明らかにしてくれた大虐殺の模様と感想をひととおりやってくれませんか。

大森 あの大虐殺を写真まで展示して見せてくれたイキサツを申しますと、前の晩に二つのテーブルに分けて向こうとこっちとごちそうになったとき、私の横にきた中国国際観光旅行者の経理=マネジャーがですね、彼がまた主席の社会主義論というのをはじめだしたので「ちょっと待ってくれ、行った先、行った先でそんなに社会主義を吹聴するのは観光業者として、少し問題じゃないか。ぼくのいう忠告を本気できくか」というと「きく」というから、

「では、せっかく毛沢東というのは世界の生きている最高の指導者と思っているけど、いかにいい料理でもいささか食傷ぎみだから、もうちょっと変わった話を日本人の旅行者にきかすようにしたほうが、より友好のためになるんじゃないか」というたらですね。

そしたら通訳の女の子が私にくってかかりましてね。私をにらみつけたんですよ。通訳の分限を越えるようなことをしたんです。さすがに気がついて、そのとおり通訳したんですが、結局「では申し上げよう」ということになった。その前に「あなたの親類か何かに虐殺の犠牲者はないか」ときいたから「ない」といった。そういうことで、彼は大虐殺の話をパァーッといって「なお、ききたいか」「いくらでもきこう」といったら翌日、追加してきたわけですね。

小谷 ここで、聞いた要点だけ紹介しておきますと、昭和十二年の十二月十三日から入城して、翌年の二月までに三十万人の中国人が虐殺された。当時の南京の人口は百万であった。そして家屋は三分の一が焼かれ、商店街の八○佑焼き払われたというのが、この虐殺のポイントの数字です。かなりドキュメントとして度の強い話が展開したわけですが、大宅さん、このへんで感想と判断をおっしゃってくださいませんか。

大宅 私はね、あそこまで先陣争い―各兵団が門を目ざし、ちょうどスゴロクの"上がり"みたいにね、だれが上がるか、同時に南京を占領することは大陸の戦争が終わることだというような考え方が強かったですね。

兵隊の士気大いに上がり、猛烈な勢いで南京へと進んできた。私は毎日新聞の準特派員というか、毎日新聞の旗についてきたんだが、私たちの属していた兵団がね、中山門にはいって惜しくも二着になったのかな。光華門にはいったのが第一着で、これが最初の”万歳”を唱えた。

しかし、城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。

 つぎに、南京というものの性格だが、南京の都市計画そのものも、われわれが見ていてよくできているし、街路樹なんかに五年や十年で育たないような古い大きな木が相当あるんだね。都市計画そのものの最初の青写真を作ってある程度やったのは蒋介石なんだね。だから蒋介石プランの上をいまの新政権がなぞったようなものだね。

 こんどきて一ばんいいと思うのは、やはり都市計画、道路と並み木ですね。これはどちらかというと蒋介石の手柄だと思うんですね。それをまあ、あまりいわないんだな。

 それがいま、日本軍に対する憎しみより、国民党政府に対する憎しみに重点をおいてどこかズレているところがある。ところが、対日本人観という公式みたいなものがあって、日本軍国主義は悪いんだが、日本人民は悪くないんだ、友人であるという認識、これが徹底していて、日本人の顔をみると、どこに行ってもこれをいうんですな。そのひとつの図式というか、これは中央から出ている、と思うね。

 同時に南京虐殺のあとを見せても、日本の人民と日本軍国主義は別だ、さらにいえば日本の一部はいま、アメリカ帝国主義につながっている。しかし、日本人民はアメリカ帝国主義に相当抵抗しているんだ―と。日本人民の抵抗というものがかなり過大に宣伝されて中国人民の頭にはいってきているね。

(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P77〜P78)


「大宅壮一人物料理教室」より「アジアをかける自民党の一匹狼」


大宅 中国でも、軍の方針が割れたわけですね。袁世凱や蒋介石を援助したり・・・。

宇都宮 山県たちは清朝とか、袁世凱とか、つまり、現状維持派を助けましたね。いっぽうでは、新しい勢力を支持する意見もあったらしいんです。わたし、ずっとあとになって、本荘繁太郎大将から聞きました。「南方派と呼ばれていたんだ。きみの親爺、わたし、松井石根などがそれをやっていた」・・・。

大宅 松井大将は気の毒でしたね。絞首刑になって・・・。南方派は少なかったのに、惜しいです。

宇都宮 松井家とは、家族的につき合っていたんです。あのあと、奥さんと電車のなかで会いましてね。「わたしゃ、共産党になりたい」・・・怒っていましたよ。南京虐殺の責任者にされたんだが、事件のとき、松井さんは嘆いたそうですね。日本軍の軍紀が、こんなに乱れたのははじめてだ・・・。あれは柳川平助中将が・・・。

大宅 あの人は上陸と同時に、演説をブッたそうですね。「山川草木、全部、敵なり」。ひどい非常手段で進んできたんです。ボクら、南京に入るときにあの兵団と会いましたよ。

宇都宮 日本の陸軍にも、変なご都合主義ができちゃったんですね。わたし、戦争中、荒木貞夫大将に会いました。こういうんですよ。横浜を通っていたら、捕虜のヒツギを運んでいるのにゆきあったそうでしてね。それが箱のまま、むき出しだった。「むかしの陸軍なら、黒い布をかぶせて、花の一輪でもそえたものだが」・・・。

(「週刊文春」1965年2月22日号)

 



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